クライベイビィクライハニィ


「また彼女と別れたの、不二」
 不二が座っている席の隣の椅子をひっぱりだして、ガタンと音を鳴らしてそこに座る。窓の外を見ていた視線がゆっくりと動いて、あたしの視線とかさなった。透き通ったようなキレイな目。彼女と別れたばかりの不二の目はいつもそうだ。あたしを見てにっこりと笑ってるのに、あたしを見てない。
 外を走る車の騒音は窓でほとんどシャットアウトされて、換気扇の音と、人が歩くことで床がきしむ音、玉がポケットに転がる音が聞こえる。
 床がギっとなって、コン、と小気味良い音が店中にひびく。数人のお客がどよめいて、頭の辺りを空気の余波で押された気がした。床のきしみ具合からして、六番テーブルくらいで誰かがベストショットを打ったのかもしれない。
「そうなんだ、
 不二が店内のどよめきなんかなかったみたいにかき消して、憂いを見せて言った。長いまつげが伏せって、蛍光灯が照らす不二の顎骨が、これでもかというくらい絶妙な感じで影を落とす。これで金髪だったら今の不二はまるで、かの有名な「ベニスに死す」のアッシェンバッハが狂おしいくらいに求める少年のようだ。
「失恋するたびに落ち込まないでよ、タジオ」
 あたしが言うと、不二は首をかしげておかしそうに唇の端をあげた。目の中に色がともって、あたしの顔を覗き込む。
「何度目だろうね」
「十二か、十三度目くらい?」
「違う、そうじゃなくて、が僕のことをタジオって呼ぶのが」
 てっきり不二が彼女と別れて落ち込んだ回数のことかと思ったから、そう言い返されてびっくりする。不二とあたしはただの知り合いとか友達とかじゃなくて、中学一年の頃からの幼馴染だ。中一になってから出会ったんじゃ幼馴染とは言わないのかもしれないけど、あたしが北海道から東京に引っ越してきてからは、ずっと不二の家のすぐ隣に住んでいる。だから、あたしは不二のことをもう何年も呼び続けているし、そんなことは不二が一番良く知ってるのに。
「数千回くらいかな、分かんないけど」
 適当にそう答えてみるけど、でも、もしかしたら数万回かも知れない。初めて不二に会った時、不二はあたしの中でタジオになった。タジオっていうのはあたしが好きなビスコンティの映画「ベニスに死す」の中に出てくる美少年だ。別にそういう嗜好を持ってるわけでもない老作曲家のアッシェンバッハが、目を離さずにはいられなくなってしまうくらいの、見目麗しい美少年。
「アッシェンバッハはいつまで僕のことをタジオとして見るんだろう」
 不二が艶っぽく天井をあおぐ。目の前に置いてあるアイスコーヒーのストローを取り去って、直接グラスに口をつけてコーヒーを飲んだ。喉が動いて、黒い液体が不二の身体に吸収されていく。
「嫌なの? あたしとしては最高のほめ言葉だよ」
 あたしが不二をタジオと呼んだら、不二はあたしのことをアッシェンバッハと呼ぶようになった。僕をタジオにしてしまうんなら、はアッシェンバッハ以外の何者でもないよ、とかなんとか言って。 
「そろそろ、嫌かな」
 唇についた黒い液体を舌でぬぐって、不二は笑って言う。粗野にテーブルに置かれたストローの先端から、黒い染みがにじんでいく。端に立てて置かれているペーパーナフキンを一枚取って、テーブルを拭こうとしたら、不二の手が伸びた。あたしの手からナフキンを奪い取って、流れるような動作で完璧にテーブルの汚れをなかったことにしてしまう。
「僕はが好きなんだ」
 ペーパーナフキンを片手で器用に折り曲げて、不二は今日は良い天気だね、と言うみたいに言った。何度となく言われてきた言葉で、あたしも明日も晴れると良いね、と言うみたいに言う。
「あたしも不二が好きだよ」
 不二があたしを見て、あたしも不二を見る。不二は笑っていつものように「そうだね」と言うはずだった。そのはずだった。
「不二?」
 顔を少しだけ上へ向けても、逆光で不二の顔がうまく見えなかった。笑っているのか、たぶん笑っているんだけど、いつもみたいに笑い合えない。
「それは、タジオとして?」
 不二が言う言葉がいつもと違う。アイスコーヒーのグラスから水滴が落ちて、テーブルを濡らす。すぐ近くに置いてある不二の指を濡らそうとする。おはよう、と言ったらごちそうさま、と言われたみたいに、噛み合わない会話にあたしは混乱した。
「タジオとしてって、どういう」
「僕はね、
 あたしの言葉をさえぎって、不二が言う。少しだけ動かした指が、グラスの置かれたテーブルの濡れた水に触れた。
「今まで付き合ってきた彼女たちと、絶対に上手くいったことがないんだ」
 心の底から悲しいと思っている声が、頭上から降ってくる。タジオみたいな完璧に均整がとれた顔に影が落ちる。
「僕は彼女たちを好きだったし、別れたいと思ったことなんて一度もなかった」
 でも、とタジオは言葉を続ける。
「テニスの練習が忙しかったりだとか、電話があっても出られなかったりだとか、誕生日とかバレンタインとかの記念日にうまく会えなかったりだとか、そういうことがあったのも原因だろうけど、僕は彼女たちを幸せに出来なかったし、結局、失ってしまっている」
 そうなったのはすべて、不二の責任だとでもいうかのように言うから、あたしはなぐさめるべきなのか肯定するべきなのか迷い、どっちも出来なくて中途半端に首をかしげた。周りから聞こえてくる玉と玉がぶつかる音が、少し気持ち良い。でも、いつもと違う方向へ向かっている会話の終着点が見えなくて、どうして良いのか分からない。
「だから、僕はタジオで良いと思ってた。付き合ったりしなくてもアッシェンバッハは僕を好きだし、僕もアッシェンバッハが好きで、アッシェンバッハが側にいてくれればそれで良いと思ってた」
 結局のところ自信がないんだ、とタジオが言う。
「友達だったら休日に会えなくても、誕生日に一緒にいられなくても、友達だから、で済ませられる。でも、付き合ってたらそれが出来ないんだ。付き合ってるのに、休日に会えないのは嫌で、記念日に独りなのは嫌になる。そう思わない?」
「そう思う」
 あたしが迷うそぶりも見せずに答えたのが意外だったのか、タジオは少し口をつぐんだ。あたしはアッシェンバッハで、不二はタジオだ。アッシェンバッハはタジオに拒絶されるのが怖くて近付けないし、タジオはアッシェンバッハの深みに嵌まるのが怖くて近付けない。それで保たれている、ギリギリの均衡。だってあたしは彼氏が誕生日に一緒にいてくれないのは嫌だし、休日返上であたしを放ってテニスばっかりするのは嫌だし、だから過去の不二の彼女達のように、きっと不二を責めるんだ。
「不二が好き。だからあたしは不二の彼女になるよりも、いつまでも側にいられる権利の方が欲しくて、ずっと話していたいから、あたしはアッシェンバッハで良いの」
 あたしが言うと、不二は濡れた指をグラスから離して、垂れ下がる髪を掻き揚げた。くっきりと光に照らされるキレイな顎骨。
「僕は、を失いたくないんだ、絶対に。だから、甘んじてタジオをやってきた」
「あたしはそれで満足だよ」
「でも僕は、もう満足出来ない」
 不二の濡れた手があたしの左手にそっと触れた。離そうとしても、この細い指のどこにそんな力があるのか、と疑ってしまうほどの強い力でつかまれる。指の先が少し繋がってるだけで、もうあたしは不二から離れられない。離れられなくなる。だからアッシェンバッハはタジオから一定の距離を保ってきたのに。
「他の誰と付き合っても、がいるから彼女達を僕の一番に出来ないんだ」
「それってあたしのせいなの?」
「そうだよ」
 不二が目を細めてくすりと笑う。
「均衡を崩してでも近付きたい。僕はと手を繋ぎたいし、キスがしたいし、セックスがしたいし、無意味でも書類の上でだっての側にいたいんだ。それは、アッシェンバッハとタジオのままでいたら出来ない」
「近付いたら均衡が崩れるのに?」
「均衡が崩れたらお互いを失うことになる?」
「たぶんね」
は失いたいの?」
 考えてもいなかった不二の問いに、あたしは思わず不二を見つめた。キレイな顔がタジオに見えない。不二に見える。
「あたしは不二を失いたくないから、ずっとアッシェンバッハでいたのに」
 目を閉じると、不二の影が近付いてきた。額に熱い息を感じる。
「テニスとしか僕の優先事項じゃないから。失いそうになっても、離さない。のことをテニス以上に愛してみせるよ」
 不二の手が熱い。にぎられたあたしの手が熱い。もうあたしは、タジオの側にいるアッシェンバッハでいられない。寂しくて孤独な安心と安定がずっとあたしの居場所だったのに、それでも今の新しい居場所を、あたしの心が嬉々として受け入れていることにとまどう。あたしはこれからどうして良いのか分からないのに、思考を無視して勝手に心が躍り狂っているみたいだ。
「でも不二は、テニスとあたしだったらテニスを選ぶんでしょ?」
 あたしが言うと不二は意外そうに眉をあげて笑った。
「今までの彼女達なら、僕にテニスを選んで欲しくなかった。でもなら、どっちを選んで欲しい?」
 不二が視線をずらして、あたしの右手を見る。あたしがずっと右手に持ったままのキューを見る。あたしが最年少でビリヤードの世界ランキング九位になることを決めた試合に使ったキュー。ビリヤードの練習は絶対に毎日かかさないし、キューを持たない日はないし、あたしにはそれが日常で、あたしはきっと不二を好きなのと同じくらいにビリヤードを愛してる。
「不二があたしのことを忘れずに時々かまってくれるなら、テニスを選んでも許してあげる」
 あたしがキューを後ろ手にして言うと、不二はおかしそうに笑った。
「テニスをやってる不二が好きなの。あたしを見てる不二が好き。不二が好き。不二が好きだよ」
 繋いだ手が離れて、腰を引かれる。今店内にいるお客達からうまく死角になってる席に座って良かったな、なんて思う余裕もすぐになくなった。
「均衡を崩したら思い煩うことも増えるね、きっと」
「たぶんね。それでもは僕のために泣いてくれる?」
「不二も同じくらい泣いて、そしてそれ以上にあたしを幸せにしてくれるんでしょ?」
 不二が笑う。心の底から嬉しそうに。もう片方の不二の手が伸びてきて、あたしの頭をすっぽりと包み込んだ。不二しか見えなくなった世界の中で、あたしの中にもうタジオはいない。
 日の光の下に隠れて、あたし達は初めてキスをした。

20060814 執筆
夢味キャンディー 参加作品
(2006/06/04〜11/某日)