伝統の美学 千種浜地区

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 下洲・千種浜は室町時代の廻国雑記、歌集未木集などに歌の名所(歌の題材になる場所)として記録され全国的に名が通るようになりました。千種浜の中で場所が特定しにくいのですが「桜井の浜」というところも紹介されていて、浜と同じ名前の桜貝が採れるという趣旨の記事が廻国雑記に出てきます。

 下洲、千種浜の昔を考える時、地形の変化を心に置いておかなければなりません。鎌倉時代、あるいは室町時代まで、小糸川(古代では須恵川と呼ばれていた)の河口が篠部と下洲の間に開けていて、その奥は広く沼地または潟のようになっていたのです。古文書で確認出来ませんが、いつの時代かに常代から人見まで堤防が築かれ、小糸川の付け替えがされたのです。

 だから、義経記(室町時代に成立)で、源頼朝が安房から武蔵、そして鎌倉への北上途中で、須恵川の河口のほとりで源氏の軍勢を待つというくだりがありますが、頼朝が自分に味方する武士を待っていた「須惠川のほとり」は、今の地名で言えば篠部なのです。人見や大堀ではありません。余談ですが、頼朝が篠部で武士を待っていたとすると、富津市上にある百(騎)坂、三百(騎)坂の位置と伝説が納得できます。佐貫を通過して鹿野山道をたどれば安房や、東上総に通じるからです。

 昔の千種浜は今の金田地区のようなクリークと砂浜が交錯した土地でこれがずーっと飯野あたりまで続いていたのです。

 昔の千種浜が、雅なロマンチックな場所になった背景には、鎌倉時代の親王将軍である宗尊親王が吉野地域を好まれ、奈良の吉野から桜を移植したという伝説の力によるところが大きいようです。(宗尊親王が吉野に来たという史実はありません。吾妻鏡によれば宗尊親王の地方巡行は三島大社や箱根権現などへの参詣だけです。しかし、親王将軍の発議で桜を移植するというような文化的業務は鎌倉幕府が大いに奨励していたはずですから宗尊親王が命じたと言うことは大いにあり得ます。)

 宗尊親王を始めとする親王将軍(三代将軍実朝が暗殺されて幕府は親王将軍を望んだが送られて来たのは藤原氏。宗尊親王になってやっと親王将軍が実現した。宗尊親王追放の後の二人の将軍は宗尊親王の子孫が継いで鎌倉幕府滅亡まで続きます)は日本史の中では極めて雑で軽い扱いになっています。北条氏が自らの権威付けのため京都から連れてきて、成人して気にくわなくなれば追放する。その捨て駒にすぎないというわけです。

 しかし、結果論でいえば、宗尊親王の周辺の人脈が鎌倉時代の次の時代の特に文化、儀礼、権力者の自画像(思想)を形成していったようなのです。親王将軍の秘書役として下向してきた上杉氏、血筋から言えば親王将軍に近いという認識を持っていた足利氏、西大寺の僧栄尊、禅宗の夢想礎石などなどは皆親王将軍のファミリーの中から出てきています。

 千種浜はそういう思想史の中で歌(田楽、能などの中で歌われるもの、 または俳諧、これが転じて茶の湯などに発展)の名所として取り上げられ京都の文化人(今で言えばマスコミ)によって記録、流布されていったわけです。


 また、ここは、ごく近世まで古代的な製塩が盛んだったということです。万葉集の時代からの「藻塩焼く煙」の美学が中世人の詩情を高めたのかも知れません。

 下洲海岸の現状です。地域活動としてのごみ拾い放棄地の様相です。本来、このごみベルト帯がハマヒルガオの生息地なのですが、ゴミのため無残な状況となっています。

 ごみ帯から丘の方に行くと、ハマヒルガオとコウボウムギの領域になります。この両者は共存しますが、コウボウムギの方が一歩リードしてしまいます。

 さらに丘側に行きますと殆どがコウボウムギの地帯となり、最後に砂防フェンスとなります。本来ならこのあたりに松林があってしかるべき場所です。

 砂防フェンスの内側は、カヤが繁茂し、植林した貧弱な松があり、その間をアオキ、トベラ、ウルシなどの灌木が生い茂った領域となります。(風を防ごうとすると松が貧弱になります。フェンスの陸側は松をあきらめることです。)

 ここの海岸をどう復活させるかですが、幸いにも近年ウインドサーフィン類の愛好家のメッカとなりつつあります。この場所に風呂と着替えの施設をつくり、マリンスポーツに特化した地域として洗練させて行くと言う手はありそうです。

 その場合、環境の徹底的なクリーニング(ごみ拾いと下水の完備)をして、波打ち際のハマヒルガオを育てます。また現在の砂防フェンスの海側50m幅程度に採石で砂の流動性を押さえた地域を作り、そこを松の疎林とします。そして松葉さえも下に落ちたままにしないほど徹底的に掃除をします。そうすることで実生の松が育つ白砂青松を作り上げます。

 下水完備について:学校、オフィス、病院、工場、人家、商店、農家や水産の作業場などのすべてに総合浄化槽を設け、いわゆる溝、どぶの末端での砂地へのしみ込ませをやめ、出来れば河川への放出前に最終的な下水処理場を通す。

  富津・下洲・千種海岸の2016年オニシバ状況

 富津岬北側の海岸、岬の先端に近い所の海岸は、オニシバとコウボウムギが支配的でハマヒルガオは殆どありません。

 ところが、潮干狩り場のとなりの海岸丘には密集ハマヒルガオがありました。ここは、盛り土に貝殻の混じった砂が薄く堆積した場所で、カヤなどの背の高い植物が混ざりながら密集したハマヒルガオが幅5m、長さ100mくらいに分布しています。
 富津岬南側は護岸だらけで自然海岸がないため割愛します。

 下洲海岸はオニシバとコウボウムギです。この状態は、篠部の海岸から、千種新田の海岸まで大差ありません。

 ここは3.11津波の遡上痕跡です。貝殻の多いちょっと窪んだはげ地です。津波後数日間潮が引ききらず取り残され塩田のようになったため、その後の植物の復活は、わずかに粗配置のハマヒルガオだけが生息を許されている感じです。汐に洗われた土地でオニシバは絶滅したようです。