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岩富寺縁起の世界

松平重治著「岩富寺縁起」の世界

      <上総国の山と海>

 岩富寺縁起で表現されている世界について、現在の岩富寺近辺だけでは表現できない世界ですので、大きく上総国の中でイメージの近いものをピックアップしてみました。すべて三密とは無縁の世界で、とにかく広い世界です。

 市原三田瑞祥院付近の杉山。どこかから香木の香りがして谷津を流れる水の量も多いです。美しい苔も期待出来ます。

 東金日吉神社参道の巨杉。ここの杉山は手入れが良く下草管理もされています。

 笠森観音参道の苔が美しい土塁。広義で乱堆積(海中土石流堆積)の上総層は工事が容易で土質は垂直に切ると案外と崩れない。

 九十九里浜南部の一宮に近い方。砂と波だけの世界です。

 富津岬先端展望台。8月9日読売新聞日曜版に出たせいか他県ナンバーの車が多かったです。アングルは読売新聞の写真を真似てみました。欲を言えばちょっと雲がおとなしくて残念です。地元民を含めて新たな視点・フォトスポットの発見となりました。

 展望台から観音崎と猿島方面、そこに光る海です。

 同じく展望台から鹿野山高地。標高300m。山の上が平らなのは日本では西は高野山、東は鹿野山あるのみ。と、大町桂月。夏涼しく冬暖かく、地震津波水害火山灰等有史以来すさまじい災害の形跡はない。

松平重治の岩富寺縁起解読   

 上の画像は某氏が自分のノートにまとめていた松平重治の岩富寺縁起研究書(一部)です。 この写真に写っている 原書が今現在何処にどのような状態にあるか不明です。今まで当HPで良く出て来る某氏が現物を岩富寺住職宅で写真撮影したと思われるその名刺サイズプリントをノートに貼り付けて保存していた物をデジカメで撮らせてもらって筆者の資料としています。それの解読です。

 従って原書が巻物かその大きさ、体裁とかの情報がありません。

 そこで、とにかく今持っているこの写真を徹底的に調べて見ることにしました。
写真は35mmフィルムカメラで撮られ、2Lサイズにプリントしたものをはさみで背景等を切って文字部分だけをノートに貼ったものです。一緒にいただいた他の資料写真から推定するに透かし彫りのある厨子のような壁に立てかけて手持ちで九枚に分けて撮影したよう。上の画像は六枚目と七枚目を合わせたものですが、六枚目の左側と七枚目の右側で明るさが違うのは照明が斜めに当たっているため。上の矢印はプリントに描かれたもの。四角で囲ったものは撮影時に紙を固定するために使ったマグネットのようなもののようです。

 写された文書の特徴で、まず目に付くのが折り目がないということでこれは重要で(大きな絵図面は折り紙のように折りたたみますが)一般の古文書は親指と人差し指で作った○の大きさに文末の方から丸めた後で押しつぶすたたみ方をして保管するのが普通だったそうです。従って4cmくらいの間隔で縦の折り目が出来ます。折り目がないということは巻物だったことを示唆します。

 次に四言漢詩に入るところに茶色の薄い汚れの線がありますが、実はこの線はこの縁起始めから終わりまでの間に等間隔に7本見つかります。これは定型の紙を八枚継ぎ足した、汚れは糊のカビによるものとすれば説明が付きます。実際上の写真で下の○で囲んだ部分は糊が剥がれてめくれているように見えます。

 これで定型紙の縦横比を計算すると1.41の数字が得られました。次にインターネットで定型和紙の寸法から縦横比を計算して1.41に近いものを探しますと、奉書小版が333×470mm縦横比が1.41であると見つかりました。

 その他、下に等間隔の寸法線のようなものが点々とありますが、これも始めから終わりまで見られます。これは巻物に表装する時に付けられたものかも知れません。

 以上から重治の岩富寺縁起は33cm×4.2mの堂々たる巻物だった可能性が出て来ました。勿論こうなれば自筆です。

 今回墨書縁起の画像処理が完成しましたので、読み下し解釈と共に重治の筆使いも味わって頂けたらと、所々に鮮明な墨書画像を載せて置きましたのでそれもご鑑賞下されば幸いです。

 なお当HPの「大佐和郷土史研究」の中の「佐貫の古跡」の中に全文を活字体に直したものが載っています。そちらの方で原文を確認して下さい。ただ確認に際していくつかの注意点があります。まず置き字(書き下しで読まない字)の「矣」は原文では縦半分の大きさで書かれています。しかし「而」、「於」、「乎」などは普通の大きさです。さらに縦半分の文字で崩しが強くて判読できないものは普通の大きさの四角「□」で表記。また結構多頻度の置き字と思われるが読めない「偏が上から一、口で旁が片仮名のス」の字は一貫して「以」として置き字扱いにしまってあります。その他一文字のように縦に詰めて書いたような字とか、これは不明文字としました。また「蓋」が多頻度で出てくるが再読文字と教科書に出てくるがそうでもなさそうとか、まあ大変です。文構成は「一、二、三点の帰り点」が多いこと、そして一番確からしいのは「者也」ときたら「ものなり」でこれは文末、文末でない「者」は 「ハ」という助詞、これだけは確かそうで助詞「者」の上の字の塊が主語、その上の字の塊はどんなに長くても主語の修飾文、置き字は「、」と して見る。ということぐらいです。

 文体は古事記から近代まで使われた和製漢文(変体漢文)です。「大国主乃命到気多之前時裸兎伏也其身皮悉風見吹折」(大国主命が気多の前に到りし時裸の兎伏せりき。その身の皮悉に風に吹きさかえき。)のような調子です。内容が大筋でも分かっていれば分るのですが、大筋も分からず更にここに漢字辞典にもないような漢字が混ざっているとほとんどお手上げです。「到」、「也」、「悉」、「見」など多用される特別な漢字を頼りにまず文頭、文尾を推定するところから始まります。こんな調子ですので以下の訳、まったくの誤訳があるかもしれないことをお断りしておきます。

 とにかく難解です。天下国家と大上段に構えた文章が実は「江戸の地。原文では爰閣浮樹」の修飾文である、本題ではないというような構成です。ただその修飾文の方が実は松平重治の云いたいこと、頭の中身ではないかと思えてきます。

 ともあれ、江戸幕府体制が将軍四代目にしてほぼ完成した文治主義・法治主義が洗練され、徳川光圀に代表される古典教養(前・後北条氏と足利氏の国家観)を最高度に吸収したエリートを自負する組織の中のそのまたエリートの言論として聞いてやって下さい。

 松平重治は寛永十九年(1642)高家筆頭品川家の次男として生まれ慶安5年(1652)佐貫藩主松平勝隆の養子となり、寛文二年(1662)上総国佐貫城主(1万5千石)、寛文六年(1666)父勝隆の菩提を弔うため紺紙金泥浄土三部経(四巻。現富津市文化財)を佐貫三宝寺(現勝隆寺)に奉納。寛文十年奏者番就任(江戸城で登城大名の世話をする役。高家と似ているが、こちらは抜擢された若手で今で云えばキャリア役人が最初に就任する役どころ。数十万石の大名当主に対してその方というような口をきいたと言う話がある)。 寛文十二年(1672)岩富寺縁起を奉納。延宝六年(1678)寺社奉行就任。(父の松平勝隆も寛永十二年(1635)から24年間寺社奉行(初代))。延宝八年将軍代替わりで家綱から綱吉。 ちなみに重治は家綱と母方で従弟同士。さらに言えば重治の正室は関宿藩主久世家女。徳川家の天下ではこれ以上ない閨閥の中の人である。それだけに内外からの足の引っ張り合いの圧力も多かったであろう。天和元年(1681)寺社奉行辞任(任期一期で辞任。定期異動)。

 貞享元年(1684)重治は突然失脚する。罪人で追放中の羽黒山の山伏良覚等と親交していたのを、幕府の重職にある身で卑しき者と交わり、筋でない書を交わして綱紀を乱したというこじつけのにおいプンプンの理由で改易300俵。佐貫城廃城。会津に配流。半年後絶食して死去44才。なお良覚は配流中の重治を慰問したとの記録がある。後に重治の息子は許されて500石の旗本として家名存続。

 岩富寺は真言密教と云っても弘法大師より慈覚大師、山岳信仰山伏の色合いが濃い系譜の寺です。さて、重治の岩富寺縁起の中に後に彼の命取りとなった「筋(正統)でない宗教論」などの芽生えがあるのかどうか注目するところです。

 なお、富津市鶴岡の浅間神社縁起というものが発見されています。このトップページの下の方の「岩富寺の僧秀快による略縁起紹介」の次に浅間神社縁起概要を掲載しておきました。この縁起の記年は寛文九年です。これによれば明暦四年(実は途中で改元し万治元年=1658)佐貫城主松平勝隆が浅間神社社殿を再興し祭を復活したことになっています。

 どうやら佐貫は江戸大変になると潤うようです。浅間神社再建の年の前年は世に有名な振り袖火事がありました。江戸復興の材木景気が神社再建の後押しをしたのでしょう。中世以来連綿と続いていた鬼泪山を中心とした材木・薪炭産業が江戸にデビューして一回り大規模になった年なのかもしれません。(ちなみに岩富寺が再建したのは宝永元年)

 余談ですが佐貫が次に飛躍するのは、元禄大地震・宝永大地震・富士山噴火と続いた後の宝永七年です。この年、松平重治事件で廃城になっていた佐貫城に阿部正鎮が入り佐貫城再建のための準備金が佐貫に入り正鎮は城の堀を埋めて水を生活用水・農業用水として佐貫町に回し、その少し前から発展していた押し送り船産業と従来からの材木薪炭産業それを支える造船産業、運送産業などへの労働人口を確保しました。先の3つの災害により相模・安房・東上総・常総が大きく被災したのに対し比較的軽微に済んだ幸運を生かし、江戸への食糧燃料出荷基地として佐貫が発展したのです。

 本論にもどります。松平勝隆、重治父子は中央官僚としては珍しく城主としてのつきあい以上に佐貫地元社寺への興味と傾注を持っていたらしいことは伺えます。確かに以下に紹介する縁起を読みますと松平重治は佐貫城周辺の春夏秋冬の自然を非常な愛着を持って表現しています。そして付け加えれば足利氏(=藤原氏=今川氏=高家品川氏)の(京都)美学で見ている感じがします。(岩富寺の細流と苔の檜・杉山の記述など)

上総国天羽郡妙覚山岩富寺本堂十躯観自在尊記

 夫れ、天下を安んじ泰山楽を招き国家千余年の忠臣名君を備えている地、爰閣浮樹(江戸?)の南、葦・荊の生い茂る上総路大貫莊佐貫城の艮(北東、鬼門)の山にある真言密門の古道場妙覚山岩富寺十躯観音は、用明帝第一太子浄聖者聖徳の作る所なり。

 五智七明を包み、まなじり、首、手の形を他から借りず巧明を明らかにし僕(しもべ)を近くに召し自らの尊容を刻みしものなり。

 世継ぎ(未来の人々)の思いを聞き、壇を刻みこれを填め(組み立て?)た擬似広伝の圧筺(尊像のこと?偶像ではなく装置という見方?)は此の斯例国(日本国?)の人々が上古代(神代?)では親良の領(支配)する所にあったのを中古年々(聖者の世になって、聖者が)民の意向を聞いたその最初なり。(最初のことだったのである

 それゆえ古よりこの山(岩富寺)に住む者は聖徳太子は救世菩薩の化身と仄聞していたので、家を西向きに立てこれを堂(たかどの)と(化)なし、 震旦(中国、唐国)の宝塵を招き、その拭き役を招き、これをもって尊像周辺に儲君政柄、諸法燕翼、万性シレイ(蝶の羽根)を立て(要は豪華に飾り立て)三宝キクテンによる観立てを頼むことと同じように祀り方として諒(まこと)ありと伝えていたものなり。

<解説>

 聖徳太子が自己の思想を像の形で表現するために仏師にこまごまとあらゆることを命じて作らせた像はいわゆる偶像や理想的にデフォルメした英雄の銅像ではなく、「智恵をさずけ予言をする」筺である。その筺を稼働させるためこの地に住む人はあの方は救世観音の化身と聞いているので西向きに家を建ててそこに安置しようと考えた。これにより(人類密集:これは筆者の付け加え)先進国中国の塵も宝も(病毒も:これは筆者の付け加え)すべてを含む文明の風を受けてもらい、堂の中にその風の中の塵を掃き清める(塵は払い宝は学ぶ)人物を置くことにした。この岩富寺方式は尊像周辺に豪華な飾り立てをして「見立て」(予言)をたのむことと同等の効果があると伝えている。すなわち筺である尊像の力は偉大であるということである。

 現代の用語で云って行くとすんなり頭に入る感じがします。聖徳太子はスーパーコンピューターを作って授けたのだと、飾り立てひれ伏しあるいは奥深く隠し拝礼するのではなく尋ねてくれ使ってくれということではないでしょうか。

 法隆寺夢殿の秘仏救世観音の実像を知っていなかった(明治に初めて実像公開)松平重治があの像を見たら自分の説に自信を持つことでしょう。あの独特の顔と手の組み方を見ると、梅原猛さんがいう、仏師が太子が亡くなってすぐに「なぜお亡くなりになったのだろう」と涙を流しながら太子の在りし日を思い浮かべながら夢中で刻んだ像という見立ては納得しにくいです。そうではなく、太子が隅々まで指示して作った(特にまなじり、首、手の形を他のまねでなく作る)自身の像という方が合っているかも知れません。

 また、お寺や堂のあり方など、一般民家仕様のお堂である現在の岩富寺は松平重治の思想に合っているということになるかも知れません。

十躯観自在尊記(続き1)

 浄聖徳(尊像)の膝から首へと仰ぎ見ていくと天を満たした虹が里地(岩富村)の普門に溢れ沢のうるおいを偲べるが三界乾地湘字の法理は得られない。しかも、尊像の根本 (本質)は吃唎がきつくその帯は堅く蓮華のように割れ、悟入印をつくり貪(むさぼ)らずおごらず、偶然(なりゆき)によって行われた過去の業(ごう)を赦し、菩提玉樹に生き衆生の求めを量っている。(尊像のその他の形象解釈を述べると)ある時は二つの宝輪を携え、二つの厳福智を与え、ある時は仏母として現れ(衆生の)老いを制し、子孫を興し、人々の病を除き、十一面尊顔に化生し、十面鬼神を降伏させ、十の種(フサ、仏縁)に仏母による諸々の功徳を満現させ、四の種に後世の安楽と加護と蒼生の念をもたらし、軏馬(ガマ)の水草は済勅元羅衆鳥の索綱に似て、千手は千代の輪己を生じ、千眼は覧却となり、千仏、柳枝、輪宝、起蓮、摩尼は皆三摩邪を示した。一切の地への満たし尽きないなりしめす施しを(衆生は)うやまい畏れてきた。

 しかし、(別の地から見ると)願わくは風が翔け海が威窮を表し行鬼の境を護る佐貫城の鬼門を安んぜんことを、と、大貫荘の人は祈るが一方、(鬼神退治と云って)東の鉞や斧が畔、舎、うてな(たかどの)をこわすのを見れば必ず退き斃れるばかりである。(後ずさりするばかりである)さらに帯弧を失った調伏諸鬼は赦されはしたが赤痩のまま放置され、□(不明文字)雄を得心した白猿はかえりみられず、棹頭太子につながるという草□(不明文字)の高い業は未だ広まっていない。ただ尊像だけが有るがいまだその手に玉(ぎょく)がない。

 (そういうことがあって岩富寺は)麻草をふいたいおりはかろうじて雨をさえぎるばかりで頼りない松の柱に露がとまっているばかりとなってしまった。

 斉明天皇の御代六年恭下□(1文字分空き。筆者は「斉」字を当てた)明は□(不明文字)巖を貫く道を構えた檀を築きはらいたてまつる詔を発した。その時高殿が轟音とともに揺れ天皇は十箇尊像すべてが宙に輝いているのを見た。是により天皇は慈光が道のわだちの左を照らし、上官が安んじており、尊容が老翁遺像、金敷、屋崎、浦玉と指ししめすと部屧院のきざはしがその都度、柱礎から動いて行くのを知った。 

<解説>

 ピンクの線が入っているところ注意。①カンムリ部分は汚れとして無視し「軏馬の水草」としてよいか。無視すると「ガマの水草」となって水草が蛇足ですが一応意味ある日本語になります。②斉明天皇の直後に一文字分空いた空白は何か。なぜ空けたのか。御教示下されば幸いです。

 話の全体は先にこのHPの岩富寺案内で紹介した「馬王台での戦いの」様子をあらわしているようです。太子自身が戦っているのではなく太子が自身に似せて作らせた尊像が諸鬼神と戦っているということです。

 注目は尊像が吃唎であると云っていること。どこかにこの種の伝説があると思いますが、私は初耳です。また、佐貫城の鬼門を護るためにやっている戦いがその鬼門の西側の大貫荘からみると戦いの副作用ばかりでとても困っていたというのはどこかの公共工事を見るようです。

 さらに尊像の持物(じぶつ)のひとつに「軏馬の水草に似た索綱」という記述がありますが、これは浅い水辺に生えるガマ(茎はすだれなどに用いる)と読めます。この茎はちょっと硬めですが縄になえば索綱になり得ます。しかし軏などという漢字を使わずに「蒲」という字があるのだからそれを使うはず、だから違う漢字だということも考えられます。いやいやそもそも「合」のようなカンムリを無視すべきでないという説もあるでしょう。

 なお松平重治の表現で「風が翔け威窮の海」は新舞子の修飾語として是非使いたいものです

十躯観自在尊記(続き2 )

 慈しみの聖武帝の御世、天平六年、行基菩薩はかって制誠王が建てた精舎を昔のままに再建した。また、自ら二体の金剛力士をきざみ楼門の左右に安置した。この像は双眼で常に周囲を睥睨しはしていたが二口の張翕(チョウキュウ。阿吽などの形?)が明らかでなく、清茸(セイジュウ)、蓮侌(レンイン)の味がしないものであった。(見栄えが悪かった)しかし、ある日小雨なのに崖が崩れ大石が峰から落下したのだが、その時雷鳴が轟き力士が大いに揺れた。そのおかげか、楼門には土砂や岩が填まらず、減らず安泰であった。人々はこれこそ金剛力士の知力であると感心した。

 清和帝の御世、貞観九年、慈覚大師(円仁和尚。最終遣唐使の一人)は藨(ヒョウ。松平重治の書いた字は草冠の下が馬であるがこの字は見つからなかった。形が一番近い字が草冠に鹿のようなこの字) を送り、すたれていた尊構を興し新たに奉った。ここに大師により棟石の業(建築?)でない新たな形の奉納が始まり、藤原政信は円楼上の範のために鐘を供し、藤原政重は宮懸の形を模した鰐口を供した。

 天文十三年秋八月十八日夜、盗賊が堂に入りこの人非徒が薪に火を放ちたり。これを防ぐべく稜沈の徒が火杭を池に変えもって十躯遺像と二体の力士像は燃えず、鑠(シャク)せず、崩れず、損なわれずに救われた。この奇哉奇哉の霊験は豈(あに)尋常の感応にあらざるものにより匙加減せずに掲げこの草堂に奉り知らしむところなり。また当山が末である神師山にある大醫王善逝の寺にはここに鬼軍茶利が鎮座しているのでこの神異を伝え続けるため天下のふところから八十石を割り納め永代の御朱印のしるしとした。

<解説>  盗賊が入って放火したのに仁王、観音が無事だった。この奇跡説明から鹿野山への公儀からの寄進のつながりが実はよく分かりません。御教示願いたいところです。

 先に紹介した僧秀快の略縁起と違って行基の話がごく簡単になっています。そして秀快の略縁起では遺像の暴走が行基の時代であって行基がそれを鎮めたのに比べて松平重治の縁起では遺像暴走がもっと前の時代であり、その暴走と停止が斉明天皇の皇居の中で斉明天皇ご自身によって確認されたことになっています。その後慈覚大師の活躍から藤原政信・政重による寄進となります。この寄進がいつかは書いてありませんがおそらく鎌倉末期か室町初期のことと思われます。なぜなら佐貫像法寺に元弘三年 (1333年鎌倉幕府滅亡の年)記銘の宝篋印塔が現存しておりその寄進者が藤原信定となっているから藤原姓が同じなのでそう考えています。なおここに出てくる藤原氏は藤原秀郷を祖とする武家の藤原氏だと思われます。一方鎌倉時代から室町初期に西上総の佐貫あたりは誰が領していたか不明なところがあるのですが、筆者は諸々の文献を漁った結果から、平安末期は源氏、鎌倉初期は足利氏、その後、和田氏(三浦氏)、北条氏、藤原氏(この頃になると足利氏と合体)となって行ったのではと考えています。

 なお、佐貫の歴史で言いますと行基の時代に佐貫岩入から東大寺大仏建設現場へ優婆塞忍山を貢進という東大寺文書があります。岩入(がんにゅう)は岩富村の隣村です。

 次に盗賊放火譚ですが、松平重治自身が語っているように匙加減しないで表現すれば単にバケツリレーで消火したように見える話が何で奇跡なのか疑問が残ります。 筆者の解釈は以下です。

 現在、仁王門のそばに弁天様が祀られていてそこに容積3立方米くらいの小さな池がありますがこれが有り難い奇跡の主人公ではと考えています。汲めども尽きないかどうか小型ポンプで試して見たら分かると思います。

 また松平重治の岩富寺縁起の最後の方に突然出てくる「亀井」もこの池を指していると思われます。岩富寺絵図に出てくる「閼伽井」とは別のものでしょう。

 岩富寺周辺に限らず佐貫層の土地は特にトンネルや井戸などを掘らなくてもじめじめしています。上がたいした山でもないのに干天が続いても勢いよく水が流れ続ける細流をここかしこでみかけます。毎分1立方米くらいの地上水源ならざらにあるのではといった土地柄です。

 上の写真は佐貫町新舞子の八幡神社の森(標高差10m全山佐貫層の独立丘。外からは水のない単なる砂丘に見える)からにじみ出ている細流で、冬の乾季でも水涸れしません。

 また盗賊放火譚の最後に出てくる「神師山のお寺大醫王・・・」は鹿野山神野寺ではないかと考えています。ちなみに「醫王」は薬師如来のこと。なお鬼軍茶利(グンダリ)明王は鹿野山神野寺の本尊です。通常八手の軍神ですが、神野寺の本尊は六手です。 蝦夷の王「アクル王」の誕生地とされる現君津市六手(ムテ)とつなげているためです。現神野寺はアクル王の墓所跡です。

 岩富寺の神異を記憶するために神師山のお寺に八十石を寄贈した主体が書かれていませんがこれは公儀の室町幕府そのものからの寄贈を意味しています。

十躯観自在尊記(続き3)

 先の従五位下源朝臣松平氏勝隆、信篤、近義、仁汎、楚流は(一族一統で岩富寺に関する)浮説をあばき胡越を明確にし浬渭門を分け収め忠孝を抱き賊を外し天下安全国家繁栄のために松平の墾田から十石(一町歩)を割きこの岩富寺に附け永代あらんことを期すものなり。これは附料田を分け父道これを加え本務を奉ったまでのこと。

 さて年を重ねそして繻宮藪荒涼とした中を孤雲(一人の雲水=重治?)が萑洞苔上の古佛を伴い扉を開けて中に入る。きざはしは山に近く雲水が来たが信者は草之か食を求めているのか誰も尋ねないままだ。此の州の地は故塵(古いしきたり)の日当建(ヒアタリノタケル)の百年委任に里人がこころを寄せているところがあり施財の記録がなく暫労永逸ならずまさに山の頂上なり(調査行き止まりである)。

 (これ以後岩富寺景観ガイドとなる)六角の金龕(蓋)有り。霊に観ずる龕の巨亀は軽く高いが蓬莱山は重くない。これは観音大志の堅座の求めに応えるものである。また観音堂の東南の横嶺は艮坤(うしとらひつじさる)の龍の巨石が巖々と勢い強く跋扈して  いる。この亀と龍のふたつの巨石を霖雨(長雨)がおごそかに洗っているのを見るのである。

 暑気にはむくげの南風が小山の腰に巻かれる。大岳ならばその風が腰はおろか肩・襟に及ぶ。左に行けば白山の嶽、右に行けば管相の広前に音がしてそれは盤石を流れる瀑布である。ここの流石は大地の底を支配する万牛により自ずから産するものに非ず。その山が涸れ苦しみの中からうまれ出ずるものである。この山は千年の松柏が昼を支配し堂の周りに百尺の檜や杉が立ち(材木運びの)橇は用がなくて錆びついたまま空には雲が湧いている。

 秋、繭の黄菊、対霛(れい)草の白い花、孤岸を愛でる。さらに深く趣をそえるのが遠く近く鷲が尊嘲を超越した姿で峰々をへめぐっているさまである。

 いよいよ西に向かうと小久保浜を望む。ここは蒼海に紗花が咲き極碧と宴(うたげ)をしている地である。みおつくしの終水は光が天に接し月は砂丘を照らし万里の潮が干満を繰り返す中、千の朝と千の夕に雪をいただいた富士峰を仰ぎ見る地である。

 波上の(ミヨシ、舳先の)杭は神師(鹿野山)を遠く望みその山の紅葉が白雲を招いている。外へ出て行く舟は白帆が飄々として軽快に走り、千の花(波のキラキラ)も相模からの風に揺れている。

 <解説> 上の画像ピンクの線の部分「千の朝と千の夕に富士峰を見・・・・」に「富」の字を抜かしたこの重大なミスがありますが、あるいは確信犯的なミスか、であるならばその理由は?
と、思ったのですが、「千の朝と千の夕に峰を見・・・・」のようです。なぜなら縁起後ろの方の四言詩の中に「堂前海潤 寺後瀑悠 潮発梵響 水潔頻羞 峰厭雪 神□巻霧(□は偏が「里」で旁が「市」です)とありますので・・・。

 「千の朝と千の夕に雪を厭う「古峰」を仰ぎ見る」古峰は富士のことだと考えられます。「富」が抜けたミスではない。ちなみに「神□巻霧」は鹿野山に霧が巻く意味だと思われます。

 また松平勝隆の私墾田寄贈から、岩富寺景観説明に入るつなぎの部分は解読が困難でかなり推論創作が入ってしまったかも知れません。孤雲の解釈、信者の反応、「此の州の地」以下の説明などまったくわからないのです。「日当建」を倭武(ヤマトタケル)と見て、「山之鳥状也」を山の頂上なりと見てもまだ分からず「行き止まり」と見たのですがそれでも何だか分からないところです。

 以後の景観描写は現代の叙情短歌俳句作家も多いに参考になるのではないでしょうか。特に「シャカの白と蒼海の極碧の宴」の叙述は日本が求めて国産ではついに得られなかった景徳鎮の磁器を見る思いがして秀逸です。白とブルーの両方共に景徳鎮は伊万里や他とは全く違うのです。

 (注:「紗」字を使っていますが実字はサンズイに「身」「少」を横に並べた漢字です。いわゆる花のシャカを指すのか、山百合を指すのか、あるいは海のキラキラ(卯波)の白(銀)を指すのかどうかいずれにせよ佐貫周辺の海にはこれらのすべてがあり、思えばこれらは景徳鎮の白に見えてきます。)

 景観説明にもどります。巨亀に例えられた岩は骨堂跡と考えています。次に龍の岩ですがこれは現在観音堂の裏の歴代住職墓のそばにある岩と考えています。双方とも写真を上げておきます。

 

 また大滝は絵図でも紹介したものです。その後檜杉の大森林説明となり白山嶽は奥ノ院の境内神社を指していると見ました。

 参考に鹿野山神野寺閼伽井付近の杉林を示しておきます。欲を言えば細流と苔と人工物の錆びた橇などが入るといいのですが・・・・

 次に岩富寺から富士を追って西に行けば小久保の浜に至ります。海岸の位置としては東京湾観音の下から磯根海岸あたりと考えられます。このあたりは遠浅の砂浜の性質をわずかに引きずっていて春の大潮などでは思いのほか広い澪標が現れます。そして豪華な卯波と富士が見られます。

 小久保磯根海岸春の大潮の澪(というより潮だまり)。空のブルーがもう少し元気だと景徳鎮になるのですが。また例えば漕ぎ手7人の大型押送り船が入るとさらにいいのですが・・・・

 新舞子の卯波です。これも空のブルーがもう少し元気だといいのですが。さらに押送り船がほしいです。ちなみにキラキラの海はどこでも見られそれほど珍しくないものですが、カメラで撮ると逆光白黒または赤黒になってしまいます。青が出るのは卯波の時期だけです。これは午前中に光り出すからで従って海が青く見えます。夏から秋、冬になりますと時刻が遅くなり逆光になり黒と白または時刻によっては夕焼けになってしまいます。

 注:澪標は本来は船が通れる海の中の(周囲より深い水深の)水路を示す標識の意味ですが遠浅の場合は波立ちの違いなどにより水路が明白なので水路そのものを指す言葉ともなっています。

十躯観自在尊記(続き4)

 雨は漲る流れとなって洞を截ちついに洪海に向かい観慈の心は舟を進めて千眼は渕子の救済に暇がない。万里を目前にして子足万境を用いず、脚下に心は行かず、行境は来たらず、来たる心昼巳はここにあるのであって栄観は観音大志の外にはあらざるなり。

 鳥の首は蓮眼を回し、喜色が玉歯をひらく、この独特のまなじりと痩身の古観音の心は山幸海幸にあこがれが過ぎて他のものへの興がうすい。

 楼院、冨楼那舎に何の□聞がありや。千手千眼の大悲心は陀羅尼考をとなえあまねく人々を招き一宿の施しをすることにつきる。これがすべてを滅却した重□である。  世間は出世果報ことごとく満願を希望するので□は戸板上の俵を写し、この研く滴は四天の列を兼ねる岩富寺亀井の清水である。
 昔、別のことがあった。令運載がこの地を偲ぶあまりずっと小瓶の中に幸衣里雇の本尊を持っていた。亀井の併得太子がその理由を質したが言わず、しかし時節が来て調べたら胸に合わせた回縁の函蓋であった。

 これは妙智の力にあらず、累世栄えた名もなき人民の誠の信心のなせるものでありこれが鎮護国家の仏閣のしるしである。このように讃えることに間違っていると誹るものがいるだろうか。

<解説>

 漢字の意味と動詞らしいものなどをつなげて日本語らしくしたので実のところ本当のニュアンスまで入った解釈になっていない感じがします。ただし、例えば二節は怠け者の古観音という意味ではなく海や山の美しさに見とれて深入りしすぎて神通力が衰えたというそれほどこの郷土は美しいという西上総自然賛歌でありひいてはそれが浄聖徳太子を写した古観音賛歌となると考えるべきでしょう。

 下にそのあとに続く四言漢詩を載せておきます。(訳は未完)

その辞囘

 仏閣臨海 密多法舟   仏閣は海に臨み法を求める舟が押し寄せる

 景星挿桷 祥雲庇浮   星座は垂木を貫き瑞祥の雲が庇に浮いている

 民昇躾仰 尊亦淹留

 供器□粛 什物好述

 沙字指諦 吃唎消憂

 普門徳澤 十界等流

 悲□制赦 慈意翔彪

 割蓮□性 見果釣幽

 傭祖浄聖 朝霞□□

 二口力古 監梅阿吽

 堂前海□ 寺後瀑悠

 潮発梵響 水清□□
 古峰獣雪 神□巻□

 索丹花□ 凝青蓮眸
 清風□幌 □相勤□
 妙智己得 摂化自由
 柳営幕下 关政峡謳
 武運北極 寿拭□洲
 貴子蕃衛 □岡□立
 諸臣忠孝 充殿充州
 吾家弥監 子孫益凋
 武威法宝 寿齢羅浮
 上□下憧 □徐福修
 覚若□啓 心若□操
 黎元息□ 類親多寿
 榖畫六禄 油漲九□
 遍及薇善 悉酒願求
 旦嗣蓋載 言創千秋
 

 願主従五位下山城守源朝臣松平氏

 干時寛文十二壬子念八月十六日 重治謹誌之

 最後に明治時代発行の「君津郡誌」の岩富寺の項(抜粋)を紹介しておきます。

 境内2700坪、巨樹大木うっそうと茂っている。仁王門、観音円通院、千体地蔵堂、鎮守祠、鐘楼、弁財天堂、本堂庫裡。本尊は千手観音(伝聖徳太子作)。推古天皇20年聖徳太子作の十体の観音を岩窟に安置。斉明天皇6年堂建立。聖武天皇天平6年行基伽藍建立。清和天皇貞観9年円仁再建。後花園天皇長禄2年足利義政伽藍修理。後奈良天皇天文13年夜盗8人放火。同21年5月堂再建。元禄16年秀快再建。寺格智山派の中、小久保真福寺の末。

 注:秀快再建の頃はすでに真福寺の末になっていることは岩富寺文書で確認できる。松平重治縁起では小久保関連記事が2度出てくるが、この気の使いようは岩富寺は松平重治の時代でも真福寺末だった可能性をうかがわせる。

岩富寺元禄再興者住職秀快の略縁起解読

 岩富寺には先に紹介した松平重治の岩富寺縁起とは別に元禄時代に生きた住職秀快の略縁起があります。これも資料出典は佐貫史研究家某氏のノート(下写真)からです。

 岩富寺関係資料をいただいた件の某氏が現物を壁かどこかにピンでとめてそれを写真に撮ったものです。その写真を貼り付けたノートを筆者が又写真に撮ってきたということです。現物の大きさを推定するに写真に写っているピン(鋲)の頭の直径を1cmとすると縁起の巻物の寸法は縦12cmくらい、幅(全長)60cmくらいの大きさと考えてよいと思います。小さい字を綺麗に活字のように書いています。

 先に紹介した松平重治の縁起と違って(紙を丸めてつぶしたような)折り目がありその後に和本綴りにしたように考えらる。現本ではなく体裁を無視して文字だけを写したものでしょう。現本がどういう体裁のものかそれが今も存在しているのかを含めて情報はありません。

岩富寺観音略縁起

 元禄十六年癸未十二月二十八日当山開帳節縁起至要粗摘拾書述放名略縁起備後覧丙巳

 妙覚山別当聖徳院岩富寺現住法印秀快謹述(ここまで最後に記述部分)

 岩富寺観音は六体またの説では八体観音であり、三十三の身分の者から人非人に至るまでことごとく祈願する者に苦悩からの解脱、安楽無比のご利益をもたらすものである。 柳妙覚山岩富寺観世音は第三十二代用明天皇の第一皇子聖徳太子が吏民に命じて作られた尊像千手観自在尊に八体の観音を併わせ、太子自容像であられる治国・増長などの四天王と共に当山の岩堀に安置されたのが始まりである。

 さて推古天皇は日本に皇太子制を創始され聖徳太子をしてその任に命じられたのであるが、それから百年余り後の養老二年戌午に行基菩薩によって岩富寺の諸精舎・諸伽藍が造られたのである。その話をしよう。

 行基が初めて当国の常城(君津市常代)の郷里に入来した時のことである。夕方になったので老女が一人住んでいるある民家を宿とした。

 夜が更けた時宿の西方に甚だしく光る物が顕れ大地が揺れた。不思議に思った行基がなぜかを老女に問うと女は次のように答えた。

 ここから西は山深く、高く、幽玄、峻厳であり更に人がめったに往来しないところです。そのため魔物が動きそれを押さえるため諸仏が光を発し大地が震動するのが常となってしまいましたと。 行基はその意味を飲み込めず黙然と聞いていた。

 夜が明けて老女はさらに語った。大いなる光は諸魔鬼神に作業させないために放つ仏菩薩の神通放光です。私は山深く入ってそれを確認しています。あるとき私が危険な岩の先に立った時、山林大震動、光明甚ようとなりました。その時土の中から諸仏が現れ諸仏が合掌すると大震動となり仏は眉間から放光していました。

 私がこれらの出来事を記憶しようと唱えていたところ、忽然と微笑を絶やさない童子が現れました。私が童子にこの放光は何かと問うと亥(西北)を指し、忽然と消えてしまいました。そして同時に光も震動も止まりました、と云った。

 これを聞いて行基には悟るところがあった。行基は礼を言い老女が示した道を尋ねて妙光を求めしばらく行くと山頂が平になっているところに岩窟がありそこから光が漏れているのを発見した。そこで岩戸を開けると千手千眼を中央にして左右に准如不空の七観音と童子容像等が放光していた。

 行基が鑑定すると、偈太子(聖徳太子?)が彫られた霊像(これが現本尊)千手に併わせて八体の観音であった。これと併わせて七観音、配太子八体観音が当山の習伝である。

 行基は供養信心が出来るように場を整え、花堂を建立した。

 時は立ち聖武帝の御代天平六年甲申久しぶりに行基が当山に登山するといつの間にか堂舎は灰塵に帰し、諸尊、霊像もことごとく焼失していた。行基はおどろき嘆き、後世のために迷える大衆に結縁、済度、棄拾を求めるためまずは太子の霊像の灰を取り集めようと尊像跡とおぼしき地に鍬を入れたところ、不可思議、不可思議、八体観音等が地から湧き出しさらに鍬の跡のある中尊千手の御首が湧き出た。行基はこの大悲霊験に涙し、歓喜の基に自ら千手一体を刻み、二体の金剛力士を刻み、もって楼門の左右を安んじ、伽藍擁護がおこなわれた。

 仁明帝の御代承和四年丁巳円仁和尚(慈覚大師也)諸刈を進め伽藍の修営をし、師はまた千手一体の不動尊を刻み共に安置した。

 是即三聖四揆御草創当国無双霊地也

 なお略縁起のため山の景色の謳いあげはせず、愁繁之を宣じない。(といいながら以下に景観説明)

 寺の正面である西は蒼海、南は山岳、東は三滝、北は松樹。山に登るに八道あり。ここは八体の観音が開示獲得化道なり。

 時に天文十三年九月十八日戌の刻賊放火。大堂諸堂鐘楼一時炎上。奇かな妙かな諸尊霊像不焼不失。
よって一千有余年の間ありがたいお寺として存続している。  以上、秀快の岩富寺縁起のほぼ全文を意訳しました。岩富寺は三人の聖人(聖徳太子、行基、円仁)による四回の御草創(行基二回草創)ということになります。

 なお、岩富寺の災難は昭和の御世にもありました。続縁起風に述べます。

 時に昭和二十年八月、亜米利加国の戦闘機壱機が飛来し銃撃を加えた。そのため大堂が炎上し諸堂も類焼した。諸尊、霊像は焼失したが、奇かな妙かな仁王門と二体の金剛力士像(行基菩薩の作也)は不焼不失。人々は古の伝えを信じ諸尊、霊像も掘れば必ず存在しておわすものと信じているなり。一日も早く掘らないとまた放光と揺れが始まりますよとうわさしているなり。