ためしてみる?


「人ってどうして嘘をつくのかな」
 窓から見下ろしたグラウンドには、朝練を終えて片付けをする何人かのサッカー部員の姿が見えた。スポーツ選手特有の大きなかけ声が空にとけていくように、耳に届いては静かに消えていく。ほんの少し視線を上にやるとどこまでもきれいなスカイブルーが広がっていて、大きく開いた窓から入ってきた初夏の風がここちよくの髪をゆらした。
「なにかあったの?」
 の前の席の椅子に後ろ向きに座り、机の上に広げられたキスチョコをほおばっていた英二が首をかしげる。状況がつかめないまま、どうかしたのか、と目で訴えかけてくる英二を見て、は安心させるように微笑んだ。
「たとえば、永遠の愛を誓います、とか、そういう嘘を」
 英二が大きく目をあけて、心配そうな顔をする。は身を伏せて、両腕を机の上に、そしてその上に頬をのせている英二と同じ視線になった。内緒話をするときのように小さな声で、あのね、と続ける。
「浮気されたの」
「う、浮気!? 不二が!?」
 想像していなかったセリフに、英二が勢いよく跳ね起きた。椅子がガタッと嫌な音をたてる。耳をふさぎたくなるような雑音とは対象的に、唐突に、よく通る涼やかな声が聞こえた。
「それは初耳だなぁ」
「ふ、不二!」
 いつの間に現れたのか、のとなりの席にカバンを置き、おはよう、と声をかける。両腕に頬をのせたまま不二の方を見つめるの頬にそっと手をかけ、顔を隠していた髪を耳にかけた。そのまま楽しそうにの耳を触りながら、もう一度、おはよう、と甘くささやく。
 どう見ても、浮気がバレた男のやることではない。いい加減にしろと言いたくなるような甘い空気をいつものように醸し出し、教室の中で堂々と人目も気にせずにやってしまう不二の姿に英二は混乱した頭を抱えた。
「にゃ!?」
 不二のしたいがままにされていたが、混乱の極みに陥っている英二の方へ視線だけを向ける。そして、困ったように笑いながら言った。
「わたしのことじゃないの」
「はい!?」
 英二は不二の顔との顔を交互に見て、それからもう一度頭を抱えて机につっぷした。両腕に頬をのせる、最初のポーズに戻る。
「なんだよー、びっくりしたじゃんか!」
「英二くん、ごめんね」
 はさりげなく不二の手を耳から離し、机から起き上がる。そのまま腕を伸ばして、よしよし、と英二の頭をなでた。少しからかいすぎたと思ったのか、申し訳なさそうに、でも気持ちよさそうにくせっ毛のある髪に指を絡ませる。
「浮気って、誰の話し?」
 カバンから教科書を取り出しながら、不二が不思議そうに聞いた。英二の髪で遊ぶの手をごく自然に取り上げて、机の上に置きなおす。
「わたしのお兄ちゃん、また浮気されたの」
「ええー?」
 英二がつっぷしたまま、そっちかよー、と呟く。の兄が浮気された話しを聞くのはたぶんこれで3回目だ。2回目からずいぶんと間が空いていたから、油断していた。
のお兄さん、彼女を溺愛するタイプだよね」
「そう」
 不二の言葉にうなずき、はポケットからスマホを取り出してブラウザの検索結果に表示されたページを広げて見せた。
「どうしてこんなに浮気されるんだろうって、調べてみたんだけど。愛されている女性が浮気をするときって、愛されているって安心感から、刺激がほしくなって他の男性に惹かれるんだって」
 これって、どう思う?となぜか意見を求められた英二が、知らないよ、と返す。
「あ、でも、それでいくと不二も浮気されやすいんじゃない? ほら、かなりの溺愛タイプだし」
「ああ」
 英二に指摘されて、不二が納得した顔でうなずく。
「確かに、そうかもね」
 今度は唯子が不二から、どう思う?と聞かれて、え、とたじろいだ。
「浮気、したくなったりする?」
 おだやかに微笑む不二の瞳の奥にあるものはなんだろうか。
 そのまま見ていたら何も考えられなくなりそうで、は、ええと、と考えるふりをしながら視線をそらした。不二と付き合い始めて、とても愛されていると感じる。愛しているし、愛されている。時間がたてばたつほど、どんどん好きになる。とても、しあわせだと思えるほどに。それなのに、他の人と浮気を、したいだろうか。
 そこまで考えたとき、は自分の中から浮かび上がってきた答えにびっくりして、目をまたたかせながら不二に視線を戻した。あいかわらずおだやかな不二の瞳に、なぜか心が泣きそうになる。
「そんなこと、言わないで」
「どうして?」
「浮気なんて、全然したくない」
 お願い、と続けた言葉が思った以上にすがるような声になってしまったのを自覚しながら、は誰にも聞こえそうにないほど小さな声で言葉にする。
「どこにも行かないで」
 その声は不二の耳には届いたのか、それとも唇の動きを読み取ったのか、不二が優しく微笑んだ。
「行かないよ」
 の頬に触れた不二の親指で、目じりから頬までをそっとぬぐわれて気付く。
「ごめん、泣かないで」
 のようすを見て、英二が驚いたように目を見開き、居心地が悪そうに身をよじらせた。
「不二がを疑うようなこと言うからだぞ」
「ごめんね」
 心の底から悪いと思っている声で、不二が眉尻を下げてもう一度謝る。それからふと、思いついたように続けた。
「ねえ、ためしてみる?」
「……何を?」
「溺愛されたら浮気したくなるかどうか」
「そんな、こと」
「つまり、そんなことないって、証明してほしいっていうことだけど」
 だってほら、とを見つめながら言う。
を溺愛しないなんてことは、僕には無理だから」
 いつの間にか二人だけの世界を作ってしまう不二に、英二が呆れたような、ほっとしたような表情で肩をすくめて起き上がった。好きにしなよとばかりに前を向く。
「証明って、どうすればいいの?」
 生真面目に質問してくるに、不二が嬉しそうにふふっと笑う。なんと答えればは安心するだろうか。そして、自分自身も。
「ずっと僕のそばに」
 いてほしい、と続くはずだった言葉はチャイムと同時に教室に入ってきた教師によってさえぎられた。あわてて机の上のお菓子を片付けるを見ながら、会話が途中で終わってしまったことを少し残念に思う。それでも、こっそりとうすく頬をそめたの姿に、不二は静かに目を細めて微笑んだ。

2019.05.03 執筆