アクセスカウンター

新舞子の松原



新舞子松原をより詳しく

 古写真(主として絵葉書)を元に新舞子の松原とその移り変わりを紹介します。
 まず佐貫町新舞子の位置や地理を、佐貫町が昭和12年に発行したパンフレット(千葉県中央博物館所蔵)で紹介します。

 このパンフレット、間違いや書き忘れが若干ありますので絵図に川筋と符合を加えました。

 Aは大坪貝塚の位置です。
 僅か5m四方を3日間だけ調査(昭和49年に天羽高校の野中徹先生と郷土研究会の生徒による発掘。区画整理工事中に発見され緊急発掘)した後に消滅した貝塚です。緑色をしたヒョウタンの種やイルカの全身骨格が出て話題になりました。

 平成20年になって国立歴史民俗博物館のスタッフが最新機器で出土遺物を再調査した報告書が出ました。(芝山町芝山古墳・はにわ博物館友の会発行)それの概要は以下です

 土器は黒浜式で炭素年代から約5千年前。伊豆、大島、三浦などと同じ形式。ひょうたんを栽培。イルカは(弱ったものを捕まえるなどでなく)積極的な漁で捕らえる海浜のプロ。一方猪鹿などは幼獣も雌もお構いなく穫るなど、山の暮らしには疎い。

 Bは染川。「B」と書かれたあたりは古船川との合流域で、ここで大きく北に曲がります。しかも何度も曲がります。染川は、ほぼ全部の流域で田んぼ面から約10m下がって流水となりますのでポンプがない時代では農業用水として使えません。そういう地形なので、Bと描かれた地域などは特に一種の渓谷のようになっていて、近くの崖には鎌倉と同じようなヤグラ(横穴墓の一種)が掘られています。

 佐貫・新舞子のあたりは弥生時代、古墳時代、平安時代の遺跡がありません。(注:奈良時代か平安時代初期と思われる横穴墓と小さな円墳遺跡はある。)鎌倉時代になって鎌倉文化がにわかに入り込んで上に紹介した「ヤグラ」と「B」地点にある像法寺には「藤原信定記名元弘三年銘供養塔」が残りました。また、鎌倉的な地名として谷津の名前に「シバガヤツ」、「モンヤツ」など「○○ヤツ」という言い方(関東他地区は「ヤト」、「ヤ」です)が残りさらに染川を境界にして「佐貫北方(きたがたと読みます)」、「佐貫南方」と地域(というより役人を二人並行して任命し、その区別として地域を分けたのでしょう)を区分けする名称が残りました。さらに「バアバアドコロ」(婆々の懐のように風が当たらない暖かい意)という地名が鎌倉の極楽寺周辺にありますが、佐貫にもあります。

 Cの赤点線囲いは八幡集落の核部です。田んぼも畑もないのに江戸時代で、家百軒人口5百人が何で成立したのか(何で食えたのか)近在の人々に不思議がられる集落です。

 冷凍技術がない時代では魚が捕れても売れる範囲は限られています。漁業は大きな商売になりません。

 なお、絵図はまちがっていて、ここに松林は現在もなく、過去にもありませんでした。
 Cの集落の海岸部(絵図では地曳き網中)が押し送り船の母港でした。
 Dは鳥居崎です。かわいい松林双丘の真ん中に鳥居が立っていて、そこを浜に降りる吹き上げの坂があるところです。徳川光圀の「甲寅紀行」(延宝二年(1674))に、相野谷(あいのやつと読みます)、佐貫町から八幡に来て、鳥居崎から浜伝いに上総湊への途中の景色紹介で「出船入り船の岩」というのがありますがこれは鳥居崎のことでしょう。ここから相州や富津岬の景色を楽しんだようです。

 Eは船端です。現在小字名になってしまい、笹毛と八幡に分割されてしまっていますが、実はこのあたりが松林が内陸まで深く入り込んでいて、土地は起伏に富み、良質のわき水が豊富で、芸術家や文化人をはぐくむような場所なのです。 実際に室町時代以来の船大工がいました。

 以上で佐貫・八幡(新舞子)の地形と歴史の概要を終わります。
 このあと新舞子の南から「日焼け」、「笹毛」、「船端」、「八幡」、「鳥居崎」、「八幡の滝」、「大坪」の順に主に松原の景観を紹介していきます。
 注:上の観光図には笹毛海岸、大坪海岸がほとんど入っていません。



日焼け松原

 内房線で木更津まではトンネルがありません。木更津と君津の間にトンネル二つあり、青堀、大貫、佐貫町直前までトンネルがない状態が続きます。

 佐貫町に入るちょっと前に短いトンネルがあります。
 佐貫町から上総湊までトンネルが三つあります。順に「八萩谷(ヤハギヤツ)隧道」、「日焼け隧道」、「悪波隧道」です。(旅情をかき立てる名前です。 しかし上総湊より南はトンネルだらけで、こんどはイヤになってきます。)

 ここで「日焼け隧道」を抜けた瞬間に右側の車窓から飛び込んで来る景色について、両国からの臨時列車の客から「歓声とどよめきが走った」(菱田忠義「ふるさと西上総」)とのこと。

 海と富士山がこちら側の山の間から見えますので春夏秋冬朝昼夕絶景となります。

 そこでまず最初に紹介する新舞子の松原は「日焼けの松原」です。

 日焼け隧道の入口が、奥の半島状に突き出た左側付け根あたりにある位置関係です。
 この辺の松原は巨木が山の上にそびえ立つイメージです。崖の高さは約30m。

 右側海中にある岩は「大石」と云います。幅10m、長さ30m、満潮時水面からの高さ1mくらいの岩です。これでも江戸時代には、古船浅間山からの薪炭の積み出し埠頭として便利に使っていたそうです。干潮時に岩の上に薪炭を乗せておき、満潮時に船に積み込んだようです。当時の産業のかわいらしさと苦労がうかがえます。

 懸崖造りの松です。盆栽表現として盆の上に造るのは難しそうです。これは天然自然のものです。波切り不動尊のお堂があるすぐそばの崖です。
 山の上は別荘地分譲でとうの昔に地元の人の手からは離れた土地ですが、今もあんまり別荘は建っていません。


笹毛松原

 笹毛松原は県道八幡ー湊線の海岸沿いを通っている部分の松並木が主要部分です。
 大正時代に「旅の友社」という雑誌社が特集を組んだようで、そのグラビヤもこの県道沿いの写真でした。

 

 

  海岸下まで続く斜面に松が育っていて面白いことにほとんどが根上がり松でした。

 特に八幡から出かけて笹毛中心部集落に入る手前の急カーブで坂になる部分の道路の右側にこの松がありました。この写真はポスター用に企画して撮られた写真です。昭和27年の夏。遠く海上に大石が見えます。

 昭和37年頃の写真です。上の少女の写真の十年後です。左手前の大きな松が切り株になってしまいました。

 突然に枯れたかしたのでしょうが、良く見るとこの松は切り株が二つに分かれているようなのでおそらく少女と別荘の爺や?さんは松のトンネルをくぐって右の根っ子の所に来たことになります。



船端松原

 下の写真の右上側は山並みが不自然です。乾板の当時どんな方法でカットしたか分かりませんが、一般的に考えられるのは覆い焼き手法です。ただこの場合ネガフィルムは無修正のままですので認可されないかもしれません。従ってネガフィルム自体をハサミで山のようにカットして背景部を切ったフィルムを未使用のフィルムに重ねてポジ化感光させそれをもう一回繰り返して改ざんネガを作って印画紙に焼いたと思われます。カット部分が真っ白にならず自然な中間色に仕上げたところがプロの業です。 (「ジェンスコレクションの研究」参照)

 この写真は許可番号が若いので明治時代と考えていますが、写真の中に電信柱のようなものが写っているのでそれなら大正中期となります。

 しかし良く見ると旗のようなものがひるがえっていますので、これは電信柱でなく、これこそ「ジェンスコレクション」の中のなぞの構造物「三角テントひっぱり上げ装置」ではないかとも考えられます。(このHPの「ジェンスコレクション研究」参照)  写真の奥は藁屋根ではないそこそこの大きな建物が波打ち際まで建っていて、丘の方には背の高い松がそびえています。

 これこそ髙橋万兵衛家の本拠=明治時代の船端と考えています。(「新舞子の押し送り船」、「上総新舞子文学」参照。

 船端の松林の内部で撮った写真ということになります。あらためて見てみると電信柱がないですね。左の方にこれだけ家があると、写真中央の坂道の右から左に電信柱が走るのが普通ですよね 。ですからやはり明治時代です。

 新舞子のそこそこの家の境界部は、磯根石を積み上げセメントで固めた石垣、その上に竹垣、その中にヤブツバキ、更にその中にマキという形になります。チョット見この写真の雰囲気は鎌倉の公園と間違えますが、町、集落の一角をここまで洗練させるには二百年程度のずっと金持ちとしての支配でなければ無理です。  注:何で船端の髙橋家の押し送り船が、新舞子パンフレットで紹介した染川河口の近くに置いてあるのかといいますと、これは浜の幅、広さの問題だと思います。船端の浜は狭いのです。しかし造船所は船端なのです。

八幡松原

 鳥居崎の吹き上げの坂を下りて左側、現駐車場、旧健康学園あたりにあった松原を鳥居崎寄りから船端へと順に載せてみました。

 

 

 

 ヒョロとした松、根上がり松も混じっています。特徴は下草が全く生えていないこと。そしておびただしい実生で芽生えた幼松がみられることです。  特に、三枚目は旧健康学園が建っているあたりですが松の精霊の神殿のように厳かさすら感じさせます。



鳥居崎

 鳥居崎の松原写真は数多く残っています。その年代の決め手は鳥居の変化です。 古くは知らず写真時代になってから鳥居が3代変わっています。 鳥居崎の松原は、内陸に鶴峯八幡宮の境内を越えてその裏庭まで入り込んでいます。

 

 一枚目は神社の方から海岸までの参道を撮った写真です。時代は明治時代。ここで写真右の松林は約50m行ったところで崖になり5m下がって窪んだ約2ヘクタールの平地になりますが、ここがすべて松林になっていました。残念ながらその光景の写真は残っていません。窪地で風が当たりにくくしかも泉が湧いていますので別荘地としては最適の所です。  二枚目は鳥居崎の双丘のうち北側丘を海岸側から撮ったものです。これも明治時代。注意深く見ると、尾根よりチョット下がったところに江戸時代の灯明台の石組みが見えるのですがこの写真では難しいか。これは今でもそのままの形で残っています。

 北側丘の見晴らし台です。カラー写真ですが、服装などから写真提供者の申告通り昭和27年の撮影で間違いなさそうです。コダックのフィルム、現像、焼き付けとすべてアメリカ製だと思われます。色あせなしでまた妙に赤っぽくないなど昭和50年頃の日本製カラー写真よりよほど上です。

 以下に鳥居崎吹き上げの坂を時代順に並べます。一枚目が昭和25年、二枚目が昭和30年で三枚目が昭和35年です。実は三枚目は人物が動いてしまって不鮮明ですが服装の感じはもう少し後に見えるのですが写真の鳥居が昭和35年までなのでギリギリ昭和35年としました。女高生の感じがヤボッたく見えますが、当時としては先取り最新ファッションなのです。

 

 

 浜風が鳥居崎を吹き上がりそのまま八幡神社の階段を上がりますとまことに涼しい気持ちよい風となります。また、晩春から秋まで午後0時頃に鳥居崎の前海に太陽の光のスジが通り銀色に輝きます。(「上総新舞子文学」参照)理論的には月の光のスジも通る筈です。  ただ二つとも撮影が難しい。4K動画で何とか・・・・といったところですが難しいです。

 昭和6年までの鶴峯八幡宮の社殿です。手前が拝殿で、これは境内の別の場所に移転して現存しています。その高さは10mくらいあります。 奥が本殿。両側に棟持ち柱がある伊勢神宮のような本殿です。拝殿の高さが10mありますので、本殿の高さは20m近いのではと思われます。 そうすると拝殿前の二本の松はかなりの巨木となります。直径2m、高さ30mくらい行っているでしょう。

 八幡神社の裏庭です。約千坪の松林がありました。昭和50年頃に保育園になりました。

八幡の滝

 鳥居崎の北東側に広がる2ヘクタールほどの松原には泉が湧いています。(今でも水が涸れていません)この水を海岸まで引っ張ってきたものです。 透明ですが金っけくささがあって飲用としては難しいですが、風呂などには使えます。 上の写真は明治時代ですが、海水浴後のシャワー用に滝づくりにして、周囲に脱衣所を設けたものです。

 大正時代です。滝は右端の方にある位置関係です。

 背後の松の丘が鳥居崎北丘です。

 カメラを構えたのが中央突堤と考えられそれが健全ですので、撮影は関東大地震より前です。 (中央突堤はこの地震でブロック単位で滑って離ればなれになりました。) また写真の奥に電信柱らしきものが1本ありますので、大正6年くらいの可能性があります。

 注:撮影の時代確定は難しいものです。上の写真キャプション「上総名所 佐貫町×× 許可済み第171号」という絵葉書は、これまで紹介した笹毛松原に1枚、船端松原にも1枚あります。このうち笹毛松原のものには明らかに電信柱が写っていますので、一連のこの写真は大正6年頃と見て良いようです。そこで許可済み番号が二桁は明治時代、三桁は大正時代、四桁は昭和時代と考えています。その他に、新舞子中央突堤は大正元年頃の完工、これが大正12年の震災で分断されます。鳥居崎の鳥居は横梁が細くて頼りないものから、どっしりした木造に変わったのが昭和6年、これが昭和35年までで、以後石製に変わって現在に至ります。これらを考慮して時代決定をしています。

 問題は鶴峯八幡宮の新旧社殿交替の年代です。新社殿が昭和6年竣工ははっきりしているのですが旧社殿は大正12年(あるいはその前の大正6年の台風・高潮)の震災でつぶれたのか、健在だったのかが分かりません。

 私は震災で本殿だけがつぶれ、それ以後拝殿を移築して仮本殿とし、昭和6年に新社殿が完成したと見ています。その際、一の鳥居も新築されたのでしょう。なお、鶴峯八幡宮大幟もこの時の新調と考えられます。竿の高さ20m(かんざしを加えると24m)は旧社殿の高さを記念したものではなかったか、と推定しています。

 さらに上の写真は吹き流しや遊泳禁止・許可などの掲揚竿らしきものが異常に高いこと、ステーのロープも異常に高くて一定間隔で何かかたまりがあること、また左の家の屋根の上のソーラーパネルみたいなものなど不思議なものが多い写真です。(パネル状のものは夏だから海苔などではない)すべり台、ブランコなどまだ未完成です。

 昭和30年代です。富士山の溶岩とハイマツを使って滝にしています。滝の下にはプールを作り、幼児の水遊び用にしました。  海開き前に、前年から春までにたまった砂を全部かい出す必要がありました。

 


大坪の松原

 大坪には矮小な植林した松があるばかりでした。現在はマテバシイ、スダジイなど照葉樹林に変わってしまいました。 この写真は山の斜面の松越しに、遠浅で潮が引きつつある波を撮ったものです。昭和39年の夏です。

 染め川河口にあった橋です。昭和30年から45年くらいの約15年間で朽ちてしまいました。歴史上、橋が存在したのはこの15年間だけでした。山の中腹は強い風に翻弄された矮小な松(?)に見えますが・・・・・・・・

 この林の中に入っていくと突然景色が一変します。実は今では樹相がタブなどの照葉樹林に変わっています。外観は写真の昔よりさらに貧相な感じで何の魅力もないのですが、いばら、カヤなどをかき分けて10m進むと・・・・・

 太い幹が直立、林立、下草がなくアニメの世界のような森となります。

 日本画家の髙増暁子さんがこのアニメのような森を描いています。すぐそばのグローブ森の美術館で見られます。

 ここは幕末に砲台が置かれた場所で森の中を右へ山の下まで細い軍用道路が開かれ、所々に堀切りが作られ城跡のようになっています。砲台跡の末端は20mくらいの垂直な崖になり、下って民家があります。この家の先祖(筆者が勝手に指名)と思われる人の川柳(1802年厳島神社奉納額の1句)に、

 余しもの 命、酒、崖、前の家    大坪 坂佛    注;余しもの=「老人」の自虐語