まだたりないんじゃない?


 最近あたしは憂鬱だ。それは湿気がじめじめしているからだとか、たまらなく蒸し暑いからだとか、中間試験が近いからだとか、合唱部で歌いたかった曲が選ばれなかったからだとか、そういうことが主な原因じゃないと思う。
 あたしは自己分析が得意な方だけど、あれだ。あたしが憂鬱なのは、試験間近になると勉強が分からないと言いながら周助にべたべたする女子生徒の群れに囲まれるからだ。周助と席が近いからってだけで、女子の群れに押されてあたしも二次災害にあっている。
「だいたい、本当に教えてあげる気があるなら図書館にいけば良いのに」
 周助のお姉さんがついでくれたジュースを一口飲み込んで言う。指で拍子をとりながら楽譜に続きの音符を書き込んでいくと、周助はさらりと笑って目を細めた。
「図書館に行くほどでもないよ」
「じゃあ、邪魔にならないところでたむろってれば」
「へたに教室の外に出ると、もっと邪魔になるからさ」
「でも、もうあたしの邪魔になってるよ」
「うん、邪魔したいんだ」
「だからって……は?」
 周助が当たり前みたいに言った言葉に思わず思考がストップして、手を止めた。中途半端に塗り残された四分音符が宙に浮いた感じだ。
が作曲ばかりしてるから、ちょっと嫉妬」
「嫉妬って……でも、それはコンテストの締め切りが近いから」
「だからって二人でいる時も無言で二時間も作曲し続けるってどうなの?」
「うっ……それは」
「今、邪魔していい?」
 にっこりと笑って手のひらであたしの頭を包み込む。思わずボールペンを落としてしまった。そういえば、久々に周助に触れる気がする。
 あたしが合唱部の先生に進められて応募しようと決めたコンテストに向けて、作曲を始めたのが一ヶ月前。それから猛烈に音楽のことしか考えてこなくて、周助をおざなりにしていたのは事実だ。仮にも彼氏なのに。
 一ヶ月。考えてみればちょっと長いかもしれない。いや、けっこう長いかも。
「五分くらいなら邪魔していいよ」
「五分?」
 周助がにっこりと微笑む。
「……い、一時間?」
「へえ、一時間」
「い……一時間三十分」
「ふーん」
 にっこりと優しく微笑む周助の目がこわいのは気のせいだと思いたい。
 頭を軽く引き寄せられてついばむように口付けられる。久しぶりに周助の顔を間近で見た気がする。目を閉じて両手を周助の背中に回すと、頬に添えられてた手が離れてそっと腰を引き寄せられた。おおいかぶさるように何度も落とされる唇を受け止める。
 ゆっくりと時間をかけるキスに少しだけ苦しくなって、はあ、と息をつくと、周助の唇がゆっくりと離れた。一ヶ月前と同じように、つ、と指でぬれたあたしの唇をぬぐう。久しぶりの感触がすごくなつかしく思えて嬉しくなって、思わず待ってとばかりに周助の指を追いかけた。あたしの顔の前から離れていく大きな手のひらにそっと唇を押し付ける。
?」
 驚いたような周助の声が聞こえて、我に返った。今、何かとんでもないことをしたような。
「わ、ごめっ」
 反射的に謝って身を引こうとしたけど、周助の方が早かった。見事にあたしを捕まえた周助の顔が妖しく微笑む。
、もしかしてまだたりないんじゃない?」
「た、たりなくないない」
「一時間半もあれば、十分だよね」
「十分って何が!?」
 必死で逃げ場をさがしてみたけど、逃げようにもここは周助の部屋だ。もはや、窓から飛び降りるしか術はない。いや、でもここは二階だ。あたしはまだ死にたくない。

 これまでになく嬉しそうに微笑まれて、背中に手を回される。
 普段はあんまり甘えてこない周助が、子どもみたいにあたしの髪をすくっては口付けて喜んでる姿を見て、コンテストも作曲もとりあえず忘れてみるのも、今日くらいはまあいいかと思ってしまった。

2007.08.13 執筆