アクセスカウンター

小説「上総岩富寺縁起」その1

 1.白鳥珠

 粟飯原(あいはら)様のご隠居はいつもニタニタして、村の子供らと遊んでいる。そんな時は口からよだれを出して、袖で拭いて悪びれない。


 しかし、陽気の関係か何かのきっかけで顔つきがシャキンとすることがある。そんな時に決まって語りだすのは、「そもそも我が粟飯原家は、人皇五十代桓武天皇の曾孫高望王が坂東に下向した時から始まる。高望王は坂東において営々努力五十年、臣籍降下し平姓を賜り上総介に就任・・・・・・・・」


 以下、延々と先祖の武功を語り出す。内容は正義と邪悪の兄弟対決。そして粟飯原は常に正義党にいて、華々しく戦うが常に旗色が悪く、どんどん没落していくのである。


 それでは粟飯原の爺の語りに耳を傾けよう。

 岩富寺を見よ。どうじゃほれぼれする縄張りではないか。南は金剛力士と一の郭で固め、北は龍が守り、ほれ円堂の裏に口から木を吐いている岩があるじゃろう、あれが龍頭じゃ、その龍が観音様を守っておいでじゃ。さて、東と西は千尋の谷が敵を阻んでいる。


 周囲の切岸は垂直の崖であり、羊腸の道は蜀の桟道に違わない。


 さて、この縄張り、いったいどの敵に対するものなのか。お前らは、城というと元亀天正の太閤記時代くらいからのものだろうと思うだろうが、実は源頼信公、頼義公、義家公のころからのものだ。従って敵は蝦夷だったわけだ。そして時代が下ると共に、内なる邪気が外に出歩かないように閉じ込める作用も期待された。崖や堀は敵からの防ぎの手立てであると同時に、内から外へ余分なものが出回らないための手立てでもある。


 岩富寺は天平時代にすでにあって、ここから奈良の大仏建造のお手伝いに上がった者がいるのじゃ。このころの住人は坊さんではなく山伏じゃな。岩富寺は山岳修行の道場として始まったのじゃ。


 岩富寺の本尊は観音様であるが、実は誰も見た者がいない、厨子の中にないのかもしれない。胎内に不思議な珠を宿しているという。


 しかしわしの脳裏にはこの観音様が、しかも後姿がいつも見えている。御身をわずかに右に傾け、腰に巻く布には八弁の花文が並ぶ。中央に裙(巻きスカート)を留める帯が垂れ、裙の上端は折り返されている。男女の性別を超越した存在とはいえ、観音様は女に近い。肩から腰への流れには永遠の女の若さがにおい立っている。

 さて、観音様の不思議な珠について話さねばなるまい。


 遠い昔の百済国に二人の王子がいた。白鳥王子と孔雀王子である。父王は兄の白鳥王子を後継に決め王家に伝わる至宝、白鳥珠を与えた。


 やがて父王が没すると白鳥王が即位したが、それもつかの間、弟王子が反乱を起こした。耐えかねた白鳥王は白鳥珠と共に日本に亡命する。


 百済国王となった孔雀王は白鳥珠を奪うべく自身の家臣からなるやみの党を作り日本に向かわせた。この一党は、のちに白鳥王の側から孔雀党と名付けられた。一方自身も対抗すべく白鳥党を作って防戦した。


 白鳥王の亡命を受けて、日本の朝廷は白鳥王に「百済王(くだらこにしき)」という姓を与え、大和国室生の里に住まわせた。その後百済王氏は渡来系貴族として朝廷に仕えた。


 孔雀党はなぜ白鳥珠を追うのか。白鳥珠は周囲の土地一里の円内のどこに黄金があるかを教えてくれる珠と信じられていたからである。


 時代が下って、白鳥珠が活躍した第一は、石上(いそのかみ)荒勝が征討将軍として奥州に赴いた時である。


 そもそも石上荒勝は室生の里の小領主であったが、度重なる不幸の果てに、溜まった負債を自身の身であがなうべく奴婢となり、人買いを介して自身を都の市に立てた。


 そこをたまたま通りかかった百済王家の雪姫が、自身の里の住人が奴婢にまでなってしまっているのを憐み、荒勝を高額で買い求めた。その後いろいろな曲折を経て、荒勝は朝廷内で武将として重んじられ、奥州に向かって行ったのである。


 一方、百済王家には別の危機が迫っていた。それは県主(あがたぬし)の軽部の黒主・広足父子が孔雀党になっていて、百済王家に伝わる白鳥珠の存在を知ったためである。たまたまその時百済王家に戦うだけの壮年男子がおらず、危機を感じた雪姫は遠く奥州の石上荒勝に助けを求めるべく逃避行の旅に出た。


 しかし、武蔵国走水で軽部の一団に追いつかれてしまった。危機一髪、この時、阿吽行者に助けられ雪姫は阿吽行者と共に走水の海を渡って上総の土気(とけ)城に到着した。


 雪姫は白鳥珠の言い伝えを荒勝に話し、助けを求めた。荒勝は阿吽行者と共に白鳥党を作って雪姫と白鳥珠を守ることを誓った。雪姫は白鳥珠を国のために使ってくれるよう懇願した。


 荒勝と阿吽行者は奥州に征討軍を進めその途上で白河を越えると白鳥珠が黄金に反応することを知った。しかし、この時は、征討のこと、孔雀党との確執のことがあり、黄金のありかをそれ以上探査することはあきらめていた。


 くるしい征討の旅は、朝廷からの帰還命令で終わったが、荒勝の蝦夷との戦いは一進一退であり、行きづまりであった。朝廷の対蝦夷戦略で荒勝は黄金がカギとなるという感触があったが、その方向性は見いだせないままであった。

 石上荒勝の奥州遠征から百年後。
 百済王(くだらのこにしき)氏は、極官が従五位あたりの中堅貴族となっていた。時の氏の長者敬福は、陸奥守として何度か赴任(一回の任期は四年)している中で、家に伝わる白鳥珠の威力を知ることとなる。


 敬福はかっての石上荒勝を祖に持つ、東国の行者上総国佐貫郷の石上忍山を配下にし、奥州の金山をさがし続けていた。


 役小角が伊豆に流されたため東国にその弟子が生まれ山野を駆け巡る東国の優婆塞が生まれた。彼らは修行の場を奥州まで伸ばし出羽三山の開山まで行った。忍山はその直系の子孫である。敬福は上総国府の伝手で忍山を得ることにより、奥州の山を知ることとなる。


 奥州には時としてそこかしこの谷川に自然砂金が集まる。しかしそれを集めたとしてたいしたことはない。敬福は白鳥珠で鉱脈をさがし、土地の者を集めて鉱石の粉砕と選鉱(比重選鉱:金流し)、灰吹き精錬をおこなった。これらの方法は百済の昔から韓国に伝わったものである。



 時は天平時代、奈良の都では大仏建立が進んでいた。敬福は一千両(約四十一キログラム)の黄金を朝廷に献上したという。


 黄金は大仏の仕上げ鍍金に必要で全身を黄金色にするのに一万両(約四百十キログラム)使用したとされる。(水銀に金を溶かした合金溶液を銅像に塗布すると水銀だけが蒸発し金メッキとなる:アマルガム法)
 大仏建立に当たっては官が大金を投じて養成した大和仏教僧や遣唐使帰りの官人は何の役にも立たず結局良弁を筆頭とする優婆塞と百済からの帰化人との人的・物的つながりによって出来たものである。敬福と忍山は東国におけるその動きの中にいた。


 敬福は大仏建立の功により、従五位上の官位から従三位宮内卿・河内守に特進した。さらに一族は出羽守になるもの、常陸守になるもの、介になるもの、陸奥大掾となるものなどなど、後世の平家のような繁栄を極めた。


 しかし、繁栄は分裂の兆しである。一族の中にわずかな出世の差を妬むものが現れ、それに孔雀党の生き残りが白鳥珠のいきさつを吹聴して、争乱が始まった。


 党派で言えば敬福の長男理伯が白鳥党、次男武鏡が孔雀党であった。
 再び、古百済国の兄弟争いが始まるところであったが、敬福は古の百済王とは別の道を取った。
 敬福は、後継を長男の理伯に指名したが、白鳥珠はさずけなかった。


 そしてある日、年老いた石上(いそのかみ)忍山を部屋に呼んで、白鳥珠の始末をたのんだ。
 石上忍山への要請とはこうである。


 「白鳥珠が人の欲望に火をつけるのは明らかだ。これをなきものにしたい。しかし、古から伝わり霊力の大きい尊いこの珠であるからただ壊したり捨てたりしてはその後わが家に災いをもたらすだろう。そこで間違いのない祀り方、鎮め方をそなたにねがいたい。」


 いわば、黄金を得ることを鎮めるまつりをして百済王家の繁栄と平和を守る守り神にしてもらいたいということであった。


 忍山は躊躇した。これを引き受ければ、白鳥党と孔雀党の両方から敵とみられるからである。しかし旧主のたっての願いから、これを覚悟し、白鳥珠を守り、鎮めのまつりをすることを決意して奈良の都から消えた。


 忍山が消えた瞬間から、二つの党派が忍山を追ってこれも都から消えた。
 それから五年後、忍山が東国で時化に会い遭難死したといううわさが流れた。その後、白鳥珠の行方を知るものもいなくなった。そして、百済王家の争乱が静まった。

 2.上総の浄土ヶ浜

 寛仁四年(1020)四月十六日早朝、山伏の忍生は、海辺の海蝕洞窟で粟飯を炊いていた。
 昨夜の戌刻に満月が、ちかごろでは珍しく煙のない富士山頂に沈む予測が当たり、自分の修行の成果に満足した遅い朝餉であった。


 忍生がこの地に来たのは半年前、奥州の山岳修行からの流れである。先祖の忍山の足跡にしたしむことの他に、白鳥珠の行方をさがすためであった。
 しかし、この地はよそ者に冷たく、昔話を聞く前に住むことから拒まれて、結局、村はずれの浜の洞穴に住んでいるのである。
 昨夜は雲がまったくない天に富士の影と月がくっきりと見えたことで、先祖の忍山の命日と、足跡の断片、東国、富士、珠に見立てる月、海岸などが一体化したという感覚の中で終夜真言陀羅尼を唱えていたのであった。


 朝飯の中に、村主(むらぬし)のゴンゾと名乗る男が訪ねてきた。村のある一家七人がイルカを食って食あたりし、ひどい苦しがりようだから、ちょっと見てくれとの依頼であった。
 「行かぬでもねえが、あんたん村にや八幡様の薬師堂に別当がおるだろう。食あたりの手当てぐらいお手のものではねえのか?」
 「それが役に立たねえから来てくれといっている」
 「わしは、あんたんとこの餓鬼共にコッジー、コッジーと石をなげられ、追いかけられて、その因果でここにいる。いまさら村に入りたくはねえ」
 「すまねえ。御覧のような貧乏村にゃ二人の別当なんぞはとてもやしなえねえ。がまんしてもらいてえ。しかしもし、こんどんことで機嫌よくやってもらえりゃ俺に考えがある。やってくんねえだろうか」、「分かった。人の命にかかわることだ。同道しよう」、といって忍生は背負子を背負って二人で浜に出た。北に渚がずっと続いている。浜辺はすべて松林である。忍生がここに来たときから気付いたものにここの松が集団で根上がりしていることであった。根が上がった松は何か動物が砂から這い上がろうともがいてそして堅くなってしまったような印象を与える。


 「古いものをくったんか?」
 「いいや生き絞めだ。ただ、浜に上がっていたというから弱っていたことは確かだ」
 「浜に上がってくるようなものを、この浜のもんは食うのか?」
 「そりゃ食うさ。へしこ(子供の背黒イワシ)なんざ潮の色が変わるほどわんさか上がるのは別にめずらしいことではねえ。イルカだってたまには何十頭も上がることもある。別に気にしねえ。お前さんは知っているかどうか、北の海にはニシンやサケがわんさかと上がるというじゃねえか。それとおんなじだ」、「・・・・・・・・・」

 現場は凄惨であった。七人が枕を並べて寝かされておりあたりは吐しゃ物の異臭が満ち満ちていた。二、三人の女が寝床の周りをうろうろしていたが、何をしていいのかわからず、ただ患者が吐き気を催すと子盥をあてがって背中をさすったりたたいたりしているだけであった。
忍生は匂いを嗅いで状況に合点がいったのか、「ごくろうさん。みんなには湯をいっぺいわかしてもらいてえ。それで吐いた物はすぐに穴を掘って埋めてしまえ、よおく手を洗って、手拭いをお湯で濡らして体をよく拭いてくれよ。それから吐いたものでのどを詰まらせないように、吐く様だったら顔を横にするか、おきられるなら起こして吐かせて、吐息が聞こえなくならねえように顔の位置に気を付けてくれよ」、「分かった」と皆がいった。


 忍生は、持ってきた背負子の中から長さ三尺、太さ四分くらいの黒い管をつまみ出すと、父親らしい一番しきりにぜいぜい言っている男の傍ににじり寄った。
 ひと肌にして持ってこさせた湯がくると、忍生は口一杯に湯を含むと管の一端を加え、一端は患者の男の口に突っ込んで、少しずつ湯を流し込んだ。湯がなくなるとまた湯を含んで流し込んだ。二回の流し込みが終わるか終らないかになったとたん、忍生ががばっと患者から飛び下がると、待っていたように男が飛び起きてうめきながら大量の臭い水を吐きだした。吐いているときは苦しそうだったが、一段落するとだいぶ落ち着いてきた。介護の女が背中をしきりに叩いている。


 忍生は、それに見向きをせず、次の女の患者に向かった。息はあるが気を失っているようであった。そんなに吐しゃしていないと聞いて、忍生は湯呑に何やらわずかの粉を入れ、大口で口に含み、舌を動かして味わっていたかと思うと、大きくうなずき、女の湯文字をまくり上げたかと思うと、例の管を尻の穴に突っ込み、また湯を中に送り込んだ。


 その後次々に患者に似たようなことを繰り返して五人目が終わるか終らないかの時、女房と思われる尻に管を突っ込まれた女がべりべりべりと壮大な音とともにどす黒い軟便をこれまた大量に放出した。
応急治療が一段落すると、忍生は、宝鏡、灯明、香炉などの法具を取り出し、孔雀明王の呪法の準備にとりかかった。そして、また小盥に湯を盛った中にわずかの粉薬を入れると、「さて皆の衆、今度はこの薬を、少しずつ病人に飲ませてくれ、本人が飲む力がないなら口移しでものませろ、一晩で一升も飲ませろ。口移しとて、病が伝染する気づかいはないから安心してやってくれ。けっしていそぐな。急がずにゆっくりと飲ませてくれ」


 そういうと、「さて、では始めるぞ。手の空いたものは手をあわせよ」用意の整った孔雀明王呪法の仏事に取りかかった。力強い読経の声と共に、香(ハマゴウ)のにおいがあたりに立ち込めると、凄惨な現場が浄化され、患者の中にはもう安らかな微睡と深い呼吸の中に移った者もいた。

 七人一家の食あたり騒ぎから五日後、村主のゴンゾが忍生を訪ねて来た。
 忍生の働きへの一通りのお礼が済んだ後、ゴンゾが話を切り出したのは、忍生を佐貫の岩富寺別当に推挙したいということであった。
 岩富寺はこの浜から一里東の山中にある、現在は無住で朽ちているが二十年前までは山伏の修行の場としての体裁も整っていたということである。そしてもともとこのあたりの村人が作った寺であり、官に何ものの借りもない。山伏を専任に住まわせるわずかの登録料を納めれば官に何の不満もなかろう。
 忍生にやってもらいたいことは、お祓い、占い、八卦、祈祷、読み書きソロバンだという。早い話が村の困まりごと何でも相談屋になってくれということである。


 ゴンゾが言う。
 「ほれ、あの食あたりのワケイキが食ったイルカは実は大坪浦に上がったものでな。それを食ってああなったのは、罰があたったんじゃねえかと村の衆のもっぱらの話がある。そう思うにゃ土地の者はみんな心当たりがあるからじゃ。大坪浦は特別な浜でな、代々それなりのお祓いをしていままで安寧だったのだが、今度の食あたり騒ぎは、お祓いの効能がねえくなったためじゃねえかと、こんなわけで・・・・・・・・・」


 ゴンゾの話は奥歯に物がはさまったような、言いにくいことを察してくれと言いつつなので理解するのに時間がかかったが、忍生が理解したのはこうである。
 ここの大坪浦には湾内海流の関係からか、遭難船や遺体が五年に一回くらいの割合で流れ着く。この湾内(後に東京湾)の北方、西方、南方どこからでも必ずここに流れ着く。太古の弟橘媛も走水での遭難ということであればその遺体はおそらく流れ着くのは海流からみてここに決まりなのだ。

 大きな声では言えないが、うちの村では昔から大坪浦の遭難船の略奪で潤ったことが結構あった。こういうことは国府に届けて指示を待つのが筋だろうが、こんなことを国府に届ける村はおそらくねえだろう。そんなわけで秘密が洩れないよう、生き残りを殺したこともあったかもしれない。
 村の者にとって大風の翌朝、浜の様子を見に行く時の心の弾みはこたえられない。まさかいつも遭難船を期待しているわけではないが、しかし、本音を言えば、浜への細道の丘の向こうには見たこともない何かが起こっていると期待しているわけだ。

 畜生道と笑わばわらえ、野蛮と思わば思えの気持ちだが、それだけにお祓いは充分気をつけてきた。毎年の浜施餓鬼は念入りにやってきた。しかし、それにもかかわらず、つまりは、今回の食あたりさわぎだ。お祓いが効いていないとしか思えなかった。
 今度のさわぎでお前(忍生)さんの祈祷の効き目は良くわかった人となりもよくわかった。いままで、わしらは食うに忙しくて信心をおろそかにしたのかもしれない。そこでお前さんに別当になってもらって、お祓いのききめを高めてもらいたい。
 忍世は、ゴンゾの依頼をもちろん喜んだが、それ以上に「大坪浦に遭難船が引き入られてくる」話に大きなひらめきがあった。


 250年前、先祖の石上忍山が白鳥珠を持って都から消えたことまでは分かっている。しかし、その後の行先はまったく伝わっていない。白鳥珠を富士山頂に埋めたとか、東国の海で遭難死したとかの話だけがあるばかりである。
 忍生がいろいろと考えたことは、人は結局最後にはふるさとを目指すだろうということである。そこで、忍生はここ忍山の故里佐貫に来たのであるが、来ては見たものの、話を聞くどころか村に入ることも出来ない状態だった。成田山や浅草寺の勧進を装って乞食をし、勧進を求めながら村人に聞いたかぎりでは、そこに忍山の話は一切伝わっておらず、もちろん忍山を知る人もなく、ただ山と海があるだけの貧しい寒村だったのである。


 忍生はあらためて忍山のことを聞いてみる気になった。
 「ありがてえ申しごと、喜んでお受けしたい。その前に儂の身分や思いを聞いてもらいたい。それを聞いたあとでそれでもいいということであれば岩富寺の別当を快くお受けしよう」
 忍生は自分の生い立ちを話し出した。
 そして、自分の考えでは、この佐貫八幡の地に、先祖の忍山は白鳥珠を埋めたに違いない。自分はそれを捜しにここに来たといった。ゴンゾは、そんなすごい宝物がこんな田舎にあるわけがない、しかも二百五十年も前の話じゃ、探しようがないだろう、と、あまり本気でかかわろうとは思っていないようであったが、人それぞれ夢を追うことは自由だから、もし、場所のめどがついたら言ってくれ、出来ることは協力するからといってくれた。

 忍生は岩富寺の別当になった。村人(正しくは里人)になったのである。村での仕事は早い話が医者である。村人は若い時からの重労働のため、腰痛が多い。それと感染症。低栄養なので抵抗力が弱くすぐ感染する。
 
 忍生は岩富寺をざっくりと歩いて調べてみた。主な建物は(朽ちかけてはいるが)観音堂と庫裡があり観音堂の本尊は千手観音、聖徳太子創建の頃は十躯観音だという。庫裡の方には薬師如来が本尊である。寺の鬼門の方向に護摩壇(聖徳太子が護摩を焚いたという言い伝え)があり、すぐそばに小さな滝が忍生の今も、流れている。そして寺全体を囲むように白山社、春日社、大黒天などのほこらが祀られている。

 今日の忍生は船長スケセイの腰痛治療である。スケセイは四十才過ぎの船乗りで八幡里の船団(と、言っても全長十五メートル幅三メートル程度の帆掛け船。一応外洋船の体裁で三隻ある)の長である。慢性の腰痛で、忍生は半月に一回、灸治療と、貼り薬治療で通ってくる。
 「ああ、ありがてえ。楽になった。あたらしい行者さんは腕が確かだ。八幡は港がねえから船の出し入れが難儀で、それが積もって三十、四十になるとみんな腰をやられる」
 「確かに素人の目で見ても船の出し入れは難儀だろう。船を川に入れて潮の満ち引きで岡にあげるなんざ出来ねえものだろうか」
 「石組で囲うとかやりようはあろうが、八幡にゃ金もなければ人もいねえ。まあ当分は今のやり方でいくしかねえな。
八幡は船を上げるのも難儀だが、土用波の時期なんぞ、おろすのもこれまた難儀でな。あおられてけが人が出ることもある」
 忍生は確かにこの浜は船の上げ下ろしが難しかろうと思った。

 「スケセイさん。この浜の潮の話を聞かせてくれねえかな。」
 「村長に聞いたよ。あんたは先祖の宝を探しているとか・・・・・。知っていることは教えるが、たいしたことは知らねえよ。宝物も知らねえし、忍山さんも知らねえし、岩井里といえば確かに岩井里はあるがそれだけだ。あとはなあんも伝わってねえ」


 スケセイの話はこうである。


 現浦賀水道から現東京湾の潮の流れは、大きく分けて満潮時の北への流れ(中潮という)と、干潮時の南への流れ(オツケ潮という)のふたつである。
 北流は外洋の黒潮の支流である。南流は、利根川・荒川・多摩川などの河川流の排水流である。
 南流、北流ともに主な流れは羽田沖から横浜・浦賀・・・と相模側を流れるが、ここで、南流は独特な流れとなる。南流は、おそらく塩分の差から外洋流と簡単に混わらず、外洋流に行く手を遮られる形で横須賀沖で左回りに回転し、八幡から磯根崎に向かい、大坪浦に垂直にぶつかり、その後、富津洲に沿って北西流となる。従って東京湾内でこの渦に異物が巻き込まれると、異物の多くは大坪浦にぶち上げられることになる。


 忍山さんが東京湾で遭難したとすれば、その残がいが大坪浦に着いたことは間違いないと思う。
 これがスケセイの話である。忍生のいる八幡里は、田んぼがほとんどないため、米は少ない。代わりに魚介類は豊富である。


 佐貫郷のある上総国天羽郡を概観してみよう。
天羽郡の中に佐貫郷があり、佐貫郷は岩井里、八幡里、笹毛里からなっている。一つの里に五十から八十軒の家があり、二百人から三百人の人が住んでいるというのが普通である。郷全体で人口は一千人、田んぼは三百町歩、取れ高は三千石(一石は四俵で、人間一人が一年間食べる米の量)。


 佐貫郷の中で岩井里と笹毛里は純粋な農村で、米作、畑作の他は、わずかの麻や絹糸とその織物くらいを生産する。


 八幡里は十五町歩の田んぼしかないが人口は二百人。人々は小作、役請け、鍛冶、山稼ぎ、運搬などの賃仕事でくらしている。こんな貧村八幡里であるが、奇跡的に巨船を三艘持っている。これなどあの遭難船略奪の財産なのかもしれない。村は海岸にあるが塩田や漁労など海岸的な産業は流通と冷凍の技術がないので、干物をつくって房総の農村中央部に持って行って米や蔬菜などと物々交換するレベルでしか発達していない。


 天羽郡内には奈良の興福寺領という荘園がひとつあるが、それ以外は概ね国衙領である。荘園というのは国税をまぬがれるため、地方の大地主が中央貴族や中央寺社に土地を寄進して成立したもので従って荘園領内は小作人がほとんどである。一方、国衙領は自前百姓(自分の田んぼを自分で耕す人々)から成り立っている。


 さて、こういう村の支配層はどういう人達だったのか。律令の建前から言えば郡衙の役人ということになるが、役所には役人が数人しかいないので、実質は、主要荘園の下司といわれる地主(後の言葉で武士)が、荘園ばかりではなく、周辺の国衙領を含む徴税を行い、その分配(国衙向け、寺社向け、皇室、貴族向けなどへの徴収物の分配。その他運搬の実際仕事の指揮まで)を行う。天羽郡で言えば、天羽氏、周東(すとう)氏などである。


 なお村(里)内は基本的に住民自治である。犯罪懲罰を含めて物事は村長と肝いり数人(半数は世襲制、あとの半数は村人の互選。こちらは任期二年)の合議で決まるが、多くは前例主義で、納める税金(村一括)も前例に倣った自己申告制である。国府による土地面積、出来高、人口調査や新税の付与、増税には激しく抵抗する。

 3.歌垣

 忍生の岩富寺での一日は、早朝の勤行から始まる。
 簡略化された護摩祈祷の手順で、やおろずの神々への祈りから諸仏への真言をとなえ五体投地に似た所作から、最後は般若心経の声明で終わる。
 その後は、訪ねて来るものがあればその応対をするが多くはこちらから村に降りて行き、お祓い、祈祷失せ物相談、腰痛などの治療、占いなどを求めに応じて行なう。


 そして年に一度や二度は山に入る修行をする。これは、五穀絶ち塩絶ちし、滝に打たれて身を清めた後、山に入って歩き続ける。身も心も朦朧とした中で、山の気を自分の身体に受けて、再生し、祈祷や治療の法力を高めるわけである。そして、数年に一度は山伏同士の研鑽の場である山伏問答に臨む。
 忍生のいる岩富寺は、寺とはいえ使える建物といえば忍生と村人が建てた掘立小屋の竪穴式住居があるだけで、あとは本堂などの残骸と、他にそこら中にほこらがあり、古びた石仏が祀られているだけである。


 忍生はふもとの村々を訪ね歩きながら、岩富寺の由来を聞きまわった。ここが、先祖の忍山の故郷の寺であるからである。白鳥珠についての手掛かりを求めるためである。
岩富寺は、須惠の郡衙から天羽の郡衙をつなぐ街道の峠道に立地しており、この二つの郡の境界地に当たる。


 寺の須惠側のふもとに、小山野里があり、その村主に茂木(もてぎ)という姓を持つコンデイというものがいた。五町歩程度の比較的大きな自前百姓である。
 忍生はコンデイを訪ねて、岩富寺について聞いてみた。
コンデイは岩富寺周辺に代々横穴の墓を営みながら、岩富寺についてはほとんどそのいきさつを知らなかった。ただ彼より数代前に、岩富寺に小さな観音像を寄進したという家の伝承を覚えていた。


 彼によると、その頃は、かなり衰えたとはいえ七堂伽藍が整い岩富寺があったということであった。しかし、その前のことは、忍山という人物が、都に出て、大仏建立に力を尽くしたということも知らなかった。逆に忍山について、白鳥珠について教えてくれというばかりであった。
忍生は、心の中で、七堂伽藍が整っていた在りし日の岩富寺を想像した。伽藍の中心は八角円堂の観音堂で、そこには丈六の救世観音が鎮座しているはずである。

 茂木コンデイは岩富寺周辺の古い家系や仏像群について忍生に知識を披露した。
それによると、天羽郡側の岩井里には、大きな磨崖仏群が作られているということであった。またこれも天羽郡側であるが、吉野里には「巨勢」や「紀」姓を持つ自前百姓が数件あるということであった。彼らの家は、茂木氏と同じように横穴墓を墓制としているとのことである。忍生は「吉野」という地名や巨勢や紀姓から熊野修験道を脳裏に描いていた。そのうち彼らを訪ねて話を聞こうと思った。この岩富寺は忍山の時代の一時期、中央の修験道者を招き大きな修験道場を営んだのかもしれない。いわば、忍山は故郷に錦を飾ったのではないか。


 忍生は、コンデイに白鳥珠が岩富寺のどこかに隠されているのではないかとの思いを話した。しかしコンデイはその考えを一笑に付した。
「かくれてはいねえな。よしんばもし隠れているなら、それなら白鳥珠の威力はたかが知れているということになる。岩富寺の惨状を見よ、自分の住処さえ満足に賄えねえようなら、そんな宝を探したところでしょうがねえ」
 コンデイの考えはもっともなことだが忍生は白鳥珠の霊力を封じ込める呪法はあるのだと自答した。
忍生はあらためて岩富寺の境内を思い出した。忍生にとって分からない構造物が一つある。それは、大きなさいころのような四角の一枚岩である。周囲を丁寧に削り出し、上には土塁のような岩壁を切り出しで造っている。あたかも岩をくり抜いて、内部に部屋を作ろうとしているかのようである。しかし、今までざっと調べたところでは、秘密の出入口などが有りそうな気配はなかった。
 忍生は、寺に帰ったらまた、あの岩を調べてみようと思った。

 忍生は八幡宮の神主、キミマルを訪ねていた。あの一家食あたりさわぎでは、キミマルは何の働きも出来ず、宮の裏手にある薬師如来も活躍しなかった。
 しかし、キミマルは悪ぶれる風でもなく、忍生を憎きものと攻撃するでもなく、忍生を同じ宗教人として頼もしく思っているようであった。温和な年寄である。
 この神主は「梶取」(かんどり)という姓を持つ。忍生が以前知り合った船乗りスケセイと同族である。この一族は岩井里に数町歩の田を持ち小作に出している。この時代、人の尊貴は結局、田をどれだけ持っているかであり、これは船乗りであれ宗教者であれ変わりない。船しか持っていないということであれば、その人がどんなに銭を持とうが公的な立場は小作人と同等である。わずかではあるが田を持っているということで梶取すなわち八幡里の権威つけには充分に働いていることになる。


 神社はワラぶきの古風な造りで、太い棟持ち柱が目につく。御神木はこれも巨大な松である。本殿の裏に薬師堂があり、ここには秘仏の等身薬師如来が祀られている。
 キミマルは「この前(食あたり騒ぎ)あんたが持っていたやわらかな管はあれは何だね?」と聞いてきた。あれは鹿の贓物の小腸を乾燥させ、なめしたものだと説明すると、流派の秘伝なのかと聞いてきた。忍生はそれには答えず、イルカのような巨魚なら同じようなものが取れるかも知れないというとキミマルは目を輝かせて試して見るかといった。キミマルは年に似合わず好奇心が強いと忍生は思った。

 「恥ずかしいことだが、わしは神の顕現を感じたことがない。」とキミマルはいった。年老いた宗教家の述懐が続く。
 この村は穏やかな村で、夏は暑くなく、冬も霜がおりるのが稀である。そのせいか、怪異がない、光物が見えることもないし、きつねつきやもののけ、人の背中にくっついているような鬼を見たことがない。この近所で見たと聞いたこともない。だからお祓いの機会がないし、その効果を確認もできない。これは自分の宗教家としての力がないからだと今まではずっと思ってきた。


 ところが、わしはこのごろ違うんじゃないかと考えている。
 この平和さは、村人の体の具合がいいから来ているのではないか。御覧のようにこの村は米もなく貧乏だけれども海の幸に恵まれている。時化が長く続いたところで飢えるということがない。そして、魚を食うと体が軽くなる。腹持ちのための粟や稗や餅の量が少なくて済む。そこから得た教えは、物の怪や鬼は、「穢れだとか戒律とか言って、魚肉や鹿肉を食わず塩と米と酒をたらふく食って陽にも当たらねえ暮らしをしている人の心に住みつくのではねえか」ということよ。今度、そういう人がいたら、お祓いといって鹿肉を食わしてやろうかと思っている。あんたはどう思うね。


 忍生はこの老宗教家の本音を論駁するほどの論を持っていない。確かに「神との一体感」は自分の身が衰弱している時にあらわれやすいし、山修行の苦行など、身を痛めつけて意味があるだろうかと考える時がある。また、祓いでもその前準備にこそ意味があり、本番の護摩や真言をとなえる部分は、強いて意味を求めれば、それを聞いている人の心への響きがあるかどうかであって、祓いそのものの効き目には無用であろうと考えることもある。
 「だが・・・・・・」キミマルは話を続ける。
 「米は少ないが、漁があり、塩があり材木があり、ちょっと山の村へ行けば麻も絹もありなにひとつ不足するものはねえんだが、しかし、・・・・・・・・」
 「これら毎日の暮らしの、いる物をそろえるために村人全員が朝から夕暮れまで働きに働いている。それだけだ、それで死んでいく。それだけだ」腹はくちく平和ではあるが楽しみも進歩もないということなのだろう。


 「あんたが先祖の宝を探しているという。この村のものは助けてやろうと思っても暇がない。決して面白くもねえと思って捨てているわけではねえ。」
 「そこで、わしの息子をひとりつけてやる。探しものを手伝ってやろうというわけだ」
 忍生はこの志をありがたく受けた。しかし、人が増えたからと言って何か手がかりがあったわけではない。まったくの五里霧中であることに変わりはないのである。
 「あせることはねえ。とにかく食えるのだから・・・・・・・・。ただひとりの修験者、いや、一人の男、いや一匹の雄になって見ねえな。そうなったときに道が見えてくるかもしれねえ。言っておくが間違っても苦行や山修行や真言声明じゃあねえぞ!」


 キミマルは、忍生に舟に乗って思いっきり網を引き船を押して見ろということと、六月二十八日には鹿野山で夜祭があるから行って見ろと言った。
 夜祭とは、すなわち歌垣だという。「恋歌」の取り交わしの作法は、息子のサキタマルが教えるという。

 サキタマルにいわせると、歌垣とは闇まつりである。闇はすべてを浄化し、何をしてもかまわない、すべてのタブーは闇の中では存在しない、ただし、夜が明けるまでには昨日までの日常に戻らねばならない。もし、そのおきてを破るとその男女を神が松に変えてしまう、ということで、六月二十八日の二十八日に意味がある。旧暦なので、新月(にちかい)闇夜なのである。
 忍生たちは各々が仮面を持って三々五々神殿前の広場に集まった。こんなに人が住んでいるのかとあきれるほどの群集である。皆みな精いっぱいに着飾っている。


 広場は西にわずかに傾斜していて遠くに八幡里の海が見える。広場はすべて黒松の疎林で覆われている。サキタマルの話しでは、これらの松は例の掟破りの結果だというのである。そのおびただしい数は歌垣の歴史の古さなのか、掟破りの多さなのか忍生はどちらなのかと思った。神殿の祭神は昔は悪留王と須惠の珠名、今は倭健と弟橘姫であるらしい。広場からは急な長い階段のはるか上に神殿がある。
 あたりにかがり火がたかれ、大太鼓が間遠にドン・・・・ドンと響いている。広場の中央に巨大な柱が一本屹立していた。そして、その回りに人の輪が出来ていて、全員が仮面をかぶり、女は内側の輪を右回りに、男は外側の輪を左回りにゆっくりとした所作で手おどりしながら回って行く。男女交互に歌を歌っている。


 飲食物は出店風の屋台がたくさんあって、自由に飲食できるのである。
 輪に交わって踊っているのは半分に満たない人数で、その他の人は仮面をかぶらず周りで見物していた。人々はおどりたくなると仮面をかぶって輪に加わり、おどりつかれると仮面を脱いで見物に回る。
 歌は男が、「いやぜるの、あぜの小松にゆうしでて、吾を振り見ゆも、あぜ小島はや」と歌い終わると、女が「よきおのこ」とそばの男に言葉を投げて、次に女が「潮には立たむといえど、汝の子が、八十島隠り、吾を見さ走り」と詠う。そして歌い終わると、「よきおとめ」と大声でいうのである。
 単調な踊りが何度も繰り返され、忍生も踊っては休み、飲食しては踊り、サキタマルとは遠の昔にはぐれていた。


 やがて、踊りが一段落したころ、ドンドンと太鼓が連打され、一人の巨漢が中央の柱の下に現れた。大音声で祀り歌を歌いだす。
 「鳥がなく、鹿野の山におとめおのこの、行き集ひ、かがふかがいに、人妻に、吾も交はらむ、あが妻に他人(ひと)も言問え、この山をうしわく神の、昔より、いさめぬ業ぞ、今日のみは、めぐしもな見そ、こもとがむな」
 宣言のような歌が終わったとたん、かがり火の火がパッと消えた。キャーと女の嬌声がたった。
 その後は急に静かになり、闇の世界になった。


 忍生は一匹の雄になった。傍らの女(らしいもの)を背中から抱きしめた。やわらかい。体がかすかに震えていた。忍生がやさしくなであげるとだんだん落ち着いてきたようである。おんなが小声で「よきおのこ」と言った。忍生も小声で「よきおとめ」と返した。
 女はかすかに身をよじって忍生の腕から逃れるしぐさを示した。
 忍生が腕を離すと、やがてかすかなきぬずれの音がした。
 その時、かがり火の残り火が勢いを増して、瞬間、明るくなった。嬌声がひびき、そして忍生は、相手の女の裸体を目にとめた。しかし、一瞬でふたたび闇になった。

 わずかに夜が明けるころ、忍生は山中の道なき道を西へ疾駆していた。杉、桧、イチイ、ヒバの巨木が覆い被さり、山中はまだ闇の世界である。小さな滝をいくつも越えた。鹿が驚き飛び上がって逃げていく。

 忍生は夜の闇の中の感情を引きずって修行に入ろうとしていた。本来は五穀を断ち、まして女色は避けてからの修行であるはずであったが、忍生にはその戒律を突き抜ける何かが宿っていた。生命力というものであろうか。元初の宗教体感というものであろうか。末法の世の仏法が小賢しい屁理屈のように思えたのである。


 白々と夏の夜が明けた。忍生は岩富寺を過ぎ、崖を登り、あるときは飛び越えて進み、やがて木々が絶え、今は波のうねりのような大藪の中を、海の方向に進んでいた。そして、大坪浦の上の断崖絶壁に出た。一点の雲もなく大気は澄み渡り、海はまったくの凪でどこまでも碧く対岸のはるか遠くに富士、秩父、丹沢、箱根、天城、三原山、そして、左に振り返れば富山、右に振り返れば筑波が見えた。経を唱えるのも忘れ只唖然と見惚れていた。


 そして忍生が後ろを振り返ると巨大な観音が顕現していた。宝珠を戴き西に向かって屹立していた。忍生はその宝珠が白鳥珠に見えた。


 忍生はこの下の浦に白鳥珠が沈んでいると確信した。

 4.つなみ

 スケセイはもう何回か網を仕掛けた。八幡浦の沖合、三丁あたりである。
 しかし、朝からそれこそザコ一匹かからないのである。
 今日は、スケセイとサキタマル、それに忍生が村の所有する船に乗って漁に出たのである。忍生は船も漁もまったく知らない。もう何回かの漁であるが、忍生の役割はもっぱら力仕事である。綱を引っ張れといわれれば引っ張り、ゆるめよと言われればゆるめるばかりである。サキタマルは海風に舟が岸に戻らないように小さく櫓を動かしている。


 八幡のあと二艘の船は、今日は荷を運んで国府(市原)に行っている。
 「これほどの不漁もめずらしい。海の魚という魚がどこかへ行っちまったんかね。おかしい。日が悪りい、日が悪りい・・・・・・」
 たしかに船と見れば寄ってくるかもめが今日は一羽もいない。これもおかしい。
 異変に最初に気が付いたのは船の中で比較的暇な忍生だった。
 「おい、みんな、船がだいぶ沖へ流されていねえか?」
 スケセイとサキタマルは岸を眺め、沖を眺めして、それに気が付いた。確かに船は今、五丁ほど沖にいる。そして、とどまるどころか、ますます勢いを増して沖に流されているのである。
 今は、干潮になる時刻ではないし、それ以上に潮の満ち引きにしては流れが急なように思えた。
「なんじゃろか」サキタマルが不安げにつぶやいた。
 そして、三人は海岸の豆粒のような人々の動きに眼をやった。海岸を見ると、常よりざっと二丁は潮が引いて、茶色や緑の海藻がはびこる海底が露呈していた。このにわかな引き潮でみおに取り残された魚がいるのかどうか、子供はもちろん大人たちまでもがざるや竹カゴを持って立騒いでいる様子が伺えた。


 そしてそれら人々の騒ぎを見守るように、海から物体が頭を出し始めた。それは、豆腐のように白くて、しかも形がはっきりした長方形の柱で後世で言えば墓石のような形であった。石(と思える)の表面はあくまでなめらかで鏡のように光っており、隅の角度はこれ以上な正確はあり得ないと主張しているような直角であった。そして海に沈んでいたにも関わらず海藻などが付着していないようであった。その物体は忍生らの位置からはおおよそ十丁であり、忍生は概略、縦横奥行きおよそ三、四尺かと考えた、高さは見当がつかない。


 「なんじゃろか」再びサキタマルが言った。スケセイは押し黙っている。頭に浮かんだ何かの言葉を吐き出すために苦労しているようであった。
 その時、腹の底を揺さぶるような地鳴りがした。
 「つなみだ!つなみだ!、津波がくるぞ。あれを見ろ」スケセイが沖を指差した。
 沖合に黒い壁が出来ていた。黒い壁は日に照らされててかてかと光り、ゆっくりと大きく膨れ上がるようであった。壁と空との境はところどころ白く輝いていた。

 「さて、沖に逃げねえと波に呑まれちまうぞ。サキタマル!命の限り沖へ向かって漕げ!手がちぎれても漕げ、漕げ!」、「分かった」とサキタマル。
 「忍生、船の道具はみんな捨てろ、網も捨てろ。おっと待った、綱は捨てるな、綱を全部錨につなげるぞ!」
 「忍生!沖を見て船が波に向かっているかずれてねえか見張れ!ずれたらサキタマルにそういえ!」 「分かった!」と忍生が言った。
 地鳴りの音はますます大きくなっていった。沖合を見ると波は二十丁ほどに迫っている。高さはおよそ五間。スケセイは波を乗り越えられるだろうかと思った。幸いなことにまだ崩れてはいない。何とかいけるかと、悲観、楽観が交互に訪れた。
 「よし、サキタマル!櫓はもういい。櫓を上げてしばれ、自分も流されねえように船にしばれ!、忍生もしばれ!」


 スケセイは、そういうと、船首に向かって錨を海に投げた。するすると綱が下りていった。スケセイは綱をもやいの木枠に二回り回して綱を持った。
 「これぞ命の綱だ。綱の長さが足りるかどうかだ。」
 忍生が見ると、綱はざっと二十間は船に残っていた。
 ガアーと音がして、あたりが暗くなった。
 「ふせろ!」とスケセイが言った。
 とたんに、体が立ったかと思うとその次に船底に押し付けられる感覚がした。同時に舟は船尾を先にしてオカに向かって走っている。しばらく走ったあと、ガクンと船が止まった。それからまた船が走りまたがくんと止まった。何回かこれを繰り返している。忍生が身を上げてスケセイを見ると、スケセイは綱を緩めて伸ばしたり、止めたり、しきりに調整をしていた。


 長い時間のように思えたが、実際は三十秒かそこいらであったろう。ようやく船がとまり、同時に地鳴りも消えた。波もなくなっていた。しかし、潮の流れはまだまだオカに向かっており、錨の綱はピンと張り、ピシッ、ピシッと素線が切れる音がした。あと数分で綱が切れるのではないかと思えるほどの張り方であった。


 忍生らは身を上げて、震えながらオカを見た。オカは船から十丁ほどにあった。
 まず、あの白い柱に波がぶつかった。
 パーッと波しぶきが雄大に上がり、一瞬七色の虹が浮かんだ、そのあと、すぐに波が白く砕けながらオカに進んで行く。
 北の磯根崎が波に呑まれ、その後は将棋倒しのようにホンモ浜、大坪浦、八幡浦、タカラ浜、ナガウラ浜、と、浪に呑まれていった。
 オカが見えなくなった。あたりは暗くそして白い波だけの世界になった。三人はなすすべもなくただ震え、そして陀羅尼を唱え続けるだけであった。

 津波後、スケセイや忍生らは次の津波を用心してすぐに戻らず、しばらく海上にとどまった。


 大丈夫だろうと見通しを立てて彼らが八幡浦に戻ったのは津波が来てから半日後だった。


 浜に戻ると、皆が飛んで来て、波に呑まれず無事に帰ってきたこと、そして船が無事だったことを喜んだ。この分なら、国府に行っていた二艘の船も無事だろうと皆が思った。
 しかし浜の様子は一変していた。砂浜にあった倉庫や作業場、そして干してあった漁具などはすべて波にさらわれ、ただ白い砂だけが広がっているばかりであった。波は浜の背後の坂道のほぼ上まで上がったとのことであった。およそ五間の遡上であった。忍生らがオカの方を見ると松の巨木のあったところはポッカリと空地になっており、そこに松が点々と倒れていた。
 幸いなことに、浜の人々は波が来る前にオカに逃げて呑まれたものはいなかった。また、人が住む家もオカの上にあったため流された家はなかった。


 村主のゴンゾは、浜で村の人々に後片付けの指図をしていた。忍生らが行くと、「ご苦労さん。無事でよかった。あの波を見たら沖のものは助からねえと思ったが、よく帰ってきた」と、スケセイらの手を取りしみじみといった。忍生らから見ると、沖よりオカの方が大変だったろうと思えたのだが、オカにいる人からは水の上に浮かぶスケセイらの方が危なっかしく見えたのだろう。
 ゴンゾの話によると、津波が来る半刻前にゆっくりした大きな揺れの地震があったようである。立っていると酔っぱらったように右に左に揺れるような地震であった。子供の遊具に乗っているようでちっとも恐ろしくなかった。しかし、なかなかおさまらなかった、といった。


 地震がおさまって皆がほっとしていると、今度は潮が引き始めた。引いた後、たくさんの魚が潮溜まりでぴちゃぴちゃ跳ね出したので、老若男女喜ばない人はおらず、皆、嬉々として魚を鷲つかみにしていた。そこに地鳴りがして、皆が沖を見ると波の壁が現れたので、こんどは、皆、採っていた魚を放り出してほうほうの態で、浜のオカに駆け上がったのだという。八幡は、砂浜が狭く、二丁も走れば山に上がれるが、そうでなければ多くの死人が出ただろうとゴンゾは言った。
 「まあ、おれの記憶にはねえな。安房や上総の東側は津波がよく来るところだそうだが、上総の西側にゃ津波は来ねえと決め込んでいたからなあ、びっくりしたもんだ。こんどは。」
 「お、そうだ、そういえば大坪浦に大石が流れ着いたそうだ」と、ゴンゾが付け加えた。
 「思い出した。沖で見ていたが、潮が引いた時に大きな石の柱が見えたんだが、あれかねえ。あれが岸に流れついたんか。」と、今度はサキタマルがいった。


 忍生も思い出した。あの大石がオカに上がったものと思われる。
 「忍生さんよ。あれは昔の難破船の積み荷かも知れねえ。サキタマルと一緒に見に行ってこいや。白鳥珠があるかも知れねえや」たいした興味もなさそうにゴンゾが話をつないだ。
 その時、また大地が揺れた。余震である。浜の皆は、不安そうな顔で、一時は海の沖合を見た。しかし、もう恐れるものはない、と、いった妙な自信が芽生えいていた。すぐに元の話題に話しが戻った。
 忍生は考えた。津波のどさくさですっかり忘れていたが、あの海中から突き出た大きな石の柱は人工のものである。そんなものが浜の沖にあるわけはないから、確かにゴンゾの言うとおり、昔の難破船の積み荷である可能性は大きい、と忍生は思った。それならば、あるいは先祖の忍山の白鳥珠が自分の方から忍生の前に登場したのかもしれない。忍生は、あの歌垣の翌日の観音との邂逅とその時の確信があっただけに、この天変地異の果ての大石の登場に神の啓示を感じていた。
 忍生とサキタマルが大坪浦に行くと、波打ち際に大石がふたつ漂着していた。まわりを数人の大坪浦の住人が囲んで話をしていた。


 「でかいなあ。シンタクよ。でっかいトウフのようだ」と、サキタマルが石を囲んでいた一人の男に問いかけた。確かに色合いと言い、縦横の寸法の具合と言い、その石はトウフに似ていた。
 「寸法を測ったが、三尺に五尺、長手に向かって十二尺といったところだ。そっちの方がこれよりちょっと小せえ」シンタクが答えた。
 「重さはどのくらいあんだろうか」、「さて、千貫か二千貫か見当がつかねえ」
 「四千貫くれえかな」それまで黙っていた忍生が言った。忍生はさっきから石の表面を丹念に調べていた。そして、その調べが一段落した時、期待が外れた、少し落胆したといった調子で、皆の話の輪に加わったのだ。石はきれいに成形されてはいたが、表面のどこを探しても継ぎ目や、扉の存在を示す印も、何も見当たらなかったのである。白鳥珠の随身の何かかも知れないが白鳥珠の入れ物でも何でもなかったのである。


 忍生は、この石はごま塩石といって、これと同じような石が西国ではところどころから出て、石材としていろんなところで使われている、と言った。坂東ではあんまりないが、常陸より北へ行くとまた出る、と付け加えた。
 おそらく大昔に船がこの石を運搬中に遭難して、大坪浦に沈んだんだろう。それが今度の津波で、岸にぶちあがったに違いない、といった。
 「これだけ大きな石だから、霊力も大きかろうよ。出てきたいきさつも因縁がありそうだ。八幡宮のキミマルに相談したら、是非にも神社に奉納しろといううんじゃねえだろうか」
 「ただ、問題は、これをどうやって運ぶかだ・・・・・・・・・」忍生は思いつかない。
 「シュロを使えば何とかなる。」と、言ったのはシンタクであった。昔、国府の近くの国分寺修理に行ったことがあり、大石の運び方は知っているとのことであった。
 その時、また大きな揺れの地震がきた。今度は普通の揺れ方だった。皆はもう慣れっこになってたいして驚きもしなかった。
 皆は大石の運搬の話に夢中だった。

 天羽郡衙とのスッタモンダの交渉があり、しぶる郡衙から神石の運搬料として百貫文をせしめて、この大石が八幡宮の社頭に収まったのは、津波の日から半年後であった。
 運搬当日は、住民のほとんどが参加した。

 5.下司の暴れん坊

 大坪浦のトウフ石引き揚げから三か月がたった。村主のゴンゾから忍生のところに使いが来て、郡家に行くから同道せよ、先だっての大石奉納の骨折り賃、あの百貫文のお礼言上に行くということであった。
 「忍生さんよ、あんたは白鳥珠の話しをすればいい。今の郡司様(正確には権郡司)は出世欲の強いお人だから力を貸してくださるはずだ」と、ゴンゾが言った。


 忍生は生い立ちからして、郡司や国府などとは無縁で生きて来た。そしてこれからも出来ればかかわりのない状態でいたかった。しかし、白鳥珠を探すということであれば、人の問題、金の問題がついて回る。実際、あの大石の件で、大坪浦の海底に白鳥珠があるということは確信が持てたのに、そして仲間のサキタマルを得たのに、現実は厳しくそれから一歩も出られていないのである。
 郡家に行く道々、ゴンゾは忍生に天羽郡司の人となりを忍生に説明した。
 郡家といってもゴンゾ達がこれから行くのは天羽の駅家(うまや)である。日本というのは面白い国柄で、一つの決まり(大宝律令)が出来るとそれを後生大事に守り、決まりが実態に合わなくなると、改定でなく特例(例えば令外の官で検非違使を設置など)として補足を加え、それも出来なくなると上部構造を神聖化して祭り上げ無力化して、汚れ仕事は下がやるという形で実態に合わせる。結果、複雑極まりない組織構造になり、責任がどこにあるのか、誰の意志なのかも分からなくなってしまう。今の天羽郡衙も、郡家はあるにはあるが、奈良の大寺である興福寺の荘園天羽荘の真っただ中の六野里に置きわすれられたようにポツンとあり、今や権勢の象徴である金門もなく小さな社のような建物の中に、四年任期のうらなりのヒョウタンのような郡司とその家来が何人かいるばかりである。


 実際の郡司の職務は、権郡司が行っており、この人は昔の天羽の駅家にいる。駅家だから馬が五頭、象徴的につながれているが、建物の主役は政所と、宿舎、倉庫群であり、これらを土塀が囲み、いつも閉じている大きな門があたりを睥睨している。不思議なのは政所で、これは本来は興福寺領天羽荘の役所なのだが、ここの荘司(下司)が権郡司を兼ね、事務所ごと郡司業務を兼ね、しかも駅長も兼ねているという複雑さである。
 権郡司はいまや実質的に世襲化されており、ゴンゾ達がこれから会う天羽太郎直幸は権郡司として二代目である。
 天羽氏は房総平氏の末で、一代目が、本家からの資金と、当時俘囚と呼ばれた人々を国府から連れてきて労働力とし、公田が多い不入斗の隅の原野の二十町歩を開拓したところから始まる。それが成功した後、一代目は、抜け目なく付近の(昔の口分田が固定した)自前百姓の田を相続のごたごたに介入しながら買得という形で集めまわり、ついに虫食いや飛び地のない状態で二百町歩にまとめ上げて、天羽荘と名付け、これを興福寺に寄進して、結局権郡司の地位を得た。


 家のよごれ仕事が一段落した後、一代目は短期間だが京に上がり、荘司としての教養を積み増し、帰京後は政所を立派に建て替えた。ここまでは順調だったが、その後、薬師信仰に大金を費やし、さらに内湾でのアワビ取り集落に金を入れ込んで大失敗し、なおかつ放蕩の限りを尽くして蓄えをほぼ消費し切って死んだ。
 そのため困窮の中で家を継いだ二代目直幸は、弱冠十五才の身で、弁舌だけを頼りに房総平氏本家の勘定所司、大佐野賢治の懐に飛び込んで窮状を訴え、立て直しの計画をまくしたて、床に真平らになるほど土下座して主に取り入り、立て直しの資金を得て、瞬く間に家運を盛り返した。
 それほどのパワーを自他共に認めたためか、今は天羽郡の天地は自分には狭苦しいとばかり国府への進出を考えているようであるが、しかし彼の代になって五年、具体的にこれといった「成果」は出ていなかった。客観的に見て国府に出てまあまあ大きな顔をするなら今の十倍程度の荘園の主にならなければ無理であるからである。

 ゴンゾと忍生は、数馬の大道を東に向かい、天羽家の薬師信仰の寺である東明寺を過ぎて、その隣の駅家の大きな門を見上げた。その堂々たる伽藍や築地塀を見ると自然に頭が下がりどうしてもうつむき加減になる。

 彼らはもちろん門から入れるわけではない。土塀をぐるっと回って裏の通用門から入ることになる。

 対面は、忍生たちが濡れ縁の下の庭に敷かれたむしろにすわり、縁を渡って来る直幸を待つという形である。
 しばらく待って、直幸が出てきた。忍生たちは平伏した。
「先だっての八幡宮への大石奉納に当たって我らに過分のご尽力をいただきありがとうござりました。本日はそのお礼言上に参上つかまつりましてござりまする」と、ゴンゾがしゃちほこばって平伏したまま挨拶をした。
「うむ。ごくろう」と直幸がいった。
「これは持参の手土産でござりまする。なにとぞ本日の酒の肴の端にお加えいただきたくお願い申しつかまつり・・・・・でござりまする」なれない口上にゴンゾが詰まった。


 ゴンゾ達が持ってきたのは、二尾の真鯛であった。頭から尾っぽまで三尺はあろうかと思われる鯛がヒノキの葉を敷き詰めた大きな盥に載っていた。
「おお、おお佐貫の衆の土産は剛毅なことよ」といって、直幸は、どっこらしょと、裸足のまま庭に降りてきて、忍生らと同じ筵にすわり、大鯛を片手でつかみあげる。
「これで釣り竿を担げば大黒様ですな。いやいやゴンゾさん、忍生さん、ありがたいことです。さっそく神にお供えして、直会で皆さんといただきましょうぞ。それ、皆の衆よ、こちらにござれ、こちらにござれ」
「味噌仕立てで戴けばよろしいかと・・・・・・・」とまどいながらゴンゾがぼそぼそというと、直幸がゴンゾの口真似をして、「味噌仕立てでいただければよろしいかと・・・ハッハッハッハあんたの努力は認めるが、合わねえ、合わねえ。地で行きましょう」


 ゴンゾ達は、直幸の前では、地でいいのだと了解して、以後、話がスムーズにできるようになった。忍生は、世の中にこういう形の偉い人もいるのかと感心した。彼なら話を聞いてもらえると思った。

 宴は面白いものになった。天羽直行は物まねのうまい人で、かがいの太鼓たたきや、口上祝詞の口真似、おまけに暗闇の中で催されるもろもろを実景を見るがごとくに演じてやんやの喝采を浴びた。
 同座しているのは八幡里の人々の他は、緒方氏、武石氏、三崎氏の若手の人々等であった。
 笑いで座が和んだ後、天羽直幸は忍生の先祖忍山の伝承話に興味を持った。特に白鳥珠と奥州とのかかわり、奥州と金と奈良の大仏のかかわりについて、忍生に何度も聞いて来た。


 忍生が思うに、直幸は白鳥珠や黄金そのものに興味はなく、これらの道具が田舎を中央政界に入り込むきっかけを作ってくれるもの、もっと端的に言えば、これらの道具を自分が使えば、中央に向かって物申す何事かが出来るのでは、という期待からくる興味ではないかと思えた。
 忍生が計画する白鳥珠探査に天羽直幸の配下の緒方常春、武石常重、三崎頼常の三人が入ることになった。いずれも各家の次三男、五男などの若手面々である。
 この時代、天羽直幸の本来の身分ではどんなに略式であると言い訳をいっても、人前に出るからには立烏帽子に狩衣か水干、手には扇が常識なのだが、今日の天羽直幸は、萎烏帽子に小袖と指貫、手ぶらであった。これは最下層の人々の労働着に変わらない。しかしそれなのに着ている着物の生地は絹、染は高貴色と言われた紫であった。

 天羽直幸は「上総、下総は奈良朝の昔から奥州征伐に大いに活躍したが、その割に報われていない」といった。
「忍生さんの先祖とかかわりのある百済王氏が活躍したころも鎮守将軍が何人も出た。しかし、騒乱が一段落すると、我らの先祖たちに与えられたのは進駐という奥州各地への移住と、胆沢城などの建設に動員されただけだった。」
「白鳥珠の「珠」は真珠の意味だと思うが、この海の宝は我が上総に縁が深い。大昔の話に伊甚国造が朝廷に珠を奉納する時、こともあろうに国造が後宮に入り込んでスッタモンダしたとか、そもそも上総の一宮は珠前神社であるし、ここ須惠の地には珠名媛伝説もある。女に縁がある。たまはたまでも、おとこの玉じゃねえ。「珠」だ。」


「女といえば、わしが郡司になりたての頃、国府で朝賀の儀式があるからといって、報せが来たので行って見た。大金を出して与えられたのは白洲の一番隅っこに座らせられた。それっきり。茶など出るわけもねえ。うんでもなければすんでもない。ただすわっているだけ。何の用事もねえ。やがて儀式がおわったのか、三々五々と人が出てくる。そのうち女官の一群が来やがった。そいつらがわしを見るとおこめすがたの娘っこらしいのが、くさいといわんばかりに口に扇を当てて通り過ぎる。こっちは平伏して見送る体さ。その時、後ろの婆ばあが、ここは浜の松風がおそろしいとか、上総はつくづくいやだとか、一日も早く都に帰りたいとか、帰京を一心に薬師様に願かけている、と、ぼそぼそいうのが聞こえてきた。わしはぶっとんだね」


「そんなにいやなら今帰れ。あんたらに食わすめしはねえ。そこの婆ばあ、そこの娘っこ、ここへきてもう一度言って見ろ。扇子で口をおおってみろ!といった。」
「女官たちは、聞こえぬふり、見えぬふりで逃げて行った。その後わんわわんわと国府中が大騒ぎさ。挙句、下司の分際で何事か、ということでわしは出入り禁止だ。」
「まあ、冷静になって考えれば、ああゆうことを許す我らがだらしねえのさ。反省してみねえな。ゴンゾさんよ、忍生さんはどうか知らんが、あんたら漁に行って、魚を取ったらそれでおしまい。あとは酒をくらってばくちをやって寝てるだけじゃねえのか。その間、女共は朝から晩まで漁の下準備から、獲物の作りこみ、売り込み、運搬、その他雑用と言われる一切のことをやって、おまけに飯を作って子供を産んで、働いて働いて働いて真っ黒になって働いて、愚痴を言って婆さんになって死んでいく。そして、その子供らがまた同じことをやって死んでいく。」


「それでいいというやつはいいが、わしはいやだね。わしはここに都を作りたい。都を作って、ここいらの娘たちに絹の着物を着せてやって、国府の連中をぎゃふんと言わせたい。」
「郡司様の言われることはよっくわかりましたが、そんなことが出来るんでしょうか。我らは、蓄えを租庸調でみんな持って行かれて、だから貧乏じゃねえんだろうか、と思っているのですが・・・・・。あなた様は国府から宝を取り戻すとか早い話謀反を起こしてとかそういうことで村の富を増やすということでしょうか。」


「そうじゃねえ。あんたのいうことは、それはわしらの先祖の平将門様が考えられた方法よ。そうじゃねえ。我らの働き方、もっとはっきり言うと、皆の日々の暮らしの時間割を考えろということだよ。」
天羽直幸の助言は、天候と、求めに従って、漁や、運搬、日雇い、小作などの生業を行き当たりばったりにやっていた中に、「白鳥珠探査」の仕事を入れ込めということであった。ひまが出来たから道楽の白鳥珠に当たるかということではなく、暇を作って、計画を作って、日程を決めてやれ、ばくちをやる暇があったら、白鳥珠をさがすやり方を考えろということであった。


 忍生は、白鳥珠を探す行動そのものが、「娘たちに絹の着物を着せる結論になる」という直幸の話は半信半疑であったが、これで村の中で「白鳥珠探査」が一つの仕事として成り立つのだとうれしく思った。

          小説「上総岩富寺縁起」その2に続く