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小説「上総岩富寺縁起」その2

 6.白鳥珠探査

 村主のゴンゾの肝いりで会合が開かれた。主題は、「いかにして白鳥珠を探すか」ということであった。
 村には古代から寄合という形の会合があった。これは、お上に納める税に関するもろもろのこと、祭礼のこと、道普請などのこと、住民の不祥事に対する処罰のことなどなど、行政庶務に関するもので、問題が発生した後の処置をどうするかの話である。基本的に波風が立たぬようにということと、前例が重視され、参加する人々は肝いり衆といういわば長老衆であった。
 今度の会合は寄合とは違う。まず村の成人男女全員に会合への出席の案内をした。内容は「郡司肝いりで大坪浦に沈む宝探しをすることになった。そのやり方の相談である。しかし決まっていることがある。まず、報酬は成果払い。邪魔しなければ参加してもしなくても、働いても働かなくても頭数で等分する」ということであった。
 忍生たちはこういうことで果たして何人来るか、大勢来たら会場が困るし、逆に来なければ、村主、舵取りたちの顔を立てて行こうという人にお願いに上がらねば、と思っていた。そしておそらく後者だと予想していた。
 結果は、村主らの予想ほどではないが、長老と、二、三人の若者だけ、そして全員、男が参加したレベルであった。忍生にとって、あの天羽直幸との宴の高揚感は何であったのかとむなしさが増した。この会合に対しての村の人たちの受け取りは、嵐などによる大きな価値ある漂着物の分配の相談の延長と考えていたようである。

 忍生が白鳥珠のいきさつを話し、そして、ありかの目星を説明した。
 「わしの目星はこういうことだ。津波の前の潮の干あがりで見えた石の場所はここだ。そしてここに白鳥珠があるに違いない。」
 忍生は、大きな囲炉裏の灰に炭の粉を使って描いた地図を指して説明した。地図は炭の粉で海岸線が描かれ、海と思しきところにポツンと小さな赤い実が置かれていた。そして海岸線には二個の白い米粒が置かれていた。忍生の説明が続く。
 「わしと、スケセイさん、そしてサキタマルが沖から見たかぎりでは、津波はこちらの酉と戌の中間方向(北西方向)から来た。どうしてこう決め付けるかというと、これは大坪浦の海岸線が真北に沿って走っているのにその浜に波が磯根を先にして八幡の浜の方へぱんぱんぱんと崩れて行ったから、その時間差から見て間違いない。そして、トウフ石はここにぶちあがった。ということは、トウフ石はこの線に沿って流されてきたことになる。」
といって、忍生は火箸の先で灰に線を引いた。
「問題は、トウフ石があった、もとの場所が、この線のどこかということだ。」
「いろいろあの時のことを思い出して見ると、波が磯根に当たる前に、トウフ石に当たった方が早かった、一瞬早かった。そこで、このことからあれこれ絵を描いて、だいたい目星をつけるとまあ、二丁半ということになった。波打ち際から二丁半沖ということだ。もっともこれは実はあまり自信がない。三丁ともいえるし、五丁ともいえる」
「しかし、これは悩んでも仕方がない。この場所を現場で確定して、まず竿や網、潜りで探ってみる。そして石があればよし、なくてもこの場所を起点にして次の探る場所を決めていく。そしてこのように絵図にして、探った場所を描いていく。石がなかったら×を描く。と、こういう手順で行けば同じところを何度も何度も探るなどの無駄がなくなる」


 忍生の説明に熱が帯びてきた時、話の端を折るように、漁師のカミウチが口を挟んだ。
「現場を決めて、そこに目印を打つのか?おもりに浮きと旗かなんかで目印を打つんかえ?」
「もちろん打ちたい。そうでないと基準がずれることになる。探査する前に基準がここだあそこだと騒いでいたら仕事にならねえ」
「そんならおれは抜ける。一緒にはやれねえ。場所の決めは漁師の第一の技量だ。そのために毎日山見や潮見で腕を磨いてきた。これは自分だけの宝だ。だいたい天然のもの以外の目印を海に付けるのは法度じゃねえのかよ。大昔の寄合で決めたことじゃねえのかよ。だいたいが浜を絵図にすることからして法度破りじゃねえのか?」
「法度破りだから相談している。あんたは褒美はいらねえのか?」とスケセイが言った。
「褒美はほしいさ。そんだけれども漁のあての場所にみんなが目印をつけたらそれを使って採った魚の権利はどういうことになるんだよ。目印を使ったか使わなかったか誰が調べるんだよ。正直にいうやつばかりとはかぎらねえだろうよ」
まてまて、とゴンゾが言った。
「カミウチさんのいうことはもっともだ。ついこの間までおれもそう考えていた。だが、この間郡司様のところへ行って、郡司様の話を聞いて考えが変わった。俺たちは結局自分が探したわずかの宝を秘密にして独り占めしようとして、皆がそういう動きをした結果が皆一様に貧しくなって行くんじゃねえだろうか。逆にあそこへ行ったら獲れたと皆に言うことで、その場所がどういう条件の時採れるかが皆の物になり、それをみんなが使えばみんなが今よりは少なくとも今よりは良くなるはずだ。実はこれは下に見過ぎた見立てで、俺の正直な見立てでは、こうやれば漁は二倍三倍になるはずだ。こういうことは漁ばかりじゃねえ、他にも使えるはずだ」
「獲物の分配法はまた、会合で決めればいいが、俺の考えは基本的にみんな一緒だ。平等だ」
と、いうことで、カミウチもいやいやながら納得し、基準の目印が大坪浦の沖合に立ったのは一か月後であった。
 実は、その場所を竿でつついたり潜って探した限りでは、「石」は見当たらなかった。忍生は起点の旗に墨黒々と「無不空波」と書いた。人が何の字だと問うと、「般若心経にたくさん出て来る字だ」と答えた。忍生は自己の修行の起点だと考えている。

 忍生を中心にして白鳥珠の探査が始まった。
 おもり付きの釣り針を海の底に垂らして、それを引きずりひっかかりを待つというやり方だが、忍生のやり方は海にやたらに目印の旗を立てる(要するに、探査の結果、×だった場所を示す旗を立てる)ところが普通の釣りと違っていた。しかし違いはそれだけだったと言えるようなものであった。
 何日かはみんな面白半分に海に糸を投げては引き揚げ、当たりを待った。たまに当たりがあることはあったが、そのほとんどは、小さなこぶし大の小さな岩か石であった。ごくたまに大きそうな石の当たりがあったが、それは磯であったり、磯に生えている海藻が釣り針に絡まったためであった。そして×の旗を投げ入れられる。
 そして五日目、さすがの忍生も、大きな海の中で、あっちかな、こっちかなと糸を投げては引き揚げる動作に疲れた。当たりが無ければないで、そこは完全にダメだということで、探査の場所が目に見えて狭くなるならまだ達成感があるが、みすぼらしい×の旗が広い海にゴマ粒より小さなゴミのように心細げにちらほらと見える今までの成果の様を見ると、それを見ただけで、今日これからやる仕事がバカげて見えてしまうのであった。

 ある会合の時、忍生は、紙に二艘の舟に乗った男が向かい合って綱を引っ張りあっているような絵を皆に披露した。紙はこの前、天羽直幸からもらったものである。
 忍生は絵を指で示しながら説明した。
 「いいか、これは魚の目で見た海と思え。こっちが空で、こっちが海底だ」
 みんなが首をひねっている。側面図を見たことがないため空間認識がむずかしい。空と海底がなぜ線になるのが分からないのである。しかし誰かが「水の入った玻璃の壺を横から見たようなもんだっぺ」と、いったので皆、ああそうかと納得がいった。
 「いいか、この舟と舟の間は半丁(五十メートル)とする。綱の長さは全部で一丁半。綱の真ん中に釣り糸を垂らす。そしてこっちの無不空波側の人間、親というとすると、この親が綱をゆるめ、こっちの人間の子供は綱を手繰り寄せていく。当たりは親子の二人が見ていることになる。そうするとこれでこの線の石探しが終わる。」
 「終わったら、子供が二尋場所を移って、親は動かねえで、前と同じことをやる。要は、この無不空波の旗を中心にして、釣り針を行ったり来たり動かしながらぐるっと一回りすると、起点の旗の周り一丁、ざっと一町歩の全部の調べが終わることになる。」
 みんなが、うん、なるほどというような顔をした。すると、専門的な考えがみんなの頭の中から出て来る。例えば綱の手繰り寄せと、ゆるめ送りの息が合わないと舟が互いに近づいてしまうとか、半丁に綱を引っ張るのはかなり力がいるんじゃないかとか、もろもろのことである。忍生は、それらはみんなで造って試してみて改良してくれといった。


 「そうだよな、はじめっからこうやればよかったんだよな。いままでやったことは骨折り損の無駄ってことかな」と、カミウチが皮肉のこもった言い方でいった。
 「いや、そうでもねえ。」といって、忍生はもう一枚の絵図を示した。
 「これは、鳥の目で見た浜だと思え。これは最初の会合の時、囲炉裏に灰で書いた絵図を写したもんだ。ここに、今までみんなが調べた分を全部書き込んだ。」
 その絵には、海と思しき所に、点々と丸印が描かれ、丸印のそばに小さな字が書かれていた。
 「自慢じゃねえがおれたちは字が読めねえ。何と書いてあるんだ?」と誰かがいった。
 「みんなが調べて報告してくれた、海の深さと、磯なのか砂なのか、そして海藻があるかどうかということを書いてある」
 「まだ空白で何も書いてねえところが多いが、これだけでもこれを元に俺はこんな絵を描いた。」と忍生は言って、三枚目の絵図を示した。皆が「おう」と感嘆の声を上げた。
 「磯とあるもの、砂とあるものをそれぞれつなげて見た。分からねえところは適当につないだ。そんでもって深いところは紺色、浅いところは群青色、磯は茶色、砂は白、そして海藻があるところは緑に塗ってある。」
 「これをスケセイさんに見せたら、この絵は俺が知っている漁場を全部表しているといった。例えば鯛の漁場は紺色の茶色の場所だっていうことだ。サバやアジの回遊性の魚は緑の部分だ」
 「この絵はそれこそザクッしたものだ。それでも村一番のスケセイさんの覚えと同じ質になっているんだ。これからの調べを書き込んで行ったらそれこそどれだけの宝がみつかるか分からねえぞ。もちろん白鳥珠を探すのが大事だが、調べるってことは、そして絵図に描くということはどれだけ大事なことかということだ。」
 みんなの驚嘆が続いた。考えて見れば、何じゃもんじゃと難しそうなお経やまじないをして、自分だけが分かったというような顔をして、いばっている人がいるが、あれは本当はあてずっぽうを言って、びくびくして、それを隠すためにやっているんじゃねえかと、誰かが言った。
 忍生は、この絵を大きくして、神社の拝殿の壁に張る、といった。調べが進んだらどんどん書き込んでいく、そして誰でも見て、漁に使ってくれと言った。
 そういうことになると、文字が読めねえんじゃ人に遅れることになる、忍生さんよ文字も教えてくれよという意見が出た。
 「文字は簡単だ、これが一、これが二だ。」
 「あんだそれだけかよ。何でだれもそういうことを教えねえんだよ。じゃ三はこうか。」
 「そうだ」。じゃ四はこうか?」、「いやそうじゃね。こうだ」、「ああそれだから分からなくなるんだ。俺の頭じゃ三までだ。」みんながどっと笑った。
 会合が終わって皆が帰り、忍生が後片付けをしていると、それまで黙って聞いていた村主のゴンゾがしみじみといった。
 「忍生さんは不思議の術を使う。」

 白鳥珠の探査作業は順調に進んでいる。しかし、進んでいるのは「作業」であって、二ヶ月たっても三ヶ月たっても白鳥珠は見つからなかった。もうすでに探査は大坪浦、八幡浦全体の八割方は終わっているのである。それでも白鳥珠は見つからない。
 「まあその代わりと言ったら何だが、おかげで海底の絵図面が出来上がってきている。これだけでもえらいもんだ」と、梶取りのスケセイが忍生をなぐさめた。
 そんなある日、郡家で紹介された天羽直幸の若手配下の三人が忍生を訪ねて来た。当面の援助金や紙などを持ってきたのである。
 場所は八幡神社の拝殿である。ここには奉納絵馬のように巨大な海底絵図面が出来上がっている。しかも探査の進行と共に日々新たな事柄が書き加えられていた。
 「ほほう、これはたいしたもんだ。まるで浦島子になって、亀の甲羅から眺めたような景色だ」と、緒方常春が感嘆の声をあげた。
 「たしかに、これで鯛やヒラメが泳いでいればそれこそ浦島子の世界です」と忍生が応じた。「残念ながら鯛もヒラメも見えねえが」と緒方。
 「いや、そうでもねえんです。八幡の皆の衆の体験を集めて見ると、それこそ季節、季節、潮の満ち引きのそれぞれで鯛やヒラメがどこにいるかがわかって来たのでさあ」と、忍生が誇らしげに言った。
 忍生は「漁礁」という言葉を使った。どんな魚も漁礁に集まりやすい性質を持っている、そして漁礁とは、我々人間の要害の地に似た岩陰だということを説明した。
 平らなところや、なだらかな凸凹の場でなく、屹立した崖が続く場所やほら穴のような場所が漁礁なのだという。

 「絵図面に見える漁礁がたくさんありますが、これは、八幡の衆がそれぞれ秘密にして持っていた魚のあたり場の場所にぴったりと合っていました。魚の集まる場所は、海の要害の地だったのです」と忍生が付け加えた。
 「では、あの津波で漁礁の一つが失われたというわけですね」と、郡司の若手配下の一人の武石常重が言った。
 皆、一瞬、武石が何を言っているのか分からなかった。
 「いや、津波でオカに上がったとうふ石は、海にあった頃は立派な漁礁だったんじゃねえかと思ったんでね」と、武石が説明した。
 皆、ハタと膝を打つ意識があった。
 津波前と津波後の漁礁の位置を比べて見て、津波前は漁礁だったのに、今は漁礁ではない場所があったのなら、その場所がとうふ石が沈んでいた場所だと言えないか、ということである。
 もちろん津波前の漁礁の位置は分からないが、津波前に魚の当たっていた場所は八幡の衆全員の頭の中を集めれば分かる。そしてその中に、津波後、魚の当たりが無くなっているところがあるとすれば、そこがとうふ石が沈んでいた場所だということになる。
 緊急で八幡の衆全員が八幡神社の社頭に集められた。
 忍生が説明する。
 「いいか、あの津波前と、今で、魚の当たりが変わった所はねえだろうか。昔は魚がよく採れていたのに、今はさっぱりだという場所だ。心当たりはねえだろうか」
 「俺らが感じる限りは、津波の前後で変わった所はねえ。津波直後はさっぱりだったが、そのあとは昔と変わりがねえ」と一人が言った。皆ほとんどそのような意見であるようであった。
 「今、神社にある海底の絵図面に描かれていないあたり場をしゃべろと言っているんじゃねえ。昔はいい場所だったが、今はさっぱりだという場所だ。しゃべったところで損にも特にもならねえ話だ。心当たりがあれば言ってもらえねえだろうか」
 「俺にひとつ心当たりがある」とカミウチが言った。白鳥珠探査の最初に反対した漁師の一人であった。
 「だけんど、おれはしゃべらねえ。もっとも、もし、皆が、絵図面に出ていない、魚のあたり場をしゃべると、全部しゃべるといえば、おれもしゃべってもいい」とカミウチがいった。
 かんかんがくがくの話が続いた。なかなか話がまとまらなかった。しかし、村主が、あと二割方残っている探査が終われば、今隠している秘密の魚のあたり場も白日の下にさらされるのだという説得が功を奏して、まず、残りの、今の絵図面にない秘密のあたり場の披露をしてから、カミウチの話を聞こうということで決着がついた。
 カミウチが示した場所は、忍生らが初めに想定していた、あの忍生が「無不空波」の旗を立てた場所だった。
 これを聞いて、忍生はがっかりした。なぜなら、そこは一番最初に潜って調べたところであり、何も見つからなかった場所だったからである。
 こんどは自分自身で潜ってみるか、それでだめなら、残ったあと二割の海を調べて白鳥珠探査は終わりだ、と忍生は思った。
 白鳥珠探しの寄り合い後の酒盛りを逃れて忍生はひとり松山の中をさまよった。果てしもない徒労がとにかく終わる。あのひらめきには明らかに今までとは異質の希望があると感じていた。
 時あたかも玉の露を松葉の末に置き、秋風が澄んだ音を立てる季節である。大きな月が皎々と波を蒼く照らし白波は輝きを増している。振り返ると松葉もエメラルド色に染まっている。背後の山は闇の中岩間の清水は音もなく青く滑っている。忍生は、今ここに見えるものすべてが瑠璃光浄土だと感じた。そしてその時、脳髄の奥深くから「おまえは瑠璃光浄土に住まう娘に会いそして二人で果てしない西へ行く。」という声が聞こえた。

 7.発見

 「無不空波」の旗の下の最終的な捜索が始まった。
 今日は、天羽直幸の計らいで、安房から三名の海女が参加することになった。直幸は来なかったが、若手配下の緒方常春、武石常重、三崎頼常は顔を見せていた。
 八幡の三艘の大船も集結していた。そこに海女衆、郡家衆、忍生らの八幡衆がそれぞれ乗っていた。
 やがて三人の海女が潜って行った。忍生は祈る思いで見送った。彼女らに見付けられなければ、最後は忍生自ら確認で潜るつもりであったが、本職の海女に見つからないものが忍生に見付けられるわけはない、ということは分かっていた。


 「あれ、もう上がってきた」と皆が思うように、待つほどもなく一人の海女が上がってきた。海面に顔を出すと、ひゅうーと海女笛を吹いて、「石があるよ。白い石が三つあるよ」と簡単にいって、また潜って行った。
 人々はぽかんとあっけにとられていた。あんなに苦労して見つからなかったものがこんなに簡単に見つかるとは何だという思いであった。
 やがて、三人の海女が上がってきた。それぞれ手に持った大きなアワビを掲げて手を振っている。「こんな大きなアワビを誰も取らないんだ」と、八幡の海の衆をバカにしたような顔をしていた。

 三艘の大船を寄せて、皆で海女の話を聞くことにした。
 海女たちの話によると、磯がお椀のようにくぼんでいる場所に、くぼみを埋めるように三つの白い石が沈んでいるということであった。トウフのような大きな石が「ハ」の字になっていて、その股の間にサイコロのような小さな石がはさまっているということであった。
 しかし、今度の探査ではこんなにはっきり見えていたのに、なぜ前の探査で見つけられなかったのだろうと皆が思った。全体として、くぼみを埋めるように石があったのだから竿や釣り針での探査に引っかからなかったのは分かるが、この場所は八幡衆が潜って直接見て調べていたのであった。八幡衆はあきめくらかという思いであった。


 しかしこのことについては、海女は別に八幡衆を見下しはしなかった。津波直後には海底から泥が舞い上がり、または磯を泥が覆って、石も何も見えなかったはずだ、というのである。さすがに安房の海女は津波後の海底の様子をよく知っていた。
 日をあらためて石を引き上げる、ということでその日は散会した。天羽直幸から海女たちに多額の報酬が支払われた。
 その後、八幡衆は石の引き上げ計画に入った。忍生は海中からの重量物の引き上げはよほど難しかろうと危惧していたが、こちらはほとんど八幡衆の専門の仕事であった。石は海中では半分の重さになるという。海水が入らない緻密な石はなおさらであるという。八幡衆は引き揚げをたいした仕事とは考えていない。


 一ヶ月後、石の引き上げが始まった。八幡衆が豪語した通り、二個の大石は難なく大坪浦に引き上げられた。先に津波で上がっていたトウフ石より一回り細く、形もさらに細長くなり、トウフというより柱のように見えた。
 ところが最後のサイコロ石がなかなか上がってこない。もたもたして、やがて親綱が切れてしまったといって、その日は仕事が中止になってしまった。
 忍生が、梶取のスケセイにわけを聞くと、「重い」というのである。三尺角くらいのサイコロなのにやけに重い。綱が切れてしまったので、綱を今から作って、二艘の大船で揚げる段取り替えを含めると引き上げは一ヶ月先だ、ということであった。
 今か今かと固唾をのんで見守っていた忍生は、一ヶ月先だと聞かされてがっかりしたが、反面、その異常な重さは、サイコロ石の中に何かが潜んでいる証拠だと思われた。それこそ白鳥珠ではないのか。

 いろいろないきさつがあり、苦労して揚げたサイコロ石が、今、大坪浦の波打ち際にある。小さくて重いので、しかるべきところに持って行ってそこで中身を調べるのには運搬手段その他の道具が八幡衆に準備できなかった。そこで波打ち際のここで、開けてみて、中身を取り上げ分散して運ぼうということになった。


 もちろん郡司の天羽直幸立会いのもとでの開蓋である。
 サイコロ石は一辺が三尺あまりのサイコロ状をしていた。表面はメノウのように磨き抜かれていた。一緒に上がった仲間の石と種類は同じだが、表面の研磨状況はまったく違っていた。
 蓋と本体との境と思しき所に、四分くらいの溝があるが、ここに黒い粘土のようなものが詰まっていた。密封接着剤のようなものに見えた。忍生は越後などで取れる、燃える水と一緒に出て来る接着剤だと断定した。蝦夷が使う、鏃(やじり)の口巻、根太巻の固定用に塗るもので火であぶるとやわらかくなる。しかし場所が場所だけに熱い炭を当てるような調子ではおぼつかない。ふいごとつながった吹付あぶりが必要だということで、望陀郡の大鍛冶、大野氏が呼ばれていた。これは、天羽直幸の口利きである。


 吹付あぶりは真ちゅうの管のようなもので、そこに、いつぞや忍生が食あたり患者の胃洗浄に使ったようなやわらかな管がつながり、その終端にふいごがつながっていた。
 大野衆がふいごを踏むと、シューシューと生き物の息のような音がしてやがて、吹付の先から青白い炎が勢いよく出てきた。大野衆は周りの見物衆の驚嘆の目を十分意識しておもむろに、石櫃の溝すじにあてた。ピシッ、ピシッと石櫃が音を出すが、大野衆は専門家の大胆さで、炎の勢いを弱めようともしない。やがて、溝からドロドロと黒い液体が流れ出し、浜の砂に流れ落ちた。


 サイコロの一周をそのような調子であぶった後、大野衆が裁判官のような声音で言った。
 「もういいでしょう。熱いうちに開けてみてください。石が熱いからやけどしないように。熱いからと言って水をかけないでください。せっかくの立派な石櫃がわれちゃいますから」
 八幡衆がサイコロをかこんで六人で、タガネを使って蓋を開けに入った。
 ポンと音がして蓋が動いた。
 「さて、あけるけど、いいかな」と八幡衆。
 忍生は、一応、皆を下がらせて、天羽直幸の合図を待ち、開けろの合図をした。
 蓋が上がった。

 石櫃には水の侵入がなかった。
まず、錦の袋に入った砂金が十袋取り出された。一袋は一貫目(約四キログラム)である。これだけで浜中はもう興奮の渦となった。
 次に朱が二百斤(約十二キログラム)、次に一升徳利のような透明ガラス容器が五本。中身は水銀のようであった。
 ここまでは、普通に宝物と言える範疇のものであったがその下に入っていたものはだいぶ様子が違ったものであった。
 分厚い鉛の板が大量に出てきたのである。これらを取り除いて行くと最後に白い絹布でくるまれた鉛の箱が出てきた。そして最後に一枚の文書が出てきた。
 天羽直幸の許しを得て、忍生が文書を見ると、内容は宝珠の取り扱い注意点というような内容であった。「霊力が強いので、鉛の箱から取り出すのは最短時間にせよ」ということであった。周りの人々の子孫を絶やすような悪効果があるというのである。
 しかし、それ以外の、忍生が期待していた。宝珠による金鉱脈の探査の仕方などというものは一切書かれていなかった。


 忍生が天羽直幸に相談すると、直幸は言った。
 「八幡衆をはじめとして多くの人々の協力で得た宝である。箱から出して、ここの囲炉裏で五合の水が沸騰するまでの短期間だけ、皆に閲覧してもらおう、その後はすぐに箱にもどせ。そして、鉛の板は多分、霊力を遮る効能があるのだろうから、そばに来て宝珠を見るものは、それを盾のように前にかざしながら、横からちらっと見るがよかろう」ということであった。


 忍生は、鉛の箱の蓋を開けた。中から、菩薩がかぶる宝冠のような金細工の入れ物が出てきた。正面には二寸余りの金で鋳込んだ阿弥陀如来像があり、頭上からは八方に光輝線が走っていた。背後の透かし彫りもすべて金細工であり、そこに水晶、ガラスメノウなどが銀の糸につながってつらなっていた。そしてそれらは出来てから数百年の年月を感じさせないほど燦然と輝いていた。そしてこの入れ物の中に直径三寸はあろうかと思える巨大な真珠が収まっていた。これが、いわゆる白鳥珠の本体なのであろうと、全員が思った。

 8.忍生、さむらいになる

 大坪浦で発見された白鳥珠は、近在の地域に驚愕を持って迎えられた。偽物だろうとか作り物だろうとかいう声は、その圧倒する富の量で消え失せてしまった。従って忍生が語る伝承も真実であると信じられ、天羽郡の信用はこの白鳥珠の存在で格段に上がったのである。
 「富」とは何であろうか。
 幾多の火災にもその都度再建され、多くの古仏を保存している南総の小松寺に次のような伝説が伝わっている。
 「旭さす夕日輝く双樹の下に漆千盃、朱千盃、銭十億万貫を埋めておく。非常の際はこの財宝を用うべし」
 漆とか朱は今でも高価である。しかし今でも使い道が限られていて、換金には苦労するだろうが、出所が堂々と説明できれば、買いたたかれることもなく、従って昔も今も富といって間違いない。銭は説明を要しない。(ただ漆は長期の保存ということになると問題があろう)しかし、この三つで富を保存するとなるとかさばるかも知れない。


 なお、小松寺の伝説の、漆、朱と銭の換算比率はちょっと不自然である。この類の話では、三つがほぼ同じ価値になるようにと考えると思われるので、そうとするなら、銭の量の「億」は余分かも知れない。
 小松寺伝説に出てこない宝は黄金である。
 白鳥珠と共に出てきた黄金は、日本の全歴史の中で国内では奈良時代に初めて発見されて以来、佐渡金山発見まではたいした量は出回ってはいない。唯一例外的に奥州に(現代的な尺度で言えばわずかだが)偏在した。佐渡以前の日本国のありようは、奥州の金の争奪戦と単純化出来ないこともない。
 「さて、どうするか」白鳥珠発見以来、天羽直幸は日に何度もつぶやく。
 「さて、どうするか」この富を元手に「さて、どうするか」である。


 直幸の当時の日本国を概観して見ることにする。
 白鳥珠が発見されたのは万寿元年(1024)。当時の左大臣は藤原頼通。父の道長は病気がちであるがまだ大御所として生存。文学史上有名な菅原孝標はこの四年前(寛仁四年)上総介としての四年の任期を終えて娘らと共に帰京している。上総介として孝標の後を継いだのは、平忠常であった。(ただし権介で世襲にもなっていない。万寿元年の今、常識的には任期が切れることになる)
 このころの日本史年表をひも解くと次のような記事がある。(興味あるものだけ)
 万寿元年(1024)、能登国の百姓陽明門で国守の善状を提出し延任を求める。
 万寿三年(1026)、頼通、中宮威子の安産を祈るため仏師定朝に仏像二十七体を注文。
 万寿四年(1027)、内裏に盗賊が入り、女官の衣をはぎ取る。常陸国の百姓上京して常陸介藤原信通の善状を提出し、重任を請う。藤原道長病にたおれる。
万寿五年(1028)、前上総権介平忠常東国で反乱。

 ここで急きょ、話は、万寿元年の時代に戻る。
 「さて、どうするか」のつぶやきの中から、天羽直幸が最初に決めた結論を忍生に言った。
 「忍生さんよ、あんたさむらいにならねえか?」
 さむらいとは何か。「馬と弓と刀を持っているもの」である。それぞれの技の力量は必ずしも必須条件ではない。しかし、馬に乗れないような、弓も引けないような侍は、侍としてはすぐ失職するであろう。


 馬も弓も刀も高価なものである。従ってそういう道具を持っているということで信用が出来、職がついて回る。職とは、結局、税に関わる、徴税、運搬、とその護衛である。要人や高貴な女人の護衛も重要な仕事である。それと断続的に行われる奥州征伐という名の東北への示威行動が加わる。これらの仕事をするのに、野刀や竹を曲げただけのような弓を持って現れたら、百姓と総称される納税者や蝦夷といわれる東北人は鼻で笑うだろう。侍は綺羅でなくてはならない。道具だけでなく、伝説(手柄話)も綺羅であらねばならないのである。
 さむらいの最初の姿は、常備軍の将校か宮中を警護する武官という形であったが、常備軍が廃止され残ったのはお飾りのような仕事だけとなったが、すぐに治安が乱れて、其の上に奥州征伐や打ち続く俘囚反乱への手当てという体験を経て、道具が変質していく。中でも大きく変わったのは乗馬と日本刀であろう。この中では乗馬が遅いかもしれない。大嘗会の警護や検非違使などその出動姿は徒歩であるからである。


 さむらいの登場は世界史レベルで連動している。古代帝国の唐が滅んだあと、中国ではいくつかの王朝の興亡があったが、支配領域は小さく、そんな中で西北のモンゴルが徐々に優勢となって行く。モンゴルは乗馬に弓と乗馬に適したズボンで武装していた。これに対峙するために自称文化度の高かった中央が、野蛮人のまねをしたのである。この状況は日本も変わりない。
 馬も日本刀も奥州との接触で変質を余儀なくされた。いわば、さむらいとは征夷の中から育ったものである。
 天羽直幸という後ろ盾のある忍生が侍になるにあたって障害になるものは何もない。さむらい修行には上総は持って来いの場所である。かっての俘囚は各所に根付いて繁栄し、馬もあれば、刀もあれば、弓矢も事欠かないし、その師匠はいくらでもいるからである。残るは本人の意志だけである。
 忍生は苦笑いである。この時代、侍のなり手は大地主や荘園の庄司の若当主か若い次男三男というところが妥当なところであり、治安維持の最先端であって、忍生のような修行者や乞食とは本来は犬猿の仲なのである。現代の街風景に当てはめれば、侍とは青年商工会議所、一方忍生はホームレスである。
 しかし、結局、忍生はさむらいになった。

 忍生は結婚した。天羽直幸のはからいである。相手は東金の上総氏の一族の娘である。年令は忍生より八才上で、当時としては限りなく姥桜である。姓を粟飯原といった。
 そういうことで、忍生は姓を持ち、粟飯原(あいはら)忠直と称することになった。諱の「忠」は、国府の権介平忠常から頂いたもの、「直」は天羽直幸から頂いたものである。
 当時の結婚生活は、男が女のもとに通う形式であり、男に財産があればいろいろな形態が考えられるが、忍生のような体しか財産がない人にとっては、通い婚以外の形はない。通った先でどれだけ優遇されるかは、その男の力量次第だから、今の忍生改め忠直は単なる種付け者である。極論すれば家畜の飼い主が家畜を大事にするように忍生を大事にするがそれだけである。繰り返すがその後どうなるかは、忍生の働き次第である。まず子をなすことが大事だが、その他に、働きには結婚相手と色恋に陥ることで彼の立場が変わることも大いにあり得る。当時は妻系からの引きが男の運命に大きくかかわっていたからである。


 現在の忍生は、天羽郡家と、国府と、東金を行き来している。
 郡家では、もっぱら白鳥珠の研究である。大坪浦からの引き上げ以来、白鳥珠は天羽郡家に保管されていた。忍生はここに通ってその使い方、すなわち金や金鉱脈に反応するかを研究しているのである。
 いつぞやは、冬の寒い夜まで、白鳥珠を部屋に出して砂金を近づけたり遠ざけたりしていたことがあった。何らかの変化がないかといろいろ試したがまったく変化の片りんもなく、どこから手を出していいかが分からなかった。


 そんな時、照明の手燭から出た煙の臭いが気になって、部屋のしきみ戸を全部開けたことがあった。その時、外から冷たい風と共に濃い霧が押し寄せたかと思うと白鳥珠から四方八方にリン光が現れた。しかも、それに呼応するように細い小さなリン光が部屋中に乱舞したのであった。忍生はその怪しげな光に見惚れていたが、我に返って、あわてて、砂金をあちこちに移動してみた。しかし、リン光は金の動きには関係ないようであった。そのうち、リン光も消えた。白鳥珠から人の目には見えない何らかの霊気が出ているだろうことは分かったが、謎がまた深まった。
 忍生は国府には、さむらいの表芸である笠懸、流鏑馬、犬追物などの練習に行く。かれの侍としての所属は、上総国の検非違使の配下である。身分は高くない。史生、舎人、雑色などの最下級の官でもなく、非常勤の番上官の一員といった格である。
 国府には、「史」をあつかう部署があり、史生が詰めている。史生などは普通現地採用の卑官であるが、今の史生は夏野金盛という京からの流れ者である。忍生は暇を見つけては、ここの書庫に通った。忍生のこの辺の知識は、並みの侍の程度を越えていた。書を借りては読み、分からない所は夏野に聞いて確かめた。


 そんな中、忍生は一つの書に注目した。「上総国司解古老相伝旧聞申事」という表題の書である。(現代風に言えば「上総風土記」)都から見た上総国の地理位置関係、上総という地名の起こり、地形概観と土地の沃度具合、都との結びつきで転機となった歴史的事実などが書かれているようであるが、時代を示す天皇の名前表示が「美麻貴の天皇の天下しめしし御世」などとなじみにくい、地名の起源の説明はだじゃれ以下で面白くないなどなど手こずっていた。しかし、概要の後に続く「郡」ごとの旧事、語り伝えは物語風で面白かった。忍生は、自分に関係のある須惠郡、馬来田郡などを熱心に読んだ。倭武尊は倭武天皇と記されていて各地を巡幸していること、須惠珠名伝説、鹿野山や讃岐枝浜の歌垣伝説環の巨人伝説、各地の天狗伝説などを面白く読んだ。
しかし、これで上総の政界が分かったかと言えば全く分からない。忍生はさじを投げ夏野にこの書を基に、上総の政界について解説してくれと頼んだ。

 夏野は快く上総の歴史、それと、中央政界と、上総の政界について教えてくれた。
上総国は日本国草創以前、紀の国の漁民が開いた国で、大きな半島で地味も豊かで人が多く災害も少ないので古代国家的に繁栄していた。しかも東北は香取の海、北西は湿地帯で阻まれているため、丸木舟の時代には軍事的に攻められにくく、この意味でも小さくまとまった国として安定していた。
しかし、構造船の時代になり、海岸の要害が要害でなくなった時代になって、豪族の跡目争いの中で、誰かが京の勢力に助けを求めたのに乗じて京の軍勢が上総国に渡ってきたため、半島内が大混乱し、結局、上総国の独立性が失われたことになった。あんたの読んだ「風土記」はこの間の過程を、東北の蝦夷討伐に引っかけて説明したものなのさ。上総の国人はしかし、かっての独立指向の意識を残した。
そして機会は二百年後に訪れた。上総国はこの第二の日本国膨張期には日本国の辺境ということになり奥州戦線の前線基地として出発した。これは坂東八州同じ出発であったが、平安遷都後、桓武天皇の皇子整理の一環として上総国が親王任国に認定され、さらにその直後に桓武平氏が上総に土着したため、ここの桓武平氏の心の中に、上総国は桓武血流の中で中央からの独立色を濃くして、(辺境であるが故に)小さなことは現地で裁量する権利を得て、これで奥州に対するという(大義名分のもとに自領を気ままに納めたいという)意識が芽生えた。実際その初期には土着平氏の中から奥州鎮守府将軍などに任命された者もいて、自分たちの意識と実態が合っていたが、時代が経るに従って、天皇との距離が遠ざかり、間に律令の官が入り、更に上に摂関藤原氏が入って、官が、桓武平氏の特殊性を理解せず、他の現地豪族と同じ扱いをしている、と不満を感じた。


 結局その不満爆発が、平将門の乱ということになるが、将門は成り行きから、自らを新皇と称してしまい、親王を現地に招いていただくという王道を忘れてしまったため坂東独立の目論見は失敗に終わった。
 しかし、この以後も、上総国の王道としては、親王を上総に招いて征夷大将軍としていただき、将軍の政所で、上総はもちろん、坂東八州を、京の朝廷(実態は藤原氏摂関体制)から独立したかたちで、ほしいままに裁量する、という意識は持ち続けていた。
 上総国は常に、親王を拉致してでも現地に招いて引っ担ぐ意識を持ち続けて機会をうかがい続けていたということである。
 以上が、忍生の学んだ上総国史であった。
 そして、忍生が学び終わったのを待っていたように、忍生に召集がかかった。上洛するということであった。


 権介平忠常と権郡司天羽直幸は、白鳥珠を遥任の上総国大守である盛明親王に献上すると決意した。ついてはその目録と献上趣意書を届ける使者として、忍生にその一員になれということであった。
 白鳥珠を親王に献上するという嘆願書提出案は、上総介藤原長能と権介平忠常との間でかんかんがくがくの議論の末、藤原長能はしぶしぶ認めた。一年に一度の定期解(太政官向けの上総国事情通信報告書)の中に、上総一宮の託宣という形式で書き込むと約束した。国府の神祇、陰陽の知識を総動員して託宣の形にするといった。そして約束しながら、忠常にもう一度嫌味を言った。律令の中で、地方が親王に直接宝を献上するという道・手立てはない。それを試みたところで、最悪太政官の参議連中に山分けされて終わりということになってしまう。さらに地方の神々の託宣報告は基本的に禁じられている。この辺をつつかれると無視されるどころか逆に罪になりかねない。今、中央は地方への関心を急速に失っている。騒ぎが無ければ、良き様にやってくれてさえいれば、それでいいということである。富などに対する欲望が消え失せているのである。ただ、光明があるとすれば、大御所道長の健康状態である。あれだけ強気で陰陽も祟りも意に介しなかったお人が弱気になっているという。自分の病に関係する託宣なら聞いて見ようという気になるやも知れぬ。そして占い、陰陽などとなると女のすじからの攻めがきくだろう。しかし、むずかしい。


 それより、夜陰にまぎれて摂政関白の政所に持って行け、目録でなく実物をどさっと持って行け、これだけの宝なら道長公も感心するだろう。そうすれば官位といい望み次第ではないか、そして自分も献上者名簿の一員に加えてくれれば万々歳だ。道長公は決してうやむやにしない。それを信じて、夜陰に持って行くのが肝心だ、と、いうのであった。


 忠常はからからと笑って、そんなことだから今の日本国の体たらくになった。大蔵省の国庫は百年も前からネズミの運動場になっているという、中央の官僚共の給与は今や道長から給付される手当に変わったという。官僚共も意気地がない、なぜ道長ごときの手から金をもらわねばならないのか。考えて見ろ、国庫を空にした盗人の張本人からなぜ給与をもらわねばならないのか。


 あんたの同族だから言いにくいが、道長の先祖の鎌足など、父は鹿島宮の神人の端くれ、母はそれこそ上総の在の矢那郷の百姓娘ではないか。まあ先祖がどこの馬の骨であろうがどうでもいいが、許せねえのは道長が今やっていることは早い話が女衒じゃねえか。もっと許せねえのは道長の東国差配よ。十年前だがあのバカ維良(平維良のこと。貞盛流平氏。ちなみに平忠常は良文流平氏)が下総国府を焼いた時、不問に付したばかりか、その後の維良のワイロ攻勢にコロっと負けてあろうことか鎮守府将軍に任命しやがった。俺はこのヤツの成功を目の当たりにして、それでも俺は間違っても道長ごときにワイロはおろか頭を下げる気はない。


 藤原長能は、忠常の怪気炎に、誰かに聞かれはしないかとびくびくあたりを見回し、そこまでそこまでといって、逃げていった。

 9.上洛

 上総国守御用の一行は、権郡司天羽直幸を筆頭に、平忠常の郎党大佐野賢治、それに護衛の侍として緒方、武石、三崎の面々と粟飯原忠直(忍生)、そして彼らの郎党三十名が従った。馬は五頭である。
 公用であるから、律令で定まった道程があり、馬家があり本来はそれを利用するのであるが、王朝文化が絶頂期に達している今、国(朝廷)は貧しくなっておりそのほとんどは名前だけである。中身は馬借である。ただし金さえ出せば馬も宿も輿も牛車すらたちどころに出て来る。


 天羽直幸の一行は、上総国府から、市川の下総国府、葛西、浅草寺、武蔵国府、相模国府を通って、東海道に出た。坂東の各国府を通ったのは、国府にたむろしているそれぞれの豪族へのあいさつが目的である。彼らのほとんどは、平忠常と祖を同じくしている。
 一行は、箱根の難所では足柄山のふもとの宿に泊まった。宿は身分によって二つに分かれており、上級の宿では、客が到着するなり、遊女が出迎える。遊女達は色も白く髪も長く都びていて箱根や富士、東海道、果ては都の歌枕をそらんじており、古歌がいくらでも口から出て来る。踊りも都踊りである。天羽直幸等は、感心して、さすが街道筋の女は洗練されているといって大喜びである。今夜は観音様でも抱くつもりであるのかもしれない。


 忍生は、さきほどから一人の遊女に釘付けになっていた。
 彼女は目が大きく、顔立ちは彫が深く、色が白磁のように白く、唇は桃のように赤いが、残念ながら髪が縮れていて、しかも赤毛であった。しかし、それを恥じる風もなく、率直に笑い、扇を持たないため、その時大きな白い歯が丸見えになった。彼女だけは、都踊りをせず、ただ、「なにヤとやーれ、なにヤとなされのう」と歌いながら舞うのである。そばの遊女に聞くと、蝦夷のかがい盆踊りであり、「何なりともせよかし、どうなりとなさるがよい」と男を誘う歌であるという。
 やがて、夜の伽の相手を決める時が来た。遊女が好きな男を選ぶのである。(客商売だから男に選ばせないで、遊女が男の好みを計算して選ぶということになる)
 天羽直幸などは三人もが押し寄せてご満悦である。今夜は三人を同時に相手にするつもりらしい。大佐野賢治は、一行の中で最も高貴な姫君といった遊女に選ばれてうれしそうである。かれは甲斐国から上総国にきて、四十を過ぎてまだ妻を向かえず、「とにかく高貴な姫君を」と、日夜観音に願懸けしているという噂があった。


 粟飯原忠直は、あの縮れ毛の遊女に選ばれた。聞けば上つ毛(上野国)から流れて来たという。
 清水、浜松、熱田と似たような宿々に泊まりながら上総一行の旅が続いた。
 この分ならどうにか無事に京に着けるかと皆が安心し出した一行は関ケ原に達していた。ところが、ここを抜ければ、畿内だと油断していた矢先に、一行は山賊に襲われた。幸いだったのは、半時前に切所だからと、念のため全員刀の鯉口を切っていたことだった。
 この頃の山賊は白昼堂々と名乗りを上げてから襲ってくる。小規模の合戦と変わらない。
 「音にも聞かせ給わらん。これぞ海道にはたかしふたむら、北陸道には濃尾あらちの山に名をあげたる盗人の張本尾張国に聞こえ候は、反閉庄司と申すもの、御一行のお宝を給わり候はばや」
 ここまで堂々とつっかかってくると、襲われた方も、負けたら上総はもとより坂東の恥じとばかり張り切らざるを得ない。こちらは人数は若干少ないが、侍の本場を自認している勇者である。緒方武石、三崎の面々は、敵の名乗りが終わらない内に、もちろんこちらの名乗り返しもせずもう白刃を抜いて、敵に殺到していった。
 狭い切所での乱戦が始まったが、最初に攻撃を仕掛けた上総側が優位になり、やがて、山賊側は退却していった。ひとり、手傷を負ったさむらいが残った。
 このサムライは異相であった。髪は金髪で、鼻が天狗のようにとがっていて、顔色は真っ赤であり、目は海のように青かった。しかも背は六尺豊かであった。窮屈そうに日本の鎧を着ているが、日本人ではないことは明らかだった。


 緒方がとどめを刺そうと、白刃を抜いて近づくと、「待て」とこの男が言った。はっきりした日本語でいった。
 「自分は佐渡国から来た大ノ符理男という。自分は白鳥珠の謎を知っている。助けてくれ」
 天羽直幸がきて、いくつか尋問した。そして緒方に「助けてやれ」と命じ粟飯原(忍生)を呼んで、「傷の手当てをして、事情をよく聞いてみてくれ」と命じた。
 粟飯原は京への道すがら、この異相の侍の話を聞くことになった。

 粟飯原忠長と異相のサムライとの話が始まった。
 「あんた、氏姓は何だ?オオノというからには、多氏という鍛冶族の流れか?」
 「いんや、当て字だ。本当はデカ・プリオというんだ。佐渡にいる時、みんなが面白がって、大ノ符理男と漢字を当てて名付けてくれた」
 「どこからきた?」
 「佐渡の西、海を渡ってずっとずっとずっと西だ。大きな川を源流までさかのぼる。三ヶ月かかる。それから、万年雪をいただく高い山を越えると、また西へ流れる大河に出くわす」
 「そのあたりの人々はみんなあんたみたいな顔をしているのか?」
 「いんや、ほとんどはあなたたちと同じような顔つきだ。しかし、さらに西へ行けば我らみたいな人が多くなる。」


 「どんな暮らしをしているのか?天皇やさむらいはいるのか?」
 「馬や日本にいる鹿のような動物のトナカイを飼って暮らしている。馬は乗りものであり、食料であり、酒も馬の乳から作る。衣類も馬の毛皮で作る。人が五百人くらいに集まると互選で王が決まる。王の役割は放牧している馬の囲い込みと、とさつの指揮と獲物の分配だ。王は世襲ではない。なお、戦いをもっぱらとするさむらいはいない。戦士は職業ではない。なぜなら男は全員戦士であるからである。だからさむらいが戦士ということであれば、男は全員がさむらいだ」


 粟飯原にとっては理解不能な解説であった。大ノ符理男の話は続く。
「川は冬になると凍結するので、我々は氷の上を馬で行く」
「そんなわけで我らの旅は冬に行なう」
「川は日本で想像するような規模ではない。時として対岸が見えないほどの広さで、大平原をゆうゆうと流れて行く。そんな川を下りきると海のような大きな湖に出る」
 大ノ符理男は遠くを懐かしむような顔をして話を続けた。
 「白鳥の湖だ。二度目の大河を下って湖まで三ヶ月かかる。日本から行ったら、海を越えた後から数えたとして半年かかる。長い長い長い旅だ。寒い寒い寒い旅だ」
 大ノ符理男の話はこうである。
 彼の故郷の湖は、一年の内、九か月は雪が消えない。ここには淡水生のアコヤ貝がいて、大きな真珠を産する。

 もう何百年も前、この湖に空から巨大な火の玉が落ちてきて、空中で大爆発した。
 その後、採れる真珠の中にわずかだが、夜霧に触れるとリン光を発し、それに呼応するようにあたりに小さな小さな流れ星を出すものが見つかった。おそらくアコヤ貝が火の玉の破片を呑みこみ、それが真珠に変わったものが、この性質を持ったものだろう。
 我らが先祖が何百年もかかって、知ったのは、このリン光が金鉱脈に反応するということと、この真珠の霊気を長時間あびると、人を死に追い込むということと、鉛が霊気を遮断するということだった。
 我々はこれを使って、代々、東に西に南に北に金を探し歩いた。
 各地をめぐって、困ったことが一つあった。夜霧がないとだめだということだ。日本のような暖かな国では使えないのだ。


 我々はこれを解決した。
 我らの湖の湖岸には、太古に氷漬けになった巨大な動物がいくつも見つかる。この動物の胃袋はなめして伸ばすと人が一人すっぽり入れるくらいの大きさになる。この折り畳み広げ伸縮自在の密閉の入れ物を使って我々は、この中に夜霧を作ることが出来るようになった。この中に入ると、昼間でも暖かくても金の反応があるかどうか分かるようになった。
 そして、我々は金を探し続けた。
 そして佐渡にたどり着いたということだ。我々は佐渡で金を見つけた。
 そんな時、白鳥珠の噂を聞いた。どうやら都にもって行くらしい。山賊連中に噂が広がった。そして佐渡の我々のところに話しが来た。山賊から我々へのたのみは、我々に白鳥珠の真贋を鑑定してくれということだった。
 そんなどさくさの中で、自分は戦に紛れ込み、ここに捕らわれの身になっている。
 以上が大ノ符理男の話であった。


 粟飯原は、この異相のサムライの話に、納得するところが多かった。粟飯原は大ノ符理男にいくつかの質問をした。
 「たしかに儂もリン光を見た。しかし、その光は金にはまったく反応しなかった」
 「修行が足りない。いつでも霧が流れるところで何回も調べないと反応の見極めは身につかない」
 「夜霧を発生させる道具を売ってもらうわけにはいかないだろうか」
 「だめだ。それに発生器を使って修行することは難しい。おそらく修行できない」
 「牛の胃袋は大きいがあれで発生器を作れないか」
 「あんな大きさでは話にならない」
 「クジラはどうだろう」
 「出来るかも知れないがやって見なければ分からい」


 大ノ符理男の回答は、粟飯原にとって悲観的なものばかりであった。そういうことであるなら、大ノ符理男を上総につれて行くか、粟飯原忠長が自ら白鳥湖まで行って、金探査の修行をし、また現地で太古の動物の胃袋で霧発生器を作るか、二つにひとつであると思った。または別にまったく違った道があるのかどうか。
 とにかく、天羽直幸に相談してみることにした。

 10.京の吾妻えびす

 天羽直幸ら一行の太政官との交渉は一進一退であるというより、ほとんど退却寸前であった。前例がないというのが最大の理由で、地方から出て来る嘆願は、担当官自身や担当官の上部の面々の意向をおもんばかって、その結論が積極的な意義を見出せないという場合は、保身の方が強く出てしまう。前例のないことに変に顔を突っ込んだら引き返すタイミングを失して、愚民は知らないだろうが前途洋々で有能な我々がこいつら(天羽氏一行)と一緒に太政官会議でさらし者にされてはたまらない、と、いう気持ちなのであろう。


 結局担当官の結論は、目録と共に上にあげるが、解答は次(来年)以後の「解」上申時に通達、ということで決着してしまった。早い話が無期限の保留である。
 それならば、せめて遥任の上総守である盛明親王にご機嫌伺いのご挨拶を、という願いについても、願いの件、遠路はるばる守を慕って一目お目にかかりたいという心掛けはあっぱれ、志はもっともではあるが、残念ながら親王の御健康が必ずしも芳しからず、ということでこれもバツであった。
 日頃、貴人を貴人とも思わず、藤原摂関、何するものぞの暴れん坊、天羽直幸も吠える場所が見当たらず、官僚制度の壁を前になす術を知らなかった。


 ところが、妙なところから、ひとつ進展した。
 平忠常の金銭面の懐刀である、大佐野賢治が、太政官の女官達と、担当官の奥方達全員に、上総の土産ということで、各人それぞれに小さな真珠一個と、紅一包みを配っていたのである。大佐野は都に着くやいなや、朝廷や各所の政所を渡り歩いて、女官達、奥方達のリストを作り上げ、足まめに家々をめぐって富山の薬売り宜しくこの土産を配っていたのであった。
 この真珠と、天羽直幸らが太政官に説明している白鳥珠のうわさが合致して、大佐野が配った真珠には病除けの効能があり、これを手に持つだけで万病に効くという噂の尾ひれがついた。この真実らしい情報が大げさに言うと都中を駆け巡った。
 そして盛明親王のお耳にも達し、「麻呂も一個ほしい」ということになった。結局こういうことで、天羽直幸は、上総大守の盛明親王との面会が叶うことになった。
 もちろん白鳥珠献上の話はしないことという条件付きでの面会許可であった。天羽直幸がその条件を呑んだのは当然である。


 しかし、天羽直幸は、盛明親王の人となりを直接確認して、もし、親王の御力量が自分の意にかなうと見たら、太政官とで交わした約束など反故にするつもりであった。
 そして、その面会の日が来た。
 天羽直幸は、「旅の途中であれば、これはほんのおしるし」と、真珠数粒と砂金を一包みおしい出しながら平伏した。「ありがとう」と、妙なイントネーションで甲高い声が頭上から聞こえてきた。
 親王は、何としてでも真珠だといわんばかりに、これが噂の真珠かと、さけびながら包みをわしづかみにして騒いでいた。直幸の名乗りも何も聞いていない様子であった。まして、上総の事も何も知らないし、知ろうとしてもいない。
 このお方は、ご自身が上総大守であるという認識すらないのではないかと、がっかりした。そんなわけで、白鳥珠の話はしなかった。まあ、欲望を刺激して、十年の教育の後には何とかなるか、独り言をいった。


 面会が終わって下がる時、ああいうお人だと分かっているから、太政官は自分と親王との面会を許したのだと気が付いてアホくさくなった。
 その日の夕方、天羽直幸は、うさばらしだと、祇園社の遊女を総動員して豪遊としけこんだ。もちろん大佐野のおごりである。天羽直幸にとって大佐野は、どこからか金を都合してくる便利な金庫番であった。彼は、噂では、平忠常とは若い時からの同士・友達であり、彼の最初の金儲けは十三才の時、それこそ甲斐の国で、租税の繭運搬中にくず繭を仲買して集め、それを機織り女に卸して、次に布として買い上げ、アッという間に大金を積み上げたという。この時、とにかくこまめに家から家を渡り歩き、得意先の女房に気の利いた小さな土産を持ってくるということと、この人は一体いつ寝るのかと怪しむほど、あの人が来ないかなと思うとなぜかすぐ来るという神出鬼没ぶりで信用を得たようである。
 天羽直幸は、この間、摂関家は意識して無視していた。挨拶にも出向いていない。また、後に大きな影響を受ける二人の武将とも会っていない。


 一人は平直方である。将門の乱で将門に勝利した平貞盛の末である。房総平氏である天羽氏と彼とは同祖である。しかも、貞盛こそ故郷を捨てて本拠を伊勢に移したが、同族は下総、常陸や武蔵に多い。それにもかかわらず貞盛流と忠常や天羽直幸ら良文流とはライバル・敵同士である。従ってケンカで相まみえることはあるとしてもご機嫌伺いに出かける相手ではない。
 そしてもう一人は、源頼信である。こちらは、天羽氏側から見て、平将門の乱では将門に負けた武将の末であるだけに忠常や直幸にとって会って気持ち悪い相手ではない。しかも頼信はかって常陸介を務めたことがあり、この時、忠常との親交が深く、この面からも挨拶に行かねばならない相手である。しかし残念ながら頼信は今、甲斐守で不在であった。

 天羽直幸の京の活動も終わりになった頃のある日、前上総介菅原孝標が、背が高くひょろっとした老体で、天羽直幸の宿舎を訪ねて来た。六十代半ばにしては若々しい挙措であった。彼が訪ねて来たということを聞いて、そういえばあいさつに行ってなかったと思い出した。天羽直幸は、何事かと、不意をつかれてあわてたような感慨を覚えた。
 菅原孝標の用事は、入道の大臣(おとど)が白鳥珠について知りたいとつぶやいているということを伝えに来たのであった。入道の大臣とは藤原道長その人である。

 「思っていたより小柄だな」というのが、粟飯原の最初の印象だった。
 御所の北、敷地は御所より大きい法性寺の別院で藤原道長とあいまみえた時の印象である。そしてさらに、風貌と言い挙措言動といい、女が心に理想とする「男の子」だと思った。年上の女に好かれるが、反面、嫉妬を含めて男からは嫌われるかも知れない。いずれにせよ、陰謀をめぐらしてライバルを次々押し倒していく人柄からは一番遠いところの人のようであった。逆に彼の前に座ると、彼のあまりに裏表のない言動に、陰謀の一つもめぐらしては、と、忠告してみたくなるかもしれない。
 昨日、天羽直幸の宿舎に訪ねて来た前上総介菅原孝標がもたらした、「白鳥珠について知りたい」という入道のつぶやきで、今、粟飯原はここにいる。今日は、粟飯原が主役で主人に対し、天羽は粟飯原の従者といったいでたちで遠く縁に控えていた。
 主は入道姿である。年令は六十才。今や摂政関白でも太政大臣でもないが、現帝の祖父であり、前三代の皇后の父であり、現摂政関白の父であるという。公的にはゼロに近い立場のこの人の同意や許可がなければ、しかし、世の中の事はどうにも動かない、という事実がある。


 粟飯原の語る白鳥珠の発見までのこと、異相の侍のこと、百済王家のこと、奥州征伐のこと、聖武帝や光明皇后の言動、大仏建立と優婆塞の関係、黄金の用途の話を、道長は「ほう、ほう」とか、ご先祖のご立派なこととか、麿の理想は光明皇后だとか、相槌を打ち、時として涙を流して聞き入っていた。粟飯原は道長の感心の仕方に感心した。話しがいのある人だなと粟飯原は好意を持った。
 「ありがとう、ありがとう。今日はいい話を聞かせてくれた。ご先祖への限りない供養である、と、同時に自分自身の気力の鼓舞にもなった。近頃、年令のせいかどうか、気力の衰えを感じることが多くてなあ・・・・・。ちょっと待ってくれ」
 と、いって、道長はパンパンと手をたたいた。
 「実は、今日そなたを呼んだのは、白鳥珠について聞きたかったのと、もう一つ、見てもらいたいものがあるのだ」
 しばらくすると、政所の女官のような女が三方に載せたものを道長の前に持ってきた。
一礼して女が下がった後、道長が、三方の上の箱をとった。
 「これは我が家に伝わる、真珠なのだが、これはもしや、そなたが言っている白鳥珠と同じものかどうか見てもらいたいのじゃ」
 「承知いたしました」といって、粟飯原はその箱を手に持って、開けた。中には小さな鉛の箱がありその箱を開けると、一寸の四分の一ほどの真珠が出てきた。


 粟飯原は手に取って目を細め表面を観察し、重さを測るような手つきをした。その動作を何度かした後、また、真珠を箱に納め、そして平伏して言った。
 「まちがいなく白鳥珠と同じかと思われます。まず、このように鉛に保管されているということ。これは霊気を閉じ込めるものであり、中の真珠の特性を反映しています。さらに白鳥珠は並みの真珠と比べて重いという特徴があります。こちらの真珠は、我々が発見した白鳥珠よりだいぶ小粒ですが、重さと大きさの関係は同じように見受けました。
白鳥珠はなぜ重いのか。先ほど御説明したように、白鳥珠は空から降ってきた火球の石の破片であるからです。並みの真珠の基は石とか貝殻であるとかに比べて、空から降ってくる石は二倍から三倍の重さがあります。そして白鳥珠の霊気は実に空から降ってきたこの石に内蔵されているものに他ならないのです」

 道長は粟飯原の説明に満足したようであった。
「その白鳥珠の霊気のことだが、人の命とか人の運不運とかにどのようにかかわっているのだろうか。わしは世間から幸運の人と言われている。そうなった基が、実はわしがこの真珠を受け継いだために生じたのであろうか」
「まず、白鳥珠が放つ霊気が人の命や病気などに対して薬になるか毒になるかということですが、良くわかっておりません。分かっているのは霊気に長くさらされると良くないということだけです。また人の運不運にかかわりはないと思われます。白鳥珠は金鉱脈のありかを探す力があるという、ただ、それだけのことです。殿下の御幸運は、殿下の人としての力量に起因するものであって、この白鳥珠ごときの力ではござりません」
 粟飯原の説明に道長はさらに満足した。
「こころの迷いが解けたような気がする。そなたたちが都に来てから、その噂を聞くごとに、この真珠ごときものに儂は支配されていたのだろうかと考えた。そういわれればと、あれこれ昔の日記を紐解いてみると、いろいろな場面で真珠に支配されていたようにも見えるので心配だった。逆にそうなら、近頃の気力の衰えは、また、真珠の霊力の衰えかとも思ってもいた。だからそなたの解説は、わしにとって喜びでもあり、一方残念な気もする。今の儂は、さすがの儂も限られた命が宿命の人の子だったということだろうか」


「恐れながら、近頃、殿下の御健康がすぐれない理由は殿下のこれまでの数々の御幸運の反作用と拝察いたします」
「塞翁が馬というわけか?健康をとるか幸運をとるかということか・・・・・・・・」
「必ずしもそうではござりません。殿下はいままで御幸運であると同時にご健康でもあられました。しかし、日々のお食事や、御体の養生の仕方が完ぺきではなかった。還暦を迎える時点でその弱点が積み重なって不具合が表面に出てきたということです。米に過度に頼り過ぎた食事が悪いのです。このような時は食事や日頃の生活を思い切って非人と同じようにすればよろしいのです」
「それは出来ない。そうしたらわしが儂でなくなる」
「そんなことはありません。出家なされた今なら非人の暮らしをしても、殿下は殿下で変わられないはずです。誰も非難するお人はおられますまい」
「・・・・・・・・・。やってみるか」
「残念ながらすでに手遅れのように拝察いたします」
「ワッハハ、ワッハハ、そなたは人に希望を持たせておいて、すとんと落とす。そうか手遅れか・・・・・・・・・」
「もう十年前にお目にかかっておればと思います。もっともその時に、私の方にその御病気の知識も、白鳥珠もありませんでしたから、結局ダメだったことですが・・・・」


「いや、ありがたかった。得難い話を聞いてありがたかった」そしてさらに付け加えた。
「という、白鳥珠であるなら、そこにいる天羽さん!」
 天羽直幸は自分が呼ばれるとは露ほども思っていなかったので、びっくりして平伏した。一方、自分の名を呼んでくれた、ということで大感激してしまった。
「上総介と合作で白鳥珠を盛明親王に献上するということ、皇室を貴ぶ行い神妙である。遠慮することはない。やったらどうか!」
 道長は、お前たちの事は何でも知っているといった調子で畳みかけた。
「ありがたき思し召しではありまするが、中止いたしまする。尻尾を巻いて退散いたしまする」
「心掛け重畳!」と道長が大音声で叫んだ。天羽と粟飯原はなお一層平伏した。

 藤原道長との面会を終えた天羽直幸一行は帰国の準備に入っていた。
 粟飯原忠長は、白鳥珠の秘密をさらに探るべく、大ノ符理男と共に彼の日本での本拠地である佐渡に渡り、出来れば大陸のはるか西の白鳥の湖に白鳥珠修行に出かけることとなった。
 そんなある日、前上総介菅原孝標がまた訪ねてきた。今日はまったく私的な相談だと言った。
 天羽氏ら在地の豪族と、菅原孝標らの受領層とは、表面上は豪族側のおべっか使いの世界であるが、内心はお互いに軽蔑し合っている仲で、本来なら受領の帰国と共に、豪族側が塩を撒いて終わるのである。受領が任果てても帰国せず地方に居続け(法制上は禁じられている)たところでこの関係は悪化するのが普通である。


 しかし、菅原孝標は、威張りん坊でもなく強欲でもなく、何より天神様菅原道真の家系であるということで、尊敬されながら政治経済的には軽んじられていた。こんどのことでも、天羽氏らは都でのことで菅原孝標の人脈を利用しようともしなかったし、菅原孝標の方も前任国先に何かをねだるということもなかった。
 そんな菅原孝標の今日の相談は娘のことであった。
 菅原孝標は六十才の今日まで努力に努力を重ねたが、生まれてくる子供は娘ばかりであった。必死の努力の後、冷静になってあたりを見回すと、妻や妾、叔母にいとこ、子供たち、姪まで女ばかりの中にポツンと爺様の自分がいた。そして、今は上総介から帰って以来、次の仕事がなく、従五位下につくわずかの位田からの収入(従五位クラスの官人給与は位田と禄からなる。この中で禄は任につかないともらえない)が頼りの生活だった。おまけに妻子は韓流ドラマや宝塚ドラマに熱中し、それだけなら害はないが、この物語の中の世界を本当の世界と勘違いし、わずかな機会である宮中からのお召に、おめかしして出かけ、公達たちに認められたいと願い、その都度願いはかなわず何事も起こらず、その憂さ晴らしに観音参りに出かける日々であった。何事も起こらないはずである。歌(和歌)が父親のひいき目で見てもへたくそなのである。掛詞も気が利いていないし、何より色気がない。そしてここにかかる金はすべて孝標一人からの支出であって、女どもからは一銭のバックもなかった。


 金の問題も重要だがそれ以上に問題は家の学問である。文書博士の家学である史記(司馬遷著)研究は孝標の代で滅びようとしていた。いま、やれることは、娘たちの中でこれはと思う娘に膝を交えて家学を教えることであった。しかし一方、家は今最悪の事態になっていた。身近な女たちが相次いで病に倒れ、死に、家は火事になり、おまけに女たちが可愛がっていた雌猫まで焼死。女たちはより強く観音薬師信仰におぼれ、光明を「源氏物語」に求め、それへの惑溺の罪悪感からまた、観音・薬師信仰にのめりこむ。孝標から見ると怪力乱神を語らず理性の家のはずが、未開部落の、夢占い、諸神と悪霊の跋扈する家に成り果てていた。
 菅原孝標が下した結論は、女どものイデオローグリーダーである双子の末娘の一人を天羽直幸らに預け、人が生きるということの意味を学ばせることであった。何もない田舎で、衣食住のすべてをゼロから作り出すことから学んで来い、作れるようになったら、そこで源氏物語をとるか、史記をとるか考えろということであった。


 天羽直幸は迷った。自分が預かれば初日の夜に娘はオオカミの前の子羊のようになってしまうこと必須である。大佐野賢二が預かれば、まあまあ田舎では高貴で通る家柄だとそれなりに満足して妾にしてしまうかもしれない。彼は妾にしてしまうとあんなに崇めていた相手にも関わらず、吝嗇だという噂があった。であるので、ここは、忍生だ。あいつはむっつりスケベのところがあるが、女に溺れることもおぼれさせることもなさそうだし、第一、我々より学問・漢字に強い。
 と、いうことで、菅原孝標の双子の末娘のひとり、真子(まこ)は粟飯原忠長=忍生が預かり、佐渡に連れて行くことに決まった。忍生は、数か月、真子を佐渡で野生化自立訓練をし、その後は都に返して、その後一人で大陸の白鳥の湖に向かうつもりになった。

 娘を預かってもらうお礼に、菅原孝標は、藤原氏学を天羽氏らに披露した。先祖の道真以来のライバルである藤原氏の分析では、菅原家は非常に進んでいた。天羽氏らには大いに参考になった。孝標の話はこうである。
 藤原氏は中臣連鎌子から始まる。鎌子は常陸国鹿嶋の出身で鹿嶋神の神人中臣氏の出である。鎌子=鎌足が上京し、天智天皇に仕え、蘇我氏との抗争の中で大功をあげ、そんな中で、ある時天智天皇の妻の一人を賜った。この妻は身ごもっており、その時天智天皇は娘なら返してもらいたい。男ならお前の子供として育てよ、との仰せであった。生まれたのは男であった。これが不比等である。中臣鎌足は天智天皇の最晩年に「藤原」姓を賜った。鎌足から藤原氏を相続した不比等は、後継の家のあり方を次のように決めた。すなわち、不比等の子供の武智麻呂を南家、房前を北家とし、鎌足の子供である宇合と麻呂をそれぞれ式家、京家とした。藤原四家の始まりである。不比等のこの方策はその後の賜姓氏族長の行動の範になるはずである。賜姓は、本来、皇統の臣籍降下で行われるものであり、源、平、橘、かく言う菅原も皇統である。一人藤原氏だけが皇統ではない。これは恐れ多いということで、不比等は返上をも考えたものであろう。しかし、それでは天智天皇、鎌足の両者に対して不敬になる。ということで、皇統の血である南北家と、鎌足の血である式京家の四家並立とした。四家が協力しようが切磋琢磨しようがそれは構わない、その後一家だけが栄えるとして、それが皇統であったか、鎌足流れであったかを選ぶのは神の領域である。


 歴史の結果は北家のひとり勝ちであった。そのため、藤原家では、鎌足を太祖とし、不比等を始祖と称し、皇統であると主張した。源平藤橘すべて皇統と主張したのである。
 これ以後、藤原氏は結果がすべて主義となった。何はともあれ生き残った者が正義であるということである。何をしたかではなく、とにかく生き残れなければそれは不正義であるということである。例えば、菅原道真を左遷した時平は、藤原氏にとって(菅原氏の左右大臣進出を阻止したということで)大功があるはずなのに、直後に雷に打たれて死んだということで不正義となり、藤原氏内部で評価は低いのである。


 逆に、道長は、兼家の四男であり、一条天皇の覚えはもう一つであり、皇后の定子一族からは蛇蝎のごとく嫌われていた。こういうわけで兼家の後は、道隆、道綱と関白が続くが次々に伝染病で倒れる。そのあとの道兼などは就任した七日目でわけもわからず死んでしまう。こういう場合、残る道長が指名されるのが普通なのに、それでも一条天皇は抵抗した。しかし、どういうわけか天皇の生母で道長の姉の詮子が天皇の寝所にまで押しかけて道長だけが赴任がないというのは理に合わないという論理で泣き叫び、辟易した一条天皇はどうせ七日目で死ぬと期待して道長を関白に指名した。
 ところがその後はどうであろう。七日で死ぬどころか聡明で年頃もぴったりの娘たちに恵まれ結局連続して三后をたてた。世は道長の世となってしまった。そして当然のごとく藤原家では道長の評価は不比等の次に並ぶものとなった。
 この間、道長は自己のためにも国のためにも積極的なことは何もしていない。良いことも悪いこともしていない。ただひたすら年中行事の厳かに美しく行われることだけを願っている。しかし、これですべてが道長の好みに合わせて進んで行く。官僚たちが道長の思いをおもんばかって、人事であれ何であれ決めていくからである。


 今後、さすがに道長も死ぬだろうが、藤原氏がどこへ行くかは道長の行動を研究すれば分かる。すなわち道長を手本として何もしないのである。こういう体制であるから、私の見立てでは、天皇が退位させられて上皇になった時が、摂関政治にくさびを打つチャンスである。上皇(院)の思いが摂関のその人を欲しなければ、天皇の父という立場は、天皇の外爺よりは理論的には強いはずである。その時、野心家がいれば、自分が野心家だったら、自分だったら全財産を投げ打って院につく。
 天羽直幸はこの話をきいて、これは、平忠常へのいい土産が出来たと思った。

        小説「上総岩富寺縁起」その3に続く