ひとりの夜は


 毒々しい赤ワインなんておいしくないし、飲めもしないのについ買ってしまうなんてわたしは馬鹿だ。一本三百円の安売りにつられて、衝動的にカッコつけるみたいに買ってしまった。ワインが飲めるだなんて、なんだか一歩前をいってる大人の女性の証拠で、デキる女みたいだっていうイメージがする。洒落たワイングラスに赤い液体を注いで、唇を濡らしながら優雅に飲むのは美しいというイメージ。
「うっまずい……」
 わたしは一口飲んで、赤い液体をこれ以上飲み続けることを諦めた。開けたばかりの小さなワインボトルを机の隅に追いやり、百均で買ったガラスのコップを遠ざける。本当はワイングラスで飲めれば良かったんだろうけど、あいにくそんなものは持っていなかった。でも、愛用の薄茶のマグカップじゃあんまりだと思ってわざわざコップまで買ってきたのに、これじゃちっとも意味がない。まあ、考えてみれば、そもそも三百円のワインじゃカッコつけるもなにもないっていうのに。
 ワインは、飲まなければ大丈夫なのだ、わたしは。あの香りはとても好きだ。甘いような酔わせるような、ワインは安物だってすごくいい匂いがする。ただ、口に含んだらそれは嘘みたいに全部消えてしまう。苦くて渋くてまずいだけの液体になってしまう。ワインの香りは大人も子どもも関係なく惹きつけるくせに、大人じゃないと飲むには耐えられないという、嫌味そのものな感じがする飲み物だと思う。
 明日には抜けてしまうだろうワインに気持ちばかりのふたをして、冷蔵庫の奥に置いておく。そのうち捨てることになるんだろうけど、せめて一晩くらいはカッコつけて、冷蔵庫の中にワインを置いてみても良いと思った。
 時計を見たらぴったり二十四時で、テレビの電源を入れる。今朝見た新聞のテレビ欄には、確か二十四時からと書いてあった。有料チャンネルのテニスの試合だ。解説者の名前とかは忘れたけど、試合名は全米オープンと書いてあった。そしてその試合には、不二が出ているはずだ。この試合を見るために、わたしは二十四時までにちゃんと帰ってきたし、お風呂にも入ったし、髪をかわかす時間はなかったからほうったままテレビの前に座っているし、ワインの試し飲みも済ませて、このうえなく用意をしている。
 角ばったテレビのリモコンのボタンを押す。何度も同じチャンネルでテニスを見てるから、ボタンは押し間違えない。わたしはいったい何回テニスの試合を見てるんだろう、と思う。有料チャンネルじゃないと放送してくれないようなマイナーな試合まで、何回眠い目をこすりながら真夜中に見てるんだろう。
「さあ、始まりました、全米オープンです」
 司会者がやたらと元気の良い声でしゃべる。注目の選手は、とか言ってパネルをひっぱりだしてきたりするから、わたしはテレビに近寄った。不二は出場選手の中でも年少だし、優勝候補とかに比べて断然扱いは下だけど、日本人だから必ず選手紹介の時に写真と名前が出る。わたしはこういう時だけ、日本人が日本人贔屓でよかったと思う。そうじゃないと、もしかしたらなんの紹介もなく終わってしまうかもしれない。不二に限ってそんなことはないと思うけど、少なくとも見てるわたしがドキドキしないで良いから素敵だ。
「日本人選手で言えば、不二周助も期待できるんじゃないでしょうかね」
「そうですね。今最も伸びている若手プレイヤーの一人ですからね、楽しみです」
 いつ聞いてもあまり代わり映えのしないコメントと一緒に、不二の名前が映される。それを見てわたしは、ああ、そこにいるんだ、と思う。そこにいるんだ、不二は。アメリカのどこかのホテルに泊まっていて、どこかのカフェでご飯を食べていて、そして今、アメリカのテニスコートの上にいるんだ、不二は。
「そろそろ始まりますね」
「そのようですね。初戦、不二の相手は世界ランキング——」
 司会者を映していたテレビの画面が変わる。全米オープンの青いハードコート、青い服のボールパーソン、ぱらぱらと埋まっている青い客席。観客のざわめきをしばらく映していたあと、画面からぱらぱらと拍手が聞こえた。映像が変わって、不二を映す。コートへ出てきた選手を観客が拍手で迎える。久しぶりに見た不二は、やっぱり不二だ。白に青のアクセントが入ったテニスウェアを着て、当たり前のようにそこにいる。全米オープンだろうが全仏オープンだろうが、クレーコートだろうがハードコートだろうが、不二がいて馴染まないテニスコートは見たことがない。世界中どこを探しても、そんなコートはないと思う。不二はきっと、すでにそうしているみたいに、当たり前のようにテニスコートにいるべきなのだ。
 不二がテニスラケットのガットの調子を見て、ジャッジに挨拶をしにいく。世界ランキング何位だかの選手と握手をして、軽く打ち合う。それをわたしはじっと見ている。客席からじゃなくて、アメリカからでもなくて、日本から、それもうすっぺらいテレビの前で。それはまぎれもなく遠い距離で、むなしく思うことは限りないけど、でも見ないではいられないから見てしまう。用意周到な準備までして、誰も見てないのに飲めないワインを買ってきて、冷蔵庫に入れてカッコつけてみたりもして。
 笛が鳴って試合が始まる。不二が打つ。相手が返す。打ち合いはあまり続かずに、黄色いボールは不二じゃない方のコートに沈んで、どこかへ飛んでいった。ぱらぱらと拍手が聞こえる。不二のリード。
 ジャッジの笛が鳴るのを待って、間をおかずに不二がサーブ。ほぼ真っ直ぐに相手のコートの懐に入って、サービスエースを取る。相手の判断ミスと、不二のコントロールの良さ。あきらかに試合の波は不二にあった。そしてそれは、いつどこでどういう方向に変わるか分からない。でもわたしは、この試合は不二のストレート勝ちだろうなと思う。それくらいのレベルの差が分かるようになるくらいには、しつこいくらいに試合を見てきた。おかげでテニスのルールを説明せよと言われたら、きっと嫌になるくらい細かいところまで説明出来ると思う。それがなにかの役にたつのかどうかは分からないけど。
 不二がワンゲームを先取した。相手にサーブ権が移って、鋭いサーブが飛んでくる。不二がそれを拾って打ち返す。相手も受けて、ラリーが始まる。黄色いボールは右へ行ったり左へ行ったりするけど、でも不二はあまり動かない。相手が揺さぶられていて、たぶんこれも不二のポイントだ。そういうことが自然に頭に浮かぶ。その反面、わたしは不二が負ければいいなんてこともほんの少し思っている。負ければ、不二がアメリカに残る必要がなくなる。つまり、日本へ帰ってくる。そうしたらわたしは不二に会える。わたしはもう真夜中に無意味にカッコつけなくていいし、一人でテレビを見なくて良いし、こんなにテニスに詳しくならなくていい。
「不二の馬鹿」
 ボールはラケットに強く弾かれて、不二のポイントが増える。不二がリストバンドで額を拭いて、コートのラインへ戻った。サーブの構えをして前を見据える。それを遠くのカメラが映す。もっと遠くのわたしはそれを見る。合うことのない視線を合わせようとじっと見る。不二が動いて、カメラが切り替わってアングルが変わった。視線なんて、どんなに頑張っても絶対に合わない。わたしが一方的に追いかけているだけだ。いつも、いつも。
 うまくボールをさばかれて、不二のラケットが間に合わない。ボールはラインの上で跳ね返り、相手選手にポイントが入る。不二が前を見る。構えて、次のボールを待っている。そんな不二を見ると、わたしは声援を送ってしまう。負けろなんて思ってごめん、と思い直してしまう。わたしは結局、不二が笑ってる方が嬉しいし、不二が勝つ方が嬉しいし、不二がテニスをするのを見ているのが好きなんだと、思わせられる。それでこそ不二だし、だからわたしは好きになったんだ、不二を。それが不二だ。
 真夜中にテニスを見ると、わたしは色々なことを考える。不二を嫌いになって、でもそれ以上にもっと好きになって、やめられなくなる。
 不二がワンセットを取って休憩が挟まって、ようやく自分の喉がかわいていたことに気付いた。探さなくても目にとまったワインの匂いをかいで、懲りずにもう一度飲もうとしてみる。
「……やっぱ無理」
 ワインはそのまま返却して、水を注ぎに行く。蛇口から勢いよく水を出して、マグカップに入れて飲む。そこまでおいしいと思う訳じゃないけど、まずくはない。飲みたいがままにごくごくと飲みほす。
 テレビの前に戻って、ふと思った。ワインは不二と少し似ている。良い香りを漂わせて、みんなをとりこにしてしまうのに、いざ飲もうとするとそれは大変だ。苦味の代わりに切なさを植えつけられるし、渋さの代わりに寂しさを与えられる。でもそれを乗り越えてしまえるほどの大人だったら、それらも含めてワインのおいしさを味わえてしまうんだろう、きっと。
 高級ワインは手に入れるのにも手間がかかって、でもまずいと思ってしまったら飲むのも大変で、飲めるような大人になるのもわたしにとってはきつい。それに比べて水はいくらでも飲めるし、喉の渇きを簡単に潤してくれるのに、どうしてわたしはワインから離れられないんだろう。苦くてしんどいって分かってるのに、ワインを欲しがるんだろう。そんな自分は馬鹿だと思う。はたから見ても馬鹿だと思う。
「ラヴフィフティーン」
 テレビからジャッジの声が聞こえて、いつの間にか試合が再開されていたことを知る。
 ひとりの夜は、変なことを考えてしまう。考えてもどうしようもないことを考えて、一人で不二を好きになったり嫌いになったりして、結局試合を全部見てしまう。視線が合わないことは分かってるのに、それでも不二を見ていたいと思う。コートの上を走って、ジャッジに不二のポイントを宣言させる姿を見ていたい。眠くても、カッコ悪くても、しんどくたってそれでいい。
「ラヴサーティ」
 ジャッジの宣言。不二のポイント。ポイント、ポイント、それからツーセットを取って不二の勝ちが宣言される。相手選手と握手、ジャッジと握手、観客の拍手、選手の退場。画面はあっと言う間に不二を映さなくなって、盛んにしゃべる解説者へと切り替わった。今の試合はああでこうで、不二の動きは大変良かったですね、とか、そういうことをしゃべる。わたしはそれを聞いて、またテニスに詳しくなる。不二がほめられるのを聞いて、意味もなく嬉しくなる。
 テレビをつけたまま立ち上がって、コップとマグカップを洗いに行く。耳に心地良い不二への賛美を聞きながら、コップを片付ける。
 電気は消して、テレビはつけたままベッドに入ろうとする直前、携帯が鳴った。小さな画面がぴかぴかと光って、メールが届いたことを知らせてくる。開けてみたら、不二から一言だけのメールだった。
「勝ったよ」
 リアルタイム速報だ。
 ひとりの夜は、不二がいないから馬鹿なことをたくさん考えて、無駄なこともたくさんしてしまう。でも不二は、最後にわたしを悲しくさせてはくれない、いつも。ひとりの夜は、ひとりの夜でも、わたしは不二のことを思ってベッドへ入る。眠い目をこすって、メールになんと返信をしようかと考える。なんでも良い。おめでとう、でも、見てたよ、でも、なんだって良い。不二の次の返信は、文章の違いはあるけどいつも決まっている。それを予測して、今日はわたしから好きだよって送るのも良いかもしれない。
 無理矢理そうしようとしなくても、そのうちわたしは赤ワインが飲めるようになるのかもしれない。例え飲めないままでも、それはそれで良いと気付くのかもしれない、きっと。
 不二に返信メールを送って、番組が変わってしまったテレビも消して、わたしはベッドにもぐりこむ。手に持ったままの携帯に口付けて、今頃わたしが送ったメールを読んでいるだろう不二のことを思った。

20061229 執筆
slow step 参加作品
title by セレナイトな月に抱かれて
(2006/12/10〜)