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佐貫の小神社散歩

古舟浅間神社縁起の概略紹介

 富津市には浅間神社が多いです。それに伴って富士信仰=富士登山の記録、富士塚も多いです。それらが上総湊を南限として、竹岡、金谷以南には富士信仰の足跡が極めて少なくなってしまうのものもまた面白い所です。

 古舟浅間神社縁起は浅間神社縁起と富士縁起の二つの文章からなっています。記年は寛文九年(1669)で執筆者は浅間神社社司若鍋清宗と思われます。

浅間神社縁起

 上総国天羽郷古船郡に貴い山があり、古老合い伝えによれば、この山は形が駿府の富士山を彷彿させることから駿府の権現を勧請し号を富士とし、以来社司・社僧が香花を常に奉り祭礼も駿府に準じて執り行ってきた。しかし、草創から何代かは分からない。

 その後兵乱により神社は顧みられなくなり腐食倒壊し壁は傾きその基礎は野に帰り参道は塞がり参詣者は絶え社僧は居なくなり祭礼は途絶えて社司若鍋氏清宗はその職を失なった。そこで時の佐貫城主松平出雲の守勝隆朝臣に窮状を訴えた。

 勝隆朝臣はその訴えを聞き入れ材木及び白銀を給い、管下の諸志士また奉行の力を得て明暦四年戊戌(1658)四月初日土木を始め、五月晦日工事が完成、山嶺山麓三社造営、六月初日天羽郷八幡社司が遷宮の礼、その後すべての祭礼を執り行った。これにより四方の郷民参詣、群衆は祭礼を楽しみ、商売が集まり、飾り市、神楽が始まった。        寛文九年酉十一月五日

富士縁起

 孝安天皇の代に富士山が噴火し、灰が雲霞のように飛び来たりその後に灰が穀物を寄せたような形になり、頂上に大きな碁盤石のような石が露出した。その大石が落下した衝撃で傍らに窪地が作られた。何時の頃か山の形が似ていることから富士山と名付けられた。上から見ると山の形は蓮の花に似て八葉となり、山の階層が八層になって中央に大きな件の窪池があり、きれいな水をたたえ、色は藍の染め物のようでこれを飲むと甘酸っぱく諸病を治すといわれている。山の傍に小さな穴があり、形は三日月に似てその中は燃えて黒煙や土砂を噴出しある時は白雲が金色に映り、鬼神があらわれその形は赤黒かった。その後承和三年春には大雨でかなりの被害をこうむった。貞観五年秋には白衣の神女が現れ舞いを奉納した。(この後御子吉兆の話として竹取物語に似た以下のような話が入っている)

 舞いの神女が女子を産み翁媼が育てその娘が美しく成長したが山に登り岩窟に入ったこと、天子が美女を諸国に求めたこと、天子がこの山に来て娘に向かえられて岩窟に入ってしまったこと、天子はその後浅間大神と号したこと、翁、娘がそれぞれ明神として神にまつられたことなどである。

 <解説> 古船浅間山は火山灰がつもった山ではなく数万年も繰り返された土砂や礫の海中土石流によって堆積(長浜層)しそれが隆起し、河川流などによって選択的に削られ富士山型になった山です。出来てからの年数で見れば富士山より数十倍古いです。(十万年単位)

 古船浅間山は経済的には江戸時代初頭から江戸の発展と共にその薪炭供給地として発展した山で、頂上だけは帽子をかぶったように原始林として残し、その他の場所は全山年ごとに違った場所を計画的に伐採植林を繰り返していたため西瓜の縞のような模様がついた山になっていました。そのおもしろい写真は岩波文庫の東京湾沿岸航空写真集(昭和27年)に残っています。(標高200mの古船浅間山は昭和40年代に削られ消滅。横浜扇島JFE製鉄所用地埋め立てに使われた。山麓にあった浅間神社は存続)

 浅間神社が松平勝隆によって再興された年が重要です。明暦三年一月は世に有名な振り袖火事で江戸城を含めて江戸のほとんどが灰燼に帰した年です。浅間神社の復興が始まった明暦四年はその翌年ですからこれは明らかに佐貫鬼泪山の材木が復興景気で売れに売れたその金が回り回って浅間山の社殿が復興したのです。遷宮を含めて僅か三月の工事期間も金の出し方の気前よさを物語っています。

 なお正確に言うと明暦四年は七月まででその後は年号が変わって万治元年です。浅間神社が再興されたころは万治になっていたのです。

富士浅間神社に初詣で
 この神社は佐貫町駅そばのトンネルの山の上(から150m東)にあります。

 内房線佐貫町駅のホーム西側から見た富士浅間神社のある山の様子です。頂上に社殿があります。木立に隠れて見えませんが・・・・・(2020.04.25撮影)
 この頂上からさらに300m東の高台の住宅街外れに真新しい鳥居が建っています。

 2020年1月1日、14:00頃に訪ねました。

 祭神は木花開耶姫命、祭日は7月15日。社伝では3枚の棟札が現存してあるそうです。天文元年(1532)、享保3年(1718)、明治32年(1890)で、そのうち天文元年のものには里見梅王の名があるそうです。有名な里見義弘の子の梅王丸の佐貫在住は天正10年(1582)頃ですから年代が50年ほど合いません。50年前ですと義弘の父義堯が里見家を掌握したかしなかったか(天文の内乱)の時代です。里見が上総に進出する前です。「梅王」と梅王丸は別人か、または後世人の筆走りか、文書の詳細な検証が必要です。

 とは言え、この神社の立地が里見梅王丸が居住したと(筆者が)思っている上総安国寺の奥の院があったとして不思議のない場所であることを考えると、そして佐貫には梅王丸関係の古文書がまったく残っていないことを考えると貴重な情報です。(余談話ですが多くの研究者は里見梅王丸は佐貫城に居城していたと何となく考えていますが、佐貫城は住めるような城ではありません。里見梅王丸は女系で関東公方足利家につながっており、父親の里見義弘はそれを充分に意識しており行く行くは足利家に養子に出し義弘本人は関東管領あたりをねらっていたに違いなく、それなら住むなら足利家に関係の深い上総安国寺で決まりです。この頃関東公方足利義氏が短期間佐貫に移座していますが義氏も住んだのは上総安国寺でしょう。佐貫城ではあり得ません。)

300mの参道の始まりです。左側は急角度で落ち込む谷になっています。
のぞき込んでみると・・・・

 1月5日14:00頃の画像です。天気が良いと木漏れ日が強いです。

 木もれ日に苔が光っています。光の先は新舞子の光る海です。左側の土手の上に登ると木の間から新舞子の海が見えます。(木がかなり邪魔ですが・・・。 登って写真を撮ったのですが光りすぎていたため撮影に失敗しました。)
 実は失敗したので仕方なく1月5日14:00に新舞子をまた撮りに行きました。その写真が以下です。

 光る海が見えます。伊豆大島の方向です。この海の光は天気の良い日ならどの季節でも光りますが、冬は南西に開いた海が、夏は北西に開いた海が、春秋は西に開いた海が光ります。
特に春は午前中とか早い時刻から光り出します。さざ波が適度にあるとさらに光が増します。これを卯波といいます。

 小さなほこら。モチの木が多いです。このあたり右側には・・・・・

 小久保ダム池の廃墟です。
日がちょっとかくれていますが・・・・・

 1月5日ではこの様に見えました。

 この小久保ダム堰廃墟、幅200m、長さ500mの大きさですから池です。佐貫コミュニティーセンターそばにある個人住宅の敷地広さ規模の浄水処理(排水処理?)場と共に何らかのトラブルでほとんど稼動しないままで廃止されました。

 それはそれとしてこの眺めは貴重です。横浜の三渓園の敷地よりひとまわり広いですから富津市にもし原富太郎さんが居られれば今頃は上総安国寺再現として一大観光地になっていたかも知れませんのに残念です。

 ようやく神社が見えてきました。社殿がもし朱塗りのそこそこの建物なら、木の間がくれに朱が映えてむき出しの木の根もあることだし籠もれば神託が得られる雰囲気があります。

 台風15号の被害痕跡です。

 社殿のそばにあるタブの巨木です。

 社殿です。広さは10畳くらい。床がきれいにみがかれていました。

 富士浅間神社ベストショットです。台風被害で木がたおれ、南、西側が開けて新舞子の光る海で明るくなりました。これが本来の富士浅間神社設計者の心の中の到達イメージだと思います。

 社殿の建っている場所は佐貫層の岩山で社殿は土を介さずに岩の上に直接建っていました。この辺は岩富寺仁王門と同じです。だからもし今後新しい本格的な社殿を考えるなら懸崖造りが一番良いと思います。

 上の写真の立ち木を越えて富士の姿を拝せるくらいまで高くすべきだと考えます。