苅込碩哉記録Ⅳ アルギン博士とキミカ、山口おじさんとハマヒルガオ、クロマツとニセアカシヤ

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 海藻から取れるアルギン酸、その先進的な抽出技術をひっさげて会社を立ち上げたアルギン博士の活躍、ボランテイアで児童公園を造ってしまった山口おじさんはハマヒルガオの保全にも立ち上がった、クロマツの保全の難しさ自身の苦い体験から説きます。

 アルギン博士と君津化学工業(株)

 戦後間もない頃列車が青堀駅に入ると、構内に大きなタンクがドカッと据えられ、「アルギン酸、君津化学工業株式会社」の白文字がくっきりと車窓に見えるのであった。「アルギン酸」とは一体何であろうか。人々は皆、首をかしげたに違いない。


 昭和36年、この君津化学社長笠原文雄氏は、「アルギン酸工業化」で学位を取り、「商大出の工博」として異彩を放ち、昭和40年11月、アルギン博士はまたまた大ヒットの発明で学士院アカデミー賞に輝いた。


 昭和40年当時、私は、(拡大富津町)町会議員社教委員であったので、「町民のために一役買ってほしい」と博士に講演を持ちかけたのである。幸いにも町教委の賛同を得て、町を挙げての「科学講演会」となり、社会体育館の会場に、中高生、町民有志の多数ひしめく中で、氏は、「科学する見方、考え方」の題目で、ユーモアを混じえ、発明のポイントにまでも踏み込んで語りかけた。とかく学者の話と聞いただけで尻込みする田舎町で、この講演がどれ程か科学への親近感を深めたか知れない。


 カジメ、アラメなどの海藻から抽出されるアルギンは、ブヨブヨした無色透明の、化学でいうゲル状の物質で、これまで染め物屋が型染め用の糊(染料定着防止剤)として細々と使用されてきたが、博士が大量生産に成功して以来、その用途はアイスクリ―ム、マーガリン、キャンデー等の食料品、練り歯磨きや化粧品、果ては入れ歯の型取りや水性ペイントなどにも利用されるようになった。


 笠原文雄博士執筆の「アルギン工業誕生記」は、昭和14年来、海藻の化学的利用に熱中し、44年の歳月の中で、アルギン抽出を独自の発明で開発した技術を、戦後、GHQの一声で公開せざるを得なくなった経過や、用途拡大のためのテストや広報宣伝など細かく記している。


 海藻からのアルギン抽出は、濾過で行われ、濃度と粘度をある程度上げてからアルカリ性液を加えて析出させて取り出す方法、これが主流で、別に、原理的に可能な酸性液による析出法が稀に試みられていた。いずれにせよその手法は先進欧米の研究結論の追随であった。


 生産効率を上げるポイントは、最初の濾過過程でいかに高濃度高粘度に持って行くかである。笠原博士は、「回転翼の中で残留物を打撃させつつ濾過フィルターを通過させる」という工程改善案テスト中に、抽出液中に微細な気泡が含まれることに気づく。この気泡を追求して、アルギン原液の浮遊分離の処理に成功した。


 さらに笠原博士は、濾過後の析出において、欧米産海藻類と比較した場合、日本産褐色海藻類を原料とする場合は、「酸法」によるのが効率的であるという結果を得た。


 以上のアルギンの浮遊分離法と、酸抽出法こそは笠原博士の一大発明であった。青堀駅前に大書された「アルギン酸」の誕生である。
 敗戦の翌年の初夏、君津化学工業は突如GHQから強い要請を受けた。
「四面海に囲まれた日本では、海藻が無尽蔵にある。この海藻を原料とする海藻工業こそ日本復興の重要産業である。」として、アルギン酸製造に秀でた「君津化学」に注目し、「アルギン酸製造再開(終戦後原料割り当て入手難、あるいは贅沢品扱いかで製造中止命令されていた?)を許可すると同時にその製造技術の公開」を迫られた。「再開と公開」の二律背反のジレンマに追い込まれながらも、民主化こそ科学技術の進歩だとするフランクな笠原社長の英断により、ついに技術公開に踏み切ったと言われている。


 君津化学の技術公開はGHQの一声でたちまち広がり、見学者は150社を越え、工場はさながら展示会場の様相を呈した。社員はその応対に天手古舞するばかり。


 結果は88社が意欲に燃えて製造計画を立てたが、実験段階に入ったのは45社、生産に残ったのは、現在、18社といわれている。その間、君津化学はパテントをとるいとまもなかった。
「あの時、特許かGHQのお墨付きでも貰っていれば、笠原さんも今頃は左うちわですね」と冷やかすのは我々雑魚のあさはかさ。


 アルギンにかけた笠原博士の諸論文は今やアルギン工業界のバイブルとしてあがめられ、君津化学(現(株)キミカ)もまた業界のパイオニアとして先頭にたっている。


博士は信州上田の産、実家は代々製糸業で栄え、天皇巡幸のみぎりは、同家へお立ち寄りになられたという由緒ある名家である。そこの三男として生まれ、昭和8年、東京商大(現一橋大)卒後、主計将校として従軍したが、昭和14年来、海藻にとりつかれ、その工業化に没頭した活躍ぶりは「文藝春秋」昭和55年9月号「同級生交歓」で取り上げられた。


 元来、信州人の海への指向はめざましく、浜育ちは全く顔色ない。海のテングサは信州の寒冷地で寒天に製造されるが、海苔もまた信州人との関連が深い。宮下章著「海苔の歴史」には「諏訪海苔商人の活躍」の一章がある程で、これを見ると明治の頃から小学校を出るとわずかの進学者を除いては、女は「糸取り」に、男の多くは「海苔屋奉公」に出た、と書いてある。
笠原氏の海へのあこがれは信州人の人後におちず、昭和14年来、内房富津に根を据え海藻に取り組み、その手がけている「海藻工業」はきわめてオリジナルで、「アルギン酸の工業化」にのめり込んだのである。


 博士は、「アルギン工業誕生記」の中で静かに回想する。「決して一筋の平坦な道ではなく全力投球、どうにか乗り切ってきた場面の幾つかが鮮明に浮かぶ。叙勲の光栄に果たして値する業績かと自らに問いかけている」と謙虚に語るのだが、試験管を振りながら、凝視する眼は清々しく、言葉を続けて「海藻に含まれるアルギン以外の有機物、すなわちフコステロール、フコイダン、ラミナラン等の未使用資源の開発こそ永年ご協力くださった方々への報恩の道と信じている」と語りかけてくれるのである。

 



注1:古代史の最新の研究によると、縄文時代の古代から製塩の効率化に海藻が使われていたらしい。万葉集や古今集に良く出て来る「・・・・藻塩焼く煙・・・」の表現に皆さんはどういう場面を想像するだろうか。「海藻を燃やして灰にしてそれを濾して・・・」などと考えていないだろうか。実際は、「深底の厚手の壺に濃くした海水を入れ、同時に海藻(アマモが良い)を入れて煮つめると、壺の内壁に食塩が結晶化してこびりつく。アマモは結晶化のスピードを早める作用をするとのこと。海藻の有機物利用ではなくこちらは海藻の触媒的界面活性剤的性質の利用である。また、実験考古学によると壺のプロフィルも出土する形がベストだとのこと。日本では東京湾沿岸で最初に発達した技術だという。縄文の昔にも笠原博士のような天才がしかも同じ東京湾にいたのである。

 


注2:海藻の工業利用についてグリーンネットふっつから提案
 笠原博士の言葉「アルギン以外の海藻有機物利用の道」は、それこそ富津市民の特に若い人たちの研究テーマとして、地方自治体支援テーマとして長年続けて行けばいい分野ではないでしょうか。支援の形としては奨学金の支出、大学研究室へのテーマ指定で支援などが考えられます。
 テーマ案一例として、「固い礫に強力に付着した褐色海藻(写真)の接着強度測定とメカニズムの解明」


 近年炭素繊維の工業部材利用が広がっていますが、弱点は接着材の経年強度劣化、海中、高温、低温、極端変化、宇宙空間など特殊環境下でのデータ不足など。この接着の分野では海藻が昔から独壇場ですが、今のハイテクの中で海藻の取り扱いは忘れられていないかちょっと心配です。木材のラミネート加工などでも接着材(その経年劣化と信頼性)がネックになっているようですので提案しました。

 ピアノに銘あり(松本ピアノ)

 さゞ波館の舞台に1台のピアノが据えてある。娘が中学1年になった時、日頃ねだられていたので、私はやっと腹を決め、近くの松本剛夫さんに相談したのである。同氏は、父のハンター仲間で、よく拙宅へも出入りしていたし、令妹の根本さんは、私の姉と高女同級生の仲良しである。ピアノとなれば、先ずは松本さんに相談となるのである。なぜ松本さんなのかは、「大貫夏期大学と青春の軌跡」を参照下さい。


 その松本さんから「中古でも良いか」の問い合わせに「おまかせします。但し、私で買える値段でないと困りますよ」と話しは進行した。


 「松本ピアノ」は、日本のピアノパイオニアメーカーとして名声高く、その製品は一般にヤマハ、カワイよりも高価であるとされていただけに、私には高嶺の花で、勢いで頼んではみたものの一抹の不安があったのである。その後、「谷崎潤一郎先生のご注文で製作したお嬢さん愛用のものがある。令嬢は観世栄夫氏と結婚され、アパート住まいになり、折角のピアノも置き場がなく、やむなく君津工場で保管しているのだがそれでよければ、事情が事情だから安価で」との事。谷崎潤一郎ゆかりのピアノなどというものが私のようなものの手に入るのかと、こちらとしては願ったりかなったりで、一も二もなくOKした。そして、「谷崎家のご承諾だけはくれぐれも願います。」と念を押したのである。


 数日後、「ピアノはおまかせします」という谷崎松子夫人から松本さん宛の書簡と令嬢のスナップと観世夫妻の新居訪問グラビア掲載の婦人公論をそえて、くだんのピアノは松本さん直々の作業指揮の下に君津工場から我が家に堂々のお輿入れと相成ったのである。


 舞台に据えられたピアノはやがて松本さんによって上蓋があけられ、のぞいた私の目はハッと釘づけにされた。鉄フレームに「FOUNDER SHINKICHI MATSUMOTO 1865―1941」と鋳込まれた横文字が浮かび上がってくるではないか。


 松本ピアノ創業者松本新吉氏の製作銘である。古来、美術品には作家のサインや落款がつきものだが、まさかピアノにもあるとは思いもよらず、一瞬にして日本刀が浮かんだのである。精魂を込めた「松本ピアノ」に、新吉氏の芸術魂を見たのである。


 日頃、謙虚な松本剛夫さんは、この偉大なご尊父についてあまり多くを語ろうとはしない。最近、君津市光聚院住職、大場南北師執筆の「松本新吉伝」が君津市文化協会機関誌、「きみつ文化」に掲載されたので、これで初めて松本新吉氏の人となりが私にも分かったのである。


 その「松本新吉伝」から一部引用します。
 松本新吉は慶応元年2月、周准群(現君津市)常代村に生まれ、明治中期アメリカに渡り、ピアノの製法を習得、23才で帰国。横浜西川オルガン製造所に身を置いたが、社長や先輩たちとの折り合いが悪くほどなく退社。やがて東京築地で独立、「紙腔琴」というオルガンを製作発売し、これとピアノ・オルガン修理調律、輸入ピアノ販売、そして国産ピアノ製造へと事業を発展させた。明治30年頃、銀座4丁目に松本楽器店(今は山野楽器店)を開店させた。服部時計店、隣がパンの木村屋、その隣が松本楽器である。開店後のここは、オペラの三浦環、作曲家山田耕作や、当時の音楽学生のたまり場だったという。


その後、明治33年、ふたたび渡米、各地のピアノ製造工場を視察、最新技術をたずさえて年内に帰国。(この途中、船が太平洋上で遭難。新吉氏は乗客ながら、船長をしのぐ機敏な緊急処置を指揮して船を危機から救ったという。)
 その後、故郷にピアノ製造工場を造ることになる。


 松本新吉氏は、「我が国の全家庭に1台のピアノと1台の自動車を普及させたい」を念願としていたという。その後の我が国の発展は、紆余曲折はしたものの、新吉翁の念願がほぼ叶ったものになった。郷土のパイオニア松本新吉氏に心から敬意を捧げるものである。

 山口おじさんとハマヒルガオ

 今年も大貫海岸の「浜昼顔」は一斉に咲き乱れ、散歩の足をしばしとめるのである。5月一杯は満開が続き、幅10m、長さ50mにわたり防潮堤を背に、海に向かってピンクの絨毯が敷き詰められている。その一角に焼板の立て札があり、一茶の句、「大汐や昼顔砂にしがみつき」の白文字の走り書きが一掃風情を添えて初夏の光ざしに照り映える。「山口おじさん」の丹精が実り、この「昼顔花壇」は年々広がって行く。見廻りに来た山口さんに伺うと、立て札は廃材を利用して作ったが、句はNさんの揮毫であるという。協力者が一人でも増えていくのはうれしいことだ。


 俳人小林一茶(1763~1827)と西上総とのかかわりは深く、十数回にわたりこの地を訪れている。江戸から舟で木更津に入り、陸路富津を訪ね、大乗寺を常宿として名主であり俳友の織本砂明、その妻、花嬌と親交を深めた。花嬌の生前6回、没後6回程富津を訪ねている。(織本花嬌の代表句「名月や乳房くわえて指さして」、「用もなき髪と思えば暑さかな」)
 「大汐や・・・」の句は一茶「七番日記」の「出埼一見」の項に出て来る。一茶、文化9年4月22日(旧暦)の作になるが、既に一茶は同年3月28日「富津に入、夜雨」とあり、一ヶ月近くもこの富津に滞在していた。4月21日大シケがあった。


 「廿一、寅刻ヨリ大北風、大雨、房州大川村徳三郎舟富崎出埼破船、七人中五人死亡、同時に富津市五郎船於羽田沖難船、九人中二人死」とあり、更に「廿二晴、馬来蟠竜来、今日出埼一見、破(砂)明上人外童二人、防風及千鳥ノ卵有、貴船者社参ジテ申時ニ帰」とある通り、翌22日は晴れたので、浜の様子を見に出かけ、富津海岸での所見の作句をしたのだろう。この「大汐や」句と並び「昼顔やざぶざぶ汐に馴れてさく」も記されている。


 植物学者亘理俊次氏は、西上総の海岸植物の生態にくわしいのであるが、その著「海岸の花」の中の「浜昼顔」のページでは文芸作品代表例としてやはりこの「七番日記」を引用している。


 戦後、日本の再建が緒についた昭和27年頃、私は「採集と飼育」誌に「ハマヒルガオは誘惑する」の小文を寄稿したことがあった。この文は一茶、花嬌、そしてハマヒルガオを書いたものであるが、たいした反響はなかった。
 ハマヒルガオは地元では見慣れ過ぎてかえりみられず、花瓶にさす花でもなく、きれいであるが香りがなく、食べる野草でもないので、その存在はいたって地味である。句や俳句、歌詞などに取り上げられることも少ない。


 仲間のヒルガオ科ヒルガオはかってリストがショパンを評して「なよなよとした青い花のヒルガオのように」の名評の通りまったくなよなよしたものだが、同じヒルガオ科でも海岸育ちの「ハマヒルガオ」は、ツヤのある厚い丸葉で蔓は延々と伸び、砂に埋もれても這い上がり、炎天下に花開くそのたくましさに魅せられてしまう。


 ハマヒルガオが咲き誇る後ろに広がる海岸広場は、昔は前藻山といって、金木町長の時に整地をはじめ、榎本町長時代に児童公園として払下げたが、子供たち、付き添う母親やおばあちゃんに愛され、なくてはならぬ子供の遊び場として定着している。


 この前藻山は、「江戸時代、伊能忠敬が全国を測量行脚した折、この浜の前藻山で小休止した」、という記事があると、吾妻神社高橋宮司が話されていたことがある。是非その記録を見たいとお願いしていたのであるが、ついにその機会を得ないまま、宮司は亡くなられてしまった。その後、教委で同僚の中島清一氏に調査を依頼した。同氏は丹念に忠敬の「測量日記」その他を調べてくださったが見当たらないということで、伊能忠敬と前藻山との関係はいまだに確証を得ていない。


 さて、前藻山のことである。地元では、コッペ塚ともいって、漁師が朝起きて浜へ出ては天気海況世間話のはずむたまり場だった。「コッペする」とはこの辺の方言で「ツベこべ言い合うこと」の意味で、「理屈ばかり言って手が動かない」という非難を含む言葉である。


 この広場の管理に十数年来、奉仕活動をしている一人のボランテイアがいる。山口寅吉さんで、同氏の活動が人目を引くようになったのは昭和47年頃からで、海岸で見つけた流木や、廃材を利用してせっせと滑り台、鉄棒、ブランコ、木馬を独自のデザインで造り上げ、それらの手作り遊具が子供達を喜ばせるのである。この活動に市は、市長賞、市民憲章推進協議会からは大工道具を贈りはげました。受賞後も相変わらず砂浜の清掃にも余念がない。同氏は大貫小久保浜町の出身で今は公園の前に住んでいるが、大正3年生まれ、大貫小、大貫青年学校を卒え、出漁していたが徴兵検査後は意を決して横浜「日本製鉄」に就職、勤務7年にして応召、終戦後は一時山形で休養し、再び勇猛心に燃え、北海道に渡り、三菱鉱業夕張炭鉱に入社、二十年勤務後、昭和44年定年退職で帰郷した。炭鉱時代に発病したパーキンソン氏病に悩まされ、背中の痛みや、手のしびれがこたえるようだが浜に来ると特に至って元気で朗らかである。


 山口おじさんが「ハマヒルガオ」に注目したのはこれも昭和46年から47年頃で、氏の愛犬「太郎」を連れ浜辺の見まわりをしている時、可憐なこの花に気づき大事にしたいと心に決めたという。私の拙著記事「ハマヒルガオは誘惑する」にも感銘を受け影響されたといってくれたので恐縮の至りである。


 山口おじさんの愛情は「ハマヒルガオ」から、更に道ばたの「ツキミソウ」にも及ぶ。砂浜では波打ち際からコウボウムギ、コウボウシバの群落それからハマヒルガオ、ハマボウフウ、ハマエンドウの群落、それからハマゴウ、シャリンバイの低木群落、クロマツの高木林と続き、」帯状に棲み分けているのが海岸砂浜の植生で、自然の生態系である。この海岸植生の中に割り込んで来たのが、鉄道草といわれるツキミソウ(オオマツヨイグサ)の帰化植物である。


 山口おじさんの丹精は、また、ハマボウフウに及んでいる。この海岸にはかっては群生していたのだが、今はほとんどなくなり探すのに大変である。ハマボウフウの新芽や葉柄は、酢に漬け、あるいは刺身のツマとして独特の香味が珍重されるので、乱穫されたのか、他へ移植されたのか、今は見る影もない。


「町を美しくする会」は市民の発意で発足し、私はその会長をつとめている。自らは「ゴミひろい人間」に甘んじ、海を美しく、川を美しく、まちを美しくと願いながらささやかな努力を続け十年になるが、昨年は海岸の歩道脇に40mにわたりシャリンバイの養成ものを植え込んだ。春には花が咲き、その実もかわいらしいので、育つのが楽しみである。これも又自然回帰への「貧者の一灯」である。


 山口おじさんは雨戸をゆさぶる風の音に「ハマヒルガオ」が砂をかぶるのではないかと気になり、眠れないという。台風襲来では、高潮でながされやしないかと愛犬「太郎」と一緒に見張りに出ては、ゴミを拾い、柵を補強する。この春には人にふまれては可愛そうだと、わざわざ桟橋をかけたのである。この浜で。やがて、「昼顔祭」のやれる日が一日もはやく来ることを祈らずにはいられない。

 黒松とニセアカシヤ

 我が家の庭先の黒松は、大小合わせて百本くらいある。庭木というより我が家の防風林である。大半は父が植えたのだが、中には百年ものが数本まじる。昨今は松毛虫・松食い虫の被害にさらされているので、年々補植しているが、実生(オノレバエ)も育っている。もし、我が家にこの松林がなければ潮風がまともに建物にあたり台風の直撃となればたまったものではない。若松はなるべく自然のままに育てたいが、ひょろっと高く伸びすぎては手入れが届かなくなるので、幹をつめる。鋏を入れると分かれ枝が出て、枝振りがよくなるが、あとの手入れを怠ると、小枝や葉が混み合い風通しが悪くなり、松毛虫や昆虫の良い住み家となって被害を覚悟しなければならない。


 私が目の仇にしている「松毛虫」はマツガレハという名の蛾の幼虫である。マツガレハは茶褐色の大型の蛾で、翅を広げると5~7cmになる。夏に産卵し、秋に孵化、松毛虫となる。枯葉の下など暖かいところで越冬する。公園の松などで、幹に菰を巻いてあるのを見かけるがこれは松毛虫をここに導いて集団越冬させ、春先に菰ごと焼くことで駆除しているのである。この駆除を怠ると松毛虫は4月、5月に活発化し松葉を食い尽くしてまたたく間に丸裸にしてしまう。この時点になると1度や2度の消毒をしてもあまり効果がない。


 松毛虫で弱った松にとどめを刺すのが松食い虫である。マダラカミキリ虫に寄生しているマツノザイセンチュウが松食い虫の正体で、これが松の幹内部にもぐりこむと虫の出す毒素(ウイルス?)に負けて枯れてしまう。毎年夏の終わりには必ずや全山緑の中に、紅一点、早や紅葉かと思えばさにあらず、松食い虫にやられたのである。


 松の保全で大事なのは、要は、松毛虫の早期退治である。松食い虫による攻撃の方は松の体力が旺盛であれば松自身の免疫抗体反応によって防げるからである。松毛虫の天敵が見つかればこれを放って退治するのだが、未だに天敵を聞かない。野鳥に期待したいところだが、この松毛虫は小鳥のお好みではないようである。薬剤空中散布で全滅を期すれば、他の益虫にも被害を及ぼすので要注意である。松の根元に薬剤を埋め松を薬付けにする手もあるかもしれないが松自体への悪影響やコストと手間の問題が残る。残る手段、害虫に強い品種を作ることについては、すでに新品種が出来つつあるという情報もあるが、成功を期待したい。


 海岸の潮風に強い樹木はクロマツ、シャリンバイ、トベラ、ビャクシン、イヌグス、ツバキ、マテバシイなどであるが、姿かたちや松風の音、香りなど、何といってもクロマツは海岸樹木の王者である。「白砂青松」は、日本の海岸をシンボライズする言葉として親しまれ、磯馴れ松は日本画の画材としてゆるぎない。大正昭和にわたり、児童文学、俳人として活躍した巌谷小波山人の句、「海の国松の国なり初日の出」は、日本人の文学・絵画・生活のそばにある樹木の存在を言い当てて圧巻である。


 第二次大戦と前後して、日本の太平洋岸の黒松は松食い虫の猛攻で全滅に瀕し、神社仏閣の名松、老松は遂に姿を消してしまった。内房には、古来、建築用材として定評のある「上総松」を産出していた。大貫で家を建てたいというと、あつかわない木はないほどの深川木場の職人でも梁の松材だけは地元で調達したら、といわれたものだが、今ではこれも昔話となってしまった。


 戦後、海岸防風林の育成に当たり、潮風飛砂防止のため、松の植栽の前線にニセアカシヤが使われはじめた。我が家の庭にニセアカシヤを導入したのもこの頃である。私はニセアカシヤに関心があった。朝鮮の生活以来のなじみである。朝鮮半島ではどんな田舎道でもアカシヤの街路樹が延々と続き、春には白い花をつけ旅情を慰め、秋になると根元に出る茸を「アカシヤナバ」と言って珍味であった。(ナバは茸のこと)


 また、時季がくれば食膳にはアカシヤの花房の天ぷらが待ち遠しくなる。秋のアカシヤナバのお吸い物は下宿の面々を喜ばせたものである。
 日本でも北の都、札幌のアカシヤが有名であるが、誰もがニセアカシヤなどとはいうまい。この木は「アカシヤ」でまかり通っている。


 あかしやの花ふり落とす月は来ぬ
 東京の雨わたしの雨    北原白秋


 昭和26年、私が大佐和町の町会議員の頃、役場の斡旋で花木の苗木を入手したが、その中にトゲナシアカシヤ数本があった。朝鮮でなじんだアカシヤへのノスタルジーで購入したのである。この苗木はニセアカシヤの台木にトゲナシを接木したものだったが、植えてしばらく経つとトゲは退化し、僅かにヒゲの密生に変わってしまった。さらに風に弱く枝は裂けてしまい、とうとう台木のニセアカシヤの方がはびこり、根は先から先へ走ってついに庭はこのニセアカシヤに占領されてしまった。


 花の季節になれば友人を誘い、花房の天ぷらを黙って出すと、この奇妙な正体は何かと種明かしを迫られる。待ってましたとばかりに「これぞ大陸名物アカシヤの花の天ぷらでござい。花はアクのない白に限ります」と、得意の口上を申し上げると、すかさず、二の矢が来る。「庭先の花で料理ができて、元手いらずだな」と単刀直入なれば、こちらも黙って引き込むわけにはゆかず、「そもそも、この料理たるや玄界灘を渡り、朝鮮は鎮南浦に草履を脱ぎ、三とせの年季を入れ習得したるものなれば」と切り返すのである。こんなお笑いをよそに、愚かな宿六など目もくれず、庭先のニセアカシヤは遂にクロマツを圧倒しはじめたのだ。


 我が庭のクロマツの危機状態を目にしてどうしたものか迷っていた時、横浜国立大学の宮脇教授の「湘南海岸のクロマツ林」という本が目についた。


 「藤沢。茅ヶ崎の砂丘では、かって汀線から、コウボウムギ群、ハマヒルガオ、ハマエンドウ、ハマゴウ群、クロマツが帯状に配列していた。」この海岸植生が荒らされるのを防ぐため、さらに、海岸砂地を有効に利用しようと、クロマツが汀線近くまで植生されるようになった。しかし、クロマツが大きくならないうちに飛砂に埋まってしまう。そこで、地元管理事務所はヨシズを立てたが、それも2~3年で砂に埋まってしまい、新しい砂丘がヨシズの後ろ側にできる。


 ついに某大学土壌学の研究室にクロマツを早く確実に育てる方法を研究委託したところ、海岸砂丘はチッ素が不足しているので、ニセアカシヤ、イタチハギなど豆科の植物を混植するようにすすめられた。豆科植物の根瘤バクテリアによる空中窒素の固定を利用しようと考えたわけである。この結果どうなったであろうか。宮脇教授の著は続ける。


 「急速にチッ素分が土中に放出されたが、元来ヤセ地で育つはずのクロマツはそれほどチッ素をほしがらない。代わって好チッ素性の「鉄道草」といわれるツキミソウ(オオマツヨイグサ)、オオアレチノギク、ヒメムカシヨモギなどが繁茂し、大雑草園になってしまった。」


 クロマツはニセアカシヤと雑草の間で、生きも出来ず、死にも出来ない状態に陥ったというのである。宮脇教授は、むしろ昔からやっている堆肥を何回となく与えた方がよかったのではないかと指摘する。さらに最も良い方法は、クロマツと汀線との間に、コウボウムギ、ハマヒルガオなどの生育帯をつくって、砂の動きを止め、次第に落ち葉などがたまって腐食による栄養分が土砂に混ざるように植生配列を考えてやるべきだった」と、語るのである。


 我が家の松林に、生半可な知識や朝鮮生活のノスタルジーからニセアカシヤを入れたばかりに、藤沢、茅ヶ崎の海岸と同じ運命に立ち至ったことに最近ようやく気づいたのである。強すぎる植物は、その生物社会を混乱に陥れるばかりでなく、環境を悪化させ、やがては自らの生存を危うくするというのが生態学者の見方である。