PAIRING


 薄力粉とベーキングパウダー、卵やグラニュー糖やチョコレート、その他必要な材料を合わせて作ったケーキの生地を、ゴムべらを使って切るように混ぜていく。
 最初はゴムべらがなくて、代用品にしゃもじを使っていたお菓子作りも、作っては家族にひろうしていたその成果を認められて、母親がのために、ちょうど安売りしていたのよ、と一本買ってきてくれた。そのゴムべらを使って、はいくどとなくお菓子を作ってきた。家族のために、友達のために、自分のために。そしてときには、誰か一人のために。
 さくさくと手馴れたようすで生地を混ぜているの気配を感じたのか、母親がキッチンに顔を覗かせた。
「あら、なあに、今度はなに作ってるの?」
 甘いチョコレートの香りに鼻をひくひくと小さく動かして、出来たてが食べたい、と暗につげる母親に、は目を細めてゴムべらを生地からはなし、前後にふった。
「これはあげられないの」
「えー! そのケーキ、母さんも食べたいな」
 子どもっぽくブーイングをとばして諦めない母親に、はわざと怒ったようにそっぽを向いた。気にかけていないことを象徴させるかのように、ゴムべらを生地の中に戻し、中断させていた作業を継続する。
「だめ。これは全部持ってくの」
「……のケチー」
 少しもゆずらないに、母親が情けない声を出して引っ込んだ。かと思うと、再度顔を覗かせ、ぽつりと言った。
「アメリカンブラウニー」
「……分かりました」
 次に作るお菓子はアメリカンブラウニーで、それは家族に提供する、という意味を込めた一言をは理解し、考え、そして了承した。子どもっぽさが抜けない母親にこっそりと小さなため息をついてみせ、それでも少し唇のはしをあげる。食べたい、といってリクエストしたり、作ったものを嬉しそうに食べたり、美味しい、といって笑ってくれる母親は、確かにのお菓子作りの励みになった。は、食べてくれる人ありきの料理をする。
 満足した母親が居間に戻り、趣味のパッチワークを再開したのを確認し、は生地を混ぜる手をとめた。
 そっとゴムべらから手を離し、もう一度母親が手芸に熱中しているのを確認すると、さっと両手を首の後ろにまわした。首にかかっていた銀色の細いチェーンを外し、片一方は持ったまま、反対側を離す。チェーンにかかっていた銀色の指輪が、すとんとの手のひらの中に落ちた。
 はその指輪を生地が入ったボールのとなりに置くと、なにもかかっていないチェーンを首にかけなおした。銀色のチェーンだけが、所在なさげに首筋を揺れる。
 ボールを持ち上げて傾け、型の中に生地を流し込む。ゴムべらでボールに残った生地をうまくとって型に流し込む。ほとんどからになったボールを流しの下に置き、は指輪を手に取った。
 蛇口をおろしてぬるめのお湯を出し、その下に指輪を持っていく。きらきらと光りながら水をはじく指輪を丁寧に洗って、きれいな布巾でそっとふいた。裏に彫られた文字を見ないように目を閉じて、表面にそっと唇をつける。
 はためらいもなく生地の真上に指輪を持っていくと、その中に指輪を落とした。生地よりも重い指輪は、すぐに沈んでゆき、かけらも見えなくなり、どこにあるのか分からなくなる。
 はケーキの型を持ち上げ、温めてあるオーブンに入れてふたを閉めた。焼き上がりまで約四十五分。焼きあがったら取り出して、熱をとり、そしてラッピングをする。
 ケーキが完成するまで、あと数時間。
 は母親がいる居間に行くと、小さな本棚からお菓子のレシピが大量に載った大きな本を取り出して、これみよがしにアメリカンブラウニーのページを開いた。


 担任に呼ばれて職員室に行っていた不二が教室のとびらを開けると、とたんにクラスの空気がかわった。一瞬だけしんと静まり返り、そしてさざなみのように端から端へとざわめいていく。
 不二は平然としてその中を横切り、窓ぎわの自分の席へとついた。ひとつ前の席に座って友達とさわいでいた男子が、じっと不二を見る。その視線にきづいた不二が顔をあげ、笑みをみせながら一言二言言葉をかわすと、その男子はクラス中にひびきわたるような声で叫んだ。
「すっげー不二、イギリス行き決定かよ!」
「キャー!」
 女子たちがいっせいに甲高い声をあげ、教室中がどっとわく。誰かがとなりのクラスへ走り、誰かが携帯でメールを打ち始め、誰かが口笛を鳴らしてはやしたてた。女子も男子も関係なくおしかけ、不二の周りの空間が一気にうまる。
「俺は絶対行けるって思ってたよ! なあ!」
「不二君、その高校があるのってイギリスのどこら辺? 絶対、写真送ってね!」
「あっ、ずるい、あたしも!」
「あっち行ったら不二はテニスの練習が忙しくて、それどころじゃねーだろ!」
 口を閉ざして笑みをたゆたわせている不二を中心に、どとうの渦がとぐろを巻き、窓ぎわの後ろの方から廊下側の前へ向かってだんだんとうすくなりながら広がっていく。ずっと遠くに教室があるクラスの生徒や、わざわざ階段をかけのぼってきた下級生たちが、廊下からもいくつもの顔を3-6に覗きこませた。
「不二、イギリス行ったら一人暮らしかよ?」
「青学のこと忘れないでね!」
「試合のインタビューで3-6のこと話せよな!」
「なんで試合のインタビューで3-6なのよ! 話すとしたら、テニス部のことよね! 手塚君のことアピールしてね!」
 いくつかの質問にやんわりとこたえる不二に、騒ぎは収まりをみせず、一段ともりあがっていく。不二が持ってきた大きめの茶封筒の中身を取り出し、すげーすげーと騒ぎ立てる中で、誰かがふと、誰よりもまっさきに不二のとなりにくるはずの人物がいないことに気づき、外に向かって声をだした。
「おい、そういえば菊丸はまだ学校きてねーのか?」
「この時間だと、テニスコートで早朝練習中だよね」
「もう知ってるのかなぁ」
「あたし、教えに行ってこようか!」
「あたしも行くー!」
 数人の女子が嬉々として立ち上がり、比較的人が少ない前のとびらへ向かってかけだした。外でたむろっている人をおしのけ、わずかな道を作って廊下へ出る。
 その瞬間を見定め、小さな隙間をたぐって、は教室の中へ滑りこんだ。人の垣根を強引に割って教室を横断し、廊下側の前から数えた方が早い席に着席する。
!」
 渦の中に巻き込まれていたが、の姿を見つけて渦から抜け出した。の一つ前の椅子に後ろ向きで座り、期待に満ちた目での顔を見る。その顔から、すぐに笑顔が消えた。
 の顔を見て、は表情を崩し、腕で顔をかくすように机に突っ伏した。自分を守るように小さく身体を丸めたの上を、盛大な笑い声が通っていく。
……」
 机にうつ伏せになり、静かにクラス中の笑い声をかわしているを見て、悔しい、という思いをのかわりにつのらせるかのように、は小さく唇をかみしめた。

 腕をまわし、が小さく縮こまっているを抱きしめる。とどまることのない歓喜の声につつまれているクラスは、教室の隅でうずくまっている彼女らに気づかず、授業が始まるまで騒ぎたてていた。


は頑張ったよ」
「うん、あたしもそう思う」
 ひょうひょうとこたえるに、はあきれたようにを見た。
 広い青学の庭は、誰にいわれたわけでもないのにきちんと等間隔に座って、お弁当を広げる生徒があちらこちらにたくさんいる。その一角をたちも陣取り、日差しの暖かな草のうえに直接座って、昼食をとっていた。なにを話しているのかは聞き取れないが、楽しげになにかを話している声が右からも左からも、そうでないところからも風に流れて聞こえてくる。
「なんなのいったい。金曜日は声もでないくらいにひしゃげてたくせに」
 は気が抜けたように肩を落とし、大きな卵焼きを一気に口にいれた。もごもごと口を動かすに負けじと、も一口サイズの冷凍食品を解凍したコロッケをほおばる。
「考えてみれば、あたしは落ち込んでる暇なんかないんだってば。ほら、音高の入試もせまっていることだし」
 となりに置いてあるヴィオラケースをぱしぱしと軽く叩いてみせるに、はふーんとこたえた。卵焼きを飲み込んでしまってから、空中でおはしを動かしながらいう。
「あたしってば心配損。うん、この貸しは、のケーキでいいよ。食べ放題ができるくらいの量と種類の」
「ちょっとさん? あたしは貸しなんか作った覚えないんですけど」
「あらー、覚えてない? が金曜日の朝、見るも無残なくらいに落ち込んで職員室から帰ってきた時から、なぐさめてあげたでしょ。今日も落ち込んでるかもしれないを、どうやって励まそうかって、土日はさんで今日までずっと心配してたんだからね。大きな貸しでしょ」
 ふふん、とえらそうに笑ってみせるに、がわざとらしく吹いた。
「なんかそれ、押し付けがましいなあ」
「なんとでも言って」
 けらけらと笑いながらいうに、もその上に笑い声を重ねる。の笑い声がわずかににじみ、目じりに浮かびそうになる涙を隠すようにひざに顔をかくすことには、気づかないふりをして、はウィンナーをお箸でつきさした。
 遠くの笑い声が風に吹かれて近くを通り過ぎ、肌寒いと感じる一歩手前といった風が、水色のセーラー服の裾をゆらす。うすい雲が太陽の前をさあっと過ぎ去り、草の上には日差しが照った。
 がプチトマトを口に放り込み、が顔をあげて、空をあおいだ。首にかけたチェーンが日差しに反射してちかりと光る。がそれに気づき、あれ、と声をあげた。
、指輪なくなってるよ!」
「え? あ、これ。なくしちゃったみたいなんだよね」
「うそ、いいの? ってば一年のときからずっとつけてたよね、それ。大切なものなんじゃない?」
 平然となくした、とつげるに、が驚いたようにいう。は小さく笑って、チェーンだけの飾りをひっぱってみせた。
「いいの、もうそろそろ飽きてきたとこだし。さすがに三年もつけてるとね」
「……そんなもん?」
 納得いかないような顔でいうに、はそんなもん、と笑ってかえした。
がいいんなら、別にいいんだけど」
 は納得いかなそうな顔のまま、それでもその言葉で区切りをつけ、残ったお弁当を食べ始めた。
 気持ちよく晴れた空をみあげるの横ではちゃくちゃくとお弁当をたいらげる。米粒ひとつ残さず完食すると、かぱんとお弁当箱のふたを閉めた。
「ほら、もさっさとごはん食べないと。そろそろ授業始まるよ」
「……え。って、そういうことは早くいってよ!」
 が差し出してみせる携帯のデジタル時計を見て、はお弁当箱に残っているおかずをかきこんだ。急いで箱をからにし、鞄の中にしまい込む。
 立ち上がってスカートをはたき、鞄とヴィオラケースを持ち上げた。
「次の授業、遅れられないんだってば!」
 もそれに付き合って鞄を肩にかけながら立ち上がる。
「音楽でしょ? そんなに急がなくたって」
「先生が、入試間近だから特別に指導してくれるって。しかも公認で」
「うわー、ってば一人だけ堂々とサボり?」
「なんならがレッスン受けてみる? あの先生の?」
「……けっこうです」
 の返事も聞かずにかけだしたの後を、も歩調を速めて追いかける。庭から校舎の中へ入り、階段を一気にかけのぼり、廊下を猛ダッシュしてが音楽室のドアに手をかけた瞬間、授業開始をつげるチャイムが鳴った。
さん」
 なんともタイミングよく、突然後ろからかけられた声に、がばっとふり向く。音楽教師が二人、の後に続くのさらに後からのんびりと歩いてきていた。そのうちの一人が途中で歩みをとめ、を呼んだ。
「別に部屋をとったから、そちらで練習しましょう。もちろん、ヴィオラはちゃんとあるわね?」
 はヴィオラを持つ手元を軽くあげてそれにこたえ、緊張した面持ちで音楽室のドアから手を外した。
「じゃあね、
「ファイト」
 小さくガッツポーズを作って見せるの頭を、もう一人の音楽教師がうすい楽譜でぱしっとはたいた。
「わたしより先に教室に入らないと、遅刻にするけどいいの?」
「先生、暴力反対」
「ほら、さっさと中に入る」
 押されるようにしながら音楽室の中に入っていくを見送り、は小さな笑いをかみ殺して、ヴィオラの教師のあとについて歩き始めた。しんと静まり返った廊下を通り、防音設備がほどこしてある特殊な部屋の前に立つ。
 は鍵を開けて中に入った教師の後に続いて部屋の中に進み、後ろ手にドアを閉めた。いつも通りにピアノ椅子の横の長い机の上に、ヴィオラケースと鞄を置く。鞄の中から楽譜を取り出し、ヴィオラケースのふたを開けるに微笑んで、教師は棚を開けて、中からカセットデッキを取り出した。
さん、今日は練習してきた曲を一度テープにとってみましょうか」
 見た目こそきれいだが、カセットテープとCDしか再生することができない古いデッキを、ヴィオラの教師は机の上にどんと置き、コードをコンセントに差し込んだ。事前に用意してきたらしい新しいカセットテープを数本その横に置き、一本をデッキの中へセットする。
 はてきぱきと動く教師の言葉に、ヴィオラを弓を張る作業を止めた。数秒もしないうちに自分の手が止まっていたことに気づき、は弓を張り、ヴィオラを手に取って構える。肩とあごの骨でヴィオラを支えて手を離し、アップライトピアノのふたを開けて、自分で音をとりながら調弦をする。
 教師はカセットデッキの用意をし終えると、自分も部屋の中にあらかじめ置いてあったヴィオラを取り出した。調弦はせずに弓だけを張り、すぐそばに置く。丸椅子をひっぱり出してきて、そこに座った。
「さて、準備はできた?」
「え、あ、はい」
 調弦を終え、ぼうっと空を見ていたは、教師の言葉にどもりながら返事をした。練習してきた課題曲の楽譜を用意しようとして、手が止まる。
「あの、先生」
 途中でいいよどんだを、教師がほんの少し眉を動かして先をうながす。は数秒ためらい、用意しかけていた楽譜をたたんだ。
「テープを一本もらってもいいですか? 最初に、わたしが作曲した曲を聴いて、とってもらいたいんです」
 ヴィオラ教師は黙り込み、やがて微笑んだ。
「作曲もしてたなんて、驚きね」
「あ、でも、作曲したっていってもこの一曲だけで」
 いい訳めいたことを述べ連ねようとするを教師が制する。
「いいでしょう、まず聴きたいわ」
 楽しそうにいう教師に、が恥ずかしそうにはにかむ。ヴィオラを構えたに、教師が気づいたように訊いた。
「そうそう、タイトルはなにかしら?」
「まだ、決めてないんです」
 はそういって少し笑みを見せた。心の中だけで、でも、と付け加える。かの有名音楽家にのっとって至極簡単に名づけてしまうと「FUR S.F」というところだろうか。
 改めてヴィオラを構えたを確認して、教師が古いカセットデッキの録音ボタンを押す。
 一呼吸おいて、が弓をおろす。第一音がきれいに響き、せまい防音室は、すぐに深いヴィオラの音色で満たされていった。


 一日のすべての授業が終わると、ほとんどの生徒がエスカレーター式で青学高校へ進学する青学中学生は、三年になっても補講もほとんど行われていない。放課後になってあるていど時間がたつと教室はからっぽになり、教師も生徒も誰もいなくなる。そのかわり、三年になっても運動部も文化部も部活動は最後の最後まで行うため、外からは熱心に部活動をがんばる生徒の声が聞こえてきていた。
 はその声を遠くに聞きながら、小走りに廊下を走っていた。放課後の防音室でヴィオラの練習をしていたのがついさきほど、途中で教室に忘れ物をしてきたということに気づいたのが、ほんのさっき。気づいたとたん、はヴィオラの練習を止め、ヴィオラは置きっぱなしで防音室に鍵をかけるのもそこそこに、教室へ向かった。
 忘れたのは中くらいの紙袋だった。中にはかわいくラッピングをされているわけでもない、大きめのただの白い箱がひとつ入っている。
 は学校のいたるところに設置されている時計をちらっと見て、この時間なら誰もいないだろうと、勢いよく教室のとびらを開けた。とたんに、そうしたことを後悔した。

 窓ぎわの後ろがわの席に、影がひとつあった。机の前で立ったまま、机の上に置かれた鞄を広げている。
 は数秒その場で固唾を呑み、それから意を決して動きだした。忘れ物をした自分の席へ向かいながら考える。よく考えてみれば、にとってこの状況はつごうがいいのかもしれない。家への帰り道、不二の家による必要がなくなる。直接渡さなければならなくなったデメリットは増えたとしても。
 は机の横にさげていた紙袋をとると、その場で不二に向き直った。
「こんな時間に教室にいるなんてびっくり。テニス部は?」
「ちょっと忘れ物しちゃってさ。リストバンド」
「そうなんだ。あたしも忘れ物」
 紙袋を少しあげて見せるに、不二は笑んで手招きした。
「今時間ある? 久しぶりだよね、と話すの」
 不二が立っている場所のひとつ前の席の椅子を引いて、不二も自分の席に座った。ここに座れといわんばかりに、前の椅子の背を軽くたたいてうながす。
「あたしは大丈夫だけど、周助、部活は?」
「いつも真面目だからね。少しくらい平気だよ」
「それのどこが真面目?」
 久しぶりすぎて、動きがぎこちなくならないだろうかと危惧していたのに、自然と笑みがこぼれたことに内心驚きながら、は不二がひいた椅子に座った。
「でも、今会えてちょうどよかった。ほんとはこれ、家まで渡しに行こうと思ってたんだ」
 不二が鞄をどけた机の上に、紙袋をどんと置く。不二との顔が、お互いに紙袋の影に隠れる。不二が紙袋から中の白い大きな箱を取り出した。
「なに、これ」
「チョコレートシフォンケーキ」
 いきなりホールのままやたらとでかいケーキを渡され、不二が思わず沈黙する。
「イギリス行きのお祝い。まだ言ってなかったし、それと、餞別のかわり」
「ありがとう」
 不二は状況に柔軟に対応できる質なのか、の差し出したお祝い兼餞別にとまどいも見せず、素直に受け取った。くすくすと笑い、箱をあけて中身のシフォンケーキを確かめる。
って昔からこうだよね。とつぜん、クッキーとかケーキとか渡してきてさ。テニスの試合で勝ったお祝いだとか、七夕のお祝いだとか」
「……そうだっけ?」
「そうだよ。久しぶりで、ちょっと新鮮だった」
 まだくすくすと笑う不二を、は面白くなさそうに見た。不二は唇に笑みを残したまま、シフォンケーキの箱のふたを閉めていった。
「イギリスでも試合に勝ってみせるからさ、またなにか作ってよ」
「イギリスまで? 送料がかかりすぎるから、無理です」
「送るんじゃなくて、がイギリスまでくればいい」
「それはもっと無理」
 即答したに、不二がふっと笑った。久々に間近で見た不二のやわらかい笑みに、ひきつけられる。
は、ヴィオラといっしょにイギリスに来るんだろ?」
「……え」
 やわらかい笑みに和みかけていた心が一気に固まる。しばらく考えては、ああ、そっか、とつぶやいた。
「あたしがイギリスの音高受けたの、先生に聞いたの?」
 不二が頷く。やわらかく、口元には笑みをたずさえて。
「……あれね、あたしダメだったんだ」
 無性に喉の奥が熱くなり、はそれを否定するかのように、あはっと笑った。
「やっぱりあたしの腕じゃね、無理だったみたい」
 互いの顔をかくしてくれる紙袋が無性に恋しくなりながら、は笑顔をとりつくろった。まっすぐにこっちを見ている不二と、ほんの少しも目を合わせることができない。
「世界は広いよね。不二はすごいよ、ほんとにイギリス行っちゃうんだもん」
だって、イギリスに行けるよ」
「だから、行けないんだって、あたしは」
 一言一言確かめるようにいうに、不二は首をかたむけてを覗きこんだ。どうしようもないと無理矢理視線を合わせて、いたずらっぽく笑ってみせる。
「知ってた? が今度受ける音高、実力がある希望者は、が受けたイギリスの音高への長期留学があるんだよ」
 先生にがどこを受けるのか教えてもらって調べてみたんだ、と不二が笑った。まっすぐな笑顔に、は笑顔で返せない。イギリスの音高を落ちてからもその前からも、自分が受験する学校のパンフレットを、何度読み返したことか。諦めのつかなくなった夢と、思い知らされた現実と、高い高い壁の存在を知る絶望。
「それは知ってるけど、でもあたしには」
「無理じゃない」
 不二がいい、が黙った。
「昔さ、僕が町内テニス大会の決勝で、二歳上の子と試合したことがあったの、覚えてない?」
 はこたえない。記憶の中をたぐりよせ、少しずつ、いつまでも時間が許す限り三人で遊んだ、幼かった小学生の頃を思い出していく。
「小さい頃ってさ、二歳上ってほんとに大きな差に思えたんだよね。それでさ、僕が無理だ、あんなこわそうな子とわざわざ試合したくないっていってたら、がお母さんといっしょにスコーンを作って持ってきたんだよね。で、中にはクリームもジャムもはさんでなくってさ。はさんであるのは紙が一枚。なにが書いてあったかっていうと、一言だけ」
 が、あ、と声をもらした。不二が微笑んで、言葉を続ける。
「『周助、無理じゃないよ』」
 幼い頃、弟やのためならこわいも嫌だもいわずに果敢に立ち向かっていた不二が、が驚くくらいにだだをこねた試合。は不二の試合の相手は知らなかったが、不二のテニスは知っていた。そして、相手が誰であろうと、不二のテニスで無理なことがあるわけない、と幼心に思ったのだ。それでも、いくら不二の姉や母が無理じゃない、頑張れと言葉をかけても嫌がる不二に、はひとつの方法を思いついた。が励ますのではなく、大好きなお菓子が励ましてくれれば。が母親といっしょに作っては、不二兄弟のところへ持っていき、いつも笑顔で食べていたお菓子が励ませば。そしてできたのが、クリームもジャムもないスコーンだった。
 記憶が鮮明すぎるほどによみがえり、は思わず目の前のケーキを抱え込んだ。
「やだ、あたしったらあれからなにも成長してない……」
 昨日作ったケーキに銀色の指輪を入れたことを、は今になって後悔した。やることなすこと、小学生の頃となにひとつ変わっていない。
「周助、ごめん、このケーキはなかったことにして。かわりに餞別としてこれあげるから」
 スカートのポケットに手をつっこみ、今日の音楽の授業中に録音したばかりのテープを取り出す。今どき安物のカセットテープで、しかもA面に一曲だけしか録音されておらず、タイトルは鉛筆で筆記体を殴り書き。プレゼントにふさわしくないということはも重々承知していたが、ケーキを渡すよりはいい、と心底思った。
「ね、お願い」
「だめ」
「だめって、あたしがあげないって決めたから、もうあげないの!」
「でも、その前にもう僕がもらったものだしね」
「じゃあそのケーキ、不二がひとりで全部食べるのが条件ね」
「いいよ」
「……はいうそ、そんなの無理」
 机の上の特大ケーキを見て、は平気な顔でイエスと答える不二に、ひとりで突っ込んだ。これ以上は問答無用とばかりに箱を奪い取ろうとしたより早く、不二が箱を持ち上げる。
「無理じゃないよ、
「無理」
「無理じゃない」
 まるで言葉遊びのように会話をつづりながら、は、箱を丁寧に紙袋に入れなおして立ち上がった不二を見上げた。不二は、見ているとうっかり和んでしまいそうな、やわらかい笑顔で笑っている。
「無理じゃないでしょ?」
「……うん、そうかも」
 根負けしてがそういうと、不二が笑った。嬉しそうに、笑みを深く刻んで笑う。
 片手には鞄を持ち、片手には紙袋を持ち、不二はドアの方を向いた。
「じゃあ、そろそろ行くよ。これ以上サボると怒られそうだ」
「もうとっくに怒られるくらいはサボってない?」
 の言葉に不二はくすっと笑い、それから気がついたように今まで座っていた椅子の背に手を置いた。
「そうだ、僕の席に座って窓から西がわを見てみなよ。いい風景が見えるから」
「西がわ?」
「そう」
 不二は深く笑って、椅子から手を離すと今度こそ向きをかえ、教室から出て行った。
 残されたは、不信そうな顔つきをしながらも座っていた椅子から立ち上がり、不二の椅子に手をかけた。触れた背もたれの部分に、まだ少し熱が残っていたことに妙にどぎまぎする。
 は椅子をひいてそっと腰を下ろすと、窓の外を見た。そして思わずつぶやいた。
「……西ってどっちよ」
 3-6の教室の窓からは外を見渡すと、庭のようになっている大きな通路を挟んで、向かい側の校舎が見えた。草がしいてある庭、少し視線を上にずらすと向かいの校舎の窓、その窓から見える廊下。
 はしばらく窓の向こうの廊下に目をこらしていたが、数分もすると観念して窓から目を離した。なんとはなしに不二の机に目を落として、脱力する。
 不二の机の上の左上には、方角をしるす記号が書かれていた。矢印の向いている方が北、反対側が南。矢印と直角に交差させる形でひかれている一本の線の右側が東で、反対側が西。
 はその記号をじっと見つめると、窓の外から西の方角をながめた。机に座ったまままっすぐに前の方を向いた形から、やや左側。
 そこには、折れ曲がった形でやはり校舎が連なっている。上から順になにがあるか確かめ、そしては小さく息を呑んだ。
 上から二番目、やはりいくつもの窓が見える、その中の一つ。そこには、がいつもヴィオラの練習室として使っている防音室があった。3-6からは折れ曲がって見える校舎の方の窓から見えるのは廊下ではなく、室内。不二の席から西がわを見ると、ちょうど防音室のようすが見えた。今は誰も室内にはおらず、目を細めてよく見れば、ヴィオラがケースにおさめられていないまま放置されていることさえ分かる。
 はゆっくりと息をついて、目を閉じた。無理じゃない、と言って笑う不二の顔がくっきりと浮かんでくる。幼い頃、無理じゃない、とスコーンを焼いたときの記憶までもがごっちゃになって、頭の中をらせん状にくるくると回り続ける。
「無理じゃない」
 はそっと言葉に出してつぶやき、そっと机の上に両腕を置いてうつ伏せた。そのまま微動だにせず、それでもときは刻々とすぎていく。
 空は放っておいても、時間がたつといつの間にか、紅から蒼へ、蒼から黒へと変わっていく。は机にうつ伏せたまま、空が黒へとかわりはてた頃にようやく、ずいぶんと時間が経過していることに気がついた。あと数分で警備のおじさんが教室へ巡回にくる時間であり、防音室の鍵を返さなくてはならない時間でもある。
 はぼうっと時計を見て、それから慌てて椅子を鳴らして立ち上がり、そして気づいた。指輪入りの特大ケーキを、不二にうまく持っていかれてしまったことに。
 あの安物のカセットテープが、いつの間にかなくなっていることに。


「できた!」
 は、ぴかぴかにみがきあげた小さな銀色の輪を、少し上へ持ち上げてかざした。それは蛍光灯の光をはじいて、きれいにきらきらと光る。
 のとなりで、周助も満足げに、自分の手の中におさまる小さな銀色の指輪をかざす。
 知り合いのおじさんが指輪作りの体験教室をやっているから、ひまだったら来てみないか、と誘われたのは偶然だった。ちょうど裕太が所属しているクラブのキャンプにでかけ、二人だけだとなんとなく暇を持て余しているさなか、と周助のもとへ届いたその誘いは魅力的だった。指輪に興味があるというよりも、なにかを作る、その過程が楽しい。
 小さな銀の棒を曲げてかたちを整えるところから始まり、削ったり、火をあてたり、やすりでみがいたりする。そのほとんどは体験教室を切り盛りしているおじさんが手をかして、やすりでみがくこと以外はほんとに形ばかりの真似事だったが、それでも二人は満足して、それぞれの指にあう指輪を作った。
「裏側にね、文字を彫ることができるんだよ」
 優しい笑みを浮かべた初老のおじさんは、小さな手でみがきあげた二つの指輪を受け取り、そういった。
「なにを彫ろうか」
 そうたずねたおじさんに、と周助はさんざん考えたあげく、自分たちの名前をローマ字で彫ってもらうことにした。が作った指輪には、周助が作った指輪にはSHUHSUKE、と。
 それぞれの字を指輪の裏側に機械で彫り、油をつけた布でみがき、光沢を出した指輪はきらきらと光る。自分たちで作った、世界でひとつの自分たちだけの指輪。幼い二人の指にぴたりとおさまったその指輪は、彼らが成長するにつれ、どの指にも入らなくなるであろうことは目に見えていた。
 だからつい、初老のおじさんは喜ぶ二人に微笑んでいったのだろう。
「その指輪はね、ちゃんと周助君ががんばってつくったものだから、ふしぎな力を持っているんだよ」
「ふしぎな力?」
「実はね、その指輪は、ひとつだけ、願い事を叶える力を持っているんだ。指輪をぎゅっとつかんでね、願い事を心の中でとなえるだけでいい。でも使えるのは一度だけだから、ほんとうに大切な願い事に使うんだよ」
 大きくなっても、もう入らなくなった指輪を持っていてくれるように。大切にしていてくれるように。幼い二人はその言葉を信じて目を輝かせ、大事そうに小さな指におさまっている指輪をなでた。
 体験教室からの帰り道、二人の話題は指輪のふしぎな力のことで持ちきりだった。
「願い事がひとつだけなんて、どうしよう。叶えてもらいたいこと、たくさんあるよ」
 興奮していうに、周助がそうだね、とこたえる。
「じゃあ、僕の願いごともの願いごとに使っていいよ」
「ええ、いいの? どうして?」
「だって、僕の一番の願いごとは、の願いごとが叶うことだから」
 ふわりと笑って自分の指輪を差し出す周助に、はびっくりしたように目を丸くし、そして嬉しそうに笑った。差し出されたSHUHSUKEの文字が刻まれている指輪を大事そうに受け取って、自分の指へはめて、幸せそうに笑む。
 それからは、の指輪を抜き取り、周助の手のひらの上に置いた。
もね、のお願いごとは周助の一番のお願いごとにする」
 周助は手のひらの上に置かれた指輪を見て、それをそっと握りしめた。
「ありがとう。大切にするね」
「うん。もこの指輪は宝物にするね」
 二人は幸せそうに微笑み、夕暮れの中、それぞれの家へ帰っていった。
 それからSHUHSUKEの指輪はの指に入らなくなると、銀色の細いチェーンに通されて、の首元できらめくようになった。


 翌日、が学校へ行く前に郵便受けを覗くと、端整な細い字で「へ」と書かれた白い封筒が入っていた。中身は軽く、ひっくり返してみると小さな銀色の輪が、の手のひらの中へ転がり落ちてきた。手紙のようなものはなく、ただ指輪だけが封筒の中には入っている。
 指輪の裏がわには、と刻まれていた。小さな銀の指輪は、年月がたっているのに手入れが行き届いているのだろう、日の光りに照らされて、きらきらと光っていた。
 月日が流れ、もう幼い少女ではなくなったは、この指輪はふしぎな力を持っているのでもなんでもない、ということを知っている。大切に持っていたSHUHSUKEの指輪も、なんの力もないただの銀の指輪なのだ、ということを知っている。
 でも、にはもうふしぎな力は必要ではなかった。そして、銀の指輪はふしぎな力を持っていなくても、の宝物であり続けるのだ。
 は銀のチェーンを首からはずすと、の指輪を通してから、もう一度つけなおした。
 願いは自分で叶えるのだ、人に叶えてもらうものではなく。イギリスに行くことは決して無理なことじゃない。それは、不二のお墨付きだ。
 は鞄とヴィオラケースを抱えなおすと、バス停までの道のりをかけだした。
 急がないと、バスに乗り遅れる。バス停には、偶然お互いの早朝練習の時間が重なったんだと告げる不二が、きっとやわらかな笑顔で立っているのだろう。

2006.02.15 執筆
てにゆめりんく Spring Dream Festival 参加作品
(2006/02/05〜05/31)