苅込碩哉記録(Ⅰ)田舎に花開いた大貫夏期大学

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 大貫夏期大学と青春の軌跡その1

小久保神明神社前にてNHK録音隊との記念写真(左端が苅込碩哉さん) 

 大貫夏期大学の話を始める前に、まず、潮会について話さねばなりません。
潮会は、大貫の青年を中心にした相互啓蒙組織で、昭和21年3月に発足した。発足の発端は、町長公選制を要求した自然発生的な会であったが、その活動が町の長老の硬軟取り混ぜた抵抗に遭い一頓挫した中、私と堀四志雄兄の音頭取りで発足した。


 潮会の呼びかけは壁新聞で表明した。その文章は堀兄が書いたもので、次の通りである。
 
 美しき文化の集い=潮会の誕生=
 従来、大貫町には、権力や利益を中心とする団体はあったが、人間にとって一番大切な文化を中心とする団体が存在したであろうか。我々は、太平洋戦争の敗北によって、国家滅亡の淵に追い込まれた。この日本が立ち上がるためには、我々は、必死の再建運動を続けなければならない。そのためには「政治が文化の眼を、文化が政治の力を」もたねばならない。この点に鑑み、我々は文化を、都会および特権階層の独占から解放し、我が郷土大貫町に文化を中心とする団体を作りたいのである。志を同じくする者相寄り相集まって、真摯な探求に生きようではないか。心ある人々よ、共に手を取り合って進もうではないか。心おきなく続々と加入されんことを。昭和21年3月吉日大貫町文化連盟  潮会


 この時に近藤(地名)の土橋重四郎さんという方が俳句をやっていて、「磯椿潮さびして花もてる」という句を寄せてくださったのが懐かしい思い出である。

 この頃、小久保には東京からの疎開者がたくさん来ておられて、この中には豊富な人脈を持っておられる人が居たのである。


 潮会にとって、まず最初の後援者は、米田富士雄さんという方で、自分のことについては何も言われなかったので、後で知ったのであるが、旧制五校、東大法科と佐藤栄作さんと同期であり、その後役人になって、戦争中は海務院の運航部長。さらに奥さんはなんと日露戦争で活躍された秋山好古大将のお嬢さんだったのである。


 何も知らない我々は、ある時、米田さんのお宅(神明神社の近くの屋号キノマツさん宅の二階に仮住まい)に伺い、潮会の機関誌に原稿を書いていただきたいと依頼したところ、快く承諾いただいた。
 「敗戦一年一大貫町民の回顧」と題する一文で、最後に次のような一文で結んであった。


「私は今日、非常なる努力を持って、わが国に民主主義の殿堂が空高く築き上げられんとしていることに呼応して、我が国民が、この大殿堂の主たる十分なる資格を持つように、啓蒙運動は力強く展開されることを切望するものであり、その運動においては、純真にして尽きることを知らない組織力と実行力とに燃える青少年の果たす役割も大なることを考え、青年男女の奮起を待望してやまないのである。」

 米田さんはさらに、「NHKが地方の文化状況を知りたがっているから、潮会がやっていることをNHKに送ったらどうか」とアドバイスされ、我々は、そんな大それたことをと思いつつ、NHKに潮会の活動内容を送ったところ、NHKが録音に来るということで、とんとん拍子に話が決まり、潮会は発足間もなくマスコミに取り上げられることになった。私達は非常に張り切って準備に取りかかった。


 そのころの録音は、テープレコーダーが出る前で、レコード板に直接採るものであった。この準備と対応に天手古舞していた頃、隣の佐貫町では畏友、中川大倫氏(三宝寺住職家の後継ぎ)を中心に佐貫町文化協会が発足し、昭和21年7~8月にかけ佐貫夏期大学を同町新舞子海岸八幡分教場で開講した。佐貫郵便局長斉藤省吾氏、小嶋和夫氏、早大生宮信吾君等はこの中川氏の活動に協力しその準備に大童であった。


 私は先を越されたという一抹の悔しさを持ちながら聴講に出かけた。


 佐貫夏期大学の講師陣でいまだに記憶に残る方は、政治学、蝋山政道先生、仏教の花山信勝師、経済学の高橋亀吉氏、哲学の東大助教授金子武蔵先生、この方は和辻哲郎博士の門下で、当時「戦争の道徳的反省」の訳書で話題を呼んでいた。その他多士済々、一流の陣容をそろえ、アカデミックなムードを盛り上げていた。

 「夏期大学」と云えば、「信濃木崎夏期大学」が有名で、戦前は夏山登山を兼ねて参加する青壮年が多く、私も憧れた一人だが、昭和14年の夏は短期現役でしぼられていたので翌15年夏は、リュックを背負い、1週間の寮生活の中で受講した。菅井準一先生の科学史が面白く、ガリレオの宗教裁判の話、ニュートンの自然に対しての謙虚な言葉、寺田寅彦先生の科学する態度を楽しく学んだものである。また、仁科芳雄博士のサイクロトロン、コロイド化学の玉蟲文一博士など科学の最先端の話に目を見張った。


 帰途、白馬岳を縦走しようと尾根歩きをしていたら、前夜の嵐に遭難したという大阪高校のテントにぶつかり、遭難者は既に収容されたあとであったが、まだあけていない缶詰めが大量散乱しているのを見て、なぜ食べなかったかという素朴な思いがよぎった。ただ、大自然のきびしさを思い知らされた。


 その冬休みは菅平スキー学校へ参加し、元旦は雪原で国旗掲揚をし、雑煮を祝って解散。翌年4月は朝鮮へ出向し、木崎夏期大学の案内状を手にしながら、帰国の見込みも立たず3ヶ年の外地勤務を終え、19年4月帰郷した。

 やれやれと思う間もなく、胸部疾患で長期療養となり、木崎行きもあきらめていた矢先の、目と鼻の先の佐貫夏期大学開講である。この勢いなら、我が (何となく雑然として地味な)故郷が信州の夏と同じような上品でアカデミックなムード漂う高級リゾート地になるのも夢でないという高揚感があった。


 東大生堀兄と一緒に佐貫夏期大学の金子武蔵博士の講義を聞き、帰路は、金子先生と3人連れだって新舞子から大坪を通り、浜伝いに磯根まで歩き、堀邸の応接間で対岸遙かにそびえる赤富士を眺めながら、一服、話がはずんだのである。私と堀兄が大貫夏期大学を構想したのは、この道中であった。


 さて、佐貫夏期大学は、東大大学院生中川氏の都合があって、また、会場や宿泊場が狭いなどの事情があって、継続が困難だということになった。私達は渡りに船と、来年は大貫で引き継ぐことになった。以後、大貫夏期大学の企画と運営が潮会の主要な業務となった。


 伝統を誇る木崎夏期大学の30年の年輪を遙かに仰ぎながら、いつか追い付き追い越せと実施計画が進行する中で、今、県が実施している教員再教育の認定講習の資格を取得できれば、参加者には便利なはずだとの見地から、大貫小学校の庄司勇校長が県に働きかけていただき、認定講習と言うことになったのはありがたかった。


 また、カギサ醤油の鳥海才平社長は、夏期大学開校以来10年にわたって、経済問題講師の斡旋をしていただき、経費までご負担いただいた。さらに、黒田狭範(現黒田精工)創業者社長の兄、黒田乙吉氏は自身も講師を引き受けてくださり、さらに、勤務先が毎日新聞であったことから、記者仲間に声を掛けていただき、多くの講師を派遣していただいた。その中のお一人が石川欣一氏で、講師としては時事問題1回切りの参加であったが、「信州が山の夏期大学なら、大貫は海の夏期大学になれ」と力づけていただいた。


 「採集と飼育」の篠藤博士も忘れられないお一人である。篠藤博士は木崎夏期大学の常連講師でもあるので、大貫とは毎夏掛け持ちとなったが、奥様のよし枝氏共々大貫の看板講師となっていただいた。
 それにしても運営資金については常に苦労した。基本的には、毎日新聞社後援で、県費補助、聴講料、カギサ醤油さんなどの民間篤志家寄付、そして後に町の補助をいただいたが、十分と云うことはなく、一番しわ寄せが行くのは講師謝礼でこれはまったくの薄謝であった。そこで苦肉の策として、地元産の塩を1袋つけたが、これが意外にも喜ばれた。


 大貫海岸は、戦中・戦後にかけて海水を汲み上げ、庭先に築いたカマドで煮つめ、製塩していた。潮会の会員の中にもこの業に従事していた者があり、その製品を分けて貰い、お土産にもたせたのである。


 また、資金カンパの試みとして「のど自慢大会」を催した。先に紹介した毎日新聞の黒田乙吉氏の次女真子嬢がピアニスト小野アンナ女史の愛弟子だとの情報を得て泣きついてご足労願い、その縁でNHK三つの歌伴奏者天地真左雄氏、アナウンサーの荒井恵子氏に話がついて、開幕したときは、会場末広館は開幕以来の超満員で、二階がきしむさわぎとなりハラハラしたが、実はこの直前に一悶着があった。


 会場は借りたが、ピアノがないので、大貫小学校のピアノを拝借したいと町長に申し出たところ、「おまえ等の仕事は大貫の金を集めて、東京へもっていくだけだ。そんな仕事に協力出来ない」と剣もホロロ。頭をかかえていたところ「松本ピアノ」さんが、みかねて、君津工場から新品のグランドピアノが運び込まれ急場を切り抜けた。


 こののど自慢大会で純益2万円也を得たが、好事魔多し、こういう興業は素人が成功すると、そのすじの嫉妬を覚悟しなければならず、実は会計処理の間にも知らない人がウロウロしだしていたので、潮会本来の仕事とは違うと云うことで1回切りの試みとなった。<続く>

注1:大貫夏期大学の写真は一枚も残っていない。それに引き替え佐貫夏期大学は1回切りの開催であったが、数枚の写真が残っていたので2枚だけ紹介します。

 下の写真は、佐貫八幡分教場玄関前での集合写真です。中央のネクタイ姿の人が蝋山政道氏か?その後ろ眼鏡の方が中川大倫氏か?

 看板から開催は8月1日~11日の期間と言うことが分かる。

 

 佐貫八幡分教場での夏期大学合宿風景。教室に薄縁を敷いて夕食のメニューはカレーライスにお酒か?

注2:「松本ピアノ」は君津に工場があった。ピアノメーカーです。歴史はヤマハピアノ、カワイピアノなどと遜色ない古さです。 

 大貫夏期大学と青春の軌跡その2  

 大貫町潮会は昭和22年5月から各種団体に呼びかけ、夏期大学の準備を進め、8月「第一回大貫夏期大学」を開講したが、伝統を誇る木崎の信濃夏期大学は34回の開催を記録したわけで、木崎30年の年輪を遙かに仰ぎながら、大貫夏期大学がようやく幕をあげた感動は、当時の大貫の青年学生の活動や顔付き、息づかいなどと共に蘇るのである。


 先に紹介した毎日新聞社石川欣一氏は後に「モース、日本、その日、その日(ママ。「年」の間違い?)」や、「グルー滞日十年」の訳者として名声を上げたが、当時は、毎日出版局長、サン写真新聞社長を歴任していた頃である。


 石川氏は釣りが好きで、よく「毎日」の常連と一緒に楽しんでおられた。夏期大学の講演の合間を見ては私の父と小久保の防波堤で釣りを楽しんでいた。
石川氏の奥様は女優東山千恵子さん(この人は佐倉高女卒)の妹だと聞いた。また、ご尊父は、モースと共に進化論の普及に努めた動物学者石川千代松博士である。


 ある時私は、石川氏に、千代松博士についてお伺いしたいと思い、臆面もなくあけすけに「なぜ、お父上のあと継ぎをなさらなかったのですか」とたずねると、即座に、「私の父は将来何になろうとも、語学だけはマスターしなさいと云うので、私は英語に精を出し、新聞記者になってしまった。親父の後継ぎは、今、水産大(現東京海洋大学)いる息子がやってくれるよと淡々として笑っておられた。

 注:ちなみに、石川千代松博士の父は石川周二。この人は旧幕府御家人で勝海舟と幼なじみであり、仕事もあるところまでは海舟と机を並べて働いた人らしい。海舟がどんどん出世していく中で、(海舟に言わせれば、すべての点で自分より優秀だったが、病弱故に)維新後は静岡に隠棲。再三の海舟の援助の手も断り最後にはけんか別れになった。66才で没。東京谷中墓地に海舟の筆になる墓が残っている。

 明治という身分などの激動期に二人の間に何があったのか。旧幕府への殉じ方の差か。二人は、意地でも援助は受けない人、それでも手をさしのべ続けるる人だったのである。


 1950年(昭和25年)の大貫夏期大学は、カップル講師の陣容となって、人気を呼んだ。


(先に紹介した)篠遠喜人・よし枝先生ご夫妻、羽仁五郎・説子先生ご夫妻、毎日新聞欧米部小林勇記者・同出版部登美江記者ご夫妻、前回担当の中江利郎博士と社会教育の中江静江ご夫妻はこの夏は都合がつかず実現しなかった。音楽は歌唱に斉藤良子先生で、この方はカップルでは来られなかったが、伴奏小方文子先生・司会の小方信先生(青山学院校医)ご夫妻のチームプレーで喝采を浴びた。


このカップル講師陣に意外なトラブルがひそんでいた。

 羽仁五郎・説子ご夫妻を組んだことで某県議から、「教員再教育の認定講座にこの人選はいかがなものか」との横槍が入り、その風当たりが直接、県社会教育課T課長の飛び火して、大変苦慮しているという話が入ってきた。

 講師に左派を入れたから主催者がアカだと決めつけられてはたまったものではない。これじゃ、戦時中と同じじゃないか、相手をやっつけるのにアカよばわりするほど卑怯な振る舞いはないと思うのだが、世間にはまだこうした行為が残っていた。

 やっと自由社会に生きる自信を得た矢先の火の手に、すごすごと引き下がる訳にもいかず、県や町からの補助金返上は覚悟の上だと息巻いていたところ、結局対決には至らず、変更や中止勧告のお達しもなく開講にこぎつけたのだが何か後味の悪さをかみしめたのである。<続く>

 

  大貫夏期大学と青春の軌跡その3 

 羽仁五郎・説子ご夫妻と私(苅込碩哉さん)とは直接のご縁はなかった。 ただ、前年説子女史には大貫夏期大学にお越しいただいていた。


 某日、今度はご夫妻ともども夏期大学講演依頼に私は久留米村(埼玉県東久留米市)に出かけたが、お宅に向かう路上、思いもかけず駅に急ぐのか、お嬢さんを後ろに乗せて颯爽と自転車を飛ばす羽仁五郎氏に出会った。ご挨拶のいとまもなく、黙礼ですませた。お嬢さんはバイオリンボックスを抱えていた。この人が後に日本人初の女性指揮者になった脇子さんだったに違いない。

 目当ての参議院議員羽仁五郎氏不在が確定になって、がっかりし、そしてちょっと気後れしながら、羽仁家の門をたたいた。幸い説子夫人がご在宅で、私は、羽仁吉一、もと子(説子さんのご母堂)両先生と私の戦前のかすかな縁から話を持って行き、今回はご夫妻での講演をお願いした。

 というのは、戦前、私が千葉師範を出て、教師として仕事をしていた頃、チョッとした縁で自由学園創立者のご夫妻(羽仁吉一・もと子ご夫妻)と面識となり、私はご夫妻からかわいがられ、私が外地(朝鮮)勤務から帰還した時、すぐ学園への招請をいただいた次第である。残念ながら、諸般の事情(結核に罹病)によりご期待にそえなかったわけであるが、この時の招請状は私の自由教育の志の証明書として、今もって大切にしている。

 羽仁吉一・もと子ご夫妻は、戦時下、異端視される中で軍部の圧力に抗しながら、学園の自由を守り、自由学園の校名も変えずに一つの教育方針を貫き通した不撓不屈の魂にすがすがしさを覚えるのだ。二代目、五郎・説子ご夫妻もその魂は変わらない。

 講演依頼は、当然のことながら五郎氏が帰宅されるまで決定を見なかったが説子夫人は大いに乗り気であり、結局帰宅された五郎氏も奥様の熱気に引きずられて(?)大貫行きが決まった。

 説子夫人のご母堂がもと子女史で、この方は先に紹介したように自由学園の創始者である。もと子女史は若き頃、明治女学校に学んだが、明治女学校はその開校初期の頃、小久保に借り上げの宿舎(職員厚生用)を持っていたのだから、間接的ながら、羽仁家と小久保、そして私は明治女学校と自由学園というふたつの学校を通じて縁があったのだと思っている。

 大貫夏期大学で、羽仁五郎氏は大貫駅への出迎えの学生が「先生、お鞄をお持ちしましょう」と敬意を表したつもりが、「これは君らに持たせられない」の一言で、学生もすっかり尻込みしてしまい、さらに宿(さざなみ館。苅込碩哉さんの旅館)に着くと、「僕は自宅では毛皮を敷いている」と云われ、客室係が慌ててどうしましょうと駆け込んできたので、私が座布団を三枚重ねておすすめする一幕もあり、裏方である我々をハラハラさせたのである。


 五郎氏の夏期大学での講演は福沢諭吉没後50年に因む「諭吉論」であったが「日本には人民の歴史がなく、支配者の歴史で、このことを日本で最初にはっきりと指摘したのが、福沢諭吉である」と論じ、諭吉の思想に食い入った。

 氏には戦前、岩波の教育家文庫の一冊として、「白石、諭吉」の著書がありごくごくおとなしい講演内容だったので、くだんの県議(大貫夏期大学に羽仁五郎氏を呼ぶことに反対した県議。前回紹介)とその一派を刺激するようなことは片鱗もなかった。そのためかどうか講演は静かに終わることが出来た。

 しかし、大貫夏期大学に来て聴講した学生からは、氏の日頃の著書から受ける印象と違い、直に接した風貌や態度があまりに貴族的で、「何で彼が人民の味方ずらするのか。彼は支配者の片割れではないか。今まで持っていたイメージが壊れてしまった」と、ぼやく者もいた反面、中には、「あのお坊ちゃん肌がいいんだ」とさらに魅せられた人もいたようであった。

 大貫夏期大学受講生が賞賛、罵倒半ばする羽仁五郎氏であったが、我々は昭和10年代の岩波茂雄氏、羽仁五郎氏の言論を忘れてはならない。

 支那事変が拡大し、泥沼化していく中で、言論弾圧が進み、東大森戸事件、大内教授検挙、反マルクス主義で自由主義者の河合栄二郎教授の著書発禁などマルクス主義者、自由主義者、果ては組合運動家、芸術家にまで弾圧の嵐が吹きすさぶ中、昭和13年、岩波新書赤版を発刊した岩波茂雄氏は刊行の辞で時勢を喝破した。

 「現下、政党は健全なりや、官僚は独善の傾きなきか、財界は奉公の精神に欠くるところなきか、また頼みとする武人(軍人)に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制ありや。思想に生きて社会の先覚たるべき学徒が真理を慕うこと、果たして鹿の渓水を慕ふが如きものありや・・・・・・・」と。

 そして、発刊された岩波新書の一冊に羽仁五郎著「ミケランジェロ」があった。この一冊に、どれほど当時の青年、学生、インテリが魅了されたことか。
 「ミケランジェロは、今生きている。疑う人はダビテを見よ。・・・・・・フィレンツエ自由都市国家の市民が愛する国家の政治を自らの手で守り抜き、独裁者の擡頭を認めず、外敵の侵入を許さず、国造りの中で集会し、決議し、実行して勝ち得た自由と独立の精神こそ、フィレンツエの栄枯盛衰を秘めて、ミェランジェロのダビテは語りかけてくれる。」
 羽仁五郎氏のこの歯切れの良い名調子に酔ったのである。<続く>

注1:明治女学校は、明治20年代から40年代まで東京番町、飯田町、後に巣鴨にあった私立女学校。カトリック系だが、教師陣は日本人(旧幕府系、特に勝海舟系の人脈が多い)ばかりであった。男女平等、教養主義、自由思想などを唱え、学校教育と同時に雑誌「女学雑誌」を発行し、欧米文化を範とした生活の啓蒙につとめた。例えば巌本校長の夫人は日本で最初に「小公子」を翻訳した人である、と言われると学校の雰囲気が伝わってくる。

 明治女学校開校当初島崎藤村が英語教師として教壇に立っている。卒業生三傑として、羽仁もと子(自由学園創始)、相馬黒光(随筆家、新宿中村屋店主夫人)、野上弥生子(小説家)がいる。この中で羽仁もと子は、しかし、明治女学校の教育を批判(根本に巌本校長、島崎藤村、北村透谷等の女生徒との恋愛スキャンダル批判がある)している。ただ、傍から見れば、自由学園と明治女学校は全く同じに思える。

 明治女学校の全歴史を通じて教師(剣術教師か?)であった一人に小此木忠七郎がいる。彼は小久保に長逗留し、島崎藤村を小久保に迎え、明治時代末期に佐貫の女性と結婚している。新郎40才代、新婦は20才代で新婚旅行は何とサンフランシスコであった。

注2:羽仁家は、もと子から説子へと女系でつながっている。五郎は婿養子である。東京雑司ヶ谷墓園に羽仁家の立派なお墓(下の写真)がある。苅込碩弥さんも触れておられるが、人民の味方的な、あるいは共産党っぽい言動で、日常生活はブルジュワ的というのは、戦前から戦後昭和40年代まで進歩的文化人と言われた人たちの風潮・雰囲気である。美濃部都知事などもその例。彼は昼食のほとんどをレストランで食したという伝説がある。
 

 

 大貫夏期大学と青春の軌跡その4   

 話は遡るが、羽仁五郎さんは、昭和8年(1933)秋、警察に逮捕され、留置4ヶ月で起訴猶予となり釈放された。「今後は何もしない」と、当局に念を押され、その後は専門の現代史には触れることが出来ず、代わりにルネサンスの変革について調べはじめた。無知な「当局」だから誤魔化せる、と踏んだのかも知れない。ただ、方便であることは自覚していたのだろう。その時、説子夫人が「ミケランジェロの彫刻作品を古代ユダヤ(旧約聖書)の歴史解釈をバックに扱ってみては」と薦められ、「五郎さんは、私のヒントを手を打つように受けとめてくれたのがうれしいことでした」と、その著「妻のこころ」で、当時の事情を語っている。


 言論弾圧の暗い時代の中で、少年ダビテが巨人ゴリアテに寸鉄をつけず石だけを持って毅然と立ち向かうあの像は、昭和の当時の日本の青年学生はもとより、何よりも執筆者羽仁五郎・説子夫妻には大きな励ましであったに違いない。
 あの戦争の中で、岩波赤版の三木清「哲学入門」、羽仁五郎「ミケランジェロ」に心を揺さぶられた学生達も、昭和18年の学徒動員で、有無を言わせず戦場に駆り立てられて行った。戦死した者、負傷した者、病気になった者はもちろん、どうにか命ながらえて帰還出来た者もなぜ自分だけが助かったのかと心に大きな傷を受けた。


 私の場合、基準・規定の編み目から抜け落ちて、赤紙にも動員にもひっかからなかった。その厳しい時代は、子供らと自然観察に熱中し、篠遠先生主宰の「採集と飼育の会」や自由学園から送られる「学園新聞」が慰めで、某日の学園新聞に載った三宅雪嶺の「此の身、却って自由なるに如かず」が唯一の心の支えであった。


 戦中、戦後にかけて青年たちが、岩波新書「ミケランジェロ」にのめり込んだのは、何だったのだろう。岩波の読者の言葉を集めて岩波が出した「激動の中で!岩波新書の25年」の中に、「民衆の解放を訴えている羽仁氏の熱情が、日ごとにつのる弾圧の下にじっと息をころしていた人々に、光のさし来るような思いをもたらしたのではないか」と書かれてあって、戦後になっても私が若い頃はなるほどと納得していたのだが、年を取って私もあまのじゃくになったのか、この岩波の理解にはいささかのずれを感じざるを得ない。


「弾圧の下にじっと息を殺して」などいられなかった、弾圧を不当と思おうがどう思おうが、息をし続けねばならず死んだふりも出来ず、その方向が嫌いであろうが地獄であろうが、道は一本であり、選択の余地はなかった。赤紙が来れば、小さな体格で、巨人のアメリカに旧式の武器で毅然と立ち向かうダビテを想像してその自己犠牲の美的心証表現を「ミケランジェロ」の本から学び、自分が酔ったのであって、光がさして来たわけではなかった。酔いからさめれば明日の命も分からないのに、相変わらず異性から目もかけてもらえない上目使いのうつむいた自分がいるだけであった。羽仁さんのいう自由人など実現するわけがない。羽仁さんがそう振る舞えるのは、羽仁さんの生い立ちや婚家先の恵まれた境遇が暗黙で無意識の前提になっているのではないか。羽仁さん自身の解放にはなったのかも知れないが、片田舎に育って何のバックもない私の解放にはならなかったのではないか。断じて私の能力や努力が足りなかったのではない、と思うようになった。


 それがあらぬか、羽仁さんが、1968年「都市の論理」で再びスポットライトを浴びた時があった。全共闘の学生運動の学生達にアッピールし、既成の共産党や左翼からも担がれたようなのだが、しかし私には、もはや青年時代のミケランジェロ程の感動は蘇らなかった。


 こんな中、私の竹馬の友、堀四志男兄だけは、私の戦中から戦後にかけての悶々とした心を整理してくれた。


 「当時の常識、枠も守旧に過ぎた。地主の長男は中学を出て、役場に勤めるか、師範二部に進んで、郷里の学校で教壇に立ち、先祖伝来の私有地管理を続けるのが現実で、君は後者の途を辿った。そして、大正デモクラシーの牙城の千葉師範に学んだ君はこの思想を捕らえ、これに自然科学を防波堤とし、レーダーともして、自由学園や篠遠博士とつながり、やがて朝鮮半島鎮南浦に活躍の舞台を求めて行く・・・・・・君の行跡は実に大正デモクラシー実践の一本道である。」と、いみじくも書いて下さったが、この友情ある分析にはまったく感謝にたえないのである。<続く>

注1:篠遠喜人氏の「採集と飼育の会」。篠遠さんは、長野木崎夏期大学で長年講師をつとめた人です。苅込碩哉さんの大貫夏期大学にもほとんど毎回講師をつとめました。

注2:「夏期大学」は、避暑地で硬軟は問わないが良質の幅広い勉強をして、ついでに山登り、または海水浴をして鋭気を養おうというもので、大正デモクラシーの申し子のように思えます。現代の大学のセミナーハウスなどにつながっているものだと思われます。


 インターネットで「夏期大学」で検索すると、木崎夏期大学、高知夏期大学などが出て来ますが、大貫夏期大学は出て来ません。わずかにこのグリーンネットふっつが取り上げているだけです。

 大貫夏期大学とその青春の軌跡その5  

 私の生まれた大貫町は、戦前、吉野村と合併し、昭和30年4月、佐貫町と合併し、大佐和町となり、昭和46年4月近隣3町合併し、富津町を経て、同年9月富津市となった。その中で私の公的活動は、町・市社会教育委員(同委員長を含めて)を約30年、町・市議会議員通算21年でピリオドを打った。


 昭和55年4月その引退披露の席で池田淳代議士は「君には市議を引退しても、戻る文化運動がある」と慰めをいただいた。戦後、天羽地区で池田氏の主宰する「あくたか会」と久留里地区で雨城文化連盟会長高沢一雄氏と私とは、木更津中学校同期の3人組で地域の文化運動を推進した仲間なのである。


 家業を守りながら、商人にもなりきれず、政治家にも徹しきれず、文化運動も道遠しであった。在野の自由人としての喜びを味わいながらも生きることのむつかしさをかみしめながら、人生の光と影にまどうばかり・・・・・・。


 だが、思えば戦後、多くの青年、学生と手を握り、あまたの先輩、先達までも巻き込んだ潮会の活動と、大貫夏期大学10年の栄光のてん末など思い起こす時、青春の夢未ださめずの感を深くするばかりである。<終わり>

 大貫夏期大学の講演題目と講師一覧

第1回(昭和22年8月1~4日)聴講者数延べ1,000人
「農村問題」東畑清一氏、「魚と海流」海老名謙一氏、「生活の科学化」富塚清氏、「遺伝と優性」篠遠喜人氏、「音楽(歌謡指導か?)」徳倉貞子氏、大島正泰氏、「ソ連およびソ連人(1)」黒田乙吉氏(毎日新聞、ロシア革命現地目撃者、後の黒田精工創業社長の兄君)、「アメリカの民主主義」高田市太郎氏(毎日新聞)、「現政局を斬る」高橋司三次氏(毎日新聞)、「憲法論」宮沢俊義氏

第2回(昭和23年8月1~5日)聴講者数延べ1,000人
「日本経済の動向」高瀬壮太郎氏(参院議員)、「最近の遺伝学」篠遠喜人氏「ソ連およびソ連人(2)」黒田乙吉氏、「国際情勢」工藤信一良氏、「世界と宗教と生活」小林珍雄氏、「シューベルトの生涯と音楽」野村光一氏、「歌曲(歌謡指導か?)」徳倉貞子氏、大島正泰氏、「これからの社交」坂戸智海氏、「歴史とヒューマニズム」小此木真三郞氏、「経済問題」帆足計氏(参議院議員)、「新教育について」海後勝雄氏

第3回(昭和24年8月1~6日)聴講者数述べ1,000人
「アメリカの特質」石川欣一氏(サン写真新聞社長)、「九原則下の経済」佃正弘氏(日経新聞)、「ソ連およびソ連人(3)」黒田乙吉氏、「農村生活の改善と酪農」中江利郎氏、「激動する二つの中国」信国大典氏(毎日新聞)、「性教育について」羽仁説子氏、「衣の生活」篠藤よし枝氏(元自由学園)、「観光・教育・生活」西川正平氏、「国際情勢」鈴木文史朗氏(リーダースダイジェスト)、「ヒューマニズムと教育」田中耕太郎氏、「文化の国際性」柳沢健氏
 ※羽仁説子・篠籐よし枝両氏の講演だけで400人だった。

第4回(昭和25年8月1~3日)聴講者数述べ1,000人
「遺伝学はどのように生活を支配しているか」篠藤真人氏、「衣の技術」篠藤よし枝氏、「福沢諭吉」羽仁五郎氏(参議院議員)、「新しい教育」羽仁説子氏、「世界の動き」池松文雄氏(毎日新聞)、「日本の経済」山本正雄氏(毎日新聞)、「音楽」小方文子氏と青山学院学生

第5回(昭和26年8月1~3日)聴講者数延べ600人
「世界の動きと講和」水戸政治氏(毎日新聞)、「婦人と家庭」宮城タマヨ氏(参議院議員)、「講和と日本経済」赤松要氏、「水泳実習」西本義海氏、 「音楽」山鳩・砂山両合唱団

第6回(昭和27年8月1~3日)聴講者数延べ300人
「世界の動き」向後英一氏(毎日新聞)、「中国の女性」鳥居幸子氏、「性教育」中村利枝氏、「東南アジア貿易」板垣与一氏、「音楽鑑賞(レコード?)」諸井三郎氏(文部省)

第7回(昭和28年8月1~3日)聴講者数延べ250人
「古代房総の人々」溝口宏氏、「経済の動きと中小企業」高宮晋氏、「激動する二つの世界」向後英一氏(毎日新聞)、「小説の効用」大江賢治氏、「TV実写と演劇の話」吉川吉雄氏(NHK)
 ※8月2日夜小久保海岸でTV一般公開(観覧者500人)

第8回(昭和29年8月10~12日)聴講者数延べ500人
「死の灰を追って」福居浩一氏(毎日新聞)、「国際情勢」佐倉潤吾氏(毎日新聞)、「女とくらし」篠藤よし枝氏、「夏の踊り」東三江浜社中、「くらしの中の花」松原秀耕氏(池ノ坊家元参事)、「地球一巡りの旅(スライド)」篠藤喜人氏、「ヒマラヤ登山報道写真展並設」(夏期大学期間中)

 上の写真は、小久保真福寺での御影供法要に池坊家から生け花が奉納された記念写真である。すでに古写真復元の方で紹介したものだが、写真の年代が着ている和服から昭和30年より前と考えていたのだが、あるいは第8回の講義記録にある池坊松原秀耕氏との縁で、急遽この奉納が決まったということも考えられないことはない。


第9回(昭和30年8月10~11日)聴講者数延べ400人
「原子力とこれからの世界」藤田信勝氏(毎日新聞)、「女とくらし」篠藤よし枝氏、「映画上映:原爆の子」、「音楽解説」森本二郎氏、「夏の踊り」坂東三江社中

第10回(昭和31年8月19日)聴講者数延べ400人
「社会評論」松田ふみ氏(サンデー毎日)、「農村と婦人」丸岡秀子氏