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小説「風雲佐貫城秘聞」その3

 21.転戦その2

 当時八幡村には十艘の五大力船、二十艘の押送船があった。そのうち二艘の五大力船が誠忠隊のために提供された。五大力船は棹走りといわれる船の前後を貫く舷側のテラスを持ち、また極めて吃水の浅いのが特徴の船で、実際遠浅の浜でも苦にせず内陸に入って行ける、いわば上陸用舟艇。


 二艘の五大力船は浦安沖に達すると、右に曲がって行徳を目指した。官軍本営のある船橋の沖を心配していたが警戒しているような船は見当たらない。フリーパスで江戸川(当時の名前では「と祢川」)に入った。ここからは、江戸川左岸の船着場に軍隊用品らしきものがあるか、兵隊らしきものがいるかを見ながらゆっくりと上流に上がって行く。棹である。


 行徳は特別何も見当たらない。次は国府台。ここには数人の兵隊らしきものが見えたが荷物らしきものは見当たらない。さらに上流へ。左に大きくカーブして二キロメートル走ると、矢切の船着場が見えて来た。明らかに兵隊の格好をした者が20人くらい。土手の上にはコモかぶりの荷物がたくさんならんでいる。ここだと後続の船に合図しながら長岡らはどう攻撃するかすばやく計算する。


 船は矢切をやりすごして、さらに三キロメートル。右に大きくカーブしきったところで停止。両船が接して最後の打ち合わせ。その後、いかりと棹でたくみにUターン。流れに乗ってかなりのスピードで走る。矢切の船着場が見る見るせまってくる。木造の浮き桟橋の少し手前で船は左に舵を切って岸にぶつける姿勢となった。船底からガリガリと音がして船が停止すると同時に全員が飛び降りる。ヒザ上くらいの深さである。体勢を整えてすぐさま鉄砲を撃つ。(単発銃なのでがんばって十発くらい)敵はこの時になってようやく異変に気づいたが、パニックになりバラバラと街道を国府台の方に逃げて行く。この間に五大力船は、バックして、あっという間に川の本流にもどり、どんどん遠ざかって行った。
先行隊は、敵に余裕を与えないように、深追いするかたちでどんどん追いかけていく。


 一方、後続隊はコモかぶりの荷物の中身を確認。それらが武器弾薬であることを確認すると爆弾仕掛けをする。浮き桟橋、小さな芝舟、見張り小屋らしきものには火をつける。


 導火線に火をつけ終わると、確認の二人を残して先行部隊を追いかけて街道を走った。


 一キロメートルも走ると遠くで地響き。全員がガッツポーズ。


 帰りは、基本的に山道を選んだが、民家の少ないところは街道を行った。この辺一帯では、南下する兵隊は官軍だとの先入観があるようで、あやしまれることもなく、敵兵に遭遇することもなく、ごくごく簡単に敵陣を離脱できた。まずは見事な成功。長岡らは、この方式にさらに工夫を加えていけば、佐貫藩の武器・弾薬保有量から半年くらいの運動は出来る、そして半年もやれば、官軍への心理的な圧迫効果が出て、関東の戦局全体に影響が出せる、出せそうとの確信を持った。

 22.原作「佐貫城秘聞」のストーリー

 ここで、府馬清さん原作のストーリーを紹介します。原作は悲劇的結末を向かえますが、「風雲・・・・・」の方はどうなりますか。また、美斧と長岡にからんで来る山田が、「風雲・・・・・」では、いつどういう形で登場して来ますか。それらは、ヒ、ミ、ツ、です。

  「物語」


 慶応四年4月4日


 鹿野山、鬼泪の山脈がともにまろばされた毬のように弾んだ稜線を描いて起伏している。佐貫町古宿にひとりの女、急ぎ足。紫地の縮緬小袖、黄八丈帯、年は十八、十九豊頬丸顔の美女、勝気、武家の娘に違いない。


 歩きながらうれしそう。佐貫城の三の丸を背に歩いていると「美斧殿!」と呼ばれる。呼んだのは結城縞の小袖、博多帯の職人風、職人にしては理知的な顔。佐助という。


 佐助と何事かを話すと女はまた歩き出す。次に若い武士に会う。山田という。山田は娘の父親に取り入って嫁にと美斧に縁談を申し込んでいる。どちらへの問いに美斧は「足と鼻の向くままに・・・・」とけんもほろろ。その後、佐助、山田は前後して美斧の屋敷へ行くのであるが・・・・・・。


 しつこく付きまとおうとする山田をどうにか振り切って、美斧は亀沢村北上神社に向かう。朽ちかけた鳥居をくぐると五十六段の階段を登る。「軻遇突智の命」を奉っている。「山田様みたいな人、大嫌い」美斧が好きなのは大目付の長岡勇。実は長岡と北上神社で逢引予定。うっそうと椎や唐椎(トウジイ)の茂る森、長岡はまだ来ていない。美斧は思い出す。八幡(新舞子)の浜まで二人乗りの馬で行ったこともある、鹿野山、神野寺にも行った。九十九谷の景観の中で「そなたが好きで好きでたまらぬ」と長岡はたくましい腕で抱擁したのであった。思い出にひたり幸福感に包まれて美斧はしばらく境内にたたずんでいた。
 すると、何人かの男たちの声。美斧は神社の後ろに隠れる。


 階段を上がって来た男たちは、馬乗袴、打裂羽織姿の武具奉行印東、森、青山等の面々。「西国勢が攻めて来た時には城を枕に討ち死にの覚悟。佐貫武士の豪胆さを見せてやる。おいぼれ家老めが・・・・」といさましい。実は美斧は、若者がけなしているこのおいぼれ家老の娘なのである。若者たちは薩長打倒祈願の額を神社に奉納にきたもの。奉納し、神頼みして去る。長岡は来ない。美斧にとって薩摩長州も抗戦派も恭順派も興味ない。長岡だけに興味。


 牛蒡谷来光寺で佐貫藩の若者24人で血盟隊の会議。神子、山崎。杉崎の面々。長岡も入っている。長岡は美斧との約束でやきもきしている。中座するきっかけがつかめない。そのうち家老を暗殺しようとの話に。長岡はびっくりして反対するが多勢に無勢。今夜にもやろうということになる。(長岡は傍観。家老に注進もしない)


 一方、佐貫城下、家老相場助右衛門宅。父と山田は囲碁。佐助が見物。相場も千波も職人風情の佐助を対等に扱っている。千波との結婚を許す気持ちらしい。(千波と佐助の話は並行して物語られるのだが錯綜するので以後割愛)


 山田は血盟隊に入っていない。助右衛門は山田がお気に入り。山田はちょくちょく助右衛門宅に来ている。山田は美斧を嫁にと父親に申し込みしてある。父親もまんざらでない。ところが美斧は長岡が好き。すでに何回かデートも。


 その日の夕刻、美斧の帰りを心配して捜しに行った相場助右衛門は血盟隊に襲われる。相場は峰打ちで軽くあしらう。襲撃隊に長岡は入っていない。相場はこの若者たちも考えは凝り固まっているがそのうち分かる時が来ると穏便に済ます。届けをしない。


 数日後、長岡と美斧が馬で八幡浜にデート。八幡神社の一の鳥居の急斜面を下って船端へ。巨松が三本、海に向かって形良い。絶壁の上で、美斧は長岡に血盟隊から脱退してくれと頼む。長岡は出来ないと返事。美斧を置き去りにして帰ってしまう。美斧は後悔。長岡も後悔。


 家老暗殺に失敗した血盟隊が会議。今度は鉄砲でやろう。山田は鉄砲の名手だ。家老宅に出入りしているが完全な恭順派でもない。長岡は山田の友達だから長岡に説得させよう。長岡は断りきれないで引き受ける。(山田は剣も達人。長岡も鉄砲の達人とされている)


 山田に会った長岡は家老暗殺の話をせずに、美斧をめぐる争いもあって、山田に決闘を申し込む。山田と長岡が亀田の原で決闘。長岡負けそうになる。その最中に、幕軍撤兵隊が木更津にせまったと血盟隊の面々が知らせに来る。決闘はお預け。この場で血盟隊は山田に鉄砲で家老を暗殺してくれと頼む。意外にあっさりと山田承知。


 佐貫城、四十畳敷の大広間。恭順か籠城かの会議。重臣、三枝、東条、原田の面々。かんかんがくがく。相場の意見。「国家の興廃は人力のおよぶところではなく、歴史の流れ。滅びる時がくれば必然的に滅びる。したがってここで官軍に抗ってみても、はかない蜉蝣の斧。とても勝算がない。恭順こそ阿部家の無事存続を計る唯一の道です」


 二回目の会議の後。佐貫城の大手門で血盟隊、家老を待ち伏せ。山田が鉄砲を持っている。長岡、決定的な場面にいて、自分の役割が鉄砲でなかったのでほっとしている。相場が退城したとの知らせ。その時山田はやおら鉄砲を長岡に渡して、小便だ、小便だと言って逃げてしまう。時間がない。隊長の井上が山田はずらかったのだ、こうなったら長岡あなたがやってくれ。恋人の父だということは分っている、佐貫藩のためだ。長岡は顔面蒼白になるが引き受けた。鉄砲を撃ったよう。(ここ、はっきりした記述がない)鉄砲の音。家老は左腕に激痛。そこを襲撃者多数。相場の死体は染川に投げられる。


 山田、家老が血盟隊に襲われたのを美斧に報告。相場を殺したのは長岡だと言う。美斧信じない。山田、美斧に言い寄る。美斧拒絶。ただとにかく血盟隊が押し寄せて来るから逃げようと山田と美斧は湊川数馬へ。


 血盟隊は山田を裏切り者として探し回っている。


 山田と美斧、血盟隊に見つかる。


 山田と長岡対峙。今や美斧は山田の味方。山田が有利。ところが長岡を討つあと一歩のところで山田が足を滑らせ絶壁の上から湊川に転落。


 残った美斧、長岡の顔をにらみ、「あなたはよくもお父上を・・・」と。長岡はくちびるがぴくぴく痙攣したが言葉にならなかった。秀でた顔は蝋のように青ざめ見るもみじめにゆがんでいた。ただ瞳だけを異様に見開いて美斧をにらみ返している。美斧は短刀で長岡に向かう。「待って下さい。私は、私は・・・・」結局、長岡は逃げる。


 ところで湊川に落ちた山田だが、実は村人に助けられていた。山田はここで村娘といい仲になる。


 佐貫藩は佐幕になって、血盟隊は撒兵隊に合流、各地に転戦する。


 美斧、佐貫藩の血盟隊と長岡をやつけてもらおうと江戸の官軍薩摩屋敷へ。薩摩の中村半次郎は美斧と面会する。敵打ちの助成は出来ないと言う。ただ佐貫城攻めの同行は許される。美斧そこまで思いつめていながら、それにも関わらず美斧は長岡を敵とは思い切れない。でも長岡はちらちらと美斧の前に現れるのだが、すっと逃げて、相場を殺したのは自分ではないと断定しない。美斧は長岡と刺しちがえて死ぬつもり。官軍と共に、美斧は転々。そのうちに山田がまた美斧につきまといだす。


 美斧はついに、山田に、長岡を討ったら山田と結婚すると約束。美斧は官軍と一緒に佐貫城に行くことにする。旅の途中で美斧は、父を殺したのは山田であって、長岡ではないという夢を見る。


 血盟隊は千葉の各地で転戦。負け、負けの連続。長岡、結局この戦いは無理だったと悟る。そこで佐貫城に帰って藩主に面会。相場のいうように今後は恭順で行くべきだと上申。いままで抗戦派の急先鋒だった長岡がこんなことを言い出したので城下は大混乱。藩主は「この大馬鹿ものめが!」と一喝。血盟隊の中にはまだ抗戦派がいたが、ここで藩論は再び恭順になった。長岡はずっと次のように考えていた。美斧に、相場を暗殺せざるを得なかったいきさつを正直に説明し、それで美斧が自分を討つというなら討たれてやってもいいと。ただもうひとつの考えが頭に浮かぶ。やることはやったそして失敗だった、後始末として藩論をまた恭順にもどした、もはややることはない、相場を殺してしまったことについて美斧に会わす顔がない。ここは自刃すべきでないか。結局長岡は疲れきっていた所為もあり自刃を選ぶ。(遺書を残す。藩主の手に)


 ついに佐貫城開城。美斧は官軍の隊長中村半次郎と共に佐貫城へ。開城の儀式。武器の引き取り、その他が終わって、美斧は藩名簿に長岡の名前が朱線で消されているのを発見した。自刃したとの報に接する。美斧、藩主から長岡の遺書を見せられる。「美斧殿へ」の表書きの中に次のようなことが書かれていた。「血盟隊に入ってから美斧の父を殺さざるを得なかったいきさつ、その時々の自分の気持ち、その変化。そして最後に、たとえ大地が割れようが太陽が西から昇ろうが私は草葉の陰から永遠にあなたを愛し続け、あなたの幸福を祈っています。」これを見た美斧は「長岡様なぜ死んでしまいました。なぜ自刃などをなさいました。あなたが悪かったのではないではございませんか。それをなぜあなたは・・・・・・」、「ばか、ばか、あなたはばかです。死んでしまったのでは何にもならぬではございませんか。草葉の陰からいくら愛していただいても、私は、私は・・・・・・・」


 美斧はその足で、長岡の家へ。長岡の母親が出てきた。父を殺された娘が殺した犯人の弔いをしたいという。母親はとまどいながらどうぞと、長岡の遺体が安置されている部屋へ案内。美斧は長い間長岡の顔を無言で見入る。ほほを涙が伝う。長岡の母親は敵打ちが出来たのになぜ泣くのか合点が行かないまま見つめている。美斧は長岡に頭を下げ、そして母親に深々と頭を下げてその場を辞した。


 外に出ると山田が待っていて、長岡が死んだのだから約束通り結婚してくれと迫る。「あなたは長岡様のことで嘘ばかりこの私に言いました」「佐貫一いや日本一の美貌の嫁をもらうのにそのくらいの嘘は当たり前だ」、「そんなに私と結婚なさりたいのなら日を改めてまた来なさい!」と美斧、今は話す気がしない、さっさと去れと山田を追い払う。


 翌日、不吉な予感がした妹が自宅を訪ねると、美斧は毒を飲んで冷たくなっていた。

 23.品質トラブル

 閏4月8日。次の作戦を練っている粟飯原、長岡のところへ銃器技術の東条から「至急、来光寺に来られたし」の連絡が入った。来光寺は誠忠隊の宿舎になっている寺である。隊長、副隊長が行くと、東条がまずいことになったと言った。


 「銃弾在庫の銘柄が変わったとたんに不発弾が多くなったんだよね」、「どういうことだ?」、「今まで主にカールビンソンを使ってたんだが。もちろん相場さんの一件も、矢切攻撃もそうなんだが、実はあの二件でも、相場さんの時は四丁のうち一丁は不発、矢切の時も一丁は不発があったんだ。不発の理由を調べなくてそのままにしておいたんだが、今日、カールビンソンの在庫がほとんどなくなったので、山のようにあるアームストロングの銃弾で試したら三発やって三発とも不発だったんだよ。アームストロングが全部不発となると佐貫藩には予備の銃弾がカールビンソンの二十発しかないことになる」


 長岡らは、銃と銃弾を持ってこさせ、あらためてテスト。一発目、不発。二発目、ダン
と鳴って今度はOK。三発目、不発。今度は薬きょうが抜けなくなった。長岡が発射口を覗こうとすると、「ダメ、危ないぞ」と、東条。二人の隊員に銃をかまえて押さえさせ、東条がタガネを薬きょうの尻にあてがって、ハンマでポンとたたくとダンと鳴った。その後で銃口に長い鉄棒を差し込んでさかさまにし、地面をトン、トンとつつくと空の薬きょうが外れて取れた。


 「これは困ったな」、「四分の一インチ椎の実型銃弾のアームストロングの銃の方はあったかな」、「一丁か二丁あったんじゃないか。チョッと見てくる」


 幸いに銃座がこわれかけたアームストロングが一丁あった。これで試すと百発、百中。不発なし。
 「火薬がしけったわけじゃないし、何だろう」と長岡。東条が片目で弾薬をしげしげとながめながら「多分、ここのツバのつけ根の角部が銃のメス型の角部より大きいんだな。わずかな違いだけど、薬きょうのツバがメス型にぴたっと合わなくてスキマが出来るんだ。そのため撃鉄の衝撃力が殺されちゃうんだ。それで不発になる。」


 「直せないかな」、「銃の座の穴角をヤスリで削って面取りするか、バネを強くするかだけど手作業じゃ無理だなあ。造ったカムパニなら百丁や二百丁の鉄砲なら一日だけの手直し仕事だろうけどな」
 「ヤットコでバネを短く切ってやってみっか」と東条。東条は器用に撃鉄のバネを短く工作しレバーにひっかけた。「これでうまく行けば首がつながんだけどよー」


 長岡、粟飯原は祈る思い。ようやく出来上がった鉄砲。一発目、OK。二発目、OK。三発目、OK「おお、うまいじゃないか。もう二、三発やってみろ」四発目、OK。ところが五発目はカチッと音がして不発。「だめだ、バネが伸びてしまったんだよ。ヤバイナ、これは」
 「らせんネジの首にあてがうツバみたいなやつがあるだろう。あれを薬きょうにはめたらどうかな」「ぼるとのわっしゃーか?大砲の部品のどっかにあるから試して見るが望み薄だな。サイズが合うのが見つからないかも知れないし、撃鉄の衝撃点が変わる、わっしゃーの平面度保証がないからスキマがゼロにならない、戦場でいちいちわっしゃーをはめ替えるなんざ出来ないよ」


 長岡はヘナヘナと膝がくずれる思いがした。考えに考え抜き、自分なりに工夫をし、密かには結構才能があるんじゃないかと、日本の近代戦でなら食って行けるんじゃないかと自負していたものがくずれ落ちた。髪の毛も入らないようなスキマのために撃てなくなる銃。そんなことを夢にも知らないで作戦を立てていた自分のおろかしさに腹が立つより、何よりなさけなくて涙が出てきた。これが相場様を殺してまで自分がやった仕事の結果なんだ。どうすんだよ、長岡!。


 誠忠隊は作戦停止状態になった。

 24.大殿一喝

 閏4月12日。この間、官軍は破竹の勢いで前線を南下させつつあった。旧幕撒兵隊は木更津を拠点にして小人数の歩兵グループを何隊も繰り出し、官軍南下を食い止めようともがいていたが、官軍の四倍、五倍の死傷者を出し、都度後ずさり。官軍は前線を、検見川、八幡宿(佐貫阿部藩の飛び領あり)姉崎と進め、木更津はもう目の前。房総城持ち五藩では、関宿、佐倉が早くに官軍側につき、久留里、大多喜は恭順。残る佐貫だけがのらりくらりと言を左右にして煮え切らない形になっていた。官軍側では、撒兵隊はすでに崩壊と見て、残る佐貫の始末で房総戦を終結し、軍を会津に向ける算段であった。


 なお、負け、負けの撒兵隊の中にはその後の明治で活躍する人が多数(開成中学創立の江原素六等)いる。戊辰戦争では負け側が多くを学んだかも知れない。


 ちなみに房総城持ち五藩のうち、現在、城跡が未整備なのは佐貫城だけ。戊辰戦争での煮え切らなさが薩長政権以後も嫌われたか?佐貫の住人は深く恨んでいる。(今宵もロウソクを両耳の上に差して五寸釘)


 佐貫城三の丸書院。万策つきた表情で誠忠隊の粟飯原、長岡、東条。重臣の粟飯原、木村、石田。藩主(阿部正恒)。結局、勤皇証書を出すのだが、誰がどういう論理で持って行くかである。官軍からつつかれると予想されるのは次の5点。


① 重臣相場暗殺の経緯
② 林・伊庭隊への資金提供の経緯
③ 誠忠隊の活動実績
④ 銃、砲の管理状況
⑤ 勤皇証書提出が遅れた理由


 対決相手は中村半次郎(後の桐野利秋)。テロリストあがりだが颯爽とした人をひきつける演説で知られる。


 腰抜け、弱虫佐貫藩で通すには、①、③、⑤がネックになってしまう。


 「クーデター後の誠忠隊の恐怖政治にして、我らの斬首または切腹で納まらないでしょうか」と、長岡。「バカヤロウ、わしにどこかの社長のように、部下がやりました、管理不行き届きですと家老と並んで頭を下げさせるつもりか。切腹ぐらいなど私だって覚悟してるのだ!」と、藩主。


「・・・・・・・・・」、「・・・・・・・・・・・・」


 遠くの廊下から、ドタッ、ドタッという音がだんだん近づいて来た。やがて障子がサッと開くと片腕を近習にかかえられて大殿(阿部正身)が仁王立ち。一同、ハッ、ハッハーと平伏。「貴様ら!相場をなぜ殺した!」、大音声。親父の方の粟飯原をにらみつけると、「五平太!言って見ろ!」大音声。粟飯原は、ハッ、ハッハーとまた平伏。「その挙句が何だこのざまは!」そこで大殿、ヘタヘタとくずれ落ちて座った。そしてとなりの長岡の手をとって、弱々しい声で、「相場よー、相場たのむぞー」、長岡が「おそれながら相場様ではござりませぬ」と小さな声で。「わかっておる・・・相場よー、相場たのむぞー」、ハッ、ハッハーと長岡、平伏。


 大殿、けろっとした顔でよっこらしょと立ち上がると、ドタッ、ドタッと歩いて行った。近習が一礼して障子を閉める。


 残された重臣たちはあっけにとられて、首をかしげている。ボケなのか、演技なのか、本音なのか。「・・・・・・・・」、「・・・・・・・・・」


 その時、障子の外から近習の声。「皆様にお伝えいたします。大殿様がお呼びです。殿と長岡様、大広間までお越しくださりませ。」


 「決まったな。我ら一同大殿様の仰せにしたがいますると申して来て下さい。」石田が宣言した。
 藩主と長岡が大広間に行くと、大殿は入り口近くの畳に両足を投げ出して一人で座っていた。そしてぼそぼそとつぶやくように言った。(大殿の風貌は、後に佐貫町町長になられたお孫さんに伝わったとされている)


 「相場はいろいろなことをわしに教えてくれた。上総のこと、上総武士のこと。上総を名乗り、上総に足を踏み入れたものはなぜか天下を志す。ヤマトタケル、鎌足公、将門公、忠常公、義朝公、頼朝公、広常公、義盛公、宗尊親王、前上杉氏、尊氏公、信長公、権現様、頼房様、光圀様、吉保公、白石公、意次公、みんなそうだ。成功した方、中途で亡んだ方、いろいろだ。ただ、みんな颯爽と生きた。なぜか、殿、上総の土地の神が寿いでいるのですよ。上総のさむらいが助けているのですよとな。上総のさむらいのあるじになりなされとな。」


 「長岡!おまえは相場に面がまえがそっくりだ。おまえは上総のさむらいだ。そしてこの倫三郎を天下にうって出られるようにとは言わぬ、せめて人がましい立ち居ふるまいになるように導いてくれ、条件はそれだけだ。頼むぞ長岡。」


 長岡は涙を流しながら、もったいのうござりまする。不肖、長岡、相場さまになりかわって相つとめまする、と、言った。

 25.佐貫城開城

 閏4月14日。佐貫藩は官軍に降伏した。佐貫城はすぐに佐倉藩兵の管理下に置かれ、藩主父子は勝隆寺に蟄居。藩士達も五組に分かれて、城下の寺に謹慎。殿町の藩士屋敷はすべて表門は竹矢来。付近の農家や商家の子供たちが珍しがって見物に来る状況となった。すでに大手前に総督府の名前で高札がかかげられている。


 総無事令=乱暴狼藉しないかぎり、従来の権利関係は保護される。キリシタン邪宗はご法度。忠孝の道に背くことなく生業にはげめという内容。


 残るは、降伏文書、武器目録等の提出ということになる。場所は佐貫城書院。官軍の長は中村半次郎副は寺島宗則。床の間の前にわらじ履きで床机に腰掛けている。陣羽織にはちまき。赤熊は持っていない。長刀を手で支えている。


 六尺の床の間には山水を描いた南画が一幅掛けられその前に紫鋼の花瓶に芍薬が生けられてあった。眼に魅入るばかりの美しい紫色の花を一、二輪つけた一木である。


 藩主、阿部正恒、白装束の裃、無腰。敷居の外にこれも白装束の裃、無腰で長岡勇が平伏したまま控える。藩主が口上を述べ、いざり寄りで副の寺島に書状を手渡して平伏。寺島が封を切ってさっと開いて文書を確認し、折りたたんで中村へ手渡す。中村、ちょっと見るまねをして、すぐにたたむ。そして書状に頭をちょっと下げて寺島に渡す。その間、藩主、長岡ともに平伏のまま。


 「おもてを上げられよ」と、薩音で中村。藩主のみ顔を上げる。「二、三たずねたき儀がありもす。その前にこの床の間はどなたの準備か?」、「私でござりまする」と、藩主。「わしは風流からほど遠い人間であるが、その私から見てもなかなかのもの。さすが阿部殿の御一族、感心しもした。御本家の正弘公と、我が先のあるじ斉彬とは立場こそ違え、共に尊王攘夷のさきがけでござりもした。ありし日の正弘公を見る思いです。」


 藩主、「そこまでおほめいただくと私、厚顔のいたりですが、光栄でござりまする。」


 寺島が口をはさむ。「そのような軟弱な阿部公が今回の戦さわぎは何か?そこにひかえる誠忠隊におどかされたのか?返答次第ではきびしいことになりますぞ!」、「おどかされたなんぞとんでもござりませぬ。私が命じたことでござりまする。戦さわぎがさむらいの華なら、風流もまたさむらいの華。お言葉ではございまするが、生花がさむらい精神から外れるものとは私は思いませぬ。」


 「まあ、それは良い!では、なぜ今まで佐幕の戦さわぎをした!勤皇の心厚い家老を殺したのもあなたが命じたことであるならば、撒兵隊に誠忠隊を派遣したのもあなたが命じたことになる。これはいかに説明するのか!官軍に敵対を命じたのか!」


 「いくつかの認識のずれがお有りです。それを訂正しながら説明いたします。ひとつ、我が佐貫藩は佐幕の戦をしたことはありませぬ。撒兵隊と行動を共にしたこともありませぬ。唯一の佐幕的行動は 林・伊庭隊に三百両を渡しましたが、あれは陣中見舞いと称する手切れ金、またはその挨拶です。ひとつ、勤皇は我が佐貫藩の藩是です。上意で討ち取った一用人の専売特許ではありませぬ。それが証拠に水戸天狗党の面々を我らは師と仰ぎ、今にいたるまであつく菩提を弔っておりまする。」


 「では、なぜ上意討ちをしたのか。彼を殺して何をしたのか?」、「路線の違いです。彼は慎重派、我らは冒険派でした。それと藩組織を平和対応から戦争対応に移すに彼がじゃまでした」、「その出来上がった戦争対応組織で何をしたのか?」、「何もしておりませぬ。というより出来なかった。そのために、今、こうしてあなたの足元にはいつくばっておりまする」、「なぜできなかったのか?」、「そこにいる長岡のミスによりまする。長岡!説明せよ。」


 長岡、品質トラブルを説明。


 「あい分かった。では、最後に聞く。もし、その品質トラブルがなかったなら阿部殿は何をなさるおつもりだったのか?官軍と戦ったのか?撒兵隊をけちらしたのか?」


 「そんな小さなことではありませぬ。天下をねらう第一歩を進むつもりでした。」


 「ほっ、ほっ、ほっ、ホー、おいどんがホラ吹きと良く言われるが、あんたも、また随分なホラふきよなー。一万六千石の阿部殿が天下ですか?」と、中村半次郎が笑った。


 「それが、ホラではないのです」と、藩主は大殿の受け売りで、先の大殿が話した話をした。


 「はっはっはっはっは、久しぶりに面白いホラを聞いた。おいどんのホラよりよっぽど上等じゃ。ところで、上総に足を踏み入れたおいどんを上総さむらいは天下取りのために助けてくれるのかな?」


 「残念ながらあなたでは無理かと存知まする。学問がござりませぬ」、「ハッハッハ、何を言うか!おまんさーはずいぶんおいどんのことを研究しておるな。確かにおいどんに学問があれば天下を取っちょる、というのがわしの理論でな、ハッハッハ。」


 「・・・・・・・・」


 寺島がにがにがしい顔をして、長岡に質問した。「七日前に矢切の弾薬集積場が襲撃された。どうやら海から船で急襲したらしい。手口から見て幕臣の旗本とは思えない。長岡!あんたがやったのではないのか?」


 「めっそうもありませぬ。我々には銃がありませぬ」、「八幡村の水主にでも聞けば分かることだぞどうだ!」、「めっそうもありませぬ。私たちはやっておりませぬ。私たちには出来ませぬ」


 「まあ、いいじゃないか寺島さん。ホラ話を聞いただけで元が取れたよ。それにあの手口をやるような者を敵として始末してしまうのは惜しい。万一やったのがそこの長岡さんであれ、幕臣であれ、将来に益する人材だ」

 26.一藩謹慎

 長岡はこの一ヶ月ほとんど家に帰っていなかった。たまに帰ってくると、飯を食って寝て、翌朝そそくさと出て行く、そんな生活だった。


 閏4月14日夕方。長岡はげっそりした顔で帰ってくるとすぐ寝た。翌朝、むっくり起きると飯を食べてまたすぐ寝た。夕方起きるとまた飯を食ってすぐ寝る。母親が心配になるほどコンコンと眠り続けた。まともになったのは三日目の朝。長岡が母親に説明したのは次の通り。


① これから一藩全員謹慎となる。期間は六ヶ月。誠忠隊はまとめて全員来光寺。おそらく昼間はそこにカンヅメになり、夜は家に帰るというようなことになる。勉強会(勤皇精神注入)などをやるかも知れない。


② 佐貫藩はなくなったが、残務整理、民事的な仕事は続く。軍事的なもの、目付けなど警察的なものは仕事自体がなくなる。これらは佐倉藩などに移る。半年ぐらいたったら最終処分となるが、切腹、斬首などはない。大幅なリストラはある。長岡は残れないだろう。


 母親にとっては将来の経済的な不安はあるにせよ、息子が無事であったこと、藩の若者の中に戦死者がいなかったこと、城下が焼かれることがなかったことでまずは一安心となった。


 長岡は疲れきっていた。何も考えたくなかった。ただ、何かひどい回り道をしたあげく結局相場助右衛門のいう通りに動いた自分は何だったのか。そして、相場の予言通り見事に成功させた自分は何だったのか。相場の死は何だったのか。その十字架は背負って行くとして、この回答をどこに求めたらいいのか分からなかった。幸い時間は充分にある。その回答を求め続けようとする長岡だった。


 そして、不可能なこととは思いつつ、淡い逢瀬に終わった、相場美斧にもう一度会って、許してはくれないだろうが、奥方ともどもに詫びをしようとする長岡だった。一目見るだけでもいい。もう一度会いたいと思う長岡であった。


 この頃の世の中の動きは以下の通り。


 閏4月25日 奥羽越列藩同盟成立
 5月15日  上野彰義隊壊滅
 5月24日  徳川宗家を駿府七十万石に減封
 7月17日  江戸を東京と改称
 8月19日  榎本武揚品川を脱走

 27.大殿死す

 7月11日。上総国天羽郡佐貫城前城主江戸城雁間詰従五位下阿部駿河守正身、謹慎蟄居中に死去。阿部正身略歴は以下の通り。日光祭礼奉行、馬場先・田安・和田倉各御門番、大阪加番、大坪山砲台構築。


 大殿の死去で困ったのが葬儀をどうするかであった。一藩謹慎中のことであれば、本来葬儀も何も出来ないのであるが、朝敵になったわけでもなく、単なる事務手続き上の不祥事の責任を取っての謹慎であってみれば、仮にも従五位下(五位以上がいわゆる貴族)の貴人を送る形としていかがなものかとの同情論が出て、「葬儀実行をあい許す」との通達があった。事実上の謹慎処分終了となったのである。藩士屋敷の竹矢来は外された。藩校も再開された。藩校以外での集会および許可なく他領への外出は禁じられたが、その他は特に制限されるものはなかった。


 大殿の葬儀そのものは時世も時世なので簡素なものとなった。大殿は三ヶ月前の「一喝」が最後の政治活動となった。そして自らの死をも謹慎期間の短縮につなげた。政治家の単なる弁舌だけでは人は誰もついては行かない。政治家は日々の生活、その立ち居振る舞いから政治であろう。時としてボケねばならないし、わざと間違えねばならない時もある。大殿のボケ(のふり?)が結果としてその後に政治的犠牲者を一人も出さずに五百年に及ぶ佐貫城の歴史を閉じるもととなった。早い時期での誠忠隊の撤退判断とあいまって、佐貫は「立派に何も抵抗せずに犠牲者も出さずに」降伏したのである。


 負けると分かっていても戦わねばならない時がある、誇りを失って生きて、あるいは家畜のように生かされて何の意味がある、うんぬんは即座に否定出来ない重みがある言葉だが、しかし、そういう勇ましい話の影に、「戦う以前の餓死を戦死ととなえ、住民を楯に逃げまどい、そこまで負けていてそれなのに降伏も出来なかったどこかの戦争プロ組織(軍隊だけでなく後方の国家組織を含む)がほんの半世紀前まで地球上のどこかに存在していた事実を忘れてはならない。敵が降伏を許してくれなかったとしても責任は変わらない。


 佐貫は「立派に何も抵抗せずに犠牲者も出さずに」降伏したのである。

 28.長岡懺悔行脚

 大殿の葬儀が終わると、佐貫の町はそれを待ち構えていたようにほとんどすべてが昔のまま元通りになった。今や、佐貫藩はなく殿様も居ないのだが、総督府の方針が決まっていないものは従来通りなのだから田舎の小藩のありようなどはほとんど決定後回しの部類に入ってしまって、結局、昔のままなのであった。さわぎさえしなければ何事も昔のままやれば良いのであった。今となっては(三ヶ月たったばかりなのだが)相場の暗殺など個人が個人で懺悔する人(長岡など)は居ても、元藩士の立場で謝罪供養、あるいは旧藩が決定したお家断絶などの撤回運動などをしようとする人は居なかった。実際佐貫藩士の子孫の協力で相場助右衛門の慰霊碑が建ったのは昭和四十年代になってからである。「隠し来し家系の疑問解けそむる恩讐の彼方武士の世遠し」(相場助右衛門子孫の詠)しかし、主要実行者長岡の苦悶は続く。考えて見ればこの戊辰戦争で、佐貫藩の犠牲者はただ一人、味方に殺された相場だけなのである。相場を殺害し、相場の路線と逆のことをしてみごとに成功したのならまだしも、相場を殺害し相場の路線を踏襲してみごとに成功した張本人にとって見れば自分は何をやっているのだということになる。あの時は大殿一流のパフォーマンスで皆が納得してしまったが、冷静になってしまうと、長岡本人だけが救われていないのである。相場に何と言えばいいのか、相場の遺族に何と言えばいいのか、そして長岡自身はこれからどう生きて行けばいいのか。


 回答は見つからなかった。さらに長岡に母親が毎日かきくどく。「相場様に申し訳ない。とにかく謹慎が解けたら、まず相場様の墓参りをすること、次に奥様の居所を捜して奥様にあやまること、美斧様鉄七郎様にあやまること。彼らから何か言われたら、極端な話、死ねと言われたら死ぬしかないよ」


 長岡は安楽寺の相場の墓をお参りした。小さな土饅頭だけの、墓標もない墓。土饅頭の芝はもう根を張って真夏の日に青々と茂っている。あたりは草だらけ。長岡はせっせと草取りに励み、二、三時間かけて草をていねいに抜き取った。持参の線香と、花と閼伽の水をささげた。じっと長く手を合わせる。木々からはうるさいばかりの蝉しぐれ。


 長岡は庫裏に回って住職を呼び、相場の墓前で弔いの経をあげてもらいたい旨を頼むと住職は快く応じてくれた。二人は墓前でまた手を合わせ経をあげ線香をたいた。しかるべき日にまた葬儀をあげたいと伝え、また、塔婆や位牌の供養物の準備を頼み、いくばくかのお布施をおいて長岡は寺を後にした。長岡の墓参り日参がはじまった。


 相場の遺族には、藩の消滅および謹慎の解除と共に追放その他の藩処分は消滅したことを知らせなければならない。そうすれば、安楽寺はさむらい屋敷から離れているので旧藩の人々と顔を合わせることなく、遺族たちも墓参りが出来るだろうと長岡は思った。


 長岡は久しぶりに髪結い床に行った。謹慎中は月代、ひげなど剃れないのである。一藩謹慎が解けたため、佐貫藩の男共が一斉に髪結い床に殺到、非常な混雑になっていたが、この頃ようやく髪結い床も空き始めた。(月代は奥方が剃るとのはなしもある。髪結い床は町人だけのものだとするとここのところ間違いかも知れません。ただ、月代剃りは旦那の頭を練習場にして簡単に上達するようなものではないように思えます)


 髪結い床は情報機関である。(公的任務を帯びていた。マゲに月代が身分証明書。総髪では病気と言いわけしないかぎり町を歩けない)長岡はそこで耳寄りなニュースを聞いた。相場の妻女が八幡村の池田代官屋敷に居るというのである。「池田のヤロウ、もっともらしい顔をして、一言も言わずにしゃあしゃあと・・・・・。もっとも矢切の件では池田がだまっているおかげで首がつながっているのだから文句は言えないが」


 長岡はさっぱりした気分で日課の墓参り。相場の墓の前にアリが行列を作っていた。長岡はふと思いがよぎった。ここで自分がポンと石を落したらアリの何匹かは死ぬ。しかし、行列はとぎれることはない。くよくよ想像で悩むことはない。石が落ちてきて死ぬかも知れない。当たったら死ねば良い。石が自分の横にそれるかも知れない。横にそれたら、フーッ危なかったと言ってまた歩みだせば良いではないか。


 安楽寺の住職が来て、懺悔滅罪の懺悔文を唱えましょうと言ってくれたので長岡も従った。「我昔所造諸悪業皆由無知貪瞋癡従身口意之所生我今皆懺悔」

 29.長岡、八幡村へ

 7月28日、相場の命日(祥月命日は4月28日)。朝、長岡は八幡村へ。母親が戸口に立って見送り、手を合わせている。


 長岡は殿町を西へ進み、日月神社下のクランク曲がりをさらに西へ行く。城下町になっている。それなりの大店が並んでいる。ちなみに交差している南北道は房総往還で、ここを北に行くと大木戸があり、それを超えると北上、亀沢村。原作では長岡と美斧の逢引の場所、北上神社がある。(南に行くと浅間神社があります)


 城下町を西へ行くと、こちらにも大木戸があって、大銀杏が二本あって、城外。さらに西に行くと、道は西南に曲がり、染川沿いの道になる。ここをバアバアドコロという。やがて広い野原に出るがここは亀田が原(下(しも)原)、原作では長岡と山田が決闘した。この原の広さは、仁徳天皇陵(三重の外堀を含めて)がスッポリと納まります。その程度というか、そのぐらいの広さ。


 八幡村へは、この原をつっきって、染川に当たったら東側の像法寺橋を渡るか、西側の山王橋を渡るかということになる。長岡は山王橋を渡った。ここは矢切の時に五大力船に乗り込んだところ。船で少し上流へ行くと八幡神社下の市場に出る。二間道路の両側に民家がびっしりと並ぶ。江戸への流通で繁盛している村で、戊辰戦争で景気がいい。


 長岡は佐貫郷北方(きたがた)から南方(みなみがた)に歩いて来たことになる。上郷、下郷という言い方(主として城下町側が言う)もある。二つの土地で、昔は土地の雰囲気ががらっと変わったはずである。(今は似たような家が並んでいるだけですが)


 池田屋敷の門前で長岡は案内を乞う。出てきた池田代官がびっくりした顔。話を聞いてすぐ了解し、奥様に取り次いで見ますと言ってくれた。座敷に案内され、こういう時はあなたが下座でしょうからここへ座っていてください、しばらくお待ちくださいと言って出て行った。下女がお茶を持ってきた。


 かなりしばらく待たされた。四半時待たされた。


 やがて障子に女の影。奥様にしては細いなと感じた時、さっと障子が開いてそこに相場美斧が立ち膝で、ひざをついていた。


 美斧、(着物、化粧などの表現が入る。皆様の好みで入れてください。ただ、ちょっと色が黒くなった)、きっちり座って、長岡の目を見、「長岡様、お久しゅうござりまする」、長岡、ハッーと両手をつき、顔を上げて「あの、奥様にはお目にかかれないでしょうか」、「それでひともんちゃくありました。母は、怖いから会えない。お前見てきてとのことでござりまする。」


 「事前のお断りもなく押しかけてまいりました。奥様には大きな精神的負担をおかけしました。こちらの勝手な言い分ですが、お目にかかって一言お詫び申したかったのでござりまする」、「分かりました。今日のところは私が替わってお聞きします。母には充分に伝えます。」、「ありがとうござりまする。」


 長岡は思った。粋で、いなせで、軽快で、上品な江戸がそこだけにあった。美斧はあのころとまるで変わっていない。「・・・・・・・・」長岡、次の言葉が出ない。美斧、ちょっと目だけ笑って、「もそっと肩の力を抜いてくださりませ、話が聞けませぬ」、「あ、すまぬ、すみませぬ。」長岡の方は苦笑い。「美斧殿とはなぜかいつもこういうふうになります。もっともお会いしたのは三度目でしかないのですが・・・・・。あの、美斧殿はお母様を慰めるためにここに居られるのでしょうか?」、「私?、いいえ、父のことより前に八幡におりました。四か月前、母が転がり込んできて、今では母娘二人合わせて池田様に居候」、「ご結婚されたのでしょう?」、「ハイ、私への職務質問になってしまいました。あなたはいろいろあった。私もいろいろあった。私、嫁ぎ先を逃げてまいりましたの。」


 美斧は話を続ける。「出戻り娘のところに、だんなを殺された母親がころがり込んできて、そこへ、殺した犯人が、言葉は悪いけれど、押しかけてきた。これで私のだんなまで押しかけてきたらどうなるのでしょうか。なにか、ものがたりみたい。ワクワクしますね!」


 「私、ズバリといわれて心が軽くなりました。起きてしまったことは取り返しがききません。責任を取ると言っても取りようがない。それなら、とにかく聞いていただく。やめて!と言われればすぐにやめます。私は私の思いで償いをさせていただきます。」、「それでいいのです。たまたま相手に嫌われて、罵倒されても、人間って、嫌う行為、罵倒する行為でなぐさめられるのです。気にしなさんな長岡さん!」、「長岡さん!」の言い方に長岡は美斧の好意を感じた。


 「なぐさめられにきたようになりました。ありがとうござりまする。」


 「では!お聞きしましょう!あなたはよくもお父上を!、なぜ父を殺しました!」美斧は重い切なげなため息とともに、吐き出すようにそれだけ言った。長岡をにらみつける。長岡は瞳だけを異様に見開いて美斧をにらみ返している。


 長岡は天狗党の一件から語り始めた。

 30.池田屋敷の語らい

 長岡の長い話が終わった。美斧が言った。「あなたも大変だった。母には伝えておきます。怖くなかった、いい人だったと、前と変わっていなかったと。母は父が殺された以上に、その後の藩の仕打ちを恨んでいるようです。誰も、左官屋さん以外、誰も助けに来てくれなかった。誰か、奥様でも、お子様でも一人でもあの場に近寄ってきていただいていたら」


 「でも心配なさらないで。ここ(八幡)はとにかく、暇人が来たらすぐ仕事をあてがわれるのよ。悲しんでいる余裕がないの。忙しくって」、「お母様の気持ちはよく分かります。殿町の人々もあっけにとられて呆然としたのでしょう。何せそれまであまりに平和だった。あくびの出るほど平和だったのですから。異変に反応出来なかったのです。お父上が上総のさむらいだから差別したのではないのです。差別どころか今は感謝しているのです。私などはそれも通り越しています。上総のさむらいになりきりたいのです」、「ああ、なつかしい言葉、久しぶりに聞きます。もう一度言って!」、「何をですか?上総のさむらいですか?」、「そう、そう、父が大好きなのよね、上総のさむらい・・・・・」、「・・・・・・」


 「母に言っとくわ。あなたが上総のさむらいになったって。母も喜ぶでしょう」、「上総のさむらいを教えていただけますか?」、「私に?私はよく分からない。ここの池田様。この人、その方面の教団布教長ですから。聞いてあげると喜びます。」


 「失礼ですが」と、障子の外から当人の池田の声。障子を開けて「もうそろそろ食事時なのですが、勝手ながら用意しましたがいかがです?」懺悔に来て食事をいただくのも、と、長岡は断ったが、池田が、何の何の相場が出すわけではない、池田が用意したのですから。美斧さん、あんたも相伴しましょうよ。この人は、と、美斧を見て、今や八幡村立小学校の校長先生ですから。長岡さんも手伝っていただければ助かります。上郷にくらべて八幡は行儀作法と読み書きが格段に劣る。アネさん達はえらそうにしているが、子供の着物の繕いも出来ないのですから。あげくが子供たちはツギあてをぞろびいて遊んでんですからね。多いに助かっています。相場様の母、娘さんには。


 八幡村のことでたいしたものはありませぬが、と出てきたのが麦飯、ゴンズイの味噌汁、ヘシコ(カタクチイワシの子供)の刺身、ハマボウフウの酢漬け、海苔の佃煮、キュウリとナスの漬物など、実に美味しい。長岡はハマボウフウをかんだ食感と香りからふっとあの江戸藩邸での美斧の接待を思い出していた。佐貫の武家町は八幡村の浜辺から一里の近さだが浜の食べ物としては干ものか煮魚が主体で、まして浜辺の薬草などはなじみが薄いのである。


 食事後、美斧が言う。「長岡様のお母様もさぞ心を傷めておいででしょう。どうか、自分を責めて苦しまないようにお伝えください。長岡様が悪かったのではないではございませんかと」、「ありがとうござります。母も喜びましょう」、「長岡様、あなたは御結婚は?」、「私?ですか。幸いにか不幸にか独り身です。今度の戦さわぎもありまして見た通りむさくるしくしております。」


 「大変でしたよね。長岡さんも所帯を持つどころの話ではなかったでしょう。しかし、颯爽としてましたな。」池田代官、あたりを見回すふりをして、「矢切の時は!」、「ほんの十日の話でした」、「何の話です?」と美斧。池田が「長岡さんの武者ぶりですよ。絵草紙の戦じゃない。プロの美しさですな」、「私も見たかった。でも、やはり戦争はいや」と美斧。「これは口がすべりましたな。申し訳ござりませぬ。」


 池田が下った後、今度は隣の貧乏人の子供達が美斧を誘いに来た。「おねえちゃん、浜へいこうよ」「あ、ごめんね。今日はご用で行けないのよ」、「いや、私、そろそろおいとまします。今日はありがとうござりました。お母様によろしくお伝えください」、「そうですか、ではお見送りかたがた、あなたも浜にいきますか?」と美斧。子供達に「ちょっと待っててね、いまいくから」、今度は長岡に「どうぞ長岡さん!」ふっと前かがみになって立ち上がる時、はらりと美斧の横髪がゆれた。長岡はその時なにか甘い切ない思いを思い出したような気がした。


 外に出た。私の生徒さんを紹介しておきますね、と美斧。こちらがキヨちゃん、はずかしがりやさんこちらがシンちゃん、男の子のくせにお雛様が好きなの。新之助?さんかしら、そして、こちらが元気でいたずらなキンちゃん、金之助?さんかしら。ハーイ、そしてこちらのおじさんはイサミさんだからねえ。よろしくね。やさしいおじさんだからねえ。「イサミだぞー、近藤イサミだぞー、つよいんだぞー。」と長岡応じる。子供達がワーっと笑う。


 「でも、このごろの男の人ってどうして一字名なの?」、「流行ですかね」、「長い名前もありますよね。この辺の子供はみんな・・の助か・・右衛門か、・・左衛門なのよね、そういえば父もそうだけど。あの衛門て何なのでしょう」、「朝廷の役目からきていると聞きましたけど。」


 「浜へ行くって子犬の散歩みたいなの。一日一回は浜へ行かないとイライラするみたいなの。近頃は私もそうなっちゃったのよ。浜へ行っても別に何があるわけではないのだけれど、ちょこっと歩いて貝殻をひっくり返したりぐらいしか用がないのだけれど。」


 子供達は前を歩いたり、しゃがんで何かいじったり、遅れるとバタバタと追いかけてきて美斧の手を取ったりしている。日は西に傾いているがまだギラギラしている。長岡たち5人は、砂地の浜への坂をゆっくり下りていった。涼しい潮風が吹き上がってくる。モネの世界(散歩、日傘をさす女性)
 坂の上から下へとあたりはすべて松林になった。どこもかしこも松ばかり。


 坂を下りきると南北の両脇が松の砂山の谷になっていてそこは造船の仕事場だった。建造中の船が三艘もあって、この動乱の中でも八幡村の景気は揺るぎないようであった。さらに浜に下ると一面紫色の小さな花が咲いた花園になった。いい香りがしている。


 「真夏に花が咲くハマゴウ、浜這いとも云うらしいの。私もここに来て始めて知ったのだけれど、ここの人たちは生の葉をいぶして蚊遣りに使うそうよ。」


 「ハマゴウよりちょっと前はヒルガオの花園になるし、ヒルガオの季節が過ぎると夜の海辺は夜光虫や海ホタルで瑠璃色に光るし、松原の中の泉にはホタルが湧くし美しい浜辺ですね。ここは」美斧の解説が続く。


 浜に出てみると長岡はあらためて陸揚げされている五大力船群、押し送り船群に圧倒された。合わせて二十艘を下らない。


 「イヤー何度か見ていたつもりなんですけれど、あらためて八幡村はすごいですね!それに浜にゴミが一つも落ちていませんね。貝殻すら片付けられている。」


 「わたくし今では地曳き網に参加しています。綱の引き役ですね。行けばご褒美にビク一杯の魚がもらえますし、大漁だったら後から配当金ももらえます。」


 長岡は美斧の地曳き網スタイルは想像出来なかったが武家の世界にないはつらつとした世界が想像出来てうらやましく思った。

           <ページ小説「風雲佐貫城秘聞」その4に続く>