トーストとオレンジに頼るオンナには
私は絶対なりたくないの


 今日も教室内では跡部景吾にかんする噂が飛びかっている。
 よくもまあ、毎日毎日、同一人物の話題ばかりを話していて飽きないものだと思う。同じ同一人物でも、相手が芸能人だとか歌手とかスポーツ選手とか、テレビや雑誌で常に報道されている人物ならまだわかる。でも、相手は同じ中学に通う中学生だ。内容はたとえば、跡部さまは犬がお好きだとか、跡部さまは水泳をお好みになられるだとか、跡部さまは庶民じみた生活はお嫌いよ、あらそんなことわたくしもよ、当然ですわね、だとか。その他いろいろ。
 今日の話題は、跡部さまは朝食にはどこどこレストランのトーストと、どこどこブランドのオレンジマーマレードを好んでお食べになるんですって、だった。
 トーストとオレンジジャム。そんなものを、日本人が朝食として食べるのはおかしい。いや、別に食べてもいいけど、日本の良いとこのお嬢様やお坊ちゃまで、かつ日本に住んでる純日本人なら、パンよりも白米と味噌汁にすべきだ。
、ポッキー食べる? 期間限定ピリ辛ワサビ味」
 麻美が鞄を肩にかついで、片手にはポッキーを持ってわたしが座っている席の前の机に座った。一応いっておくと、そこは麻美の席ではない、もちろん。
 休み時間に友達とおしゃべりをするために、他人の席に座るのって普通ではないだろうか。ないだろうかというより、普通だと思う。でもこの氷帝学園では、それは普通のことではない。一部のカリスマたちと一部の庶民をのぞいて、それは違う。世のお嬢様やお坊ちゃまたちは、他人の席に座るのにもいちいち、ここに座ってよろしいかしら? とかいう儀式をするのだ。駄目なわけあるまい。
 ちなみに、一部のカリスマというのは、跡部さまみたいな人たちのことだ。氷帝学園テニス部の皆々様や、バスケットボール部やアメリカンフットボール部といった他の権力のある部活の皆々様だ。ちなみに、庶民とはわたしや麻美のような人のことを指す。
「なにそれ、ワサビ味? 美味しいの?」
「ううん、激マズ。二度と買わない。量減らないから食べてよ」
 そういって麻美はピリ辛ワサビ味のポッキーを差し出してきた。マズイといわれてもちょっと興味がわいたから、一本取って食べてみる。
「……美味しくない!」
「でしょ?」
 なぜか麻美は嬉しそうに笑って、わたしの机の上にポッキーがたんまり入った箱を置くと、もう知らないといわんばかりに手をはなした。わたしの机の上からは、微妙なワサビっぽい香りがただよう。
「なにこれ」
「あげる」
「いらないよ」
 思いっきり素早く断ったのに、麻美はけらけらと笑って鞄の中からなにかを取り出した。ファッション雑誌と同じサイズだが、ファッション誌と比べるとぺらぺらと薄い。ちなみに今月号の表紙には青学テニス部の、誰だっけ、誰かが載っていた。青学の人だと分かるのは着ているジャージにSEIGAKUと書かれているからで、テニス部だと分かるのはこの雑誌が、ここら辺の中学のテニス部を取り扱うコアなローカル誌だからだ。
 つまりこれは、一部のマニア向けなマニアな雑誌である。単価が普通と比べて高いけど売れてるのは、それほど各学校のテニス部の人気が高いってことなんだろう。なんてアホらしい。
「麻美がこういうの買うなんて、明日は空からワサビポッキーでも降ってくるんじゃない?」
 わたしがいったら、麻美がぶっと吹いた。
「まさか。買うわけないじゃん、こんな不毛な雑誌。今日学校来るときに、電車の網棚の上におきっぱなしになってたからさ、高いものなのにもったいないなぁと思って」
「ふうん」
「だから、車内清掃とリサイクルに協力して持ってきちゃった。どんなこと書かれてるかちょっと気にならない?」
「全然」
ちゃんのいけず」
 ぷうと頬をふくらませてから、麻美は興味津々、早速雑誌のページを開いた。でかでかと今月の特集は青春学園中等部テニス部と書いてある。もしかしてこれは忘れ物ではなく、氷帝学園の生徒の誰かが買って、お目当ての人が載っていなかったから網棚の上に捨てたのではないだろうか。考えるまでもなく大いにあり得る。
「ねえねえ、青学の不二って人、うちの跡部サマとか忍足サマに負けず劣らず、超顔キレイだよー。女装させたら男が貢ぎそう」
 麻美が、不二って人のファンが聞いたら怒り狂いそうなことをさらりといいかました。わたしも思わず興味を誘われて雑誌をのぞきこむ。
「うわ、ほんと。なんでテニスやってるのにこんなに肌が白いの? 女の敵ね」
「これはもう、練習の前にはかかさず日焼け止めクリームを念入りに塗ってるとしか思えないね」
 麻美がそういうことをいうものだから、わたしは思わず机につっぷした。がんばって抑えてるつもりでも、肩の振るえが止まらない。口元がひくつく。
「日焼け止めといえば、跡部サマもあの肌の白さだもん、量がそうとうすごいだろうね」
 麻美のいいように思わずだん、と机を叩いてしまった。笑いが止まらない。身体で表現せずにはいられない。しかし、わたしだって麻美に負けていられない。なにかコメントしなければ。
「あの跡部サマが、コンビニで日焼け止め買い占めてたりしてね」
「まさか。跡部サマはコンビニなんかには行かないでしょ。高級サロンか高級エステの日焼け止めよ。一本ウン万円のやつ」
「それはあり得ますね、麻美さん」
「いやいや、もしかしたら特注かもよ? 屋外でテニスを長時間やってもまっしろなお肌を保てるやつを、ここはひとつお願いします」
「馬鹿かお前ら」
 すぱんっ、と頭をはたくきれいな音が、続けて二回聞こえた。同時に頭がじんじんとしびれる。前を向くと、麻美も口を動かすのをやめて頭を抱えていた。嫌な予感がして横を向く。わたしの予感は大当たりだった。
「跡部サマ、ごきげんよう」
 目元は下げて口元は上げる。にっこり笑って、数学の教科書でわたしたちの頭を遠慮なくひっぱたいた跡部に、お嬢様のお挨拶をしてみる。
「跡部サマ、今日もお肌が白いようでなにより」
 ぶっ。麻美の言葉に笑ってしまった。跡部に不機嫌極まりない眼つきで睨まれたので、咳払いをしてごまかしてみる。
「そこどけお前、いつも俺の席に座ってんじゃねーよ」
「あらすみません。でも跡部サマ、こんな窓ぎわの席に座ったらせっかくのお肌が」
 すぱんっと音が鳴って、数学の教科書が飛んだ。鞄でうまくそれをふせいだ麻美が、勝ち誇った笑みを見せて椅子から立ち上がる。わたしは勝者にメダルを差し出すみたいに、うやうやしく雑誌とポッキーを差し出した。
「わたしこれいらないから、ちゃんと自分で処理してね、麻美」
「プレゼント・フォー・ユーよ、ちゃん」
 麻美はそういって、あっさりとわたしの腕をすり抜けて行ってしまった。ちなみに麻美のクラスはここから五つの教室をまたいだところにある。数少ない庶民は、このやたらでかい学校では一緒のクラスになることさえ大変なのだ。
 手元に残ったピリ辛ワサビ味ポッキーを床に捨て、ぺらぺら雑誌を破り捨てて窓の外に投げるわけにもいかず、わたしはしょうがないから机の上におきなおした。食べる気がさらさらないポッキーは机のすみにおいやり、暇つぶしに美人が載っている雑誌を広げてみる。
 なになに、さっきの美人さんは不二周助、十五歳、もちろん男。天才テニスプレイヤーで、カウンター技を得意とする。
「はー、やっぱすごい美人」
 紹介文を読んでいたはずなのに、ついつい写真の方に目がいってしまい、思わず呟いてしまった。そこら辺の女子なんかめではない。モデルさんになれる。女性誌の。
「俺様の方が美しいだろ」
 わたしが写真に見入っていると、上から声が降ってきた。跡部サマだ。優雅かつ上品に足を組み、背中を窓の方へ向けてこっちを見ている。なんて恐れ多いことだろう、教室中の女子がわたしと跡部に大注目だ。つまり分かりやすく言語変換すると、大迷惑だ。
「ナルシスト」
「事実をいったまでだ」
 わたしが反撃にでると、跡部はふふん、と小ばかにしたように笑った。嫌味ったらしい笑顔に、周りの女子の何人かが頬をそめてひそひそ話しを始める。跡部さまのあのお顔ごらんになりまして、ええもちろんよ、素敵すぎて見ていられませんわ。
 どこがだろう。わたしの方こそ見ていられない。
「お手をお振りあそばせ、跡部サマ。すぐ近くにいる親衛部隊がお喜びになりますわよ」
 わたしがいうと、跡部は小ばかにしたような表情をますます強めた。さらに、机においてあるワサビポッキーをちらっと見て、呆れたような雰囲気も追加された。
「よくこんな、見るからにマズそうなものを買う気になれるもんだな」
「違っ、これは麻美が」
 わたしが濡れ衣を着せられまいと慌てて口を開いたのと同時に、教室がしんと静まり返った。この時間、このタイミングで教室を静まらせることができるのは一人しかいない。教師さまのおでました。
「起立」
 品の良いお坊ちゃんが背筋を伸ばして号令をかける。跡部は優雅に前を向いて、わたしはポッキーと雑誌を鞄の中につっこんだ。
「礼」
 いいお辞儀をして、椅子の音を派手にたてることもなく楚々として座る。いつものことだ。ここから教師が仮面のように満足した笑顔を貼り付けて、教科書をさらりと開く前に一つ二つ雑談をする。これもいつものことだ。ついでにいうと、わたしはこの雑談についていけない。ロイヤルコペンハーゲンの陶器がどうだとか、きっと内容が高級すぎるのだと思う。
 退屈な時間をつぶすべく、わたしはこっそりと鞄にしまい込んだ雑誌を取り出してながめた。最後から数ページは、次号の特集は氷帝学園、という次号予告がでかでかと書かれていて、ところどころ切り抜かれていた。見事に文字の部分しか残っていない。元持ち主の執念深さがうかがえるというものだ。
 指の腹でさっさとページをめくって、裏表紙の内側部分が見えるところで手をとめた。内表紙に載っている写真まではさすがに収集しなかったのか、跡部とその他氷帝学園テニス部メンバーの各写真が残っている。
 跡部の顔は美形だ。自他共に認めるくらいに美形だ。ナルシストになるのもうなずけるくらい。確かロシア系の血が混ざっているとかいう噂も聞いたことがあるけど、定かかどうかは知らない。
 跡部と話すようになったのは、今の学年になって、今のクラスになって、今の席が決まってからだ。跡部のすぐ後ろの席というめぐまれた位置になったのに、わーともきゃーともさわがない庶民に興味を持ったらしい。なんとびっくり、跡部の方から話しかけてきた。ちなみに記念すべき第一声は、おいお前、だった。何様だろうか。跡部サマか。
 跡部と話しをするようになってからは、一時期、跡部景吾親衛隊からこれでもかこれでもかと嫌味をいわれた。でも結局、二戸さまという、おしとやかでお上品で、身体の芯からお嬢様ですというお嬢様が跡部とコンタクトをとるようになると、嫌味はぱったりと収まってくれた。いわく、跡部さまが庶民を相手にするわけありませんわ、らしい。二戸さまが淑女として見られたのなら、わたしはきっと虫ケラ同然だ。
 青筋が立ちそうな親衛隊の対応だけど、多少の不服は我慢する。なんたってそれで嫌味がなくなったのだ。わたしには散々いやがらせをしといて、二戸さまならお似合いと抜かすのには腹が立つことこの上ないが、まあ、結果オーライ。
「では、教科書八十七ページを開いて」
 教師の雑談はようやく終わったらしく、わたしは教科書とノートをひっぱりだして、真面目に教科書の八十七ページを開いた。自慢だが、お嬢様でもなんでもないわたしが、成績だけは常に上位十番以内だ。ロイヤルコペンハーゲンを持ってなかろうが、朝食にブランドのジャムが用意されてなかろうが、庶民でも賢くはなれるらしい。嬉しいことに。


「お疲れさまでした」
 部長の言葉にあわせてお辞儀をする。もちろん腰の角度は四十五度、背筋はぴんと伸ばして、顔はやたら上を見すぎたり下にさげすぎたりしない、見た目がきれいないいお辞儀だ。
 わたしが所属する邦楽部は、総勢約三十名という、そこそこの部活だ。そこそこというのはごく普通の学校のごく普通の部活と比べてそこそこというだけで、この氷帝学園ではかなり小規模な方になる。なにしろバスケットボール部は百人以上、テニス部にいたっては二百人近くいるらしい。なんだそれは。
「定演までいよいよ二週間を切りました。皆さま、風邪などひかれないようお気をつけて、残りの時間を有効に使って練習に励みましょう」
 部長が部員を見渡して、にっこりと笑う。
 氷帝学園の邦楽部は年に一度、高級なんたらホテルの無意味にでかいフロアで定期演奏会をしている。もちろん、そのお金は学校からの全額支給。
「今年も、たくさんのお客様を呼べたらと思います。そこで、提案なんですが」
 部長がここで言葉をとめて、なぜかわたしの方を見てほほ笑んだ。ちょっと嫌な予感がする。
「来る再来週の日曜日、我ら邦楽部の定演に、跡部さまを直々にご招待しようと思うのです」
 まあ、とかきゃあ、とか、喜びに輝く部員の声があふれた。部長はまだこっちを見ている。小首をかしげてほほ笑まれた。わたしもほほ笑みつつ、ちょっと目をそらしてみた。
「招待状は私が用意したんですが、さん」
 名前を呼ばれて、部長がお上品に近づいてくる。
さんは、跡部さまと同じクラスで席が近いのだと聞いたのだけど」
「ええ、まあ」
「では、明日にでもこの招待状を、跡部さまにお渡ししてもらえるかしら」
 部長が差し出した招待状は、素人が見てもいかにも良質な紙に書かれていて、やんわりと手触りがよさそうで、間違っても百円均一で売られているようなレターセットではないなという感じだった。
 まわりの期待に満ちみちた部員の視線が突き刺さる。部長のほほ笑みがなんだかちょっと怖くなってきたのはわたしだけだろうか。
「お願いしてもいいかしら、さん」
「……はい」
 部長のほほ笑み攻撃に観念して、わたしがしずしずと招待状を受け取ると、部長は満足したように小首をかしげて長いさらさらの髪を払った。部員の方へ向き直っていう。
「では、今日の残りの時間は自主練ということにします。また明日も頑張りましょう」
「お疲れさまでした」
 部長の声に、部員たちが挨拶をしてばらけていく。練習室には、琴柱が立てられたままになっているお琴が三十面くらいしかれていて、三弦が八台くらい置かれているのに、まったく窮屈には感じないくらい、広い。どうでもいいけど、この氷帝学園にはお琴が百八十面、三弦が七十二台、尺八が三十九本、その他もろもろの和太鼓だとか笛だとかが、全部で五十八個もある。
 部員の中でお琴を弾くのはたった二十人前後だから、一人三面くらい使ったとしても、はっきりいって全部使い切ることはない。無駄すぎる。
ちゃん、わたしはもう今日は終わりにするけど、まだ練習する?」
 同じ学年で、定演でも一緒に小曲を演奏するがにこりと笑っていった。はこの氷帝学園に通うお嬢様のうちの一人だというのに、つんけんしてなくて、ふんわりしていてとてもかわいい。
「なんかどっと疲れたし、わたしももう終わろうかな。香苗は?」
「今日は三弦の糸替えをしなくてはいけないので、もう少しやろうと思います」
 香苗も、同じ小曲で三弦を弾く小曲仲間だ。見た目はそこら辺のぼんぼんお嬢様と変わらないのに、意外としっかりしていて、話してみたら気が合ってしまった。家柄で人を判断しない香苗の人柄かもしれない。
 お琴や三弦は、もともと、本当に本当のお金持ちのお嬢様がやるものだったらしい。今は庶民化して、わたしみたいに日本の古典芸能とかが好きだから弾く人も多い。ちなみにわたしは、高価なお琴は氷帝のものを遠慮なく使わせてもらって、お金をかけたものといえば、自分専用のお爪くらいだ。でもまあ、氷帝の邦楽部部員のほとんどは個別に習いにいったりもしていて、昔の面影がそのまんま残っている。もちろん豪邸には良いお琴や三弦がやたらとあるに違いない。
「じゃ、わたしは先帰るね」
「ええ、お疲れさま。また明日ね」
 三弦を片手に、慣れたポーズでカッコよく椅子に座った香苗が調弦を始める。見目麗しい香苗がきりっとして三弦を弾く姿は、いつ見ても見とれてしまうくらいにカッコ良い。ちなみにお琴を奏でるは、思わず顔がゆるんでしまうくらいにかわいい。ついでにわたしは、定演を見にきたことがある麻美にいわせると「普段よりも凛々しい」らしい。まあいいけど。
ちゃん、ゆたんをどうぞ」
「ありがと」
 琴柱を外し終わったが、お琴にかけるゆたんを渡してくれる。わたしもさっさと琴柱を外して、唯一自腹をきって買った、高価な象牙のお爪はなくさないようにケースにしまい込む。お琴にはゆたんをかけて、そのまま片手でぐいっと担ぐ。
 お琴を弾くというのは優美に見えるけど、けっこう体力勝負なのだ。着物を着てスポットライトの下に立つと、それこそ脱水症状を起こしそうになるくらい熱いし、お琴を弾くとやたらと肩が凝ってしょうがない。立奏台や十七弦は、たとえばなら一人じゃ担げないくらいに重い。邦楽というのは、なんとも肩や腰にきやすい音楽だ。なのに見た目はあくまでも優美に、おしとやかに、お上品に。大変すぎる。
 十三弦を倉庫に持っていって、鞄をつかんで残っている部員に挨拶をし、待っていたのところへ急ぐ。
「お待たせ、
 並んで歩き出して、わたしは鞄の端からはみ出ていた招待状を見つけて、けっこう憂鬱になった。忘れかけていたのに、大儀な仕事を思い出してしまう。
「やだなぁ、これ」
 鞄から出してひらひらと風に飛ばす真似をすると、がくすくすと笑った。
「でもわたしは、ちゃんが渡したら、跡部さまは絶対来てくれると思うの」
「はいはい、どうもありがと」
 の衝撃発言には、もう慣れっこになってしまった。なんたってが突然、青学の越前リョーマとかいう年下と付き合うことになった、と宣言したときに比べれば、こんなのは全然たいしたことじゃない。
 もわたしと同じで、すごく日本の古典芸能が大好きだ。わたしはお琴だけしかしないけど、はお琴に加えて、日本舞踊もするし、茶道も、華道も着物の着付けも、全部習ってちゃんと習得している。
 そんなの理想の男性は、茶道の家元の長男で、品がよくて、人を気遣う心を持っていて、笑顔が素敵な殿方、だった。それがなぜ。青学の越前リョーマ(しかも年下)なのか。
「理想と現実は違うのよ、ちゃん」
 にいわせると、そういうことらしい。
「あ、そうだ」
 わたしは招待状を鞄の中にしまい込むついでに、ファッション雑誌と同サイズのぺらぺらの雑誌を取り出した。結局麻美に返せずじまいで持ってたけど、どう考えても麻美がこの雑誌の存在を覚えていて、必要になったから返せ、なんていってくるとは思えない。
「これ、青学特集なんだって。後ろの方はちょっとボロボロになっちゃってるけど、越前リョーマも載ってるだろうし、あげる」
「え、いいの、ちゃん!」
 は嬉しそうに笑って受け取った。はきっとこんな雑誌があるなんてことも知らなかったに違いない。なんたってローカルで、コアなのだ。の話しを聞く限り、越前リョーマとかいうのが、わざわざ自分で教えるようなやつだとも思えないし。
 さっそく雑誌を見て頬をゆるませているは、すごくかわいい。越前リョーマがに惚れたのも納得できる。逆は分からないけど。
「なんで越前リョーマなの?」
 思わず声に出していってしまっていたらしい。雑誌に夢中になっていたがこっちを振り向いて、ふわりと笑った。
「自分が持っていた理想とは正反対の人だったとしても、頭で考える前に、好きになるの」
「へーえ」
ちゃんは、もしかしたらそれが跡部さまかもね」
 の爆弾発言。慣れているはずのわたしの口がぱかっとあいた。まさか。そんなことはあり得ない。もしも明日、イカの格好をしてネコを追いかけまわすような宇宙人がやってこようとも。
「じゃあね、また明日ね、ちゃん」
 はそういうと、反対方向のバスに乗るために行ってしまった。これから越前リョーマと会う約束があるらしい。越前は思いがけず自分のインタビュー記事とかが載ってる雑誌を手に持っていると会って、なんて思うんだろうか。


 、十五歳。早朝から良い話しを聞いてしまった。
 なんと再来週の日曜日は、二戸さまが所属する氷帝学園日本舞踊部の定演があるらしいのだ。なんということだろう。邦楽部と見事にかぶっていた。
「残念でした、部長さま」
 ふふふ、とにやつきながら質の良い紙でできた招待状で顔をあおぐ。
 招待したところで跡部が来るとは思えなかったけど、これで跡部が邦楽部の定演に来るという可能性が万に一つもなくなった。そうなれば万々歳で、渡すのも楽になる。なんたってわたしは、もういらないごたごたを引き起こしたくはない、平穏第一主義者だ。なにかの拍子に跡部が定演に来るとでもいいだしたら、親衛隊の皆さんの目がつりあがるに違いない。おそろしい。
 目を細めて良い気分で招待状をうちわ代わりに使っていると、跡部がやってきた。テニス部は早朝練習があるらしいのに、朝からなんともさわやかだ。高級タオルでも使って汗を拭いてるんだろうか。
「跡部、跡部」
 跡部が、今日は誰も座っていないわたしの前の席につくのを見計らって、声をかける。今まで平穏第一主義者のわたしから声をかけるなんてしたことなかったから、いつにないわたしの行動に、思いっきり怪訝そうな跡部の顔が振り向いた。ちょっと気分がいい。
「これね、部長に頼まれたから、一応渡しとくからね。跡部サマが来れなくて残念ですわ」
 お嬢様の笑みを口元にたずさえて、招待状を可憐に渡してみると、跡部はわたしの声を聞いてるのか聞いてないのか、招待状を開けはじめた。開け方もなんだか上品だ。なんでこういうどうでもよさげなとこまで、庶民とは違うんだろう。
「邦楽部? なんでお前が招待状を渡してくんだよ」
「だってわたし部員だし」
「へえ。これにも出んのか?」
「そう」
 跡部は、わたしがうなずくなり、嫌味ったらしく笑った。その顔が、まるでわたしにはお琴や三弦は似合わないと思っていることを暗に物語っている。なんてやつだろう。
 跡部は招待状をさっさと元に戻すと、興味なさそうに机の上にほうった。そして言う。
「いいぜ、行ってやるよ」
「……は?」
 跡部の言葉にわたしは思わずバカみたいな声を出してしまった。まさか。
「え、だって二戸さまの日本舞踊部は?」
 わたしが思わず聞くと、跡部は方眉をあげて、小ばかにしたようにいった。
「あれは午後二時からだろ。邦楽部の招待状には午後六時からって書いてあったぜ」
「……あー、でも、跡部は日本舞踊部の打ち上げに参加しなよ。そっちの方が絶対楽しいって」
「なんで関係者でもない俺が参加しないといけねーんだよ」
「いやいや、跡部だったら顔パスでいけるよ」
 わたしの必死の説得に、跡部はなにを思ったのかにやりと笑った。
「お前、楽器を満足に弾けねーから、俺様に来てほしくないんだろ」
 カッチーン。額に青筋が何本か浮かんだ気がした。いうにことかいてそれはなんだ。お前は何様か!
「そうだな、だったら、定演のかわりになにかしてもらおうか」
 ひょうひょうとほざく跡部はお口が達者なようだ。
「ま、お前だったら、トーストとオレンジマーマレードの弁当くらいが精一杯じぇねーの」
「ふざけんなこの失礼男が!」
 わたしがぶち切れた堪忍袋の思いのままに思いっきり机をたたくと(手が半端なく痛かった)跡部が黙った。目の前の男は、やや驚いたように端正な顔をゆがませている。
「トーストとマーマレードなんか邪道! 日本人たるもの白米に味噌汁よ! だいたい、パンやジャムなんかに頼らなくても、わたしは立派に演奏できます! 跡部なんかめじゃないのよ!」
 怒りにまかせて叫んだら、なんか論点がずれた気がしないでもない。でもいい。いくらわたしでももう怒った。
「へえ。だったら俺様が行っても問題はないわけだ」
「もちろんよ! 来るなら来なさいナルシスト!」
「ま、楽しみにしといてやるぜ」
 怒り狂うだろうと予想していた跡部は、思いがけずふっと笑うと、これでその話しは終わりとばかりに前を向いてしまった。
「……は?」
 覇気をそがれて、どうしようもなくなる。周りを見渡すと、なんだか一気に跡部景吾親衛隊を敵にまわしてしまった気がした。それは大変なことだが、でもよくよく考えると、今のわたしにはそこまで気を配っている余裕はない。なにしろ、定演で余裕をかまして跡部を迎え撃たなければいけないのだ。演奏はもちろん、香苗が用意してくれる着物で着飾って、跡部が惚れるようないいオンナになって出迎えてやるのだ。そしてすべてが完璧だといわせてみせる。間違ったって、トーストとオレンジに頼るオンナにはなるものか。
「見てなさい、跡部」
 背中をにらみつけて小さく呟くと、なぜか跡部が少し笑った気がした。

20060302 執筆
なりたくないオンナ三部作 跡部編