泡を抱える人 1


 わたしが通う中学校は氷帝学園という。育ちが良くて、かつお金持ちの親がいる子どもじゃないと入学することが出来ない、すべてが高い学校だ。当たり前のように学費も高ければ敷居も高く、生徒のプライドも、親のプライドも、使ってるシャーペン一本だって売ればハードカバーの新刊が一冊買えるくらい高価だ。校舎はすっごく綺麗だし、設備は常に最新のものがそろっていて、所在地は都会の真っ只中なのにやたらと広くて緑も豊富、手入れの行き届き方も、図書館の蔵書だって半端ない。
 そんな氷帝学園には、当然というか、うっすらと階級社会も残っている。誰々はどこどこの会社の御曹司だから取り巻きは多いけど、でも実は裏で嫌われている、だとか。媚びて自分の株をあげて、将来の自分を有利な位置につかそう、とか。はたから見たらきらびやかな世界なんだろうけど、実際はすっごく黒々している学校だ。一般教養や高い学力はもちろんだけど、でもそれ以上に、わたしたちがわたしたちの住む社会に出た時に自分の身を守るための経験としての勉強の方が、特色として色濃いと思う。生徒は皆、自分の利になる者に付き従い、そうでない者には見向きもしない。すべては得か否かだ。
 そういう意味で、氷帝学園きっての人気者、跡部景吾はすごい。跡部財閥の息子だからなにもしなくても人が寄ってくるのは誰の目にも明らかだけど、彼はそういうのにとても慣れている。飴と鞭の絶妙な割合を持って、人を見極め、人を使うのに慣れている人だ。中学校どころか幼稚園の頃からこういう学校にいたものだから、黒々とした世界でのルールがすっかり身についているし、嘘偽りは当たり前の世界だから、それを見抜く洞察眼にも長けている。
 わたしはそれを、ずっと見てきた。同じ幼稚園に入って、なぜか一緒のグループになることが多くて、なんとなくわたしたちは仲良くなった。今思えば、考えなくてもお互いの親の仕業だったんだけど、わたしと景吾は幼稚園を卒園する前に、知らないうちに婚約していた。今時そんなのドラマでもない話しなのに、現実は物語より奇なりとはよく言ったものだ。
 とにかく景吾の親の跡部財閥とわたしの親の財閥は、互いに手を組むのが良いと判断したらしく、わたしたちの意見も聞かずそういうことにしてしまった。もっとも、わたしたちの意見なんて、そんなのはどうだって良いことだ。
 小学校の時にはもう既に、わたしが跡部の婚約者だということは隠しもされず、誰もが知る周知の事実だった。財閥も跡部財閥に負けず劣らず世間に名を馳せていたりするから、それも手伝って、友達はいつも余るくらいすぐ傍にいた。わたしは誰からも持てはやされて、その一方で多くの人から嫌われていた。今だってそれは同じで、最低でも学内の二割の生徒からは憎悪の対象にされていると思う。ただでさえ嫉妬をかいやすい立場なのに、加えて景吾の婚約者ということを皆が知っているものだから、妬みや羨みが蔓延していくのを止めることは出来ない。
 ただし、今も昔も、実害を加えられたことは一度もない。そこまで頭が悪い生徒はこの学校に入ることは出来ないし、例え入学しても生き残ることなんて到底無理だ。
 景吾と並ぶと、お似合いだとか、美男美女だとか好き勝手に述べられて、最後にほうっとため息をつかれる。景吾は端整な見た目をしているし、わたしも令嬢という名を背負うにふさわしく、艶やかな髪の毛は腰まで長く、景吾と並ぶとしっくりくるような天然パーマはふわふわと揺れ、肌は白く、唇は魅力的にうるおっていて、その所作は流るるように美しい。
 でもそれは本来のわたしじゃなくて、人の努力によって作られたものだ。イメージを保つために髪を切りたくても切るわけにはいかず、外を出歩く時には必ず付添い人が日傘をさし、礼儀作法に割いた時間は外で遊んだ時間よりも長い。
 いつだったか、クラスメイトに「人魚姫みたいだ」と言われたことがある。儚く美しく、景吾と仲睦まじいわたしのイメージは透き通った水色らしい。
「わたし、人魚姫みたいだって」
 テニス部の部員に用事があって、偶然わたしがいたクラスまで顔を出した景吾に微笑んで伝えると、景吾は淡白に笑って、一言だけ述べた。
「俺はあの王子のように馬鹿じゃねぇ。を幸せにしてやるよ」
 景吾の一瞥にクラスメイトが冷や汗をかいたことは言うまでもない。わたしを悲劇の人魚姫に例えてしまったことに、そしてそれを景吾が否定したことに、慌てた周りの生徒は必死のフォローにまわっていた。
 わたしと景吾はとても仲が良い似合いのカップルで、通りすがればお互いに微笑み合い、教室で談笑すればそこには華が舞っているように感じられ、親が決めた婚約者だというのが嘘のように互いに大切に想いあっている。ように見える。そんなふうに見えるように、わたしと景吾は頑張っている。少しでも、あの二人は愛し合ってはいないということがばれないように。
 婚約が公にされてから、わたしと景吾は喧嘩が出来なくなった。ふざけて叩き合うことも出来なくなった。好きだとも、嫌いだとも言うことが出来なくなった。本当のところどうであろうが、両家の財閥の名を貶めないために、わたしと景吾は常に愛し合っていなければならない。この社会で生きるということは、そういうことだ。


 景吾が属する氷帝学園男子テニス部の部室は、わたしがいつでも入ることが出来る場所だ。マネージャーをやっている訳でも、ましてや選手な訳でもないけど、これもひとえに景吾の婚約者という肩書きのおかげだ。権力者は極秘の場所にでも望めば妾を連れ込むことが出来るのと同じ理屈。
 もっとも、景吾がそう望むからわたしはここに来るわけじゃない。わたしが頻繁に部室を訪れるのは、帰りを景吾に送ってもらうためだと周りに思わせるためと、それから、この場所が一番、居心地が良いからだ。
 テニス部の部室には景吾専用のプライベートルームがある。そこはメインルームに比べれば狭い一室だけど、景吾や、景吾が許可をした人でないと入ることが出来ない部屋だ。四脚がセットになったソファとローテーブル、仮眠もとれる簡易ベッド、品の良い飾り棚に、テニス雑誌やロシア語の本ばかりが並べられている本棚。
 軽くノックがあって、誰もいない景吾の部屋でソファにもたれていた背を起こす。数秒の間をおいてドアを開けたのは、景吾にこの部屋に入ることを許可された数少ない人物。
「あれ、。おったんか」
「どしたの侑士。今練習中でしょ?」
 思いがけず現れた侑士に疑問を投げかける。侑士はわたしと景吾が婚約する前から一緒に遊んでいた友達で、つまりわたしたちは、俗に言えば幼馴染というものだ。
「跡部がリストバンド忘れたってぼやいとったから、取りにいったろ思てな」
「とかいって、本当はサボるつもりだったんでしょ」
 お見通しとばかりににやりと笑って言うと、人差し指で軽く頭を小突かれる。頭を小突いてくれる人、軽口をたたける人、人目から遠ざかって、わたしがわたしでいて良い場所。これがわたしが部室に来る理由だ。
「サボるんとちゃう、休憩や」
「休憩ね。それはスポーツ選手にとって必要不可欠よね」
「せやろ」
 侑士が笑ってわたしの隣のソファに座る。侑士の体重でふわっと揺れる反動が嬉しくて、ここに人がいるんだと実感する。安心出来る場所で、安心出来る人といられるというのは、すごく嬉しいことだ。
「お姫さんが寂しそうやから、ちょっとだけここにいたるわ」
「ありがとう王子さま」
「……王子さまってがらかいな」
 侑士が変に考え込んで、ぐぐっと眉間にしわを寄せた。わたしは両手を伸ばして侑士の顔に近づける。
「侑士、あんまり眉間にしわ寄せたら、景吾みたいになっちゃうよ」
「それは、どっちかいうと手塚やろ」
 やめ、というように侑士がわたしの手をつかんで、離す。侑士とは学校内だと、ここじゃないとこうやって話すことも出来ない。婚約者以外の人と無駄に親密にする行為は、たとえそれがあまり意味のないことであっても許されない。噂の種になってしまうような迂闊で馬鹿な真似はしない。それは侑士も分かっていて、だから、こういう時は甘えさせてくれる。
「せや、そういえば、最近跡部とうまくいってへんの?」
「……なんで?」
 予期しなかった言葉に、思わず返事に一瞬詰まる。
 景吾がわたしの婚約者になってから、いつだって景吾とはうまくいってない。この場所でだったら軽口もたたくし、可笑しいことがあったら笑うし、嫌な顔をしたり小馬鹿にしたりされたりもする。でもそうじゃないところだと、景吾もわたしもすごく恋人を演じている。笑いたいのか笑いたくないのか分からないまま笑って、触れたいのか触れたくないのか分からないまま指先を触れ合わせて、呼びたいのかそうでないのか分からないまま、愛しげにお互いの名前を呼ぶ。何が本当で、何が本当でないのか、わたしにはもう分からない。
「いや、うまくいっとるんやったら」
「また女遊びでも始めた?」
 ふてくされたわたしの言葉に侑士が困った顔をする。景吾はしたたかだから、学校の中で女の子をひっかけたりだとか、そういう馬鹿なことはしない。遊ぶ時は一夜限りで後腐れの残らない、そういう人を選ぶ。誰にもばらさないし、誰にも分からない。それを見抜けるのは侑士くらいだ。
「や、そんなんやない」
「侑士のうそつき」
 そしてわたしは侑士の嘘を見破るのが得意だ。それから、景吾はわたしの嘘を見破るのが得意。
「いいよ、景吾もたまには遊んだら良いんだよ」
 背中にしいていたクッションをひっぱりだして、腕の中に抱える。嫉妬に泣いたり、傷ついた顔をするのは似合わない。景吾はわたしを愛してないし、わたしも景吾を愛してないし、だから景吾は悪くないし、傷つけられてもいないのに傷つくなんていうのは理に合わない。
「せやったら、たまにはも遊んだらええやん」
 侑士が肩をすくめてソファに深く背をつけた。
「そんな寂しそうにするんやったら、跡部みたいに遊べばええんや」
「わたしは景吾みたいに盛ってないもん」
「……まあ、は跡部のように器用やあらへんからな」
「器用だよ。そこそこには」
「せやけど、は好きなやつがおるのに男遊びが出来るほど器用やないやん」
「誰よ、わたしの好きな人って」
「跡部やろ」
 当たり前のように言われて、突っ込むタイミングを失った。わたしは景吾を好きじゃない。そうでなければいけない。好きだとか嫌いだとか、そういう感情を持ってはいけない。一緒にいて一番苦痛でない存在、それは好きでも嫌いでもない相手だ。好きになってしまったら、嫉妬や、悲しさや、相手のことを気にしすぎて些細なことで傷つく、そういう余計なものに押しつぶされてしまう。相手が景吾だから、余計に。景吾はわたしを愛してないから、余計に。
「怖いだけやろ」
 侑士が言う。そう、わたしは怖い。恋人の真似が出来なくなるのが。愛していないと言葉で言われた時、うまく演技を出来なくなるのが。どんな状況になってしまっても、わたしはこの部屋の外では景吾とは最愛の恋人同士でいる必要がある。それは絶対だ。本気で好きになって、本当に恋人になってしまったら、どんなに切ないだろう。きっと苦しい。景吾が女遊びをしても、平気なふりを出来なくなる。喧嘩もしないような、お互いに気を使うような関係でいた方が、絶対に良い。愛されることはなくても、愛していないのだったら、景吾の一挙一動に傷つけられることもない。
「侑士」
「ん?」
「ちょっと、泣きたい」
 自分の考えたことに無意味に傷ついて、どうしようもなくなって思わず言ったら、侑士が呆れたように笑った気がした。
「自分、泣くのに何年かかっとるんや」
「うるさいなぁ」
 虚勢をはった一言もうまく言葉に出来なくて、侑士の手が頭をくしゃくしゃと撫でてくれるのだけ感じながら、クッションに顔をうずめた。もしかしたら景吾に新しいのにかえておけとか言われるかもしれないけど、構うものか。
 本当は、本当はわたしは景吾を愛してなくなんかない。景吾が好きだ。本当は、出会った時からずっと好きで。でも、好きだと言えばすべてが壊れることをわたしは知っている。この社会に慣れすぎてしまったばかりに、馬鹿なことだと知っていて馬鹿なことをするほどの勇気はなくなってしまった。
 景吾がわたしに優しくするのは二人でいても居心地が悪くならないようにするため。景吾がわたしに甘い言葉をささやくのは、周囲の誰かにわたしたちが愛し合っていると思わせるため。景吾がわたしと婚約者でいるのは、景吾がわたしを愛しているからじゃない。
 景吾には女遊びなんかして欲しくない。他の人のところにはいかないで欲しい。だけど、景吾が抱く相手がわたしでは駄目だということを、わたしは理解していて、それが真っ当であることも知っている。景吾は人前にいる時じゃないとわたしには触れない。人前でも品よく指をそっと触れ合わせるくらいで、口付けをしたこともない。景吾は決して面倒なことは引き起こさない、賢い人だ。
「侑士、わたしを慰めて」
「ええよ、たっぷり時間かけて慰め」
「ちーがーうー」
 わたしに覆いかぶさる真似をする侑士にクッションを投げつける。侑士が両手でうまくキャッチしたクッションに体当たりするみたいに頭を押し付けると、侑士がしょうがないやつやなとでもいうかのように、軽くわたしの背中に手をまわしてくれた。人に触れてると安心するのはなんでだろう。なんで、わたしは景吾のようになれないんだろう。プライドと建前だけは景吾に負けないくらい持っているのに、どうしてわたしはこうなんだろう。
「わたし侑士と夜逃げする」
「なに自暴自棄になっとんねん」
 いさめるように背中を叩かれて、クッションに顔を押し付けたままゆっくりと、嫌なものを吐き出すようにため息をつく。
「侑士は」
 言葉を続けようとしたところで、やけに大きくノックの音が響いた。ノックの音だけで、ドアの前に立っているのが誰なのか分かる。もし足音が聞こえていたら、わたしはそれだけで誰がそこにいるのか分かっただろう。
 ほとんど間をおかず、この部屋の本当の主が入ってきた。
 侑士がわたしの背中から手を離す。目の前にあったクッションが離れていって、仕方なく顔をあげる。
「お前ら、なにやってんだ」
 部屋に入ってきた景吾の呆れた声が聞こえる。抱き合っていたように見えてもおかしくないこの状況を、疑っているわけでも、苛立っているわけでも、ショックを受けている声でもなく、ただ、馬鹿な悪戯をしている子どもを見つけた時のような、呆れた声。
「お姫さんが寂しそうやったさかいに、構っとってん」
「てめぇがサボる口実にしてんじゃねぇよ」
 興味なさそうに言い捨てて、景吾専用の机の上に置きっ放しになっていたリストバンドを拾い上げる。ふと、わたしの顔を見てわずかに目を見開いた。

 自分が今どんな顔をしているのか知っているけど、なぜか今は制御が効かない。泣くも笑うも、嘘をつくのは幼い頃から身に着けているはずなのに。今は、笑って景吾の方を振り向かないといけないのに。
「泣いてんのか」
 景吾の声に、首を横に振った。涙が頬をつたっていく感触がするけど、拭うわけにはいかない。それをすると泣いていることを大袈裟に見せてしまう。それに、そもそも、わたしには泣く必要なんてどこにもない。
「ちょっと、目にゴミが入っただけ」
 明らかに目にゴミどころの涙のこぼれ方じゃなさそうだったけど、無理のあるわたしの嘘に、景吾がそうかよ、と頷いた。なにを思っていても、なにを感じたとしても、この関係を壊してはいけない。それを、景吾も知っている。
「忍足、こんなとこでぐだぐだしてねぇで、さっさと練習に来い」
 はいはい、と答えて忍足がクッションを置いてソファから立ち上がる。わたしの膝の上に返されたクッションを抱きしめる。
「じゃあな、
 景吾と侑士が部屋を出ていって、わたしは一人取り残された。誰もいない部屋。演じる必要も、嘘をつく必要もない部屋。でも、わたしはこんなところでも自分自身に嘘をつき続けてなければ、やっていけない。少しでも甘い気持ちを持てば、もう、涙が止まらない。笑顔を作ることさえ出来ない。
 わたしは、景吾は、お互いに泡を抱き合っているのだ。そこにないわけじゃないけど、絶対に触れられない存在。見えないわけじゃないけど、絶対に本心を見せてはならない存在。
 テニス部の今日の練習が終わったら、いつものように景吾はわたしを向かえに来るだろう。その時は、何事もなかったかのように笑ってみせる。お疲れ、と言って泡になれば、わたしはこれ以上の負担を負うことも、景吾が今まで以上の負担を背負うこともない。
 背筋を伸ばして虚勢を張ろう。嘘をついて、人をだまし続けることには慣れている。
 わたしは、大丈夫だ。

20070802 執筆