homecoming


 眼に入ってくる文字を流し読み、上から下、左から右へとざっと視線を動かしていく。テニスの上達法、初めてのテニス、テニスの始まり、テニスのルールを知ろう、云々。
 時折棚を移動し、同じ作業をもう数回は繰り返しているが、目的に適うようなものは見つからなかった。なにしろマンモス校故に、色んな学科があり、大学図書館に所蔵されている書物の量も半端ではない。大学にスポーツ学科があるせいで、スポーツに関するものも多量にあったが、おかげで目的の本を探すのはかなり苦労することになる。これだけ本があるのだから、きっとどこかにはあるのだろうが、それがどこにあるのかが分からない。いちいちパソコンがある場所へ戻って調べるのも面倒だし、司書に聞いて世間話しに付き合うのも気が進まない。
 卒論関連の提出物の期限はまだあるし今日はもういいか、と理由をつけて、越前は凝った肩をほぐすように、首を軽く左右に動かした。
 館内にはちらほらとしか人影が見えず、スポーツ関連の棚はまったくの無人と言っても過言ではない。このやたら広い館内では、たとえ百人いたとしても一箇所に固まっていない限り、まばらにしか見えないだろう。
 越前は肩にかついでいたテニスバックを持ちなおすと、棚の隙間から出て出口へと向かった。棚が置いてある場所と自習ができる場所は分けられており、本が置いてある方は多量な書物を置くために棚が敷き詰められていた。もし今棚が倒れてきたとしても、逃げる場所などどこにもないくらいに狭い。人二人が横にならんでぎりぎり立てる分くらいの隙間しかない。おまけにきちんと整列した棚の道は、周囲が開けるところに出るまで長々と続いていた。
 三年以上も通っていながら滅多に来ない図書館の、滅多にお目にかかれないだろう棚の並木道を歩きながら、越前は何度目かの溜め息をついた。館内に入って棚があるところまで来るのに一度、スポーツ関連の棚までたどり着くまでに二度、本を探しながら一度、そして並木道を戻りながらもう一度、疲れたような溜め息をつく。
 この圧迫した空間から早く外へ出ようと機械的に足を動かしながら、たまに感じる人の気配に狭苦しい棚の隙間に視線をやり、越前は急に足を止めた。
 どこも同じような棚の隙間の一角に、棚と向き合っている見知った顔の人物が居た。見知ったと言っても、二年以上も前に顔を見たのを最後に、一度も会話をしていない。会話をしていないどころか、顔を見ることもなかった。
 本と睨めっこをしている彼女は、高校時代から薄い色素をしていた髪を肩の辺りで切りそろえ、最後に見たときよりもほんの少し大人っぽく、そしてずっと綺麗になったと思わせるには十分な横顔を、ほとんど微動だにさせることなく、視線の先で本の背を追っていた。
 越前は彼女から視線を移し、彼女が見ている棚に貼ってあるラベルを見た。大学の数多くある学科のうちの一つ、食物栄養学科で学ぶ彼女がいかにも調べていそうな棚のラベルを確認して、再び彼女へと視線を戻す。
 彼女は顔を上の方にあげて棚に手を伸ばしかけ、ふとこちらを向いた。図書館には似つかわしくないジャージにキャップ、棚の隙間と隙間のあいだにいる越前の姿を見つけ、驚いたように眼を丸くする。
「……リョーマ」
 彼女が呟いた声は、静かな図書館にやけに大きく響いた。
 越前はキャップに手をやりつばを少しあげると、驚いた様子を見せる彼女と視線を合わせた。
「久しぶり」
 それほど大きくはない越前の声が、広い館内に拡散して棚の一角に広がる。彼女はあっけにとられた様子で数秒越前を凝視したあと、水の上に張っていた氷が溶けるように、嬉しそうに微笑んだ。
 手を伸ばそうとしていた棚の上方を見上げて、ほんの少し逡巡したあと、本は取らずに越前の方へ小走りで駆けてくる。
「本はもう良いわけ?」
 駆けてくる彼女に訊いた越前に、彼女はうん、と小さく肯いた。
「探してた本は見つからなかったし」
「そう」
 狭い棚と棚の隙間で出来ている通路の右側に越前が寄ると、彼女はその横に並んで歩き出した。片手に持っているファイルやプリントを、窮屈そうに抱えなおす。
「そのプリント、なに?」
「これは管理栄養士の国家試験対策用プリント」
 プリントの一束を反対の手で持って、ひらひら、と越前の前でして見せる。
「大学卒業したら受験資格がもらえるから、頑張って一発で受かるつもり」
「へえ。って、確か食栄だったよね」
「そうだよ」
 は嬉しそうに微笑むと、自分よりも頭一つ分は上に顔がある越前を見上げた。
「リョーマはいつ日本に帰ってきたの?」
「一昨日」
「うわ、相変わらずハードスケジュールだね」
 困ったような笑みを見せるに、越前はそうでもない、と答えた。季節を問わず世界各国各地で試合があるため、ほとんど休みもなくあちこちを飛び回ることが多いが、学生をしながらのプロ転向、出席日数や単位獲得のために、止むをえず辞退をした大会は数知れず。今回も、卒業論文の進行と溜まりに溜まったレポートを処理するために無理矢理とった休暇のおかげでの帰国だった。
「大変だね」
「別に。好きでやってることだし」
 たいしたことではない、と言うように答える越前に、は再度困ったような笑顔を見せる。
 狭い道をひたすら歩き、ようやく棚の並木道を脱出すると、今度は広い館内から外に出るまでの長い道のりが待っていた。階段までたどり着き、その階段を二つ降り、出入り口まで行かなければいけない。
「リョーマ」
 階段へと向かう途中、がぽつりと呟いた名前に、越前は視線をいささか下へ向けての顔を見た。
「なに」
 が顔をあげ、の顔を見る越前と視線があった。なにかを言いたげに口を開きかけ、動かそうとし、そしてなにも言わないままには口を閉じた。寂しげな笑みを見せて、越前から視線を逸らす。
「なんでもない」
 それきり前だけを見て口を開こうとしないに、越前も視線を逸らし、目の前の前に広がる階段に視線を移した。隣を歩くの歩調にあわせて一段一段降りながら、軽い既視感に襲われる。
 高校時代、テニス部のマネージャーだったが、数十個のテニスボールが入ったダンボールを数個抱えて、階段の前で立ち往生をしていたことがあった。偶然そこへ通りかかって、中身が自分も使うテニスボールだということもあり、半分以上を持ってやり並んで階段を降りたことがある。それだけではなく、学校の帰り道に駅の階段を並んで昇り降りしたし、立ち寄った店の階段を一緒に昇ったこともあった。
 館内の階段を降り切り、出口へと向かいながら越前はの方へ視線をやった。高校時代は背中まで届いていた長い髪は肩で切りそろえられ、昔は透明のリップだった唇には薄い紅が引かれ、最後に見たときはまだ幼さが残っていた顔は、越前が眼を離したくないと思うほど大人び、綺麗になっていた。
「リョーマ?」
 越前の視線に気付いたのか、が越前の方を向く。
 図書館を出ると、緑がたくさん植えられた小さな広場のような景色が辺り一面に広がった。いくつか適当にベンチが置かれ、学生が自由に昼食などがとれるようになっているが、天気が良すぎて光りが眩しいせいか、今はベンチに座る者は一人も居ない。
「ねえ、時間ある?」
 図書館を出て歩みを止め、問うた越前に、は戸惑ったように肯いた。
「わたしは平気だけど、でもリョーマは忙しいんじゃ」
「そこ、座ろう」
 の言葉を遮って適当な位置にあるベンチに向かう越前に、も慌ててあとを追った。
 燦々と照っている陽を、一面に敷かれている芝の緑が反射して眩しく感じられる。は越前を追って隣に腰掛けると、なんとはなしに笑みをこぼして眼を細めた。
「あのさ、
「うん」
「最後に会ったときの返事、まだ聞いてない」
 眼を細め、気持ち良さそうに空を見上げようとしていたが動きを止めた。ゆっくりと越前の方を見ると、こちらを見ていた越前と視線が絡む。
 は視線を逸らし、顔を隠すように頭をわずかに下げた。
「二年以上も前の話しだよ」
「覚えてないわけ?」
「そんな、忘れてない!」
 思わず顔をあげてしまい、嬉しそうな顔をした越前の表情が眼に入る。は条件反射のように顔を逸らした。太陽の光りのせいなのかそうでないのか、頬が熱い。
「リョーマ、返事を言うチャンスもくれないまま外国に行っちゃうし」
「あれは予定してなかった大会が急に入って」
「電話番号やアドレスも変わって、連絡とれなかったし」
だって変えたじゃん、変更したアドレス送ろうとしても届かなかった」
「だってあの頃は変なメールが多くて、変えざるを得なかったんだもん」
「俺だって変えたのは似たような理由」
 真っ当な返事を返され、がぐっと言葉に詰まる。視線のやり場がなくて、緑が眼に眩しい芝をじっと見つめる。痛いほどにこちらを見ていた越前が、ふっと視線を逸らしたのが分かった。
「俺さ、今、専属の管理栄養士がいないんだよね」
 なにかを含む物言いをする越前に、は黙り込んだ。そっと顔をあげると、笑んでこっちを見ている越前と眼があった。
「資格とったら、がなってくれない?」
「……無理!」
「なんで」
「国家試験に受かるまでどれだけ時間かかるか分からないじゃない、そんなの」
「一発で通るって言ったじゃん」
「そうだけど、でも」
「通るよ、なら」
 自信ありげに言い切る越前に、は口を閉ざした。視線を逸らし一呼吸置いてから、こそっと越前と視線を合わせる。
「なんで分かるの」
「高校の時からずっとのこと、見てきたから」
 マネージャーとして色んな仕事を精一杯やっていた姿は、部の誰もがを認めざるを得なかった。洗濯や記録など基本的な仕事の他にも、乾汁をもっと健康的な飲み物にしようと奮闘したり、栄養満点健康弁当と称して部員全員分の盛大な手作り弁当を作ってきたり、部活で疲れた部員の寄り道が頻繁になると「ジャンク・フードばっかり食べないで!」と口うるさく言われたこともあった。その代わりに、自分がなにかもっと美味しいものを作ってくるから、と。もちろん成長期真っ盛りの部員たちはの差し入れを綺麗すっかり平らげた上で、ファスト・フードに通ったりもした。
 なんにでも一生懸命で、同じように一生懸命のかたまりだった部員たちと、はずっと一緒だった。

 もう光りのせいだとか言い訳ができないくらいに頬を染めたに、越前は言った。二年以上も前に途切れた会話を、胸の奥から浮き上がらせる。
「俺はずっとが好きだよ」
 返事をもらえなかった質問を、今ここで返事をもらうために、再度告げる。滅多にできない帰国をしたときに偶然会った食栄科の人から聞いたのことも、高校のときからの想いも、との沢山の思い出も、なにもかもがたった一人の人を忘れさせてはくれなかった。もう待ちすぎるほどに待った。
は?」
 越前の言葉に、の肩がわずかに震える。陽の光りが強く照り、辺りの芝が眩しいくらいに反射する。辺りに人は誰も通らず、飛行機の音や鳥の羽音、風のさえずりだけがやわらかに聞こえる。
 なにもがしんと静まりかえったような静寂の中に、の声は綺麗に響いた。
「……好き」
 風が鳴る。雀のような鳥が鳴く。太陽の光りが燦々と照り、その光が映し出す二つの影が、彼ら以外に誰もいない光り輝く芝の上で、そっと重なった。

20050203 執筆
未来三部作 越前編