はちみつベイベ
「はいはい、皆さん注目!」
いつもの練習後のミーティングが終わって、解散、といった手塚部長の声に続いて、あたしはみんなが行ってしまわないうちに声をはりあげた。
となりでは乾先輩が小さなカップを積んだトレーの、あたしが持ちきれない分を持って立ってくれている。
青学男子テニス部の部員は、金色に輝く液体が入ったカップを持ったあたしたちをみて、あからさまにうげっという顔をした。不二先輩だけがにこにこと笑っている。
あたしはみんなの注目が集まったのを確かめて、乾先輩をみあげた。乾先輩が、うん、と一度うなずくのを確かめてから、みんなの方に向きなおる。
「今日から皆さんには、練習後、あたしが考案したこれを飲んでもらいます!」
これ、といいながら、あたしはトレーからカップを一つ取ってみんなに見えるように持ち上げる。一番近くにいた桃城が、なぜか一歩あとずさる。
「じゃあまず試飲ね、はい桃城」
「なんでオレなんだよ!」
嫌がる桃城に乾先輩がふふふと不敵に笑いながら一歩一歩、近づいていく。その動きとぴったりシンクロして一歩ずつ下がっていく桃城。その両脇を、いつの間に近づいたのか、不二先輩と菊丸先輩ががしっとつかんだ。
「観念しなよ、桃」
「そうそう、たぶんおいしいよ、きっと」
「なんスかそれは!」
悲鳴をあげかねない桃城に、乾先輩がカップを一つ取って、ずずいと差し出す。
「これも強くなるためだ」
「イヤっスよ、オレは!」
必死に首をそらしている桃城に、あたしは乾先輩のとこまで近寄って、差し出されていたカップを桃城のかわりに受け取った。
「はいはい、飲む飲む」
「やめろー!」
カップの中身を強引に桃城の口の中に流し込む。とたんに、地獄の鬼を見ているような顔をしていた桃城が、お、と平気そうな表情で数回まばたきをした。
そらしていた首を元に戻して、あたしの手からカップを受け取る。鼻を近づけて匂いをうかがってから、残りを自主的に口に入れた。
「も、桃が普通に飲んでるぞ」
あっというまにミニカップを空にしてしまった桃城を見て、大石先輩が驚いたようにいった。それもそのはず、あたしは別に毒なんか入れてない。
「おいしいでしょ、桃城」
「……ああ」
あまりに素直な桃城に、あたしは満足して笑ってしまう。横を見たら、相変わらず乾先輩も不敵にふふふと笑っていた。
「それ、なんスか?」
他の部員といっしょに逃げ腰だった越前が、気を取り直したのか、奇妙そうな顔をして聞いてきた。
「これ? これはね」
あたしは得意になって越前にもカップを渡していった。しゃべりはじめる前に、空気を思いっきり吸い込んで吐き出して、一度深呼吸。そしてしゃべる。
「アルカリ食品で、砂糖と比べて甘さは約二倍、なのにカロリーは砂糖より少なめで、主成分がブドウ糖と果糖だから吸収するのに身体に負担を与えなくて、十種類のビタミンと十二種類のミネラル、そして酵素まで含んでいるから、疲労回復作用、脳の活性化作用などの効果があるすぐれものの食品を、水でうすめたもの」
あたしは押し売りのサラリーマン宜しくどとうのごとく解説した。たとえ越前が、一度で全部理解できなくても、そのすごさが伝わればそれで、あたしとしては満足だ。
「つまり」
納得いかない顔をしている越前をはじめとする部員たちに、乾先輩がメガネをぐいと人差し指であげて、補足説明をした。
「一言でいうと、純粋ハチミツだ」
「ハ、ハチミツ……」
桃城ががっくりしたように肩を落とす。ひざに両手をついて、はあ、とため息をついた。
「驚かさないでくださいよ、乾先輩」
「勝手に驚いたのは桃城でしょ。乾先輩はなにも悪くないの」
あたしがつっこむと、桃城は顔をあげて、じっとこっちを見た。でも乾先輩が頭をぽんぽんとなでてくれたから、気にしない。あたしはマネージャーとして、乾先輩を尊敬している。すごく。ものすごく。
「はい、皆さんも飲んでね」
あたしはなにか言いたげな桃城を無視して、他の部員にもカップを配り始めた。乾先輩もトレーを持って近くにいる選手にカップを渡していく。
「でも、毎日ハチミツっていうのはちょっときついね」
滅多に食べ物に関しては文句をいわない不二先輩が、空になったカップを空にすかして、カップを配り終えて空カップの回収用になっているトレーの上に置いた。
「毎日じゃないですよ、不二先輩」
部員の中じゃ背が高い方ではないけど、あたしより随分と背が高い不二先輩を見上げていう。
「今日みたいに練習メニューがハードな日だけ、疲労回復のためにいいかな思って、乾先輩と決めたんです」
「ああ、そうなんだ。助かったな」
にっこりと笑って、不二先輩があたしの頭をぽんとなでる。それから、菊丸先輩といっしょにラケットを持ってテニスコートへ戻っていった。ハードな部活が終わっても自主練をするなんて、やっぱりちょっと自慢の先輩方だ。
「なに、にやついてんの」
嬉しくなって気分よく空のカップを受け取っていたら、越前が腕を伸ばしてトレーの上にカップを置いた。不二先輩とかのときとは違って、越前は見上げなくてもいいし、身長差がほとんどないから、頭をぽんとなでられたこともない。後輩にそうされるっていうのも、変だけど。
「越前、ちゃんと牛乳飲んでる?」
「飲んでるよ。なんで」
「だって、目線の高さが、前と変わってない」
あたしがいうと、越前はむっとしたように目つきをにらませた。あたしも思わず対抗する。
「いーい、越前。背が低かったら、スピンサーブをやったって効果が発揮できなくて意味がないし、今はまだいいだろうけど、実力の差が小さいプロの世界だったら、サーブ・アンド・ボレーだって身長低い方が不利なんだからね」
「それ、乾先輩の受け売り」
「いいの、間違ってないもん」
あたしがいうと、越前はふい、と横を向いた。
「無理やり背を伸ばすより、背が低いうちは背が低いなりに、自分にあったプレイスタイルを確立させる方がいいんじゃない、マネージャーさん」
「……でも、身長が低いっていうデメリットのせいで越前が負けたら悔しい」
越前に聞こえるようにいったつもりじゃなかったのに、そりゃどーも、と越前がこたえたのが聞こえた。
「ま、俺も身長ほしくて牛乳飲んでるけど。あと一年もしたらなにもしなくても伸びるようになるよ」
口元には笑みまで浮かべて余裕でいう越前は、視線だけちらっとこっちに向けた。同じ高さで目が合う。
「それより、先輩の方こそ牛乳飲んだ方がいいんじゃないの?」
「なんでよ」
あたしがいうと、越前がぐっと顔を近づけてきた。すごく自然に耳元まで唇を寄せられて、避ける間もない。
越前は笑いを含んだ声で、あたしにしか聞こえないくらい小さな声でいった。
「牛乳って、乳腺を育てるんだって」
ぱっと顔を離してにやっと笑う。
「先輩には必要なんじゃない?」
片手に持っていたラケットで、近くに転がっていたテニスボールをひょいと拾い上げて、越前がテニスコートへと戻っていく。
それを見送って、越前の言葉を頭の中で反すうさせて、ようやくあたしは我にかえった。
「バカ越前! マセガキ!」
思わず叫んだあたしの声に、部員が何事かと振り返る。
テニスコートに向かっていた越前がくるっと振り向いて、面白そうに眉と唇を少し上にあげた。あまり大きくない声でいった越前の言葉が、なぜだかうまく風に乗って聞こえてくる。
「You still have lots more to wark on, honey baby」
「なっ」
「そんなに俺のことが心配なら、俺のことだけ見ときなよね、ハチミツベイビー」
捨て台詞なんだか殺し文句なんだか、よくわからない台詞をいって、テニスコートに入った越前の言葉に、なんでだか一気に顔が熱くなる。
越前は、反対側のコートにいた海堂と二言三言話しをして、コートのベースラインまで下がった。サーブの構えをして、ボールを高くあげた越前に向かって、叫ぶ。
「じゃあ、そうする!」
越前がめずらしく、サーブミスをした。