富津の石造物(富士塚)

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 富津市の富士塚       藤平俊雄

  富士山が世界文化遺産に登録され、地元の静岡県と山梨県は観光振興に拍車がかかると沸き立ちましたが、その富士山は富津で育った我々にとっても故郷の原風景の一つとなっています。向地神奈川の背後にそびえ、夕暮れ時に沈んでいく太陽とともに微妙に色彩を変化させていく美しいシルエットは、家郷の印象に残る記憶として深く刻みこまれています。


 世界遺産としての登録理由は、「芸術の源泉と信仰の対象」ですが、富士山の信仰に係わるものは富津市にも幾つかあります。今回は、その代表的な事例として富士塚を取り上げ、紹介します。


 なお、富士塚の起源は、富士講の中興の祖といわれる食行身禄が享保18年(1733)に富士山烏帽子岩で覚悟の入定をした後、弟子の高田藤四郎が新宿高田の水稲荷神社の境内に模造の富士山を築造したことに始まるといわれます。これは富士登山のできない老人や子ども、さらに登山が禁止されていた女性にも登れるようにして富士山の御利益を与えようとしたものです。山頂には浅間大神を勧請し、富士山の溶岩を置き、小御嶽神社や御胎内、烏帽子岩などを築いて、富士山を模倣しています。

 富津市の富士塚(1) 青木 八坂神社富士塚

  現在、富津市内十四ヶ所に富士塚を確認していますが、この富士塚は、その中でも最大のものとなります。しかし、残念ながらここ八坂神社に当初から築かれていたものではなく、平成10年に近くのあんば様から移築されています。富士塚の石造物中に再建碑があり、明治16年が刻まれていますので、最初の築造は明治初期か幕末と考えられます。


 また、再建碑には富士講の山水講紋と52名の名前が記されており、このことから富士塚は西上総地域に多い山水講による築造と判断されるとともに、富士講は当時、地域にかなり浸透していたのではないかと推測できます。


 富士塚には、浅間大神が麓と頂上に鎮座し、小御嶽大神や大天狗小天狗、烏帽子岩、角行霊神、食行霊神、大願成就碑などの典型的な石造物が配され、登山道も設けられています。
 

 

 

  富津市の富士塚(2)湊神明神社富士塚 

 

 湊の神明神社に土盛りの山に海岸石を積んだ富士塚があります。頂上に石祠が鎮座し、築山上やその脇に「小御嶽大神」や「亀石八大龍王」などの石造物が置かれています。
 石祠には年代が刻まれ、明治15年が読めます。他に明治15年を記す石造物が三点ありますので、この富士塚の築造は、明治15年と推測できます。

 「小御嶽大神」は富士山五合目の小御嶽神社、「亀石八大龍王」は富士山八合目の蓬莱亀岩に因み、富士塚の通例として富士山所縁の石造物を置き富士山を模しています。
 この他に石造物として「神道一等扶桑派湊町社中」と刻まれた石碑があります。この碑には富士講の山水講紋が彫られていることから、明治政府の宗教政策のなかでこの富士塚を築いた地元の山水講は教派神道の「扶桑教」に統合されていったことが知れます。
 他にこの碑には、発起人・世話人9名、先達2名、碑石寄付者として渡辺佐七が刻字され、書は菱田近義とあって、明治15年頃当地域においては、富士講が隆盛であったことがうかがえます。

 さらに、富士塚の脇には渡辺佐七の顕彰碑が建てられています。碑表には山水講紋ととともに「真秀道佐翁命」が大きく彫られ、碑裏に渡辺佐七翁碑としてその略歴を紹介しています。碑文によれば「真秀道佐翁命」は、扶桑教管長から没後に贈られた称号です。
 翁は佐貫町笹毛の溝口家の出身で、湊・浦賀間の海運業で成功する一方、明治4年に富士講に参加して初めて富士登山を行い、明治32年に富士登山八十八回を達成し、明治45年に73歳で亡くなったとあります。

 富士講では、富士登山七回で信仰と登山のリーダーである先達となり、登山三十三回をもって大先達の栄誉が与えられます。登山三十三回の大願成就を果たした者は、市内で翁を含めて六名確認していますが、八十八回の回数は市内で最高のものとなっています。
 この登山八十八回は、翁にとっても自負すべきものだったようで富士吉田市の富士北口本宮浅間神社境内近くの扶桑教会植え込みの中に明治39年造立の渡辺佐七の「八十八度大願成就碑」が建っています。 

 また、渡辺佐七翁碑には大正3年に「中興二代男佐七建之」とあり、中興の二代目渡辺佐七が建立したと記していますが、大正7年10月から10年9月まで湊町長であった人物に渡辺佐七がいます。この二人は同一人物ではないかと思っています。


注1 山水講  江戸で興った富士講は、天明年間(1781~1801)に上総地方に伝わったとされます。こうしたなか千葉県で勢力を拡大したのは、木更津を本拠とする「山水講」と市原を拠点とする「山包講」でした。
  山水講の開祖は木更津の住人穐行日穂で、文政6年(1823)に没しています。
富津市内の富士塚や富士講石造物は、ほとんどが山水講関係のもので、大堀の神明神社にある富士塚は唯一山包講のものとなっています。また、山水講の三代目清山光行は、笹毛の人で墓碑が確認されています。
注2 教派神道  明治政府の宗教政策のなかで国家神道に対し教派として公認された神道系教団の総称。当初14教派が存在したがその後13派となり、一般に教派神道十三派と呼ばれた。具体的には出雲大社教、新習教、扶桑教、実行教、天理教などで、そのほとんどは教祖が存在し神社神道とは区別される。


 富津市の富士塚(3)富津浅間神社富士塚  

 日本武尊の東征伝説での弟橘姫の入水に因む貴布祢神社の側にあり、富士塚は自然地形を利用して造られています。
 塚中には、石祠や参明藤(サンミョウトウ)開山、富士登山記念碑、小御嶽石尊(コミタケセキソン)、などの石碑が建っています。


 「明藤(ミョウトウ)開山」は、富士講の祖といわれる長谷川角行(カクギョウ)が考案した概念で、富士山がこの世界を生み、万物を生成したとして富士山を「明藤(ミョウトウ)開山」と呼称しました。さらに中興の祖、食行身禄(ジキギョウミロク)は、これを「参明藤開山(サンミョウトウカイザン)」としました。身禄の死後、江戸を中心に普及していった富士塚は、この参明藤開山碑を典型的な石造物の一つとしています。


 富士登山記念碑は、中央に山水講紋とともに「穐同行(シュウドウコウ)大願成就」と大書し、上総国周准郡富津浦の鈴木茂右衛門(行名満山喜行)が富士登山三十三度を果たしたことを記念しています。


 また、この碑は建立年が明治7年(1874)となっているため、茂右衛門の富士登山の活動最盛期は幕末と考えられますが、この時期には千葉県下で百回を超える登山回数を達成した人物が知られています。鴨川市の、松本吉郎兵衛(栄行真山)で、天保14年(1843)に三十三回を行い、明治9年(1876)に百八回という大変な回数を達成しています。鉄道の敷設される前の時代のことですので、経済的にも体力的にもその苦労が偲ばれます。鴨川市貝渚の浅間神社には、この百八回の登山を讃える記念碑が造立されており、この碑の台座に鈴木茂右衛門の名前が刻まれ、松本吉郎兵衛の偉業に敬意を表しています。


 さらに、この茂右衛門もまた前回紹介した渡辺佐七翁と同じように富士北口本宮浅間神社境内近くに登山三十三度の報恩碑を建てています。
 一方、浅間神社の対面には御嶽神社があり、御嶽信仰永久講の石碑が林立しており、この御嶽信仰と富士信仰がどのような関係にあったのか興味が湧きます。両者は競合的な関係にあったのか、あるいは時代の盛衰の中で一方が他方に変わったのか、あるいは両者は信徒が重複して存在したのか。


 現在のこの地の富士信仰の状況は、富士塚中の小御嶽石尊碑の建立が平成10年となっていることから、平成の時代にも継続されていることが分かりますが、川名興「富津の漁労と民俗」(千葉県立安房博物館『研究紀要』Vol.12)によれば、当地の富士講は平成17年時点では既に解散してしまっています。他方、御嶽信仰については、神社の掲示物などから現在も継続していることが窺えます。

    注1 穐同行  富津市に圧倒的に多い富士信仰の講集団は山水講で、その開祖は木更津の穐行日穂(シュウギョウニッスイ)であるため、山水講の石造物には「穐行」や「穐同行」の文字が刻されることが多い。
 

 富津市の富士塚(4)富津市上 浅間神社

 上地区の龍岳神社の脇道を登っていくと浅間神社があり、頂きに富士塚が築かれています。


 塚には「上村中」を願主とする慶応3年(1867)の石祠をはじめとして狛犬、石燈籠、猿像などが置かれ、塚の近くには浅間神社の祭神木花開耶姫命の姉である磐長姫命碑(明治12年)や山水講行者高山勢行の三十三度富士登山の大願成就碑(明治34年)、御嶽信仰永久講の手水石などがあり、富士講と御嶽講が混在した状況となっています。


 富士塚及びその周辺に設置されている石造物の種類や数は多く、使われている石、彫りともに上等なもので、富士塚の築造にあたってはかなりの費用が投下されたことが窺え、講徒の方達の熱意が感じられます。


 こうしたなか石造物を子細に眺めると明治18年(1885)建立の石燈籠の台座には「両講社中」とあるので、この塚の築造は富士講と御嶽講の異なる信仰の講社が共同して行ったのではないかと考えられます。
 また、同じ上地区の神明神社にも山水講紋を刻んだ石祠(昭和14年)があることから同地区は、かつては富士講の山水講と御嶽講の永久講が盛んだったことがわかります。


 さらに、上地区の隣の八田沼地区のI氏宅には山水講紋の富士登山三十度の大願成就碑(明治39年)があり、行者の肩書きは富士塚上の三十三度碑と同じ「吉野組監督」とあるので、この辺り一帯は山水講では「吉野組」として組織化されていたようです。

 

 磐長姫命碑

 三十三度大願成就碑

 富津市の富士塚(5) 大堀神明神社

 富津市の富士塚で築造した講社名が確認できるもののなかで、ここが唯一「山包講」の築造となっています。他は全て「山水講」によるものです。


 しかし、この神明神社から小糸川を遡った流域周辺の君津市では、山包講による富士塚や石造物が見られ、伝播に小糸川の水運が与ったかとの推測を喚起します。


 山包講は江戸の蝋燭屋包市郎兵衛が興した講ですが、房総への進出後は本拠の市原市五井を中心に江戸を凌ぐほどになり、その勢力は香取郡や安房郡にも及びました。講紋は山印に「包」の文字をあしらっています。


 富士塚は本殿裏に二つ造られていますが、元は神社入口の鳥居脇に築かれており、駐車場の新設に伴い現在地に移設したとのことです。塚中には古藤山大神や富士嶽神社、角行霊神・食行霊神、富士山登山記念碑、手水石など多様な石造物が配置されています。


 こうしたなかで紀年の確認できる最も古いものは明治6年ですが、富士嶽神社には「明治9年再建」とあるため最初の築造は幕末期であろうと考えられます。
 登山記念碑は明治23年と同34年の二基があり、「三十三度大願成就」「六十六度修行御恩礼」などが刻まれています。


 また、これらの富士塚の右隣には御嶽教永久講の塚もあり、両者が共存する形となっています。
 なお、上記の「三十三度大願成就」の先達名は平野実全で、御嶽教永久講碑群の中に平野実全の顕彰碑があり、これによれば成田不動の信仰に厚く、明治14年8月に61歳で亡くなっています。神社近くの明澄寺境内にある成田山新栄講碑の傍に置かれる手水石には、「行者平野実全」の名前が見えます。
 もしかすると、平野実全顕彰碑は、移設の際に永久講碑群の中に取り紛れてしまったのではないでしょうか。それとも平野実全は、富士講、成田講に加えて御嶽教永久講も信奉していたということなのでしょうか。

 

 富津市の富士塚(6)番外編「世界遺産になった富津人の供養塔」

 今回は富津市を離れて静岡県富士宮市に飛びます。
 富士宮市には世界遺産「富士山」の構成資産として富士山本宮浅間大社や山宮浅間神社、村山浅間神社が指定されていますが、この他に人穴浅間神社の富士講遺跡があります。

 富士山本宮浅間大社

 人穴浅間神社は、富士講の祖といわれる長谷川角行の修行の地であり、富士講徒にとっては聖地でもあります。このため同社の境内には角行や富士講中興の祖食行身禄の供養塔や信徒の登山記念碑などが多数建立され、現在約230基が残されています。

 山宮浅間神社遙拝所

 人穴浅間神社の富士講遺跡

 このなかに山水講三代の供養塔があります。講祖穐行日穂、二代穐月常行、三代清山光行のもので、初代は木更津の住人、二代目は市原、三代目は佐貫の人です。山水講が江戸の講ではなく木更津で興り勢力を拡大した講であることの一端は、指導者の出身地からも窺えます。
 三代目の供養塔には「上総国天羽郡佐貫領笹毛村 俗名角田佐左右衛門」と刻まれています。

 人穴浅間神社の角行供養塔

 そこで、富津市笹毛の角田家の墓碑を捜してみると、角田佐左右衛門の墓には山水講の三世であり、行者名は清山光行で富士登山三十三度を達成し、万延元年(1860)7月9日に77歳で亡くなったことが記されています。しかし、こうした大先達としての事蹟も遠い昔のこととなり、今やほとんど知る人もいない状況です。

 人穴浅間神社の角田佐左右衛門供養塔(傾いているもの)

 富津市笹毛は幕末に山水講三世を生んだ地ということで、周辺の山水講の痕跡を調べてみますと、同じ地区内の八坂神社に小型の富士塚(年代不明)があり、隣の鶴岡の古船浅間神社には文政年間に隣村迎原村の富士講徒が奉納した御手洗と富士講碑、さらに八幡の鶴峯八幡神社には山水講の富士塚(明治15年)が確認できます。
 また、佐貫や宝竜寺にも山水講の石造物が遺されており、こうしたことを踏まえるとこの辺り一帯は幕末から明治にかけて山水講の盛んな地域だったことがわかります。

 富津市笹毛の角田佐左右衛門墓