赤い振袖に墨を付けろ


 桃色の長襦袢に、色鮮やかな赤い振袖。金で刺繍がほどこしてある帯締めに、オレンジ色の帯揚げが胸元で映える。帯は落ち着いた金に、上品に色を落とされた様々な色が散りばめられた花模様が描かれていて、ふくら雀に結ばれている。
 は一人で着付けを終えると、鏡の前で前を見たり後ろを見たりして、乱れがないかを確認した。襟元良し、裾の丈良し、帯の形、良し。
、終わった?」
「うん、良いよ」
 コンコン、とノックの音がすると同時にドアが開いて、控え室として使われている家庭科室にが顔を出した。が着ている、目が覚めるほど鮮やかな水色の振袖が、白い壁と銀の流し場があるだけの平凡な家庭科室を彩る。
「わあ、すごい! キレイ!」
 はドアを閉めるとに近寄り、パチパチと両手を叩いた。照れたように笑ったが、なにかに気付いたように、ほんの少し腰をかがめる。
、着物の前がしわになっちゃってるよ。整えるからじっとして」
「あ、ありがと」
 の腰の辺りに手をあて、着物をぐっと帯へ押し込めて乱れを整える。の手付きを、はため息をついてじっと見た。
ってほんとすごいね。こんなややこしい着物、一人で着付けちゃうんだもん」
「ずっとやってれば、も出来るようになるよ」
 はい出来た、と言ってはパンっとの帯の辺りを軽く叩いた。乱れかけていた水色の着物が、立派に整えられて、自慢げに色を放っている。
、入るよー?」
 ドアの外から声が聞こえ、草履を探しているに代わってが答える。
「どうぞー、入って」
 が返事をし終えるのを待って、廊下から、落ち着いた黄緑色の振袖を着た香苗が入って来た。
、あたしもうダメ。暑くて倒れそう」
 扇子をぱたぱたと仰ぎながら、香苗が家庭科室の椅子に座り込んだ。胸元から腰にかけてを思いきり締め付けられているうえ、肌襦袢、長襦袢に振袖、タオルや帯までつめこまれた格好の振袖姿は、着ているだけでも相当な体力を消耗する一品だ。
「お疲れさま。そこのアクエリアス飲んで良いよ」
 指でそこ、と指すに代わって、がアクエリアスのペットボトルを香苗に渡してやる。
「ありがと、これでやっと生き返る」
「香苗は、後はもうお習字だけだよね。しんどいんなら浴衣に着替えなよ」
「うん、もちろん、そうする」
 ペットボトルの五分の一を一気に空にして、香苗はさっそく帯締めを解き始めた。着付けこそ慣れないうちは一人ですることは難しいが、脱ぐのは数分で、誰にでも簡単にできる。
「あーあ、せっかくのの着付けが」
「ごめんねー、。でももう充分!」
「はいはい、お疲れ。浴衣の着付けだったら、確か沙耶ができるよね」
「うん、沙耶と、あともできるよね。手伝ってね、さま」
「着物を脱いだらねー」
 ほほほ、とわざとらしく袖を口元にあてて笑うに、香苗が頬を膨らませて見せる。
「じゃ、そろそろあたしも呼び込み行ってくるね」
「うん、頑張ってお客さん集めて来て!」
「日射病に気をつけてねー」
 香苗から扇子を受け取り、は慣れた感じで歩いて、家庭科室の外へ出た。
 右手に持つ扇子の表は、銀箔が散らしてある紙でできていて、堂々とした黒い墨の文字で「書道部」と書かれていた。


 いつもは広すぎるくらいの青春学園中高等部の敷地は、今日に限って狭いと感じるくらいに、出店やステージで埋め尽くされていた。
 かろうじてできている細い隙間を、は扇子を広げてあおぎながら、どこというあてもなく練り歩いていく。
 振袖、しかも華やかな赤い色のそれは、必ずといって良いほど周りにいる人だかりの目を惹いた。しかも着物が良く似合っており、うまく着こなして慣れた様子で歩いているなら、その反応は尚更だ。
 何気なく辺りを見て、目が合えばにっこり笑って、言うことは決まっている。
「書道部は中等部校舎二階、書道室でお店を出してます! 好きな言葉、あなたをぱっと見て思い浮かんだ言葉、その他なんでも書いてお渡しします!」
 学園祭で振袖を着て客引きをしよう、というアイディアは、なんとなく部員の間から出たものだった。実際に墨を扱うときはさすがに振袖は危険だろう、ということで、浴衣各種も各々持ち寄って取り揃え、客引きをする時だけ、振袖を着て練り歩く。
「浴衣はどっか別のとこも着るかもしれないけどさ、他に振袖なんか着る部活もクラスもないだろうし、絶対目立つよ!」
 普段からアンティーク物好きのの一押しで決定され、そのアイディアは現在実行するに至っていた。
 しかし、九月とは言ってもまだまだ暑い。しかも校舎の涼しい場所にいる訳ではなく、校舎外の炎天下の中をひたすら歩き回るのだから、普段着物に慣れていない香苗のへばりようも納得だった。
「書道部は中等部校舎二階、書道室です!」
 うわあ、という振袖に対する羨ましげな声をあげた青学女子生徒と目が合って、はにっこりと笑ってお決まりの文句を言う。そのまま視線を横にずらし、思いがけない相手と視線が絡んだ。
「お、じゃん!」
 と目が合った相手の隣で、タイヤキを焼いていた桃城が片手をあげて大きく手を振る。なぜか、白地に青と赤のラインが肩の辺りに入った、レギュラージャージに似た法被を着ていた。
 桃城のあまりに似つかわしい格好に、は思わずふわりと笑った。お団子にした髪につけた簪が小さく揺れる。
「桃ちゃん先輩、タイヤキ焼くの、さまになってますね!」
 高等部男子テニス部の出店の近くまで寄り、は鉄板をのぞいた。おいしそうに焦げ目がついたタイヤキが数個、並べられている。
「だろ?」
 得意げに腕を組んで、桃城が自慢げに自作のタイヤキを眺める。そのままに視線を移して、見ているだけで元気になれそうな笑顔で笑った。
も着物姿、すっごい似合ってんな」
「やだなー、そうですか?」
「うんうん、見違えたって。な、越前もそう思うだろ?」
 桃城が隣で突っ立っているリョーマに話題を振る。つられてもリョーマを見ると、最初に目が合ってからずっとこっちを見ていたのか、簡単に目が合ってしまった。
「良いんじゃない」
「……あ、ありがとう」
 いつまでたってもこっちを見ているリョーマに、の方が気恥ずかしくなって目をそらしてしまう。
「そうだ、今、書道室でお店やってるんですよ! あたしがいる時だったらおまけするから、時間できたら来てくださいね」
 扇子をぴっと開いて見せるに、桃城がおう! と請け負った。
「テニス部のタイヤキ……は、今あっても邪魔だよな。んじゃあ、後でコイツに部室まで持ってかせてやるよ」
 リョーマの頭をぐりぐりとなでまわして桃城が笑う。嫌がるリョーマを見ては笑い、手を振ってその場を後にした。
 その直後、の振袖姿に押されて一歩離れた場所にいた女子生徒達が、今こそと一気にタイヤキの出店の周りに押し寄せているのを尻目に見て、は一つ、こっそりとため息をついた。


 客引きが終わり、一息ついてから再び家庭科室で紺色の浴衣に着替えると、は書道室へ向かった。時刻は四時過ぎ、学園祭の一般公開が五時までで、客足もピークの昼間に比べると大分減っていた。
「あ、
 浴衣姿で書道室のドアの前に立っている香苗が、を見つけて手を振る。
「今、お客さんは中に二人。それが終わったらと交代してやってよ」
「うん、オッケー。香苗はようやく、部活から解放されるね」
「そうそう、ほんとにね」
 うんうん、と深くうなずく香苗に、がくすくすと笑う。
もお疲れさま。部員全員の着付けやったんだもんね、疲れたでしょ」
「うん、まあ、そうかも。いろんな着物見れて、それなりに楽しかったけど」
「そう?」
 浴衣が着崩れない程度にうーんと伸びをして、首を左右に動かすの顔を香苗が覗き込む。
「で、少しは越前君とは会えたの?」
 の動きがぴたりと止まった。数秒の間を置いて、再びストレッチをしようと腕の筋肉が動き出す。
 香苗がにやりと笑った。
「会えたんだー、振袖見てもらえた? なんて? 可愛いって?」
「……そんなこと、リョーマが言うと思う?」
「……だよねえ」
 香苗がふっと息をつき、それでも頬を染めたままのの様子に、再びにまりと頬に笑みをこぼす。
「でもなんかあったんだ?」
「べっ、別に」
「嘘をついてもダメですよさん。さっさと白状しちゃいな」
「あ、ほら、そろそろお客さん出てくる頃かも」
「ちょっと、逃げても」
 言いかけた香苗をさえぎるように、ガラガラと音を立てて書道室のドアが開いた。中から男女のカップルが、それぞれの手に、画用紙に挟んだ半紙を持って部屋から出てくる。
「ありがとうございました」
 慌てて頭を下げる香苗に、も続いて礼をする。
 そのまま、また根掘り葉掘り聞かれては大変とばかりに、おじぎもそこそこには部室の中へ入った。
「あ、お疲れ、
 両手をいっぱいに広げて伸びをしていたが、を見て、疲れた顔でへらっと笑った。
「おかげさまで、腕が筋肉痛になりそうなほど、書道部大繁盛だよ。やっぱ振袖が良かったのかな」
もお疲れ。あとはドアの前で座るなり立つなりするだけだね」
「そうなんだよね、このうえまだ仕事が……部員の少なさが身にしみるね」
「あと三人いたら、ずっと楽なのにねえ」
 はあ、と二人してため息をもらす。そのひと時の休息を邪魔するかのように、香苗がドアのところから顔を出した。
、早く来て来て! あたしこれから、テニス部のタイヤキ買いに行かないといけないんだから!」
「はーい、行ってらっしゃい」
 が立ち上がって手を振る。香苗は手を振り返すのもそこそこに、小走りで廊下を駆けていった。いくらこのピークを過ぎた時間帯でも、テニス部のタイヤキを香苗が手に入れることができるのは、一体何十分後になるのだろうか。
「じゃ、、お習字よろしくね」
も客引き頑張ってね」
「もう引くほどお客さんいないけどねー」
 部室を出て、ドアを閉める香苗を見送って、が座っていた席についた。事前に準備しておいた自分の筆を、十分に磨ってある墨にひたす。
 書道室の壁には、今までに書道部部員が書いた作品がいくつか展示してあった。中にはコンクールに出品し、大賞や佳作をもらっているものもある。
 は暇つぶしに、と草書体の一覧が載っている本を開き、細筆を持った。一見しただけでは、なんという字か分からないほどに崩された漢字を、見よう見真似で半紙の上につづっていく。
 半紙を四、五枚ほど使い終えた頃、古い書道室のドアがガラガラと開く音が聞こえ、は顔をあげた。
「いらっしゃいま」
 せ、は口の中で消えるようになる。書道室に入ってきた人影に、は慌てて細筆を置き、適当に書き付けていただけの半紙を折りたたんで片付けた。お客さんを一人放り込んで、再び書道室のドアを閉めるから、の方へ面白そうにウインクが一つ飛ぶ。
「リョーマ」
「なんだ、もう振袖脱いだんだ」
 書道室へ入ってきたリョーマは、が座る机の真向かいの椅子を引き、当然のようにそこに座った。
「リョーマも、もう法被脱いじゃったんだね」
「あんなの、出店当番でもやってるときじゃないと、好きこのんで着る訳ないじゃん」
「そう? いつもと違う感じで」
 ふとリョーマと視線が合い、は言葉を止めた。勝ち気にリョーマがにやりと笑う。
「惚れなおした?」
「ばっ」
 思わず赤面しそうになるのをごまかすように、は慌しく動いた。銀色の文鎮を隅においやり、新しい真っ白な半紙を置く。紺に映える、赤い花模様が描かれた袂が揺れる。
「それで、何を書いて欲しい?」
 筆を握り、気を取り直してが聞くと、リョーマは一瞬眉をひそめ、それからああ、と呟いた。数秒の間考えて、言う。
「じゃ、俺の名前」
「名前ー?」
 不審そうにリョーマをじっと見るに、リョーマが堂々とを見つめて言い返す。
「なんでも好きなの、書いてくれるんじゃなかったっけ?」
 がぐっとつまった。早くしてよ、と言うリョーマをまだ不審気に見ながらも、墨を筆に吸い込ませる。
 リョーマがじっと見てくる手元が、いつも以上に緊張しているのを感じながら、は半紙に筆を押し付けた。走繞から書き始め、右横にバランス良く来るように戉、その下にゆっくりと前の字を書き付ける。
の名前もね」
 越前の字の下に、リョーマ、とつづり終わったのを見計らって、それまで黙っての手元を見ていたリョーマが口を出した。
「あたしの名前?」
「半紙の左端に、細筆で、書道の授業の時に書くようなやつ」
 リョーマが意味していることが分かり、は深く考えず、小さく相槌を打って細筆に持ち替えた。越前リョーマ、の隣に小さく、、と書き添える。
「よし、これで終わり」
 筆を置き、書きあがった半紙を改めて見て、は思わず両腕を前に投げ出して、半紙を隠してしまいたい衝動にかられた。自分で書いて置きながら、越前リョーマに、という文字の組み合わせが恥ずかしいことこのうえない。
「それ、俺がもらえるんだったよね」
 今にもつっぷしそうな様子のの上から、リョーマの勝ち誇ったような声が降ってくる。
 はもう見たくないとでも言うかのように、画用紙を取り出して、書き上げたばかりの半紙を挟んだ。
「……これほんとに欲しいの?」
「当たり前じゃん」
 おそるおそる、と言ったように確認を取るに、リョーマがさも当然という風に言い放つ。は観念してリョーマに画用紙を渡した。どうか他人に見せないで欲しいと思うの心の声は、リョーマには届いているのかいないのか。
 リョーマは満足気に画用紙を受け取ると、腕時計をちらっと見て言った。
は、終わりまでここにいる訳?」
「え、うん、そうだよ」
「それじゃ、しょうがないよね」
 一人で納得しているリョーマに、がぐっと眉根を寄せた。
「何、なんかあったの?」
「別に」
「その顔は別にって顔じゃない」
「……別に、桃先輩にタイヤキはあったかい方がうまいから、やっぱりを探して連れて来いって言われただけ」
「……」
 ひょうひょうと言いつつも、さっぱりその気がないリョーマの態度に、は目を丸くしてから脱力したように笑った。
「それは、仕方ないね」
「ま、桃先輩のことだから、出店当番が終わったら、自分で持ってここまで来るだろうけどね」
「ほんと? 楽しみ」
 両手をぽんっと合わせてほくほく顔になるに、リョーマがむっとした顔をする。
「そういえば、なんで浴衣着てんの? どうして振袖じゃない訳?」
「え、だって、墨が付いて汚れたら嫌だし」
 言いながら、硯から守るように浴衣の袂を引き寄せるに、リョーマがふうんと呟く。
「じゃあ、脱ぐ前に俺が、墨を付けておくべきだったね」
「は?」
「そしたら汚れを気にせずに、は今も振袖着てたんじゃない?」
「むしろ、汚れを見つけたとたんに脱いでると思うけど」
「ほんとは、俺がの振袖を脱がせるつもりだったのにさ」
「はあ!?」
 突拍子もないことをいけしゃあしゃあと言うリョーマに、が目を白黒させて思わず椅子をガタンと鳴らした。一歩後ろに後ずさったに、リョーマが面白くなさそうな顔をする。
「ま、数年後には俺が、が二度と振袖を着られないようにするけど」
 机に頬杖をついて気障に笑うリョーマに、がなんとなく身を引きながら言う。
「ちょっと、それどういう意味?」
「分かんないの?」
「分かりません!」
 語気を荒くしていうに、リョーマが手を伸ばしてにやりと笑う。
「良く考えなよ、俺より日本の風習を知ってるサン?」
 伸ばしたリョーマの手の指先が、の頭の簪を、髪を、頬を伝う。その指先が更に横へ進み、華奢なの首元に触れると、リョーマはぐっと引き寄せた。顔が、唇が、近い。
 が目を閉じようとした瞬間、大きな音が鳴ってドアが開いた。
「おーい、いるかー?」
 桃城の大きく元気な声が、狭い書道室の中で良く響く。
 ほかほかのタイヤキを手に、きっと喜ばれるだろうと急いで持ってきた桃城は、なぜか真っ赤な顔をしたにそっぽを向かれ、リョーマには、親の敵を見るかのように睨まれることになった。
「あ? どうしたんだよ、おい、越前」
 鈍感に言う桃城に、ドアの外で桃城の進入を止められなかったが、はあっとため息を一つもらした。

2006.05.06 執筆