16.奥州の景色
万寿四年(1027)五月、足掛け二年に及ぶ長い大陸の旅を終えて、粟飯原忠長と菅原真子は陸奥国十三湊(とさみなと)に帰っていた。
今、二人は海岸にできた長い砂嘴にある岩城氏の館で旅の疲れをいやしている。ここは、佐渡の国府に似た建物で、岬の突端に岩城神社があり、そこから太い道路が南北に通じて、岩城氏の家臣団の屋敷地、岩城氏お館、町屋と連なっていた。町屋は戸数千軒と言っても誇張ではない規模で、蝦夷国の海産物、毛皮や大陸の品物をあつかう商人が多い。
岩城氏は出羽清原氏に連なる一族である。出羽清原氏は、この粟飯原の時代から二十年後、前九年の役で勝者として華々しく日本の歴史に登場する一族であるが、その出自は、自称では皇室系貴族清原氏につながっており、こうなると嵯峨天皇の時代に親王任国制度を奏上した清原夏野や、王朝女流文学者清少納言や右大臣まで出世した菅原道真まで同祖となる。だから菅原真子とも遠戚ということになる。
そんなわけで今の当主、岩城光秀は菅原真子を歓待した。いつまでも気が済むまで逗留せよ、その間、家の子女に京の歌や物語を語ってくれよと大喜びである。岩城光秀は真子の大陸の経験はそれほど買っていない。大陸の青磁なども見慣れているようであった。
こんな中、粟飯原の扱いはどうだったか。基本的には菅原真子の従者の扱いであるが、上総平氏の流れをくむものと知られると、すなわち源氏と並ぶ奥州征伐の尖兵一族として警戒を持たれたかもしれない。その上、先祖が奥州黄金の開発をしたということを聞くと、陸中の阿部氏と関係があるかもしれないと一層の警戒を示した。出羽清原氏と陸中阿部氏は代々婚姻などで通じていながら、お互いをライバル視していた。そして、お互いにそれぞれの出自を卑しんでいた。
粟飯原は、天羽直幸からの注文を思い出した。奥州事情をできるだけ調べてこいということでこまごまと箇条書きにしてあったが、実は今あの文書は例の盗賊騒ぎで紛失していた。そこで、武器や合戦事情、経済事情と、黄金事情について調べることとした。
まず簡単に調べられる武器であるが、弓矢と刀が主流であった。弓は大陸の影響からか短弓が多く、場合によっては動物の骨を薄く切ってラミネート加工し、さらに動物の筋を撚った紐を使った強力なものが多くあった。刀は蕨手を付けて一発鍛造した反り刀ばかりであった。これも日本西国伝統の直刀よりは小ぶりである。切れ味はよさそうに見えないが、精神性などに頓着せずとっかえひっかえ消耗品のように扱っていて、そのため剣術も実用的であるように見えた。鎧などの防具も毛皮を多用しこれも大陸的で合戦の進退では華美一方で神社の奉納品としてはいいかもしれないあの大鎧などよりよほど進歩しているようにみえた。
ただ、これらの評価となると、現地の人は異口同音に「こちらは遅れていて」と言い訳がましくいうのである。この風潮は、岩城光秀など身分が上に行くほど顕著だと、粟飯原は不思議に思った。
ある日、粟飯原は一人で外出した。今日は岩城光秀の許しを得て、十三湖をはさんでお館とは対岸の福島城を訪ねるためであった。
湖面はないでいて、みわたすところ水がないところはない水郷であった。景色としては常陸の鹿島神宮あたり、下総の香取神宮あたりに似ていたが、こちらの方は緑の色が幾分薄い。
福島城は、連郭式の平城で、防御の土塁や横堀が発達していて、城や集団戦闘の本場を自負している上総や下総の城に極似していた。
しかし、考えて見れば、元慶の乱をはじめとする王朝派遣軍との大小の乱を繰り返し経験し、そして苦い敗戦を経験し続けていたのだから、この地が実用的な武器や戦術を発展させるのは必然である。
だから、みてくれや先入観念や現地の人の自虐的な解説に惑わされないで、客観的な目で見て学ぶべくは学ぼうと粟飯原は思った。
福島城は十三湖を離れた外堀と意識して設計されている。内堀は空堀として、多数の袖郭とともに郭をつなぎ合わせていた。周囲に高所はなく、従って、これを攻めようとすると、十三湖の対岸に陣地を構え、湖岸沿いに少人数を繰り出していかざるを得ないが、これだと福島城の視界から逃れられない。おのずと長期戦になる・・・・・・・・といった流れを意識しての縄張りなのだろうがはたして想定通りに敵は動くか、粟飯原の妄想癖が始まった。
こんな中、菅原真子の上洛が決まった。十三湖から秋田城に行き、ここで京への連絡通信納税のルートに乗って、北陸道に入り、上洛しようということになった。京の政府にとって秋田から北の地は準統治という名の不法地帯であったため、ものごとの大小にかかわらず、すべては一旦秋田城に集まり、そこからすべてが始まる体裁にしないとだめなのである。
粟飯原は同道しない。粟飯原はもう少し十三湖の調査を続けて、その後は出羽三山の山伏ルートで上総を目指すことにした。その間もし可能ならば、甲州に寄って大ノ符理男の行方を尋ねてみようかとの算段であった。
おぼろ月夜の晩に、菅原真子の送別の宴が盛大に開かれた。粟飯原も出席した。宴は王朝風に行われ粟飯原が驚いたことに、岩城光秀は送別の歌まで詠んだ。歌を詠む者は彼の他に、まだ二、三人いた。こんなところも、自分や上総や平忠常や天羽直幸などよりよほど雅びている、と粟飯原は思った。真子も歌を一首返した。
蚊帳の外は粟飯原だけである。粟飯原はむっつりと酒を飲んでいる。
宴がたけて粟飯原と真子は、湖が望めるお館の対の屋でおぼろ月を見つつ宴の酔いを醒ましていた。最後の別れの場面になって、さすがの真子も少しおセンチになってか、ほとんどしゃべらない。
「あなたとはもう二度と会えないだろう。しかしあなたとのことは一生忘れない。長い間、私のそばにいてくれてありがとう。こういうときには歌を送るべきなのだろうが、残念ながら儂は歌が詠めぬ。そこで、すまぬがあなたに別れの歌を所望したい」粟飯原がいった。
「・・・・・・・・・・・・・・・」真子は無言だった。
長い時間が経ち、真子がすすり泣きだした。そして言った。
「私も詠めぬ。ごめんなさい。この世に歌に詠めぬほどのつらいことがあるとは思わなかった。私は粟飯原忠長とのこと、生涯わすれぬ」真子が涙声でぽつぽつと言った。そしてそのまま自分の寝所に風のようにすり抜けて行った。そのわずかな風に漂い出たのか、粟飯原は長い間なじんでいた真子の残り香を感じた。
翌日、真子は秋田城に発った。
十三や福島城のある相内を歩いて粟飯原が感じるのは、この地域の豊かさであった。街並みや寺社のたたずまい、豪族屋敷など、粟飯原の上総などに比べてよほど雅びていて豊かげであった。町行く人々の服装も洗練されている。奥州は蝦夷の地、文化的に遅れて貧しい地域などという粟飯原の先入観念はまったく的が外れているようであった。もっとも、粟飯原のような旅行者でも、町を一歩外れた農村地帯では、相変わらずの竪穴住居に雑魚寝で暮らす水呑み小作層の貧しさは見えていた。そしてこちらは上総より度を越えて貧しげに見えた。要は、当時の奥州は貧富の差が激しく中間層がいないのである。こうなる理由は、気候上の制約もあって持田が一町歩とか二町歩といった小規模自作農が育たないという側面にもあった。平安時代の当時、気候のよい西国でも、一町歩以下に分割(田分け)して自作を計画することは愚かなこととされ、たわけという言葉になった。しかし、田を所有して世代が進めば田分けの圧力は強まる一方なので、結局、自作農の規模はたわけ寸前の一町歩あたりに張り付いてしまう。西国ならこれでも何とかやっていけた。しかし土地の生産性が低い東北地方ではそうなったら自作ではやっていけないので、自作農は水呑み化して、土地は買い取られ大地主がますます大地主になる。その結果、大地主か、さもなくば水呑みか、ということになるのだろう。そして、そうなると下層民の中から冒険的な人は商人を選ぶが、この商人という職業は、こちらはこちらでそもそも勝ち組と負け組の貧富の差が大きく出てしまう職種なのである。
奥州の支配層は出羽、陸奥、陸中と、おしなべて似たような歴史を歩むが、中央貴族国家との関係で画期的な事件は、元慶二年(878)に発生した大反乱である。
この反乱は、打ち続く干ばつと、年来の中央集権的苛政への不満がかさなり、地域支配の自作農層が奥州統治の拠点である秋田城を急襲し、占拠してしまったことから始まる。秋田城司介良岑近は防戦もできず逃亡、出羽守藤原興世も命からがら逃亡。朝廷は、藤原梶長を押領使にし、下野国、上野国、陸奥国、出羽国からそれぞれ兵を募って鎮定に向かわせたが、反乱はかえって拡大し、秋田城下、出羽北部はほぼ全域、さらに津軽、渡嶋にも反乱が飛び火した。
この反乱を収めたのが藤原保則である。かれは出羽権守に任じられるや、小野春風や坂上好蔭(田村麻呂の孫)らを起用し民情を探らせるとともに、常陸国、上野国、上総国、武蔵国の兵を多数動員し、出羽に集結させ、そのうえで大規模な賑給(施米のようなもの。しゃれた言葉でいえば所得の再分配)と饗宴を実施した。さらにこの間、奥州の民意が秋田河以北を朝廷の直接支配が及ばない「己地」となすことであることを察知し、これに暗黙の了承の言質を与えて、反乱の鎮圧を促した。住民たちは、奥州を税制上の特区としたこの取り扱いに満足したのか、この結果、さしもの反乱は下火になり、保則のもとに投降する人々が増えた。朝廷中央は、投降者に厳罰をもって対することを命じたが、保則は寛大な処置を主張し、それを押し通した。
この反乱収拾の中で、中央から押領使などとして派遣されてきた官人に清原氏などがいたと考えられる。土着して、自身が大きく拡大した時点でも仙北三郡(秋田県中東部)の支配と唱えていたが、実は北に大きく伸長し津軽の十三湖あたりまで支配下に置き、むしろこの中央から隠れた地域の支配が富の源泉となっていた様子がうかがえるのである。
確かに平安時代初期から打ち続いた東北地方各地での俘囚の反乱は藤原保則の施策以後、急速に少なくなる。(しかし、東国・西国に入植させられた俘囚の反乱はその後も各地で頻発する)これ以後東北は名(俘囚や蝦夷、征夷などの差別語の撤廃など)よりも実を取り(より貧しく野蛮を装おい、自身は京下りなのに俘囚の中の長を名乗り世襲化に成功する)、中央政府の辺境統治に無気力な体質と相まって内実富裕化していく。
当時の日本の支配層の中で富裕になる条件は、まず、平将門・藤原純友の乱でその平定に活躍した人の家の子孫で、活動の本拠を京に持ち、畿内や西国の上国の受領に何度も任ぜられる人々、および、奥州支配という名目でその長(必ずしも陸奥守や出羽守や鎮守府将軍ではない。これらは四年任期)の世襲化に成功した人々で、いずれも藤原摂関家に密接に結び付いた人々であった。
粟飯原が大陸から帰り、十三湖を逍遥していたころの奥州の支配骨格は、太平洋岸に阿部氏、日本海側に清原氏がいて、相互に婚姻政策で結びつきながら反発をするということを繰り返していた。そして確かなことは(支配者だけだが)お互いに空前の繁栄を享受していたのであった。
この中で、二つの波乱の要素が生まれてくることになる。一つは都で落ちぶれて奥州に流れてきた下級貴族の藤原経清(一説には田原の藤太藤原秀郷の子孫という)が阿部氏の娘と結婚し、間に阿部清衡が生まれた(姓が母方になっており、何か粟飯原と真子の恋愛と同じようなにおいがする。清衡の誕生は粟飯原の十三湖時代の十年くらい後である)こと。そして、もう一つは、奥州支配層の富裕をねたむ人間が出てきたことである。
この二つの要素のうち、藤原清衡のことは後世の人々によく知られているが、奥州支配層のあり方をねたむ人間とはという問いは一般的ではない。従って、この人についてはほとんど知られていない。ここで、その人の名を明かすと、その人とは前上総権介平忠常であり、後に彼を討伐することでこの思想を踏襲することになった源頼信である。彼らの行動は征夷・征東などから想起される中央政府の意に沿って働く受動的な官人の行動ではなく、多分に自己の経済的関心によるきわめて能動的な行動である。この動きがたまたま武士の誕生に期を同じくしたため、後世の人が「征夷」という国家目標が武士を誕生させたと解釈しているが実はこれは間違っている。「征夷」という名目でこれから彼らが戦っていく相手は東北に土着したということでいい目を見た京から流れてきた受領層であって、良くも悪くも蝦夷ではない。
以後、粟飯原忠長は知らず知らずのうちに東北支配層をねたむ人々の、平忠常や源頼信らの行動の渦の中に巻きこまれていく。
粟飯原忠長は出羽三山のひとつ、羽黒山に登った。
粟飯原は今から七年前、彼が忍生の時代、上総佐貫に行く前に出羽三山で修行をした。その時の師が羽黒山の善照坊である。これから善照坊を訪ね、自身の近況報告とこれからの予定を伝え何らかのアドバイスを受けたいと願っていた。また、奥州の金事情について師が知っていればという期待もあった。
羽黒山は房総平氏との縁が深い。平将門に新皇になれとの神託を伝えたのは羽黒山出身の巫女でありそのため、羽黒山の本社や五重塔は将門の創建という(伝説がある)。
粟飯原はまず本殿に参り、それから奥ノ院である山上の頂上の池(池の傍らに小さな奥の院の社がある)に向かった。この道は修験道修行の回峰の最初の道である。道の左右にはスギやヒノキ、ヒバなどの巨木がそびえ、早朝だったため、朝霧が濃い。こういう景色を見るとつくづく日本は水と森の国なのだとあらためて気づかされる。荒涼とした景色の多い大陸帰りの粟飯原にとってはなおさらであった。
社参を済ませ、粟飯原は羽黒山末寺のひとつ、東光院にワラジを脱いだ。善照坊は七年前と変わらない雰囲気で粟飯原と対座した。
善照坊は粟飯原の語る大陸紀行に耳をそば立てて聞いていた。忍生(粟飯原)が遠く韃靼のはるか西まで修行の足を伸ばしたことに率直に感心しその成果を興味深げに聞いた。特に古代生物の胃袋で作った大きな容器については、子細に観察し、粟飯原の説明になるほどなるほどと何度もうなずいた。粟飯原は師の善照坊が道具好きであることをよく知っていた。粟飯原が五年前、上総の八幡浜で食あたり治療に使ったやわらかいチューブも善照坊から教わったものである。これを粟飯原に授けるその際、師は効能の説明にまじないや霊気や呪文や、ましてや、動物の魂の効果を一切否定し、人の内臓に突っ込む筒はやわらかくてしなやかで強くなければ使えず、たまたまその求める性質が鹿の小腸をなめしたものと一致したに過ぎないことを強調したものである。この考えで行けば、巨大胃袋の効能は、断熱性、気密性、しなやか性に求めるべきでもので絶滅した古代生物の魂とか氷漬けという神秘的な経歴に求めるべきではない、というのが、師弟の一致した思いだった。
「これなら山岳回峰に持っていけばいい寝床にもなる」と、善照坊が言った。師は山岳修行で肉体的苦痛を与えても、ましてそれに耐えたという実績も修行にはあまり役立っていないという考えで、その日頃の主張でいえば自然に出てくる発想である。粟飯原は、しかし、菅原真子との帰国旅行でその快適さをすでに体験しているので、心の中で顔を赤らめた。
師の話題は、出羽三山信仰の現状に移った。
出羽三山では、天台宗系と真言宗系との確執が続いているというのである。近年、その争いが激しくなっている、と善照坊は嘆いた。
善照坊は慈覚大師円仁につながる天台宗系で、彼は、湯殿山の「即身成仏」修行(生きたまま土中に入り、絶食して命を絶ち、数か月後ミイラ化していたら成仏成就と考える)など愚の骨頂だと言ってはばからない。善照坊はあくまで人の病や現世利益に役立つための修行であり、道具研究が本道だと思っている。病ひとつ直せなくて何が悟りだ、何が救いだ、というのが本音である。自分自身、耕さず、何物も生産せず徒食して、さらにどうしようもない無力さを自覚してそれからわずかでも進んで人の役に立ちたいというのが出発点である。
その思想から言えば、弟子の忍生(粟飯原)の白鳥珠修行は師としては理想的な方向である、と、善照坊は見ていた。
師の話題は、やがて、奥州の黄金事情に移った。
師の見解では、奥州の黄金鉱山探査に白鳥珠が使われている様相はない、と断言した。奥州金の発掘は、最初の自然金の塊の発見、その次に河床で見られる砂金の採取、その後川の上流に向かって自然露頭での特別な鉱石の発見と進み、発見されればそこだけを狸掘りでせめて行く、という流れである。はるか昔、それこそ百済王氏による白鳥珠使用による金採掘があったかもしれないが、今はその形跡は一つもない、ということであった。
今の金採掘の方法は、まず温泉を探すことから始まり、その後、近くの川に砂金を求め、砂金がわずかでもあったら、上流に向かって自然露頭(崖)に特有の鉱石(石英岩)を求め、それを発見するという手順だ、ということであった。
こんな方法であるから、銀含有が多くて砂金が出ていなかったり、あるいは崖がなければ、優良な鉱山が見過ごされている可能性は大きい。
こんな現状であるから、忍生の白鳥珠の手法を使用すれば、従来少ないとされていた、出羽側の河床すじでも金が発見されるかもしれないし、岩手、宮城側でも新たな鉱山発見の可能性がある、ということであった。
粟飯原は大いに勇気づけられた。
師からこれからの予定を尋ねられた粟飯原は、ここ(羽黒山)で胃袋の容器の中に霧を発生させる方法についておさらいをして、それからできれば奥州の金鉱山を見学して上総に帰りたい、というと、師は、「金鉱山に近づくのは危険である」と言って反対した。それより、多賀城へ行け、と言った。あそこは、城としての活動は絶えているが、市場として発達しており、奥州の物産と情報が集まる場所である。上総に帰る前に、ぜひ寄って行けということであった。粟飯原はその忠告に従うことにした。
粟飯原忠長は多賀城に来ていた。白装束の山伏姿で徒歩である。まるで十年前の忍生に戻ったようである。
多賀城は八世紀に陸奥国の国衙として建設された。発足当時、陸奥国は羽前(山形)、陸前(宮城)より北はすべて陸奥国というくくりだから、その掌握範囲は実に広大であった。そして単に職掌範囲が広大であるという他に、普通の国の国府役所と違うところは、山形・宮城など足元地域の徴税事務とともに、津軽などいわゆる蝦夷の朝貢の受付業務を行い、その上に鎮守府という軍事組織が併設されていたところであった。鎮守府とは蝦夷に対する示威軍事組織である。
多賀城と、「城」という字が使われているが、堀や土塁はなく、外との境は築地土塀がめぐっているだけである。しかし、その土塀が囲む領域は広大で、東側の沖積平野の縁である台地の上におよそ一キロメートル四方の大きさがある。城は南に大きな門を構え、敷地の中央に内郭別区として、内門と内築地土塀があり、この中に政庁がある構造であった。
平安朝の発足時、国家モデルは唐であった。このミニ中華の王朝には、南の隼人と北の蝦夷からの朝貢が必要であり、朝廷の儀式は大極殿前に近衛・遊撃遠征政府軍と隼人・蝦夷の周辺国家同盟軍の整列を必要とした。この実現のための、南(地理学的には西だが)の大宰府、北の多賀城であったと考えて良い。
日本の政治が、律令政治から、なし崩し的に摂関政治に変質していく中で、朝廷の儀式の場は大極殿の前庭から、紫宸殿(里内裏という)の室内に代わり、政府軍は宮中諸門の警備に、隼人や蝦夷の役割は儀式開始合図の雄叫びなどに変わると共に、多賀城はその役割を終わった。早くも十世紀には建物自体は廃墟になっていたものと思われる。そしてその後は、思い出したように発生する奥州征伐という名の、奥州支配層相続問題への東国武士の介入戦争のための侍集結地となっていく。「多賀城に集まれ」といえば詳しいことは言わなくても東国武者は何を準備して家来をどれだけ連れて行けばいいのかが瞬時にわかる合言葉になったのであろう。
粟飯原が来た当時の多賀城は、とりあえず奥州は戦乱がなく平和であったので、破れ築地土塀が延々と連なり、南大門は半分朽ちているといった状態であったであろう。「城」の中に入ると、屋根に小石を乗せた市場風の掘立小屋が連なり、遊女屋があり、見世物小屋があり、念仏道場があり、野良犬がうろうろしている普通の市場風景が展開していたに違いない。出入りする者は、商人、浪人、修行者、山賊、盗賊、人買い、遊女にホームレスたちであった。いわば国非公認の闇市であった。この市場に奥州の情報がすべて集まるのであった。
南大門を入って右手に大きな石碑があるが苔や蔦に覆われて一番上の「西」の文字だけがかすかに判別できるばかりである。しかし、そばを通行する人の誰も足を止めようとしない。
ところが珍しいことに、今日は一人いた。粟飯原であった。
粟飯原は石碑の「西」文字をしばらく眺めていたが、やがてぐるりと石碑を時計回りに回りながら時々こぶしでコンコンと石をたたいたり、遠ざかって全体を眺めようとしたりしていた。その動作を何度か繰り返し、そしてうなずく。
粟飯原の行動が珍しかったのだろう。歯の抜けた老人が粟飯原に近づいて声をかけてきた。着ている服の色が分からないくらい汚れている。従って何者なのかも判然としない風体であった。
「多賀城古碑じゃよ。ほれここを見よ」
老人は左側の石の苔を掻き落とした。
「天平寶宇六年十二月一日と読める」
粟飯原は目を近づけて文字面を追った。確かに年号が読めた。
「儂の先祖が活躍していたころの年号だ。称徳皇帝の年号だ。これは奇遇だ」
「こっち見て見ろ。手が届かないから苔が取れないが幸いあそこだけ苔が薄いからどうにか見える。ここには、靺鞨国界を去ること三千里、と、ある。マッカツ今の韃靼じゃな。あんたに読めるか?普通の日本人にゃ読めない。目が悪いから、字画が多いから」
「韃靼か、儂は韃靼のもっと西に行って、ついこの間帰ってきたばかりだ。ここで韃靼の文字に会うとは重ね重ね奇遇だ」
粟飯原は目を見上げて、目を細めた。大陸で修行した粟飯原にはかすかに読めた。
「儂は大陸修行者だ。儂には読めたぞ」と、得意げに粟飯原は言った。
「たいしたもんだ。そういえば、これを読めた天狗みたいなのがいたな。どこで会ったかな。近頃とんと覚えが消えてしまっての。まあいいや。そうかあんたは韃靼よりもっと西に行ってたのか」
粟飯原が、ふと目を市場街の北に向けると、そこから大きな男がこちらに歩いて来るのが見えた。その男は金髪で赤ら顔であった。
「あいや。符理男、いやデカプリオでねえか。おおいデカプリオーッ!」粟飯原が大声を上げた。
老人が振り返った。「そうじゃ、思い出した、昨日会ったヤツだ。あれが靺鞨の苔を落としたんだ。あれは、あんたとおんなじで、靺鞨が読めたぞ」と、老人が言った。
粟飯原と符理男は、久しぶりの邂逅と、その舞台の意外さに驚き感動した。符理男は涙さえ見せていた。粟飯原は大陸の近況を語った。
ミレーヌという子供が生まれたとか、バイカルの近況や、ジルカルンダの老い具合などの報告を終わり一通りの感動が過ぎると、粟飯原はしかし、大ノ符理男が、まだ日本にいたこと、そして幾分やつれていることが気になった。
大ノ符理男はポツポツと身の上話を始めた。
大ノ符理男は天羽直幸の求めに応じて甲州国府に向かった。そこで迎えたのは大佐野賢治であった。大佐野のもくろみは、新任の国守である源頼信と組んで、甲州金山を開発したいということであった。もちろん金山の存在を予測してのことではない。ただ、大佐野が若いころくず繭集めに村々を経巡っているころ、ここらで金が出るという山かつの伝承を小耳にはさんだだけである。大佐野にとって印象深かったのはその伝承地がくず繭の集積地と一致していたからである。もし、ここで金が出れば大佐野にとって故郷に錦を飾ることになり、そしてさらに名門源氏との間に伝手が出来る。すでに上総の平氏の懐に入っている大佐野にとってみれば源平両者を結び付ける位置に自分を置くことができ、こうなれば自分の出世のためには計り知れない利益があるということである。さらにここで都合のいいのは、源頼信と平忠常が旧知であり、お互いに好意を持っているらしい事であった。
大佐野は以上の内容を符理男に説明して金鉱山探査を願った。大ノ符理男は大佐野の説明の細かいことは理解できなかったが、本来なら人に話すような内容でない本音の部分をあけ透けにしゃべる大佐野の隔たりのない無邪気さに感動して積極的に金鉱山探査を引き受けた。
大ノ符理男が発見した金山は、甲州国府と武蔵国府を結ぶ街道沿いであった。すべて多摩川の流域である。大菩薩峠に近い黒川山、そこから下流沿いに丹波山、大月山である。ただ残念なことにここで取れる甲州金は銀、銅、ヒ素、水銀などとの高濃度な合金状態のものが多く、奥州金山のような黄金らしい黄金でなく素人受けがしないものがほとんどだったことだった。専門家の符理男に取って見れば問題なく二次精錬に回して純度を上げて黄金を得るわけであり、大佐野も納得したのであるが、源頼信が難色を示した。符理男の説明した灰吹精錬の説明で骨灰の「骨」に過剰反応したのである。神や仏に献上する黄金を動物の骨を使って得るということに源頼信はどうしても抵抗があるようであった。頼信は金を貨幣と見ておらず、さらに貨幣や商人について必要だと理解しつつも嫌っているようであり、その点大佐野や忠常とは思想が違っていた。
頼信は、大佐野が献上した銅をわずかに含んでピンク色をした自然金は喜んで受け取ったが、大規模開発への出発進行命令は出さなかった。しかし、大佐野の努力は大いに評価した。大佐野は面目を施し故郷に錦を飾った。大ノ符理男にも多額の謝礼金が出た。
ここまでで一年がたった。符理男はここまでは順調だった。
符理男の人生が狂ったのは、金探査終了と符理男送別のどんちゃん騒ぎの宴で日本人らしからぬプロフィルを持った遊女と出会ってしまったからである。彼女に出会わなければ符理男はそこから佐渡に引き返し、ジルカルンダの後を追うつもりであった。
ところが符理男は遊女におぼれた。不思議なのはその遊女は大佐野賢治を知っており、あとで遊女自身によくよく聞いたら天羽直幸や粟飯原まで知っていたことである。
そこまで聞いて、粟飯原は箱根の遊女との一夜を思い出した。そして、符理男のその後の人生の想像が出来た。
「それじゃ何かねあんたはその遊女を身請けして、遊女の願いを入れて故郷の上州まで行ったのか?」
「図星!あああれは夢のようだった。上州での暮らしは今でも夢見る暮らしであった。極楽であった。しかし、金がなくなった」符理男は一年間を上州で遊女と暮らしたらしい。
粟飯原はバカが、とけなしはしなかった。自分の力量で得た金をすべて遊女につぎ込んで金がなくなったら縁が切れた、ということだけを了解した。
「白鳥珠はどうした?まさかあの女にやったとかしなかっただろうな」
「それは大丈夫。ちゃんと持っている。商売道具だから」
粟飯原は一安心した。
「それでどうして多賀城に来た?」
「奥州の金探査をして金を稼ごうと思ってな。ここに来れば、何か見つかると上州の侍に聞いた」
「上州で金山探査はしなかったのか?」
「二、三やったが反応はなかった。上州侍も興味を示さなかった」
粟飯原は、符理男に、自分が調べた奥州事情を説明した。奥州は特に金鉱山開発について秘密主義がはびこっていて、よそ者は受け付けないようである。だから、ここから佐渡に帰り、佐渡から故郷に帰るのが一番だと忠告した。
大ノ符理男は納得した。粟飯原は符理男に持ち金の全部をはたいて餞別を送った。粟飯原はここまでくれば、後は無銭でも上総あたりまでなら帰る自信があったから無一文になることに躊躇しなかった。
粟飯原はそして、大ノ符理男に最後の教示を願った。源頼信が嫌った、金の二次精錬の仕方についてである。
金精錬はおおよそ次の工程を経ると符理男は説明した。
まず、金鉱石を砕き出来るだけ細かい粉にする。これを比重選鉱で金属分だけを集める。次にるつぼの内底面を動物の骨灰や松葉灰を混ぜたもので厚く塗り固める。この灰組成は重要である。参考にメモをあげる。この骨灰の上に選鉱金と同量(同嵩)の鉛を混ぜ合わせたものを置き、これが溶けて完全に一体になるまで周囲から熱する。その後は、金属塊の表面の温度が冷えないように注意しながらほぼ半刻そのままにする。そして冷やすと不思議や、骨灰の上には純金だけが残る。不純物は灰の中に吸い込まれ金は吸い込まれないからこういうことになる。もちろん煙とともに消えてなくなる不純物もある。
大事なのは、一度の処理をどういう量でやるかである。これは炉の温度をあげられる限度とかその他の条件で決まるのでいろいろ試して決めるしかない。るつぼの灰は再使用はしないこと。この灰はもっとうまくいくと、この灰の中から銀その他を得ることができるから捨てないこと。また金は銅と同じくらいの温度で溶ける。ポイントは骨灰の成分調整をきちんと守ることと、選鉱金をいかに細かい粉にするか、ということである。
17.上総大椎城
粟飯原(あいはら)忠長は、万寿四年九月に秋風の中、白河の関を南に超えて、十月一日に上総大椎(おうじ)城に着いた。大椎城は上総と下総の国境の川(村田川)の源流域にある。上総国は土地が平坦といわれているがそれでも起伏はあるわけでこの付近の丘陵が東京湾側と太平洋側の分水嶺である。一昔前、蒸気機関車の時代はここが房総一の交通の難所であった。(坂が機関車重連にするほどでもなかった分、一台の機関車では厳しかったらしい)
そのためおのずからすべての街道はここで峠になり、古代では水源を押さえる意味もあって、要害の地ということになる。
従って必然的に城が出来る。実際ここには中世の城が多い。大きいものでは大椎城と、大椎城とは谷津田一つを挟んで土気(とけ)城がある。土気城は遠い昔は奥州征伐の前線基地として機能していたものでいわば国府管理下の城である。粟飯原のこの時代はほぼ廃城である。
大椎城は平忠常の私的な城で、忠常の一族が下総上総一帯を支配するために造ったものである。ここで「支配」と簡単に言うが、平安時代の支配者の一般民衆の支配形態をたとえば江戸時代の領主の支配と同じようなものだろうと思ってはならない。
忠常が安房上総下総一帯を支配していたと言っても、直接に実効支配しているのは、先祖から相伝されたか、あるいは自分の努力(開発を含む)、時には暴力で勝ち取ったかの土地と、そこで小作として働いている人々に対するものだけで、後はすべて間接的な支配である。
忠常たち(土地持ち受領層)が直接支配している領域は、おそらく江戸時代でいえば一万石か二万石程度の大名の領域で、しかもその領域の権利関係は一律のものではなく、いわば虫食いだらけ、時には飛び地ありの土地であったであろう。
忠常たちより身分が下の階層、たとえば天羽直幸たちとの違いは基本的には直接支配の土地の大きさの違いだけである。朝廷が直接相手にする規模かそうでないかの差である。
逆に忠常たちより身分が上の階層、たとえば藤原摂関家や南都の寺社たちと忠常たちとの違いは、これも所有地の大きさの違いがあるが、それ以上に朝廷から不輸不入の特権が与えられている(与えられていればそこを狙って寄進行動が起こる)かいなかの条件がつく。もちろん前者が存立基盤だが、これはあくまで古い証文なのでそれが尊重されるか否かは、時代とともに移ろって行く。大雑把に言って、直接支配の土地の大きさは、天羽たちが二百町歩、忠常たちが二千町歩、摂関家あたりになると二十万町歩くらいではないか。
忠常たちの命題は自分の直接支配する土地を増やすことと、役人となって間接支配する土地を増やすことであるが、常識的には直接支配領域を増やせば間接支配域はあとからついて広がっていくから、結局直接支配の拡大に血眼になることになる。
話は変わるが、忠常が今、不愉快に思っていることは三つある。一つは安房にある伊勢神宮の東条御厨に安房国守が不当介入(忠常から見て)して租税を常陸鹿嶋神宮に横流ししているらしいこと、そしてその租税が常陸介藤原信通の延任運動(表向きは百姓による国守の善状提出という一種の強訴)のワイロとして藤原道長に回っているらしいこと、さらにそこに伊勢平氏(貞盛流平氏)と常陸平氏(こちらも貞盛流)の影がちらついているということに腹を立てている。そしてもう一つは、これも貞盛流の在東国平氏である平維良(元下総守)の露骨な成功(ジョウゴウ。ワイロを贈って官位を買うこと)である。馬二十頭、胡簶、鷲羽、砂金など贈り物の行列に見物人が出るほどの大量の奥州産物を贈って、その結果鎮守府将軍を手に入れた平維良の行動そのものと、維良の思惑通りに動く藤原道長、そしてそれだけの財宝を簡単に提供出来る奥州支配者の財力に腹を立てている。
そして最後の不愉快は、自分の出世実績である。父忠頼は陸奥守を二期務めたのに、自身は五十を超える今になっても上総権介をただ一期のみ務めただけで、この分では間接支配の領域などは狭まるどころか消滅しかねない。
以上のことを良文流の平忠常から見ると、貞盛流の平氏に南北から攻められている景色がありありと見えてくる。
ところが、これ(自身のふがいなさ以外の不愉快)を打開すると、責め苦がなくなるばかりか、逆に間接支配領域がぐんと広がる可能性が出てくる、ということも見えてくる。
忠常は、まず安房を攻め、返す刀で平維良や常陸平氏を打ちさらに遠く奥州に遠征する戦略を持っているが、問題はどういう名目で、だれと組み、いつやるかである。
世の中は今、藤原道長の健康問題一色である。社会運動としては、道長の病気平癒を願う祈祷運動ではなく、ワイロを贈って道長自身に善行を積み重ねさせその結果道長の延命を祈るということで道長の心を動かし利益を誘導してくる運動ということになるかもしれない。近年、百姓が国守の善状を朝廷の諸門に提出する行動が散見している。中には、国守自身の画策とばれてしまったものもあるが、少なくとも朝廷が門前払いせず、この非法行為を受け付けているということは分かる。朝廷は道長の顔色を見て、「愛い百姓どもよな」とのたまいそうであれば、百姓の願いを聞き届けようという気でいるらしいことは分かっている。
それならば忠常は遅ればせながら、この運動に入るか?上総の百姓を組織して国守の善状を持たせて陽明門前に整列させるか?そして夜中に道長邸政所にワイロを持ち込むか?
断じてそれはしたくない、というのが忠常の意志であった。
粟飯原は、村田川沿いに大椎城まで上ってきた。川面から見ると、はるか上に忠常のお屋形がある。お屋形は百メートル四方の土地に簡単な土塁がめぐっていて、その中に茅葺の大きな家が数棟見えている。土塁の前に狭い溝があるが堀といえるほどのものではない。
城はさらにその上である。ガガとした土の崖が五百メートルほど続いていて壮観である。崖の高さは十メートルはあり(城詳細図を見ると、この崖にはピッチの荒い竪堀形状の凹みの連なりがあるが、この造作は後世の改造によるものであろう)村田川との落差はおよそ七十から八十メートルはあろうかと思われた。
粟飯原忠長が大椎城についてから三日後、今日は粟飯原の帰国歓迎の酒宴が開かれた。場所はお屋形の大広間である。お屋形は基本的に寝殿つくりで板の間、濡れ縁にしとみ戸がめぐり、出入り口だけ桟唐戸で、屋根はわら葺きだし、柱は太く、天井は武骨に高く、前庭を含めて装飾というものがまったくない。
酒宴のメンバーは、平忠常と常将、常長らの子息たち、あとは忠常の郎党であるが、忠常の分家スジが多い、苗字をあげると、大高氏、千葉氏、長南、酒井、武石、周東、国分などの各氏、それに粟飯原氏(忠長の婿入り先)らであった。なお大佐野賢治は甲府に出張中で、天羽直幸は遅れて参ずるということであった。
酒宴を切り盛りする女たちは、髪を布で包んで、地味なツンツルテンの着物にタスキをかけてお酌をしている。お世辞にも美しいとは言えない。彼女たちの口から古歌の一首も洩れるとは思えないし、そもそもここに集う男たちと共にこの世に歌(和歌)というものがあると気がついているとは思えない。
粟飯原は長旅の経験で見聞した目で、建物と、人々を見ている。その目で見ると建物は十三湖や多賀城などより田舎臭く、人々の姿や表情も田舎臭かった。上総は半島なだけにすべてに遅れるのだろうかという思いとともに時代の風潮にやすやすと踊らず、華美を好まない本源的な保守主義が上総なのかと思い直したりした。
宴会の場は、粟飯原の白鳥珠修行の話から始まった。粟飯原が、自分は白鳥珠を使って金鉱山を探し歩くことが出来るというと、会場から驚嘆の声が聞こえた。
「上総や下総にも金鉱山があるのだろうか」と誰かが質問してきた。探しては見るがと粟飯原は言った。望みは薄い、だいたいが日本では金鉱山は温泉と一体になっていることが多い。だから温泉の出ない上総や下総は黄金は出ないとみた方が良い。
「忠長には、伊豆、上野、下野などを調べてもらおうかと思っている」と、忠常が補足した。「こういうところには温泉があるし、昔から金が出たという言い伝えもあるから有望だ。いずれ大佐野が帰ってきたら相談してもらいたい」
大佐野の話が出てきたため、話題は甲州の金さがしの話になり、金髪のさむらい、大ノ符理男の話になった。粟飯原が、帰国の途中、多賀城で大ノ符理男に再会したといい、その時の彼の落ちぶれた様子と、落ちぶれた理由を説明すると、忠常や大佐野と甲州を同道した周東常春たちが驚き、そして大笑いした。
「大ノ符理男には儂は会ったことがないが、大佐野や周東の話を聞くと典型的なさむらいだな。女に入れ込むこと、女を信じきることなんぞ愛嬌があっていい。一度会ってみたかったな」
粟飯原は、大ノ符理男から金の純度を上げる方法(灰吹法)を学んだと披露した。
「それはいいところに気が付いてくれた。あの源頼信が年令に似合わず迷信深くて、穢れや祟りに弱いところがあって、甲州金山の開発になかなかうんと云わんのよ。その理由が灰吹法で動物の骨を使うところに引っかかって暗礁に乗り上げている。今その話で大佐野がまた甲府へ行っているわけだ。あんたが灰吹法を学んできたのなら、今度はあんたを大佐野につけて頼信の説得に当たらせようか」
「儂は源頼信という男を買っている。あれはもう一つ皮がむければ儂ら並みの受領を超える存在になるだろう。儂はあれを教育するつもりなんだよ」と、忠常は言った。
後で、粟飯原が義理の父親から忠常と源頼信との関係を聞くことが出来た。
忠常が若く、下総を我が物顔に暴れ回っていた頃、頼信はもっと若かったが早くも常陸介に任じられた。頼信が赴任して数か月の時ひょんなことで忠常と一騎打ちを演じることとなった。というより忠常がそうなるように仕向けた。頼信は本来、将門の乱の勝ち組の子孫で、この時、日の当たる場所にいたが関東に寸土の土地も持たない官僚の卵であり、一方忠常は無位無官だが数千町歩の土地を持つ金持ちのぼんぼんであった。
当時、受領階級同士は自身の武勇を人々に宣伝するために、ささいな理由をつけて決闘をすることは珍しくなかった。決闘は大将同士の一騎打ちだが、見届け人に多くの人を集める。このために集めた人数も競技の勝ち負けの判定の材料になる。
この決闘の顛末詳細説明は「今昔物語」にまかせるが、印旛沼の湖岸の城に忠常が集めた人数の倍の人数を、頼信は対岸に集めた。そして、忠常がすべての舟を隠した中、頼信はただ一騎、馬で浅瀬を渡って忠常の城に来たのである。忠常には信じられない光景だった。赴任後数か月の活動で彼はどういう手段でこれだけの人数を集められたのか。また、忠常が指定した城の大手前の浅瀬をどういう手段で知りえたのか。舞台とした土地には忠常をきらうものが多いが、だからと言ってその腹いせに若くして隣国に赴任してきた頼信に肩入れする人は皆無であろう。それなのにである。
幸いにも、頼信は渡りを終えた後の一騎打ちで忠常に降参した。忠常の面目はかろうじて保たれたわけだが、これも後で考えれば、頼信は勝ちを譲ったのである。
その後、忠常と頼信は水魚の交わりを結ぶ。頼信は、良文流平氏の冷や飯暮らしをよく理解して、常陸介の任期中一杯、常陸平氏の暴慢を押さえてくれた。
今度の甲州の黄金探しは、忠常の頼信からの借りを返す場面だったのである。忠常はこれで晴れて同格になったと思っている。
宴会の座が中だるみになったころ、天羽直幸が顔を出した。相変わらず満面に笑みをためて、色黒で鋭い目をぎょろぎょろさせている。「よう忍生さん。お帰り。あんたを首を長くして待っていたぞ。顔つきと言い日に焼け方といい、いかにも修行が進んだようじゃないか」と、直幸はいった。「お久しゅうござりまする。無事に帰ることが出来ました」と粟飯原は頭を下げた。「あんたには活躍してもらうことがたくさんある。まあしばらくは東金の方で旅の疲れをいやしてくれ。嫁さん孝行もしてもらって子作りにも励んでもらって・・・・・・。ああそういえば元上総介(菅原孝標)さんの娘さんはどうなったのかな。親父さんのたってのお願いだったからあんたを見込んであんたに預けたあの娘さんだ」
「佐渡までという約束でしたが、結局バイカルまで、白鳥珠の故郷まで一緒に行きました。日本に帰って十三湊まで一緒で、それからは別れて秋田城に行かせ、そのあとは国衙の道に乗って上洛させました」
「このこのこのこの、色男が。上総には京女が好む侍はいないと思ったが、あんたは京女、それも朝廷の中枢の女から付き合ってもいいよとOKをもらえたんだから、これは外交侍として貴重だよ。使者をやってもらわなければならないかもしれない。交渉は相手の弱みを握っていると優位になる。それは分かっているが弱みは我々には見えない。しかし朝廷の中枢に出入りする女にはスキャンダルの噂が流れこんでくるからな。これはアンテナに使える」天羽は話を続けた。
「今に始まったことじゃないが、朝廷は乱れきっている。ある女官なぞは兄親王と不倫して、この兄がはやり病で死んだら、次は弟親王とくっついて、この弟親王がバカで女を自邸に引き入れて正妻とトライアングルでナニをしようとしたらさすが女が拒んだ。仕方なくこのバカ親王は牛車の中でことに及んだ。その顛末を暴露する女も女だが、この女、美人でなおかつ歌がうまいとこれが尊敬されているのが朝廷だ。われらはこんな馬鹿共になんで租庸調を貢がねばならぬのか。儂がこれをキャッチしたらただではすまさねえ。ところが残念ながら儂らはこのスキャンダルがキャッチ出来ない。しかしこれから忍生さんならキャッチできるぜ。今後そんなニュースが聞こえてきたらぜひ教えてくれ」
宴会の座は、急に全員が指導者の酒池肉林の悪行許してなるものかという義憤にかられたような雰囲気になった。
給仕している地味な上総の女たちは目を丸くしてまさかあの尊い天朝さまのお子様たちがそんなことをしていらっしゃるのかしら、と疑ってかかっているようであったが、粟飯原はそういうこともありうるだろうと思っている。天羽はスキャンダルで朝廷に政局を作ろうとしているのかしらと思った。しかし、この片田舎でたとえ朝廷のスキャンダルを知ったところでどういう風にして朝廷をゆるがすつもりなのだろうか。
結局、粟飯原には天羽が自分に何を期待しているのか実際面ではよく分からなかったが、察するところ、平忠常と天羽らは天下に何事かの異議を唱えたいと意志を固めたが、それにしてはきっかけがつかめず、さらに人材が足りないと思っているのだろう。確かに今日の宴会の出席者を見るに、親類スジばかりで、毛色の変わった人はいない。あえて挙げれば天羽や大佐野賢治くらいが毛色が変わっていて朝廷や他国との交渉ができそうだがその他の人は偉い人は限りなく偉くてただひれ伏すのみと考え、交渉どころか朝廷や他国のことにあまりにも暗い、彼らはただ見てくれや所有している地所の大小で人を判断する、と粟飯原は思った。
宴会後、粟飯原は、天羽直幸に天羽に頼まれていた奥州事情について報告し、さらに大陸での弓のこと、馬のこと、刀のこと、鎧のことについて報告した。
その後、日をあらためて、大陸修行の成果を各層の侍に講義をした。さらに天羽駅家から白鳥珠を取り寄せた。白鳥珠とはあしかけ三年ぶりの対面である。この白鳥珠は大きさと言い、輝きと言い、藤原道長のものより、大ノ符理男のものより、大陸の故郷のものより立派なものであることを確認した。
粟飯原忠長は婿入りの挨拶で来た時以来、二回目の東金行であった。一回目では、親戚筋への披露・挨拶と花嫁の対面があり、五日後は国府に出発するあわただしさであったから、忠長にとって実質上初めての東金であるといってよい。今日は義理の父親、粟飯原忠良と二人、馬である。口取りと合わせて一行は四人、ポコポコと東金街道を行く。
上総国山辺郡衙(現畜産センター)は門前を素通りする。そこを過ぎると街道は山岳地帯に入ると言って大げさでないほどの山間になる。ここは山辺郡の神聖領域であり、山をしばらく行くと、街道沿いに八雲神社、日吉神社と大きな神社が二つ並んでいる。粟飯原父子二人は、八雲神社への丁寧なお参りをし、日吉神社に向かった。そしてこちらは禰宜の役宅に足を運んだ。
粟飯原忠長が、これから何日か、日吉神社の神域で白鳥珠修行を行うための挨拶である。忠長はここで、あの古代生物の胃袋を膨らませ、白鳥珠を入れて燐光を確認するつもりである。上総のような暖地で霧を発生させる技術を最終的におさらいするつもりでいる。
日吉神社には、忠長と顔見知りの出羽三山系の修行者が二、三人いるので白鳥珠修行やその他でも都合がよい。
日吉神社を辞して、すぐ急な切通しの坂道を降りる。切岸の上の方から冷たく澄んだ水が流れ、小さな滝になっている。粟飯原父子はそこから発生する霧を浴び、逆光で発生した小さな虹をくぐり抜けて参道を降りきると急にあたりが開け、空が広がり明るくなった里の中に粟飯原の屋敷(徳川幕府の東金城時代を経て現東金高校)があった。屋敷地は南と東が開けた谷津田の最奥で、屋敷の門前は古代に開発したのであろう結構大きな堰がある。「八鶴湖」と大陸趣味な名前までついている
粟飯原の家は、一丁四方の敷地に母屋、長屋、蔵に台所、厩が立っている。二十町歩の田畑を持っている。さむらいの家としては最下層で、村の顔役としては地所が多いといったあんばいの家で気位は高い。当主に娘ばかりしか授からず、五十を過ぎてやむなく忍生(忠長)を迎えた。内心は身分上不釣り合いと不満だったようだが、平忠常や天羽直幸の忍生の遇しかたを見て忍生を見直しているようであった。この分では婿の働き次第で地所が二倍三倍あるいは十倍になるかもしれない、と皮算用を立てていた。だから忠長の修行に協力的である。
こんな状況で忠長と妻のタカとの同居生活が始まった。しかし、ニワトリのようにオスとメスを同じ小屋にいれて、さてどうかな、というような塩梅だからぎくしゃくしてどうにもならない。
そんなある日、忠長は白鳥珠の手入れを始めた。
鉛の箱から取り出した白鳥珠は外の光を反射して虹色に輝いていた。
「きれいね。これは何ですか」とタカが言った。
「真珠の一種だ」、「真珠と話には聞いていたが実物を見るのは初めてじゃ。勝浦や安房でとれる真珠とはこんなに美しいものだったのか」、「上総などの真珠とは違ってこの真珠は中から不思議な霊気を出している。あまり長く浴びると体に障るから、普段は鉛の箱に入れている。この霊気は黄金に反応する。この性質を使って金鉱山を探すのが儂の仕事だ。この修行のために韃靼の先まで行ってきた」と忠長は説明した。タカは見知っている村の若衆たちと忠長は違った人のようだと気が付き、それで我が婿殿をもう少し詳しく観察しようと考えた。そうではあれ、まだたいしたものだと感心するには早いと思った。
忠長は、今度は古代生物の胃袋で作ったフードを部屋いっぱいに広げた。
「これは何ですか」、「異国の大きな動物の皮で作った入れ物だ。この中にこの真珠を入れておいてある方法で霧を作ると、霊気が人の目に見えるようになる。この窓から覗き込む」と、忠長は玻璃が張られている小さな窓を指さした。「透き通って水晶のようね」とタカは言った。
忠長は、実は、窓の下にある切れ込みから真鍮で作った筒を入れたり出したりするのだが、この時密封性がくずれて外から空気が入り込んで霧が発生しなくなることがある、とタカに説明した。パッとあけてパット閉められて、中の真鍮をいじることが出来て、それで空気が洩れないように出来ないかといろいろ考えてもう二年になるが、まだいい考えが浮かばない。あなたに何かいい考えはないだろうか、と忠長はタカに聞いた。タカが着物や鎧の縫い付けに特別な技術があると、義父から聞いていたからである。
タカは玻璃の小窓部分を手に取り、ひっくり返したりしていたが、ちょっと待ってくれ、考えがあるといって座を立った。
しばらく待たされた後、タカは粗末な古裂を持ってきた。「こういうのはどうでしょうか」と、それを広げた。
忠長が覗き込むと、現代の言葉でいえば、マジックテープで開閉できる二重扉のようなもので、丁寧に手袋のようなものまで縫い付けてある。フードの外側から手袋に手を突っ込み、中のものを手でいじることが出来そうだった。忠長は感心して、「これならうまくいくかもしれない」と、言って、さっそく実物を改良するように頼んだ。タカは、「わかりました。至急やってみます」と部屋を出て行った。裁縫道具を取りに行ったのだろう。
夫婦の間に、わずかだが灯がついたと忠長は思った。
翌日、忠長は日吉神社に出かけた。山岳修行の修験者の格好である。これから白鳥珠試験に行くと、舅夫婦や妻のタカに説明した。見学はまた後にセットするから今日から数日は一人で修行させてくれと願った。
忠長は日吉神社の末社の一つである白幡神社の山の中に、白鳥珠と胃袋のフードを持ち込んだ。今日は朝からミゾレなどが降り寒かったが、夕暮れが近くなってさらに寒さが増した。霧の発生にとって好都合な陽気である。
忠長のやり方は、空気の断熱膨張を繰り返して、温度を下げ、霧を発生させるものであった。フードをぺしゃんこに畳んで、タカの作った小窓から水にぬらした熱交換器を入れる。ここにふいごで空気を送り込むと、非常に小さなノズルから空気が噴出すると同時に熱交換器が冷えてくる。十分冷えた時点で、フード全体を膨張させると、フード内に霧が発生するという原理である。
忠長は手慣れた手つきで、準備を終えると、ふいごを捜査して空気を送り始めた。あたりにシューシューと不気味な音がこだました。
熱交換器が十分に冷えてきたのか確認しながら、白鳥珠がちゃんとセット出来ているかを確認した。十分に念を入れた後、忠長はフードの折り畳みの紐を鉈で切った。
パアンと音がして、竹ヒゴで出来たフードの骨が一斉に外側にはじけて大きな球形に膨らんだ。忠長が玻璃の小窓から内部を覗き込む。
フードの内部で白鳥珠は燦然とあたりにリン光を放っていた。別の白鳥珠ではあるがリン光そのものは見慣れた忠長であるが、そのプロの目でも、忠長が上総の浜から引き揚げたこの白鳥珠のリン光は強く、美しく輝いていた。
残念ながら、予期した通り、この日吉権現では黄金反応はなかった。忠長は、黄金反応はないだろうと予期しつつ、修行方々、上総の地の別の場所で黄金反応を調べる予定である。
忠長が東金の家に帰ると、「おかえりなさりませ」と、妻のタカが出迎えた。忠長は新鮮な驚きを覚えた。そういえば今まで家に帰ったら妻が戸口で出迎えてくれたことがあっただろうか。妻がいなかったからそれがないのは当然だが、それにしてもそれに類した場面は何千と体験したはずなのに今までの生涯でこの体験はなかった。
舅夫婦と食卓を囲み、そしてその後、酒が出た。舅は十分に忠長を大事にしてくれていた。そんな中で、舅から藤原道長が亡くなったらしいという話が伝えられた。
忠長は三年前、上洛した時、天羽直幸と共に、新造なった法性寺で道長と対面している。忠長がそのことを言うと、舅たちは目を丸くして驚いた。そんな雲の上の人にあなたは会ったのか、と、また忠長の株が上がった。道長とはどんな感じの人だったのかと舅は聞いてきた。ごくごく普通の品のいい美男子の老人だと答えた。
粟飯原忠長は彼独特の人の評価方法を持っている。それはその人を子供にして子供しかいない島に放り込んだらどうなるかということである。道長少年は女の子には持てるが男の子には嫌われ、嫉妬でいじめられてめそめそしている気弱な少年である、というのが忠長の結論であった。自己防衛のため、間違ったらガキ大将に女の子を取り持ちし出すかもしれない。しかし、間違っても島の指導者にはなれない人である。
18.安房国府の惨劇
万寿五年六月(1028。この年、七月に改元されて長元元年)前上総権介平忠常は兵をあげた。
ただし、兵をあげたといっても、中世の権力は微力である。この年より百五十年も後のデータだが、平家政権が源頼朝を打倒するために集めた兵が四千人で、これを当時の人は見たこともない大軍と評している。それから推定すれば、平忠常の反乱軍の第一軍は、天羽直幸を大将として、周東(すとう)常春、粟飯原(あいはら)忠長らで安房国府に向かった兵力はせいぜい三十人だったかと思われる。乱、戦いというより小さなクーデターと言った方が近い。その中で粟飯原忠直の兵力は自分は馬で、替え馬一頭、あとは郎党五人といったささやかさである。
一行は安房府中の里に入って、行列を整えた。それでも旗指物があるわけではなくただ人馬が行進しているにすぎない。しかし、太平の田舎である。すれちがった里の住民は、この人数でも、祭りでもないのにこの人数と馬の多さに不気味さを感じたかもしれない。何も知らない客観的な目で見れば、ちょっと大規模な山賊規模の部隊だが、山賊と違うところは、山賊より装束の鎧兜、鞍、弓などが多少はきれいであることだけである。
天羽直幸は国府から一里手前の犬掛でこの微力の兵をとどめ、後は天羽自身と粟飯原の二騎だけで国府に向かった。二人とも鎧はつけているが弓道具は持たず、太刀すら帯びていない。これは、天羽直幸が使者で、粟飯原は軍監という名の書記役、見届け人というしつらえである。
安房国府に着くと、二人は馬のまま門を入る。国府の雑人が押しとどめようとすると、天羽は「下郎!」と大声で叫んだ。その一声で雑人は震え上がり名も聞かずに二人を通した。もう一人の雑人は奥へ注進に走った。
「国守に対面!国守に対面!」と天羽は大音声を上げて縁を鎧に土足でズカズカと奥へ入っていく。
安房国守が外記(書記、秘書)と二人で縁を渡って来た。こちらは狩衣に太刀を佩いている。千両役者が堂々とお出ましという感じであわてた風は微塵も感じられない。ただどういうわけか烏帽子をつけていない。
「こちらは前の上総介家来天羽の直幸である。東条の御厨の貢進事務について疑念これありにつき確かめに参った。早々に国守に申し伝えよ」
「国守は自分だが、疑念、要望は上総の国守を通して申し込むのが道理である。上総の国守はこのことご存じなのか」
「ああ、これはおみそれいたしました。安房の国守さま。残念ながら前上総権介の一存でござりまする」
「下郎!それでは受けるわけにはいかぬ。早々に立ち去れ。それになんだ土足ではないか。お前は山賊か。検非違使を呼べ!」と、従五位下安房守惟忠はふんぞり返って言った。山賊風情なら検非違使を呼ばずとも自分で処理できるという気構えを示しつつ言った。彼の外見は物語に出てくる褒められる方の地方官の長の典型であった。背が高く、整った顔をした偉丈夫で、押し出しが堂々としていて、あわてたことは生涯一度もないといった雰囲気をいつも身に着けていた。
「なるほど、それだけふんぞりかえっていればさすが烏帽子も落ちようというもの。それで謎が解けた。冠を落とした前の外記さまよ」
藤原惟忠は内心すこしあわてた。この下郎は自分の都での不祥事(宮中儀式の最中に冠を落として、それが常日頃ふんぞり返って歩いていた祟りだと笑われた)を知っている。
天羽は話を続けた。「申し込みを受けねば、どうなるか。今、あんたは烏帽子がないからその土台を落とすことになるがどうだ」
「ふん。太刀もないくせに何でまろの首が落とせるのか」
「あんたの太刀を引っこ抜いて落とすのよ」
「・・・・・・・・・・・・」惟忠は腰の太刀に手をかけた。
にらみ合いが数分続いた。そして惟忠は太刀から手を放した。
「よし、話は聞こう。こちらへ来い」
天羽と粟飯原が通されたのは大きな板の間の広間だった。そこには床几がいくつも並んでいる。机というものはない。「そこへ」と藤原惟忠は二人を片方の床几に座らせた。そして自分も天羽の前の床几に座った。そして外記をそばに寄らせ、何事かを耳打ちした。
外記が出て行ってしばらくするとどやどやとおよそ二十人の官吏が入ってきて藤原惟忠の後ろに座った。皆太刀を佩いている。
「さて、下郎。望みを聞こう。申すがよい」
「これだけの大人数。証人としては申し分なし」と、天羽直幸はにこにこしている。惟忠は、人数を集めたはいいが、もしこれで受け答えの処理を誤ったら、万座でまた恥をさらすことになる。一瞬、出てきた人の半分は下がらせようかと迷ったが、いまさらどうしようもない。そしてその躊躇で、いったいこの下郎は何を言い出すか、と恐怖が倍増した。
天羽が語り出した。
「近年、百姓が朝廷に国守の善状を出し延引を願うことが諸国で散見される。これが言葉づらのまま真実であれば、本朝のため、万民百姓のため慶事であり、われら下司は感涙にむせんでいればよい。しかし、このすべては金で雇った百姓を朝廷の諸門にならばせ、嘘で塗り固めた善状をささげている。そして中には国守自身が自分の善状を書いたものもいるという。しかし、それとて遠い他国であれば国守の恥知らずよ強欲さよと高みの見物で笑ってみていればよい。ところが、去年、この病がついに常陸国に来た。しかも今度は摂関家へのワイロつきだ。目を疑いたい気持ちだが、しかし、これとて隣国のこと、隣国の百姓も哀れなものよ、と憐れんでいればよい。ところで、安房の国守さまは、以上のこと、ご存知か?」
「他国のことゆえ詳しいことは知らぬが、話は承知している。しかし、それを何で安房の国衙でしかもまろが聞かねばならぬのか。安房とは関係ないことではないか」
「それが関係が大ありなのよ。国守さま。儂が調べたところ、常陸介の善状提出に添えられたワイロがなんと安房から送られていたのよ。ところで安房の国守さまは、以上のことご存知か」天羽がどなった。
「あんたは、東条御厨が五百貫を鹿嶋神宮に奉納したことをいっているのか?あれはお伊勢さまから道長入道様の病気平癒祈願の祈祷を行うため、鹿嶋神宮に奉納せよとのお達しで、安房国府が事務手続きをお手伝いしたもの。ワイロや国守延任願いのこととはまったく関係ないことであるし、秘密でも何でもない。安房の国府の者は誰でも知っていることだぞ」
「では、お伊勢様を通さずに五百貫を安房から直接鹿嶋様に送ったのはなぜだ?すじから言えば、お伊勢様からそうせよという指示書と、鹿嶋様からはお伊勢様からの奉納の目録写しと、確かに受け取ったという領収書が安房国府に残るはずだが、それを出してもらいたい。今すぐだ」
「あんたのいう、受取その他はあるが、何の権限であんたはわれらに提出を要求するのだ?あんたに見る権利はない。拒否する」
「拒否するも何も、受取など、はなからないのだろうよ。正直に言えよ。ええ?安房の国守さんよ。言えば許さんでもねえが、どうだ。あるのかないのか、どっちだ」
「いうまでもない。あるが拒否する。それだけだ。言いたいことがそれだけならこれで終わりだ。帰れ。検非違使が外で待機している。もしこれ以上とどまるなら検非違使を呼ぶぞ」
天羽は今度は聞き取れないほどの低い声で言った。
「道長入道様には儂も一度拝謁の栄誉に預かった。ありがたいお言葉をいただいた。天羽さん、と儂が名乗る前から儂の名字をおっしゃっていただいた。三年前の話だ。惜しいお人を亡くした。残念なことだ」
「何をたわけた寝言をほざくぞ。帰れ、帰れ!」
「ところで安房の国守さま、道長入道はいつお亡くなりになりましたか?」
「知れたこと。去年の十二月だ」
「すると、それにもかかわらず今年も東条御厨から鹿嶋様に送られた五百貫ですが、この受取の名目は何て書いてありました?やっぱり病気平癒祈祷のお礼奉納ですか?」
「・・・・・・・・・・」
天羽は顔を見届け人の人たちに向けて言った。
「安房の皆の衆、神宮領の上がりの一部を使途不明金にして、まったく思いもよらぬところに使うといのは昔からあることだが、ワイロに使うってのはどんなものでしょうかね。おそらく伊勢平氏と常陸平氏とここにおられる藤原惟忠様が結託しての話よ」
座が少し動揺したようだった。部下からすれば奉納金だ、頼まれたのだ、性格上受取はもらえない、と言われれば租税の横流しにそれほど目くじらをたてる官吏はいない。しかし、あらためてそういう疑いの目で見れば、近年のこの種の送金は、まとまればかなりの額になっている、というのがこの座にいた誰もが思っていることだったからだ。
そういう座の空気を読んだか、惟忠が卑屈な調子で言った。
「正義の味方の天羽さんにはまいったよ。ハイハイ確かに領収書はありません。しかし、まろは、あくまで鹿嶋様に金は送った。その後その金がどうなったかは知らない。摂関家のワイロに使ったものやら、百姓の出挙の一部になったものやらそれは知りません」
「そうだよ、最初からそう言えばわしもあらたな罪をかさねることがなかったのよ」と、天羽はにこにこしながら言った。表情が百鬼のように変わった。そして、つけ加えた。「しかし、もはや遅い」
天羽は、普段のかれの挙措からは想像できない速さで、藤原惟忠のそばにより、彼の佩いた直刀を引き抜くや、そのままズンと惟忠の胸に突き刺した。突き刺して、刀をよじる周到さであった。悲鳴を上げることもなく惟忠の体があおむけに転がった。
「皆の衆、儂のとった行動の評価は皆の衆に任せる。この場で安房の守の敵を討ちたいと思う者は、かかってきて結構だ。儂はあくまでこの刀で迎え撃つからそのつもりで遠慮なくかかってこい。しかし念のために申しておくが、犬掛に儂の軍が三百人待機している。これからこの粟飯原がのろしを上げるか所定の時間が過ぎると、すぐに駆けつける。儂や粟飯原は討たれるかもしれないが、討ったやつもすぐにやられるからよくよく考えて行動してもらいたい。今後のことは追って沙汰する」
天羽は血刀を右手につかんだまま、藤原惟忠の死体に向かって左手を立てて弔いの動作をした後、堂々と正門に向かった。粟飯原が後ろに従う。国府にいるだれも、声を出すものがなく、天羽の肩に刀を浴びせるものもいなかった。
門を出て、天羽と粟飯原は犬掛に向かった。
犬掛で部隊と合流した後、天羽は人数を数隊に分けて、街道を押さえた。国府から出るであろう隣国上総国や朝廷への注進状を阻止するためである。
翌日、安房国府で天羽直幸は役人を前に沙汰を通達した。一つは、すべての国府事務を止めること、二つは農繁期の時期に来ているので、すべての百姓は動揺せずに正業に励むよう通達すること。そしてすべての乱暴狼藉は禁止すること、さらに安房検非違使は解散し、業務は上総の侍軍団が代行するということである。
こうして、後事を周東常春等にまかせ、天羽と粟飯原は上総国府に向かった。その後、上洛して今回の沙汰について朝廷に陳述することにしている。
忠常軍は人材がいないから出てくる人間はいつもおなじである。朝廷対応は天羽、摂関対応は忠常自身の密書提出、そして隠し工作(連携がなれば乱を拡大し、ならねば調停に走ってもらう隠し玉)として甲斐の源頼信対応を大佐野賢治がやる、というのが忠常の戦略であった。忠常の悩みは宮中(=皇后人脈)への工作者と通信使がいないことであった。
忠常自身は、天羽の安房襲撃と歩調を合わせて上総国府に乗り込み、こちらは国守夫妻を監禁した。その後の経緯は安房とほとんど同じである。
忠常は一通りの下知が終わると、密書の準備に取り掛かった。送り先は内大臣藤原教通(時の摂政頼通の弟)、中納言源師房(頼通養子)である。国府ルートからの情報とほぼ同時に到着することが肝要だと思っている。
なお、この時の上総介は犬養為政。正史では国守の帰国問題で地元ともめていた、とされている。健康上か何かの理由で目代を置こうとする国守とその人選にいちゃもんをつけている地元住民=侍、武士という図式が想像される。こんな中で国守が不当であると攻める忠常の行動は、地元武士に一定の共感を持って迎えられたと考えられる。その理由は今昔物語から伺える。
今昔物語に、伊豆の国守が目代を置こうとして自分で面接して立派な男を選んで据えたところ、なるほど申し分ない働きをしたが、実は彼は傀儡出身で祭りの太鼓が鳴ったら思わず踊り出してしまった、その踊りがプロ並みだったからとても国守の余技とは思われずたちまち身分がばれてしまった、という話がある。今昔物語作者の趣旨は傀儡といういやしい身分の人を目代にした国守の人を見る目のなさを問題にしているが、地元民の目から見れば、理由はあるにせよ、目代を置いて自身は都を離れない(遥任)というのは地元をバカにした話である。万に一つやむを得ないことであれば、地元と相談して人選し出来れば地元の有力者を目代として置くのがスジだろうという論理はありうる。
摂関政治が爛熟したこの時代、遥任も流行したことであろう。そしてこれも摂関家へのワイロなくして実現しないことは常識である。(なお、だからと言ってワイロでなんでも実現すると考えるのは早計である。例えば伊豆などの小国では目代も考えられないことではないが、上総国のような大国でしかもここは親王任国で「守」が制度的に遥任である国にさらに「介」も目代というのはあまりにあまりであるので実現性はないだろう。だから逆に物語では、朝廷がそれを強行した、だから忠常が切れた、という話は真実性が出てくる。さらにデン助のにわか勉強を自慢すると、これから後の人々の事件を理解する仕方は今昔物語等昔話を押し付けて理解しているように思える。例えば伊豆国の目代といえばとんでもない男=頼朝旗揚げで血祭りに上げられた山木判官、上総国の侍と言えば双六の最中にケンカして殺される=梶原景時と双六をしている最中に殺された上総広常、などである。昔話と同じにしておくと因果応報、運命などとくっついて納得しやすいのだろう。先祖の行動で子孫の今を判断するという性癖は武士の世が終わる江戸時代一杯まで続く。デン助は万葉集、特に後期万葉集は古事記日本書紀のパロデイーだと思っていますよ。また考えて見れば今の自民党人事など二世、三世が一世と同じ大臣になるなど日常茶飯事で、これがまた世間から一種の安心材料と見られることが多いのだから息が長い風習ですよね。)
19.二度目の上洛
以上のようにもろもろの事情で、天羽直幸と粟飯原(あいはら)忠長は上洛の旅に出た。先を急いで今度は十日で京に着いた。粟飯原は何かの役に立つかもしれないと、白鳥珠を持参しての旅である。目指すは検非違使庁。時の検非違使左衛門尉(けびいしさえもんのじょう)は平直方。貞盛流の平氏である。本人たちは伊勢平氏より位は上の本家すじという認識である。藤原頼通の推挙で検非違使になれたとされていた。
ここで、まず、検非違使について。摂政関白などと共に令外の官である。本来は都の治安維持機構であるが、だんだん拡大して、機動性を持ち、時として地方にも長期出張して事に当たることがある。騒乱が大規模になれば検非違使や検非違使OBから押領使、追討使が選ばれ派遣される。江戸幕府の火付け盗賊改め、近代の東京警視庁などに近い。
中央の武士の晴れ舞台であるので、我こそといった武士は検非違使をめざし、世間もそういう目でその人を見る。
忠常が騒乱を起こしたこの当時、世間に著名な武士と言えば、第一が源頼信、第二が平正輔(これは伊勢平氏)であり、平直方は三番手以下であった。しかし現実はこの当時、頼信も正輔も検非違使にはなっていない。いわば世論(床屋談義の人気)とプロ(と自称する官僚集団)が選ぶ人選とのねじれである。いつの世にもある話である。
さて、我らがエース天羽直幸は貞盛流平氏のあくどいワイロ戦略の片棒を担いだ安房国守を血祭りにしてその足で京に来て、平直方にどのように対したかである。さっそく覗いて見ることにする。
天羽直幸は日頃から親しい人にこう漏らしていた。「儂は目的を持って人に会うに漫然と会うことはしない。必ずテーマを持って会うことにしている。テーマとは何か。相手を説得するのではない。相手にお願いするのではない。相手が自発的に自分を助けてくれるように持っていく、これがテーマだ」
天羽直幸は検非違使庁の役宅の広間の前庭に、これ以上平らになることはないほど土下座していた。検非違使庁に入って、自ら後ろ手に縛られることを要求して縄付きで直方に対面しての話である。直方がそれではあまりに見苦しいと縄をほどかせたら、今度は土下座である。言い訳を言う前にすでに降参、無条件降伏の姿勢である。ただし総大将の降伏密書なり親書を持っているわけではないから、もちろん認められるわけではない。
天羽はしきりに、因果を口にした。百年前の平将門の乱との対比である。あの時、騒乱の本質は武者の内輪もめだったものを朝廷が介入して将門が謀反人とされ、結果、勝者は国に対して功績があったとして立身栄達した。しかし、その反作用として、特に平貞盛は同族を討った、しかも勇者の藤原秀郷の力を借りて討った。要は卑怯なまねをして勝ってそして立身した、というイメージが固定した。昔話の中で貞盛は、自分の過去の不名誉を隠すために、息子の妻の胎児の肝を要求したり、あげく、使用人の腹を裂き、胎児の肝を探し求め、さらに知恵をつけてくれた医者を口封じに殺してしまう役割を演じさせられている。
前例主義で責任をいっさい取ろうとしない朝廷は、坂東で平忠常騒乱を起こしたというニュースを受けるだけで、あとは実態にはまったく興味がなく、調べようともせず、「坂東」、「平」という言葉に反射的に反応して、すわ将門の再来だ、討伐だ、主将は前例に倣って平貞盛の子孫の直方だ、で決まりなのだ。別にあなたの腕を見込んで決めていることではない。むしろ、結果がどう出ようと、貞盛の評判はさらに悪くなり、結局あなたの評判も悪くなるだろうと期待している人事なのだ。朝廷や他の武士はむしろ面白がってあなたがそれを演じるのを首を長くして待っているんですよ。負けたら負けたでやっぱり貞盛の孫だけのことはある、というし、勝ったら勝ったでどんな卑怯な手を使ったかというだけですよ。それをお忘れなく。まあ、勝てば多少の恩賞はあるでしょうがね。それだけです。あとは悪評だけです。こういうことにあなたを巻き込んでしまうことになるだろう今度の忠常の行動は本当に申し訳ない、この通り謝る、とそれだけを繰り返し、土下座しているばかりである。
平直方は困ってしまった。天羽に会うまでは、追討使になったら、今度こそすっきりと勝ってやろうと手ぐすねを引いていた気持ちが急に萎えてしまった。直方は先祖の評判の悪さを改めて思うと共に、坂東はこりごりだ、これからはできるだけ触らぬ方向で、西国に専念しようと思ったのであった。直方は、その後、自分の名誉は保ち、いかに戦わず逃げるか、そのことだけを考えようと思った。
検非違使庁から解き放たれて帰ってきた天羽はさすがにぐったりしていた。だが、平直方への爆弾は十分なものだという自信はあった。直方は戦意を失っただろうという確信が持てたからである。まあ、ひとりで百人力の働きはしたという自負があった。同時に、すぐに上総に帰らねばならぬ、自分には次の仕事が待っていると思った。とにかく上総には人材がいないのである。
天羽直幸は、宮中の動きを知ることと、朝廷の人事、京の噂・世論を逐次上総に通信する役割を粟飯原忠長に託した。工作をするとか交渉するとかではなく、ただ知ること、そして正確に通信することを期待した。こういうことが出来る者は上総には誰もいない。わずかにひとり、粟飯原は文字が書けるということと、京に土地鑑があるということと、菅原孝標の娘と知り合いだということだけが元手のすべてであった。
そういうことで、粟飯原は一人京に残された。粟飯原の運命に多大な影響を与えた天羽直幸とは、この後、結局二度と生きて会うことはなかった。
粟飯原は侍ではない。天羽直幸の計らいで侍になって、さらに騒乱に巻き込まれてクーデターであれ何であれ強盗怨恨以外の殺人現場にまで付き合わされたが、はっきり言って侍の生活は性に合っていないと思っていた。侍とは、傍で見ると、弓や槍で敵と戦うか、城を枕に籠城するかなのであるが、現実は、キラキラした鎧に身を固めて、弓を持ち、矢を背負って、馬に乗り、従者を従えて密集して行進するか、もしくは密集して門を固めるかだけが仕事であった。粟飯原はきらきら着飾って密集して行進するこの三つともきらいであった。だから、天羽直幸からゆだねられた通信使の仕事は性に合っていると思った。しかしかすかに、これでは義父はがっかりするかなという思いはあった。
粟飯原が最初にしたことは、菅原孝標の行方探しであった。受領は任国に行ってなんぼだから、今は京に居ず遠い任地かもしれない。もしそうなら、ただ一つのつながりが切れて、得られる情報は限られたものになってしまう。粟飯原は祈る思いで菅原孝標とその娘真子の行方を探し求めた。
幸いにも菅原孝標は在京であった。孝標は今、右大臣藤原実資の娘の家司になっていた。上総介以来補任はなくずっといわば浪人暮らしが七年続いていることになる。家司など私的な役職だが、多少の手当も支払われるだろうから無職よりはよほどマシであろう。真子は寛広五年の生まれと本人が言っていたから指折り数えると今年で二十歳である。双子のもう一人は結婚して家を出たが、真子は結婚はまだらしい、継母とは不縁となって別れ、今は父と母と娘三人暮らしである、などということが断片的に明らかになった。
粟飯原は真子に艶書を書いた。孝標に面会を求めて情報提供を願うのも一つの方法だが、これだと宮中の情報はほぼ百パーセントあきらめざるを得ない。真子なら宮中の情報も入り、摂関家の情報も入るからである。
粟飯原は歌が詠めない。そこで、次のような物語風にしたためた。
「遠い異国に深い霧を求めてさまよい歩き幸いにも目的は達したが、一緒に探してくれていた恋人とははぐれてしまった。その残り香を慕って京まできたら恋人の噂を聞いた。もし今もう一度霧に輝く真珠のりん光を見たければ、石山詣でに出られたし。目印に白の錦を車から垂らせ。逢瀬は牛車の中で。真子様へ 霧箱法師より」
粟飯原は高級公家風の狩衣を着て、牛車で菅原の家を巡り、その手紙を菅原家の女童と思しい子供に駄賃を与えて、女主人に手渡すように頼んだ。
粟田口への街道に張り込んで三日後、粟飯原は白絹を垂らした牛車を発見した。真子とは三年前ここで出会ってバイカルに行き、十三湖で別れ、一年後またここで再会したことになる。粟飯原は相変わらず高級公家風の狩衣姿である。傍の人なら、プレイボーイの貴公子が宮廷の女官と密会してカーセクッスに及んでいると見たかもしれない。天羽直幸がけなしていた風俗を今自分がやっていると恥ずかしい思いがあった。
一年ぶりだから前と変わりがないというのは当たり前だが、真子はまったく変わっていなかった。粟飯原の書いた艶書の物語仕立ての出来を褒めてくれた。歌の勉強は進んだか、の問いに、少しはね、と答えたので、それでは男に成りきってあの艶書を歌に翻訳してくれ、それをそっくり返すから、と言ったら、しばらく考えたが、歌は披露しなかった。
家が焼けて猫が焼け死んで姉がなくなってから後の菅原家の話を聞かせてくれと言ったら、結局その後は粟飯原とのことだけがあって、帰ってきたら母が占いに凝っていて家は引っ越しばかりをして顔を合わせれば見合い見合いと騒ぐし(出て行った)継母は再婚したのにいまだに「上総大輔(だいふ)」と人に呼ばせて恥じない。出て行ったんだから再婚した相手の官職を言えよ。無役の大輔とかねえ。親王任国大上総国が泣くよ、ねえ粟飯原さんそう思わない?東山の尼は梅の盛りを知らせてくれと金を置いて頼んでおいたのに忘れてくれるし、だいたい菅原と梅の盛りのコラボを忘れる日本人がいるかよといいたい。菅原が日に日に軽くなってさみしくなっていくだけだと言った。心配なのは父が認知症気味で、家学の伝授が進んでいないこと。これでもし任官ということになったら冗談でなく私が秘書になって父を引っ担いで任地に赴く気持ちがある。菅原の家は私が守るつもりである。だから昔の知人が親しく訪ねてきてくれたこの再会はうれしい、と言った。
粟飯原は、自分には何の力もないが、主人である天羽直幸や平忠常には真子の願いと決意を伝えておくと言った。
真子は首をひねって、平忠常さんや天羽さんはどうもね、それに大佐野さんもぞっとするといった。この三人と真子は面識があるのである。それで、「合わない」との結論であった。粟飯原からするとなぜ嫌うのかそれが分からなかった。人妻や息子の嫁であれなんであれお構いなく言い寄っていく男をただイケメンだからといって許して、愚直に妻を尊重し、恋愛は商売女で済ます忠常や天羽を嫌うのはなぜだろう。女として逆ではないか、と思うのであった。
しかし、これは粟飯原が間違っている。忠常や天羽は女を一段低く見ている。そんな女と恋だなんだとごたごたするより別のことがしたいと考えているのが女には見えるのである。
真子は、忠常や天羽のために、宮中情報を教えてくれという粟飯原の願いは、断ってきた。忠常さんが上総で何を思おうと勝手であるが、忠常さんにも、上総にも興味はないし、借りもない、ということであった。しかし、宮中情報は別に努力しなくても入ってくるしそれをあなたに漏らしたとして、忠常さんに特別有利になるとも思えないから、しゃべるよ、ということであった。
粟飯原は、こうして、宮中情報を知ることが出来た。これを山岳修験者のルートに乗せれば通信体制が構築できる。実はこの情報が、忠常たちに非常に役立ったのであるが、忠常はありがたみを感じていないし、粟飯原も真子もそんなに大変な仕事をしたとも思っていない。
20.乱の推移
粟飯原(あいはら)は京にとどまっているため、上総の情報はほとんど菅原真子を通じて入ることになった。だから量は極端に少なくなったが、全体を鳥瞰することはできた。人事情報は都度上総に送っている。
忠常追討使に任じられたのは平直方であり、次官には中原成通であった。検非違使の長官と次官がそろって任命されたことになる。真子情報によれば、直方は乱の当初、追討使派遣を積極的に主張していたらしいが、いざ自分に任命されそうになって後は、「心がここにない状況」に見えているらしい。平直方を推したのは、右大臣藤原実資でこの人は現在摂関家の長老であり、関白頼通が頼りにしている。菅原孝標は前回紹介した通り、実資の娘の家司であるが、実資から孝標に上総のことについてご下問があったかどうかは不明とのことであった。粟飯原は、真子情報をほとんどそのまま上総通信に出した。ただし、孝標の動きについては、「ご下問があったので、前上総介の見解として、推移を見るにこれは同族争いであるから、ケンカ両成敗とすべきで追討使は出すべきでない。査問の使いを出すか、関係者を京に呼ぶべきだ」と答えた、と曲げて通信に出した。
またすぐに、粟飯原は通信を出した。直方はきらびやかに京を出発。沿道の住民はあまり関心を見せていない。
長元二年(1029)十二月、久しく平直方の動きの情報がない、と思っていたら、真子より、中原成道が解任されたとの情報が入った。理由は平忠常追討の状況報告が出てこないため、とのことで、これはさっそく上総通信に出した。さらに、朝廷は平直方は鎌倉に前線を敷いてここにとどまっている、忠常は夷隅の山中に手兵とともにこもっている、その数は一千、という認識である、と、これも通信した。速報としてもう一つ、殺された安房守の後任として藤原光業が任命された。藤原秀郷の末。武士であるが、坂東赴任は初めて。正月明けに現地に向けて出発予定。中原成道の帰朝は未確認。
長元三年(1030)三月、真子情報が入る。安房守が国府に入れず印鑑と共に逃げ帰る。粟飯原はこれもさっそく上総通信に載せた。
安房守の逃げ戻り事件については、乱の終結後、粟飯原が帰国して詳細を調べることが出来た。
天羽直幸は新国守が国府に来ると見るや、門をありあわせの家具のバリケードで固めて、ただ一人、無腰で国守一行を通せんぼしたのだという。理由は、なぜ国守が殺されたか、理由を説明して、後任の国守はどうあるべきか表明してもらわなければ通せない、ということであった。
あまりに直接的で子供っぽい振る舞いに、国守は、これに威厳を保って処理する自信を無くした。伴の者だけで強制排除すればそれを理由に残党による国守襲撃の口実になるだけであり、そうかといって門を避けて事務棟に入ってしまえばバリケードが残る。任地に入って最初の行動が大衆のあざけりの対象になって、昔話になってその後ずっとついて回るだろう。一番の良案は、守ひとりで「そんな悪さをするんじゃない」と言って、素手で取っ組み合いのけんかをして、それに勝って、堂々と通る、ということであろうが、この新任の守はそれが出来るような人ではなかったらしい。結局にらみ合いが続いてそれにも負けて、すごすごと帰国することになった。粟飯原が思うに、その守はおそらく帰朝の旅の日々上にどう説明しようかとその言い訳ばかりを考えただろう。悪いのは追討使が付いてきてくれなかったからだということになったに違いない。
ただ、「乱」の全体から見ると、この天羽直幸のパフォーマンスが頂点で、後は下り坂だった。国府を閉鎖して、租庸調(税金の古典的表現。平安時代では死語)は廃止、国境を固めているだけという忠常軍の方針は、一見、租庸調分が地元に残るので地元民は歓迎するだろう、ここに史上初めて搾取者のいない長老がおだやかに話し合いで諸問題を調整する自然村落国家が生まれるという見通しがあったのだが、これがすぐに破たんした。なぜなら真珠、絹、ベニバナの村などは租庸調で食べているのであって、租庸調がなくなると途端に需要がなくなり、村は飢えることになる。次に良民(直作百姓)は自分の田畑を耕しているだけでなく、荘園に囲い込まれた田畑の小作を兼務している人が多い。この人たちの小作の取り分(減税分を小作がもらうか、地主がもらうか)についての話し合いが紛糾して小作放棄になってしまい、また種もみの分配などについて権利と義務の調整をする者がいなく、結局、声のでかいものが勝手に分配をはじめる。あげくに分配をめぐっての争いから国府正倉が焼かれ、盗賊がはびこり、盗人に対する過酷なリンチが頻発するということになってしまった。忠常は秩序を破壊しただけということになった。そして、これは違う、こういうことになった、と説明する方法が見つからなかったし、たとえ見つかったとしてそれを良民に伝える手段がないことに遅ればせながら気づくという体たらくとなってしまったのである。忠常に出来ることは呆然としているだけとなった。
この混乱の中、八月に、天羽直幸は、だれが放ったか分からない遠矢に眉間を割られて落命した。群れずに、常に一人で、無腰で独特な論理で人々を丸め込んでしまう論客を失って、この人なら自分でまいた種なのだから、自分で刈ることが出来るのでは、という淡い希望を忠常は捨てざるを得ないことになってしまった。
粟飯原の上総通信は続いている。長元三年(1030)九月、甲斐の守、源頼信忠常追討使に任命。平直方に召還命令。
この小説は今まで主として主人公粟飯原の視点で記述しているため、忠常や、源頼信、大佐野賢治などの動きが見えてこない。そこでこれら甲斐フィールドをまとめて解説的に紹介する。
まず大佐野賢治は甲斐の国府街道筋に貧農よりまだ貧しい家に生まれて屑繭の回収業から、年貢の運搬業者を経て、下総に進出、ここで香取の海の水運業者を乗っ取って資産家となる。こんな中で、土地の豪族平忠常の金庫番となって、政商になる。この時天羽直幸と知り合いになる。
ここで偶然天羽が白鳥珠を掘り当てたことから、故郷の金鉱山開発を思いつき忠常に相談すると、甲斐の守だった源頼信を紹介される。しかし、頼信は商業や金銀財宝を好まず、個人的な武力信奉の男だったため、金鉱山開発はとん挫してしまう。しかし、頼信の将来性を見込んだ大佐野は、もめごとの最終和解における金銀財宝の威力を教え込むと同時に、甲州街道の馬借の買い占めの許可を願った。条件は、頼信に無限の政治資金を供給し続けるということで、頼信は了承した。その後、頼信はもめごと調停の名手となったが、同時に彼は名声、うわさの発信源に多額の金をつぎ込むことを覚えた。
大佐野の動きはもちろん平忠常の了解の元であった。忠常は摂関家へのワイロ合戦でお互いにお互いを蹴落とす成功ばかりを考えている受領が、仮に連合したらどうなるか、という発想の持ち主で、その一歩の相手を源頼信としていた。
こうして平忠常の乱が起こった。その経緯は追って紹介するが、その前に大佐野賢治のその後をかいつまんで紹介する。
源頼信による平忠常の乱の収拾に多額の大佐野の金が使われたことは間違いない。大佐野は慈善運動でこの金を使ったわけではなく、平直方の支配下にある瀬戸内の海運の独り占めが目的であった。大佐野の夢は日本一であり、日本一の瀬戸内海運が手に入ったら、個人で内裏寄贈を考えていた。その後は朝鮮、中国と夢は限りがなかった。
しかし、運命は過酷で、平直方への献金が終わったころ、大佐野は癌で死去した。四十九歳。甲斐の名門から嫁いできた妻は夫の病床を一度も訪れなかったという。子供はおらず、兄弟は早くに病死していたから、巨額の財産はあっという間に雲散霧消したが、かろうじて妻が分捕ったものが、後の甲斐源氏発祥の元手資金となったという。
長元四年(1031)正月、真子からの上総関連情報。忠常が出家し常安と名乗る、忠常から下野国の藤原兼光を介して平直方に贈り物があった、など、日付が不明な情報であったが、粟飯原はおうむ返しに通信として送った。その後、朝廷は忠常の所在場所を見失ったという噂があったので、これも上総通信に加えた。どうやら、忠常の旗色が悪くなってきたことだけは分かった。
長元四年二月、源頼信が従四位下に加階の情報。どうやら忠常が討伐されたらしいとのうわさ。これも真子情報であった。粟飯原はおうむ返しに通信した。
この後、四月に、忠常が甲斐の頼信のもとに投降したとの真子情報があった。非常につらい思いで上総通信に載せた。粟飯原は、これを持って、上総通信を終わることにした。
翌日、菅原真子に、情報提供のお礼を手紙で申し述べ、これで情報の発信は終了してもらいたい旨を伝え、帰国の準備をした。
そして粟飯原は、六月十四日、美濃関ヶ原で、源頼信一行とすれ違った。外見からは忠常の乗っていそうな輿や馬は分からなかった。死体や首などが入っていそうな荷物も見当たらなかった。粟飯原は無言棒立ちでこの一行を見送った。
なお、菅原真子はその後も上総関連情報を集めていたが、父孝標から、源頼信凱旋上洛後に右大臣藤原実資から忠常討伐の趣旨を求められて報告したものの断片を手に入れた。これを真子の機転で東金の粟飯原家に送った。それが房総平家本家に伝わった。その内容は次のようなものであった。
忠常は、同族の激しい成功(じょうごう)運動に怒り、これを無定見に受け取る摂関家の体質に怒り自分の出世の遅れを悲観して、心狂いになった。彼は、投降してきて、自分(頼信)を責め、何であなたは、朝廷ばかりを気にするのか。国のうち自分の領地が二割三割を超えるのに、なぜその統治に寸分の意見が言えないのか。坂東では自分の領地は好きなようにやって誰からも文句を言わせないのが流儀だ。坂東は朝廷から独立して、国全体の取り決めは領地の大きさに応じた重さを持つ意見の集約で決めるべきだ、といった。これは一般愚民を迷わすきわめて危険な思想なので、今後のためよくよく研究してもらおうと、生きたまま京に連行しようとしたが、残念ながら美濃で病死してしまった。だからこうなったら、こういう思想を言い出すものがいなくなるように彼は狂ってまったく乱心していたとして、すべてを処理した方が本朝のためになる。遺族、親族、関連人士には寛容な取り扱いが望まれる。
(注:ここで紹介した忠常の言葉は、実はこの時代から百五十年後、忠常の子孫である上総広常の言葉である。後白河上皇から広常粛清の理由を聞かれた頼朝が、広常の言葉として語ったものである。頼朝は広常がこういう謀反人だから切ったと自己を朝廷忠義の士として披露している。典拠は愚管書。)
小説「上総岩富寺縁起」その5に続く