失恋で泣き叫ぶようなオンナには
私は絶対なりたくないの


 まぶしいほどに空が青かった。しのび込んだ屋上のコンクリートは、やけどするんじゃないかと思うくらいに熱くて、学校には上靴をはく制度があって本当によかったな、と初めて思った。
 屋上の上で、唯一人が生存できる場所には、先客がいた。すなわち屋上の入り口の高さで地面が影になっている部分だけど、わざわざそこまで行かなくても今いる場所から十分に、いかにもお昼寝してますという足が四本も見える。
 黒い制服のズボンと白いソックスがそれぞれ二本ずつ。彼らにしてみれば、授業もたけなわなこんな時間に屋上まで来たあたしはお邪魔虫もいいとこだろう。でもあたしにしてみれば、彼らの方こそ邪魔で邪魔で仕方がない。ようは主観の問題だ。
 屋上という場所は便利だ。とくにこの学校の屋上は、崇拝してもいいくらいにいい場所だと思う。第一に、鍵を持ってなくてもうまくやればしのび込める。どうするかというと、古典的手法を使うのだ、もちろん。すなわちアメピン。第二に、下から見えにくい。落ちないように厳重な柵がはりめぐらされた結果、運動場からも見えにくい。柵がある欠点は飛び降り自殺がしにくいことくらいで、それはあたしにとってはどうでもいい。第三に、しのび込める人間は限られている。あたしのようにアメピンを使う生徒もいれば、ちゃちな鍵なもんだから、こっそり合鍵を作って鍵を開ける生徒もいる。屋上には、誰でもしのび込めるといえばそうだし、しのび込めないといってもそうだ。あたしはしのび込める方だから、しのび込める人間にとってみれば、他にしのび込める人は少なければ少ないほどいい。だからあたしは、時々合鍵の忘れ物を発見したら、焼却炉の中に放り込んで処分するようにしている。
 屋上にはずいぶんといろんな思い出がある。あたしの学校生活の主なイベントの四分の一は屋上で起こったといってもいいかもしれない。天然仕立てで日焼けしようと思って、真夏の屋上でねそべって焼いてみた。これが中々うまくいった。でもやりすぎには注意が必要だったということは教訓の一つ。それから、他人の告白を数回聞いた。自分は絶対屋上では告白しないと思った。友達と忍び込んで花火をやった。見つからなかったけどかなり危なかった。打ち上げ花火もする予定だったけど、それは一応卒業してから実行することにしようと思った。あと、屋上で一度だけ告白された。自分からはしないと思ってたけど、されてしまった。不意打ちで。そしてされたときと同じくらい不意に、ふられた。いわゆる失恋。
 屋上は、いろんな楽しいことやそうでないことの象徴でもある。あたしにとっては。
 屋上からでて扉を閉めると、それだけで灼熱から解放された気分になった。砂しかない砂漠から栄えてる町ガンダーラへ、みたいな。ガンダーラがどんなとこだかは知らないけど。
 今さら教室に戻ろうという気も起こるわけなくて、あたしは最近みつけた第二の穴場へ行くことにした。誰も知らないであろう場所。いや、知っててもきっとあたしくらししか入れない。なにしろアメピンで鍵開けを初めて早一年と数ヶ月も経っているあたしが開けるのに苦労した場所なのだ。合鍵も作りにくい鍵だし、中にあった書籍だとか訳の分からない変なのに、まんべんなくほこりが被ってたところも評価できる。
 どこかというと、音楽室の中の物置き場みたいなとこだ。音楽室が使われていると入れないし、うっかりそこに入ったまま音楽の授業が始まってしまうと出られない辺鄙な場所。でも、その不便さを我慢すれば、屋上のように人は来ないし、中々にすてきだ。
 今日も音楽室はからっぽだった。そうそうひんぱんに音楽の授業なんてあるものじゃないと思っていたけど、物置部屋を見つけてからは、そうでもないんだということを知った。暇だったから物置の中で計算してみたのだ、この前。すなわち、こうなる。音楽はどのクラスも週に一度、一時間のみ。基本的には一日が六時間の時間割で成り立っている訳だから、六かける五日で三十時間。クラスは一学年十二クラスで音楽は二クラス合同だから、かける三学年わる二で、十八時間。つまりは音楽の授業にあたるかあたらないかは、確立約五十パーセント。これはあまりいい数字じゃない。だからやっぱり一番いい場所は物置なんかじゃなくて、屋上なんだろう。
 誰もいない音楽室の真ん中をゆうゆうとつっきって、物置のドアノブをガチャガチャとやってみる。鍵は閉まっている。物置の鍵は屋上の鍵のように古くてボロい南京錠じゃなくて、円筒錠の鍵だから、ドアノブを回してみないと開いているのか閉まっているのかが分からない。たいてい、あたしが使用した後は抜かりなく鍵をかけているから、閉まっていて当然といえば当然だ。
 胸ポケットからヘアピンを一本取り出して、さっそく鍵穴に差し込んで回す。髪の毛から一本カッコよく外して開ければ映画みたいに雰囲気もでるんだろうけど、伸ばしてダメにするヘアピンは一本で十分だし、へたにヘアピンを取ってせっかくまとめた髪をぐちゃぐちゃにはしたくないから、そういうことはしない。伸びきっていらないようなヘアピンをポケットから取り出したところで、どうせ誰も見てないし。
 物置にくるのは実に四度目で、今ではもう、鍵もまるであたしになついたかのように簡単に開くようになった。鍵が開く、カチ、という小気味いい音が嬉しい。
 ヘアピンをポケットにしまってドアを開けて、いつもとかわらない埃だらけの部屋を見る。そしてあたしはその場で凍りついた。一瞬、空気が止まったかと思った。
 部屋の中には先客がいた。まさかと思った。どうやって入ったのか、いつからここの存在を知ってたのか、先客は物置にすっかり馴染んで、一番奥に置いてある古ぼけたソファの中にしっくりと収まっていた。
「…………」
 先客には見覚えがあった。今はあまり見たくない顔だった。そう思ったとたん、後先考えずあたしはドアを盛大に閉めていた。激しく。寝ていた先客がいくら爆睡してたとしても、これはさすがに起きるだろうと思われる音をたてて。
 迂闊なことをした、と思った瞬間、あたしは逃げ出した。鍵をかけ直す余裕もないまま、とりあえず、一番見たくない顔じゃなかっただけでもよかったと思いながら、ゆうゆうと入ってきた音楽室の真ん中を疾走して、廊下に出た。そのまま屋上へと続く階段を目指して一人で徒競走し、階段を一気にかけあがる。鍵をあけて、一応今度はそろそろと屋上を覗いて、音をたてないように気をつけて屋上の扉を閉めた。
 四本の足が見えるのとは裏側の壁に背中をつけて、ようやく息をつく。吸って、吐くのをそれぞれ二度。遠くからチャイムが鳴る音が聞こえた。さっきの張り詰めすぎたドアが鳴る音にくらべたら、ずいぶんと間抜けな音のように聞こえる。
 入り口をはさんだ壁ごしに、人が動く気配がして、あたしは息をすくめた。男女二人の声が聞こえて、なんだかやたらと幸せそうな笑い声をあげて、屋上から去っていく。残されたあたしはなんとなく不幸な気分になって、日があたる砂漠の地から影があるガンダーラへと移動した。今年の夏は去年みたいに日焼けする気はないし、ただでさえ精神がナーヴァスな気分になっているというのに、これ以上身体を過酷な状況においてどうするのだ。さっきの猛ダッシュでいくぶんかカロリー消費をしたから、もう無駄な体力は使わない。
 屋上に他に人がいないかどうかだけは入念にチェックして、あたしは影のあるところに座り込んだ。足を投げ出して肩を落として、楽な姿勢になって目をつむる。ずるずると背中が壁からすべり落ち、完ぺきに地面にねっころがると、さっきの二人のように足だけ焼けないように身をちぢこませて、昼寝の準備をする。遠くの方でチャイムが鳴って、各教室ではきっと四時間目の授業が始まった。
 でもあたしにはそんなことは関係なくて、なんとなく寝てるだけでも汗をかきそうだけど、うまい具合に風があって気持ちいいなと思う最高の場所で、夢の中に沈むのだ。
 夢の中のあたしは、まだ彼氏にふられていない。


 目が覚めると、いいにおいがした。購買で売っている人気メニューのうちのひとつ、単価百八十円の焼きそばパンのにおい。購買のパンは安いだけあってどうかと思っているあたしも、嫌いじゃない数少ない購買のパンのひとつ。
 なんとなくお腹がすいてきて、食べ物のにおいにつられて目を開けると、黒い制服が目にとびこんできた。隣に誰かが座っている。制服が黒いから男だ。
 猛烈に嫌な予感がした。あの男も焼きそばパンが好きだったのだ。あたしといっしょで。よくここで食べたのだ、あたしといっしょに。
 もし夢ににおいがないということを知らなかったら、あたしは夢の続きだということを信じて疑わなかったに違いない。でも夢じゃなかった。そして隣にいたのは、あたしが今もっとも会いたくない、あの男でもなかった。
「……なんだ」
 心臓を鳴らしながらそろそろと顔をあげ、あたしの許可もなく隣に座る男の顔を確認して、思わず呟いてしまう。見知った、それでいてあまり会いたくない顔に、それでも今一番会いたくない顔じゃなかったことにがっかりしているのかほっとしているのか、よく分からない気持ちで、妙に浮かれていた気持ちが一気に沈んだ。
「なんだって、なに」
 隣に座って焼きそばパンを食べる越前は、あたしの顔も見ずに問い返してきた。脱力した身体でのろのろと起き上がって、座る。越前の左手側、つまりあたしの右側に封がやぶられてないパンがあったから、食べることにした。あたしがあまり好きじゃないメロンパンだけど、お腹がすいているからこれでもいい。
「ちょっと。それ俺のなんだけど」
「お金はあとでアイツに請求して」
「なんで」
「腹いせ」
 越前に会いたくない理由は、これだ。アイツで通じるくらいあの男のことを知っているから。あたしがあの男に告白されて、ふられた経過を越前は全部知っているのだ。そんなやつの隣で、傷心中のあたしがパンを食べているなんて、なんということだろう。
 もくもくと味気のないメロンパンを食べて、隣でもくもくと焼きそばパンを食べる越前にあたしは言った。スカートのポケットの財布から銀色に光るワンコインを取り出して、ピンと空にはじきとばす。
「やっぱり払う」
「なにを」
「お金。メロンパンの百円」
 越前が落ちてきたコインをキャッチして、面白くもなさそうに手の中の百円を見た。そのままコインをポケットに入れるかと思いきや、コインを持ったままこちらをふり向いた。
「ねえ」
 言いながら身体をねじって、あたしの左胸に右手を伸ばす。
「ちょっと、越前」
 想像をこえる越前の動きに抗議するあたしの手をさらりとくぐり抜けて、越前はあたしの胸ポケットにコインを落とすと、かわりに長く伸びたアメピンを抜いた。
「百円より、こっちのがいい」
 越前はあたし愛用の鍵開け道具を見事にうばうと、自分の制服の胸ポケットの中にすとんと落とした。
「それ、何十本を百円で売ってるものだよ」
「こんなの、一本あればいいし」
 なんで、と聞こうとして、やっぱり止めた。越前は音楽室の物置部屋にいたし、わざわざ伸びきって使いようのないアメピンを欲しがるんだから、やっぱりあたしと同じあれなんだろう。ようするに、不法侵入の常連。
「越前も、鍵開けするときってアメピン使うんだ?」
「まさか。合鍵」
「だったらピンはいらないじゃん」
「合鍵より便利そうだし、融通ききそうだから。もらっとく」
 食べ終わった焼きそばパンの袋をくしゃっと丸めて、越前は右隣に置いてあったらしいファンタグレープの缶を手にとった。飲み物がないあたしの隣でいかにもおいしそうに飲む。
「あたしも飲みたい」
「やだ」
 越前は考える間もなく即答した。越前はこういうやつだ。前からこういうやうだった。あたしは、あの男といっしょにいるときの越前しか知らなかったけど、いつでもこういうやつなのだ。あたしがあの男に告白されたときも、ふられたときも。
「そいえば、なんであたしが胸ポケットにアメピン入れてるって知ってたの?」
 あたしの今思いついた、それでいてしごくもっともな質問に、越前はちらっとこっちを見て、ファンタを飲んだ。
「音楽室の物置の前で、入れてたじゃん」
「……なんで知ってるの」
「あの部屋って、中から見えるんだよね、外のようすが」
 ひょうひょうと言ってのける越前に、あたしは思わずメロンパン入りの袋をにぎりつぶした。少し粉になってしまったメロンパンなんかを気にしている場合じゃない。
「越前ってもしかして、あの部屋の常連客?」
「まあね」
「……あそこはあたしが第一発見者だと思ってたのに!」
 これ以上にぎりつぶす前にどうにかしようと、残りのメロンパンを一口でほおばったあたしを見て、越前がにやりと笑った。
もまだまだだね」
 こにくたらしい言い方がいつも通りだ。笑い方も。その隣にいないアイツのことをうっかり思い出して、そこだけがいつも通りじゃないことを思って、あたしは少しナーヴァスになる。おいしそうなファンタグレープをうらめしげに見て、あたしはうっかりアイツが好きだったジョージアのコーヒーを思い出してしまう。
って、泣かない主義?」
「泣かない主義って?」
「泣きそうなのに泣いてないから」
 越前に言われて、なんとなく自分が情けなくなる。ここに越前がいることが嫌になった。鏡がなければあたしは自分が泣きたいだなんてことを、ずっと知らずにすんでいたのだ。
「あたしは、失恋なんかで泣き叫んだりしないの」
「失恋なんだ」
「失恋だよ。なんで?」
 越前は、ふーんと興味なさそうに目をそらして、呟くように言った。
「一方的にアイツがのこと好きで、一方的に好きじゃなくなったんだと思ってた」
 越前は正しいのかもしれなかった。確かに、はたから見ればそう見えなくもなかったのかもしれなかった。
 あたしはアイツから好きをたくさんもらってたけど、あたしはあんまり好きをあげなかった。分かりやすいかたちでは。それでもあたしたちは恋人だったし、やっぱりあたしはふられたのだ。そう見えなくても、もしかしたら当事者がそう思ってなかったとしても、でもそれは、確かにあたしの失恋なのだ。
「アイツも、バスケも」
 もしかしたらあたしは、この言葉を初めて声にして言うかもしれない。
「ずっと好きだったよ」
 あたしは、バスケ部のルーキーとして活躍するアイツを見るのが好きだったし、そうでないときのアイツを見るのも好きだったし、バスケも好きになったし、楽しそうにバスケの試合の話しをするアイツが好きだったし、だからあたしは、誰に言われるともなくNBAまで見るようになった。あたしはずっと好きだったのだ。告白されたとか、恋人に見えなかったとか、そんなのは関係なく。
「今でもテレビで、バスケの試合とか見てしまうし」
 泣きそうな顔なんて、あたしはしないのだ。あたしがアイツと恋人同士に見えていなかったように、あたしは失恋でめげるような人には見えない。
 恨んでやりたくなるくらいにすっきり晴れた青い空をみあげるふりをして、越前から顔をかくした。
「どうせ見るならバスケじゃなくて、テニスにしなよ」
「あたしはウィンブルドンよりNBAのが好きなの」
は、すぐにウィンブルドンの方が好きになる」
「なりません」
「絶対なるよ。俺がいるんだし」
「……なにが言いたいわけ?」
「だから、バスケじゃなくてテニスにしなよ」
 越前はおどろくほどにまっすぐとこっちを見ていた。気付かないふりをしてたけど。無造作に目をあわせてしまったから、もうどうしようもなくなってしまった。
「俺にしとけばって言ってんの」
 こんなストレートな越前は知らない。アイツといっしょにいるときじゃない越前のことは全然知らない。あたしの想像をたやすく超えている。
 もう、いろんなことがいつも通りじゃなくて、本当にあの日々が昔のことになりそうで、あたしはほんとは、おびえているのか、安堵しているのか。
「あたしは」
 あたしの声を越前がさえぎって、とりあえず、と言った。とりあえず。
「泣けば?」
 それでもあたしは、失恋で泣き叫ぶようなオンナにはならないのだ。まだ、あたしのすべてをふりそそいで泣き叫べるような、そんなに大切なものをなくしたのだとは思いたくない。きっと今はまだ、そうじゃない。
 だからあたしは言った。
「絶対、いや」

20060111 執筆
なりたくないオンナ三部作 越前編