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岩富寺絵図解読Mac5Kでチャレンジ

Mac5Kで再チャレンジ
岩富寺絵図・文書解読

1.末社「春日社」周辺

 岩富寺絵図です。実物の大きさは幅75cm、高さ75cmのものです。岩富寺住職家が代々保存していたものを30年前某氏が借り受け大型コピー機でコピーした10枚の内の1枚を某氏からいただいたものです。着色は筆者がやったものです。 図面の下、左右の文字の読解は比較的簡単ですので、先ずここから始めます。

<右下側文章> 當山開山聖徳太子、中興行基菩薩、後興慈覚大師、三代建立之山也。境内山林御縄スミ寺。
天正廿年(文禄元年=1592)11月7日
妙覚山岩富寺
宝永元年(1704)5月朔日図繪之
別当法師秀快<花押>

<左下側文章> 仁王門より西方海辺より、後海に富士山、箱根、大山、相州、目前に見ゆる也。南方、鬼泪、鹿野山、四方山々、里々、目前に悉(ことごと)く見ゆる也。

<左下の二つの地名>
せきの谷(やつ)、こんじ谷(やつ)。

<解説>

 まず地名から

 現在のR127小山野トンネルに佐貫側から入る直前の右折道の道すじ谷津を堰の谷、トンネルの方へさらに進んで右側の小さな谷津(昔、岩富レストランがあった)をこんじ谷と言ったのでしょう。ちなみに「こんじ」とは絵図をいただいた某氏の解釈では「懇志」と書き「信徒が寺に進納する品物や金銭のこと」だそうです。)今は小規模ですが数品種の梅林になっています。(ちなみに富津市教育委員会の解釈では「今寺(こんじ)谷」)

 「御縄」は検地のこと。史上有名な太閤検地の一環です。天正18年に小田原北条氏が落城したのですからそれからわずか2年での実施は全国的にも早い方でしょう。実施したのは佐貫城主内藤家長と考えられます。 絵図の各所に多くの文字が描かれていますが、この解読は難解です。まず絵図の中央、本堂から仁王門線を起点に左側にちょっと離れて鳥居が描かれている小山がありますが、まずここから話を進めます。

 画像右から「門番」「井」、下に「朱門」その左の方に横向きに「門柱目有」。画像中央鳥居の付近に、「鳥井」、そして鳥居の右斜め上に斜め書きで「からくと」と読めそうな字があります。これについては意味がはっきりしませんが、別の場所で4カ所も出て来ますのでその時また紹介します。さてその斜め左上に3行の文字があります。「古(いにしえ)ハ春日大明神。今ハ号音無神」、その下に横向きに「さくら」

 その左、画像左中央に三つの小山がありますが、この辺には横向きに文字が書かれています。文字が小さくて確認出来るかどうか、右から「ちゃせん松」、次に「三まい」が二つ。小山の上には墓石が描かれています。左端は3行で「先ハカ三、二刀。海までことごとく見ゆる。南ハ高山」

 下にもどって道沿いに「下佐貫みち」「上ハ周西大道」。そのちょっとはなれて左、斜め横向きで「まの原○○せんハ太子ま王のたたかい場」とあります。

<解説>「門柱目有」は絵図の3カ所に書かれています。書かれている位置ですが、まずは朱門のそば、もう一つは仁王門のそば、さらにずっと東の作木地区の参道が始まるところです。従って、3つの門の柱に目があると云いたいのでしょう。朱門や作木の門は現存しませんが仁王門は絵図の時期に存在していたと思われるものが今でもかなりくたびれた状態ではありますが残っています。総けやき造りです。筆者は仁王門の柱をそのつもりでしげしげと観察したことはありませんが・・・・・。

 わが家のトイレの下壁に多数の節のある丸太から板に製材したような模様のある飾り板が使われていますが、これを見ると無数の「目」に見えないこともない。枝が無数にあるケヤキから作った門柱ならあるいは「門柱目有」になるのではと思ったりしています。下の方に我が家の「壁板目有」と岩富寺仁王門の柱を載せておきます。

 「号音無神」とは神道らしい言い方です。「人が声を出して唱えてはならない神」ということでしょうか、飛沫が飛びますからね。神道の儀式ではマスクを多用しています。先人は良くわかっているのです。「穢れ」とは「ウイルス」でしょう。

 「三まい」とは「三昧」のことで何かに没頭するという他にお墓を意味します。前にこのHPで紹介した火葬骨共同墓地を描いているものと考えられます。その次は補足で 「墓はこの先にも2~3箇所あり。この辺は眺望がさらにきく」ということか。「南ハ高山」とは方向から云って鹿野山か。

「ま王たたかいの場」について。「まの原」は今の「馬王(まおう)台」のことだと考えられます。岩富寺の近くに「馬王台」という小字名が残っていてこの意味は「馬王」が護摩壇を設営した場所ということです。馬王は聖徳太子を指すとされています。護摩壇は確かに僧侶・山伏に言わせれば戦いの場ですネ。

 さらに現在、岩富寺仁王門はコンパネで囲われていて柱などが見えませんがコンパネ囲い前の写真が見つかりましたので下に載せておきます。これを見ますと目があるっちゃあるのですが絵図に書くほどのことかなー、ちょっとなー、という感じです。

 ・・・しかしこの写真、丸柱の上の方の模様は人の手が入っているような三角の白目に丸い黒目に見えてきちゃいますね。このページ下の方に紹介しているバンクシーみたいな岩壁のシミと言い、岩富寺は変な寺ですね。何回もつぶれるし・・・・

 「壁板目有」と「門柱目有」の話はこれだけで仕舞いにします。

 ところで最初に紹介した絵図だけ見ると岩富寺は山の下にあるように誤解されそうですので、筆者が描いた岩富寺全体図を下に載せます。

 上の絵で春日社は左上三差路の崖あたりを云っています。道を左に下るのが佐貫道、まっすぐ進むのが周西(すさい)大道です。周西大道が馬王戦いの場へ行く道です。今で云えばR127のトンネルの上の方に行く道です。

2.骨堂跡と本堂境内

 左上から下へと解読します。まず「あかい」これは「閼伽井」と考えています。その下横書きで「怠タかり」、その下「くい」がふたつ。その下「門番」「朱門」は紹介済。その右「うら門」は 「盂蘭門」、または「温羅門」と考えています。裏門ではない。

 次に右上に行き、佐貫層の一枚岩の台地に行きます。君津富津市共同の考古調査では骨堂跡としている場所です。上から「毛やき」「太子堂」「かねつき」、建物の屋根の上に小さく横向きで 「二○楼」、その右に「大塔址」「花やたい」が読めます。解説は後で一括で行います。

 次に本堂境内。「大黒処説」「本堂」「石とうろ」「てみづ桝」「仁王門」「仁王方住万」。ここから参道沿いに書かれた文章になりますが、「此ノ上ハ十丈ヲ余ルベシ」「切通。ここニ門柱目有」、そして最後、右下斜めに「中ひよ」

<解説>「あかい」:仏に捧げる閼伽の水を汲む井戸。余談ですが鹿野山神野寺にも閼伽井(場所は駐車場の東の集落のはずれ)があり、ここは最近君津のボランティアグループ「あいさいクラブ」が井戸とそこに行く道を整備しました。「怠タかり」は意味不明。「くい」は「杭」。閼伽井の場所は一般人の立ち入りを禁ずる場所だったのでしょう。二月のお水取りなどが想定出来るしつらえです。

 「毛やき」は木の種類「けやき」だと思われます。「太子堂」は聖徳太子を祀った小堂があったのでしょう。「大塔址」の地は骨堂台地のさらに一段高くなっている土地で10m四方くらいの場所です。根来寺の国宝「大塔」のようなものがあった時代があったといいたいのでしょうか。

 「花やたい」は祭り山車のようなものを意味するのか、または釈迦誕生会の花御堂のようなものなのか。なおこの岩富寺絵図では南の方に行基菩薩初登山時の「花立」の伝説文があります。これはあとで内容を説明します。蛇足ですが佐貫地域には「花香谷」、「花畑」、「花見(御ではない)堂」と花がついた字名が3つ残っています。「大黒処説」:住職の奥様が信者に経を説く場所ということでしょうか?「仁王方住万」は意味不明です。

 岩富寺参道沿いの文章は南の文章が「この上(本堂境内)はここから十丈(約30m)を少し欠ける高さがある」。北の文章が「切り通し。ここに門柱目有」です。現地に行って見ると「門柱目有」以外は納得出来る内容です。最後の文章は仁王門のそばに書かれていますが、内容が切り通しの後に門柱目有ですから、主語は切り通しになり、仁王門ではありません。従って前に説明した門柱目有=木の節目説は怪しくなります。

 「中ひよ」:この岩富寺絵図を出していただいた某氏によると山稼ぎ人の専門用語だそうです。涸れ沢のような地形だったかちょっとうろ覚えです。

 「中ひよ」その後研究:「ひよ」は山の地形で峠を指します。馬の鞍を考えてください。前から後ろに尾根道が走り、その一番凹んだところを直角に沢道が上り下りします。そのちょうどテッペンを峠といいますが、その辺は標識が立つ場所でそこから「ひよう」=「ひよ」となったようです。岩富寺絵図のここでは「中ひよ」ですので地形説明というより地名だと思われます。

 源平合戦一の谷のヒヨドリ越えの「ヒヨドリゴエ」も地形説明語と別の言葉がくっついて地名に変化したもののようです。義経の進軍は尾根道を走り、峠地形のところで道のない沢を一気に駆け下りたわけです。

3.天神郭と庫裡

 折り目の左側から行きます。ほとんどが横倒しで書かれています。上から読みます。例によって解説は一括で行います。

 「冬木ニ不里」「天神不里」「田」一文字が数個並びます。下に「寺中畑」これは絵図の中でたくさん書かれています。

 次に折り目の右側に行きます。中央はここだけ島のように台地になっています。

 「鳥井」、横倒しで小さく「天神郭」そこから上に行って、さかさまに「志ハさくら」、その右ちょっと離れて「阿さ起さくら」、そしてちょっと右に行って横倒しで「やぶ」です。

<解説> 「不里」:先にチョット触れた「からくと」と共に一番多い頻度で出て来る用語です。くだんの絵図提供者の某氏の解読は「堀」です。ただ岩富寺の場合は横堀とか空堀ではなく、どうも竪堀を指すのではないかというのが現地と照合した筆者の結論です。

 「竪堀」とは山の斜面の上から下まで縦に幅5m、深さ1.2mくらいの大きさで削った溝状の構築物です。時には、斜面全面に8mくらいの間隔で密集(畝状竪堀。九州、中国に多い)させたものもありますが岩富寺のそれはあんまり密集していません。

 余談ですが「からくと」について。その意味を筆者は「カロート」、あるいは「からうど」だろうと考えています。火葬骨の墓地ですと、墓石の下の地下構造は石組みの石櫃でこれをカロート(今も石屋さんには通じる言葉)といいます。岩富寺の場合は石組みでなく佐貫層をくりぬいて作ってあります。くだんの市の考古調査では確かに骨堂あたりで約1トンの火葬骨が検出されています。(壺は常滑。時代は15世紀)は発掘報告書では「土坑」と表現しています。ただ岩富寺絵図では崖に横穴を掘った洞窟も「からくと」と云っている兆しがあります。穴の形が幾何学的な長方形であれば「からくと」と表現したのではないか。横穴型の場合「やぐら」という言い方があるのですが岩富寺にはこれも非常に多いのですが説明文に「やぐら」が出てこないので上のように考えています。

 「冬木」:常磐樹という意味と、枯れ木、落葉樹の冬の姿という意味と相反する二つの意味があるようです。

4.本堂・白山・奥の院

 まず折り目の左側で上から読み込んでみます。

 「寺中畑」が二箇所、その下に「作手址」。横向きで向きが逆で小さいですから探しにくいですけど。本堂建物の右に「○○○とのいん居立」、その右に「いんきょ堂」、折り目にまたがって横倒しで「此ノ山○らくと」、下の方に小さく縦に「不里」

 折り目の右側に行きます。ところで右側全体は松山に見えます。この絵図で樹木の書き方ですが今まで取り上げたところは杉のようなものでしたが、これから取り上げるところは松のように見えます。この松林の中に、上から「たけ」「白山」。ここは寺の境内からずっと階段が作られているようです。そして最後に「奥ノ院」「帰依」です。右上隅です。

<解説> 作手址:岩富寺のまわりに田畑が広がっていますがその作り手の小屋址ということになるのでしょうか。址ということですから農奴的なものから自営農家に昇格して中世的社会に発展をとげた址でしょうか。骨堂址の壺の時代確定が室町初期の15世紀ですがちょうどその時代のちょうど岩富村の土地関係の文書が残っていまして(鎌倉称名寺領佐貫郷文書)自営農家(百姓名)らしい名前(黒兵衛、梶取りなど)の田んぼが名簿の中の1軒として残っています。ちなみに上記文書に岩富寺の名前は出て来ません。地名関係では太田山城という場所の清掃奉仕代として必要経費が計上されています。また、佐貫の住人左近四郎の税の徴収請負誓約書が入っています。

 隠居立:住職が隠居して住む場所が隠居堂でしょうが、「隠居立」とはどういう事でしょうか「立て」とは例えば恋人同士が何かの決め事を約束する(心中立て等)固い気分決意などを表現する言葉ですがちょっと具体的な内容が解りません。

 此の山からくと:折り目で文字が欠けていますが「からくと」でしょう。この松山にはからくと、不里が多いということでしょう。ちなみにここは発掘調査をされていません。今は竹とどんぐり類の雑木林で中に入るのも出来かねる山になっています。15世紀をさかのぼって鎌倉時代に突入する時代で骨壺でしたら景徳鎮のひとつやふたつがあるかもしれませんね。

5.滝の沢

 絵図の左上部分、岩富寺の北の沢です。上から読んでいきます。 山の稜線に沿って横倒しで「ゐた原」:最初の「ゐ」は仮名扱いでなく「為」のくずし字と見て「なすだ原」と読んだ方がいいかもしれません。以下上から次々に読みます。

 滝のような絵の左に横倒しで、「たき 此ノ下ニ又大たきみし」「冬木立」「田」、   「沢」「谷舎」「○川下り」が読めます。次に横倒しで「是よりたきの沢迄を孔のうちいといふ」。「くと乃尾」というのもあります。

 実は上に出した画像の範囲の上外れの、山の中腹あたりに次の文章があります。漢文調ですので書き下しで紹介しておきます。(一部述語を補っています)「土地の里人「まとが松」と云ふ。又、「朝暗い山神松」と云ふ。」

<解説> 注目は滝の存在です。二段の滝です。現在もあるのでしょうか。筆者が探検した結果では滝らしい痕跡はありましたが水は流れていませんでした。場所は絵図で云う周西大道をR127小山野トンネルの方向に行き、三叉路を右折すると山高原参道で道が下ります。この中腹右方向が馬王台遺跡ですがそこへの岐路の付け根左側に落差4mくらいの滝らしい岩の崖があります。雨が続けばあるいは滝になるかもしれません。現在の字名は「瓜子坂」。下の君津市教育委員会報告書の全体測量図を参照して下さい。

 次に「くと乃尾」という地名は注目です。先に紹介した「からくと」という語につながると思えるからです。「長方形の箱状の入れ物」櫃の方言ではないか、「空の櫃」ということではないか。
「くと」の話を私論を交えてもうちょっと続けます。幾何学的な長方形がポイントで大きくなると筆者が名付けた「佐貫城の岩のプール」、「箱堀」になります。また佐貫城跡で発見した岩を垂直に削りこんで作った枡形になります。洞窟形状にしますと「やぐら」になります。鎌倉に飛びますと極楽寺付近にある「一升桝」、二升桝」などの○升桝遺跡群となります。云いきっていますが誰も反応していただけては居ません。

 松の名前の紹介は先に「ちゃせん松」というのがありました。名前があるくらいですから巨木でユニークな形だったのでしょう。「冬木立」というのは松の可能性が出て来ました。「朝暗い」というのは東に山がある山高原付近の形容として適切だと思います。

 次に「滝の沢」と私が云っている馬王台付近の精密な地図(君津教育委員会による遺跡調査図)を下に載せて置きます。

 話が前に戻りますが上図で瓜子坂と書かれたあたり左の崖に滝址らしきものがあります。この測量図を見ていて、国道127号小山野トンネル掘削(昭和初期)が滝の地下水源を断ち切ったと思えて来ました。なぜならこの図の中には縮尺後は小さくて見えていませんがトンネルの上に七つ井戸という古跡も書かれています。しかしこちらでも今では井戸の存在を物語るようなものは何も感じられずまったく乾いています。

 話がまた変わりますが、国道127号のトンネル手前の二股の浅い谷津が「こんじヤツ」です。活字では「今寺谷」と書かれていますが、「魂志谷津」が正しいと思います。その南(地図下)が堰の谷津です。岩富寺のある丘陵は水脈を南北に分ける分水嶺なのです。(君津市と富津市の境界でもある。)

6.花立て

 先に紹介した奥の院から東へ鹿野山道を進んだところです。上から読んでいきます。

 「冬木立」「切り通し」「此のかけ(崖) からくと 不里」。その下、折り目に沿って「からくと 不里」。右に行って「中くと尾」。滝の沢で見た「くと尾」がまた出ました。ここから上に行って「高原庄」、そのすぐ右に「からくとん」。最後ここだけ「ん」が付いていておさまりが悪いですがこの辺一帯はからくとだらけです。(中くと尾、高原庄、からくとんは下図参照)

 さらに東の絵図でコピーの調子で黒くなってしまっている中の文字は3行の漢文調です。書き下しますと次のようになります。

 「花立て  行基山人の善し悪しを問ふ諸刃(説教?)のあまりに急奔ゆえ(威をやわらげるため信者達が)花を立てた供養霊拝所なり。」

 原文には主語がないので内容がわかりにくいですので現代人が解るように意訳すると(間違っているかも知れませんが)、「花立塚はお参りすると今でも行基菩薩の鋭い説教が聞こえてきます。それは有り難いのですが我々凡人にはあまりにもきついのでその威力をやわらげるため花を立てたのが塚の名前の由来です。」

 南房総市真野寺の覆面観音の由来は目の力が強すぎるので普段は覆面をしていただいているとの伝承から思いつきました。

 さて、これと対をなすと思われる漢文調の文章が、今示している絵図範囲から外れて上の方に逆さ向きで書かれています。次のようになります。

 「先手ニや法か、古(いにし)へ行基始(ママ)めて登山したまふ時、光すこぶる差し、此の塚に登り観るに(以下折り目で欠字:筆者想像で:うるわしい花が立ててあった)といふなり。

 そして最後、絵図の右上端に横向きで、「此の先に志め門柱有」、その左に「白坂」です。

<解説>先ず「花立」記事について。これは「花立」という名の塚があってその名前の由来を説明したものと考えられます。説がふたつあるということでしょう。この次に紹介する松平重治自筆の岩富寺縁起に行基の足跡が書かれていますので花立てについて言及しているか注目しましょう。

 次に「からくと」、「不里」、「門柱目有」問題です。「此の先に志め門柱有」当て字を当てて漢文送り字句読点を入れると「此ノ先西ニ目2門柱1有」=読みは「この先西に門柱目有」となります。

 「からくと」、「不里」、「門柱目有」は組みになっている可能性があります。そのかたまりは東から「花立」地区、「奥の院」地区、「観音堂(本堂)」地区、「春日社、天神、庫裡」地区、そして 「滝の沢」地区です。ここで発掘調査されているのは観音堂地区だけです。ですから「からくと不里門柱目有」について観音堂だけの時代感や規模感ではかれないと思います。規模で云えば花立、奥の院が大きいですから。なお滝の沢地区には門柱目有の記載がありません。(絵図の範囲の外にスポットがあったか)

 上の「志め門柱有」あたりは現実の地図で云うと君津市作木(つくりき)グランドゴルフ場あたりだと思われます。ここは君津市常代からの鹿野山道と佐貫からの鹿野山道が合体するところです。実際岩富寺への参道はグランドゴルフ場の脇の丘へのロープが必要なほどの急坂で始まります。これが絵図で云う白坂でしょう。これを登り切ると館山道の上の陸橋に出て参道が始まります。

 ここから1.5kmで国道127号そばの滝の沢までがふもとの田畑(一括支配でなく虫食いはあるにせよ)をふくめて岩富寺の最盛期領域となります。岩富山を含む大坪山までの台地がこの地域の南北分水嶺であるので古代から中世の米中心の経済規模と経済観念から見れば灌漑などの大規模工事の前に与えられた土地としてこれほどの適地はなく、実際に常代に大規模な弥生遺跡があり、平安時代の須恵郡(こおり)役所があり、下って佐貫政所、上総安国寺、佐貫城など江戸時代までは格の高い土地として推移してきました。

 しかし、江戸時代中期以後各地に大規模灌漑工事が始まると歩調を合わせて岩富寺は小久保真福寺の支配下に下がり、それでも足りず無住寺となり佐貫の役所学校はなくなり、郡地区は湖の底になり今は高速、国道の十秒間の単なる通過地となっています。 そして米経済ではなくなって百五十年経った今に至るもこの土地を再生するアイデアは出ていません。周辺の江戸時代新田の地域をも道連れにして共に沈みっぱなしです。