世界中を敵にまわしても


「跡部さあ、そんなに俺様な態度ばっかりとってると、織田信長になるよ」
 香りの良いアイスミルクティを飲み終わって、あたしは跡部の長くてキレイなマツゲをながめながら言った。跡部ご用達のお洒落なカフェで、これまたお洒落な表紙のこ洒落たロシア語だかなんだかの本を物憂げに読み進めていた跡部が、きれいに一拍の間を置いたあと、顔をあげて眉をひそめる。こいつは何を言ってるんだ、と言いたげな顔であたしを見た。
「ほら、信長って家臣の明智光秀に殺されちゃうでしょ。跡部もあんまり傲慢な態度ばっかとってると、普段へこへこしてくる人に討ち取られちゃうかもよ」
「あぁ? 誰が誰に討ち取られるって?」
「だから、例えばあたしが跡部を討ち取ったり」
 至極真面目に答えたのに、その答えを聞いた途端、跡部が馬鹿にしたように唇の端をあげて目を細めた。聞いてやるから言いたいことを言えとばかりに、視線で先を促してくる。
「だって跡部は普段隙なんて全然ないのに、あたしと二人の時とかは隙だらけじゃない。そういう隙を他のとこで見せてたら、いつかどっかの財閥のお坊ちゃんとかお嬢さんとかに嵌められるかもって心配してるの」
「俺が簡単に隙なんて見せるわけねぇだろ」
「じゃあ! あたしの前でも見せない方が良いよ。あたしがいつ跡部を討ち取るか分かんないんだし」
 あたしはほんとに真剣に言ってるのに、跡部は今度こそ本格的に笑い始めた。くっくと喉の奥でおかしそうに音をもらしている。
「ちょっと跡部!」
に討ち取られるんなら本望だぜ」
 久しぶりに笑える話しを聞いたとでも言うかのように楽しそうに跡部が笑う。
「跡部はあたしに討ち取られても良いのね?」
は俺を討ち取らねぇだろ」
「それは、そうだけど」
 確信に満ちた顔と声で断言する跡部に、頷いてしまう。それは、そうだけど。でも、もしかしたらなんらかの事情で跡部を討ち取らないといけなくなる状況に陥ることはないって、誰が言えるだろう。この厳しい上流社会で、こんなことは起こり得ないって、誰が言えるだろう。
「でもね、もしあたしが跡部を討ち取らないといけなくなったとしたら、あたしが跡部を討ち取る前に、跡部はそれに気付いてよね。それで、討ち取られる前にあたしを討ち取って」
「くくっ…はっ」
 跡部が手に持っていた本を閉じた。吹き出して、テーブルにひじをついて指で額を支え、顔を下にして絶えられないようにくつくつと笑う。
「お前、それ、俺に殺されても良いって言ってんのと同じだぜ?」
「跡部もさっき同じようなこと言ったじゃない」
 小馬鹿にしたような態度に、ちょっとむっとして言い返す。
 ひとしきり笑う跡部を腑に落ちない気持ちでながめてると、ようやく落ち着いたのか跡部がまだ笑みの残る声で言った。
「ま、せいぜい がそんな状況に陥らないよう、俺がお前を守ってやるよ」
 思いがけない跡部の台詞に、思わず言い返してしまう。
「跡部、それあたしの台詞じゃない?」
「あぁ?」
「敵を作りやすい跡部が世界中を敵にまわしても、あたしが世界中を敵にまわすことはないの。もし跡部が世界を敵にまわしたらあたしが跡部を守ってあげる。だから、もしあたしが跡部を裏切らないといけなくなったら、跡部はあたしを討ち取って良いんだよ」
「誰が討ち取るかよ、馬鹿が」
「そんな言い方」
「そもそも、俺がそう簡単に世界中を敵にまわすわけねぇだろ」
「それは」
 そうだけど、と言葉がしりすぼみになってしまう。賢い跡部がそう簡単に自分に不利益な状況を作ることはないということは分かってるけど。跡部がそんなに馬鹿な男ではないことは知っているけど。
 返す言葉がなくなって手持ち無沙汰になって、空になったミルクティのグラスに手を添える。面白そうにあたしを見ていた跡部が、腕を伸ばしてきた。あたしの指先と跡部のそれがそっと触れる。指を絡められて顔をあげると、にやりと強気な、それでも随分と優しく笑う跡部と目が合う。
を守るためなら、世界だってなんだって敵にまわしてやるよ」
 自信満々に言う跡部に、返す言葉が見つからない。そのかわり、頭に血がのぼっていく感触だけがやけにリアルに伝わってきた。なんて言葉をさらりと言うんだろう、跡部は。跡部にはとてもかなわない。
 熱を持ちそうな手が恥ずかしくなって引っ込めようとすると、逆に手を引かれた。そのままテーブル越しに、あたしの右手だけが跡部の口元まで寄せられる。爪にキスを落として、指の腹を跡部の舌がざらりと這う。
「跡部!」
 指先から伝わってくる感触と、そういうことをしている跡部の行為がやけに色っぽすぎて思わず抗議すると、一瞬視線が合った。直後、手のひらにちりっとした痛みを感じる。
「……!」
 唇を寄せて見事にあたしの手のひらに印を刻んだ跡部が、満足したようにするりとあたしの手を開放した。
「ちょっと……跡部!」
 顔が真っ赤になるのも気にせず叫ぶあたしの言葉は完璧に流されてしまう。
 跡部は優雅にロシア語の本を手に取ると、何事もなかったかのように、それでも口元には笑みを残したまま再び本に視線を落とした。

2007.08.14 執筆