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磯根ハマヒルガオの「グリーンネットふっつ」

 

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 「グリーンネットふっつ」は磯根岬の海岸清掃とハマヒルガオの復元を主な活動としてやってきましたが同時進行で、郷土の先駆者苅込碩哉の著述・講演などの足跡記録、収集が2千点を越えた地域の古写真復元などもやっています。

 さらに、郷土史の掘り起こしとして、ずさんな石組みにはわけがある弁天山古墳、古代人の住居ではない絹横穴古墳群、運慶作かも知れない道場寺の宝冠阿弥陀像、江戸時代初期には天守閣があった佐貫城、富津市全域に広がっている富士信仰を中心にした富津の石造物や、富津の最古寺の一つであり鎌倉新仏教(西大寺流真言律宗)をいち早く取り入れたように見える岩富寺、幻の上総安国寺、古式の神社建築を昭和時代まで引き継いできた鶴峯八幡宮などを紹介していきます。

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           最終更新日 2024.03.24

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      「付け句平成令和解読合戦」も厳島神社奉納前句額の復元のページに移りました。

久しぶりに佐貫城の近況報告  いしずえ会による竹林撤去が進んで新発見続々

 城郭研究家である小高さんの佐貫城図です。竹林を伐採するといういしずえ会の努力で佐貫城はずいぶん変わりました。そこで竹林を刈った後と前とどれほどの差があるかをお見せします。

 今回行くのは、上の佐貫城図の中央付近ギリシャ数字Ⅱと書かれた下あたり、自然地形のような凹んだ3段の土地で一番下は道路に面して民家のようなものがあるように描かれた部分です。足場が悪く面積も広いとなるとボランティアでは手が出なかったこの部分は幸いにも民家の人からの苦情で富津市による竹木の伐採があり、その結果落差も広さも大きな桝形門が現れたところと、次に、Ⅰ郭とⅡ郭の間の土橋から西方向の空堀の竹木伐採の前と後を紹介します。これはいしずえ会が伐採したものです。最後にⅠ郭の西切岸=本丸の西側の崖=です。この部分は平成29年の大嵐によって杉が大部減ったことによる効果です。

 垂直切岸は本来佐貫城跡で一番凄い場所で、最良のフォトスポットであるべき所です。高さ12m、長さ200mの垂直大切岸です。それが終戦後にその西側下の帯郭に杉の植林がなされそのため切岸が良く見えなくなってしまったのです。ところがコロナ禍前の平成29年の大嵐で杉が選択的に倒されたため視界が良くなり、切岸の写真が撮れるようになりました。その迫力美をお見せします。

牛蒡谷門の桝形

 牛蒡谷門の今年3月3日の情景です。また竹がはびこり出して何となくだらっとした自然地形のように見えますが、ただしこれでもましな方で、ちょっと前まで地面がずっと下がっていることすら解らなかった。ただ竹、竹、竹しか見えなかったのです。

 市による竹木伐採直後の情景です。垂直壁で直線台形型の土地、その落差は10mが2段ということになります。関ヶ原前哨戦の真田氏との合戦で苦杯をなめた内藤氏あたりの造作かと思われます。現在民家があるあたりには立派な長屋門と「うるづ石」の石垣があったことでしょう。

土橋周辺

 竹木の伐採が終わった二の丸=本丸間の空堀です。二の丸側のまっすぐな構造が印象的です。この東側への延長の二の丸側空堀壁もまっすぐで、その東端は垂直に切っています。これも竹木伐採で解ったことです。

「佐貫城は土橋土盛以外は自然地形を利用して造ったもので築城の工数(作業量)は少ない」とはどなたかの説ですが、この空堀は畝堀で、畝の一つ一つは土盛りでなく、くり抜きである、すなわち岩をところどころ1m位の厚さで削り残して本丸との最大落差10m近い形にしたものです。堀底は天神郭先端部分で2mまで上がりますが、土橋近辺では10mまで下がります。要するにどんなに大雨が降っても写真中央にU字に見える堀終点から水が滝のように流れ出ることはない。だいたい多くの城の空堀は何となく終わっていますが、これは堀を進入路と考える攻め手から有利となります。佐貫城は何となく終わらせず、5m落差の崖として終わらせています。

 竹木伐採5年前の撮影です。これだと確かに建設工数が少ないように見えます。

 ではさきほど遠くに見えた空堀のU字終点のそこへ行って見ましょう。このまま、まっすぐ堀を進んで、伐採後なら進めますが、だからと行っても下に降りられませんので、また三の丸まで戻って二の丸の西端の水堀と畝堀のあるところを進んでいわゆる岩のプールの所に行き、そこから本丸天神廓の切岸の下を切岸沿いに松八幡までヤブ漕ぎしながら進みながら良い撮影スポットを探します。

凹面状にへこんだ図面の本丸切岸は本当に凹面状なのか

 最初の小高図面で、「横堀イ」と書いてあるその「横」字の上あたりに来ています。これから崖づたいにギリシャ数字Ⅳの所まで行きます。この写真で前の崖の上が松天神です。正面上の岩がない所が空堀の終点、右の崖は二の丸の最北端、下の渕があるプールのようなところが岩のプールです。大雨でもここに上から水が滝のように流れてくることはありません。岩のプールの左下は三の丸の北端部で、 プールから下に8mのところです。ここは佐貫城のヘソなのです。

ここから奥に(北に)崖づたいに進んで行きます。

 崖下に剥がれ落ちた砂が裾を引いて堆積しています。およそ崖の高さの3分の1くらいから堆積しています。その上を歩けば楽に進めそうですがこれがなかなか難しい。この場所は松天神の付け根部分です。

 奥に出っ張った、崩落の激しい部分が現れました。ここが本丸のどの部分か分かりませんが、出っ張りはここと、次の2箇所あり、2次曲線状の単純な湾曲ではありません。

 空中で下に伸ばした根が幹のようになり、太く長く水道の配管のように見えます。

 このあたりは本丸天守台だと思われます。ただ目印がないので実際のところは良くわかりません。

 切岸から離れて帯郭の西外れあたりから眺めますと本丸天守台付近の切岸の印象が変わります。ここだけ手前に幾何直線的に出っ張っていて、しかも高低差は12mくらいあります。手前の杉林が景観を如何に壊しているかが解ります。

 画面左上の方に終点の松八幡切岸が見えて来ました。このあたりになるとカメラで写る切岸は半分以下の高さになり、あとは樹木に隠れてしまいます。肉眼では土砂堆積した裾として見えるのですが、手入れなしの荒れた樹木が景観を単調なつまらないものにしてしまいます。

 松八幡が出っ張り開始する付け根部分です。岩に苔が生えているので印象が変わっていますが石質はずーっと一様です。

 ところで、切岸から見ると先に紹介した松天神は出っ張っていません。あれは松天神郭の左右を堀のように感じてしまうので半島状に突き出ているように思えるのです。

 松八幡の切岸にたどりつきました。

 地層の縞模様が水平ですので、これは鋸山や三浦半島の三浦層と言われる凝灰岩ではありません。分類としては砂岩です。三浦層は東京湾造盆運動によって北に沈み、南に隆起する褶曲を受けて地層が45度くらい傾いています。この切岸の地層は三浦層が土砂崩れを起こして海底に堆積したもので乱堆積というものです。三浦層が砕けて砂になってそれがまた堆積して岩になった、石になっていない若い地層といった所でしょうか。(物語は十万年・百万年単位の進行を一行で語っていることを承知置き下さい。)

 乱堆積層は場所によって様子がずいぶん違います。所によっては5×5×5mくらいの岩塊が天地を逆さまにゴロッと転がっていてジグソーパズルのように隙間なく組み込まれている場所もあります。(学問的には偽層といいます)

 まだ紹介できない竹林にうずもれた景観として、本丸東側の状況、二の丸・三の丸間の水掘、それに並行した岩のプールの連鎖構造、そして本丸西の切岸下の帯郭状況、そして三の丸北端から西に伸びる
大空堀があります。

 最後の大空堀は小田原城総構えの大空堀のようなものと長らく想定していたのですが、このごろ佐貫では牛蒡谷門の形ではないかと思ったりしています。とにかく西側は竹木の他に表土を取り除かないと形が見えて来ないかも知れません。

 佐貫城は土盛りでなく岩を削って作ったものです。設計の基本は、まっすぐ、直角、垂直の桝型で、鎌倉極楽寺近くの山の中にある一升桝遺跡、佐貫城のすぐ北の岩富寺の骨堂跡などに似ています。

佐貫城の範囲外の所にも新発見 これも竹林撤去のおかげ
 

 画像は、佐貫城研究の小高さんのものです。今回は今まで佐貫城の範囲でないとされていた部分を中心に紹介して行きます。この10年のいしずえ会のたゆみない努力が実って竹ヤブや倒木が整理されていろいろなものが見えて来ました。

 まず案内するのは上図で小和田谷と柳谷の間に出っ張った半島状の所、次に産所谷の文字の左上でギリシャ数字Ⅳとあるあたりです。因みに「谷」は「ヤツ」と読んで下さい。例えば「サンジョヤツ」、 「クロベヤツ」などなどです。鎌倉風の読み方なのです、富津だけ昔からです。


 数年前初めて行った時の感動で「馬の背」と名付けました。幅2mくらいある半島頂上はなぜか下草も孟宗竹も木々も生えず一見どこかの公園の散歩道のようです。長さはざっくり百メートル。
 ここで、右側北に孟宗竹、左側南にナラ・ツバキの樹相を覚えておきましょう。

 似たような半島ですが左右の樹相が逆で、半島は30m位しかない。2年ぶりに馬の背に来たのに馬の背が変わってしまった・・・・・。種明かしをしますと、佐貫城のヤブ漕ぎになれている自分だったのですが、実は道を間違えてここに紛れ込んだのでした。そこで新発見「仔馬の背」と名付けました。
 実際の位置は最初地図で長く張り出た半島の右の付け根から約1/3長さの半島が出ていてこれが仔馬の背なのでした。樹海でない樹竹林海でもその視界の圧迫感から特に方角感覚が狂います。

 佐貫城ファンなら昔からおなじみの本丸松八幡郭の切岸(人工崖)です。今回案内するのはこの画面の左奥にある、小高さんいわくⅣ郭部分です。

 この写真では、前の写真の切岸は左奥になります。ここは佐貫城搦め手で、堀切構造です。これから行くⅣ郭はこの写真の右上です。今までⅣ郭は竹林に覆われていて何も見えなかったのですが、いしずえ会が竹藪を刈ってみたら・・・・・。

 水甕とその奥に井戸が出て来ました。搦め手を守る門番の番所か何かの建物が立っていたのではないかと考えられるのですが、ここから東側4m下がった平地には結構広い池(堰)が出てきたのです。

 手前に里の田んぼへの給水溝(岩を内幅50cm、深さ60cmくらい垂直にくり抜いて、水止め用の上下に動く石の板がついている)があります。奥の池は幅6m、長さ20mくらいの大きさです。ここは東に口を開いている産所谷(サンジョヤツ)の一番奥にあたります。

 造りは丁寧だが規模から見て実用になるほどの用水が得られるか疑問です。この上の井戸と水甕と云い谷津田開発の祭祀施設ではないか、常陸風土記にいう「草木が喋り、悪い蛇の神が跋扈する世界に倭武天皇が訪れて諸々の悪霊や神々を鎮めて豊かで平和な国を創った」テーマパークではないか。佐貫城が出来るはるか昔にこれらは出来ていたのではないか、武田、里見はこれを利用して搦め手施設にしたのではないか・・・・・・。と、妄想が広がります。

 この池から西に2段上がり、更に西の風よけの土手を上がったその先はどうなっているかと言いますと、それがこれからお見せする大切岸です。先にお見せした松八幡の切岸など話にならないほどの大きさです。

 丁寧に見れば垂直切り岸が奥まで続いていることが分かります。長さは100m、高さは12m 。この切り岸の上は四の丸の平場かと思いきや、岩の裏側は5mほどですぐに垂直に下がって、あの井戸と水甕の平場、それから4m下がって池と給水溝となる構造です。まったくあっけない構造です。それに比べてこの仰々しい切り岸は何の目的か?

 この先、切り岸が終わる所まで行ってみるとまた面白いものが見つかりました。

 高さ120cm、幅60cmくらいの垂直に切られたトンネルです。トンネルが終わった左手前にコンク リート造りの蓋板が見つかりますので明治後の作りかとも見えるのですが、目的が分かりません。案外にひょっとして昔のもので、この奥には里見の埋蔵金があるかもしれません。

 この先は、小高図でいうⅥ郭の方向です。竹藪状況や樹木をざっくり観察するに尾根伝いでなら、上宿と黒部谷の間にあるⅥ郭まで行けるし、そこまで行ければ陣場谷の入り口にあるⅤ郭に行けます。これらは城構造のようなものを作ったあとは人跡が絶えて単なる里山として存在していただけですので竹藪を刈って見るというそれだけで房総史を覆す新発見があるかもしれません。

 

砲台と富津・大坪・竹岡そしてある會津人の記録

 本当は「ある明治人の記録」です。富津市と會津がどう結びつくのでしょうか。

 幕末、富津岬の付け根に作られた會津藩の砲台狼煙上げテスト風景図です。

 手前の大砲の絵を見ると移動用の小さな車輪が付いていますが、発射時は頑丈な筒受けで爆発反力を支えるタイプの家康時代と変わらないもののように見えます。富津岬の幅が狭すぎます。実際はこの20倍くらいです。會津の旗の地色が赤ですが、後で出て来る遠泳図では紺で、新撰組と提携した京都守護職の旗は白だったか。幕末の會津藩は日本各地で大活躍したわけですが役職で旗の色を分けていたのでしょうか。
 でも武士の服装は京都守護職と同じ羽織袴二刀差し、駕篭にお伴の担ぎ箱などこれらは大砲とどうもちぐはぐです。

 船は、富津の記録に押し送り船を徴用したとあり、その通り形は正確に描かれています。押し送り船とは鮮魚を高速で運搬するもので、生け簀付き七丁艪、帆走併用の早船(軍船)が原型で、里見水軍から始まって富津市域特に八幡で発展した船だと、当HPの管理者は考えています。

 ちなみに、ここに長期出張していた會津藩の武士の一人に柴左多蔵がいました。戊辰戦争になっても帰れず、そのため會津城下に残っていた祖母妻娘達が自害して果て、生き残ったのは、たまたま出張中従軍中または幼すぎで田舎に預けられていた男の子の家族の男共だった。この中の末の男の子が後の明治20年代、第一次大戦、日露戦争前の世界で活躍し世界史を変えた働きをしました。このはなしはまた後で・・・・・・

 こちらは富津と同時期に佐貫の阿部藩が作ったものです。沖合の景色、右から富津岬(樹木特に松は昭和30年代昭和天皇のお手植えから始まったもの。幕末の当時は砂山)、猿島、浦賀です。

 左対岸は奥から、鋸山、竹岡、その手前の八幡浜(新舞子)は省略されてしまった。遠景のため砲台部分の構造や人の服装はよく分からない。富津と大坪は運用はそれぞれ勝手にやっていて連携はない。大坪の南の竹岡には富津と同じく會津の陣屋があって(砲台はない。将来計画だったか)、會津の訓練の一環で富津から竹岡までの遠泳が試みられたことがあった。

 竹岡三柱神社に残る(現在は千葉県立中央博物館蔵)奉納額です。左に海中に豆粒のような泳いでいる人三人とその人の名前。會津の旗は紺の地色。船での旗の位置は水押し(みおし)のこちらが正しいかと。富津陣屋の船は旗竿が胴間の真ん中ですが、これでは櫓漕ぎその他で邪魔ですね。替わりにと云っては何ですが、押し送り船の幅が広すぎてスマートでない。

 會津は山国ですから泳ぎなど苦手ではと思われがちですが、あにはからんや、水泳訓練用プールの建設は日本では會津藩が最初だそうです。ただ、船の揺れには弱かったかも知れません。この辺は武士道で耐えたかも。

 そして絵には描かれていませんが富津、大坪(新舞子)、竹岡と南が開いた海辺では、太陽が南中する頃から途方もないキラキラ海となります。

 地理条件から云うと、三浦半島の三浦海岸や浦賀燈明堂海岸は確かにこの写真のようになっていました(10月2日見学)が、光りの粒がよく言えば上品で小さい感じがしました。波が弱いのです。むしろ鎌倉の方が富津に近いか?

 つい昨日の話ですが、youtube、予告編二分間の「避暑地の出来事」(1959)見ていて気付いたのはあれはカラー作品なのですね。上の写真のようなカリフォルニア(?)の海辺景色ばかりでした。

 八幡のキラキラを詠んだ句三つ。ただ、真ん中の句は大坪砲の台の東側の坂下(崖下)に住む老人が詠んだものです。

   花の海性根の日の本デク翁

   余し者 命 酒 崖 前の家

   橋濡らし天羽さえ光る砲の台

 さて、柴五郎の話です。一般的に読むことが出来る本は「黄砂の籠城」(松岡圭祐)だけです。義和団事件など世界史の教科書では数行でかたづけられ、連合軍の兵隊が並んで写っている右端にひときわ小柄で貧相な日本兵ということで自虐の好きな日本人の格好のえさになりそうな配置です。それが蓋を開けてみれば55日の籠城を戦い抜き、外交官やその家族を守り抜き、援軍(日本軍が一番早かった)が到着する前に、守るだけでなく自ら提案し実行した攻撃作戦で、戦局を大逆転させた立役者が柴五郎なのです。

 この小説を読んで感じるのは、世界史のプレーヤーはバイプレーヤーを含めて百三十年前も今もそれぞれの性格を含めてほとんど変わらないのだなということです。内在する人種差別主義者の米欧各国もそうですが、帝政から共産主義、そしてその崩壊から、帝政へと回帰するロシアや、古代型帝国清国から、孫文革命、国共内戦から毛沢東暴走、そして古代回帰していく中国。そんな中で、戦争に一回だけ負けて腰が折れて先人を罵倒し先祖のせいで戦がやってきたと被害者面に成り下がり、公につくすことを蛇蝎の如く嫌い、ヘラヘラしながら不都合すべてに目をそらし、国と市民を分け、自分は市民であるからと国が理不尽にそしられても何も言わず、トランジスタのセールスマンと言われ、国民を拉致されても逮捕されても何も出来ず、目立たず、提案せず、で今日まで来ていますが、これは、日本人に柴五郎のような人が居なくなったのではなく、そう言う人を日本人がリーダーとして選ばなくなったということにつきます。我々今の後期高齢者団塊世代が絶えれば一瞬でコロッと変わるのではないか。なお、柴五郎の見かけや対面しての印象は今時の日本人と変わりないはずです。目立ち屋でなく調子よい人でなく無口で自慢せず謙虚過ぎる人です。

 柴五郎は国際語(仏語中心)が出来るさむらいなのです。英語のしゃべれるさむらい精神は今でも、今こそ明日の世界のために有用な人材です。上の三句を英語に翻訳出来れば英語力としては合格です。あとはさむらい精神なのですが・・・・・  

2023夏のスーパームーン

 先陣を切って登場は8月18日の日の出前5:00頃に出現した、新舞子の海上から海上にアーチをつないだ虹です。海岸で見た人に言わせると外側に細い円弧がある2重の虹だったとのこと。

 次が西の大関、今年のスーパームーン(を1日過ぎたムーン)の月です。正確に言えば9月1日午前3:00頃、新舞子鳥居崎から海岸を見下ろした映像です。

 晩夏のため虫の音も少なく、また特別な花の香りもありませんでした。まったく無風で潮騒も小さかったです。対岸の光りは横浜方面が赤っぽくなっている以外は半年前の月食後の時の情景と変わりありませんでした。

 海面の視野が狭まると海全体が光っているように見えますが、実は縦帯状に光っているだけです。

 そしてひとり横綱は9月1日正午頃の新舞子、光りの乱舞です。花の海と称して、新舞子八幡の人々が愛してやまない景色です。「花うみ庄子日本丁久翁」意訳すると「この花のような海はひのもとの根源である。そんな土地に生まれたのに何事もなすことなくただ老いさらばえた自分」=「花の海性根のひのもとデク翁」=墨書は当て字でしかも丁字の縦棒が極めて細く、一見すると日本一の花の海と読めるのがみそである。200年前の奉納川柳です。

 

2023ハマヒルガオ通信

富津下洲海岸

 ハマヒルガオの密度が年々濃くなっています。2011年の津波遡上で1ケ月以上海水が溜まっていた砂原にも近年ようやくハマヒルガオが咲き出しました。卯波がきれいです。


磯根海岸

 4年間くらいオニシバとハマボウフウに占拠されていた中央砂丘にハマヒルガオがようやく戻ってきました。平成26年頃の10%程度ですが、ハマヒルガオの丘と言ってさしつかえない状況です。

 このコロナ禍では2年間立ち入り禁止となり、グリーンネットも高齢化とあいまって海岸掃除はストップしたままですが自然はオニシバを後退させハマヒルガオを再び前進させました。

 隣接した中央突堤部分のハマヒルガオです。1枚目の写真の中央砂丘も昔はこのような密生したコロニーが広がっていたのです。磯根のハマヒルガオは密生することと葉の緑と花のピンクが濃いのが特徴です。花も大きいです。

 これを採集して家の庭に持っていくと簡単に根付き、花も咲き、密生しますが、花は小さく色も淡くて、しかも結実しません。

新舞子海岸

 重機によって攪乱して、3年目にハマヒルガオの群生となっています。新舞子は面積は小さいですがこのような群生のハマヒルガオが多く見られるようになりました。以前は波打ち際の土手の斜面などにハマヒルガオのかたまりがあるのみで背後の砂丘はオニシバとハマボウフウが主体でした。(あと、新舞子特徴としてハマゴウとコラボでハマヒルガオ、コマツヨイグサ。)

 卯波の中疾走するウインドウサーフィンです。海岸にゴミが多いのは、この3年間、地区の一斉ゴミゼロ運動がされなかったためです。今年は5月28日に行われました。東京や我孫子から来られた方もいらっしゃいました。

 新舞子鳥居崎の密林の中に残っている灯明台です。江戸時代一杯から明治5年まで対岸の浦賀の行灯型灯明台とペアで江戸湾(東京湾)の入口の目印として点し続けられたものです。明治5年に観音崎灯台にバトンタッチして役目を終えました。

上総湊海岸

 波打ち際から砂丘になるその斜面に広がったハマヒルガオです。この付近もつい数年前まではオニシバとハマボウフウが密生していたところです。

 波打ち際から離れた丘の上、海浜公園近くで、3年前まで、波よけブロックが仮置きされていた跡地です。3年目になってハマヒルガオが咲き出しました。

 上総湊海岸名物の階段ハマヒルガオです。時期が過ぎて背の高い植物があって見栄えしないです。これを発見したときはすべての階段に波及すると予想したのですが距離はあんまり伸びないです。

 

 以下は平成15年頃の投稿です。

復刻「鈴木真砂女を房州人が語る」

 ラジオ深夜便で最近、女流歌人、女流俳人の話が続きました。「母性」の河野裕子、「恋」の鈴木真砂女です。付け加えれば、それとテレビ番組ですが俳人金子兜太の奥さん。
 この中で、鈴木真砂女を中心に評論しようと思います。しかしこれらお三方についての知識、私はマスコミ報道で2,3の作品を知って、なかなかいいな、のレベルなのです。そんな者が評論もおこがましいと思うのですが、真砂女については、深夜便で、実の娘さん(本山可久子さん)の語りに合点の行く内容がいくつかあったこと、それと何より地元の者が言う点で、マスコミ論調の一般評論、丹羽文雄さん、瀬戸内寂聴さんなどとは違った見方を提示出来るのではと思います。

 なお、比較引用として、「女」を詠んだらこの人の織本花嬌(江戸時代の房州の人です)、与謝野晶子を論じます。 

「男怖じせぬ女、加茂姫、伊予姫、上総姫・・・・・」という梁塵秘抄に収録された今様が気になっています。西国(京近く)の2国(加茂は国ではないが)にポツンと遠国の上総がなぜ入ったかです。これは古事記、日本書紀、今昔物語などを出典にして、古来からその方面(どういう方面?)で上総姫の名が高かったのではと思ったりします。
 一般に坂東の女はビジアルな評判が芳しくないです。好色な相模女、カカア天下の上州女など。房州女はさらに悪く、そのイメージは、地引網を引く日焼けで真っ黒な女、魚の行商、中でも昭和五十年代まで生存していた海女芸者が画期です。白粉、口紅はどこの国の話だ、獅子頭のように金歯を光らせて何を間違えて芸者を志したかというイメージです。さらに口が悪い。「ろくに金もねーくせに、山だ、海だとちゃらちゃら遊びほうけて・・・」(つげ義春より引用。ただ、この「ちよじ」という娘、かわいい顔している。鈴木真砂女に1歩近づいている) 

 鈴木真砂女の魅力の本質はこの房州女のイメージから出発すると分かるような気がします。房州の景色と同じでちょっと歩くと「ドンと変わる」その驚きなのです。

 房州旅行者が、鴨川に来たとしましょう。どんなにひどいか、そのひどさ加減を大げさにして話の種にしようかと、海女芸者でも呼んで、翌日は海へ行ってと、それなりの心積もりで吉田屋旅館に到着し ます。女将が出てきて挨拶をします。客はここで「うーーーーん?」


 画像は、若かりし頃の鈴木真砂女。こんな女将に挨拶されたら、普通でも、おや!、おや!とこうなります。それに追加で海女芸者のマイナスイメージ分だけ落差を得するのです。身長140cm足らず、色白、小さな顔、熟れた桃のような唇、教養ありげな歯切れの良い東京弁、男怖じしない、核心をつく受け応え、きびきびと働く様、どんな男も立てる。女性にうぶな男にもさりげなく目をかけるしぐさ。これ出来る女将は少ないのでは?

 真砂女の作品分析に入る前に、ひとつ娘さんが本人に確認した話を紹介しておきます。「羅(うすもの)や人悲します恋をして」のように、真砂女の句には女の道を踏み外し、すまないと思いつつ、業、欲望に走り、その罪悪感がさらに情熱を加える、火宅だと、の、表現が多いのですが、「かあさん。ほんとに悪いことした、かんにんね、と思っているの?」「思ってないね。亭主にも、相手の家族にも」だそうです。世間へのあるイメージ効果をねらってそのために「人悲します」と作品に付けているようです。

 また、周りも案外と憎んだりたたいたり仕返ししたりするわけでなくなぜかその状態をけろっと受け入れるらしいのです。真砂女の人徳かも知れませんが、世間も同様で、特に房州では、働きさえすれば他は浮気でも何でも何をしても構わないといったところがありますので。

 彼女の人生は、騒ぎを予感して仕掛けるが結果はいつもあまり騒ぎにならないようなところがあります。だから、男に走って失踪して返されてきて、実家に入ったとき、亭主がたたき、よろよろと倒れこみ、それでも反抗的に・・・・とか、亭主が、夜に暴力的に迫ってくる、女房は必死に逃げるとか、寂聴さん好みのドロドロがどうも無いようなのです。何事もなかったように、だからといって凍るような冷たい風が吹いている(そよ風ぐらいは吹いただろうが)わけでもなく、生活が始まっているようなのです。こういうことになりますと、今度は亭主はどんな人間か、が気になりますが、正直に白状すれば私の見聞ではこういう例、そんなに珍しくない。九州あたりなら、なんとデレ助が、なんとダメ男が、いくら婿入りだからといってなんばしちょるとかとこうなると思うのですが。とにかく房州では、全国区のステレオタイプ的な、浮気した女房はパパンとたたき出す、が、美的な唯一の回答というのにはなりにくい土地柄かと思います。このこと正直でないと白状できないのは、それこそ、西国出身作家に西国的美意識が刷り込まれているからなのです。

 それはともかく、男を追っかけたあげくに戻った女房に、家出の褒美でもないだろうが、2カラットのダイヤの指輪をくれた亭主の心情は気になります。年が大部離れていたらしいので自分の後妻になってもらってと気の毒だと同情していた面もあったのでしょうか。しかし、現実の話は簡単で、娘さんのいう、「美人で気が利いていて、ぱきぱき働く、愛嬌がある女の人って、男の人は好きなんじゃないでしょうか。亭主(真砂女の2番目の亭主は、早く死んだ姉の婿で、義兄。昔よくあったパターン。この人は本山可久子さんの父ではない。可久子さんの父は真砂女の最初の亭主の慶応出の坊ちゃん)も、結局母が好きだったとこういうことでしょう」と、いうことで納得しました。

復刻「鈴木真砂女を房州人が語る」(2)

 画像は、真砂女若かりし頃、昭和10年代の現富津市域の芸者さんを呼んでの村の名士の花見風景です。長屋のハッツアン、クマサンの花見なら許せるが、これが維新後百年経過して磨かれた指導者、亜細亜の雄、坂の上に立った人、一等国を自負した人、その風俗を片田舎で真似した人の輝かしい成果です。維新浪士からけちょんけちょんにけなされた堕落した江戸時代の封建武士もここまでみっともなくはなかった。もっとも今の大河ドラマなどはこんな場面の連続ですから、経営最先端を行くと自負する会社の飲み会といったらこれですから、富津に限らず、今の時代に至るまで、これが指導者の全国平均レベルか?これが日本の民度か?

 これと先に紹介した真砂女の写真と比較してみてください。
 顔の美醜や着物の差はともかく、真砂女はこの美しくなさが耐えがたかったのではないでしょうか。
「女流」は自分の美しさを詠みます。「男流」は「どうだ俺は美しいだろう」とは詠みません。これ大きな違いです。しかし、真砂女は女流ですが、自分の美しさを詠んでいません。これは珍しいかもしれません。 

 与謝野晶子の「みだれ髪」の短歌は、「恋」に分類されますが、恋している自分を詠むことが多く、恋の相手はあまり出てきません。たしかに、万人が認める豪華さがありますが、本質的にナルシストでしかも表現が「男」の視点です。 

「わたしはこんなに美しい」を、シリーズで紹介します。
与謝野晶子
 髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
 その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
 乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き
河野裕子
 ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり
織本花嬌
 やうもなき髪とおもへば暑さかな
 名月や乳房くわへてゆびさして
 この中では河野裕子が劣るかも知れません。「けぶれるごとき」はあまりに男の視点で、しかも確立(=陳腐な)した表現、実態がかすんでいる表現です。この中では織本の句が一番女の視点が感じられます。男ではこれは発想できません。(貫之や定家は女の振りをして歌いましたが、おそらく織本の発想は出来ないと思います)


 真砂女を紹介したいのですが、残念ながら、真砂女にこの類の句がないのです。

 次に「恋しいあなたのしぐさ」を、シリーズで紹介します。
与謝野晶子
 細きわがうなじにあまる御手のべてささへたまへな帰る夜の神
 みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
河野裕子
 逆立ちしておまへがおれを眺めてたたった一度きりのあの夏のこと
 言ひかけて開きし唇(くち)の濡れおれば今しばしわれを娶らずにゐよ
鈴木真砂女
 すみれ野に罪あるごとく来て二人
 恋を得て蛍は闇に沈みけり
 死なうかと囁かれしは蛍の夜
 死ぬことを忘れてをりし心太(ところてん)
 口きいてくれず冬涛見てばかり 

 3句目、4句目は対で観賞ください。ところてん食ったら死にたくなくなちゃったのです。そんなに深刻ぶるなって、二人の逢瀬ぐらいで世の中はびくともしない。非難中傷は75日で終わる。と、いうことでしょうか。千葉の魚の行商のおばさんのど根性と同じです。
 

 次の画像は曼珠紗華、「女流」の恋の象徴、定番華です。非常に華奢に出来ていますので完形はなかなかお目にかかれません。特に今年は悪かった。しかし数年前のこの画像はいいです。
 

 さて話を戻して、この3人のうち、皆様は誰を好みますか?「いずれもすばらしく甲乙付けがたいのですが、・・・、いいえ、やはり、それは真砂女です。どうしても真砂女です」、とヘップバーンのお姫様ならいうと思うのですがどうでしょうか。特に「口きいてくれず・・・・」の世界は、荒井由実の歌の世界(「赤いスイートピー」正確には作曲だけ荒井由実。作詞は男の人でした)でが最初だったと思っていたのですがこちらが早いですね。女の視点があります。男の動きにかわいらしさがあります。

 さて、宿題を出します。真砂女の表現した男の動きに、彼が店に寄っての逢瀬の後、「海軍式の敬礼をして、くるりと背中を見せて帰って行った」ところがあるのですが、彼女はこれを句にしていないようです。さて、真砂女になりきって、あなたならどんな句を提示しますか?貫之、定家になったつもりで、女振りでどうでしょうか。なお真砂女の彼は館山の海軍士官です。


 最後に、真砂女の、恋でない句を2句紹介します。
 百合咲くや海よりすぐに山そびえ
 来てみれば花野の果ては海なりし
2句目、彼女の最後の句集の冒頭句ということで、辞世ではと見るむきがありますが、彼女は辞世は詠まないだろうと思います。これに寓意はなく、1句目と同じで、房総の突然変わる景色を詠んだものです。浜辺近くで突然崩れる鴨川の波、時として家の縁の下まで押し寄せる鴨川の波。生地から近くなのに九十九里浜へは行ったことがなかった。年取って行ったら何もなくてつまらなかったと語り、さらに山は苦手だそうです。山・高原は西洋の美学です。山に着物は似合わない。似合うのはピアノとサナトリウムとコスモスと帽子付きワンピースでしょうか。鎌倉軽井沢文士美学といいましょうか、分かりませんが。まあ病気っぽいです。真砂女はおそらくここにあこがれて故郷を捨てたのでしょうが、到達点はここではなかったようです。
 

最初の結婚での行動もしかり、そして50才にもなって、しかも亭主が倒れたその後に介護を拒否して東京の娘のところに転がりこむ行動の中に、歌まくらのひとつもない郷土と、その中で真っ黒になって暮らす美のかけらもない女たち、不粋な芋のような男たちへの強烈なアンチテーゼがあったのではないかと思います。あれにはなりたくない。あれで終わりたくないということでしょう。
 

ただ、故郷を捨てて、思い出すのは故郷の波、景色でした。故郷を嫌い、何度も飛び出して、故郷に顔向けできないけれど、やっぱり故郷は好きだった。でも死んでも故郷には戻らない。人生はドンと変わるのだ。自分で描いた美の中で死ぬつもり。真砂女の墓は富士聖苑。

復刻「鈴木真砂女を房州人が語る」(3)


 画像はマッカーサー退任時の敬礼。貴族的な立ち居振る舞いで日本人好みの人だったですね。形の良い敬礼です。敬礼といえば5才のジョン・F・ケネデイー2世の敬礼も歴史に残るものです。日本人の敬礼の写真があるかと探したのですが、戦時中の写真も含めて敬礼写真は意外と少ないです。また、近頃は敬礼を、マスメデイアでは見ることが少ないです。おなじみの敬礼画像といったらミャンマーの軍事政権くらいです。北朝鮮の軍人は敬礼しないみたいです。全員よぼよぼの爺さんで金王朝を守る武人といった緊張感、凛々しさがない。だからといって将軍様を後ろで見守る「爺」、好々爺のような顔でもない。あれなんなんでしょう。偉い人なんでしょうけど。
 

 真砂女が「彼」と逢瀬後の別れで、彼が「海軍式の敬礼をしてくるりと背中を見せて帰って行った」さて、これを句に出来ますかということで、前回宿題を出しました。これ、老後活動のひとつの提案だとお考えください。

 良い子悪い子普通の子というキャッチフレーズがありましたが、その普通の子が成長して普通の人では、おそらく現実に妥協してそれなりの暮らしているわけで、まして不倫など思ったこともないといった話でしょう。それで普通に年老いたわけです。経験しなかった、そのはけぐちの代替としてのドラマなども、普通の人の私にはどうもぱっとこない。韓流もぱっとこない。じゃ映画作るかといっても才能もない金もない。小説書くか、自分史書くかといっても普通の人の認識や歴史など面白くもおかしくもない。
 そこで提案するのが、「成りきる」ということです。真砂女になって、真砂女の感覚、美意識ならこう詠むだろう。この場面ならこう詠むだろう。真砂女なら「彼」をこう見るだろう。と、言うように、真砂女になりきってみることです。真砂女ならなりきりがいがあります。なにせあれだけ美人だから。 

 しかも俳句なら金もかからない。がんばればイメージトレーニングで、体験したような錯覚に陥る。真砂女をより深く理解したような気になります。
 

 さて、実践です。真砂女だと次の男の行動はだめ(と、断定してしまう)。例えば上原謙のようにポケットに片手を突っ込んでじゃさよなら、また、裕次郎みたいに斜に構えて照れ隠しでこれも両手をポケットに突っ込んであばよなんてこんなの許さない(この期におよんでなお照れるか!)。とにかく日本の二枚目はポケットにこだわる。好きでそうしているのでなく間が持たないから。今のアニメも壁ドンも同じでこれはだめ。許せるギリギリで鶴田浩二に敬礼させるイメージで行く。お互いが真正面から見つめ、出来れば自分(真砂女)の美しさ、可愛いさも出したい。舞台は銀座の裏小路、夜、割烹「卯波」の店前、季節は成り行き、雰囲気で選ぶ。相手は敬礼が似合う男前で背が高い。自分は小柄なのでそれを見上げる形、の真砂女。すると空が見える。と、こう設定して行って、次の3句を作りました。

 敬礼に敬礼返す卯波かな
 
 割烹「卯波」前での客とママとの別れのあいさつ。女性の敬礼に「樫山文江おはなはん」がありました。鑑賞者にはあれの刷り込みがあるはず、だから自分の可愛さが出る。「返す」、「波」とかけたつもり。ただ句のみ独立して観賞すると、敬礼が「卯波」にくっつかない。返す波だからくっついていると言い張る手もあるが。ただそうはいってもリズムが平板。
 余談ですが真砂女は卯波にこだわっています。角川歳時記で次の句をみつけました。
 海女一人に桶一つ浮く卯波かな    真砂女
 次にいきます。

 敬礼っ、ぬしゃ愛(う)いヤツ星流る

 ホレた男を見上げて見つめる。お前はほんとにいい男だ。見上げて見つめる女の姿。風采の立派な男と小柄なおんなのかわいらしさの両方の演出。自分の着物姿は決まりですがこだわればどんな着物を着るかも決めると良い。自分の手はどうしましょうか?前句と同じで敬礼を返すか、平凡に前で両手をつなぐかですか、別の姿は??。見上げているので自分の視線に、彼の背景の空が目に入ってくる。自分の視線はいとしい彼の目に集中しているが、するとそこにぱっと流れ星、ふっとそれに気づく真砂女。 幸せの前兆?それとも・・・・・。銀座で流れ星が見えるか、見えたことにする。かなり大きければ見えるかも知れないから。楽しさ喜びがある。分かるけどチョットナー感もある。私ではこれがベストでこれが限界。

 敬礼のあとの枯葉や丸き肩
 
 敬礼して、くるっと後姿になって去っていく彼、それを見送る私、は分るけれど、寂寥感がありすぎですね。季語に別のものを持ってくるか、丸き肩でなく別にするか。

 

 画像は、月刊誌「一枚の繪」に出ていた、「野火」
例えば、普通の人が市役所の広報誌文芸欄に投稿するとしても、突然、「亡き人へ嫉妬いささか萩括ける」、だの、「来てみれば野火の草あるかぎり狂いけり」(両方とも真砂女)など出せないです。思い切って出したとしても何をトチ狂ったかとこうなります。しかし、ここで言い訳で、真砂女になったつもりです、実験です勉強です、といえば通ります。免罪符です。これが一つの狙いです。「真砂女体験実験句」とでも前書して出せばよろしい。それを1回やってみたら自分の句の腕も上がるはずです。自分の殻を脱ぎ捨てることになります。
 市役所の広報誌文芸欄を見ると、毎号毎号普通の人の普通の句が並んでいます。悟り済ましたように縁側でお茶飲んでこんな句ばかり詠んでいたのでは、このままでは死に切れないんじゃないか、恨みや未練ばかりが残るんじゃないか、と要らぬ心配をします。
 よく凪ぎて飯蛸釣の舟も見え
 山茶花の散り敷くままに地を染めて
 鎌倉の露座の大仏美男にますと晶子の歌を思ひ眺むる
 最後の歌など、晶子になりきるか、晶子に挑戦するつもりになったら良かったのに、と思います。 「大仏」、「晶子」なら「鎌倉」、「露座」、「美男」は余分です。その代わりに、晶子が美男と詠んだけれど、猫背でホオに疵が走って私にゃそう見えない。男前が自慢でこの世に欠けるものはないと人生を謳歌して今や介護される身となるや体格のいいのが仇となり「威張って、でかくて、重い」と介護士から嫌がられているわが亭主に見えると歌えばそれはそれで絵になるのでしょうに。普通の人が普通に暮らす、それはそれで尊いのですが、それだけでは普通の人に未練が残ると思います。それをたまには抜ける、その時のひとつの手段として、普通でない人に成り切るという提案です。健康雑誌の○○法などより効き目があると思います。やってみてください。



大坪砲の台に花の海を求めて

 すでに紹介しました日月神社の俳句奉納額の中に、「橋濡らし天羽さえ光る砲の台」とあり、これは新舞子の卯波を、新舞子からでなく大坪の砲の台(幕末に旧佐貫藩が造った大砲陣地址)から新舞子浜方面を見てすばらしいと云っていたのだと知らされたので、じゃあ卯波の季節ではないが、海の光り方を観察しようと大坪の砲の台に行って見ました。

 考えて見れば厳島神社の奉納額の「花の海性根のひのもとデク翁」の作者は大坪の人だったのですからもっと早く悟るべきでした。

 現地に行ったのは11月26日13:30でした。実はこの時刻、新舞子の卯波を見るには3時間遅かったのです。それはそれとして、この際、新舞子側から対岸や富士がどう見えているかを、横須賀猿島から左まわりに紹介して、その最後に卯波が見える新舞子の写真を紹介します。

 中央に猿島。右の雲の中の濃い部分に富士山が潜んでいます。三角錐が想像出来ますでしょう。とにかく新舞子では富士山が見える土地は髙値で売れるそうです。

 猿島の後ろに米海軍横須賀基地。自衛隊横須賀基地はその右に子分のようにささやかにあります。石榑千亦の短歌に「横浜沖 先導艦鬼怒お召艦陸奥供奉艦は阿武隈由良球磨長良次々に」とあります。今では空母「ドナルド・レーガン」に「いずも」、「かが」でしょうか。これらと富士とのコラボ写真はなかなか難しそうです。こちら側からだとベストショットはむずかしいかも。

 突然ですがひとつ提案。海上自衛隊基地またはアメリカ横須賀基地どちらかを全面的に上総に移したらいかがか!

 カメラを左に左に動かしていきます。

 中央、山の中腹に小さく見える白い物が観音崎灯台です。その左なだらかな三角錐の山が大楠山。 

 中央付近が浦賀の町です。ペリーが初めて上陸したのは、左の方の久里浜発電所の右側です。海岸に記念碑が立っています。

 砲の台(実は砲の台では樹木のため視界が悪く、写真はすべてその下の駐車場跡地から撮影)から見える伊豆大島全景をバックにした光る海です。逆光になりますから編集を頑張っても手前は黒くなってしまいます。13:30にはこの辺に光る帯があるわけです。

 それでは、10:00頃はどこに光りの帯があるのでしょうか。カメラを左に動かして見ます。

 手前に染川の河口。川の水面が見えるにはもう少し高度が必要です。さらにその奥が新舞子海岸。中央突堤は沈みかけています。遠くの突堤からさらに奥の2段の大きな崖までが笹毛海岸。その奥が長浜海岸でそこからさらに先が湊海岸(天羽海岸)です。竹岡マリンヒルズはこの画面の右側になります。

 日月神社の「橋ぬらし天羽さえ光る砲の台」の光景ですと今写っている海の全面が光っていたわけです。染川にかかる粗末な板橋が濡れているわけですから波が高かった。それなら突堤にしぶきがあがり手前の波がくずれる瞬間、この波もきらきらと光ったことでしょう。さらに卯波の季節ですとハマヒルガオが帯状にずーっと波打ち際を彩ります。さらに砂浜に大型和船の押送船と五大力船が所狭しと並んでいます。「日本」、「ひのもと」・・・その根源たるこの地で・・・と気が大きくなるのは確かだったろうと想像出来ます。

 さて、上の画像で見えている笹毛海岸から砲の台方面を撮ってみましょう。10年前の画像です。 

 砲の台は観音様の山の下ちょっと傾斜した平らな台地です。旧佐貫藩が大砲を据えたのは台地の右の方のこんもりと木が生えているあたりです。

 今回大坪での撮影地の駐車場跡地は砲の台からかなり下の平らな土地です。

 観音様は太平洋戦争で南の島で散った戦死者を弔う意味で真南を向いています。ですから新舞子や笹毛浜、大坪浜はほぼ南北に並行に波打ち際があると云うことです。

 それでは太陽が南中する12:00頃、海はどうなるでしょうか。それを昔に撮った写真で紹介します。

 大坪山の上に登って撮った大坪浜(小久保浜)です。南の方は海が光っています。手前は干潮のため磯が海面から露出ギリギリで波が砕けて、それと太陽の光のすじに入って光りを増したものです。逆光にならず光りのすじが見えていることがお分かりでしょう。

 こちらは笹毛海岸の波切り不動尊から撮ったものです。二人連れの影から見て太陽は南中からわずかに西に傾きかけていますが、これでも逆光になっていません。カメラを南西の方に持っていけば海のキラキラと、波打ち際の白い泡立ち(これも磯のためです)が同じ画面で写るはずです。

 サンプル画像は二つとも晩秋の季節です。

 これが卯波の季節であれば茶色の砂丘の縁にハマヒルガオのピンクの帯が見えるはずです。

 新舞子海岸を中心とした場所での卯波で、さらに趣を添えるのが松と波切不動尊とその下の崖、さらにその先の八坂神社、さらにその先の写真でも小さく見えますが湊の悪波海岸の滝です。この間ずーっと大小の崖がつらなっていてその中には崖から横に突き出ている松の古木もあります。松の多くは根上がり松です。

 崖の中で面白いのが波切不動尊の崖で、ここの地層の模様は乱堆積で強い海流のため伊八の波のようにうねっています。地質学者は天女の羽衣の微風にゆれる薄絹のうねりにたとえています。 

 伝統美学でまとめれば、手前の橋はカキツバタの板橋、ひょろ高い松の連なりの中に赤い神社やお寺がチラッと見える、それに崖、滝、ゆうゆうと飛んでいる海鳥・・・そして帆掛け船数隻となっていくわけですが・・・これでは月並みです。まわりに何があればいいか・・・・

 現代ならお寺や神社の替わりに自立型深海潜行船や海洋ロボット等の海洋開発研究所、海洋大学誘致等いろいろ考えられるでしょう。

 言いたいことは、東京湾の奥深い場所の再開発、伝統的な京浜の港湾再開発にこだわることをやめてこれらの一割で良いから西南上総に目を向けて見たらということです。都心から遠いと云う理由で、成田は未だに人気がないですが、なぜ都心にこだわるのかわけがわかりません。過密が限度を超えた都心を離れてその一部を移動(都落ちだと抵抗があるなら渋谷、新宿、六本木、目黒に目白、青山、赤坂など地名も一緒に移動)すればいいではないですか。 例えで出して関係者には申し訳ないですが現在の東京海洋大学を見て下さい。海っぺりにあったはずが、気がついたらビルの谷間の都立高校のような感じになってしまっています。あんな場所で海を学べるのでしょうか。

 海洋大学などは特に、美しい海に囲まれた場所でなければなりません。

 ついでに、こういう場所に風車の林立はそぐわないでしょうね。

巳年大月の八幡浜 (新舞子)旧家秘蔵の貝螺鈿の修復で見えたこと
 先に紹介した旧家秘蔵の貝螺鈿は、汚れ落としの中で、空に無数の鳥が線刻され(提供画像では見えませんが)ているのが発見出来ましたので、昼間の情景です。しかし背景が漆黒ですので、富士山をもライトアップされた夜の景色にも見えて来ます。

 これを利用して、新舞子の巳年大月(スーパームーン)を作ってみました。

 スーパームーンは約400日に1回の周期のため毎年何月がスーパームーンになるかというと年々約1ヶ月近くずれていきます。今年2022年は7月がスーパームーンだったので3年後2025年は11月あたりがスーパームーンになるはずです。スーパームーンまで書かれた暦が見つからないので正確には言えませんが・・・・。

 1年前の連ドラ「カムカムエブリボデイー」の大月錠一郎がトランペットを吹くにも良し。大阪の大判焼き屋の暖簾にするのも良し。(劇中の暖簾は大月に端切れ縫いの抽象絵画のようなものでした)

 11月のスーパームーンにこだわるのは、この頃が湿度が低くものがクリアに見えること、深夜でもまだ寒くないこと。昔で云えば秋祭りや新嘗祭(収穫祭)、今で云えばハロウインやクリスマスが近く腹満ちて、しかもそれらの準備で町や村が華やぎ、これを糧にしてさらに何事かいいことが起こりそうな季節だからです。かぐや姫の月への帰還や、映画「E.T」や「マデイソン郡の橋」の季節もこの頃でした。

 上の画像の時代は江戸時代です。江戸に向かって生魚を輸送する高速船(押送船)が出帆しました。

 では、現在の画像はどうでしょう。沖の水平線に沿って三浦の町の灯りがかなりすごい密度で続いて行きます。発電所が目立たなくなり高層マンションが増えました。

 左の方の竹岡マリンヒルズ(実景はこれよりだいぶ左です)は100m近い山の上ですから三浦の灯りと遜色ない形となります。

 従って現在の実景でスーパームーンを描いても上のものより豪華になります。

 問題は中央の小島のお寺のライトアップの替わりがないことです。

 そこでここには現在計画が頓挫している浦賀水道沖(新舞子沖)首都圏第三国際空港を置きます。海の月影の途切れたあたりから富士山の下あたりに国際空港を配置するわけです。横から見る国際空港は存在観がだいぶ薄れますので超ゴテゴテにならずいいと思います。この作品も将来手がけてみたい。

 さらにもう一つ。大坪山砲台跡から見た八幡浜の卯波が日月神社新築記念句額に載っていました。 「橋濡らし天羽さえ光る砲の台」の情景を、この真昼の情景を螺鈿調で表現してみたい。

 さらにおまけ。旧家秘蔵のもうひとつの作品、螺鈿ではない(鶏などが2cmくらい盛り上がっている)貝による絵画額の画像上での修復が出来ましたので紹介しておきます。

 現物はたばこのヤニでだいぶ汚れていて、菊?の一番上に大きな花の領域だけあって花がなくなっていて鳥の尾羽の一本も先端が取れてなくなっていました。

 修復に当たって、まず花の領域が大きくこれを一つの花で埋めると「ひまわり」になってしまいますので、ここでは「五つの花の重なり」としました。葉っぱを入れることも考えましたが菊の花が重なってある所に葉っぱはないのでこれは断念しました。

 また、雄鳥の四角い白の中央羽根の形が不自然、取って付けたよう、部品不足ではないか、などとお思いの方がおられると思いますが、現物を見ると外れている形跡はなく重なりの羽根の線も左右対称です。これは提供画像が縦600画素ですのでグラデーションがなくなったためかと思われます。

 鶏のデッサンが良く、菊の葉も枯葉や虫食いを描くなど伊藤若沖を意識している表現の仕方です。最初葉っぱも退色した結果かと思いさらに掃除をしようとした時、そういえば緑色の貝殻がないことに気づきました。この絵はすべて貝殻で出来ていますので、この条件の中で枯れかけた葉として表現したものでしょう。葉の根元に近い部分が緑色に見えますでしょう。この貝殻は緑色ではありません。

 左の一番下の虫のようなものですが、これはどうもナメクジかイモムシのようです。ヒヨコが驚いている姿でしょう。

 

月の名所は八幡浜(新舞子) 11月9日午前3時30分の新舞子を見てみた

 上の写真は、新舞子のさる旧家の長押に飾ってある貝殻螺鈿の名品です。新舞子の十五夜のイメージとして借用しました。(明治時代のものか?)

 すでに紹介した厳島神社奉納前句額に、「能因も海も余すか前の月」とあり、日月神社の新築記念俳句額に「涼しさや波に砕ける月の影」、「涼しさや月松にあり水にあり」にある通り、本当に新舞子の十五夜は素晴らしいのか?

 と、いうことで皆既月食が話題になった日の月食が終わった深夜3:30に新舞子に行ってみました。

 快晴の月夜でもあり田舎にしては街灯も多いため明るい夜道。さらに八幡神社前の広場に来ると神社の大きな常夜灯があり、厳島神社の照明もありなので、上の写真の手前のお寺のような状況になっています。月はすでに西に傾きこの広場からは見えません。

 鳥居崎の鳥居まで来ても月は見えません。ただ月明かりで海はかすかに光って見えます。

 坂道を降りだしたその時良い香りが漂いました。(犯人は月下に満開のグミの花だった)

 そして横綱の満月の登場です。上の画像の富士山の所に満月がありました。海は快晴、無風。わずかにさざ波が立っています。沖から海の半分の所まで月影の銀の砂がキラキラと輝き、その手前は漆黒。そして波打ち際の小さな波頭だけが崩れる瞬間に細長く光ります。まさに銀色の細流のようです。

 そして海の廻りの灯りです。右に観音様の三角灯り、対岸に豪華な三浦(横須賀から久里浜まで)の灯り。左に抑制の効いた品格のある竹岡マリンヒルズの灯り。そして波打ち際には数人の釣り人の小さな灯りが見えます。まったくの無音。

 これらのすべてがきりっとした透明な色に包まれていました。

 今、松はないのですがそれに増して対岸などの灯りの効果が魅力を増していました。2025年にはこの11月の時期にスーパームーンになる予定です。この時もう少し波が立っていれば銀の砂がもっと輝くことでしょう。「能因も海も余すか前の月」佐貫詠み人知らず。アニメの主人公のように両手を高く掲げたことでしょう。と、納得しました。 

 追記:観音崎灯台の灯り(遮蔽板が回転して点滅する信号の灯り)が今は点いていないのを初めて知りました。



日月神社宝物展が開けそう!? 佐貫町日月神社を訪ねる

 去る10月23日(日)は日月神社の祭礼の日でした。普段は無人で社殿に入れないですがこの日は開いていて役員の方も居られるだろう、かねて奉納俳句額があると聞いていたのでそれが見られるだろうと出かけました。

 日月神社全景です。この写真は祭礼翌日に撮ったものですが、昨日の祭礼日との違いは下に車が数台駐車しているかどうかの差だけです。いつも参拝者で賑わってはいません。

 日月神社の由来です。

 上総国鬼泪山の鬼退治に際してヤマトタケルの尊がこの地に日月の幟を立てたのが神社の始まりであり、隣接して「日月山天羽院法光寺」という別当寺があったとのこと、また、この名前の中の「天羽」という言葉の由来として天女が舞い降り、その姫の名が「天羽」だったとの美女伝説が紹介されています。祭神は「天照大神」、「月読尊」、「須佐能の尊」。神社の格は「村社」。

 目的の奉納俳句額(先頭部分で全体の3分の1だけ示した)です。昭和4年の奉納ですから八幡厳島神社の奉納前句額に比べて100年若くそのため字はまだまだ鮮明です。昭和といっても旧漢字・仮名が多いですがこちらの方も厳島神社の前句額解読で鍛えられましたので全体の句の解読が約1週間で出来ました。この項の最後に面白い句をいくつか紹介します。

 まず先頭に盆栽の松のような、しかし枯れ枝が描かれており野にある松のようでもあるものが青磁の花瓶に生けられている絵です。俳句の「かるみ」、「諧謔」がうかがえる構成です。 

 次に「日月神社新築記年永代奉願句集」、次に「題四季□□日月・・・・・・・」とあり、以下招待された3名(上総、尾道、東京それぞれ)の宗匠が選んだ句が別々に総計57句並んでいます。句の分け方として「秀逸」、「感吟」、「再考」、「軸(これは宗匠自身の句のよう)」などがあります。

 選ばれた人は佐貫が多いですが、館山、八重原、夷隅、中、関豊、駒山、周西、などがあり、更に兵庫、徳島があり、これはリモート参加だとしても、近在ばかりでなく全国展開になっています。

 これを含め、奉納額の作りも立派なもので、接待費を含めてここまでまとめるには想像を超える金が動いたことでしょう。昭和4年は佐貫町が経済的に頂点に達した証ではと思われます。  

 以下、氏子総代会長の志波さんの案内で、宝物殿、本殿内部を見て回りました。その中で特に目に止まった、「三代目波の伊八」の彫刻裏面と、「愛染明王(あいぜんみょうおう)」を紹介します。

 中央に「安房国 武志伊八郎信英 作也」とあります。長さが二間(4mくらい)あることから拝殿と本殿との境の長押正面上のはめ板彫刻と考えられます。志波さんの話しでは波と日輪をモチーフにした彫刻だそうです。背面にもていねいに波が彫られていて、素人ながら波の伊八の特徴が受け止められます。

 ただ「・・・作也」と自筆でない署名であることが明らかなので、表側を見て「伊八」かどうか判定する必要があります。

 このことは志波さんがずいぶん昔に富津市の教育委員会に話しを持ち込んだそうですが、あちらの反応はゼロだったとのことです。すなわちこれ、文化財でないので、煮ても焼いてもどこからも苦情が出る訳でないので、富津市が始めた「東大村塾」ではないですが、学生達に勉強かたがた大学の機具をタダで使って先生にタダで見てもらって、あわよくば彩色再現してみては・・・と妄想が始まります。

 次の「愛染明王」など、素人目ですが、鎌倉初期の西大寺叡尊配下の慶派と見えるのですが間違ったら運慶そのものかも知れません。運慶だったら房総半島最初の運慶です。

 祭壇右に無造作に置かれた仏像です。 額中央に第三の目があり、腕が右に二本、左に一本残っていますが左右高さの関係から合計六本の腕と見ることが出来ます。現存する右第一の手の握り方は蓮の花つぼみですがこの茎を握っていたと想定される形です。(蕾を後ろにして茎を肩でかつぐようにしている)。(手持ち撮影のため手ブレあり。実物の印象は彫刻がもっとシャープです。 )

 愛染明王の特徴を調べました。赤いボデイー、頭上に獅子の冠、一面三目六臂、宝瓶の上の蓮華座に坐っている、後背は赤い日輪、持ち物は上の手に蓮華(つぼみ)に拳(こぶし)、中の両手に五鈷杵、下の手に弓と矢。

 以上で日月神社仏像に見当たらないのは頭上の獅子と宝瓶ですが、獅子については額の上の中央が平らな台地のようになっていますのでここにあったと推定が出来ます。宝瓶は探せばどこかにあるかも知れません。なおサイズは像高30cm足らずです。(このサイズは西大寺の愛染明王と同じ)

 愛染明王は平安末期に多数作られこの頃は像高80cmくらいで間延びした感じでしたが、鎌倉時代になって今のフィギュアのように小さく精密にギシッとした形になります。その後、持ち物の弓矢が大きくなり矢を天に向かって放つような動きのあるアンバランスな形になります。

 日月神社の像は西大寺愛染堂の像(奈良国立博物館蔵重文)に雰囲気が良く似ています。金属製部品が全く残っていないですが、これらを付けて、獅子頭、六臂その他を再現すれば見違えるようになると思われます。彩色の朱と金箔の質は日月神社の方が西大寺より優れています。(汚れが少ない)

 なお、西大寺像は台座下に文書が残っていて、東大寺大仏殿の正面柱の(平氏焼き討ちで)焼け残った材で作られたとあるそうです。実は佐貫はこの時焼けた一代目大仏殿建設に優婆塞を派遣しており東大寺に有縁の土地なのです。このことから日月神社の愛染明王が西大寺のものと同じ材で作られたものと仮定しても「そんなことはありえない全く突飛」ではないのです。

 日月神社にはこの他にすっぽり被るようなNHKのチコちゃんのようなタイプの不気味な巨大面が2個、さらに彫刻された板が多数あり、さらに上の愛染明王の前にもあるほこりだらけのいわくありげな玉手箱のような箱がいくつもあります。これらの箱は何時開くのでしょうか。

 最後に奉納俳句額の中から面白い俳句をいくつか紹介します。

 絵日傘や何を誓(せい)のし神詣で 兵庫 □□

 絵日傘は若い芸者のこと。芸者の「誓文祓い」の参詣を詠んだもの。商売柄多くの誓いを立てたがそれを神の力でお祓いして無力化してもらうお願い。愛染明王は江戸時代花魁や芸者の守護神です。

 霜凪や湖上静かに日の辷(すべ)る   八重原 吻山

 千木高ふ抱かむ社や風薫る    中 岩句助

 涼しさや月松にあり水にあり   佐貫  無才

 涼しさや波に砕ける月の影    佐貫  選□

 八幡の厳島神社奉納前句額の中に、同じ佐貫の人の句、「能因も海も余すか前の月」があります。

 若竹や濡れ葉を辷る月の影    佐貫  選□

 おだかけや朝日夕日を裏表   佐貫  芳州

 啼くや蛙(がま)畝(せ)は月ふらす闇ふらす  八重原  黒魚

 日和にも雨にも青む標かな(「しるしかな」でなく澪つくしと読むべきか) 作者名??

 橋濡らし天羽さえ光る砲の台   佐貫 髙楽

 大坪山の砲台跡から新舞子、上総湊方面を眺めた景色だと思われます。染川河口に掛かる粗末な板橋に波がぶつかってしぶきを上げそのしぶきも波頭もキラキラと輝き、新舞子浜が輝き湊の浜も輝いている卯波の浜の情景です。八幡の厳島神社奉納前句にも卯波が詠まれています。「花の海性根のひのもとデク翁」(この光る海が日本の根源。ここで生まれ、ただ老いた自分)、「卯波の端抹香鯨屁の火とも」

 余談ですが、上総湊方面を「天羽」と表現している佐貫の高楽さん、言葉の感覚が鋭いです。「みなと」は長い通用の歴史がありますが、「上総湊」は駅名だけのものです。余談の余談で、例えば当該地域の現行市名より「天羽市」の方が響きがいいです。地理的にも中央ですし・・・。

 ひぐらしや宝物殿の片日陰  句会の催主の一人の作

 日月神社の宝物殿は非常に分厚い漆喰塗りの土倉様式です。

 

鎌倉文化が色濃く残る佐貫の古刹像法寺を訪ねる

 像法寺は国道127号線富津中央インター入口から佐貫町方面へ500m行ったところの信号を左折して500m走り踏切を越えた先の右側にあります。

 像法寺の本堂です。「像法寺」という名の寺は日本ではここだけのようです。

 仏教の伝わり方に、釈尊の死後「正法」の時代が500年、「像法」の時代が1000年続いて「末法」の世となるという教えがあって、しかも平安時代の日本での計算によると永承7年(1052)がその恐るべき末法元年ということで人々の仏教信仰などに大きな影響がありました。

 「像法」寺はそれを意識した名前ですが、創建は末法になって100年くらい過ぎた頃のようです。

 これから本堂の左の方へ歩きながら案内していきます。

 水子地蔵です。手前にひょうたん池があり太鼓橋を渡ってお参りする形です。ひょうたん池は最後に写真を示します。ここから橋の前に戻って左に行って目立たない細い道をちょっと入ると・・・

 「大旦那藤原信定 元弘三年(1333)・・・」と記名入りの宝筐印塔(千葉県内では最古)があります。

 記名があるのは左側の石塔下部。石塔の組み方には疑念があります。実はこれは昭和40年代に佐貫の郷土史家が付近に転がっていた墓石を整理する中で古い墓石を集めて組み上げたものです。

 右枠から「大旦那 藤原信定」 左の枠に行って「元弘三年」とまでは読めます。その次ぎは「六月六日」も何とか読めます。後の漢字二文字がむつかしい。

 第一文字は「苑」、「范」、「花」あたりか、第二文字は「深」、「澤」あたりかと考えました。皆さんはいかがでしょう。

 最後の二文字は字を書いた人の名前ではないかと考えられます。そうすると「苑深」、「苑澤」、 「花深」、「花澤」などとなります。名前で「范」はちょっと使いにくい。それを外すと残ったのは女性っぽい感じがします。

 ちなみに元弘三年は「南朝年号」で鎌倉幕府滅亡の年、西暦1333年です。像法寺の二代前の和尚さんの解説ではこの供養塔は佐貫から出征し鎌倉幕府側(北条氏側)で戦い討ち死にした武士の供養塔とのことです。逆に南朝元号を使っているから討幕側だとも考えられますが、鎌倉時代は戦が終われば敵味方合わせて死者を弔うのがならわしですから、左幕側・倒幕側(新田氏、足利氏等)特に区別はなかったと思われます。また大旦那「藤原信定」ですが、これは公家の藤原氏ではなく、武家の藤原氏=遠く平安時代に平将門を倒した藤原秀郷の流れの人だと考えられます。鎌倉時代の上総国には足利氏が上総介・守護・地頭などで入り込んだ地域であり、一方、足利氏と藤原氏は代々の婚姻でほぼ一つの一族となっていますので、「藤原信定」は藤原氏=足利氏であると解釈するのが自然でしょう。

 この4行の字で気が付くのは年号の干支記載がないことです。正式には「癸酉」が必要なのです。これと併せて筆者名が女性っぽいことから考えて、この碑が私的な家族葬っぽい感じもします。

 なお碑の石ですが、凝灰岩かと見ていましたが、例えば鋸山の石などはおそらく文字を印刻出来ない(脆いため)ので、安山岩と考え直しました。佐貫安国寺や君津九十九坊廃寺等の残留基礎石が安山岩ですので、おそらく神奈川真鶴町などで産出される小松石だと思われます。

 この碑から左に行きますと・・・・・

 観音堂となります。船乗り観音が鎮座しておられるようですが、堂内については別の機会の報告となります。

 下は観音堂左隣の坂道と崖です。上の墓地に行く道です。

 崖の途中に窪んだような浅い穴があいています。像法寺の崖はここに限らず何所の崖にも一つや二つこのような穴があります。これは鎌倉時代に鎌倉の町と千葉富津市区域など周辺の限られた地域で発達した横穴墳墓の「やぐら」といわれているものの跡だと思われます。

 やぐらに行く前に庫裡を紹介しておきます。

 像法寺の庫裡です。

 さて、ここから庫裡の裏の方に100m行くと・・・・・・

 天井中央が上にとがっている船底のような形に削られている「やぐら」跡です。 

 拡大すると・・・・・仏像を刻んである石柱の上の角のような天井の構造と考えて下さい。

 像法寺の案内はだいたい終わりですが、最近気がついたものをあと三つ紹介します。

 一つは本堂の右手の方、こちらも注意していても見逃してしまうような道をたどると入って行ける堀り切り(または切り通し)です。

 このHPを愛読している方なら「岩富寺の東参道」(君津市作木から登る山道」)そっくりだと驚かれるでしょう。岩富寺は創建が「大化の改新」の頃と云われる富津市では最も古い真言密教の古道場です。

 この構造物は何かですが、強いて挙げればお寺の上の墓地への道なのですが、それよりもお寺の境界をきちんとしようとする表れのようです。

 次に紹介するのが、この堀切りのすぐ左となりの、本堂の右側濡れ縁に接するようにある細長い池です。

 ちょっと余りにも澄んでいて波が立たないため、回りの整備不良林を写しこんで何でもないようなことになっていますが整備が行われれば非常に面白い撮影スポットになりそうです。

 最後が本堂の左となりの水子地蔵へ行くとき渡るひょうたん池。こちらは小さな池です。

 水面を写したいのですが草木が繁茂していて、結局太鼓橋の鉄製の手摺りしか見えません。

 像法寺は寄進仏像や石碑が非常に多く、また上の個人墓も立派なものが多いお寺です。庭の造作もちゃんと庭師を入れての設計のように見えます。

 これらを実現出来た富はいったいどこからきたのか。

 その前に指摘しておきたいことに、像法寺門前を流れる染川と古船川の水位の問題です。染川は鬼泪山から発して、そして古船川は浅間神社西に発して、像法寺門前で合流し新舞子に流れ下ります。

 この辺一帯は、約300年間隔で発生する相模トラフを震源とする巨大地震で必ず1m程度の隆起が見られます。現在はわずかに水が流れているだけですが、関東大震災(1923年)前には、ここまで船が上がって来られたと云われています。実際、1918年に像法寺の前の河原に近郷で最初の発電機が据え付けられ稼働したのですが、この土地選定の段階で、船が上がって来られて、レシプロ蒸気エンジンや石炭ボイラーや発電機を持って来られるというのが決定的な選定理由だったのでしょう。この遙か遠い昔の日本武尊の東征伝説でも像法寺前の三叉川のところまで船を入れここで上陸したとされ、これが「古船」の地名の由来となっています。

 さらに論を進めると、浅間山=富士山の木材産出の量の多さです。元禄3年(1690)の富士山改帳によると、薪炭用松檜杉年間44,184本、3~5尺丸太482本、1~2尺丸太4,372本、炭の生産30~40両となっています。

 像法寺門前は、木挽き、船大工、宮大工、一般大工が働く一大生産拠点であり、製品はすぐさま染川から八幡浦(新舞子)に運ばれそこから鎌倉へ、江戸へと運ばれて行ったことでしょう。

 日本武尊伝説や、船底やぐら、船乗り観音など像法寺は船に縁がある寺のようです。特に船乗り観音などは船に乗った自分を観音に見立てた感じで、古舟(こせ)の船大工か、八幡を中心とした佐貫地区の漁師か船乗りが寄進したのかも知れません。

 亨和二年の八幡村厳島神社奉納前句額から1句。(船上で網を打つ不空羂索観音のイメージです)

   月と日も光るや慈悲のためと説き    佐貫  酒来     

 

 

二つのレジェンド since1700,since1580

 房総新舞子、押し送り船、厳島神社奉納前句額、そして鶴峰八幡宮宵祭り獅子頭巡行木遣り唄などをお互いに結びつける二つの旧家があることを今まで縷々と述べてきましたが、それらは数少ない資料から推定した一つの論であり、現在も健在でおられるそれぞれの家の子孫の方の納得・了解を経たものではありませんでした。

 今回、このHPの項で押し送り船の開発者と推定している錦織家本家の当主に話しを聞く機会をいただき、さらに保存されてあった古文書や写真、棟札の実物を借りることが出来、デジカメに記録できましたのでそれに基づいてまた新舞子の文化について直すべきは直し、論を深めていきたいと思います。

錦織家のこと、髙橋万兵衛家のこと

 今年4月21日に佐貫笹毛錦織本家の現当主に髙橋万兵衛家のこと、錦織本家のことを聞くことが出来ました。

 明治期一杯錦織家の当主だった豊助さん(この人は婿養子)は多方面に活躍した人で、何回も笹毛村の総代をつとめ、明治3年記銘の太政官布告文の写しと思われる「御成敗式目」や、「コレラ予防について笹毛村取り決め」や自分の仕事である渡海船の領収書綴り、持ち船の写真や海岸測量図(三角形の各辺の長さを測定し小数点以下三桁で面積を計算した精密なもの。図も非常にきれいでプロ並です)などを残しています。これらの古文書は借り受けて写真撮影しましたがまだ解読等は終わっていません。

 その他江戸時代の古文書は、天保8年の年中行事兼稲荷祭記、天保15年奉納高麗明神幟旗(現物)、元禄7年笹毛村浅間山(富士山ともいう)反別帳などを撮影しました。江戸時代以前の古文書は位牌のみで墓誌等はないとのことでした。

 明治期では豊助さん自身は大工ではないが錦織姓を名乗る棟梁と共に絹村の家の棟札に連名で名を載せており工務店のようなものもやっていたようです。また元禄時代に建てられた鶴岡浅間神社の社殿ばかりでなく含富里の光明寺や八幡の厳島神社の旧社殿も錦織の棟札があり、寺社ばかりでなく佐貫町の大網家亀屋や宮家伊勢又や三平家岩附屋の家も手掛けたとのことです。(その他ごく最近になって八幡の大森家伊勢屋、同じく八幡の池田家金次郎、共に現船端の加藤家住宅に劣らない家ですがこれらも錦織家の作ではないかという話しが出てきました。)以上のように宮大工は確かにやっていたという確証は得られたが船大工については現当主の錦織さんは知らないとのことでした。

 錦織家から借りてきた古文書に「昭和7年高麗明神新築奉加帳」があります。高麗神社とは錦織本家(一番古い位牌は400年の線香で真っ黒、目をこらして見ると主人が天正4年の没、奥さんが天正10年の没。この先祖はもともと古船の人。位牌の入れ物も一見の価値有り。いい細工です)が代々祀ってきた神社だそうで確かに隣のそのまた隣に小さな神社があり現在も錦織さんが個人で管理しています。

  この奉加帳の金額を見ると錦織と髙橋万兵衛が15円と断トツでその他は近在の有力者角田、地引あたりで3~5円。問題は寄付者の広がりです。神社の格から言って村はずれの個人が管理しているお稲荷さんに等しい神社に笹毛村はまあまあ近所だからいいとして隣の八幡村のほぼ全住民が1円なにがしの奉納をしていました。髙橋・錦織連合の威力は八幡には絶大の力があったらしいことがうかがえると同時に、錦織家と髙橋万兵衛家は古くから嫁婿のやり取りなどその関係は濃厚であることがうかがえました。

 それとは裏腹に地域以外の人たちの賛助奉納は別荘の人が目立つだけで例えば万兵衛会社の取引関係のような人たちは見当たらない状況でした。昭和になると万兵衛会社は金融や地代管理などは別にして実質的にはなくなっていたのではと思えて来ます。

 下に豊助さんの持ち船の写真を載せます。明治39年撮影。「父さん」の文字は鉛筆でぎしぎし書いた娘さんの落書きです。当時の家族写真もありました。女の子ばっかりの感じです。代々で見ると婿取り夫婦養子も多かったようですので、特に大工さんや船大工さんなどの職人の家は500年家業を続けるのは至難の業でしょう。(櫓漕ぎの人たち、胸の筋肉がついてかっこいいですね。初代若乃花の強さの秘訣は櫓漕ぎのたまものという話しもありました。揺れる床の上の櫓漕ぎトレーニングマシンなんてどうでしょう)

 両家をつなげているのはやはり船と明治期の豊助さんがやっていた荷物の運搬業であろうとおもわれます。しかし錦織家が昔は船を造っていたという直接的な古文書はありませんでした。

 髙良神社(高麗神社とも書く)と埼玉の高麗神社とは関係ないそうです。本社は久留米の髙良大社とのこと。祭神の一柱に海の神綿津見命がおられ大漁の神様、航行の神様ですが髙良神社を氏神として祀っているから船大工という事はちょっと強引過ぎて言えません。

 豊助さんの領収書綴り(明治30年、34年、35年)を見ると薪炭や魚の輸出ではなく、高額雑貨の輸入業に見えました。佐貫町の大店である亀屋、伊勢又、岩附屋が良く出てきて、1荷の金額は高いのは100円、通常10円単位でした。荷物の発送者は東京の問屋です。単純に運搬でなく金額のやり取りも運搬者が引き受けていたように見えます。豊助さんが玄関先まで運搬するとともに現金決済も代行していたようです。

 錦織さんが語る万兵衛家は以下です。(一部当HP著者の分析が入っています)

 先祖がどこから来たかは不明。昔は八幡の(字)市場に家があった。笹毛にも墓がある。現県文化財の加藤家住宅を万兵衛家から買ったのは石井造船でなく石井畜産(東京清瀬市)。3代目万兵衛の子供の一男さん(2007年に85才で死去)は税務署に勤めていた(キャリアではない)。しばらく木更津請西に家があったが今は千葉にある。万兵衛家の家は現加藤家住宅の左隣の奥。今も廃墟だが建物は残っている。加藤家住宅には乃木大将が来られた。記念に書いてもらった短冊が今も千葉の家にある。内容は「野桜によせて 色あせて梢にのこるそれなしてちりてあとなき花ぞ恋しき 希介」

 明治時代は銀行をやっていた。これは、佐貫町の大店が集まって銀行(千葉銀行の前身)をやり世界恐慌の時うまく逃げて名誉ある解散をした(宮正造さん談)の話か、あるいは特に八幡の住人に対して融資で船を買わせ渡海船をやらせたまたは後押ししたとも考えられる。ただ近所の人は万兵衛家は屋号「網本の大下(おおした)」と言っていたとのこと。純粋に投資家と言うことではなさそう。いずれにせよ明治期の髙橋万兵衛は佐貫地区では彼なくして金の話は出来ない存在だった。実際こういう事業をやっていると融資焦げ付きによる担保の土地が増えて大地主になるものだが髙橋万兵衛家の昭和11年の所有地は宅地1,003坪、田7.2反、畑6.4反、山林18.2反とまあ田舎の大尽にしてはわずかなもので特に高利貸しのにおいはしない。この数字も錦織文書から。(八幡の共同墓地のある墓石に「若くして志を立て、明治20年に運送船を購い京浜に向けて薪炭売り込みの業を造る。時運に乗って業績大いに挙がる。・・・」という文章が刻んである。これなど万兵衛さんの銀行から融資を受けたかも?)

 明治17年、昔の佐貫小学校八幡分教場の移転問題で移転先を鶴峯八幡宮の神社所有地にすべく当時国有地に接収されていた同地の払下げ願いの嘆願書を提出した八幡惣代は髙橋万兵衛である。これも錦織家古文書に残る。(なお、明治時代の地方行政トップは、町長と惣戸主が並列しているように見えます。どちらかというと町長より惣戸主の方が上。佐貫だと町長は昔の庄屋、大店の分家あたりで惣戸主は旧佐貫藩の筆頭家老(粟飯原<あいはら>)とか重臣の東條とかが出て来ています。時代が下って終戦後に町長が元佐貫藩主、助役が役場の職員。)

 こういう状況だったのに3代目万兵衛の時代の昭和13年になると納税額は29円。これは当時の村の有力者レベルで大金持ちというほどのものではない。大正6年の鉄道の開通やその後の通信や為替など金融システムの発達や、それこそ万兵衛さんだけ世界恐慌のとばっちりを受けたなどが打撃だったかも知れません。ちなみに八幡の大森家は71円。佐貫町の伊勢又は420円、宮醤油店(?)は53円、三平岩附屋は111円。以上錦織家の古文書より。

厳島神社奉納前句額の選者「収月」の筆跡鑑定

 当HPの「上総新舞子文学」や「厳島神社奉納前句額の復元」のページを訪問して頂ければ概略がつかめますが、前句筆記の漢字使用の特殊性から前句の選者と額の墨書者は同一人物であろうとの推定があってさらにその人「収月」作の川柳に「錦織」表現があるので錦織家の人だろうということになりました。次はその人は錦織家の誰か、ですが、今回現錦織家当主から借りてきた資料の中で、奉納前句額の奉納された年(亨和2年1802年)に一番近い文字資料として出たのは、天保8年の「年中行事兼稲荷祭記」と、天保15年「高麗明神幟旗」の二つです。高麗明神幟旗には「錦織左右衛門と傳七の記銘があります。

 前句額の亨和2年から天保15年まで42年ですから仮に前句額の時40才とすると天保時では82才。不可能な年令ではありませんが、その後の余生も考えればギリギリとなります。仮に今回の鑑定で筆跡が似ているということになって、その上で錦織さんが過去帳その他で、左右衛門さんと傳七さんがのどちらかが亨和2年に確かに生存していたということを証明出来れば結論が確定することになります。

 上の写真は筆跡鑑定の材料となった資料の表紙部分です。

 左から、奉納前句額の冒頭部分(亨和二年二月吉日記銘)、次が今回錦織家から借りてきた天保八年慶恵識と記銘がある「年中行事兼稲荷祭記」、一番右が同じく錦織家から写真をいただいた錦織家の氏神「高麗大明神幟旗」(天保十五年奉納錦織左右衛門、同傳七との記銘入り)

 次にどの字を使うかを考えたのですが、奉納前句額の中で「月」の字形が非常に個性的ですのでただ一つの字「月」で筆跡鑑定をしてみました。月は出現頻度が多いので好都合です。

 奉納前句額の月字は5箇所にあります。 最初の部分の大きな字「収月撰」の月。川柳「日月をくっつける身は暗からじ」の月。川柳「能因も海も余すか前の月」の月。川柳「月と日も光るや慈悲の為と説き」の月。最後に近く「亨和2年2月吉日」の月。

 高麗神社幟旗には2箇所の月があります。高麗大明神の「明」のつくりの「月」。左隅の、「九月吉日」の月。

 年中行事兼稲荷記には月日表記が多数あります。「二月」、「三月」、「五月」だけ、出してあります。鑑定とは離れますが「五月」の次に「佐貫御殿に、手????」と書かれているのが気になりますが「年中行事」はくずしがはげしくなかなか読めません。

 以上を比較すると奉納前句額と高麗神社幟旗は書き順最後の横棒が右の縦棒からはみ出ている特徴が共通してあります。一方「年中行事」の月ははみ出しがありません。


 以上により奉納前句額は錦織左右衛門の書であることが判明しました。
「年中行事」は錦織傳七(左右衛門の子?)と判明しました。(慶恵を号す。従ってこの人は収月ではない)

 厳島神社の前句奉納額の選者・墨書者が錦織左右衛門ということになると、常に行動を一つにしている髙橋万兵衛家が奉納額に出てこなければ不思議なことになります。

 そう言う目で1句、1句見て見ると、大店の大旦那にふさわしい句が見つかり、あげくにその息子らしい句も見つかりました。これについてはまた後で紹介します。

 その前に、左右衛門さんが残した高麗大明神幟旗の上下にある意匠の特にえび茶と黒の縦縞模様(と言うより上のものは太刀のさやの装飾巻き模様に見える。下の徳利口の折型紙は剣に見えて、徳利の模様はえび茶と黒の縦縞に見える。(京風の花鳥風月ではない。源氏の武将風東国風)これと、鶴峰八幡宮拝殿に飾られている大きな2枚の絵と、八幡で昔行われていたであろう魚船の進水式作法がぴたっとつながりましたので紹介します。(裏づけ資料はありませんが・・・・・)

髙橋家、収月=錦織左右衛門はやはり西国嗜好

鶴峰八幡宮拝殿の2枚の絵

 拝殿に上がると絵馬でなく2m角くらいと、1m角くらいの大きな額絵が目につきます。これは昔は旧拝殿(現淡嶋神社)に掛かっていたとの証言がありますので、新しいとしても明治時代より前の額だと考えられます。

 本殿に向かって右に大額は、松のある海岸で矢が四本くらいしか入っていない矢筒を背負った立派な武将が矢をつがえ中、その矢はどうやら手前にひざまずいている武将の背負った矢がいっぱい入った矢筒から借りたものらしい、と、こういう絵柄。二人の武将は立派なこしらえの太刀も腰に差している。拝殿に上がる度に見てなんだろうと思うのですが、一番近いイメージは那須与一が沖に向かって矢を放とうとするその瞬間の絵なのでは??と・・・・。それでもおかしい。那須余市は弓の名人だが身分の高い武将ではないし、まして自分の矢を背負っているのに何で他人の(しかも)立派な装束の武将の矢を借りなければならないのか?と・・・・・。

 平家物語の那須与一の項を見て見ますと、平家方は今後の自分たちの運命を占うつもりで、また義経の性格から、挑発すれば端武者のように自ら矢を射てくるだろう、その時は逆に打ち取ろう、の魂胆。それを察した源氏側が代理人として那須与一をたてる、という流れのようです。従って総大将代理人だから装束は立派なものとし、射るのは鏑矢ですから、自らの矢筒にはありませんからそれをもらい受ける必要があり、そうであれば差し上げ役もそこそこの武将でなければならないと言うことになって、今の絵のように表現したものでしょう。礼儀には礼儀を、段取りをきちんとしての表現だと思います。 「お前あの船上の女房が竿の上に立てている扇を射てみよ。」「ああいいっすよ。」でポンそれで終わり。というような大河ドラマとはチャウのです。まどろっこしい礼儀作法の神経戦があっての平家物語であり吾妻鏡なのです。額絵は東国武士道の華を表現したものでしょう。

 本殿に向かって左に中額は、波の中から出ている岩の上に御幣があり、それを正装の夫婦が拝礼している絵。男性はモーニング。女性は朝鮮風のチマチョゴリのよう。髪も和風ではない。

 こちらの絵柄はそれなりに理解できる。しかし沖の御幣に拝礼するのは何となくおかしい。

 新舞子の海が絵のような状態になるのは、船端に近い方の波打ち際でそれも春の大汐で最大に引いた瞬間(ほんの10分くらい)だけです。この時ばかりは砂浜が磯浜に変わります。

 結局この夫婦は海が提供してくれた台に御幣を祭り、降臨した神に自分たちの海の安全を祈願しているのでしょう。八幡の浜の古い祈り方を示しているのではないか。確かに砂浜に持ち込んだ台の上に祭壇をしつらえるより祈願の効き目がありそうです。

八幡の進水式作法 

 昭和30年1月。八幡庄司権重郎家最後の進水式目撃談。

 沖合30mくらいの所に新造船は(ポンポン船)だがこの時は櫓漕ぎ。幟とか紅白幔幕、万国旗などの飾りはなく、権重郎家の総領の息子(5才)がかすりの綿入れを着てミヨシを背にして坐っている。数人の男が後ろの方に同乗している。船が見物人の前に来ると櫓漕ぎが止まって、やがて男達が大声をあげて船を左右、前、後ろに揺さぶり出す。船の安定性を誇示しているのだろう。船が大きく揺れ幼子は怖がって両手で船の縁をつかんで泣きそうな顔をしている。ただ総領の息子は別に用事がなく最後まですわっているだけ。それが終わると浜で餅投げが始まる。

全部まとめて真相はカウだ

 第1幕:進水式の幼男児の役割は本当は魔除け。本来なら京都の祇園祭の屋台に乗っているお稚児のような化粧もして新造船に乗せたのではないか。暴れる男達はオニの役割なのだろう。

 第2幕:進水式の締めとして、春の大汐の日に波打ち際の岩に御幣を祭り、船主夫妻が正装で拝礼する。これですべての進水式の行事が終了するということではないか。

 これらの作法を決めたのは錦織左右衛門であり、八幡宮拝殿の絵は江戸時代の髙橋万兵衛家の当主の奉納、岩に「御幣」の絵は髙橋万兵衛(おそらく明治期いっぱ当主だった初代万兵衛)さんの奉納であろう。女性の衣装は絵師が和風の羽織袴かドレスかまよった末に中途半端なチマチョゴリ風になってしまったのでは?

 戦国後期から房総の歴史資料(武将の手紙や住職神職の日記など)にチラチラ出て来る、佐貫、鬼泪山、船大工。これらの担い手錦織家(浅間山木挽き、船大工・宮大工へと進んだ)。元亀・天正以来の神祀りの集大成と云ったら言い過ぎか?

 

八幡の木遣り唄と髙橋万兵衛家過去帳

 今からもう20年くらい前になりますが、NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」で佐貫(と上総湊)の家族が紹介されそれが縁で大坪の山中家に名古屋から嫁が来たというおめでたい話しがありました。

 それと似た話が300年前にあって、しかもその顛末が木遣り唄になっていて、八幡の祭りの宵祭りで獅子頭巡行の時にずーっと唄われていると言う話をします。

 獅子頭巡行木遣り唄については、本HPの「上総新舞子文学」のページに載っていますので合わせて訪問してみて下さい。

 一にめんたい二に油樽三に酒樽四にしまのこり。獅子は若ゆしあらよいよいと。神をいさむる氏子の守り。とんと大阪まきやのむすめ年は十六その名はおきよ縁につけよと仕度をなさる金が五百両腰元二人夜具が十二に布団が十九小袖四十二、手箱が八箱唐の鏡がのう七おもて。浴衣染めよと紺屋に聴けば紺にあさぎりうこんにかのこ肩の模様はなになくつけよ。

 梅にうぐいす飛び立つところ染めてやるから帰るなおきよ。これさ、かがさんへんとじゃないが先の姑がゆけともゆわばこすばなるまいのうかがさんよ。これさおきよよ良くききたまえ沖を帆掛けて立ちし船は舵のとりよで素直に走る。富士の白雪朝日に溶ける。とけて流れて三島におちる三島女郎衆の化粧の水。上町一松そまつにならぬ又もお世話になるじゃもの。

 ここはどこよとかこ衆にきけばここは一ノ谷敦盛様よ。国は長崎海老屋のじんく。親の代から小間物売りよ。とんと小間物売りおばやめて大阪通いのいとものだてよ。帆が七反船の真ぞあやとくぜつで十六さがり。かこが七人舵取り親父おもう甚句はうわのり船頭。かずの巻物船積みして柱おいこみぜびくちりんと。

 明日は日和だ船さしいだせひより良ければ良い友がのる。須磨や明石の友どころを眺めじんとこい風はやふき渡せ。播磨灘にてのう潮がかり。そうしなだおば早のりまわせ。沖を走らばれいぼさげてめやけしようならこれ有り難い。馬でとうらば馬からおりて舵でとうらば下座してとおれ。ここはどこよとかこしに訊けばここは一ノ谷敦盛様よ。

 さんさおせさせ、かこの衆。船は行く行くしん河口よ。とんと程なく大阪川よ。船をやりまわしょうとかんちょうぼりよ。錨やらせてともずな取らせとばを曳かせてかじおりこんでてんまおろしてじんくはおかえ。おかにあがりて呉服屋町よ明日は日も良いあきない初め。何を売りましょうきんらんどんす。当世はやりのビロードきゃはん。わたり薬はしなじなござる。きにゃしゃこうのきゃらたけ薬。ひとめみたならそらほれ薬。惚れたのちには又ぬけ薬。

 やあれうれしやあきないしもて京都新町遊びに行けばあれのこれのと見物なさる。これのくるわや目に付く女郎。小金小桜朝顔様よ。三味の音きく白糸様よさつまならいのおすみ様よそれにまされしみちじば様よあやに迷わぬにしきほれぬ。国人のぼらばつれのぼらんせ。連れてのぼるはいとやすけれどわしも国には妻子がござる。連れてのぼれば妻子が悋気。連れてのぼらんじんくがりんき。なんぼいなかのあらだいこでも腰の巾着そこまではたく。わしの女房をほめるじゃないが京で一番大阪二番立てばしゃくやくすわれば牡丹歩む姿はのう百合の花」

 この歌詞は下の写真で先頭の半纏を着て唄っている人の父親が80才台になって今後忘れ去られないようにということで口述したもの。その時でも彼が唄えるのは上の歌詞の最初から3節までだったとのことです。なお木遣り衆の宵祭りの時の正装は左の二人、浴衣に雪駄に扇子です。

 これを木遣りの節でどうやって唄うのかというと、「よーえーよーえーよーえーよーえー」や「ともづなよえー」の掛詞を入れ込んでいきます。例えば・・・・

 <拍子木二つ> ヨーエー、ヨーエー、ヨーエー、ヨーエーいちにめんたい二に油樽三に酒樽四にしまのこり ともーづーなヨエー <拍子木二つ> ヨーエー、ヨーエー、ヨーエーヨーエー、獅子は若ゆしあらよいよいと。神をいさむる氏子の守り。 ともーづなヨエー
 <拍子木二つ> ヨーエー、ヨーエー、ヨーエー、ヨーエー とんと大阪まき屋の娘。年令は十六その名はおきよ。縁につけよと支度をなさる。ともーづーなヨエー。金が五百両に腰元二人夜具が十二に布団が十九 ともーづーなヨエー。・・・・・

 この歌詞を髙橋万兵衛家の墓誌とつなげて見ようということです。

髙橋家第二代の嫁が木遣りの「おきよ」かも

 髙橋万兵衛家の歴代墓誌は八幡の共同墓地にある万兵衛家の石塔に刻まれている。この墓誌から、八幡神社獅子頭巡行木遣り唄に歌われている大阪まきやの娘おきよの嫁入りの痕跡が見つからないかと、歴代の生存期間を予測しつつ(子は親の20代で生まれる。親が晩年での親子関係は養子が疑われる。婿を取ったのなら男の子供がいなかったなど)古い年代順に1代、2代と生存期間を棒グラフで表してみた。そうすると3代までは童子、童女がいなくて、墓誌は夫婦だけと簡素なものであった。墓誌が簡素ということは子供たちが順調に育ち長男以外は皆独立するか嫁に行ったかでまあとにかく家内安全商売繁盛だということである。

 髙橋家の戒名の特徴と変遷を見ると初代から7代の明治までは漢字2文字に信士・信女・童子・童女の関西・浄土真宗系の戒名が続き、明治以後院号付きプラス4文字、最後に居士、大姉となっている。ただ例外があり初代は「積善道光居士」と4字+居士である。「居士」号はお寺に寄進したものが多い場合、また住職と親しい場合につくことが多い。その後は2文字になる。ただその中でまた例外が2人出てくる。「貴蚕信尼」と「圓和童尼」である。「尼」字の戒名についてグーグルで調べたが明快な答えがなくただ真宗系としか出ていなかった。 実は話しの種はこの二つの戒名である。これのどちらかがが大阪から来たおきよではないかと云う仮説である。話しとしてうまくまとまるかどうか。

 髙橋家の場合、初代の4文字+居士は大活躍した初代に対する敬意として住職(円鏡寺)が付けたとしてよいであろう。以下戒名では長たらしいので戒名の中の1文字で俗名を創作して初代から説明してみる。没年齢不明なので生年は墓誌の関係性から最少年令で推定した年である。以下、 かなり断定して書いています。

 初代善兵衛は1640年(寛永17年)江戸の魚問屋に生まれ。20代の若い時に八幡に一人で来て船大工錦織家と共同で生簀付き生魚高速運搬船を開発し、大成功をおさめた。善兵衛は35才くらいで結婚した。妻「みつ」は八幡の人である。1677年に長男善治が生まれた。1698年頃、江戸の親戚筋から大阪まきやの娘きよを善治の嫁にどうだろうかとの話が出て善兵衛は承諾した。婚礼は1700年に行われた。その時善治は23才、嫁のきよは16才。持参金500両、二人の腰元が付き従い、山のような嫁入り道具が運ばれてきた婚礼儀式は花嫁の美貌と合わさって八幡の住人にとってはそれ以後とっておきの語り草となってやがて木遣り唄(櫓漕ぎ労働歌)となった。木遣り唄の中では初代善兵衛の祖先は長崎の小間物屋で大阪に出て成功した話になっている。

 きよには翌年に長男覚治が生まれた。そして10年後初代善兵衛の妻みつが亡くなった。享年52才。 その後3代目覚治は地元の娘やすと結婚。やすには1717年に長男道造が生まれた。やすには次にゆめが生まれたが夭折。すぐに知恵蔵が生まれたがこれも夭折。そして知恵蔵の後を追って初代善兵衛が実り多い人生を閉じた。1727年享年87才。

 やすはその後覚蔵、本吉とふたりの男の子を設けた。やすの長男道造は弟本吉が生まれた頃にやすえと結婚し、すぐに後に5代目となる長男円造が生まれた。

 1735年ころの髙橋家は、2代目善治と妻のきよが健在、3代目覚治と妻やすが健在、さらに3代目の子供たちの男の子が2人居て、さらに4代目夫婦とその子の円造がいるというにぎやかさであった。

(注:その他に健康に育った男女が何人かいた可能性があることに注意)

 髙橋家はやがて波乱含みとなる。まず3代目の次男覚蔵が10代の若さで早世。その後2代目善治が亡くなり(1754年享年80才)、続いて3代目の三男本吉が20代の若さで早世(1757年)、すぐに3代目覚治が亡くなってしまった。(1758年享年58才)

 次に亡くなったのが「圓和童尼」(1762年)という戒名の幼女である。生まれてすぐ亡くなったとすれば年齢的に言って円造と妻そらの子供としていいのだが、戒名がなぜ童尼なのか、実は2代目の妻きよの戒名が「貴蚕信尼」なのでどうしても「きよ」と関係があるのではないかと思えてくる。

 考えられるのは圓和童尼(便宜上俗名を「かず」とする)はきよの大阪の実家から貰った養女ではないかということである。3代目の子供たちの相次ぐ若死にと3代目の死を見て心細くなった2代目妻きよと三代目妻やすと相談して髙橋家にしばらく女の子が生まれていないことと合せてかずをきよの実家から貰ったのではないか。本人が10才くらいで貰われてきてこちらに来てすぐになくなってしまったとすれば、生存グラフの関係性が読み解ける。八幡から遠く離れたところから来たと言う意味をこめてひと味変わった戒名にしたのだろう。同じく遠方から来たきよはその3年後に死去しかずと似た戒名がつけられたと考えるとすっきりする。(1765年享年81才)
 きよの戒名は貴い蚕。暖かい着ぐるみに日傘で生涯を絹を着て過ごした一生だったかもしれない。
 その後はほぼ年齢順に死去する。1770年に4代目道蔵が死去(享年52才)、1775年に三代目妻やすが死去(享年70才)、1780年に4代目妻やすえが死去(享年63才)

 髙橋家の5代円造と妻のそら、次に6代栄一郎と妻ちえは順調に代をかさねている。

 ここで6代栄一郎は1758年から1832年(74才)まで生きた人である。例の亨和2年(1802)の厳島神社奉納前句額の時代を生きた人なので前句額に栄一郎の川柳があるのではないかと考えるのが自然である。なぜなら前句額の選者ならびに墨書者が錦織左右衛門であることが判明しているので、髙橋・錦織連合を考えれば川柳が載っていない方が不思議だからである。そこで笹毛の川柳は多くていい句も多いのだがその中で髙橋家の当主としてふさわしい句はどれかと私が選んだのは次の句である。

 イカニ  かいまきを軒に返すは居候    笹毛  □□

 句意は、大口をたたいて家を飛び出した息子が食えなくなってある夜にしょんぼり帰ってきたが実家の当主(作者栄一郎)は家に入ることを許さずかいまきを渡して納屋で寝ろと告げた。翌朝、朝飯を要求して息子がかいまきを音高く軒下の縁に放り投げた光景だろう。句でいう「居候」は正確には居候立候補者であろう。この後の展開やイカニ。

 実は奉納前句額には居候立候補者栄一郎の次男吾郎本人が詠んだと思われる川柳もちゃんとあるのである。

 ホレ  日本の光る気なしで帰り蛍(けい)  八幡  鶴幸

 俺が悪いんじゃない時代がついてきてくれなかったからだとうそぶく居候立候補者は万兵衛さんの八幡の地所に住み直したようである。1802年当時まだ嫁はもらっていない。
 鶴幸さんの川柳はもう一つあります。

 タノシ 三島女郎替え間にしてと持ちかける   八幡  鶴幸
 しょんぼり帰ってきてため息ばかりで過ごしているわけではなく鶴幸さんは遊びの方(八幡の青年の団体女郎買い幹事)では房州の網元の御曹司としてはぶりをきかせているようである。

 墓誌を見ると1802年当時髙橋家は6代栄一郎とその妻ちえと、結婚したばかりの7代勝義とその妻あいがいて、さらに6代の次男の吾郎というのがいるのだが、不思議なのは吾郎と後に結婚したその妻たえと更にその子供たちの早世した二人の男子の墓誌が本家の墓に居候している点である。本来なら吾郎は早世した二人の男子をまず自分たちの墓所を確保してそこに葬るべきなのに本家の墓に埋葬しているのである。

 武家や農家では吾郎などは結婚できないで生涯部屋住みなのだが大きく商売をやっている家ではこういうことが可能だったのであろう。むしろ人手が多い方がさらに繁栄するからである。

 6代目栄一郎は居候の句を投稿したあと次男の一家の二人の息子が相次いで死んだ光景を見ているので今更吾郎の家の墓を造る意味がないことを分かりながら、あいつこそ究極の居候だなと思ったことであろう。

 と、いうことです。