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新説佐貫城特集



新説佐貫城符

 佐貫城を理解するのには城郭研究家小高春雄さんの著書「君津の城」に載っている佐貫城図がいいようです。東の宝竜寺、さらに館山道工事で消滅した八幡下遺跡と根木田入口山脇砦遺跡を含み、西の比叡神社まで描かれていますので、佐貫城の縄張りをした人の意図が読み取れそうです。(「君津の城」は大多喜城博物館で販売)

 これを基に実際の佐貫城跡を見て、また三種ある古絵図を見たりした結果、佐貫城の設計の当初は西の北上川、東の来光寺川(仮称:染川の支流)、南の染川を外堀とし、牛蒡谷を城内としてここの田畑住居住民を守ることを目的としていたように見えます。それならば佐貫城の正面は現国道127号線の東側の丘陵端の切岸列であって、館山道側は城内である、と言うことになります。実際に正面側(国道127号側)は高低差10から20mの大切岸が南北に約500mと続きますが裏面側(館山道側)の切岸は2,3mの所(現佐貫城正面と考えられている場所)もあり、きわめておとなしい感じがします。

 時代が下って牛蒡谷を城内から外し、根木田砦などを放棄した結果、佐貫城を単独の独立の城と考えると、現正面の三の丸南の守りが弱いと言うことになり、そこで何をしたかというと信長・秀吉流の水堀の内堀を造ったのです。鬼泪山の麓の染川の水源のひとつを高さを減じずに佐貫城まで導き、佐貫城の三の丸の南と西を水堀とし、余った水を染川に落とす。牛蒡谷でこの水路と来光寺川が水道橋で立体交差する。これらの工事はおそらく内藤家長がやったことと思われます。関八州の新らしい覇者・二百万石の巨大大名の徳川家康の資金を当てにした工事ですから内藤さんは随分と金をばらまいたことでしょう。バブル絶頂期の市役所と同じでそれ行けどんどんだったはずです。

 さらに時代が下って城の水堀など意味が小さくなって、誰も権威を感ずることもなくなって、これを農業用水にしたのが関山用水ではないかということです。佐貫城下の殿町(侍屋敷が集中してある)に新たに溝を造って、日枝神社のところで佐貫城水堀排水路とつなぎ、城の堀の捨て水を農業用水に回してくれというのが農民の願いであったのです。要するに佐貫城の大手門前を横切っている水路は関山用水と名付けられる以前に戦国時代末期にはすでに出来ていたのです。宝永の絵図面(廃城50年後の状況図)を見るとそう考えざるを得ません。


 まず知られている佐貫城から

 人物を入れて景観の大きさが分かるようにして佐貫城を紹介します。順番は、まずエコノミークラスのおとなしいフォトスポットから始めて、切り岸(崖)、堀切、岩のプール(仮称:佐貫城のヘソ部分。司令所?)、そして最後に二ケ所の展望台です。


 エコノミークラスのフォトスポット


 三の丸の隅櫓(太鼓櫓)跡。金谷石の石垣があります。佐貫城で一番城跡らしいところです。ただしこの場所が不動とすると隅櫓の東に大手門があったとされる佐貫城の大手通り幅は貧しい民家と同程度となってしまいます。

 土橋と横堀(畝堀)がセットになった佐貫城のフォトスポットです。本丸側から二の丸を見ています。箱庭みたいでかわいくておとなしい。この感覚は久留里城、岩富寺、本納城などと共通です。

 二の丸から土橋、本丸虎口方向を見ています。本丸の土塁がおとなしい。


 佐貫城の多彩な切岸(崖)の表情

 本丸西端から下をのぞき込むと谷は随分と深いことに気がつきます。ここの先は国道127号です。上から10m以上落差があります。杉林になっています。草木が生い茂っていて下の方からはこの崖に近づけないのが残念です。崖は北の展望台部分が凝灰岩で南の展望台は粘土(柔らかい泥岩:佐貫層?)崖、あとのその間は土です。土の部分の崖には樹木が繁茂しています。

 本丸館山道側の切り岸と平場(現在畑)です。高さは5mくらいに見えます。崖は笹藪で土質は土のよう。一般生活平面はここからさらに5mくらい下とは言えおとなしい感じです。 画面奥の柵(小さくて見にくいですが)のところが本丸・二の丸間の横堀の東末端です。単に溝が降りてきてそこで終わっている。これだと堀を伝って城内に入っていけますよね。宝永の絵図面ではここは侍屋敷跡となっています。

 本丸八幡郭(北の展望台)下の切り岸です。地層の縞々が見える凝灰岩のようです。

 三の丸最奥(北端、国道127号側)の大土塁です。画面で平場になるのは人の立っているさらに3m下です。この下の平場は宝永絵図面では空堀跡と書かれており今でも約20m幅があり、その北端に10mの崖があってその下が一般生活面の田んぼなどになります。通算で三の丸最高所平場から2mの額縁状の高み土塁があってそこから外へ10mの崖、その下が20m幅の空堀で、さらに10m下って生活面田んぼとなります。館山道側に比べて峨峨とした感じで、これに仮に切り石でも貼り付けたら三の丸・本丸と合わせて高さ20m、長さ500mの城壁が出現します。


 堀切りの構造

 佐貫城北側の大堀切です。

 北側堀切そばの苔に覆われた崖。上総の古道の雰囲気です。

 佐貫城西側の大堀切です。三の丸西側の防御施設です。

 尾根筋通行を遮断する堀切は反面から見ると城内進入路になります。それを防止するため佐貫城近くの岩富寺の堀切は鞍部 の最上部に岩をくりぬいたバスタブ状の堀を造っていたことが発掘調査で分かっていますが、ここ佐貫城の堀切鞍部を観察すると(人物の立っている足許が)少し凹んでいます。ここに岩富寺のようなバスタブ状箱堀構造が埋まっている可能性があります。

 三の丸北の大堀切近くにあるモチの巨木です。後世(明治後?)に境界目印として植えられたのでしょう。今では御神木と云っていいような貫禄があります。他にも数本のモチがあります。


 ファーストクラスのフォトスポット

 岩のプールの中に入っての撮影。左の縁の下が三の丸最奥部。ここは佐貫城のへそです。

 岩のプールの縁から二の丸切岸を見ています。

 岩のプールの中に入っての撮影。中央のU字断面が本丸・二の丸間横堀の末端。堀は土橋方向に下っているので大雨でも滝にならないです。画面で堀の左が天神郭(南展望台)で、右が二の丸となります。ここは本丸、二の丸、三の丸の境が集中して接している場所で佐貫城のヘソなのです。


 ビジネスクラスのフォトスポット

 天神郭(南展望台)です。左の竹で囲まれいるその下は横堀。底まで5m。右は本丸下の平場まで15m程度。写真では単なる農道の雰囲気ですが竹木を取り除くと細い岬状の場所なのです。

 八幡郭(北展望台)です。南展望台と同じでここも細い岬状です。階段右に小さな石組みがあります。(木の影で見えにくいですが)

 ところで細い岬状の郭は上総の城の特徴のひとつです。久留里城、本納城、秋元城などにも見られます。  佐貫城の細い岬状郭の名称は江戸時代までここに天神様、八幡様が祀られていたことに由来します。これらの神社は明治40年代になって麓の日枝神社に合祀されました。

 近世江戸時代では、三の丸西堀切を越えて日枝神社までが城内の扱いになっていたようです。 しかし、本丸・二の丸はほとんど使われなかった。それでも江戸時代初期には祭祀には使ったでしょうが後期になるとそれも間遠となり、やがて単なる裏山の扱いになったということでしょう。

 以上ざっくりと佐貫城を概観しましたが、佐貫城を時代の流れの中で見ると佐貫城が大発展する客観的なチャンスがあった時期は徳川家康が江戸に入部した天正18年から約十年の間だけでしょう。この時の城主は内藤氏。この時なら例え城主が一万石クラス(あの本多忠勝すら三万石だった)であっても城主の力量・遊泳術があれば徳川家康(まだ将軍ではなかった)の懐に飛び込んで金を引き出し、あるいは天守閣があり、あるいは石垣があり、あるいは水堀が出来たことでしょう(絵図面ではこれらが確かに存在しています)がそれ以後そんな大工事をするような政治経済的なチャンスはめぐって来ませんでした。


 町などが発展するには地元住民のたゆみない努力と富の蓄積だけではどうにもならない点があり、どうしても政治経済的な客観情勢が順風となって吹く必要があります。それが吹くと数年の短期間で大発展するのです。今の佐貫・富津にその芽があるか、具体策はわたしのような凡人には見えませんが大規模災害時にはどうしようもなくなる首都東京の異様な人口過密を解消する手段として昔の別荘でなく生活・組織のツイン並立化、セカンドハウスやセカンドオフィスの誘致などがいいんでないかいと妄想し思うばかりです。

佐貫城本丸で天守台発見!

 佐貫城保全を行なっているボランティア団体、「いしずえ会・亀城連」の人たちが大ヒットです。佐貫城本丸で天守台と思われる土壇を発見しました。

 大きさは本丸中央の西端切り岸(崖)ギリギリに南北幅15m、東西幅7.5m、高さ1.5mの長方形の土壇です。東西幅が小さいのはこれから紹介する絵図から推定すると崖が崩れた結果と考えられ、建設時は15m角で2m高さの房州石積みの基礎と考えられます。

 発見の発端は、2年前、いしずえ会がインターネットで広島浅野家文庫所蔵の「諸国古城之図」に上総佐貫城の絵図が入っていることを発見、その集成版が新人物往来社から発行されていて千葉県立図書館には所蔵されていることが分かり、千葉まで出かけてコピーを持ち帰ったことから始まりました。

 さて、絵図本丸を拡大(上図)しますと、本丸西端に天守閣(二層の小さなもの)らしい建物があります。佐貫城にも天守閣があったと絵図に描かれているではないか。これは信じていいのか? その時は、いしずえ会のメンバーも勝手知ったる佐貫城の本丸を思い浮かべながら今はたぶん痕跡の片鱗も残っていないだろう、従って絵図が正しいのか証明出来ないだろうと考えていました。

 ところが、昨年、NHKの「ブラタモリ」で真田丸についての新たな絵図が発見されそれを解析すると色々な謎が解けた(解いた人は奈良大学の和田教授。城郭考古学の創設者)との報道がありさらにこの研究に使った真田丸の新たに見つかった絵図とは、諸国古城之図の中の1枚だと知り、諸国古城之図の正確さが分かることとなりました。それなら佐貫城も新たな発見の望みがあるのではないか、素人故に大がかりな発掘調査は出来ないがヤブ刈りくらいなら出来る。浅野所蔵の佐貫城絵図の天守閣あたりのヤブを刈ってみようとそれを実行したら、あらっららっら!!!!立派な土壇が絵図通りの位置にあった、ということです。

 発見してしまえば、なんでこんな大きなものが誰にも見つからなかったのか、佐貫の人はよほどぼうっとしてるんだと思われそうですが、ものごととはこんなもので幾多のアマチュア・学者もよほどの確信がなければ、タケヤブのひとつも刈ろうとせず、ざっと見て見えないものは何もないことだとの思い込みで何十年もそのまま今にいたったということです。

 この写真は昨年、12月に撮った本丸広場です。奥のヤブの中に土壇があるなどと誰も思いもしない情景です。

 今年になって「いしずえ会」がやぶを刈り取った後の写真です。杉林の奥の枯れ枝で茶色くなっている部分が土壇で、幅15m、奥行き7.5m、高さ1.5mです。土壇の縁は土ですが、20cm角厚さ5cmくらいの房州石のかけら1個が拾えました。房州石が貼り付けられていた可能性があります

 接近して撮った写真です。土壇斜面で房州石の破片を見つけました。

 佐貫城の在りし日はどんな風景なのか、今回の発見で色々考えています。そこでイメージの構築に役立つのではと、「日本名城画集成」(萩原一青画 小学館)から一番近いイメージを捜して掲載したのが長野上田城のこれです。上田城は垂直な河岸段丘崖が補強のため一部石垣積みになっていますが、佐貫城は垂直な自然崖で石垣は建物の土台部分だけです。建物は二層で、左右の片方だけは土塁です。また上田城の建物は一部黒板壁ですが佐貫城はおそらく全面漆喰壁です。

 恐れながらこの絵図を佐貫城に改造するとすると、絵図手前の川原は今の国道127号になります。崖は勿論垂直崖で内側に湾曲、崖の南北が半島のように突き出ていて先端は天神と八幡の小さな神社、中央に二層の比較的大きな櫓(漆喰壁)、右側に四脚門とその左右20m程が土塀、四脚門を抜けると土橋。本丸の東側と北側には土塁がめぐっていて八幡社も土塁で囲まれ、西側中央の天守閣代用のような櫓まで土塁となります。しかし土塁はここまで。天神社とか、横堀側には土塁がありません。本丸中央は江戸城など特例を除いてどこの城も同じですが何もない広場です。

 現在の佐貫城本丸を子細に見ますと、絵図通り(勿論四脚門、土塀、櫓本体はありませんが)土塁が南東部だけは確かに残っています。(東側部分はヤブで近づけないため未確認。北、西側にはなかったです)ここでも浅野絵図の正しさが確認されました。

 さて、上田城絵図を見ますと左奥から中央奥は池や堰が広がっています。佐貫城に当てはめますとこちらは牛蒡谷方向ですが、偶然にもこれはこのまま佐貫城にあてはめていいようです。なぜなら浅野家絵図によりますと牛蒡谷にはたくさんの池、堰が見られます。だからこれも本丸が正しかったのだから今の実態はどうであれ浅野絵図を信じてこのまま上田城図を佐貫城図としていいようです。 話しは飛びますが浅野絵図では牛蒡谷が水郷地帯であってそこから佐貫城南側に水を導き佐貫城の水堀としたことになっていますので、そうだとすると佐貫城の別名が「亀城」である意味が分かります。なぜなら土浦城も亀城の別名がありますがこれは霞ヶ浦のそばにあることからきた命名なのですから。

 また何時の頃か牛蒡谷が干拓されて今の姿になったとするとこの干拓問題が後で紹介する関山用水問題とからんできます。実はその変遷も絵図で読み取れます。(お楽しみに)  今後、絵図面が実態と違うから絵図面が間違っていると考えるのではなく、絵図面と今が違うならその間に改修されたのだと考えその理由を推定していくという形で歴史の実態にせまろうと思います。 幸い、佐貫城は絵図がたくさん残っていますので城郭考古学を実行するたのしいフィールドになりそうです。

浅野家所蔵佐貫城絵図を読み解く

 城の主部である三の丸建物を読み解きます。

 佐貫城跡の坂を登るとまず①の溝をわたります。溝は関山用水。現在も現役の農業用水路。ただし絵図の頃とは水源も性格も違います。流れのルートは今と同じ。

 ②は太鼓櫓跡とされるもの。注目は絵図では土塀があるが櫓の建物がないこと。阿部氏のころは櫓がなかったのでしょう。太鼓櫓は内藤家長、松平勝隆の頃の話が混同されているかもしれません。

 ③は階段になっています。右に注意書きが「坂九段」となっています。④は大手門。  大手門を入ると土塀で囲まれた広場。左に入ると⑤の建物。これは別情報ですが「御沓所」と呼ばれる大きな玄関。入城者はここで履物を脱いで長廊下を歩いて大きな建物に入ります。⑥は「御広間」。儀式の場所です。入場できるのは藩士、神主、僧侶、特別に許可された者のみ。

 ⑦は廊下と小さな部屋が連続した建物。⑧は奥向きの建物。藩主の執務室、休憩室等。しかしまったく私的な居住区画ではないと思います。参勤交代制度の折、正規の奥方、世継ぎ、使用人などは生涯江戸藩邸常駐です。従って藩主の側室・お国御前は城外の離れ家でということになり藩主はここから城に通う形?

 ⑨は分かりにくく、「日本名城画集成」にも類似の構築物は発見できなかった。しかし想像をたくましくすると恐らくここは「お白洲」です。ただし裁判などのお白洲ではなく名主、村役人、豪商などを城に招いた時、控えていてムシロに座らされて藩主の出を待つ場所でしょう。藩主は廊下に出てきて何かお言葉を申し渡すということになります。武士でない人たちが正月行事、藩主の交代などの時招かれたのでしょう。名主たちの出入りは土手の階段を使って⑩の広場からということになります。名主でもない一般庶民が入れるのは⑩までです。

 ⑩はその昔、内藤家長、松平勝隆の時代はおそらく水堀だった場所です。松平重治の改易によって50年くらい廃城になったおり、埋まって池のようになっていたのを、埋め立てて周りを水路として再整備したものでしょう。周りの水路は②の櫓台のところは暗渠になっています。⑩のこの場所、現在は駐車場になっています。

 内藤家長、松平勝隆時代の佐貫城の水堀と石垣のイメージはどんな状況だったのでしょうか。

 内藤家長、松平勝隆時代の佐貫城が最も充実していた頃の復元図です。隅櫓と土塀は長野高島城からお借りしました。雪国の城ですので板壁、屋根は銅葺きですが佐貫城ではどうだったか 。

 土塀を考察する一つの材料に、阿部氏入部前に佐貫城の現状を幕府に報告した絵図(宝永絵図)三の丸注意書きによると「板屋状の塀三十間これあり」とありますので上の写真でいいような気もします。ただし屋根は瓦かも。

 さらに注意点。この写真は6年前の知識に基づいています。今の知識ですと、奥の山の上にもう一つ大きめの櫓をそびえさせるところです。佐貫城事実上の天守閣です。

 房州石の石垣の途中に草が生えていますが、これは関山用水(当時は水堀に水を供給する役割の水道)の溝です。(なお石垣について宝永絵図は文書では触れていない。しかし絵図が石垣様に見える)

 時代が下って話を阿部氏時代の大手門のイメージ作りに戻ります。

 大手門前の③の階段とその奥の④の大手門のイメージを「日本名城画集成」から見つけたらお似合いなものが見つかりました。園部城です。階段と土塀の間のたたき(スロープです)は廊下橋塀と言うそうです。今で云えばバリアフリーです。ただしこの城、明治2年の竣工ですので、時代考証から注意が必要です。なお左の櫓は取っ払って石垣で櫓台を高く上げ、周囲に土塀を巡らすと佐貫城に近づきます。

 なお、内藤家長、松平勝隆の時代の佐貫城の様子は佐貫城別の絵図(阿部氏が幕府に提出宝永絵図)で伺うことが出来ます。⑩の広場=水堀が満々と水をたたえ、その上は房州石の石垣、その上に土塀がめぐり、さらに隅櫓が東西に2基。土塀の中の三の丸内部はうかがい知れませんが想像するに建物は阿倍氏時代とほとんど同じだと思います。大手門も同じです。違うのは大手門の右の山の上にひときわ大きな隅櫓がそびえ立っていること。これは内藤・松平時代の事実上の天守閣で、遠くからよく目だったことでしょう。今なら館山道から見えます。

 従って再建するなら内藤家長、松平勝隆の時代の城です。ちなみにこの時代、佐貫城は隅櫓多数時代で、三の丸に3基、二の丸に2基、本丸に4基、合計9基ありました。(このうち三の丸1基、二の丸1基、本丸2基の土壇は今でも確認出来ます。調査すればあと2基くらいは確認出来るかも知れません。)

三つの佐貫城絵図で読み解く関山用水

 タモリ流地形の読み解きを続けます。高低差学会、崖学会、地質学会の話しです。 佐貫城の絵図はたくさんありますが、出所がしっかりしていて信頼できるのは、宝永絵図、加賀前田家所蔵「諸国居城図」の中の佐貫城図、そして先に紹介した広島浅野家の「諸国古城之図」の中の佐貫城図です。

 このうち宝永絵図は図中に「宝永七年(1710)」とあり製作年代がはっきりしていますがあとの二つは時代が分かりません。

 そこで、まず三つの絵図の時代順序を推定しますと、川などの状況、城内の状況から推定して並べると、まず、宝永絵図が一番古く、次が前田絵図、次が浅野絵図となります。なぜそう推定できるのかと共に、三つの絵図の違いとその理由を説明します。

 宝永絵図:佐貫城に入部するに当たって阿部氏が幕府に提出した修理箇所説明書。

 前田絵図:用水路が途中で水色でなくなっているなど、工事中を思わせる。三の丸の建物など渡り廊下がないなど、未完の状況に見える。

 なお、前田絵図は上図の西側方向である佐貫町方面を描いたもう1枚が付属している。ここには水色に塗られていない用水が描かれており、そのルートは下図(浅野絵図)と同じである。

 浅野絵図:用水路が佐貫町まで延伸した状況から三図の中で一番新しいように見える。

 以上、三つの絵図で共通しているのは人工の用水路の水源域(上図で赤丸で囲ったところ)で逆にそれぞれが違っているのは佐貫城内の様子(特に三の丸南側の崖、土塀、建物、水堀。上図で青丸で囲ったところ)と、用水路の延伸状況です。

 ここでは話を用水の水源問題にしぼります。絵図で見る限り水源は牛蒡谷内の細長い池で、そこから来光寺川(仮称:染川の支流)の上を水道橋でわたり、佐貫城の追手(王手)上に導かれています。

 ところが現在の地形状況はまったく違います。絵図の佐貫城近辺の用水ルートは現在と同じですが、来光寺川と立体交差する水道橋の位置は、現在ではもっと西で城の切り岸とほぼ接しています。そしてさらに牛蒡谷に池はありません。来光寺川は水道橋の下をくぐって佐貫城切り岸づたいに数百メートル北に行き、その後直角に曲がって東に向かいます。

 そして一番重要な事は現在の用水の水源は牛蒡谷から約3km東で染め川南岸の鬼泪山の沢です。

 なおこの用水(関山用水)は佐貫史の中で画期的な事業で、富津市史によれば、領民百姓の熱意(百姓自前の工事でやる)が通じて藩主阿部正簡が(城の権威を落とすものとの多くの反対を押し切って)用水の城内通過を許可し稲子沢水源の高低差を長い木製樋で克服するなど涙ぐましい努力の末に文政五年(1822)に完成 したはずなのですが、なぜか百年以上前の宝永時代の絵図にはすでに(水源は違うが)用水は存在しています。

 この矛盾は、どうも富津市史の記述の舌っ足らず(あるいは左翼的な史観による歪曲)と考えれば説明がつきます。絵図が正しいとしてタモリ流に関山用水の全開発史を解釈しますと以下となります。

 徳川以前の佐貫城の支配者里見氏などは、用水土木の発想も技術(具体的には見通せない2箇所の高低差測量技術)もなく佐貫の河川は太古以来の状況が続いていた。そもそも佐貫は水源が豊富に存在するが、河川の土地浸食が急で、川面高さが低く、ポンプのない昔は農業用水に使えないのである。

 徳川氏が江戸に入ってきて内藤氏が佐貫城に入った。内藤氏は佐貫城の三の丸の守りの手薄さを考えて、ここに水堀を造りその水源を牛蒡谷の池に求めて用水路を造った。用水路は城の西南現在の日枝神社のところまでで余り水はここで来光寺川に落とされていた。

 城主が内藤氏から松平氏と続いたが、松平重治が改易となり佐貫城は廃城。城内の建物は破却され水堀だけが残ったが、これも浚渫されないため半分ぐらい埋まって池のようになった。これが宝永絵図の状況である。

 50年ぶりに佐貫城は阿部氏によって蘇った。阿部氏は、水堀を埋め立て広場(外廓、または馬出し)とし、用水を日枝神社から殿町、さらに佐貫町へと延伸させ、飲料水、また農業用水として使用させた。用水の余り水は北上川(染川の支流)に落とされた。

 その後人口の増加と共に用水需要が大きくなり牛蒡谷の水量では足りず水源を他に求める要求が出てきた。

 100年後、種々検討して決まったのが、水源を染川上流の稲子沢に求めると同時に不要となった牛蒡谷の池や堰をこの際埋め立てて田んぼに変換しようということになり、来光寺川の流路を変えると共に川底を掘り下げて地下水面を下げ牛蒡谷を乾かす計画となった。

 こうして今の状況が実現した。従って阿部氏側が城の権威がどうのと逡巡するなどということはなかったはずである。強いて悪い影響を考えれば、前田絵図に見られる牛蒡谷の水郷のような景観(水面に浮かぶ弁天様、八幡神社、白山神社)が失われて単なる田んぼになってしまう恐れであり、実際今はそうなって、おまけに上を館山道が通ってしまって景観ということからはえらいことになってしまいました。

 注:昭和の初期に関山用水は大幅に変わりました。一つは水源が稲子沢からさらに1km東に登り、染め川の南岸の鬼泪山の沢になったこと。二つは佐貫町商店街を流れる用水路は廃止(排水溝化)し、用水路は殿町から佐貫中学校を抜けて中村方面に延伸されました。

 注:富津市史によれば江戸時代の関山用水工事で稲子沢では長大な木製樋が必要になりその製作を岩瀬の船大工に頼んだ事になっています。しかしこの頃八幡村は押し送り船産業が最盛期を迎えており八幡の造船産業も最盛期だった筈なのになぜ岩瀬なのかちょっと疑問が残ります。この決定には佐貫藩、牛蒡谷津、亀沢、中村などと八幡村とのある種の緊張関係が窺えます。

 

関山用水変遷のおさらい

 

 宝永絵図から関山用水がどう変わったかをもう一度おさらいします。

 まず宝永絵図(宝永7年(1710)阿部氏が幕府に提出)が描いている状況は、関ヶ原の戦い頃に造られ80年くらい使われその後30年間放置された城跡であることをきっちりと意識しておく必要があります。

 ここで絵図に①から④の番号をふった水路を説明します。

 関山用水のスタートは佐貫城南面に築かれた水掘りへの水供給が目的であった。余り水は現在の日枝神社のところで来光寺川に捨てていた。この用水の水源は牛蒡谷(ゴボウヤツ)水門(子字名)あたりであった。従って水源を冠する名称とするなら牛蒡谷用水とすべき人工水路であった。ここに阿部氏が入って次のように変えていく。

 阿部氏は土砂で埋まりかけていた水掘りを埋め立てて馬出し様の広場とし、牛蒡谷用水を上水と農業用水に変えた。

 ①阿部氏は佐貫武士屋敷地と佐貫城下町に水を供給するために用水を日枝神社から西に延伸。この時の絵図が浅野絵図である。

 ②その百年後約1km東の関山稲小沢に水源を移設した。ここで文字通り関山用水が誕生したことになります。

 ③同時に来光寺川の流路を佐貫城までぶっつけ以後直角に曲げ、なおかつ川床を掘り下げて水位を下げ新田開発をした。 

 昭和になって、水源をさらに上流の鬼泪山山麓の井戸に求め、送水ポンプにて染川をわたって関山用水に供給する工事を行い現在の形となった。

 以下、稲子沢から殿町まで現在の関山用水を歩いて見ました。

 関山用水開発記念碑

 バス停「関山口」を流れる関山用水。ちなみに染川は画面左方向100m先。渓谷状に浸食され川の水面高さは道路からマイナス20m。

 用水の右側が関山稲子沢。現在水源として使われていない。ここの横穴古墳から斧とノコギリが出土している。多数の金クソ(鉱滓)も出土。古くは鉄の生産場所だった。

 法隆寺宝竜寺下を関山用水が流れる。

 館山道をくぐる。

 牛蒡谷(ごぼうやつ)に入る。くぐってきた館山道が見える。 用水の右は字名で水門あたりだが現在の地形は周囲から2mくらい窪んだ土地になっている。かなり広い(2ヘクタールくらいある)です

 来光寺川と関山用水の立体交差部です。右ヤブの下から左ガードレール下まで道に対して斜めの暗渠で来光寺川が流れています。 右の崖は佐貫城二の丸。

 右ヤブの下を覗くと来光寺川の水面はかなり低い。マイナス6mくらいか。 右奥に見えるのは本丸東側の侍屋敷跡地(宝永絵図によれば)の高台。

 両手で来光寺川の暗渠の方向を示しています。宝永絵図に比べて来光寺川が佐貫城に寄っている。

 ここで関山用水が道路の高さから急速に高くなっていきます。

 あっという間に用水が高くなり角を曲がる。 この崖の上に(宝永絵図によれば)大手門上の角櫓があった。館山道上り線から一番目立つ場所です。

 館山道からは三の丸の3基、二の丸の2基、本丸の2基、計7基の角櫓が(再建されればのはなし)見えるはずです。約5秒間。

 佐貫城大手門前を横切る。この位置で染川は大手門前道路から300m南。水面の高さは約20mくらい関山用水が高くなる。

 三の丸前駐車場脇を流れる関山用水。

 佐貫城となりの住宅街を大きく迂回して流れる。(等高線に沿って流しているため)

 日枝神社の所で道路に合流

 殿町(阿部氏の家臣屋敷地)に向かう関山用水。宝永絵図ではここのバス停の所から道を左に横切って余り水を来光寺川・染川に落としていた。(染川との距離は50mくらいと近づく)

 

          絵図で読み解く佐貫城点描①

江戸海道の終点

 佐貫城主が江戸から帰参の時どういうルートを通って佐貫城に入ったかを読み解きましょう。

 浅野図の江戸海道付近を拡大したものです。「街道」でなく「海道」であること、今で云えば「湾岸道」という言い方になります。「いざ鎌倉道」の江戸幕府版ということになります。

 ①の辻が佐貫城入城の辻となります。海道の坂を下りてきた城主一行はここで④の本丸大櫓とご対面。道は右に行けば佐貫町方面です。この部分は今の国道127号と変わりないはずです。江戸時代はここから先の君津方向へ小山野隧道方面への道はありません。

 城主一行は北上川を渡り、今の「天祐会」を右に見て迂回し丘陵沿いに②西大堀切りを越えて佐貫城の城内に入ったことでしょう。 そして城主の居宅は③と言うことになります。佐貫城へはここから通勤します。

 ただここで問題があります。北上川方向から佐貫城の現「永島ラーメン店」方向に抜ける場所は崖が非常に急でほとんどとりつくルートが見つかりません。かろうじて西の大堀切り(里見氏かそれ以前の人たちが造ったと思われる)縦断が唯一可能性のあるルートなのですが、それでも2回から3回のつづら折りを降りなければ不可能です。それなのに絵図では道がスーッと通過しています。崖崩れなど地形の変形があって今は昔より急になったのだ、昔はもう少しゆるやかだったとしてもまっすぐでは無理で数回曲がらなければ降りられません。

 それはそれとして、江戸海道の終点が細い下りの急坂(鎌倉流に云えば切り通し)であるというのは徳川家康が造った御成街道の終点である東金御殿(東金高校、八鶴湖のそばです)に似ています。この辺は徳川の好みというより鎌倉以来の武将の好み、美意識なのかも知れません。

 下の画像はその西の大堀切りの今の様子です。佐貫城に向かうには手前から上がってきて奥に降りて行くことになります。

 ついでに東金御殿への入り口の切り通しの画像を2枚、下にあげておきます。なお東金御殿は画面手前に歩いて向かう方向です。



 話しを佐貫城に戻します。

 Yahooの航空写真に佐貫城図(小高春雄氏)を重ねて見ました。西の大堀切りは黄色い佐貫城図線が途切れたあたりです。現在の我々の常識では127号側から見てこの堀切りあたりは佐貫城ではないという感じに捉えていますが佐貫城を造った人たちの認識は、現在の「天祐会」を右端にして左へ500mくらい、U字に凹んだ高さ20mの岩の崖(切り岸)が連なっていて、その左端に近い崖の上に小さな櫓が見えるというのが佐貫城で、設計的には国道127号側が正面です。(現「永島ラーメン」側は佐貫城の裏側です。)

 正面、裏面の逆転は江戸城でも起きたようです。地理学者(竹村公太郎氏)に言わせると半蔵門が本来の正門で今の二十橋などは裏門と言うことになります。従って将軍は半蔵門から出入りし、諸大名は二重橋の右となりの大手門橋から出入りさせた、いわば裏門から出入りさせられていたということす。

 明治以後、天皇陛下が江戸城に入ってからみんなの認識が逆転してしまった。もっとも今でも天皇が出られたり戻られたりは将軍と同じ半蔵門だそうです。(又聞きです)


        絵図で読み解く佐貫城点描②

大手門上の櫓台

 宝永絵図の中心部を示します。

 絵図に描かれた櫓台が今もあるか確認します。 宝永絵図の性格ですが、これは内藤・松平が築いた佐貫城が松平重治の改易によって廃城となって50年経った後の状況を阿部氏が報告しているものです。従ってここに描かれているのは、武田氏・里見氏ら、またはそれ以前に造られた佐貫城の跡と、内藤・松平氏が造ったものの跡が混在していることになります。

 ここで画像の赤いフリーハンドの矢印は一般の佐貫城見学者が歩いて行くコースです。白いフリーハンドの矢印は佐貫城に詳しい人が行くコースです。

 ここでは番号を振った櫓台の現状を報告します。この櫓台は内藤・松平氏時代の遺跡だと考えられます。 なお、ピンクの丸で囲まれた部分については最後に触れます。

 ①の櫓台は現存します。佐貫城跡で唯一城跡らしい場所です。ただし阿部氏時代にこの場所に櫓が建っていたかと云いますと浅野図・前田図両方共に否定的です。阿部氏時代は櫓台があったが櫓はなかったのです。

 ②の櫓台は現在はまったく認められません。阿部氏の時代に崩されたようです。③の櫓台は大手門上の櫓なので珍しい配置です。現在はヤブの中ですが、最近登って見た結果では丘の上は平で結構な広さですが、そこから更に高くした幾何学的な櫓台はありませんでした。

 しかしこの場所、浅野絵図を見ますと櫓ではなく曲がり屋のようなものが築かれています。これは何なのか。これについては後ほどもう一度触れます。

 ④の櫓台はまだ行っていません。ものすごい密集した竹藪で近づけません。ただそれだけに跡が残っている期待が持てる場所です。白い矢印の方向に行って途中で上に登るルートで何とか行けそうな気がしますので近いうちに確認します。

 ⑤、⑥の櫓台へは最近「いしずえ会」がヤブを刈って行けるようになり、そして痕跡が確認されました。⑦の場所は痕跡がありません。おそらく阿部氏時代に意識的に削ったのではと考えられます。

 ⑧の櫓台は「いしずえ会」が発見しました。ここは阿部氏時代の佐貫城で唯一櫓が造られた場所です。天守閣の代用と考えられますが大きさはごくごく小さなものです。宝永時代になりますとまったくの文治体制になっており天守閣など時代遅れだったのでしょう。阿部氏はここだけに櫓を一つだけ造って他には造らなかったのです。

 ⑨の櫓台は竹藪がひどくてまだ行っていません。本丸の上からではアクセスが困難で本丸の下に降りて近づいた方が行けそうな気がします。近いうちに行って見ます。

 最後にピンクの丸の部分の話しです。今のここはまあとにかく密集した太い竹の地帯で見通しも出来ず前進も出来ないところです。構造など分からない場所で唯一の手段が絵図の解釈です。

 そこでこの絵図を素直に見ると崖に囲まれた枡形ではないか。

 甲斐武田氏配下の真田氏を思わせる構造です。まあ⑤の櫓と合わせて真田氏に苦杯をなめて学んだ徳川氏の配下内藤氏の作と考えて時代的にも良く合う推論と自画自賛しています。実はこれと同じ構造が本丸八幡郭下にも見られます。

 なお佐貫城には枡形に似てちょっと違う不思議な岩の遺跡があります。上の宝永絵図でいうと白いフリーハンドの矢印の下にある岩をくりぬいたプールのような構造=岩のテラスです。宝永絵図でも二つの枡のような構造が見られます。これは真田氏流と言うより時代をはるかに溯った鎌倉時代・南北朝時代頃の鎌倉の升型遺跡などに似ています。房総地区では佐貫城と岩富寺のみに見られるので、里見氏や武田氏の遺跡とは考えられません。だからといって内藤氏・松平氏・阿部氏でもない。

 さて話しは変わって③の櫓台ですが、浅野図(下図)を見ますと曲がり屋のような建物が描かれています。この場所は阿部氏にとっても特別な場所だったことが分かります。

 一つの考えは趣味的な建物説。右に用水水源の池があります。方向的には月影が水面に浮かぶ可能性がありますので月見の建物という案。

 もう一つの考えはこの独立丘(高さ12間=22mとある)全体を櫓台(人工物でない)と考えれば小ぶりの天守閣(3層)が考えられます。建てられたとすれば時代は内藤氏の時です。

 内藤氏の頃は関ヶ原合戦の時代です。全国的に軍拡の時代です。佐貫城にあってはさらに関東統治歴が若い徳川氏の実力を領民に見せつける必要があり、内藤氏は宝永絵図に見る三の丸の水堀と、石垣と、土塀と隅櫓と、そしてその上に③の位置に天守閣を造ったのです。領民達は土台の丘からはみ出るように建った③の天守閣と石垣そして人工の川で水を導いて造られた水堀を見て関東足利公方とその配下の里見氏、または後期北条氏などの時代が終わったと一瞬のうちに理解したことでしょう。なぜなら天守建設は勿論、用水建設には百メートル行って±1cm程度の測量精度がなければ不可能な仕事なのですから。 阿部氏時代になって時代的に天守を再建出来なかった③の場所には替わりに先人の遺業に敬意を表する意味で記念館を造ったのでは?


           絵図で読み解く佐貫城点描③

牛蒡谷(ごぼうやつ)、本当は御坊谷?

 Yahooの航空写真で佐貫城の東側館山道方面の上に小高春雄氏の佐貫城図を重ねてみました。黄色の図です。そして今までの話しに出て来たものを書き込みました。

 まず、赤のフリーハンド矢印は一般の人の見学ルート、白の矢印は佐貫城に詳しい人の見学ルートです。①から⑨までの数字は内藤・松平時代の櫓台です。そうすると切り岸の上に③、④、⑤、⑥、⑨の櫓が館山道側から見えることになり、その下は水堀のような池があり結構なお城だったことにあらためてびっくりします。さらにそのうちの③は天守閣だったかも知れないのですからなおさらです。

 城の右側、ちょっと読みずらい漢字もありますが、解説します。

 上の図で「水門」、「関山用水」と書かれているあたりは浅野図によると池なのですが「水門」という字名が実態を表しているように見えます。同じくその上に「桜ヶ池」とありますがこのあたりも浅野図には池が書かれています。「桜ヶ池」と書かれた左側の木立の状況を見るといかにも左から埋まった感じで浅野図の時代だったら桜ヶ池は佐貫城の切り岸を直接洗っていたかも知れません。

 さらに画像上の方、番地977の家あたり、浅野図ではここに池が三つ、家を囲むようにあります。浅野図のこの辺は何となく弁天様の雰囲気です。

 話しは変わって佐貫城から離れた東方向(現館山道あたり)について触れます。

 「八幡下城跡」は佐貫城研究者の間では古くから知られた城跡で佐貫城の外郭と位置づけられていたものです。この命名は山の頂上に八幡様が祀られたことに由来します。ここと上図からはずれて南の方(下)には「根木田入り口山際砦跡」と命名された城跡が館山道工事中に発見され、調査後に八幡下城跡と共に破壊消滅しました。これらの残された写真では多くの堀切り、郭構造が見られ、特に「根木田・・・」からは切り石による大規模な石垣が発見されました。さらにいくらかの陶磁器片、中国銭も発見され時代的には戦国時代とのことです。ただしこれらの遺跡に関連する文書資料が何もなく誰がいつ何の目的でこれらを造ったのかについては全く分からないのです。

 佐貫城と合わせてこれらの遺跡を大佐貫城と命名する学者もいますが客観的に考えてたかが牛蒡谷を守るために何でここまでするのかとの思いがぬぐえません。

 しかし、牛蒡谷が後世のおとしめ卑しい当てつけ命名で本当は「御坊谷」だったとしたら守るにこれだけの努力のバランスが取れるかも知れません。施主が大名でなくお寺だったらということです。(なお蛇足ですが当てつけ卑字で有名なのが宇治を「蛆」とした例があります。)

 佐貫で大寺院であるなら第一候補に上総安国寺ですが、しかしその跡地はここから  1km西に比定されています。あるいは岩富寺かとも思えますが岩富寺ではかなり格下ですね。

 それはともかく少なくとも八幡下城や根木田砦が宝永図、前田図、浅野図の時代には忘れ去られていたことだけは分かります。従って徳川氏関係遺跡ではなく、里見、武田氏あるいはもっと前の話しとなります。


裁縫室の掛け軸(佐貫史を彩った人々の奥津城訪問)

 佐貫史を彩った人々のお墓を紹介します。どんどん昔にさかのぼっていきます。

 昭和8年(1933)に完成し昭和40年代(1970年代)まで使われた旧佐貫小学校の裁縫室は学校で唯一畳敷きで床の間があった。ここは戦前から戦後も同窓会の会場に使われたため、内部の様子が写真に写って残り今も見ることが出来るのだが、注目は床の間に飾られた三幅の墨書掛け軸の文内容である。


 「報国丹心」から始まる漢詩なのだが、これについてちょっと調べてみると、有名人の書例としては西郷隆盛、広瀬武夫でありいずれも辞世文である。「報国」は水戸尊王攘夷運動の中で盛んに使われた言葉であることを考えると、佐貫で辞世を書き「報国丹心」を使った人物は、水戸天狗党の村田理介か新井源八郎以外に考えられない。

 この額は両者のいずれかの自筆である可能性が高い。おそらく、切腹(元治二年)(1865)後に額装され、佐貫藩校に飾られていたものが明治後に小学校に寄贈され昭和の裁縫室に飾られるようになったのではないだろうか。

 天狗党の面々は上総・下総・常陸・上野の各藩に分散して預かりとなり、やがて責任者は切腹と斬首、他は追放となった。佐貫藩では村田理助・新井源八郎が切腹、後の2名が斬首となり花香谷の妙勝寺庭先でとりおこなわれた。これらを執行したのが佐貫藩の青年達であり、彼らはこの体験を通じて尊皇攘夷思想に感化し、倒幕開国恭順派と目された家老(一説には用人)相場助右衛門暗殺(慶應四年)(1866)へと走り出す。

 天狗党四氏の墓(花香谷妙勝寺)

 相場助右衛門の墓(花香谷安楽寺)

 幕末動乱の中の佐貫藩主の墓(花香谷勝隆寺。左が阿部正恒、右が阿部正身)

 松平重治の墓(会津若松市大窪山中の峰善龍寺)

 松平重治は佐貫藩主松平勝隆に請われて高家筆頭の品川氏から養子に入った人で、母方をたどると四代将軍家綱といとこ同士となり、正室は関宿藩主久世家のお姫様であるなどきらびやかな閨閥の中の人である。20才で佐貫藩主となり、37才で寺社奉行となったが、貞亨元年(1684)重い身分でありながらすじでない卑しいものに書を送ったことは不当であるとして、幕府(将軍は五代綱吉)により、城地没収身柄は会津藩お預けとなった。この時から、官位修理介の名乗りも許されず「介」字没収さらに「殿」の敬称をつけてはならぬと命じられた。 会津藩は重治を幽閉とはいえ厚遇しようとしたが本人が辞退、ほぼ絶食の状態となり60日後に会津で44才の生涯を閉じた。

 なお、松平重治がまだ寺社奉行になっていない延宝2年(1674)佐貫城下を水戸光圀が通過している。(甲寅日記)この時松平重治は江戸詰めだったらしく光圀との面会等は記載なし。

 光圀の旅行ルートは水戸を出発して酒々井、五井、木更津、常代、相野谷から佐貫に入り八幡へ向かいここから浜伝いに湊に行きここで一泊。翌日勝山まで行きその日の内に湊に帰り、天気の具合が悪かったので翌々日海を越えて鎌倉に行きその後江戸に向かった。光圀生涯で知られる限り江戸・水戸の往復以外の旅行はこの時だけ。

 重治の墓は会津藩士の共同墓地の最奥部にぽつんと離れて建っている。墓石には「松平修理」とあり確かに「介」字が省かれていた。平成26年9月に佐貫城いしずえ会・亀城連の人たちが供養におもむいた。

 重治は養父供養のためとして「紺紙金泥浄土三部経」(富津市文化財)という自筆の工芸的巻物を残している。現在勝隆寺所蔵。また、ほとんど知られていないが、自筆(と思われる)「岩富寺縁起」も残している。この縁起の最後は縁起には珍しく四言詩である。方広寺の鐘銘「国家安康 君臣豊楽・・・・・・」と似たタッチの漢詩である。

 松平勝隆の墓(花香谷勝隆寺)

 左の五輪塔が勝隆の墓である。松平勝隆は寛永十二年(1635)に、安藤重永、堀利重と共に江戸幕府初代の寺社奉行となった人である。天海僧正の死去に伴いその職務を引き継ぐために作られた寺社奉行なので、勝隆たちはいわば寺社奉行の職務を設計した人である。

 松平勝隆は鶴岡(旧古船村)の浅間神社の縁起を残している。

 内藤家長の墓(花香谷勝隆寺)

 左のちょっと小さめの宝筐印塔が家長の墓。藤原家長と刻まれている。内藤家長は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで石田三成に攻められ長男と共に討死している。家康が上杉征伐名目で東国に向かってわざと手薄にして石田を罠にはめた作戦。家長たちは承知で自分をおとりにした。これについての恩賞はなく(当時の常識では死者に恩賞はない)一見無駄死にと見えるが、関ヶ原からだいぶ経って次男の政長が佐貫藩主であった時に安房里見家おとりつぶし城受け取りの功で4万石に加増される。その後、内藤氏は佐貫から東北に転封して7万石で老中になっている。これらの人事も家長の討ち死にが効いた(50%くらい)のでしょう。


明治時代の佐貫城跡図

 新著「戦国北条氏と合戦」(黒田基樹さん)を見ていたら明治時代の陸軍省が作った「佐貫城跡粗絵図」が載っていました。上記著作の本文と関わる深い説明のためではなく佐貫城の概略紹介のための挿絵図として軽い扱いですが佐貫城図に関心のある我々にとってはまた新たな佐貫城図の発見です。

 絵図の所有者「しろはく古地図と城の博物館」は長野上田城近くにあるようで今後そちらに出向いて明治の佐貫城の詳しい情報の有無を確認してきますが、取りあえず絵図を概観しての地元民の感想を述べておきます。

 まず、絵図の製作年代について。決め手は本丸北の八幡社、西の天神社の文字です。記録によればこの二社は明治43年に郷平治稲荷社に合祀して今の日枝神社になったわけですから、神社合祀以前の明治43年より前の絵図ということになります。しかしだからといって明治43年頃は日露戦争が終わったかどうかの最中ですから陸軍省のこのような仕事をする年代としてはふさわしくなく製作年代は明治20年代くらいまではさかのぼるはずです。逆に大手門と階段だけ残して破壊しつくされ、すべての郭が田畑になっていますので明治初頭ではなさそうです。

 なお絵図の正確度ですが、関山用水が省かれているのが残念です。ただしかし、郭の地目が田と畑に区別されていて、地元民が見ると三の丸下段以下大手門下大通りに沿って「田」となっているのは関山用水の存在なくしてあり得ないことと了解出来ます。

 また、絵図制作者は郭跡がすべて田畑になっているということを強調したかったということだと思います。ということは後世の学者の認識佐貫城域から外れた、例えば本丸天神社北西西の独立丘や大手門下大通り沿いの土地は、明治の陸軍省の目からは城の郭跡に見えたということになります。

 それを裏付ける情報として大手門南の畑地は昔は馬屋があったとされていますし、西端大通り南の場所は浅野絵図では花畑という意味深長な字名になっています。ただの土地ではなかったようです。  なお裏付け情報がない陸軍認識郭跡もあります。

 絵図を良く見ると本丸西の独立丘は二の丸東の独立丘と対をなしているように見えます。

 以上、城山が松の疎林と田畑であるという見通しのきく状況では全山ボサボサの樹木竹林の中で読み解く城構造とはまったく異なった印象になるという証です。

 陸軍の絵図について後に分かった事:書かれた年代は明治2年頃。製作の目的は、当時の陸軍は地方の反乱に対処するための鎮台制だったため、その基地を封建制時代の城郭跡地に求め全国の城を調べていたとのことです。学問的趣味的なものでなくごくごく散文的な行為です。


復元佐貫八景(の挿絵入り佐貫通史)

 佐貫は今でこそ世間的に目立たない一地域ですが、古跡や古文書や古碑の資料が多く残されています。例えば五千年前大坪貝塚に暮らしていた人々は伊豆、大島などと土器文化を同じくする人々でひょうたんを栽培しイルカなどをたくみに捕らえる反面、猪・鹿は幼獣や雌もおかまいなく捕獲するなど山の暮らしに疎いと、これは五十年前当時の天羽高校教諭野中徹さんが生徒達と共に許されたわずか三日間の発掘調査で取得した資料を基に現国立民俗博物館が現代の最新科学と知識で見直した結論です。残念なのは、目に見える遺物のみに着目し土砂を層別に保管するなどがなかったため、花粉採取などによる当時の気候が再現出来なかった点、折角採取した緑色をした状態で出て来たひょうたんの植物遺物の保存が悪く遺伝子鑑定などに廻れなかった点などです。遺物の発掘整理保管の難しさを学ばされます。

 また、古墳時代から平安・鎌倉時代の遺跡として多くの横穴墓、またはヤグラが残り、特に八幡の旧分教場そばの防火用水溜まりは横穴構築の精度の良さ、出土品の豪華さなど周辺の同種遺跡とはかけ離れた存在です。また奈良時代に優婆塞貢進されたと東大寺文書に記録された人は岩井里(岩入?)の山伏忍山。その後平安時代の資料は乏しいですが、鎌倉時代になると山中に人知れず小さな板碑が残され、鎌倉幕府末期になると像法寺に藤原信定銘の元弘三年供養塔が残されています。この藤原信定とは何者かですが、私はその昔平将門を倒した俵の藤太=藤原秀郷の子孫ではないかと考えています。

 富津市亀田(中村)の上総安国寺復元想像図。禅宗様式の寺。現水道部に法堂があった。

 次の足利尊氏の頃、佐貫は突然国家プロジェクトの現場になり、古刹新善光寺が上総安国寺に指定されます。その縁で室町時代初期に佐貫郷が金沢称名寺領となり、お寺のことですので文書が大切に保管されたのでしょう、租税取り立て請負人佐貫の住人左近七郎の証文が残りました。称名寺文書で注目されるのは、佐貫に政所があったらしい点、この時期に百姓名(中規模百姓地主=武士)として黒兵衛、舵取(かんどり)などの名が残り、今もそれに似た苗字や屋号の家が想像出来る点、上納租税の中から差し引かれる必要経費として「太田山城」の保全費用が計上されている点等です。太田山城とは佐貫城ではないか?

 富津市長浜の旧蹟二本松。干潮時にしか海岸通行できない交通の難所

 富津市八幡(新舞子)の根上がり松群落。

 室町時代のこのころ、多くの軍記物語が作られます。佐貫が出てくるのは「義経記」。源頼朝が旗を揚げましたが石橋山の戦いで破れ、安房に逃れ、力を蓄えて現東京湾沿岸沿いに北上する途中で、「造海(つくろみ)を渡り、讃岐の枝浜を馳せ急がせたまいて磯根岬をまわって須惠川のほとり篠部いかいしりにて上総の軍勢を待つ」とあります。現新舞子は枝浜として全国の武士知識人層に知られていたようです。この当時(室町時代)は小糸川河口が篠部にあったことを物語っています。上総の武士達が頼朝のもとに集まった百騎坂、また三百騎坂伝説に符合する展開です。

 富津市八幡の鶴峯八幡宮。関東大震災まで古式の建築様式を保っていた。

 戦国中期になりますと、鶴峯八幡宮再興の棟札が残りました。木更津真里谷城主の一族である武田信嗣が残したもので、この棟札一枚だけが佐貫城は房総武田氏が造った城という房総史通説の証拠なのです。しかし佐貫の武田氏の痕跡はこれしかありません。武田氏など少なくとも佐貫では後世の我々が勝手に想像する大名ではなく単なる徴税係だったのではと思えて来ます。後で述べる里見氏もしかりです。

 この頃の佐貫の産業文化的な資料としては鎌倉八幡宮別当の快元の残した文書があります。それによると鎌倉八幡宮一の鳥居用として峰上から送られた材木が上総湊にあった時、里見氏が待ったを掛けゴタゴタしているうちに材木が海に流れてしまい皆落胆したが、神の加護か、それが佐貫八幡浦に流れ着き、その結果奉納が出来たという話です。峰上から湊川を利用して材木が送られたということは鬼泪山の材木資源がうかがわれ、それならば輸送ルートとしては鬼泪山の北側(より良質の材木と思われる)の材木は染川ルートが自然に考えられむしろその方が主力だったのではないか。なお湊から八幡方向への潮の流れは今も変わらず大風の後は湊川の竹木で八幡の浜は覆われます。

 鬼泪山の材木と八幡浦での造船産業は中世を通じて衰えることがなくさらに続いて江戸時代から大正時代の鉄道開通まで続きます。その証拠資料も多いです。(「中世房総の船」千野原靖方「富津水産捕採史」富津地区転業記念事業実行委員会高橋在久参照)

  富津市亀沢岩富寺。聖域に近く骨堂を置く配置は真言律宗など鎌倉仏教の影響が濃い。

 歴史に戻ると、中世のその後佐貫郷は大乱となり(安国寺文書資料)安国寺は衰亡。岩富寺縁起(松平重治が記す)によれば、この頃岩富寺も盗賊の侵入と放火で衰亡しています。

 その後、佐貫城には里見義弘が入ったようです。これは保田妙本寺の僧日我の日記に「佐貫の義弘が日頃の大酒により臓腑がやぶれ血を吐いて死んだ。安房の衆は一人も焼香に来なかった」という文章を残しているからです。ただし佐貫に里見義弘の痕跡は古文書も何もまったくありません。一般に里見氏の築城の特徴と言われるものも筆者は確認出来ません。滝田城、岡本城、館山城などと佐貫城の共通点も見いだせません。

 里見義弘が佐貫にいた別の証拠としては、喜連川(足利将軍家滅亡後の改称名)文書中に義弘の息子の里見梅王丸宛の正月祝いの品の添え状が残り、この中に「佐貫」の表記があります。また、義弘存命中の時期に古河公方足利義氏(一般的に古河公方とは認定されていない人物)がごく短期間ですが、佐貫に移座したという文書が残っています。これは義弘が呼んだと解釈すればしっくり行きます。義弘は関東公方を手元に呼び、行く行くは梅王丸を足利家に養子に出し関東公方にしようかと夢見ていたのかも知れません。女系の血筋的には問題ない話しではあります。時代が許せば、佐貫公方統治の時代があったかと思うとわくわくしますね。もしそうだったら佐貫はもう少し洗練された町並みになり、鎌倉的な土地になったのに残念です。足利市や古河市、結城市など足利氏の伝統が濃い町は皆上品な雰囲気が今でもあります。現在京文化と称している京都のいろいろな行事やその他は西国の王朝文化の後継ではなく東国の足利文化であることに気付いてください。大文字焼き、五山制度、各寺の庭園、祇園祭などすべて足利文化ですよ。足利氏が京都に室町幕府を開いて足利氏が都風を学んで洗練されなじんだと言うことではないと思います。足利氏が財力と権力で京文化を足利好みに変えたのです。

 司馬遼太郎さんの「箱根の坂」の中で北条早雲が伊豆の茶々丸邸を訪れた場面、「庭に目をやると苔と石を配した池がしつらえてある。海岸には海岸の美しさがあるのに何もこんな乾いて苔を生やすに苦労するようなところに京風の庭を造ってもしょうがない」と早雲があざ笑っていますが、これちょっとおかしいです。茶々丸が京風=足利風の庭を造るのは本家ですから、そして伊豆の堀越という土地は海岸近くですが海岸の雰囲気はまったくありません。京都っぽいところですので・・・・・  さて、歴史に戻ります。戦国末期佐貫を含む上総の南半分は里見氏の支配下になります。里見義堯(義弘の父)は上総半国統治の地として、大多喜、久留里、佐貫を選びます。自身は久留里在城とし、義弘を佐貫に、大多喜には信頼できる正木氏を置きます。ここで、佐貫、大多喜、久留里が突然ゼロから出て来たわけではありません。義堯は先人の統治運営の地を学んで決めたのです。私が考えるに上総統治の地として佐貫を最初に発見したのは、鎌倉時代初期に上総に多くの領地を得た足利義兼だと思います。義兼は佐貫の材木と造船に魅力を感じた、と思われます。次に大多喜ですが、ここを発見したのは平安末期から鎌倉時代初期の上総広常だと思われます。

 この地区は房総の川の源流地区ですので、川沿いの道を下れば西上総の何処にでも比較的簡単に進軍しやすい所です。一方東上総には大河がありませんから浜伝いに何処にでも行けます。そういう軍事拠点としての魅力があったので しょう。久留里はちょっとわかりにくいのですが、近くの市原の方に足利義兼のはるか新しい時代に上総の領地を多く貰った上杉氏の痕跡がありますので、上杉氏が発見したとしておきます。理由は東西北上総との交通の要衝と言うことです。なお上杉氏は東国武士ではなく先祖は鎌倉六代将軍宗尊親王の付け人として鎌倉に来た家です。史上有名な上杉謙信は、上杉氏当主から上杉の名跡を譲られたのです。

 館山道から復元された佐貫城を望む。(内藤・松平期の佐貫城)

 富津市佐貫勝隆寺の参道から復元佐貫城を望む。

 天正十八年、里見氏の上総領は豊臣秀吉に取り上げられ、徳川家康に与えられます。徳川家康は上総一国統治の地として里見義堯の選択を信じそっくりそのまま踏襲します。そしてこの三箇所に徳川の内の最良の家臣を配置します。これは安房に引っ込んだ里見対策ではなくエリート教育の場として上総を選んだのでしょう。徳川家がなぜ上総を選んだか、単に江戸に近いからと言うだけでなく何かあるはずです。実際、実績としてここの城主の中から立派な人がたくさん排出しています。大多喜の本多忠勝は言うにおよばず、佐貫の内藤、久留里の土屋は老中にまで進みました。久留里の家来衆には新井白石がいます。佐貫の松平勝隆その子の重治は寺社奉行です。佐貫に縁がある柳沢吉保などなどみなそうそうたるメンバーです。

 一人、徳川家宣の時代に佐貫に来た阿部氏は恵まれませんでした。来た当時は土屋や新井白石など甲州系が跋扈していてそれが終わったと思ったら人事の主流が吉宗の紀州系に変わってしまい、ぐずぐずしている内に佐貫で百姓一揆(鬼泪山騒動)が起こり、領主が地元民に老中駕篭訴されるという失態を演じ、阿部の格で何とか地元民が負ける形で裁定を貰いましたが、実質すぐに地元民有利の状態で納めざるを得ない状況となり、何より評判を落としたことが痛く、ついに幕末までたいした役職には就けませんでした。

 城下町佐貫。近在の行政商業の拠点。画面左の溝が関山用水

 その後、佐貫の歴史は八幡の東京湾内船交通が支えます。北斎の浪裏富士に描かれた押送船、そして五大力船の数の最古記録が残っているのが八幡浦であり、大正時代の最後の押送船の写真が残っているのも八幡浦です。西上総の鮮魚、薪炭、建具、あるいはこれも浮世絵に描かれている江戸の七夕に使うおびただしい笹(真竹か?)もおそらく八幡を中心とした西上総からの押送船や五大力船で運ばれたのでしょう。しかしこの繁栄も大正時代の鉄道の開通で終了し、残照として観光地として一瞬の輝きの後、燃料革命のせいで観光資源の松林が消え今は静かな田舎になり果てました。


武士の誕生地は上総(佐貫の古代にこれだけは云いたい)

 日本史が中国など他のアジア史と違うのは武士を生み出したこととされていますが、武士の最初が開拓農民であるというのは間違っているかも知れません。

 武士を誕生させたのは桓武天皇の発した「親王任国制度である」と声を大にして云いたいのです。

 佐貫史で資料のない時代は古墳時代、明日香時代、平安時代です。これらの時代は佐貫に隣接した地域の資料から 佐貫の状態を推定するしかありません。

 まず古墳・明日香時代については古事記、日本書紀、日本武尊の地元伝説、万葉集などを参考にするしかありません。この中で私が特に注目するのは万葉集の「須恵珠名の長歌」です。高橋虫麻呂の作と考えられ日夜男を誘惑する好色な遊女を伝えています。この歌は浦島伝説の長歌の次に収録されており、近くには真間手児名の長歌もあります。高橋虫麻呂は何を参照してこの長歌を作ったのかと言いますとおそらく各国の「風土記」です。残念ながらほとんどの風土記は失われ、上総風土記も例外ではありません。風土記研究の第一人者三浦佑之(千葉大学名誉教授)さんに言わせると中でも残念なのは上総風土記だそうです。ここには日本武尊にかかわる話がたくさんあったことが想像され、古事記・日本書紀にない日本武尊の足跡が見え古代史の解釈を変える資料があったのではということです。

 私はつい最近まで須恵の珠名は弟橘媛の対極の人物像として創られたものではないか、すなわち弟橘媛の荒御霊(あらみたま。神道では神にはにぎ御霊と荒御霊の二面性があるとされる)ではないかと思っていました。不幸に死んでいった若い女性を慰めるため年に一度漂着した着物御召を荒馬に乗せて大暴れさせる、そして魂を鎮めてその後一年の平安を祈る。それが大貫吾妻神社の馬出し神事。その神事の前のオブリの奉納は、弟橘媛への貢物(ブリなどの魚)とされています。注目は奉納魚を長い太い青竹にくくって大暴れに練り歩いて神社に向かう、これは明らかに男根です。ブリと共に青竹もさらに担ぐ男達も弟橘媛への貢ぎ物なのだと。

 しかし、最近は考えが変わりました。吾妻神社の祭礼神事は二つのちがった物語を混在させているのではないか。オメシ馬(御召着衣を担いでいる)と神馬(御幣を担いでいる)交互の浜辺疾走は弟橘媛と日本武尊の神事、オブリは須恵の珠名の神事ということです。 考えて見れば荒馬疾走は荒海の中の聖なる二人の別れの再現と見えるし、さらにオブリは「恋人も妻も捨てて男達は昼夜構わず贈り物を携えて豪華な金門の奥に住む珠名のもとに集まってくる」という高橋虫麻呂の長歌の再現そのものです。後述する田中さんの言説を借りれば須恵の珠名は蝦夷の女神だったのではないか?

 なお、須恵の珠名の好色性格は流行歌今様となって全国に流布されることとなります。鎌倉時代末期に「男怖じせぬ女、加茂姫、伊予姫、上総姫・・・・」とうたわれました。これが現代の県民性評価にまでも波及して千葉の女性は好色ということになっています。 首をかしげる評価も八百年間言い続けられていたら真実になります。

 富津市内裏塚古墳後円部にある須恵の珠名の墓(画面右側)江戸時代の作成。

 次に日本武尊伝説について。

 鹿野山を舞台とする日本武尊伝説は、地元の一般的な解釈では鹿野山に住む蝦夷のアクル王を日本武尊が退治し、アクル王が許しを請うて涙を流して鬼泪山、流れている川が血で真っ赤に染まって血染川、日本武尊を祀っている神社が白鳥神社というようになっています。一言で言えば好戦的な物語です。

 一方大貫地区以北の日本武尊の伝説は弟橘媛を思い出して悲嘆にくれる様子で古事記・日本書紀とほぼ一致していてここも二つの物語が混在しているように見えます。

 この混在するはなしについて上総国歴史の会会長の田中操さんは興味ある見方をしています。まずその考えの前提は鹿野山草創の歴史です。田中さんに言わせると鹿野山はもともと蝦夷の聖地として出発したもので、白鳥神社は蝦夷の神であるシラトリを祀った神社であり、神野寺はもともと蝦夷のアクル王の墓所であった。白鳥神社と神野寺の間の西向きの斜面は蝦夷の祭りである歌垣の場所であった。鹿野山を中心に蝦夷の影響のあった土地は地名で分かる。六手、皿引、鬼泪山(鹿野山北麓にもある)、染め川、作木などなど。これがいつの頃か古事記日本書紀史観に引きずられて、白鳥神社の祭神は日本武尊になり、神野寺に天台宗が入り山岳信仰が入り真言宗が入り今の形になった。歌垣は筑波山でも有名だが東国の慣習というより蝦夷の祭りと解釈すべきで、後に倭人に引き継がれたものだということです。

 常陸風土記における日本武尊と歌垣の話しを入れておきます。鹿野山を舞台にした我々の伝説との違いを確認ください。

 常陸風土記では、日本武尊天皇(天皇として出てきます)が巡幸されるまでは常陸地方は草木がしゃべり各谷津には悪神の蛇が君臨していた。日本武尊天皇は后と共に各地をまわりこれらを鎮めて豊かで平和な土地を築き上げた、ということで平和的です。

 そして各地域の昔話の中に鹿島郡の条で海辺の歌垣伝説があり、ここでタブーを破って夜明けまで一緒にいた男女が松になってしまったという話が出てきます。

 次に蝦夷についてですが、一般的には北方系のアイヌと思われがちですが、最近の説を申しますと、弥生時代以後の日本人には朝鮮、大陸からの渡来系弥生人と、南方から黒潮流域に沿ってやってきたと思われる縄文系弥生人がいて、分布としては西日本が渡来系、南九州と東国が縄文系弥生人だそうです。そして古代人の人骨を調べてその分布を調査しますとちょうど上総地域がその境界で、実際数少ない事例ですが君津の市宿横穴墓から出土した人骨は縄文系弥生人だったとのことです。話を複雑にするのが縄文系弥生人が南九州など南方系であることです。単純に日本国は大陸からの渡来人が主導で文化的に遅れた蝦夷を駆逐して創られたといえないところがミソです。南九州など天孫降臨の地なのですからね。神話時代から蝦夷が活躍しているわけですから。もちろん縄文系弥生人すなわち高地に住み山で鳥獣を追っているイメージは間違った解釈です。

 次に平安時代の資料についてですが、これも非常に少ないです。上総湊の東明寺に伝わる薬師如来像が平安時代中後期の作ということで、この寄進旦那が天羽氏(平忠常の一族)と想定されるくらいです。しかし、佐貫ではなく上総でいうと平安時代のスタートで上総国が親王任国に指定されたことが国の格が上がったと言う意味で特筆されます。

 親王任国とは桓武天皇の多数の親王の就職対策から始まった制度で、国守を在京の親王とし、太守と称し、実際の統治は介(副国守)以下、掾、目(さかん)・・・が当たった。従って親王任国の介は他国の守並の処遇となり、さらに上司が親王だから「守」以上とも解釈された。

 親王任国は上総国、上野国、常陸国(陸奥国もという説有り)が選ばれた。どういう理由かは分からないが(おそらく古くから皇室と縁が深かったのでしょう)上総国が選ばれたのである。

 それ以後上総守、上野守、常陸守という言い方は歴史的に存在しない。後に平将門が作った新皇革命朝廷での除目も、官位が内実なしの単なるアクセサリーとなった室町時代以後も上総守、常陸守などはないよという常識は尊重された。  ここで重要なのは「介」以下の職位は地方在住の豪族(武士)も就任しうる職位であったことでそれなのに並の国守より上ということです。私はこの親王任国制度が日本が武士支配に移行した重要な要因と考えていて、その活躍元祖は平高望王と考えている。実際高望王は上総介になっている。そしてその子孫が平将門であり平忠常である。彼らが結局貴族政治を崩壊に導いたのである。

 なお、高望王、平将門、平忠常などと佐貫との関わりは全く伝わっていない。おそらく佐貫との関わりはその親類縁者を含めてなかったでしょう

 さらに、佐貫とは縁がないが平安時代の上総で有名な人は上総介を務めた菅原孝標とその娘です。菅原孝標は親王任国と縁が濃厚で、平忠常の乱の前に上総介で乱の数年後には常陸介になっています。

 最後に親王任国制度は鎌倉時代に北条氏(家格としてはそれこそ天羽氏レベル)が五位相模守(これも本来就任出来ないのだが頼朝の正室の実家という特例で許された)という地位のまま親王将軍をいただいてその執権として事実上国のトップになった統治システムのモデルとなった感じがします。何となくぴたっとはまって皆さん首をかしげながら納得してしまう不思議なシステムです。

 蛇足ですが魅力的な伝承を紹介しておきます。上総には壬申の乱(天智天皇が亡くなり皇位を大伴皇子と天武天皇が争った争乱)にかかわる伝説が数多く残っています。すなわち大伴皇子は生き延びて上総小櫃に逃れそこで一生を終えた。天智天皇の娘で天武天皇の后である持統天皇は天武の死後密かに上総地方を巡幸している。その上陸地は竹岡の津浜である。うんぬんその他です。ちなみに桓武天皇とはそれまでずっと続いていた天武系の天皇の皇統を天智系に戻した天皇という側面を持っています。こういう話を聞くとだから桓武天皇が上総に親近感を感じ親王任国の特権を上総に与えたと言う風に結びつけたくなります。


佐貫八幡神社のトウフ石

 下の画像は2016年にNHKの新春ドラマに登場した八幡神社のトウフ石です。これについてのいわく因縁を紹介します。


 佐貫八幡神社の二の鳥居の前の階段口に、左右対称に大きな長方形の石が置かれている。とても硬い花崗岩で立派な大石である。土地の人はトウフ石と呼んでいる。その形が豆腐に似ているからである。ちなみに寸法を測ると、向かって左側が厚さ83cm、長さ320cm、高さは露出部分だけで142cmある。右側は一回り大きく、厚さ97cm、長さ355cm、露出部分の高さは142cmある。高さについては道路が舗装される前は階段が1段多くあったので20cmを足しさらに地中部分に30cmが埋まっているとすると実に高さ2m近い寸法となる。

 このトウフ石が社頭に置かれるに至ったいきさつは八幡神社縁起(富津市史掲載)に詳しい。時は天明元年(1781年)である。以下、社伝を抜粋。

 1万6千石初御入部 阿部房五郎様、御家老白井六郎右衛門様当社鶴峯八幡宮御祈願所に御座そうろうところ、御上の御口上を添えつかまつり、大坪浦の御影石二つ、八幡宮鳥居前へ佐貫13カ村が引き取りそうろうようにおうせいでつかまつりそうろう。

 8月中旬これを引き上げ立て置き申しそうろう。引き網、敷き板、松木等コロにし、およそ金高十両あまりもかかりもうしそうろう。もし佐貫人勢にて引き上がりかねそうらわば、峯上、峯下人足を差出引き取るべく申しそうろうよう御家老様おうせいだされそうらへども佐貫人勢にて引き上がり申しそうろうゆえ、峯上、峯下人足はやりもうさずそうろう。誠に稀なる御影石にして、後代の諸人歓悦しそうろう。右信心の奉納のため。

 なお、また(取った)跡の大坪浦に2枚残りこれ有りそうろうあいだ、何とぞ引き上げたく存じそうろう。ハの字の形になり、今にこれ有るよし、土人申し伝えそうろう。覚えのため書き置くものなり。          <社伝抜粋終わり>

 阿部房五郎は佐貫阿部家五代目正実(まさざね)公のことである。福山本家すじの棚倉藩から養子に入った人で、天明元年当時18歳。前年に4代正賀(まさよし)公死去に伴ない家督相続の儀となり、この年将軍家に初御目見え(将軍謁見)、因幡守兵部少輔襲名し初入部(俗に言うお国入り)となった。

  佐貫藩はこの慶事を盛り上げるイベントに大坪浦に沈んでいた御影石を引き上げ八幡神社社頭に奉納することを思い立ったものと思われる。殿様が思い立ったわけでなく地元からの要望があり、これを汲んで幕府の許可を得たものであろう。たかが田舎の神社に御影石を奉納するからと幕府の許可を求めるかと思われようがこれは当時の状況を考えるに充分にあり得る話なのである。当時の将軍は徳川家治、老中筆頭は田沼意次の時代である。1万6千石大名当主の初御目見えだから田沼意次くらいは介添えしたものと考えられる。おそらくこの時それこそ何か気の利いた一言をと言う思いから大坪浦の御影石の引き上げを家康公ゆかりかも知れないと、ことさら大きく言上したに違いない。

 浦賀水道の大坪浦に沈んだ御影石は徳川将軍家にゆかりのものと想定出来るのである。なぜなら家康から家光までの3代の間、江戸城築城に当たって大量の石が海上輸送されため、時にはそれが難破することもあって(1日で200艘以上が難破した例もある)海中にいくつかが転がって残っているというのは突飛でも珍しい事でもない。

 現に東京お台場沖などは漁礁としていくつかが知られている。大坪浦にある巨大な御影石とくればお台場の例もあることで権現様ゆかりの石かも知れないが、これをいただいて佐貫鎮守の神社の社頭に奉納したいとの言上を将軍や田沼意次はどう思ったか、鷹揚にうなずいてすぐ忘れたかも知れないが、阿部家としたら将軍、老中の記憶に残せたかとほくそえんだに違いない。

 以上のいきさつはあくまで想像だが、初入部、しかも8月とくれば、家康の江戸入部の8月八朔の吉例を意識していたはずであると考えられることからの想像である。 なお社伝では具体的な運搬方法が分からない。浅いとは言え海底に沈んでいる石を運ぶのは容易ではないはずである。 運搬の方法を想像するに以下のようになる。

 まず、海底の石の下に縄を通す。これは人が潜水して、海底の砂をへらで削ってでもとにかく縄を通す。2本通す必要がある。いかりを打ち込む手もある。

 その後、干潮時に船と石をロープでつなぎ、船の下に石を抱え込む形にする。そのまま満潮を待てば船の浮力で石は海底から離れるという算段である。海中の石(比重2程度)は浮力が働くため重さは半分となる。トウフ石の大きさから重さは14トンくらいと計算されるから水中重量は7トンくらいになるだろう。大型の漁船なら1艘の浮力(排水量) で石を持ち上げられる。 石が海底から離れれば運搬は簡単である。石が底着きするまで引き上げ、必要ならここで干潮、満潮を利用して縄の長さを調整して充分に引き上げる。 波打ち際に来てしまえば、腕力勝負でとにかく引き上げる以外にない。浮力が邪魔してコロなどを石の下に敷くことが出来ないがそこは我慢のしどころである。 石が地上に上がってしまえば後はコロ引きで簡単に神社まで運搬出来たものと思われる。 次にこの石の仲間がどこにあるかである。

 まずこの石はどこに行くはずだったかであるが、一番考えられるのは先に述べたとおり慶長、元和から寛永に至る(1603~1634年)江戸城の天下普請である。この時石垣のための石材が大量に江戸に運ばれた。無論船で海上輸送である。 受け持った大名は、池田輝政、加藤清正、福島正則、黒田長政らの西国大名で、主に伊豆石が運ばれたが、同じ採石場からの石では石に変化がない、つまり他藩と差がつかないということから、自藩の仕事を目立たせるために、大名達は本国に有名な岩石を産する場合はそれを運ばせた。 江戸城本丸は現在皇居東御苑として一般公開されているので、江戸城の石垣をそばでじっくり観察出来る。その観察のデータでトウフ石と比較してみた。サイズや仕上げ方で共通点があるかどうかを調べて見た。

 まずサイズについて。 江戸城の石垣の石は概ね短辺断面が4~5尺(120~150cm)の正方形である。長さはトウフ石とほぼ同じ3m近辺のものが多い。問題はトウフ石が厚い「板」形状なのに対して江戸城の石垣の石は太い「柱」形状であるという違いがある。

 次に花崗岩の質の問題。江戸城の石は伊豆石が圧倒的に多いが、門の周り、石垣の角部には花崗岩が使われている。この花崗岩の石質を比較するとトウフ石は江戸城の石より若干落ちる。結晶の大きさが粗いのである。

 次に石の面加工の問題。トウフ石の面加工は江戸城の石の面加工に比べて粗い。長周期のうねりが加工されていない。トウフ石も一応の面は出ているが実はこれからさらに5~10cmの長周期のうねりを取る作業がありこれは非常に時間がかかるのだがトウフ石はそれがなされていない。(さりとて半製品とも思えない) なおトウフ石の形状は石垣向きと言うより石塀、または階段側傾斜面の土留め向きである。これだと今現在の使われかたは正しい使い方といえる。実際江戸城天守台の階段部に似た形状の石を見つけられる。

 次にトウフ石がどこから来たかについて。 産地の断定は難しいが、インターネットで入手出来る御影石のサンプル比較では、ピンク分がほとんどなく黒雲母の散布分布状況から見て瀬戸内海の大島御影石に良く似ている。 ちなみに余談だが江戸城の天守台は加賀前田藩が築いたものとされ、文献では本御影(兵庫県の御影地方で取れる)石とのことだが、本御影特有のピンクがかったところがなくむしろ黄色っぽい石である。

 最後に、前項で紹介した古文書では大坪浦に「まだ2枚残っている」石について。 236年前に地元土人が熱望したにもかかわらず未だ引き上げには至っていない。魚探などによる大坪浦の調査もやったかどうか聞いていない。しかし、大坪浦でなく、新舞子で魚探に人工加工物のような石の反応があることはかなり昔から釣り仲間の間では知られている。新舞子で特に中央突堤から左方向(南)は平らな磯浜で海底は時として砂で覆われ、時として青灰色の佐貫層粘土層が露出するフラットな海底であるが、ここに異様な盛り上がりがある場所があるのである。場所は波打ち際から1km沖だという。

佐貫城新発見3つのコース

 長い暑い夏が終わりヤブの中に入れる季節となったので、さっそく佐貫城のヤブの中に行って見ました。

 上の画像は三の丸南。関ヶ原の戦いの頃は水堀だったところ(現在は駐車場)から北東を望んでいます。この頃の佐貫城は多数の角櫓があった時代ですので、ここから見えたであろう3基の櫓を合成して入れて見ました。

 右奥の三層の櫓(何の根拠もなく三層にしました)は大手門上の櫓、下の小さな櫓は大手門横櫓(佐貫城入り口の櫓)で、中央奥の上の方は二の丸南端の櫓です。

 今回はこれらの櫓跡の状態を確かめることと、夏からの宿題だった国道127号から見て佐貫城を隠すように突き出ている半島状の土地が何なのかどうなっているかを確認したいと思います。

 なお、余談ですがこの後の時代に関山用水となる人工の通水施設の水位レベルは、写真右の自動車を2つ重ねたくらいの高さを通っています。この原型用水は関ヶ原合戦頃すでにあったと考えます。

 今回の探検ルートは、まず一番に、①大手門上の櫓の場所に行ってみること、第二番に②二の丸南端の櫓の場所に行ってみること、そして最後に③国道127号から見て佐貫城を隠すように存在している半島状台地はどうなっているのかを調べることです。 なお佐貫城紹介の幾多の写真や本がある中で、この3ルートは一度も紹介されたことがないところです。


  大手門上の櫓跡

 ①の大手門上の櫓跡へは独立丘の裏へ回り込むようなかすかな道の痕跡があり、ここをたどると簡単に登れます。

 頂上はご覧の通りのヤブの中。土地は平らであるが、建物土台などの痕跡はありません。


  二の丸南端の櫓跡

 ②の二の丸南端の櫓跡地に行く途中の景色です。二の丸はほとんどがびっしりと竹が生えている中、タブの巨木などがあるとその周囲がわずかに空間がひろがりほっと一息入れられますが、すぐそばで野鳥がギャーギャーと警戒の鳴き声をあげたりしますと不気味です。

 南端の場所で長さ10m、高さ1.5mくらいの土手を発見。すわ角櫓の土台かと色めき立ちましたが、周囲の状況を見るに、阿部氏の宝永絵図で二の丸東側に造られていた帯郭の境の土手の痕跡のようです。帯郭はここだけが残り、後は崩落によってなくなってしまって境の土手もなくなったのでしょう。 角櫓の土台があるとすればこの土手の上になければなりませんが、今はフラットで高みはありません。土地が平らではありますが二の丸の高さと区別されるものはありませんでした。

  本丸北西に突き出た半島状台地

 ③の探検で行こうとしている突き出し半島状台地の全景です。本丸北側の八幡郭下の外郭端から南を向いて撮った写真です。

 この突き出しを理解するためには本丸西下の外郭の構造を理解しなければなりませんが、ここは杉の植林がされていて入ることもままならずまして地形を確認するのが困難です。今までの発表図ではほとんど空白です。

 本丸西下の外郭は、本丸から10m位下がった幅100m位の平地(現在は杉が植林されている)で、生活平面(田んぼ)はこの平地からさらに5mくらい段差で下がったところです。

 なおこの外郭は南北で2分割されていて、南側は北側より約5m高い平地になっています。この高所が明治時代の絵図で「畑」と書かれた場所です。ここで問題の突き出し半島状台地は、この明治時代の畑を旗と例えるとまるで旗竿のように北西に突き出した幅2m(頂上で)くらい、長さ150mくらいの平地(尾根)でした。

 考えるに水利が厳しいため畑だった台地はすぐに密集した竹藪に変わったであろうしこの半島は先に行くと降りられないほど崖が急なので、明治後半以後では行く人がほとんどなかったと思われます。

 しかし、道を見つけると突き出し台地に近づくにつれヤブがひらけてきて突然まっすぐな尾根道が現れます、この尾根道の現れ方はまったく突然で、やぶを漕いでがさがさ動いていた身からするとびっくりものです。

 この尾根道は、北斜面が孟宗竹で、南斜面がクヌギやシイなどで覆われています。頂上部は岩のように固くてツバキが多いです。頂上部だけ下草がなく遠くまで見通せます。127号線を走る自動車の音だけがします。少年の時代にもしこれを発見したら秘密基地だと大喜びしそうな雰囲気です。

 城の縄張りとしてこの突き出し台地がいいのかどうか判断が付きませんが、あまりにまっすぐであまりに細くて手入れもしないのにやぶになっていないので、これを削り取って田んぼにしようなどとは思わないのではと、これは現地に行ってみるとなんとなくそんな気がしました。

 里見時代にどういう扱いだったかは分かりませんが徳川の時代では城とは考えていなかったでしょう。武士の時代でも秘密基地だったかもネ。

 

プロ作家の上総国佐貫描写

 プロ作家による上総国佐貫描写をふたつ紹介します。要約です。


  「子連れ狼」第85話  牙志  小池一夫(小島剛夕 画)

 子連れ狼は佐貫藩領境に来た。全国お尋ね者の身を押して柳生と最終決戦に挑むため江戸へ向かう途中であった。

 警備の砦で、藩主阿部駿河守の伝言を受け取る。

「拝一刀はおそらくひきかえすまいそのとき余のこころを伝えよ。余は佐貫一万六千石の領主たる身。 家臣を守り領民を守り佐貫藩を守るためには是非もなく友情を捨てて拝一刀を討つ鬼になるらん許せよ」子連れ狼はつぶやく「・・・許せよと・・・・・」

 家臣の山田五百枝はいう。「国境を守る身であればそれがしを討って通られよ」と言って刀を抜く。山田はしかし拝の前に切り伏せられる。

 丘の上には多数の侍がそれを見ている。そこを乳母車を押して子連れ狼が領国に入って行く。

 その時、騎馬隊が現れる。その中心に兜をかぶり旗指物を従えて現れたのが阿部駿河守正常。「一刀か」、「正常どの」二人は言葉を交わす。

 ここで、回想シーン。

 若き頃、拝一刀と阿部正常は水鷗流剣術道場でお互いに研鑽していた。拝一刀が兄弟子であった。 「一刀!佐貫藩は刺客子連れ狼をむかえ討つにあらず。武者拝一刀をかくばむかえ討つ。されば陣を敷いての武者押しぞ!それがかっての我が師に対するせめてもの礼じゃ」、「かたじけなく」、すでにその方らの退路も断った」、「士たる者戦場で死ぬるはほまれぞ」、「この身にあまる光栄」、「いでや、戦いそうらえ!」

 死闘が始まった。

 拝一刀は手刀胴太貫で兜もろとも武者を断ち切り集団の中に入っていく。そして騎馬隊には水鷗流斬馬刀を抜いて撃破。

 ついに騎馬隊は全滅。阿部正常との対決となった。 正常はとっさの判断で水鷗流波切の太刀の型で拝を攻撃。しかし、ここは水中ではなかった拝の受けが一瞬勝り、正常は倒れる。

 「ただいまの気息手管は水鷗流波切の太刀の極意にござる。水中なればあなたさまの勝ち!印可を授けますぞ」 虫の息の正常。「・・・・・間もなく年の瀬もおわるのう。人の世も・・・人の世も流るる瀬に似て有為転変と・・・・・はかなき・・・・・」 正常は息を引き取る。

 こらえていた拝一刀は号泣。 父の涙は子に伝わりこの宿命の父と子は無情の荒野に慟哭した。肺腑をふりしぼるそれは血の叫びであった。年の瀬は流れ新しき彼岸がちかづきつつあった。人の世は賀詞をのぶる。新しき年が安泰にむかえられるようにと。しかし・・・この父と子には牙志を貫く冥府魔道が変わることなくおわることなくつづいていた。

 柳生一族の活躍など時代は三代家光のころのように見えますが、佐貫藩に阿部家が入ったのは宝永七年、六代将軍家宣の時代です。従って時代がずれています。なお阿部正常という名の佐貫藩主はいません。「正恒」(最後の佐貫藩主)ならいます。まあこれらは創作として許されるのですが・・・

 なぜ江戸へ向かう子連れ狼が五街道から外れた袋小路の上総佐貫を通らねばならぬのかもうひとつ解せません。この謎は第84話に笠松代官所が出て、登場人物のセリフに「・・・山径はとるまい利根川へ出て船で佐貫方面に抜けると思うが・・・」とあるので作者はどうやら駿河守阿部正常の領国を下総佐貫と間違えていた可能性があります。下総佐貫なら常磐道の間道筋でしょうから警備の薄さを期待して子連れ狼が選択するのは自然です。

 いやそうではない。常磐道から大迂回して房総半島安房まで南下して頼朝の故事にならって内房海岸線を小舟や徒歩で江戸まで行く気だったのだ作者は間違えていないとしてもその後のストーリーで破綻は出来ません。ただこの場合説明がひとつあるべきだと思います。

  折り紙大名  矢的 竜

 「古着屋の娘・きぬの創作折り紙に魅了された佐貫藩主・松平重治は、不治の病に  かかった将軍・家綱を慰めるための竜神を折らせるべく、きぬに手紙を書く。しかし、幕府の決まりに反したこの行動が、将軍後継問題ともからんで重治は窮地にたたされる・・・・・・」

 以上が中公文庫裏表紙に書かれていた要約です。大名と折り紙の関係は作者が突飛をねらったようなやはり不釣り合いに見えますが、折り紙は武家の礼式の中の贈答品に添える折り形、熨斗などから派生して市井の特に女性や子供の遊びとして発達したものです。そして、重治は、武家礼式をつかさどる高家筆頭の品川家に生まれ、請われて佐貫藩主松平勝隆の養子になった。品川家は元は今川家で、大きく勢力を伸ばしていた先祖に対する遠慮から品川と改称。重治の母親の妹は、三代将軍家光の側室の一人で家綱の母である。ということは将軍家綱と重治はいとこ同士。そして重治の正室は代々老中を務める久世家(下総関宿藩主)から来たなどということが語られると、名門閨閥の中にいる重治が折り紙に興味を持っていたとしても不思議ではないと考えられるようになります。

 時は、武断政治から文治政治への転換期であり、文治とは聞こえはいいが、切ったはったがない替わりに法律を盾に取った同僚や上司相手のミスの発見と足の引っ張り合いである。たまたま父の勝隆は江戸幕府で最初の寺社奉行となり、寺社奉行の仕事を設計した人だったのでよきアドバイスは得られようがそれだけに出世せねばならぬプレッシャーも大きいわけで、重治は重圧から逃れるつもりもあって暇を見つけては周りの目を盗んで折り紙に没頭することになる。 そんな時、重治はひょんなことから折り紙天才少女、古着屋「伊勢嘉」の娘きぬの作品を手に入れ、その抜群の出来栄えに魅了され、腹心の知り合いの山伏「長元坊」を通してきぬとのか細い接触が始まる・・・・・・・・

 と、いう風に物語は進行します。全体としてうまく書かれていますが、物語舞台の佐貫の住民としては、佐貫をもう少し書き込んで欲しかったです。 なぜなら物語のほとんどが江戸で進んで行き、佐貫は幼き日の思い出の土地としてたまに出てくるだけです。これは重治の立場ですとそうなります。若い時から奏者番とか寺社奉行ですとずっと江戸城詰めとなり、参勤交代も免除されますので佐貫には帰りません。だからこそなおさらもう一工夫が欲しかったです。作者の矢的さんは富津市史などに目を通され重治が最後に書き残した紺紙金泥浄土三部経(富津市文化財)などと歴史的背景などに破たんはないのですがもしここで登場人物の設定を例えば、長元坊を佐貫の山伏とするとか、「伊勢嘉」を「上総屋」にし、先代は佐貫から江戸に出てきていて、きぬは佐貫に行ったことがあるなどとし、長元坊の口からそれが披露されて、重治がますますきぬへの関心を高める、とかすれば話の展開にもっと厚みが出てきたと思われます。

 それで残念なのが次の事実です。勝隆・重治親子は、佐貫の寺社に大いに興味を示し、大名としては珍しく勝隆は「古船浅間神社」の、重治は「亀沢の岩富寺」の縁起を書いており、しかもそれが現在も残っているという事実です。これを矢的さんは知らなかったということです。

 もし矢的さんがこれを知っていたら、長元坊の設定を必ず岩富寺の非公認山伏としたはずです。岩富寺は重治が縁起で「真言密教の古道場」と記している寺で、その中興の祖の一族に、藤政信・政重がおり彼らが鐘を寄進したと重治記述の縁起にあります。藤氏についてはにわかにその系統を断定できませんが、藤原秀郷の系統ではないかと考えられ、そうだとすると重治の実家品川氏とつながりすなわち足利氏なのです。佐貫には武家の藤原氏の足跡(古船像法寺にある元弘三年供養塔、藤原信定名入り)らしきものもあります。以上のように岩富寺を引き込むと、将軍病気平癒祈願の護摩壇設置を巡っての争い、大奥のからみ、徳川の今川系旗本・武田系旗本との確執、それらに乗っかって世継ぎとしての綱吉の動きなどを取り込むことが出来て、純粋な家綱・重治の君臣交流とその中で育った町娘とのプラトニックラブにさらに現実味が加わったことでしょう。

 重治は、五代将軍誕生後、「重き役職にありながら筋違いの人に書を送ったこと不届きにつき所領没収、身は会津藩にお預け」となります。矢的さんは、きぬに書を送ったことにいちゃもんがつけられたと想定されて小説にした訳ですが、これはちょっと無理がありそうです。 佐貫のさる人(先祖がお供で会津に付いていったという人)に伺うと、重治が山岳信仰や山伏たちと交わっていたことがとがめられたと言う話が伝わっているそうで、こちらの方が現実味がありそうです。山伏と云えば護摩壇、病気平癒やのろいなどなどですから先に触れた将軍病気平癒祈願競争に重治が積極的にか消極的にか分かりませんが巻き込まれて、家綱の死とともに断罪されたというあたりが妥当な解釈だと思われます。

 なお、蛇足ながら江戸幕府の寺社奉行について若干の解説をします。

 徳川将軍家の家臣でキャリアの家柄の人から選ばれて奏者番(城内において大名達の案内補佐役)から官僚人生がスタートし、その後、町奉行、勘定奉行、寺社奉行などになって行くわけですが、そこからさらに上に出世するコースは寺社奉行だけに限定されます。彼らは大阪城代、京都所司代など地方職を経て、さらに若年寄、老中などへと進む人は進みます。

 寺社奉行は、家康のブレーンの一人天海僧正の死後、その業務を引き継ぐために作られた役職で、全国の寺社の管理、寺社領住民の管理統制を行います。役所は自分の江戸藩邸職員は自分の家来、寺社奉行の定員は通常三から四人。月番で役所を開き、役所を閉じているときに審理をします。

 しかし仕事の範囲は明確でなく、例えば駆け込みまたは駕篭訴など案件が飛び込んで来ればそれが寺社関連でない場合でも首を突っ込んだようです。

 寺社奉行は宗教の研究やまして帰依をする者ではなくあくまで寺社の統制官僚です。従って重治が自領の岩富寺縁起を書くなどは仕事の範疇ではありません。官僚の世界では趣味としても褒められることではありません。

 

国道127から見た佐貫城

 浅野絵図の北西側(丸印)仮称「入城辻」から見た佐貫城の現状を紹介します。

 浅野絵図はこの方向の地形把握が曖昧で現在の地形とは印象が全く違います。これは絵図作成者の力量が弱いというより地形が複雑で把握しにくいところに原因があるように思えます。

 国道127から見た現在の佐貫城です。目印のために本丸中央に角櫓を置いています。

 この写真で一番存在感のあるのは中央の突き出し地形です。この前行った頂部の幅が2mの細長い半島も裾の広がりにさらに樹木のぼさぼさが加わって佐貫城を覆い隠す勢いに見えます。しかし、城が現役だった頃は樹木はまばらな松だけであったでしょうからそれで想像すると、北から南まで最大高さ10mくらいの垂直崖が突き出しを含めて続いていることになります。崖の上の上部構造は角櫓1基と土塀が見える状態のインスタ映えしない姿ですが・・・・・

 崖のうねり具合は極めて複雑です。南北の城外の突き出しは上から見て内側が大きく湾曲して袋のようになっていますので城に近づくと岩の崖で3方向が(場所によっては4方向が)囲まれてしまいます。本丸を中心に南北の大きな袋がふたつありますが、実はそれぞれの袋の中に小さな突き出しがもう一つずつあります。袋の中に入っても中の全体は見通せない状態となります。これで西から東に進行しようが、袋の中で南北に動こうがどちらを向いても3方ないし4方が崖となりいったい自分はどこにいるのか分からないことになります。城の設計者が意図したのかどうか、現在のようにぼさぼさの樹木があるとその目くらまし効果は抜群でその結果絵図面があやふやになると、まあこういう訳です。

 近年の佐貫城図を含めてR127号から見た地形を正確に描いた図面に出会ったことは私はありません。私自身いまだに正確らしい図面が描けません。

 次に本丸下を南から見ていきましょう。

 外堀の役割を担った北上川です。この水源は現小山野隧道手前あたりです。その水源の上が岩富寺。ここの谷津田平地は佐貫の歴史で弥生時代稲作が始まった場所でしょう。

 南側袋です。撮影位置が少しずれると袋の背後の景色が随分変わります。写真右側の突き出しの脇を通ってチョット右に進む方向が佐貫城に入る道ですが、実際の道を想定出来ません。浅野絵図のようにすーっと入っては行けません。写真右奥に杉林が見えますがここには三の丸最上部の土塁部分と横掘が隠れています。この写真からの印象に反して実際はかなり険しいです。

 また奥左に小さな突き出し小山が見えます。

 繰り返しますが右側杉林の中には横堀があり左右移動が阻まれます。しかし横堀沿いに上がっていくことは可能なのでここを登り、右に迂回すればどうにか西の大堀切りに行き着けます。

 ただしその堀切りを南に下って佐貫城に入るのは至難の業です。崖崩れなど地形変化を想定するしかなさそうです。

 北側袋です。ここにも小さな突き出し小山が見えます。この小山は近世で搦め手虎口として使われたようで、凝灰岩(金谷石?)の石組みが見られるところです。本丸下外郭の入口です。

館山道側から見た佐貫城

 館山道側から見た現在の佐貫城を2枚の写真でお見せします。まず館山側は三の丸と二の丸が見えます。例によって目印のため関ヶ原の戦い頃にはあった角櫓を配しました。館山道の高さまで上って見ますと三の丸の角櫓が後二つ見えるようになります。 関ヶ原の戦い頃佐貫城には本丸に4基、二の丸に2基、三の丸に3基の角櫓がありました。江戸中期に入部した阿部氏は本丸に1基だけ角櫓を再建しました。

 館山道下り側の佐貫城の姿です。

 立体交差水道部分は、来光寺川に小滝がいくつかあるため、関山用水の流れの音と合わせて立体的な水音がします。農閑期でも定期的に水を流していますのでそのせせらぎがゆかしく感じられます。

 いわゆる奇観を別にすれば、行きたくなる・住みたくなる景観は人の経済活動や信仰活動、有力者の趣味、稀に自治体の大構想で造られるもので、この牛蒡谷などは関ヶ原の戦いの頃に一瞬その時期があって後は変身のチャンスに巡り会えずに今にいたったことになります。小道具はいっぱいあるのに残念です。せめて想像図の中で再現してみたいと思います。

 上の写真の続きの本丸の方です。

 現在、平地はすべて田んぼですが関ヶ原の戦いの頃は「水門」や「桜ケ池」,もう少し右の方には弁天様の池などがあって、水面に隅櫓や城の守りの崖(切り岸)が影を落としていたことでしょう。

 崖(切り岸)の状態について解説します。出入り凹凸の多いR127号線側に比べて、館山道側は単調ですが、絵図の丸印の中の、二の丸東(仮称「牛蒡谷(ごぼうやつ)門」)の構造が注目されます。宝永絵図には枡形があり、階段があり、隅櫓跡があり、矢来門があります。ここが現在どうなっているか行って見ました。

 佐貫城に来た人が普通に歩く道を本丸の方へ歩いて行きます。

 やがて小さな階段があり、右に小高い丘がある所に来ます。先の宝永絵図の円の中に入ってきました。ここでこの丘の手前を右に入って行きます。孟宗竹が横倒しになっていて進みにくいですが進んで行きます。

 絵図を基に全体の構造を述べますと、城に半分食い込んだ形で民家があり、民家の2階屋根の高さで周囲が崖の枡形構造の平地があり、奥が土塁。土塁の頂上東側に隅櫓を配しています。隅櫓の基礎の高みらしきものもあります。(ただしこの高みは巨木の根っこの可能性あり)

 現地の状態で、角櫓の跡地と推定した場所です。背後の土塁の頂上に周囲より少し高くなった場所があります。

 土塁の上から今来た方を振り返って見ています。右の方が二の丸で段差が2mくらい低くなります。左の方は段差が10mくらいでここが牛蒡谷門の枡形であり、道路はさらに5mくらい下がったところにあります。

 この構造は浅野絵図には描かれていませんので、阿部氏は復旧せず廃止としたのでしょう。その初代の形はおそらく里見氏か内藤氏の築造と考えられます。私としては内藤氏築造と考えています。

 

岩のテラスと本丸・二の丸間の横堀

 宝永絵図の二の丸・三の丸間を見ると茶色に着色され帯郭と記載され、井桁の仕切りのようなものが見えます。この場所が今どうなっているのかを見に行ってみましょう。

 今回はそれに加えて、本丸・二の丸間横掘(空掘)の底を歩いて見ました。

 二の丸と三の丸の間を歩いて行くと、山径の左に岩を削って作った土塁のような高まりが目につきます。これは途切れ途切れに約100m以上続いています。この土塁の右は窪んでいてさらにその右は二の丸の崖につながっています。 (土塁の上の送水管は現代のものです)

 終点に近づきました。

 仮称岩のテラスです。三方は崖で左側は岩の土塁。土塁の左下は三の丸の最上部です。岩をくりぬいたプールのように見えます。土地の人は箱掘と言っています。この構造は岩富寺にも見られます。三の丸との段差は10mあります。

 巨木の奥の崖は本丸天神郭のものです。天神郭の展望台までの高さはここから10mです。

 このプールの右を見ますと・・・・・・

 本丸と二の丸間の横掘りの終端部が見えます。まるで空掘をばさっと切断した断面図 のようです。関東の城で空堀横堀の終わり方は通常ゆるゆると浅くなり何となく平場になるのが普通ですが、佐貫城のここはくっきりはっきり終わらせています。写真下の方に人物を入れてあります。高さ大きさを実感して下さい。

 掘りの断面穴がハート形でなくて残念です。

 次はこの断面の堀底に行って見ましょう。城跡をぐるっと回って本丸の土橋からそこに降りて底を歩いて行きます。

 土橋の左側の空掘の下ります。通常は水が残っていますが冬場の今は完全に乾いています。

 空掘りの中を終端部まで歩いて行きます。倒木や倒竹にはばまれてなかなか大変です。 この場所は宝永絵図では薬研掘り(断面がV字)とされていて、絵図の時代で畑に変わっているとの記述があります。

 現地に行ってみますと本丸・二の丸の崖は垂直で、掘りの中に帯状の高み・しきりの畝が作られています。この形がオリジナルかどうかは分かりませんが、前編に紹介した岩のテラスに似ていることは確かです。現地の人が言う箱掘でしょう。ただしこちらの箱掘は最大幅が30mくらいある大型です。深さも深いです。

 前進に苦闘しています。奥の窓は終点地です。こちら側からもハートに見えません。