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小説「上総岩富寺縁起」その5

 21.論功

 平忠常の乱が終息して三年後の長元七年(1034)十月、上総介となった藤原辰重(時重)は右大弁源経頼(武士源氏ではない。臣籍降下した皇族)を訪ね、乱後の上総国の状況を語っている。それによると、忠常が追討されたのち、坂東では人心が公事(政務、儀式、訴訟、政策)を対捍(干ばつの最中に見た思いもかけない雨の予兆。転じて幸せの予兆を待ち望む人々の状態)することはなくなったが乱の影響により上総国内の田畠の荒廃は著しく、本来の田数二万二千九百八十四町歩に対して、乱終息直後に耕作された田はわずか十八町歩に過ぎず、百年前の将門の乱でもこれほどの被害は受けなかったと聞いた。自分(辰重)が上総国に着任した時は五十町歩だったが、年々増やして今年は千二百町歩になった。そのため他国に逃れていた人々も多くは帰国するようになった。


 このような状況は上総国にとどまらず下総国でも同様で、長元四年(1031)は「亡弊ことに甚だし」く、下総守為頼の妻と娘が路傍で憂死(前途を悲観して死ぬ。自殺?)するほど国中飢餓にせまられ、安房・上総・下総は「すでに亡国」であったという。
 これらの状況により、長元七年には、上総国の官物(国税)を四年間免じている。
 同時に、乱後の懲罰、論功行賞が次々におこなわれた。美濃で病死した忠常の首は従者に返され、獄門に梟首されることはなかった。源頼信の入京に際して凱旋パレードは行われず、忠常の子息、常昌らの追討は停止、免罪となった。従って、忠常の房総一族もほとんど罪に問われることはなかった。
 論功については、頼信の「所望のままに」恩賞を与えるという太政官決定に対して、源頼信は、最初丹波国国司を希望し、任国甲斐に下向したのち、右大臣実資に対して、所望国を美濃に変更していいかどうかを打診してきた。結局頼信の希望とおりとなった。なお官位はその前に従四位上になっている。
 

 忠常の討伐に失敗した平直方、中原成通に対する懲罰は伝えられていない。追討使を解任されて終わり、ということになっている。その後の出世の速度に影響があったことは確かだろう。
平直方が源頼信をどう思っているかについては、意外であるが、逆恨みや嫉妬などはなく、頼信に完全に心酔しシンパになってしまったらしい。かなり後の話であるが、平直方は坂東の地盤維持をあきらめ娘を源頼義(頼信の息子)に嫁がせ、持参金として鎌倉の館と領地をつけた。この夫婦の間に生まれたのが源義家である。なお、義家が誕生した後まで頼信は存命している。


 こんな中、注目されるのは長元五年に菅原孝標が常陸介(上総、上野と共に親王任国だから実質は常陸守)に任官されたことである。上総介を解かれてから実に十二年の浪人暮らしからやっと解放されたと喜んだかというと、齢七十過ぎてまた遠国か、と(娘はぶうぶう)不運を嘆いている。だが客観的に見れば、これは明らかに平忠常の乱の後の坂東復興人事で、先の上総介経験が買われて、ということは上総介で評価を上げていたので、定年組と見ていたのを急きょやめて抜擢したものであろう。まあ、しかし上総介再任でなく隣国の常陸介というのが微妙ではある。彼の安定感と上総介らへのバックアップと、さらに、孝標に源頼信という武将を監視するよう暗に期待してのことかもしれない。


 平忠常の乱は、原因、規模、後世への影響など分からないことが多い。原因についてある人は、将門の乱後、いまだに疲弊していた房総地域で律令に決められた通りの貢進を要求してくる受領に対する田堵負名(たとふみょう)層(土地持ち中規模農民、名主)の不満を受けて忠常が国府を襲撃したと推定しており、それにしては被害の規模が大きいのは、これは平直方軍が兵糧米徴収にかこつけて村々を荒らしまわった結果だと主張している。しかし、将門の乱から百年たっていまだ疵が癒えない疵を房総で思いつくことは出来ないし、受領は脇目も振らずあくどい判断しかしないというのもステレオタイプに過ぎる。またこの乱が藤原道長が死んだ直後に発生というタイミングについて何も語っていないので、これは説明しているようで何も説明していないTVの解説のような解説で要するに中身がない。


 筆者は、成功(じょうごう)という摂関家(道長その人)にワイロを贈って地方官任官をねだるという風潮に忠常は異議を申し立てたのではないかと考えている。そしてたまたま、上総介の遥任問題、安房守の常陸介延任運動への加担(延任願いがあったのは事実だが、それに安房守が加担していたというのはデン助の創作)があったため、これに一檄を加えるために立ち上がった、とした。御堂関白記に見える上総介や常陸平氏らによる繰り返しの馬、砂金、鷲羽などの贈与、百姓が守の善状を持って宮廷門で守の延任を直訴する運動の頻発(これなど裏にワイロがついていると見ない方が非常識)と、しかもこれをついに常陸国でやり出した、そして今度は上総介が帰国を言い出した。当然これにもワイロがあるのだろう、と忠常は考えたに違いない。世はワイロ組の意のままになっている。常陸平氏の出世の速さよ。翻って自分はまったくワイロを出さないから、まったく出世していないというわけである。(忠常から道長に馬が贈られてきたことはないのは事実)
次に、乱による被害が大きいのは、鎮圧軍が被害を大きくしたという説について、筆者が思うに、それだけ荒らしまわる人数がいるなら直方はなぜ荒らしまわるついでに敵に向かわないのか、という疑問がわく。


 筆者は諸書の情報から判断するに、直方は鎌倉から一歩も出ていない、兵士の募集もしていない、あるいは延々と募り続けていたのではないか、と考えている。だから田んぼや農村が荒れることはなかった。
 これなのに、被害が大きくなったことについては、国府システムがそこに蓄積されていたデータと共に破壊されたためと考えている。国府が行う種もみの贈与や、出挙という慣例の勧農事業がゼロになったため、植え付けが出来なかったのではないかということである。しかし、勧農するのは国府だけでなく、荘園や、忠常等豪族自身の直営田などは国府とは独立の別の施主ルートがあるから、国府勧農のゼロ化だけで上総の農業があれほど破壊されたとは思えない。しかしデン助はこれに忠常の「税金ゼロ」というアジ宣伝が加わって、これで小作取り分交渉(減税分は小作料上乗せが常識だろうという小作側の主張とそれは違うだろうという荘園側の主張がぶつかってしまう。小作にも純粋小作と自営田を持って副業で小作をやっている人がいる。こういう場合副業組は強気になる)暗礁に乗り上げ、結局田植えの時期を失くし、これにさらに多少の干ばつや風水害被害が加われば、意外とこれだけで上総の農業は破壊へ行っちゃうのではないかと考えた。


 さらに忠常の乱では戦闘らしい戦闘がないという特徴がある。安房国守を暗殺した。次の国守が赴任したが京に逃げ戻った。上総国守夫妻を監禁した。以上が戦闘らしい記事である。先の下総守の妻子の路傍憂死と合わせても、どうも戦闘は国府庁だけに限定されていたのではないか。そこで、あるいは税金にかかわる書類や権利関係の書類が焼かれていたのかもしれない。これなら先のシステム破壊の原因一要素となる。


 中世において、証文というのは重要で、証文紛失はそこに書かれた権利紛失を意味した。証文が現存する契約者相互の確認仕合いは年一回正月に行われる。これを吉書はじめという。もし国府の証文がなくなってしまったら、国府の持っている権利は一旦はゼロになって、交渉のし直しということになる。こういう社会を前提として考えないといけない。


 また忠常の乱は決起後の決意表明がないのも特徴である。決起すぐに忠常は朝廷に対して密書を送り郎党を京に派遣しているが、この中身が伝わっていない。そしてそのせいもあり、なおかつ将門のように除目やそれに類するものを発表したということもなさそうなので、後世からみると全くの沈黙である
以上から考えて、筆者は忠常の乱とはいわば勧農時期という大事な時期での県庁封鎖ではないのか。当事者本人たちは役所の機能を止めただけでこれを人質(困るのは京だけだから)あとは条件闘争(話し合い)に持っていこうとしていたのではないか、とした。それが、朝廷は話し合いも何も受け付けず、即討伐軍を送った、討伐軍は現地に行ってみると、役所が封鎖されているが、人的な被害者がないし、忠常の居住先も分からず、敵がどここら攻めてくるかも、忠常以外の敵が誰でどれだけいるかもわからないで、ただ、いすくんでいたのではないか。そしてずるずると時間が過ぎていくのに業をにやした朝廷が、すべてを丸投げして源頼信にまかせた。一方、決起したにはしたが忠常は忠常で思いもよらず大変なことになって、どうしていいか分からなくなり嫌気がさしていたところに、相手の司令官交代があったので、これを好機と見て降伏ということになったのではなかろうか。


 忠常を含めて関係者の想定外だったのが、ソフトシステム破壊だけで、農業はまったく破壊されてしまうものだということだろう。当事者たちは信じられず、ただ茫然としていたに違いない。

これで思い出されるのが、田中角栄政権の崩壊過程である。日本列島改造論を引っ提げて角栄が首相になった瞬間から、大雑把で計画ともいえない道路や新幹線や工場配置計画の例として挙げられた土地(閣議決定も何もされていない。単に角栄さんが自分の夢を語るために図にした土地)を中心に、開発期待の思惑から買い占められ、その売り買い合戦の中で、うなぎのぼりの土地急騰が始まって、それがすべての物価に跳ねかえってインフレとなった。おまけに運の悪いことに(世の中の通例。必ず運の悪いことが起こる)これに中東戦争に端を発したオイルショック(確かバレル四ドルが二十ドルくらいになった。一ドル三百六十円の時代です)が重なってハイパーインフレ直前になった。トイレットペーパーが店頭からなくなり、給料が一年で三倍くらいになった。


角栄さんは呆然としてなすすべを知らず、この時、福田赳夫が単身官邸に乗り込み角栄に談判して退陣要求。角栄が次の首相は福田君にお願いするからと福田に頭を下げて福田蔵相就任。福田は就任するや切った張ったの獅子奮迅の働きをした結果、さしものインフレは収まった。
以上流れは事実ですが、特に後半は本当か、と眉唾で見てもらいたいです。調べたら、愛知喜一蔵相が急死されて福田蔵相になったようです。また福田さんや大蔵省にこの事態の早急な収拾が出来る知恵と実行力があったかどうか、これは分かりません。調べて判断してください。
筆者が床屋談義的に採点すれば、その後の論調は、すべてを列島改造論のせいにした。この間の為政者はほとんどなす術を知らなかった、という結論です。なぜなら、佐藤首相時代からすでに地価急騰は始まっていました。デン助アルバイトの家庭教師先の奥さんは三十歳代後半のお嬢様育ちの人でしたが、ひょんなことで買った駅裏の土地を元手に、売り買いを三回繰り返ししたら大もうけして、今や一億円くらいなら動かせる金を持っていると自慢していました。学卒初任給が三万円の時代です。


 デン助には、この事態(インフレの進行)で、大蔵省、日銀、評論家、学者、文春、そして朝日や「世界」などがてきぱきと主張、処理したと記憶に残るものはありません。論壇は何日分石油備蓄基地を持つとバッファーになって効果があるとかその程度を云っていたという記憶しかありません。だからオイルショックになってエース登場福田ノミックスが効果を発揮したとは思えません。
 政府、日銀、大蔵の政策の兆し、雰囲気、実際の政策、与野党の力関係と、民間の対策、思惑、裏社会の動き、そして世界の趨勢との関係で決まる結果を考察するのに、田中政権はよい材料になります。そして、それが、平忠常の乱の結果の上総亡国について、何らかの示唆が得られそうだし、それが、日本の今と将来の予想につながるかもしれません。

 22.常陸へ

 京から帰って、東金の居宅に落ち着いた粟飯原(あいはら)は、そこで、天羽直幸、大佐野賢治らの死を知らされた。大将クラスの人々で、落命したのはさらに数人いたが、郎党クラスの死が多かった。彼らは戦闘での死は皆無で、百姓住民の騒乱に巻き込まれて混乱の中で殺されたものが多い。いわばリンチでやられていた。一般住民も混乱の中で死んだものも混乱とリンチが原因だった。
 しかし東金あたりはまったく戦乱の影響は見えなかった。粟飯原が京に向かった頃とまったく変わっていなかった。
 粟飯原は、帰郷してまず義父に、たいした働きもできず、戦いに遭遇することもできず、手柄を立てることが出来なかった、と詫びた。


 義父は、「何の、何のあんたはたいした働きをしてくれた。武士の勝敗は時の運だ。負けたら負けたで仕方ないことだ。大事なのはわれらが大将がどういう思いでどう戦ったかの歴史を残すことだ。歴史はわれらの下々が書いたとて誰も信用してくれぬ。ところが、あんたは、右大臣家と源頼信がわれらが大将忠常を評している文書を送ってきてくれた。これは後々のわれら上総平家の家宝になる」と、言った。


 粟飯原はそんな文書を送った記憶がなかったので怪訝な顔をした。義父は、文箱から大事そうに文書を出して見せてくれた。粟飯原が帰郷するちょっと前に京から届いたのだという。義父は仮名しか読めぬ文盲だから、日吉神社の神主に読んで解説してもらったという。義父は、この文書の中で忠常が語った「坂東独立」は、今後の上総平氏のテーマとなるであろうといった。
 義父から文書を受け取って開いてみると、それは菅原真子の筆跡で書かれた、源頼信が朝廷に提出した戦勝報告断片写しであった。内容を保証する菅原孝標(たかすえ)の署名もあった。真子の奔走ぶりが思われて涙が出た。真子は忠常も天羽も上総も嫌いだといっていたが、最後に上総平氏に大きな贈り物をしてくれたのだ。


 上総では、乱負け組の特別な懲罰はなかったが、成行き上、多くの家では当主の隠居、若当主への代替わりが行われた。粟飯原家は若当主が乱に加担した形なので、忠長の家継ぎ辞退ということにした。義父は気の毒がって、そのうち大赦もあろうから、我慢して家にいてくれと言ってくれた。粟飯原に不満はない。
 それからの粟飯原は、上総での金鉱山探査をほそぼそと続けることになった。望みの薄い上総が終わったら、銚子を調べ、その後、有望な伊豆をめぐる予定だった。勿論、小なりとは言え、粟飯原家のためのもろもろの仕事もある。夫婦仲は良かったが、子供は生まれていない。
 二年がたった。粟飯原の生活は変わっていない。今は時おり伊豆に出かけて金探査を試しているが、成功していない。


 そんな中、東海道すじで、常陸介になって菅原孝標が下ってくるという話を聞いた。
 粟飯原は「孝標」の名を聞いたとき、今までもやもやとしてはっきりわからなかった「忠常乱後」にせねばならないひとつの仕事を、今、輪郭を持ったしっかりとした計画という形で思い出した。
 それは、まず京での真子による情報収集活動に対するお礼をすること。この仕事を上総平氏が随分と恩に感じていることを披露しよう。そして次に、忠常公の思いの根源は常陸、上総、下総それぞれの平氏の同族争いに終止符をうつことであるからこれを菅公の顔で仲介してもらいたいということである。受領同士がワイロ合戦の成功(じょうごう)のやりあいでお互いがお互いを蹴落としていても未来は開けない。同族が相互に協力あるいは競い合って「坂東独立」を実現しようということである。


 これらは、菅原孝標でなければ出来ない仕事であると思えた。
 東金に帰って、忠長はさっそくこの考えを義父に披露した。義父は、趣旨は賛同したが、そんな大きな仕事を、二十町歩の地主の侍の看板で出来るのだろうかと危惧した。忠長は、最初の上洛の折、孝標とは面識があり、そのときの菅公の考え方と人となりから、常陸でどういう形であれこの思いを孝標に伝えることが出来れば、間違いなく菅公は実行してくれると言った。そして菅公との面会が実現できるメドがあるといった。忠長は心の中で真子を思い浮かべていた。真子が父と共に下向していればいいがそうでなければ面会はかなりきびしい。この前、京で、真子が、父が認知症気味であること、こうなったら自分が父を引っ担いで任地に向かい、功績をあげて菅原家のために働きたいと言っていたことに、一縷の望みをつないでいた。真子はきっと下向してくるはずだ。
 義父は納得して忠長の常陸行に賛同した。


 忠長は次の話を続けた。自分は忠常公と天羽直幸様の取り計らいで粟飯原家に養子に入ったが、どうしても侍生活になじめない。恩のある人々を亡くしその思いが強くなった。だから、菅公とのこの仕事を最後に、粟飯原家と離縁したい、と言った。
 義父は止めたが、忠長の決意が固いので結局これも認めざるを得なかった。
 義父がここを出てどこへ行くのかと言ったので、忠長は元の佐貫の忍生に戻りますと言った。白鳥珠は先祖の供養のため、先祖の思い通り、佐貫に元のように埋める予定だと言った。
 義父は、佐貫には行ったことがないが、いつの日か、粟飯原が佐貫にお世話になる日があるかもしれないので、その時のため、白鳥珠にあなたが粟飯原家に大きな功を上げたということを刻んでおいてくれと言った。
 この足で、忠長は妻との別れの話に臨んだ。妻は泣いたが、最後は、お互いに礼を述べあって、別れた。
 こうして、再び忍生となり、忍生は、修験者姿で常陸に向かった。

 鹿島神宮宮中には一直線で石畳の広い参道が東西に通じている。東側の大きな森が神宮の森である。粟飯原は、坂の途中の傍らで国守一行の行列を待っていた。今日は新任国守の常陸一の宮への奉幣の日である。
 道の遠くに警備の侍の長槍が数本見えてきた。沿道のどよめきが大きくなる。やがて行列の先導が来た。赤い直垂に裸足である。次に侍集団、騎馬に鎧姿の集団が続く。次からは牛車となる。まず、国府役人、そしてひときわ立派なのが国守、菅原孝標のものと思われる車が続く。そのあとは女官の車、そのあとは荷駄であり、最後はしんがりで、裸足の赤い直垂男となる。
 忍生は修験者姿で軽く頭を下げながら、行列一行を見送っていた。行列が終わろうとする最後に近く荷駄の中に牛車が一台入っていた。女の車である。忍生は顔を上げてその車を見送った。さて、この行列の中に真子はいたのだろうか、と忍生が思った瞬間、通り過ぎて行った牛車が止まった。忍生を含む沿道の人々がなんだろうと見守ると、車の御簾の下から白い絹があらわれた。ほんの数秒だったが、すぐに引っ込んで、また、牛車は動き出した。


 沿道の多くの人は、何らかのちょっとしたトラブルで止まり、そして走り出したと思ったが、忍生はそれが真子の合図だと確信した。忍生は了解したと、合図で右手をちょっと上げた。牛車がそれに応えるようにちょっと止まった。(ように忍生は思えた)
 国守の行列が通り過ぎた後、見物の群衆は三々五々、大鳥居前の広場に集まっていく。これからは祝いの行事や国守からの土産がふるまわれるようであった。忍生は、真子からの何らかの合図があるものと、それを期待して待っている。今日は大鳥居から中は通行止めである。
 あと、四半時待って、来なかったら、今日はあきらめ、次の機会を待とうと神宮の奥に目をやりながら忍生が思った時、下で忍生の袖をつんつんとつつく者がいた。


 忍生が、下を見ると、きれいな旅姿で着飾った女童が、「粟飯原忠長様でござりまするか」と、上を見上げながら言った。忍生がそうだというと、「主人からこれをお渡しするようにことづかいました。どうぞお納めくださりませ」、と言って文箱をささげ差し出した。
 文には次のようにあった。「吾妻路のさらに奥のあやしき里まで恋しい人を慕って行きつきました。恋しさが募ります。明日の朝、宮中を下った、下生の里にある鎌足神社という小さな社の門前でお待ちします。大祝(おおはふり:神主)の大中臣家に寄って狩衣着用の上来られたし。逢瀬は牛車の中で。霧箱法師様 真子より」
 わずか三十分足らずで、これだけの段取りが出来たことにあらためて忍生は真子の有能さを思った。もうこれだけで粟飯原忠長最後の仕事はなったも同然だと思った。

 鎌足神社の前の牛車の中で、真子は忍生の話に納得し、菅原氏として責任を持って坂東平氏の仲直りの仲介を進めると約束した。勿論、仲介を始める前に、源頼信と、右大臣藤原実資の了解を得る必要はあるが、これは問題なく得られるだろうと保証した。常陸介として最初の仕事だと張り切っている。
 忍生は真子のあまりの安請け合いに、父上の方の意見は大丈夫か問うた。
 真子は大丈夫、私が孝標だと言った。
 この頃、父の認知症が進んで、ほぼ百パーセント私が秘書としてやっている。文書も下書きを私が書いて祐筆に渡している。署名は父にお願いしている。署名はインチキをしていない。ちゃんと父は納得して意味を理解して署名している。私は女房奉書からその他何でも朝廷の公文書は何でも書ける。菅原家はもともと文章博士だから当たり前と言えば当たり前だが、どうもこっちの方に私は才能がありそうだ。歌はだめだ。


 父を正気にさせるまじないがある。私が「菅原道真」というと、父は途端にシャキッとして十分間は正気になる。この間に、内容を説明して、了解を得て、署名を願うということだ。
 今度の任官でも、内示があってから、すまぬすまぬこの年になってまた遠国だ、とこぼしてばかりいた。だから私が、シャキッとせいよ、菅原道真、遠国だからとて左遷されたわけではないだろう、むしろ定年組から抜擢されたんだろうよ。ここで頑張らなくていつがんばるか、シャキッとせいよ、菅原道真、と繰り返しいっていたら、元気になった。それ以来、父を元気にするまじないができた。
 まあこれは父ばかりでなく、私も元気にするまじないだ。双子の姉が道子、妹の私が真子、二人合わせて道真。一人は嫁に行ってしまったから、私が頑張らないと、先祖に申し訳ない。
 「道真の道と真をとって道子と真子だったのか」、「あれ、そうよ、言ってなかったかしら」、「聞いてなかった」、「ごめんなさい」、「別に謝らなくてもいいけど」
 「それはそうと、坂東平氏の敵同士が仲直りする象徴的な事業って何かないかな」
 「・・・・・・・・・・」
 「菅原孝標がやれるもので何かないかな」
 「合祀はどうかな。この鎌足神社に菅原道真を合祀するってのはどうかな」

 「鎌足って、藤原鎌足さんの鎌足なの?」
 「そうだよ。われわれがいるこの神社は、鎌足公の生誕地なんだよ。子孫の藤原家がここにささやかな神社を立てた。このささやかさのバランス感覚が、藤原氏をして日本一の名家であるということを証明しているんだが」
 「あなた、あたまがいいね。もうひとつ考えがないかな」
 「上総の矢那郷に菅原神社というささやかな神社がある。ここに藤原鎌足を合祀したらいいんじゃないか。矢那郷は鎌足公の母の里なんだよ」
 「あなたって天才!了解した。すべて了解。さりげなくやるからまかせて。菅原孝標はちゃんとやって、坂東平家の天下取りのためにがんばります」
 「それはありがたい。ありがたいけど、父上が心配だ」
 「心配してくれてありがとう。とにかくめそめそしてばかり。鹿嶋様にくる途中に景色のよいところがあったので父が気に入って、そこで休憩して、土地の人にここはなんというところだと聞いたら、子忍びの森と答えたのね。そうしたらそれで死んだ姉に結び付けちゃって、姉の霊が父をここに留めさせたと大騒ぎ」
 「母は母で、京からの便りでは、太秦、清水に参籠しまくり。長谷観音に和鏡を奉納して私の将来を占ってもらったら、京で右大臣のお嬢様付きになったら大吉、末は清少納言か紫式部だって。常陸くんだりに行ったら大凶だって。お伊勢様に信心しろだって。まあ、私の現在は、すべて大凶なのよ。常陸にいるし、お伊勢でなくて鹿島神宮だし、藤原神社だし」
 「ところで、あなたはどうするの。これから」
 「さむらいはやめた。修験道者にもどる」
 「惜しいわね。頼信さんに頼んであげようか?」
 「いや、ことわる。それより、あんたはどうするのか」
 「わたし?右大臣家に行ってもいいけれど、歌の才能ないから。本当は文書博士が希望だけれど女だし。だからあくまで散文で勝負ね。猫が死んで、姉が死んで、家が焼けてよよと泣くと書いて行こう」
 「どうして笑いながら泣く文章が書けるのか?昔から不思議に思っているけど」
 「読者が付かないから。それだけ。メガネかけて頭が良くてブスみたいなのが、イケメンから求婚された大恋愛小説を書いて誰が読んでくれると思う?あなた読む?」
 「あんたの恋愛小説はありがたくないかもしれない。いや顔で言ってるんじゃないよ。あんたのこの会話の調子から察するに、どうも恋を語る雰囲気作りには失敗する。だけど粟飯原に送ってくれたあんたの忠常の乱顛末書は上総武士がみんな喜んでいた。これで思うに、あんたは歌でなく散文でなく、紀行文でなく、史記とか古事記とかそっちの方に向いているかもしれない。奥韃靼風俗記なんか書いてくれたら、儂は喜ぶ。慈覚大師の再来だ」
 「あなたとのことは書かない。一番私らしい文章になりそうなので、ほかの人に見せるのはもったいない。あなたにもみせたくない。私の心にしまっておいて、時々、思い出してみる。だから慈覚大師にあなたがなれば?あなたが書けば?」
 「文の才能がないからな。儂もあんたとのことは書かない。あんたに見せたいけれど、けなされそうだから。だから自分の心にしまっておく。それで時々思い出して楽しむ。ニヤッーとして楽しむ」
 「あなたにニヤッーとしてもらえれば光栄。失礼だけれど天羽さん思い出しちゃった」
 「そのこと。お願い続きで申し訳ないが、儂の最後のお願いだ。忠常公と天羽様、大佐野様の供養をしたい。お互い見知っているあんたや、菅公が来てくれたらと、思い、筑波山で白鳥珠の燐光を出して薬師真言をささげて供養したい。菅公が無理なら真子、あなたには来てもらいたい」
 菅原真子は、ぜひ参加させてくれと言った。

 23.八幡里の修験者

 忍生は佐貫岩富寺に、人知れず戻っていた。忍生が佐貫を去って八年、その間、始めは荒れてはいたが家の形はしていた家はすべて朽ちて野原になっていた。忍生はここに、あの胃袋の容器をテント代わりにして住み、一つの作業に熱中していた。


 作業は祠作りであった。昔は観音円堂があった跡地の傍らは小高い岩の小山になっているのであるがこの小山は幾何学的立方体で、とても自然に出来たものとは思えないほど整った形をしていた。しかし土地の人は別に興味を示さず、弘法大師が作ったとして、その理由は分からないで終わりであった。

 忍生は崖から横に高さ・幅ともに一メートルほどのトンネルを掘っていた。新しい地層のやわらかい凝灰岩だから掘るのに苦労するほどではないが、一人の手掘りではなかなか目に見えて進んでいく状況ではなかった。


 忍生はトンネル堀に半月かけたが、わずか二メートル掘り進んだに過ぎなかった。忍生は焦った。里の者に知られる前に白鳥珠を始末したかったからである。幸い、今まで里の者が岩富寺の異常に気付いてはいないようであるが、気付かれるのは時間の問題である。掘りが浅ければすぐに発見されそうだし深くすれば、作業の途中で気付かれてしまうか、掘り進んだ残土で気付かれる。


 しかし、忍生の杞憂はあっけなく解決した。二メートル掘った途端に、パカっと奥がはがれて、中に三メートルほどの部屋があらわれたからである。立方体の岩の中は空洞だったのである。
 忍生はさっそく、鉛容器に入った白鳥珠をおさめた。そして、掘ったトンネルを残土で埋め戻し、その位置を枯れ木や葉っぱで隠し、別の場所に新たな祠を築き始めた。今度はわざと大きな音を立てたり煙を上げたりしながらである。


 そしてある日、村主のゴンゾが現れた。
 「なんだ。忍生さんじゃねえか。里のモンが天狗だ鬼だというから見に来たら忍生さんかよ。水臭えなあ。いつ戻った」
 「すまぬ。二、三日前だ。何にも残ってねえから、まずは雨露しのぐ穴でも掘ってと思って工事を始めたところよ」
 「いいって、いいって、掘ることはねえよ。簡単なお堂ぐれいなら作ってやっから」
 「ほったらかして出て行ってすまなかった。村は変わりねえか」
 「あんたの出世のためと思って、送り出したが、結局えらいことになって、元の木阿弥かよ。骨折り損だったかな。こっちは変わりねえよ。天羽様も息子が後を継いでいる。天羽直幸様だけいなくなっただけだ。まったく変わりはねえ」
 「だいぶ村や田んぼが傷んだと聞いたが」
 「たてまえの話だよ。公式統計ってやつだ。まあ、上に政策あれば、下に対策ありよ。上の暴走を避けられなくて村主が務まるかってんだよ。天羽様も世間に名を売ったかもしれねえが地元民に取っちゃ功罪半ば、まあ罪の方がでかいかな。忍生さんを連れて行っちゃうしね。それで村人が見つけた財宝を取り上げちゃって勝手に使っちゃうし。忍生さんは少しはおこぼれに預かったか?まあその身なりじゃ預かってねえみてえだが」


 忍生は、少し耳が痛かった。ゴンゾの話は一面の真実を含んでいる。白鳥珠を独断で岩富寺の境内に隠してしまったがこれなど本当はゴンゾなどの了解を得ねばならないのは確かだ。さらに忍生は白鳥珠のおかげで、日本全国を駆け巡り、バイカル湖まで出かけ、菅原真子という普通なら雲の上で本来なら逆立ちをしても同じ部屋で空気すら共有しあえない人と床を一つに寝てねんごろになった。
 「まあ、無事帰ってきたんだからいいとしなくちゃ」と忍生は弱々しく言った。弁解ととられないかと心配した。しかしゴンゾは忍生元の木阿弥論でまったく疑いを持たなかった。まさかこの人が坂東平氏仲直りを画策して常陸国守や源頼信や藤原実資を動かしたなどとは夢の夢にも思っていない。
 「じゃー、また、ここにいてくれるんか。それはありがたい。皆の衆にさっそく知らせにゃいけねえぞ。また歓迎会は盛大にやっから。とりあえず、今日明日の食い物は届けさせるから、休んでいてくれよ」、と言って、ゴンゾは山をよたよたとしながら下りて行った。その後ろ姿だけが八年の歳月を感じさせた。忍生は白鳥珠のありかは誰にも伝えないつもりである。穴の跡はゆっくりゆっくり時間をかけて分からないように修復しようと思った。


 ところで、ゴンゾのゆっくり休んでくれの言葉はすぐ帳消しになった。忍生がそろそろ寝ようかと、胃袋のテントに潜り込もうとしたら、村人が来た。
 「忍生さんよ。急病人だ。腹が痛えと七転八倒だ、すぐ来てくれ」

 粟飯原(あいはら)様のご隠居は、大あくびをした。ぶつぶつ何かをしゃべっていたようだが、何をしゃべっていたか、おおそうだ、自分の先祖の大活躍の話よ。よく聞け若侍たちよ!
 周りを見回したら誰もいなかった。座敷の南側から障子を通して春の温かい日差しが入っていた。遠くでホトトギスがしきりにさえずっている。家の中はシンとしている。(了)

 あとがき

 この小説は忍生という山伏を主人公に平安時代中期の武士の働きを描いたものです。私は日本史で武士が政権を執るまでに成長したきっかけとなった原因を親王任国制度に求めています。親王任国は在京の親王をいただいて現地で実際の指揮を執るのは介である。しかし、守が親王に格上げになっているので、現地住人(臣籍降下した平高望王も現地住人)も任官可能な介だが位は従五位で昇殿の権利があるという微妙な面白みのある地位なのです。このことは当時やそれ以後の貴族・武将達も意識していたことは確実で、この小説に出て来る源頼信は(親王任国の)常陸介となって朝廷での地位を高めたことでしょう。同じく上総介、上野介は武将系下級貴族の垂涎の的の地位であった筈です。ずっとすっと後世の上野介だけは忠臣蔵の影響でなり手がいないといわれるほど嫌われましたが、上総介などは、足利義兼がなってその後時間は経ったが最後には足利家が天下取りまで大出世したし、それに憧れて(もちろん鎌倉時代には足利のそこまでの出世はだれも想像すらしていなかっただろうが)和田義盛が上総介にこだわって大ねだりし、ついに果たされぬまま討ち死にし、織田信長が一時期上総介を名乗っていたのも、親王任国上総介は時局が動いた場合によっては天下に覇をとなえる肩書きだという認識があったからでしょう。


 忍生の先祖とした石上忍山は天平時代に優婆塞貢進僧として大仏建立のお手伝いをするために送られた上総国讃岐岩井里の人で記録にある実在の人物です。岩井里の「里」は律令の行政単位で後世の言い方で言えば「岩井村」です。この「岩井里」を後世よそから来た学者?が「岩入り」と誤解釈して「漢語風に「がんにゅう」と訳し、これが今も佐貫に地名として残っています。
 さて岩入の東の山の上に岩富寺があります。従って忍山が岩富寺で修行して都に上がったということは大いに考えられます。考古調査で岩富寺は古代から中世、近世まで連綿と遺跡が重なって発見されています。ここで特に骨堂(火葬骨を埋葬する)跡の遺跡が注目されます。骨堂などは奈良仏教では神聖な境内や隣接地にないのですが、岩富寺は仁王門に隣接してしかも目の上に位置させています。小説はこの場所に忍生が白鳥珠を埋めて終わっています。
 忍生の先祖忍山が活躍していた時代のストーリーは北村寿夫著「新諸国物語、第一作、白鳥の騎士」からいただきました。このストーリーの中で白鳥珠は百済王家に伝わる宝物ですが、その前歴は語られていませんでした。そこで白鳥珠がバイカル湖に住む淡水性アコヤ貝から産し、しかも核の石は隕石で放射能を帯びていると言う話は不肖私の創作です。
 それ以外のストーリーはおおむね私のオリジナルです。


 例えば忍生が八幡村にたどり着き、村人と共同で海中から大きな石を引き上げ神社に奉納したストーリーは江戸時代に実際にあった話を素材にしています。
 鹿野山の歌垣の映像イメージは常陸国風土記から取っています。歌垣で女人とのことの後、忍生が巨木の生い茂る山中を疾走してたどり着いた灌木の夜明けの山の上に巨大な観音像が見えたというのは時代がずれて現代の東京湾観音が見えたのだとのイメージです。最初の道中は鹿野山・鬼泪山、あとは大坪山に続く山道を想定しています。ただし鹿野山・鬼泪山の森は現代の貧祖な杉林でなく屋久島あたりをイメージして下さいね。観音様が見えた場所で忍生に言わせている景色を見ての感慨は東京湾観音建造者の宇佐見さんが建設地を初めて訪れた時の印象で本人の著作からいただきました。
 忍生の婿入り先「粟飯原」は平高望王の一族です。江戸時代阿部佐貫藩の筆頭家老の家柄です。小説始まりの粟飯原のご隠居は、忍生のはるか後代の子孫と言うことになります。忍生を佐貫で活躍させることで、佐貫との架空の縁をつくりあげているわけです。
 天羽氏も同じく高望王の一族です。天羽氏は上総湊の東明寺に半丈六の薬師如来を残しています。天羽直幸の言動は浜田幸一さんからいただきました。私としては平忠常は田中角栄さんのつもりでしたが忠常を書く場面が少なく(というか書けない)角栄さんを十分出せませんでした。忠常と源頼信のつなぎ役に小佐野(大佐野)賢治さんを配しました。


 忍生等一行の上総国府から京への途上はおおむね更級日記によっています。途中での山賊との戦い、青い眼の侍、ちじれ毛の西洋人のような遊女などは男衾三郎絵詞に出て来るエピソードやキャラクターです。更級日記を書いた菅原孝標女は実は双子で先祖の名をとって「道子」、「真子」のふたりによる共作だとして、そのうちの真子が忍生とともにバイカルまで出かけたことにしました。


 菅原孝標が上総から帰京後、十二年の浪人くらしのあと七十才を越えた老体で常陸介になって常陸に赴任したのは事実です。また常陸鹿島神宮の近くにある鎌足神社は藤原鎌足の生家跡だそうで、ここに菅原道真が祀られていることも事実です。また、鎌足の母親の実家だとされる上総木更津市鎌足の近くに菅原神社があるのも事実です。これなど、上総介、常陸介を両方歴任した菅原孝標のやったことではないかと考えていいのではと思ったりしています。任官に当たってこれだけの高齢だから娘で夫が亡くなって後家になって実家に帰っていた女が一緒に赴任してきて時には公文書を父に代わって作ったとしても不思議ではない。それだけの文章力知識は十分持っていた娘なのだから。それなら観音参りばかりしていつも泣き暮らして居るわけはない。よよと泣いているのは文章の中だけで、実生活はアカンベーをしてケラケラ笑って暮らしていたのではないか、と想像の翼を広げて「菅原孝標女」菅原真子の人物像を作りあげました。小説の中で、菅原真子が忍生の就職を「源頼信さんに話してあげようか?」と軽く言っていますが、おそらく真子が話してくれたら軽く実現したことでしょう。私が忍生だったら「是非お願いします。」と言っちゃいますね。千年前ですけれど、人間社会は技術や道具などは別として特に人間関係はまったく変わりませんね。と、いうか変わりないものだと主張したくてこの小説を書きました。

 なお、小説の中でデン助という語り手が時々突然出て来ますが、これはこの小説がブログ連載として発表した名残です。ブログ名が、「デン助の新舞子ビーチコーミング」と言うことで約七年、アクセスカウント数五万五千三百を数えましたがあるトラブルで閉鎖しました。そのいきさつが人生というか縁というか、やりとりの誤解釈でとんでもない方向になびいていく様は第三者的に見ると非常に面白かったです。一般的には小説など作者がプロであるほど話の展開は想定内ですし、近頃はなんでもかんでもタイムスリップや男女の入れ替わりなどをつかって安易に展開させますが、私の体験では、「新舞子」からして対話相手の認識とずれていて、片方は千葉の新舞子、相手は愛知の新舞子、それなのに対話がかみ合う(まったく問題ないどころか縁を強く感じてしまうほど結びつきが強く感じられる。)不思議さを体験しました。この展開は小説に使えるのではないかと考えています。

 デン助の佐貫を舞台にした小説は、幕末に始まり、戦国時代、平安時代の三つが出来上がりました。そして最近、江戸時代の松平重治を主人公にした佐貫の小説を発見しました。「折り紙大名」(矢的 竜)です。これを合わせて、もしデン助が鎌倉時代の佐貫を書けば、平安時代から幕末まで途切れなく佐貫の小説が並ぶことになります。ぜひ、先の「展開」案を基に考えて見たいと思っています。