好きかもしれない


「起立、礼」
 日直がよく通る声で号令をかけ、一日を締めるLHRが終わった。思いのままに放課後の活動を開始しようと、皆一斉にガタガタと音を鳴らして椅子を机の中に入れる。手にプリントを持って教師に話しかける者、あっと言う間に教室からいなくなってしまう者、今からが教室内での本当の活動時間だとばかりに椅子に深々と腰掛ける者。

 が例に洩れず机の上に鞄を置いて中身の整理をしていると、後ろから聞き慣れた声が名前を呼んだ。声をかけられて振り向くと、人なつこくて皆に好かれているクラスメイトの男子がぐっと身を乗り出してくる。
「なあ、今日の帰りヒマだったらクレープでも食べてかない?」
「クレープ?」
、そういうの好きだろ?」
 聞かれて、は考えるように首をかしげた後、口元に笑みを浮かべた。綺麗な長い黒髪が一房ゆっくりと前へ落ちる。
「うん、好きかも」
 の肯定をにおわせる答えに、を誘った藤原が嬉しそうに指を鳴らす。は分厚い本を鞄の中に入れ、整理し終わった鞄を手に持って椅子を机の奥へ押し込んだ。
「でも、ちょっと遅くなってもいい? 今から氷大の図書館に行こうと思って」
「構わないよ。どこで待ち合わせる?」
「じゃあ、竹下通りのマリオンクレープ付近に六時。どう?」
「オッケ」
 頷く藤原の後ろから、彼を呼ぶ友人の声が聞こえたのを区切りにし、はじゃあ後でねと手を振った。藤原もそれに答えて、呼ばれた方へと足を向ける。
、また明日ね」
「うん、ばいばい」
「途中でこけんなよ」
「分かってます」
 ドアへ向かうまでにすれ違った友人と挨拶を交わし、教室を出る。たんたん、とリズムよく階段を下りて下駄箱へ向かい、靴を履き替えて外へ出ると、心地良い日差しが真上から降り注いできた。薄暗かった昇降口とのギャップに目を細める。
 氷帝学園大学は中学高校とは離れた敷地に建設されている。おごりでなく堂々と自慢出来るほどの書物を貯蔵している大学図書館は、事前手続きさえすれば中等部高等部の生徒も利用することが出来た。がいる特進クラスほどの生徒にもなると大学図書館を利用する人数も多く、エリート生徒のために一日に一度、氷帝学園専属の大学図書館直通バスが用意されていた。
 は昇降口を出ると、正門へ向かう生徒達とは逆流する形で外回りに校舎へ戻った。バス乗り場にもなっている東西裏門へ向かうには、校舎側面に沿ってひたすら歩くしかない。その途中には弓道場や体育館、道場やテニスコート、プールに温室、部活棟といったものが隣接している。
 はきゃあきゃあと笑い声が聞こえる建物に沿ってゆっくりと歩みを進めた。バスの発車時間にはまだ余裕があるし、快晴の空の下を歩くのはどこか心地良い。開いた窓からダイレクトで聞こえてくる声は部活でもやっているのか、今日のお花はなんだとか、師範のお車が着く頃だとかいう内容がところどころ聞き取れる。
「ねえ、そこの剣山取ってくれる?」
「剣山ってどこに……あっ!」
 和やかな午後の風景に似つかわしくない、大きな声が唐突に響く。何事かと条件反射で上を向いたの真上で、陽に反射したなにかがぎらりと輝くのが見えた。
 瞬きをする暇もなく、あっと言う間に目の前で大きくなるなにか光るものに、はすくんだように動きを止めた。目を閉じる余裕もなく、なにが起きているのかも良く分からない。
「おい!」
 どこからか声が聞こえ、とんっと軽く身体を押される感触に、はようやく目を閉じた。ぎゅっと目を閉じた後数度瞬きを繰り返し、黒い影となって前に立つ誰かに気付く。
「おい、ぼーっとしてんじゃねぇ」
 頭の上から降ってくる、存在感と圧倒的な威圧感がある低い声。顔をあげなくてもそれだけで誰だか分かるほど有名な人だ。
 の目の前には、部活棟からテニスコートへと向かう途中だったのか、氷帝学園男子テニス部のレギュラージャージを身にまとった跡部がいた。
「跡部君」
 あまりに有名すぎる人物の名前をそっと呟くように呼ぶと、跡部はあからさまに嫌そうな顔をした。
「俺様の名前を気安く呼ぶんじゃねぇ」
「……え」
「親しくもねぇやつに親しげにされるのは嫌いだ」
 心底嫌そうにいう跡部に、は思わずごめんなさいと謝った。例え同じ学校の生徒であっても、単なる一学生と跡部景吾が対等であるということを拒絶することが当たり前のようになっている人物と目を合わせることさえはばかられ、自然と視線が下に落ちる。そして気付いた。
「……手!」
 上から落ちてきた剣山を素手で受け取ったのであろう、剣山を持つ跡部の左の手のひらからは血が滴っていた。表面をかすったという程度じゃすまなそうな出血に、思わず剣山を奪い取り、傷の具合を確かめる。
「おい、止めろ」
 気だるげな声でたしなめ、振り払おうとする跡部の手を無理矢理押さえ、はスカートのポケットから携帯用消毒液と包帯を取り出した。有無を言わせる隙さえ与えず素早く確実に応急処置をほどこしていく。なぜか都合よくポケットから出てきた品々に跡部が驚きの表情を見せる。なされるがままにされていた跡部の手のひらは、数分もたたないうちに止血された。
「しばらく左手でものを掴んだりしない方が良いと思う」
「……やけに手際が良いじゃねぇか」
「怪我、するのには慣れてるから」
 そう言って微笑むに、跡部が不審げに眉をひそめる。包帯をきちっと巻きつけた後は嘘のように跡部の手から離れていくの手の先を視線で追い、それから自分の手のひらを軽く動かす。
「お前」
 言いかけた跡部の言葉は、校舎の角から駆ける足音と大声にかき消された。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
 おそらく剣山を落とした張本人であろう華道部の生徒達数人が慌て気味に走ってくる。剣山を落とした真下に人影を見つけて慌てて下りてきたのだろうが、跡部の姿を見るなり興奮した表情で顔を青ざめさせた。
「跡部様!」
「跡部様、お怪我はありませんか?」
 普段は近寄りがたい跡部に堂々と話しかけられるチャンスに顔を赤らめる一方、まさか剣山で怪我をさせたりしていないだろうかと青ざめ、あっと言う間に跡部の周りに人が寄ってくる。
「それじゃ、助けてくれてどうもありがとう」
 は跡部の治療のために足元に置いていた鞄を手に取ると、針を上にして剣山を跡部の手に押し付けた。そのままくるりと踵を返し、巻き込まれないうちにその場を去ろうとする気満々のの腕を、すんでのところで跡部が右手で捕まえる。ぎょっとするに構わず、跡部はつかんだ腕をひっぱって前へ押し出した。
「お前ら、もっと気をつけろ。怪我人が出るとこだったろうが」
 被害者はだと言わんばかりの跡部の態度に、華道部員達がの周りにわらわらと集まってくる。
「本当にごめんなさい、怪我はない?」
「ねんのため、保健室まで行きましょうか」
「跡部様は大丈夫ですか?」
 取り囲まれて次々と声をかけられる行為に慣れていないは、たじたじとなってどうしようもなくなり跡部を見上げた。跡部にしてみればこんなことは日常茶飯事なのか、どんどんと人数が増えていくこの集団を適当にあしらい、さっさとこの場を離れて行く。
「怪我はねぇ。おい、邪魔だ、そこをどけ」
「跡部様、華道部の不祥事を防いでくださってありがとうございました」
「跡部様、練習頑張って下さいね!」
 いつの間にかきゃあきゃあと騒ぐミーハー集団に成長している華道部員達の間を華麗に通り抜け、跡部はテニス部員達が待つテニスコートの中へと入っていった。歩くだけで目を奪われる華麗さに、華道部員達とともに黙ってそれを見送ったは、跡部の姿が見えなくなってからようやく我に返った。既に両脇を華道部員達にがっしりと固めらていれる。
「さて、責任を持ってこの方が無傷であるかどうか、先生に診て頂かなくては」
 さあ保健室へ参りましょう、わいのわいのと騒ぐ華道部員達に、はなされるがままにずるずると保健室へ引っ張られていった。


 夕刻、陽も既に落ちた午後七時過ぎ。
 保健室で無駄に時間を潰したは、ようやく解放され、昇降口に立っていた。今日のLHRが終わった直後にはこの場所に下りてきていたのに、この時間になってもまだここにいるとは。数時間前は輝かしかった空の色は、既に深い紺色に覆われていた。
 一度上靴へ履き替えさせられた靴をもう一度革靴へと履き替え、外へ出る。一日一度の氷帝大学図書館へのバスの便はとっくになくなり、今から市バスを使って図書館へ行くほどの気力も残っていない。クレープを食べに行く約束だったのも、五時過ぎには絶望的だと悟り藤原の携帯に電話をして謝った。
 は悠々と空に浮かぶ月を忌々しげに見上げ、深々と溜息をついた。そのまま重い足取りで正門へ向かおうとし、なにかを思い出したかのようにふと立ち止まった。くるりと後ろを向いて正門へ背中を向け、東西裏門へ続く道を歩き出す。
 暗がりの中でも徐々に見えてくる部活棟、弓道場、体育館、そしてテニスコート。陽は落ちて辺りは暗闇だというのに、大金をかけて設置された大型ライトのおかげでテニスコートだけは煌々と光に満ちている。
 既にギャラリーもいなくなり、練習している生徒も数人になっているそのコートの中に、は探していた人物を見つけた。その場にいるというだけで溢れる存在感、圧倒的な威圧感。
 後輩指導なのか、跡部は傍らにテニスボールがいっぱいに詰まったかごを置き、機械にはとうてい真似できない微妙な変化がある、あらゆる種類のサーブを打っていた。見事なフォームで放たれる、時に鋭く、時に緩く飛んでいく球。テニスボールが描く軌跡。
 は思わず金網に手をかけ、強く引っ張った。がしゃん、と鳴る音が夜の深淵にやけに響く。テニスコートに立っていた数人の選手が、ボールを打つ手を止めて振り向いた。
 しん、と静まり返ったテニスコートの中、は遠い場所に立っている跡部に聞こえるように叫んだ。
「左手は使うなって言ったのに!」
 遠目にも、光に照らされた跡部が顔をしかめるのが分かる。
「今日一日そんなサーブ打ってたんなら、包帯を一枚か二枚めくったら、絶対出血してるに決まってる、クラス委員長!」
 の最後の一言で、テニス部員達は数秒考えるそぶりを見せた後、一様に跡部の方を向いた。跡部と言えば生徒会長でテニス部部長だという肩書きがまず思い浮かぶが、このメンバーの中でクラス委員長といえばそれもまた跡部しかいない。
 彼女は誰だ、出血とはなんだとばかりに視線を向ける部員達に、跡部は眉間に皺を寄せたままテニスラケットをその場に置いた。注目を集めていても臆せず堂々とした態度でテニスコートを横切り、金網越しにの前に立つ。ライトをさえぎる形での上に影を落とし、頭二つ分ほど高い身長差でもって見下ろした。
「なんの用だ」
「手、見せて」
「あぁ?」
「いいから、見せて」
 跡部の手を見ようと強引に金網の隙間から腕を入れようとするに、跡部が呆れたような視線を向けた。放っておいたら金網で擦って手首を傷つけかねないの行動を見て、仕方なさそうに止めろ、と声をかける。の前を離れ、入り口となっている金網を内側から開け、外へ出た。興味津々といった様子で跡部を見る部員達に、見てんじゃねぇとばかりに一瞥をくべると、それだけで再びテニスコート内で綺麗なインパクト音が聞こえ始める。
「怪我の手当てなんて誰も頼んじゃいねぇだろうが」
 跡部の言葉を聞いているのかいないのか、は外に出てきた跡部に駆け寄ると、他のことには目もくれず包帯が巻かれた手に触れた。サーブを上げてもほとんどよれていない包帯の結び目を器用に解き、外していく。一枚、二枚と包帯を解いていくと夜の闇の中でも血で赤く染まっているのが見て取れた。
「お前、聞いてんのか」
 の強引な態度に苛立ちを含めて言いかけた跡部が、途中で言葉を止めた。怒声は聞こえず、うつむき加減の表情もよく分からないが、それでも細い指先の動きから吐息のひとつに至るまで、が怒っているのが身体全体から伝わってくる。
「部室に救急箱くらいあるよね?」
「あぁ?」
「手当てする。携帯用消毒液なんかじゃなくて、もっとちゃんと」
「要らねぇ」
 跡部はの手を振り払うと、ほどかれた包帯を雑に巻きなおした。端整な顔をしかめたまま顎をあげ、見下したようにを見る。
「俺がお前をかばったせいだとか責任感じてんのか知らねぇが」
「違う、勘違いしないでよ」
 見当外れな言葉に威圧感に屈することも忘れたのか、の語気が荒くなり跡部の言葉を遮った。
「私のせいだとかそうじゃないとか、そんなの関係ない」
「だとしても、余計な」
「余計なお世話でも、委員長にますます嫌われたとしても、手が悪化するより全然マシ」
 言い放つと、は部室へ案内しろとばかりに跡部の腕をつかみ、歩き出そうとひっぱった。腕にほとんど力を入れることなく、跡部がわずらわしげにその手を振り払う。
 その場から動こうとしない跡部を、は虚勢を張って見上げた。しばらく睨み合いが続いた後、駄々をこねる子どものように引こうとしないの目に、跡部がわざとらしく溜息をついて視線を外した。練習を再開しているテニス部員達を確かめて、なにも言わずに部活棟へ向かって歩き出す。
 テニスコートから離れ、体育館や弓道場を通り過ぎ、がテニスコートへとやってきた道筋を逆に歩き、部活棟のテニス部員達にあてがわれた一室へ向かう。
 数十分前に帰り支度をしに部室へ戻った部員はもう帰ったのか、男子テニス部の部室は暗く誰もいなかった。人の体温を感知して自動で電気が点く部屋の中へ入り、は思わず辺りを見回した。立派なソファに豪華な家具、お洒落な絵画、飾りなのか実用的なものなのか、なぜか戸棚の中に林立しているワイングラス。とてもじゃないが部室だとは思えない。
 目を丸くして隅々に目を向けるをそのままに、跡部は豪華な棚の下の段を開いた。豊富な種類の消毒液からあらゆるサイズの絆創膏、テーピング用の布粘着テープに、果てはアンモニア溶液までがずらっと棚の中に並べられている。
「うわ、すごい」
 唐突に現れたちょっとした博物館のように品揃えが豊富な薬の類に、がますます目を丸くする。跡部は興奮気味なには目もくれずソファに腰掛けると、乱雑に巻きつけていた包帯を解いた。明かりの下で段々と露になる想像以上の赤。考えていたよりも意外と酷い傷に、さすがの跡部も顔をしかめた。
「手、使いすぎるから」
 立ったまま上から跡部の手のひらを覗き込んだが言う。ソファの近くに置いてあるローテーブルに、いつの間に選んだのかいくつかの薬品と包帯その他必要なものをばらまいていく。左手の治療がしやすいようにと跡部の左側のソファに座り、手のひらにそっと触れて、現状把握とばかりに軽くグロテスクなものとなっているそれをまじまじと注視する。
「お前、確かだっけか。普通女子は血を見るのは嫌がるもんじゃねぇのか?」
 おとなしくされるがままになっていた跡部の言葉に、は驚いたように顔をあげた。
「名前、知ってるの?」
「同じクラスだろ。クラス委員がクラスメイトの顔と名前くらい一致しねぇでどうすんだよ」
 馬鹿にしたように言う跡部に、それでもはびっくりした、と呟いた。
「凡人に興味はないかと思ってた」
 の言葉に、跡部がはっと鼻で笑う。
「興味はねぇ。覚えたのは義務だからだ」
 悪びれる様子もなく言い放つ跡部に、思わずは目を点にする。それから堪えきれずに小さく吹き出した。
「委員長は責任感があるんだね」
「あぁ?」
「そういうの、かっこ良いと思うよ」
 手のひらに視線を戻し、さらりと言うに、跡部が一瞬口をつぐむ。
「そうかよ」
 流れるような跡部の言葉に、が静かにうん、と頷く。ピンセットに脱脂綿を挟んで跡部にはよく分からない何かをつけ、消毒を始める。治療に伴いやってくるだろう痛みに眉をしかめた跡部は、手元に集中するを意外そうに見た。手のひらにこびりついた血を丁寧にふき取っていくの手元は安定しており、不必要な痛みを与えない。
「そういや、怪我するのに慣れてるってどういう意味だ」
「え?」
「言ってただろ、剣山が落ちてきた時に」
 は手を止めて考えるように首をかしげ、ああ、と納得したように頷いた。
「私、ドジでよくこけてたから」
 想像通りなのかそうでないのかよく分からない答えに、跡部が拍子抜けをしたような、あるいは呆れたような顔をする。は小さく笑い、手を動かしながら言葉を続けた。
「だから、小さい頃から保健室の常連だったんだけど、そのうち保健室の先生に申し訳なくなってきちゃって、自分で手当てをするようになったの。だから消毒液をいつも持ち歩いてるってわけ。でもね、今、私が委員長の手当てをしてるのは初恋が原因かな」
 が跡部の気を怪我から逸らそうと気を使って口を動かしているのに気付き、跡部はふっと一瞬口元をゆるめた。にも関わらず、まったく話しの繋がりの見えない単語に、思わず不満げな声がもれる。
「初恋だぁ?」
「うん。実際に会ったことはないし、その人はもう結婚しちゃったんだけど」
 ますますわけが分からないといった様子で先を促す跡部に、はいたずらが成功した子どものように顔をほころばせた。
「知ってる? アンドレ・アガシ」
「あぁ?」
 いきなり飛び出てきた有名テニスプレイヤーの名前に跡部がぐっと眉をひそめる。
「テレビで見たテニスをするアガシがすっごくかっこ良くて。一目惚れ」
「……お前の一目惚れと俺の怪我となんの関係があるんだよ」
 追求するのも馬鹿らしいといった様子でついでのように聞く跡部に、が至極当然というように答えた。
「関係あるよ。アガシに近づくにはどうしたらいいんだろうって考えた時に、そうだ、私は怪我が多いスポーツ選手の傷の手当てをしようって思ったの。理由はそれだけじゃないんだけど、でも、その時から私の将来の夢はスポーツ医学の専門医」
 がどこか誇らしげに笑う。単純思考の極みだな、とコメントする跡部をさらりと流して、はピンセットの先の脱脂綿を変えた。今まで使っていたのとは別の消毒液をつける。
「そういうわけだから、怪我してるスポーツ選手は放っとけないの。自己満足でも、病院に行くまでの繋ぎだとしても、今の私に出来る精一杯のことをする」
 一気に言い、は一呼吸をおいた。それからゆっくりと、それに、と付け加える。
「委員長のサーブを見て、委員長の試合を見てみたいって思ったから。無理して手を駄目にして欲しくない」
 今まであからさまに強引な態度をとっていたが予想に反してふわりと笑うのを目の当たりにし、跡部は面食らったように凝視し、ついと目を逸らした。話しを変えるためか、それとも前から気になっていたのか、部室にかかっている絵画に視線を向けたまま言う。
「どうでもいいが、、その委員長っていうのはなんだよ」
「それは、委員長が名前を読んで欲しくないって言うから」
 の言葉に、跡部が記憶をたどるように右手の指先を目の辺りにあてた。数秒もしないうちに自分が言った言葉を思い出したのか、苦々しげに顔をしかる。
「呼べよ、名前」
「え?」
「特別に許してやる。委員長だなんて呼ばれる方がしっくりこねぇ」
 そっけなく理不尽で俺様な跡部の態度にも関わらず、はあっけにとられた後、嬉しそうに口元をあげて微笑んだ。
「了解です、跡部君」
 くすくすと聞こえるの笑い声。ソファと服がすれる音と、時計の秒針の音。時折が鳴らすローテーブルの上のものの音がその場に馴染む。緊張が解けた居心地の良い空気に、跡部が肩の力を抜いたようにソファの背もたれに深く身体をあずける。
 ほとんど痛みもなく消毒が終わり、手際よく包帯が巻きつけられていく感触を左手に感じながら、跡部が威圧感も棘もない落ち着いた声で言った。
、今度の日曜の試合、消毒液だか包帯だかを持って見に来い」
「日曜?」
「あるんだよ、テニス部の練習試合が。日曜には手もまだ治ってねぇだろ」
「それが分かってて、跡部君は試合に出るつもり?」
「当たり前だ。このくらいの怪我で騒いで部長が務まるか」
 言い切る跡部に、がむっとしたように頬を膨らませる。
「手を使わないでって言ったばっかりなのに」
「だから、手の負担を最小限に押さえるためにお前が来い」
 自分勝手で傲慢な命令に、はそっぽを向いて抵抗した。包帯を固定し終わった跡部の手を放し、余った包帯を巻き直して軽く止める。
「日曜は藤原君とクレープを食べにいく約束があるんだけどな」
「藤原だ? 、言いたかないが、この怪我はお前のせいでもあるんだぜ、あぁん?」
 勝ち誇ったような跡部の声が降ってくる。はきちんとふたを閉めた消毒液をローテーブルの上に置き、ソファに深々と腰掛けてふてくされた。
「跡部君のこと、結構好きかもしれないって思ったのに」
 の言葉に跡部が面白そうに眉をあげる。
「俺だってお前のことはそんなに嫌いじゃねぇよ」
「嫌いじゃないのに、日曜に呼び出すの?」
 納得がいかないと暗に訴えるの言葉に、跡部がふてぶてしく笑って言った。
「嫌いじゃないから、だろ」

20070505 執筆
tHank you. 参加作品
title by BLUE TEARS
(2006/09/18〜)