大佐和の古写真その2

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 意気上がる農業

 昭和15年。写真の中の看板に「生産拡充実地指導地」との文字があります。場所は大貫吉野の田の草地蔵近くです。毛沢東の大躍進モデル地区のようなもののキャンペーン用に撮られたプロの写真と思われます。


 干してある稲藁のボリューム、赤ん坊おくるみの小綺麗さ、足が長く華奢で格好がいい馬など脚色がうかがえますが「農」が産業の根幹だった時代の息吹意気込みが感じられます。

 佐貫宝竜寺地区の農業用水竣工記念の写真2枚です。上が染川からの用水ポンプ場、下が用水暗渠の完成記念です。関東大震災後の大正時代と思われます。

 昭和初期「金カボチャ献上」の写真です。千種新田保坂金五郎家の畑でとれたカボチャを宮内省に献上する時の記念写真です。竹カゴに入れて白布に包み2カゴ、大貫駅から東京まで列車で羽織袴の当主が持って行ったそうです。


 毎年お返しとして金杯がいただけたから「金カボチャ」と通称されたとのことですが、当主の名前(屋号)から来た呼び名なのかも知れません。

 終戦直後。開墾畑でのスナップです。場所は大貫地区。母子共に田舎の人ではないような垢抜けた雰囲気があります。あるいは東京から疎開してきて馴れない鍬を持っての素人お百姓さんかも知れません。朝の連ドラの一場面のような写真です。

 日本郵船常陸丸殉難碑と第一海堡

 第一次世界大戦(1914~18)中、インド洋でドイツ海軍から攻撃を受け撃沈された、日本郵船の常陸丸の殉難碑です。千種新田満願寺に現在もあります。当地出身で乗船していて遭難した保坂兼吉さんを顕彰したものです。今でいう社葬です。大正6年の写真です。左上の白い部分は藁屋根です。

 富津岬沖に浮かぶ第一海堡の全体写真です。撮影は昭和20年代。この頃は干潮時には富津岬と陸続きになり、歩いて行けていました。第一海堡とその沖の第二海堡の住所は富津市地先です。海浜公園などとしての開発が望まれます。

 第一海堡から陸側を撮ったものです。長い洲がうねりながら富津岬先端に着岸していることが解ります。向かって右側は浦賀水道で波頭が白く立っています。左側は東京湾で波が静かです。洲の右側はカジメなどの海藻があげられていて黒い帯になっています。奥に見えるのは三舟山です。

 

 参考に、富津市を代表する景観を紹介します。海に浮かぶ島の右が第一海堡、左に浮かぶのが第二海堡です。第三海堡も昔はあったのですが、撤去されています。富士山の右下に緑濃い山が見えますが、夏島です。今は埋め立て地の工場の中の丘になっています。縄文遺跡があります。

 夕暮れに浮かぶ第一海堡です。シルエットだけですと前方後円墳のようにみえます。(実体は長方形型です。)古墳なら仁徳天皇陵より大きい体積があります。

 新舞子新着古絵葉書

 以下、権利関係が不明なため、ファイル容量を小さくしてあります。

 八幡漁港。と、いっても港湾施設はなく、浜に船から網からすべて展開しています。しかし、この整然さは何でしょうか。今もそうですが新舞子はゴミ漂着が多いところなのに、砂浜に貝殻、木片すらないのです。職場をトコトンきれいに保つ、本来の漁師精神を見る思いがします。


 手前の船は、へさきの形からおしょくり船と思われます。北斎の浮世絵に出て来ます。エンジンはついていず、中央部船底は生け簀になっています。四丁から八丁の櫓と帆走を併用して江戸(東京)まで高級魚を生きたまま運んだ訳です。

 一番奥の船2艘は五大力船に見えます。八幡の古老の判定では、エンジンのない頃の漁船で、場所は染川河口により近いところで、「つながり」という海岸ではないかと言うことです。写真は大正時代にさかのぼるかも知れません。


 手前の草花を見てみましょう。基本的にコウボウムギ、ハマヒルガオもあるように見えます。急勾配部分に黒く見える葉は、ハマゴウ(浜香、ハマハイともいう)か?。7月に小さな紫色の花が咲き、葉にはすがすがしい芳香があります。今も新舞子にはあります。

 逆さ松です。笹毛海岸波切り不動尊そばの崖です。松がしがみついている地層は波切り不動尊層と言いまして、佐貫層より新しい地層です。乱堆積(水中崖崩れ)によって出来た地層です。

 新舞子鳥居崎です。逆光に打ち勝って鳥居の木肌まで表現しているきれいな写真です。


 双丘の、この、木が非常に少ない表情は、年号が明治から大正に代わる頃、当地方を2~3回襲った風台風(神野寺の門が倒壊し、多くの杉の巨木が倒れ、海岸には高潮が襲いかかった)の爪痕ではないかという気がしています。

 同じく鳥居崎ですが、海の方から撮ったものです。左の一段低いところに涼み台(見晴らし台)があります。ここは本来漁師が出漁に当たって気象状況を最終判断するための見晴らし台だったようです。


 見晴台建物の右に、草の中に白い岩が見えますが、その隣の石組みは江戸時代に作られた灯明台です。灯台の役目を担っていたもので、現在もほぼそのまま残っています。写真を拡大して下に載せます。

 八幡の鳥居崎は小さいながら歴史文書に記録が残っています。

 まずは延宝2年(1674)の申寅日記。水戸黄門で知られる徳川光圀が、水戸から江戸への帰参の旅を曲げて、下総上総を通り鎌倉に抜ける紀行文です。

 姉ヶ崎から木更津、須惠から天羽に行く途中、佐貫城下から八幡の海に遊び、海伝いに上総湊に抜けたと思われる道の中で、「佐貫村に至る。此より松平山城守重治が領地なり。此処に出船入り船の岩あり。ふっと村より、向地の相州等よく見ゆ。この地の洲崎より海の中へ出洲あり。上方二里半ほど出づるなり。」とあり、「出船入り船の岩」とは鳥居崎の双丘を指しているものと思われます。まさに上の写真の見晴らし台から黄門様は観音崎や富津岬を見晴らしたのでしょう。

 次に、天保3年(1832)の「上総日記」。幕府同心御鷹匠の片山賢の上総紀行文です。

 10月26日は早朝から夜まで、1日で駆け回ったのは、常代を基点に小久保、佐貫、湊、金谷に行って日本寺を参拝し、常代に帰る旅でした。

 片山賢は数人で深夜に常代を立ち、夜の明けぬ間に小久保から浜伝いに佐貫に行って、染川の河口では、案内してきた小久保の住人に金を出しておんぶして渡った時に夜が明けたと記している。「ここに八幡の村といへる所とて松山あり、行き先はなお山高うて屏風を立てたるやうに、いつのほどかまろび落ちけむ、大きなる磐ども、ところどころにうずくみたるやうにてあるに波の先のはしりきて道をふたげば磐のうえをとびとび行所もあり。」と書いてある。ここで「松山」とはあきらかに鳥居崎をさしていて、その先の磐が転がっている浜の様子は長浜をさしているように思えます。

 片山賢は、金谷からの帰りにも長浜から八幡に戻り、八幡の村を通って佐貫城下に行き、ここから鹿野山道を通って宮下、常代に帰ったようです。

 さて、時代は昭和に至り、ここで鳥居崎での女子会を紹介します。

 まずは昭和27年に撮影したカラー写真です。おそらく富津市内の景観をカラーで捉えられた最初だと思われます。上の古写真の頂上部から見晴らし台を撮ったものと思われます。松林の見事なこと限りありません。詳しく見ると、女性の何人かは下駄履きですよ。400年前ここに水戸の御老公が立ったこと、そしてここに写っている女性達が今は百才に近いであろうことを考えると感慨深いものがあります。

 次は昭和28年に撮影したものです。鳥居の坂を海に向かって歩いている状況です。右の崖から覆い被さってくる松が印象的です。

 ただ、この写真、中央と左端の女性のスカートはキュロットスカートのようです。キュロットが紹介(おそらく暮らしの手帖?)されたのは、どうさかのぼっても昭和35年あたりが限界で、さらにソックスの折りたたみ処理もその年代ですので、そうするとこの写真はもう少し後かも知れません。(鳥居が木製ですから昭和35年より前であることは確かです。)


 鳥居崎の現在はヤブツバキの林になってしまい眺望が遮られている状態です。

 

 学校、講習会の古写真

 大貫海岸で、木更津二高(現木更津東高)の女生徒達。昭和27年5月の撮影です。この当時、制服ではありません。背の高い草が生えてなく砂がきれいで、砂丘の傾斜が大きいですね。

 一色・障子谷の農繁期の臨時託児所です。昭和11年、食糧増産運動(現代だと「一億総活躍社会運動、地方創成、女性進出」などなど)の一環の事業なのでしょう。現代ならさしずめ「保育所落ちた日本死ね」に答える事業です。

 佐貫小高等科の団体訓練。青年学校の機銃などの訓練と違って、起立・行進敬礼などのごく初歩的な訓練のようです。昭和16年頃の撮影です。背後の崖は、昭和8年に、在郷軍人会の勤労奉仕で校庭拡張を行った時に削られたものです。城郭研究書では、この辺まで佐貫城と言うことになっていますが、この崖は佐貫城の遺構ではなく、昭和の遺構です。

 本来の地形は日月神社まで痩せ山の尾根が伸びていて、校庭の拡張工事は亀城(佐貫城の別称)の首を切る行為だと反対する向きがあったようです。

 大貫高校(現君津商業高)の購買部風景です。森永キャラメルが20円。10円のキャラメルもあります。リンゴ、せんべい、ちょっと漢字が読みづらいのですが、おそらく飴6個で10円。駄菓子屋のラインナップです。商業を学ぶ学習の一環でしょうか。昭和27年の写真です。この学校は君商時代になりますと、株式運用シュミレーション等もやっていてなかなかいい教育をやっています。

 駒山小学校卒業写真です。大正15年3月撮影。明治38年に岩本村、志駒村、山中村が合併して駒山村となったところです。ところで写真の6年生、特に男子が随分幼いですね。

 干し柿作りの実習でしょうか。学童の服装から判断して大正時代か昭和一桁ころと思われます。場所は吉野地区。廃屋を干し柿倉庫にしたようで、よく見ると座敷一杯に柿が転がっている雰囲気があります。

 現代では、温暖化のためこの地方での干し柿作りは出来ません。カビが生えてしまいます。

 それにしても羽織袴で干し柿作りとは解せません。百年くらいたつと当時の常識が解らないため意味不明となります。

 意味不明な写真といえば、これも解らない写真です。「有限責任吉野信用購買組合」とは何か。金融関係の組合かと思われますが、大正15年当時の商業・金融が解らないとどうにもなりません。また、「公道」とは何か、広辞苑など一般的な辞書には出ていません。楠木正成の楠公、加藤清正の清正公、光圀公など○○公と称される歴史上の人物の事績講習ではTPOがそぐわないし、今風にいえば遵法、コンプライアンス講習会とかなのでしょうか?

 昭和21年8月新舞子海岸にて、「佐貫夏期大学」講師陣と、手前に坐っている人たちは主催運営した佐貫の若者達です。

 講師陣は、政治学の蝋山政道氏、仏教学の花山信勝氏、経済学の高橋亀吉氏、哲学の金子武蔵氏等々、現在に至っても記憶され続けているそうそうたる人たちです。上の写真の中にこれらの人たちも見えるはずです。

 戦後のGHQ主導による軍国主義否定、民主化運動の一環で行われたものでしょうが、一流人でうるさ型の人々をどう説得して田舎の無名の町、佐貫町に連れてきたのか、しかも終戦後1年という早い時期にであることを考えると、その企画実行能力には驚くべきものがあります。

 佐貫夏期大学は1回切りの開催で、以後は苅込碩哉さんと地元企業の社長の共催による「大貫夏期大学」となります。