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房総里見家の女たち異聞その3

 23.世間のしがらみ

 鎌倉からの逃避行の途中で結姫が時おり気になる咳をするのに気付いた義弘は結姫のしばらくの心身の静養にと保田妙本寺の日我を頼ることにした。結姫の静養生活は後で述べます。


 それはそれとして、「太平寺尼僧拉致誘拐事件」について、義弘は後から追ってきた世間のしがらみに対応せざるを得ない。


 太平寺には、保田妙本寺から鎌倉比企が谷妙本寺のルートで義弘の書状を届けた。ここに至ったことについてのお詫びと、寄進は従来通り続けること、本尊はただちにお返しすることを約束した。この書状は実在しないが、鎌倉妙本寺には里見義弘の花押のついた制札は残っている。


 次に義堯と義弘の確執について小川由秋さんは小説「里見義堯」の中で以下のように解説している。


 義弘がこれまで青岳尼との間でひそかに手紙のやりとりをしていた様子はない、これまで義堯が何度も正室なり側室を迎えよと迫っても義弘は首を縦に振らなかった、このような事情を背景にして、小説では義弘が久留里城に報告に来たのを捕まえて、義堯は詰問した。


 「青岳尼をどうするつもりだ」、「妻に迎えます」、「鎌倉まで攻め入ることは私は命じていなかった」、「里見はこれまでずっと北条に攻め立てられ無念の思いを抱き続けてきました。このうっぷんばらしはいつでも機会を待っております。ひとたびかの地に攻め入れば、もはや抑えられません。抑えたら自分の大将としての存在がなくなってしまいます。」


 「兵たちの命を危うくすることはそなたの大将の存在より大事なことだ」、「それは充分心得てやっております。」


 義堯は青岳尼を結局正室としては認めなかったようである。


 一方、敵方の北条氏康がこの拉致事件について述べた文書を残している。氏康が東慶寺の旭山尼(旭姫)に送ったものである。「・・・・・・太平寺殿、むかい地へ御移り、まことにもって不思議なる御企て、せひニ(是非に)をよはす候、太平寺御事ハ、からん(伽藍)の事たやし申すよりほかこれなく・・・・・・・」、と、いうことで青岳尼が積極的に逃げ去ったのだとの認識である。本尊も共に持ち去った行動も合わせて北条への敵対行為と認定された。結局、太平寺はこのスキャンダルがきっかけで廃されてしまう。本尊が安房からいつもどったのか定かでないが、現在、東慶寺にある聖観音立像がそれだとの説が有力である。また、太平寺の本堂は、拉致事件からそんなに年月がたたないうちに、北条氏康の命で円覚寺に移された。現在、国宝に指定されている舎利殿がそれである。


 この事件に関して東慶寺がどう動いたか異母姉妹の妹の方の旭姫の行動などはまったく分からない。


 また、出会いから十年のブランクを置いた義弘と結姫のこの企てをどう解釈するかだが、謎を解く糸口の多くは義弘の性格から引き出せると思われる。デン助思うに、義弘は本質的に女嫌いで、だから女でない、妖精のような幼女に、現実の足利公方家ではなく観念上の公方家への忠義の対象を見出した。

 結姫は義弘にとって異性、女、妻というより忠義の対象である。十年たっても義弘の頭には六才の結姫しかなかったのではないか。義弘はこれからの生き方を見ても同年代の長尾景虎(後の上杉謙信)と似ているところがある。


 次に相手の結姫をどう見るかだが、太平寺の一件からして、向こう見ずの活発なはねっ返りだったとは想像して良いと思える。また、里見衆が敵方から奪ってこれればうっぷんばらしになると感じるのだから魅力的なお姫様だったといっていいかも知れない。深窓の令嬢育ちだから、世間が狭い。身近な青年の姿に理想を見て、そこにすべてを託した。義弘のどこに惹かれたかといえば馬の背で日差しをさえぎってくれたとか、二引両の扇をプレゼントしてくれたとかそんな些細な思いやりのことだったのだろう。だいたいが人生とはそういうものなのです。

 24.結姫の健康改造、義弘の意識改造

 妙本寺の日我は、結姫の療養を寺の下に広がる大六の名主のおかみ、スミに託した。大六はこの時代から百五十年後の元禄大地震で沈降するまでは海岸近くに大きく豊かな田畑が広がっていた。南側の遠くに源頼朝の上陸地の伝承がある竜島の海岸が見える。


 スミに言わせると尼寺の生活は健康面ではまったく落第である。第一に食事の粗末さ。精進料理では人の寿命が半減する。成仏・往生とは結局死ぬことであり、そんなものは願わなくても向こうから勝手にやってくる。極楽往生を願って野菜ばかりを食べているのはばかげている。だいたい動物、植物どちらも同じ生き物ではないか。その命を食って生きるのが人間。植物を食えば極楽で、動物を食えば地獄では理屈に合わない。我らは海の民だ、魚でも、鹿でも何でも食う。これで地獄行きなら地獄に行ってこんな理屈が何でまかり通るのか閻魔様に掛け合うまでだ。


 穀物主体の食事を続けていた近世以前の人間の平均寿命は三十才代だった。多くは結核などの細菌による感染症で命を落としたのだが、近年になって、寿命が格段に伸びたのは魚はもちろんだが肉類の消費が増えたことに他ならない。ペニシリンなどの抗生物質のおかげがすべてではない。


 戦国時代は食生活の面ではそれ以前の鎌倉、平安時代とほとんど変わらない。宗教の権威の低下で獣肉に対する穢れ思想は少しは薄れたがそれでも、言い訳なしにブタやウシをもりもり食べることはできなかった。ほとんどの武将が四十才代、五十才代で亡くなっているのは食事のそまつさ、塩分の取りすぎ、大量飲酒の弊害である。わずかに徳川家康だけが健康な食事を意識していたが、それでも八十才を超えることは出来なかった。


 さて、結姫の健康問題に話を戻す。


 第二に湿気と冷えがある。谷津は湿気が多い。よほど湿気に注意しないと体の冷えをきたす。冷えは万病の素(近年の医学では冷えは免疫力を低下させる)。冷えは習慣化するとそれに慣れてしまい、冷えが慢性化する。これがこわい。


 「大六は浜辺の里だからちっとは違うっけど、ちょっと山へ入(へえ)った、このあたりの谷津もあんですよ、ハガチは這い回るわトカゲはうろつくわ、ネコが蛇をつかまえて座敷に持ってくるわ、えれえもんですよ。湿気が多くてね。長持ちの後ろなんざカビで真っ白くなるよ。太平寺も同じだっぺさ」


 「ハガチって、ムカデのこと?」、「そうそ、ムカデ、あれに食われっと痛えよ。鎌倉でもハガチっていうっぺよ」、「それはわからないけれど、ムカデは良く出て、寺じゅう大騒ぎになった」、「そうだっぺ、アリャ、湿気のもとだよ。大六の村はハガチは少ねえよ」


 スミの流儀は徹底的な掃除。毎日毎日大晦日の大掃除みたいなことをやる。おかげで部屋ににおいというものがない。ゼロのにおいである。(民宿などゼロのにおいで売り出したらとデン助はつねづね思います。デン助の少ない経験で、ゼロのにおいの宿泊施設は大阪駅前の一軒だけ。また徹底的な掃除の実例はこれまたデン助の狭い見聞の中では富津市の市民会館。本当の掃除とはこれだと体験してみて下さい。)結姫にも手伝わせて草取りを含めて毎日毎日掃除。次に布団。結姫のために高価な木綿布団を奮発。(当時西日本でようやく木綿栽培が盛んになる。ただ、まだ庶民の服にまで行き渡っていない。木綿の普及で寿命が伸びるのはこのあと百年後のこと)この当時敷き布団はワラ布団掛け布団はなく、かいまき状の着物で代用が高貴・庶民、上下を問わず普通の暮らしなのを、布団の上下を木綿の布団にした。


 スミの持論では、布団は真綿よりも木綿だそうである。この布団を日が照ればせっせと干す。表に日を当て、半日たったら裏に日を当て、年中布団干しをやった。


 結姫が夜この布団に眠ると、敷き床の方から無数に暖かさが追いかけて来て、体中を包み込んでくれるようであった。こんな伸び伸び感は安房での幼き日々短い懐かしいあの日々以来のことだと思った。朝起きた時の目覚めはそれこそ復活、再生とはこれなのではと感じるほどであった。すべてがリセットに向かっていることを実感した。


 結姫の食事は精進料理から普通の庶民の食事に切り替わった。昼食を食べる三度食事だからいつでも飯を食っている按配である。七分つきの黒っぽい粥、野菜、根菜、海藻、青さかな、すべて煮込んである。


 ところで、肝心の義弘はあれ以来一向に姿を見せない。忙しいなら忙しいでせめて手紙くらいよこしてもバチは当たらぬではないか。あの人は変わっている、と、結姫は思う。


 「えらい人の色恋はこっちにゃ分からねえっけが、殿様はいっこうに来なさらねー。あじょしてだよか?」、と、スミがづけづけ言う。「それが分からぬ」、「偉かろうが卑しかろうが、人間だ、草と馬との差はねえっぺよ。おれが思うに、殿様の中であねさは姫様から尼様、いまでは観音様に昇格しちゃったんじゃねえだっぺか。拝まれちゃうぞ、大変だ。」、結姫もそれはあるかもと思う。観音様なのか拝むかは分からぬが、まだ足利再興の同士と見ているかもしれない。そのうち大将になって出陣してくれと言ってくるかもしれない。


 「鎌倉から舟で逃げた時、おしっこが出たくなってどうしようかこまっちゃたのだけれど、あの人はさっしがいいのかどうか新井城で休憩にした。こっちは助かったけれど、そのためお姫さまから抜けられなくなっちゃって・・・・・・」、「そりゃ残念だった。いっそうのことこっちから手紙をだしちゃいいじゃねえだっぺか。いがぐり頭の絵を書いてよ、あんたの観音様はほらこうなっちゃ、早く見に来いってよ、は、は、は」、ふたりして大笑い。


 それから一ケ月後、「あねさ、殿様から手紙がまいったよ。」と、スミがかけてきた。

 25.佐貫の桜

 永禄元年(1557)四月、結姫は佐貫城に入った。一面の桜が結姫を迎えた。


 この時代の日本史のおさらい。
 永禄元年 木下藤吉郎、織田信長に仕官。足利義輝、長尾景虎と武田晴信に和解を催促。
 永禄二年 長尾景虎参内。
 永禄三年 桶狭間の戦い。
 永禄四年 長尾景虎、北条氏康、氏政を小田原城に攻囲。三月、帰路、鎌倉にて、景虎、関東管領上杉氏の名跡を継ぎ、長尾景虎改め上杉政虎と改名。九月、川中島の合戦。


 実のところ、里見義弘と結姫の足跡を佐貫に捜すことは出来ない。伝承もない。しかし、義弘の生涯から推しはかるに、この時代、義弘が佐貫を拠点としていたことはある程度確認出来るので、結姫も一緒だったであろうと推定するばかりである。


 永禄元年から四年まで義弘と結姫の新婚生活を設定し、義弘がもっとも充実した状態で永禄四年に義弘と長尾景虎を小田原で会談(房越同盟)させ、そのすぐあと、結姫の病死ということで話をすすめることとする。


 義弘の佐貫屋形は、花香谷妙勝寺近辺または安楽寺近辺としておく。妙勝寺は天狗党四氏の墓のあるところ、安楽寺は相場助右衛門の墓がある。(風雲佐貫城秘聞を参照下さい)屋形の様子は近くの豪農の屋敷とたいした変わりがない規模だったかと思える。農家と違うところは門に楯を並べて数人の兵士がたむろしているような光景があったかも知れない。


 佐貫近辺で室町期の建物で残っているのは鹿野山神野寺四脚門である。藁屋根で一見粗末に見えるがなかなか瀟洒で洗練されたデザインである。義弘屋形もこんなものかと思える。


 エピソードを二件ほど紹介します。


 婚礼について。(司馬遼太郎の「箱根の坂」を一部参照しています)結姫を正室に迎える件については義堯がどうしても承知しない。義堯は結姫の面会さえ許していない。しかし義弘はむしろそれに対抗するように、婚礼の儀式はすると提案した。結姫はもはや実家が亡びている身で義弘だけが頼りである。長年の望みでもあって、否も応もない、どんなささやかなものであっても婚礼の儀式にはあこがれもある。婚礼の女手は結姫の安房での侍女役のスミとあとは佐貫城の平均年令五十才のまかないさん。客は保田妙本寺の日我上人のみ。日我上人に言わせれば義弘はもはや義堯と同等の守護だ、いまさら自分の嫁をもらうのにどうのこうの言われることはない、思ったとおりにやれ、あのガンコオヤジの義堯には自分から言っておく、と、義弘をけしかけている。


 屋形の主人居住区はごく簡素なものであった。板敷きの広間に薄べりを敷いて座敷とした。それに屏風と燭台、この頃ロウソクはぜいたく品である。婿の義弘の衣装は、侍烏帽子に素襖、花嫁の結姫は下げ髪、白づくめの衣装で打掛を腰にまいた(信長の妹お市の画像でおなじみの)腰巻姿。白綾のカツギをかぶるのが花嫁らしいといえば花嫁らしい。婚礼に神は存在しない。儀式のかんじんなところといえば盃事だけである。盃の酒を飲み干して互いに誓いあうわけでそれ以外の大事はない。


 儀式のあとは、義弘の仲間(一応、家臣なのかもしれないが、雰囲気的には仲間)達数十人の宴会。こんどは花嫁がお酌して廻る。花嫁のお披露目と、これで城主夫人、地頭夫人として認知される。結姫は、海賊、山賊えたいの知れない年令もはっきりしない男達に混じって結構楽しそうであった。酒も行ける性質のよう。結姫の通称が「お弓の方」と決まった。


 神野寺の盆供念仏講に二人で参加。中世研究に限らないが日本史研究で宗教信仰にかかわる研究が遅れている。研究者が宗教音痴のため、中世の宗教が目に入らないためである。義弘と結姫の宗教行事参加をエピソードに挙げる。


 義弘のような公的人間は一人になること、夫婦ふたりだけになることが機会としてほとんどない。宗教行事参加くらいがふたりになるチャンスである。夕方の鹿野山への山道にふたりは山頂のお寺をゆっくりと目指す。


 と、結姫の襟元を刺そうとしている蚊を手に持ったハマゴウのあおあおとした小枝で追ってやった。結姫はその一刷けの感触と香りに遠い昔の記憶がよみがえった。
 「あ、いいにおい。それって八幡浦に生えている木でしょう?むかし殿に付き添われて鎌倉に出発した時嗅いだ記憶があります。」


 「普通は生の葉を燻す蚊遣り草だそうだがただそのまま振っても利くかも知れないと持ってきた。」結姫の記憶はさらに溯る。


 「殿はやさしい。お万阿は殿を無礼なお方と言っていたが私はいつもやさしい人と思うていた。ところで殿はおなごにはみんなやさしいのか?」結姫がからかうように尋ねた。かなり以前から問うて、その回答のないまま義弘に寄り添ってしまった自分自身を奇怪に思いつつもみずから制するすべもない。結姫は、義弘の胸もとから匂う汗のにおいを嗅いでしまった。日向の麦わらのにおいだった。


 「於結、そなたはうちの若者連中のいうところのベッピンだ」、「えっ?」、義弘は自分をそれほどに認めてくれているのだろうか。「それも尋常なベッピンではない」、「だから?」結姫はきいた。「だから、わしには厄介だ」なにがやっかいなのか分からなかったが、結姫はあえて聞かなかった。「いとしいのはそなただけだ」といいたいのだと了解したから。結姫がそっと手を差し伸べると義弘はやさしく手を握ってくれた。その後、坂道をズンズンとかなりな勢いで引っ張って行く。おもわず結姫は笑いがこみあげてきて、笑いながら進んだ、やがて息が切れるころ、義弘は立ち止まり、義弘も笑った。「わしはいい嫁御寮をもらったかも知れない」、「わたしは、足利に生まれたことをうらんだこともあるが、殿にめぐり逢えてからこちらずっと感謝している。殿にめぐりあえたのは足利のおかげじゃ」


 二人が神野寺についたときは、巨樹にかこまれ苔むして鬱そうとした境内は人でうずまっていた。貴人らしい者も居れば、武士もいる。商人、職人、農民、海賊のような足軽もたくさんいる。


 結姫は神野寺の僧の先導で唱名をとなえた。弥陀の名を何度も唱えた。その唱名の声調子がすずやかであることに義弘は感じ入り「いい唱名だ」、と、いったが考えてみれば本場の鎌倉の尼さんあがりだから当然である。「殿も念仏を申されませ」、「わしは念仏はせぬ。念仏は信じぬ」、「おそろしいことを」、「そなたは信じるのか?」、「私?、私も信じませぬ。今までゴハンのタネでしたから、それの功徳は思いますが、でも、おそろしいことといっておきます」、「信心がなければカエルが唱名しているのと同じだ」、「尼が帰ってきて唱名しているのだから、アマガエルの唱名でいいのではありませぬか?」、義弘は、結姫のおやじギャグに笑った。そのとき、「うるさい!」と、となりの年寄りに注意されてしまった。結姫が義弘に向って小さく舌を出して笑った。


 里見義弘の佐貫の公共工事は続いている。父の義堯が始めて二十年、安国寺の再建を筆頭に寺社の再建修理が主なものである。佐貫城の拡充などはしない。義弘の性格は籠城などの守りではなく、あくまで遠く遠征して川や、山・原を戦場として駆ける所に美を感じていたからである。


 佐貫には安国寺(鎌倉時代は新善光寺という名だった)、像法寺、岩富寺、鶴峯八幡社など足利氏系の寺社が多い。足利氏は結姫の実家なのだからそういう意味でも義弘にとってこれらにてこ入れするのは楽しいことであったが、それに加えてこの動乱の中、足利本家(古河公方家)がこの佐貫に移座することもあり得る、その時の政所を準備しておかねばという思いもあった。


 ある日、義弘が結姫を誘った場所はそんな政所予定地であった。


 そこは八幡浜の近くで、小さな川(染川)が二百メートルの間で四回Uターンして周りが崖で囲まれていた。義弘は庭を造っているから見てくれと言うのである。


 「八幡様の地所だが、安国寺が借り上げ、管理は像法寺にまかせている。どうだろう橋を架け、滝を造り、東屋を置けばいい庭になると私はみた。鎌倉に長くいた人の目で見て貰いたい。正直な感想を聞きたい。」義弘は恥じらいを見せながら言った。


 義弘の案内で歩くと、ここはたしかに川の流れが面白い。常に予想が外れて思いがけぬ方向から川が流れているのを発見するのである。手頃な広さがあり、風も遮られていて静かで、しかも明るい。


 「足利尊氏公の師匠であった夢想国師という人は庭に淫したといわれるほどの庭造りの名人であったと聞く。佐貫の安国寺は尊氏公の創建だから、庭がかならずあるはずだと佐貫中を探してここを発見した。」義弘は祠の前に結姫を案内した。


 「どうだろう、鎌倉瑞泉寺の庭(夢想国師の作といわれる)に似ていないか?」確かに祠の形や岩の様子はそっくりである。全体の地形も似ていないことはない、と結姫は思った。


 「そうですねー。庭を中心に見て歩いたことはないけれど、そして格段の興味を持って庭を拝観したこともないけれど。雰囲気は一脈つうじていることは認めます。まあ、元太平寺の住職という肩書きで折り紙(鑑定書)を差し上げることはやぶさかではありません。」


 「そうか、ありがとう。これで庭造りにも弾みがつく。ありがとう。」


 義弘は美人先生に夏休みの宿題を褒められて喜んでいる少年のような表情をした。
「お布施は弾んで下さいますね!拉致されて無理矢理書かされたわけですから。」
「何をいうか。そういう憎まれ口は足利の姫の言うことではない。・・・・さて、この先を登っていくと八幡浜が見える。鎌倉は見えないが・・・・・・」


 義弘と結姫は丘の上に登っていった。

 26.里見義弘出陣

 房越同盟の推移から説明する。里見は天文年間の頃から越後の長尾景虎の関東への動きを見ながら北条との戦いをしてきた。しかし、これは同盟という形ではなく、上州や武蔵の諸豪族が長尾へ関東出馬を要請したのに便乗して作戦をたててきた感が強い。里見義堯にすれば、室町体制から見て、越後の守護代からのし上がってきた長尾を対等に扱うことにすら抵抗を覚えるのに、まして対北条戦略の手段とはいえ盟主に仰ぐなど思いもよらないところであった。


 永禄三年四月、北条氏康、氏政は里見の久留里城攻撃の意図をあからさまに示した。この時、長尾景虎は武田信玄に扇動された越中の神保良春の攻撃のため越中に向かっていたのである。長尾が関東に来ないのを見越した北条の里見攻撃である。里見義堯は正木憲時を使者として越後につかわし、房越同盟について交渉させた。今回は風雲急を告げているため、景虎が実際に出陣出来なくても風聞だけでも流してくれと懇願した。幸いに話はまとまり、北条が攻撃を開始した八月直後に、景虎が上州に入ったため、北条はまもなく久留里から引き上げた。北条は周辺の城には目もくれずひたすら久留里一本に攻撃を仕掛けている。戦争は最終の段階にきている。


 このような中、里見としては自家の保全以上に(自家保全だけなら里見が北条の家来になれば里見の保全は出来る)房越同盟で、足利体制の保全、地侍たちの権利の保全が実現出来なければ意味がない。長尾景虎がどんな思想の持ち主なのか。これをはっきりと見極めての房越同盟である。どうしても景虎とのトップ会談が必要なのである。義堯はそのトップ会談に義弘を向かわせる考えであった。


 トップ会談のチャンスは早くにきた。永禄四年の正月を厩橋(前橋)で祝おうとの景虎の呼びかけに参賀した関東の諸将が十一万人とおびただしいものであったため、北条小田原攻撃が具体化して、三月には出発の段取りとなった。里見にも呼びかけがきた。里見は総力で六浦から鎌倉に向かうことになった。


 ここは、佐貫館の玄関。結姫が義弘を見送りに出てきた。


 結姫にとって夫を遠征で送り出すのははじめての経験である。しかも行き先が鎌倉とあっては感慨深いものがある。 「御無事でお勤めを果たし、ご無事でお帰りをお願い致します」、「今度の遠征は長いものになるかも知れぬ。そなたこそ健康に留意してくれ」、「私には安房、上総の国つ神がついているのです。安房、上総にいれば私は元気なのです」、「今回の総大将、越後の長尾と会う予定で行く。我が妻に小弓の公方殿の忘れかたみがいることを紹介し、足利公方再興を願うつもりだ、これで長尾が乗って来なければ房越同盟の意味がない。わしは里見の自家保全のためだけに長尾と組む気はない」、「それは父上(義堯)も同じ意見なのでしょうか」、「変わらない。父は足利大事というより、自分について来ている安房衆、上総衆が大事なのだが、安房衆、上総衆の存率基盤が足利にあることを良く知っている」、「殿の足利を思うそのお気持ちありがたいことですが、足利に重点を置きすぎて長尾のご機嫌を損なわないよう気をつけて下さい。足利のことは私にとってはもうどうでもいいのです」、「気が萎えたようなことをいう。足利のことはこれから何とでもしていく余地がある。私はあきらめていない。昔の於結姫にもどって歩もうではないか、まだ二人で歩き始めたばかりではないか」、「足利があって、私は殿様に出会えた。人の幸せには限度がある。世に私ほどの幸せ者はいない。これ以上望むと私は、私でなくなってしまいそう。もう少しこのままで居させて下さい」、と、結姫は義弘を引きとめた。「このまま居させて・・・」が結姫の今の暮らしの境遇を指すのか、別れを惜しんで式台で立ち膝で話をしている今の状態を言っているのか義弘には了解しにくかった。あるいはその両方なのかと思ったりした。結姫は義弘を見上げた。そしてにっこりと微笑みながらいった。「わたしの太郎様ほどすずやかな殿御はあの天下の北条の家中にもいなかった。まして越後などなにほどのことがあろう。ずっと御無事でお勤めをお果たしになられますようお祈りいたします」、「ありがとう、行ってくる」。


 義弘は去っていった。これが結姫の見納めだとも知らずに・・・。結姫はきれいなお辞儀で義弘を見送った。義弘が立ち去った後までしばらく玄関の式台でお辞儀をしたままだった。

 27.小田原攻め

 永禄四年三月、長尾景虎は北条氏康を亡ぼすべく、上杉憲政を奉じて小田原に向かった。従うものは越後および関東、奥羽の諸将二百余人、兵およそ三万人、本隊の先鋒は岩槻城主太田資正入道三楽斉、その子梶原源太政景である。


 別動隊の里見は、里見義弘を総大将として、正木大膳時茂、同じく左近太夫時忠、それぞれ各一隊を率いて三方面から参戦した。義弘は六浦に上陸、鎌倉を通って小田原へ向かった。正木時忠は三崎に上陸して、三浦半島に残る北条方を討伐しながら北上した。正木時茂は下総から陸路鎌倉に向かい、その途中、原胤貞の守る小弓、臼井の両城を攻略して、その上胤貞応援に駆けつけた千葉介胤富をも破って佐倉に敗走せしめた。そして少し遅れて鎌倉に来着した。


 さて長尾景虎の本隊は、多摩川の防衛線を撤収して小田原に籠城した北条軍に、三月十三日未明から総攻撃を仕掛けたが落城せず、背後には今川、武田の脅威もあり、やむを得ず大磯まで退いて遠巻きに包囲した。(以上、戸田七郎「南総里見太平記」より)


 長尾景虎が本陣としている大磯延台寺に義弘が訪れた。飛び連雀の家紋を染め抜いたまん幕をくぐると、楯を折敷いたテーブルの向う正面に総大将の上杉憲政、左側に長尾景虎。「里見い左馬頭様あ御参陣ん―」取次衆が調子をとって相撲の呼び出しのように義弘を紹介する。この辺は室町体制の関東管領の格式である。実質の実力者が上杉でなく長尾である点が格式との矛盾である。日本の政治ではこの矛盾のある方がすわりがいいのは確かである。義弘と連れの正木時茂が礼をする。「公方様への馳走ご苦労!まず座られよ」、と、景虎。景虎は記録によれば義弘と同年である。かん高い声だ、そして意外に小柄だというのが第一印象。上杉憲政は初老の親父。


 一通りのあいさつ。確認事項、戦の概況談義、そして今後ともお互いが協力して北条という共通の敵に対することが確認された。


 「ところで」、と、景虎が義弘に声をかけた。「里見殿は鎌倉の八幡様を焼き討ちするなど、鎌倉での乱暴狼藉がはなはだ評判が悪い。そもそも里見殿は源氏の流れと聞く。自分の氏神を焼き討ちするのはどういうことですか?公方へのご奉公の気がうすいのではないか?」、上杉憲政が口をはさむ。「八幡様を焼いたのはこの人の親御(実は父の義堯でなく叔父の義通)じゃが、この人は尼寺五山の大平寺をほろぼした」、「ほうほう、そんなこともあったのですか」、と、景虎。


 「北条のプロパガンダにおどらされたら困ります。我が父が犯人扱いにされていますがあれは兵火。里見が意識的に八幡様を焼いたことはござりませぬ。里見がそもそも安房にあるのは公方様のおかげです。里見ほど公方への忠義をつらぬいている家はありませぬ。北条の圧力で困って居られる公方家を何度もお助けしております。実績を見ていただきたい。太平寺の件は我が女(め)を連れ戻してきたまでのこと。北条がそれに悪乗りして太平寺廃却に出たに過ぎませぬ。住持一人が行き方知らずになっただけで何で寺が廃絶になるのでしょうか。北条のまつりごとこそ好みや気ままのしほうだいなのです。そもそも恋にまつりごとは無縁です。恋に忠義もたてまえも無関係です。」、「ホッ、ホッ、ホッ、里見の若衆は威勢がいい。しかし、相手が道徳、人の道、礼式の北条だけに痛快ですな」、と、上杉憲政が言った。景虎も同意したような雰囲気。

 28.里見義弘と上杉謙信

 義弘と憲政、景虎との会談が続く。繰り返すが義弘と景虎は同年令。


 「父への土産話です」、と、義弘。「父は長尾殿が地侍に対してどういうお考えなのかを聞きたがっております」、「地侍を不要なものと私は思っておらぬ。父上には安心されよと申されよ。北条の地侍いじめは守護・地頭のところに富を集中させようとするところから来ている。北条はそれを資本(もとで)に領国全体の富を増やそうとの魂胆である。わたしは成長だけが正しいとの気分が分からない。経済よりも金よりももっと大事なものがあるはずじゃ。そう思わぬか? まあ、私がこんな甘いことを言っておられるのも、中間層を懲らしめなくても良い金ヅルがあるからなのかも知れない。越後には佐渡がある」、「長尾殿の強さの一端を示していただいたように思えます。甘えてさらに一点お聞かせ下さい。長尾殿はどうして。戦にそんなにお強いのでしょうか」、「よく聞かれることですが」、景虎はてらいもなく素直にしゃべりだした。


 「特別なことはありません。私は戦に対して全力疾走しています。他事をしません。また、将兵を選びます。一兵卒も選びます。人を見るに私なりの理屈がありましてな、まず、目の輝き、目標望みがある者は輝いています。目標のない者はだめです。次に生きるに物事をよく考えている者、これは物の見方、説明のしかたを聞けば分かります。話の切り口が違っています。最後に修羅場に強い者、これは人生経験を聞けば分かります」


 義弘はさすがだと思った。強い者だけを選べば強いのが当たり前だということだろう。そしてそれを裏付けるような輝かしい戦歴。これでカリスマ性が出てくる。


 「長尾殿は関八州に拠点を移すお考えはないのですか」、「・・・・・・・・」景虎は即答しなかった。「それについては、わしの方に秘策がある」、と、上杉憲政が口をはさんだ。「里見殿は楽しみにしていてほしい。かならずや意に沿うようにします」


 上杉憲政の秘策とは、上杉の家名を長尾にゆずることであった。それはこの陣中に実現する。閏三月十六日、景虎は鶴が丘八幡宮に奉賛して、正式に上杉氏を継ぎ、関東管領に就任して、名を政虎(この年の暮れにさらに輝虎と改名)と名乗った。


 しかし、関東管領就任も、上杉の名跡も景虎を関東につなぎとめることは出来なかった。上杉輝虎(=謙信)はその後も越後と関東とのピストン運動のまま終始する。


 小田原を包囲すること数ヶ月。甲斐の武田信玄が信濃をうかがう気配を示し、加賀、越中の一向宗徒の動きに不穏なものがあったので、謙信は小田原の囲みを解き鎌倉に引き上げ、今回の北条攻めは、古河公方の交代を足利藤氏にすることだけが決まり、全軍の総引き上げとなった。


 義弘にとって今回の戦いは上杉謙信との会談が唯一の成果であった。義堯に大きな土産が出来たと思った。そして、上杉謙信の人となりについて、結姫と論じてみようと思った。上杉謙信の器の大きさ、カリスマ性、実績は認める。同年令ながらとても義弘のレベルの人間ではないと、義弘は思った。しかし、それで義弘は負けたとは思わない。謙信の視野には選抜で選ばれなかった者たち、選ばれてそして不幸にして屍をさらした者たち、つまらぬ事故で不具になった者たちが(たぶん)入っていない。それらの者たちを押しのけて手にしたものが、たかが日本の、たかが関東の覇者なら、義弘にいわせれば収支計算が合っていない。結姫がこれについてどう評するかだ、義弘は結姫との語らいを思って微笑がわいた。

 29.結姫の死

 大磯からの帰路、義弘に衝撃的なニュースが伝えられた。佐貫の結姫が死んだというのである。侍女スミの伝言だというそれは、死んだということと、早くお帰り下さいということしか分からなかった。義弘は茫然自失としながら、結姫の死を信ずる気にはなれなかった。


 使者の話を聞いて「早や、早や」と、つぶやくようにいったが、まわりの者たちは何が早いのか、早く退くということなのか、早くも逝ってしまったという詠嘆なのか判断出来なかった。


 なににせよ、ここは戦の場で、しかも引き上げの途中である。引き上げは大将こそがしんがりを務めないと思わぬ敗北を招くことを義弘は充分に承知していた。常よりもゆっくりと引き上げの一切を行っている義弘の外見は常と変わらなかった。しかし、義弘の頭の中にはあれ以来音楽が鳴り響き続いていた。滝田のお神楽なのか神野寺の唱名なのか、その一節が執拗に義弘に聞こえ続けていた。


 義弘が佐貫館についた時は、結姫はすでに荼毘にふされ、小さな骨壷が白布で包まれ仏壇にあった。欠かさぬ灯明と線香が点っていた。それを発見して義弘は半分くらい結姫の死を信ずる気になった。義弘の手元にはひとにぎりの黒髪と結姫の数珠が残されているばかりであった。


 スミがぽつり、ぽつりと結姫の最期を語った。


 結姫が流行り病にかかって高熱を発したのは一ケ月前だという。佐貫には医者などいない。もっとも医者がいたとしても症状をやわらげる熱さましの薬をあげるくらいの話であるからたいした差はない。


 高熱の中で結姫は何度も「こわい、こわい」とうわごとをいった。その言い方は幼女のようだった。その後静かになって今度はニコッと笑うのであった。


 三日後幸いに熱が下がった。しかし衰弱がはげしかった。食べ物を受付なくなった。「殿様に知らせますよ。食べてくだせえ」、と、スミがおどしたため、無理やりに食べた。しかしすぐにもどした。結姫は自分の病気を義弘に知らせるのを禁じていた。


 七日目になって一息ついた。自分から食べてみたいと言い出した。おも湯のような粥を少しだけ食べた。その後は一日、一日と元気が出て来た。義弘との思い出話を話すようになった。鹿野山の鹿の話、雪の石堂寺の話、走水の話、結姫の唱名をカエルの念仏と評された話などがあった。


 そして、十日目になった。スミはようやく結姫の健康状態に安心を持った。ところが、結姫が、夜、スミを相手に滝田の城の田楽の光景を笑いながら語っていて、そのあと眠いとつぶやき、スミに枕をなおさせて左から右に寝返った時にはもう事切れていたという。(この辺数行のみ司馬さんを引用しています)


 くるしいとも、義弘への最期の言葉もなかった。享年二十八才。


 義弘はひとり、佐貫の館を抜け出し、馬で八幡浦にいった。名残の桜はとうになく、青々とした葉桜の、季節はすでに晩春。万緑の中、いきとし生きるものすべてが生命の躍動を謳歌している中で結姫が死んだ。義弘の頭の中の例の唱名とも今様ともつかぬ音楽は鳴り響き続けていた。


 八幡浦は光り輝く日の中にあった。誰一人いない浜に馬を止め義弘は海を見つめた。この走水を行ったり来たりしながら人生の糸をつむいできた結姫はもういないのだ。義弘はいいしれぬむなしさと孤独を感じていた。

 30.アルコール依存

 永禄五年~十年頃の日本史(関東以外)のおさらい。
   永禄五年:織田信長・松平元康同盟
   永禄八年:三好・松永勢、将軍足利義輝を襲撃、義輝自殺
   永禄九年:覚慶還俗、足利義秋と改名
   永禄十年:松永久秀、三好三人衆を大和に攻撃、東大寺大仏殿炎上
   永禄十一年:足利義昭、信長に迎えられ、将軍宣下


 青岳尼の伝誦は、南房総市富浦町に色濃く残っている。興禅寺にある供養塔には富浦町教育委員会の次のような説明書がある。


 「戦国大名里見義弘の正室青岳尼の供養塔。弘治二年(1556)義弘は宿敵北条氏を懲らしめるため、三浦城ヶ島を攻略し、勢いに乗じて鎌倉まで攻め入ったが、そのとき鎌倉円覚寺系の尼寺太平寺から若くて美しい住職青岳尼を連れ帰り正室にした。戦国武将の豪快さがしのばれるが、実は義弘と青岳尼は幼なじみの友だった。青岳尼は天文七年(1528)の第一次国府台合戦で、北条勢に敗れて戦死した小弓御所(下総浜野)足利義明の遺児で、国府台の敗戦のとき、小弓から家臣に伴われて逃げ、一時房州の里見義堯(義弘の父)のもとに身を寄せたことがあった。青岳尼は還俗して義弘の正室になり御仲はなはだ睦まじくと言われたものの若くしてこの世を去った。本名も死亡年月日も不明である」


 興禅寺界隈は中世以来の町並みがそのまま残っているようで家々の生垣が美しく道が狭くてなかなか住み良さそうである。興禅寺は掛け持ち住職の寺のようであるがきれいに整備されている。すぐ近くに光厳寺という別の寺があり、ここには里見義弘の次の領主里見義頼の墓がある。義頼は、義弘の晩年の実子・梅王丸を佐貫から追い出したその人である。


 結姫が居なくなった佐貫屋形は元の学生寮のような雰囲気にもどりかけた。しかし、事情は後で説明するとして、永禄五年、古河の足利藤氏が難を逃れて、一時佐貫を御在所としたため、それなりの女性陣も配置され領主屋形らしい体裁が出来つつあった。足利藤氏は兄弟姉妹ともども里見を頼っての佐貫行きであった。この中に幼い豊姫の姿もあった。


 かっての結姫と似た境遇のこの姫がやがて六年後、義弘の二人目の正室となり、その後、梅王丸を生む。もちろんこの時点では誰も想像すらしていない。


 一方、中年になりつつあった里見義弘の周囲は一種殺伐としてきた。結姫との間には結局子供が授からなかった。まだ、カクシャクとして当主として現役の義堯からは、やいのやいのと後継問題の催促があるが、義弘は後添えをもらうわけでもなく、うやむやにしていた。この時代里見は久留里城に義堯、佐貫城に義弘、富浦の岡本城に義頼(義弘の弟)の三人体制で、戦闘の大将としては義弘、それに客将の正木兄弟という布陣であった。


 義弘にアルコール依存の自覚が出てきた。もちろん安サラリーマンのように一人孤独の酒でブツブツ独り言をいっているわけではなく、打ち合わせでも、政治でも最後は酒でないと納まらない戦国武将の職業病であった。義弘は酒が体質的に好きなため、連日浴びるように飲んでも乱れることもなく平気であった。義弘は酒の影響か、人当たりがよく、会話の達人になった。周りは猛将里見太郎で、外見はカリスマ性すらおびてきたが、本人は、まとまった仕事が出来なくなっていることを自覚していた。義弘は、仕事が終わった後のアルコールのために働いていることに気づくことさえあった。自覚していて、それにもかかわらず、アルコールが切れないのである。

 31.古河公方

 この時代の古河公方と里見家との関係を要約して紹介します。要は北条と反北条がそれぞれ自分たちに協力してくれるひいきの公方を古河に据える。ところが当の公方は合戦に負けたり嫌がらせに耐えかねるとそれぞれのひいき家を頼って逃げる、その繰返しです。この辺は戸田七郎さんの「南総里見太平記」が分かりやすく説明していますが、ここではそれをさらに要約します。


 関東公方の本拠地古河には公方関連の遺跡がほとんど残っていません。古文書と小さな墳墓、または供養塔だけがあります。博物館では古河公方と水利交通の要衝という紹介がされています。街の雰囲気としては足利に似ています。鎌倉には似ていません。伊豆の堀越は京から来た公方が足止めした街ですがここは鎌倉に似ています。地形の差異なのでしょう。全体的には、平将門に始まる関東武士の本場の真っ只中の伝統の雰囲気なのかも知れません。これらの街の特徴としてはお寺がやたらに多いことで住みよさそうです。(なお古河は下総です。常陸ではありません。)


 永禄四年、上杉謙信によって足利義氏は古河を追われ、小田原に庇護された。替わりに足利藤氏が古河に据えられた。ところが謙信が越後に帰ると、北条氏康が古河を攻めようとしたから、藤氏はおどろきあきれて古河を捨て里見を頼って佐貫に逃げて来た。


 永禄五年(1562)九月、武田信玄と北条氏康が呼応して上野の各所を荒らしまわったので、謙信は急遽関東に出陣をしたが、この年は雪が深く上越越えに難渋しようやく十二月になって沼田城に入った。


 この間、藤氏はやきもきしながら謙信や下野の小山秀綱らに書を送り、里見父子とも談合していた。沼田城に入った謙信は里見にも出陣を要請してきたので、正木時通に大軍をさずけて派遣した。ここでようやく反撃に出た上杉・里見らの軍は武州の私市城、佐野城、小山城を攻撃し、さらにこの間北条の手中にあった古河を奪回した。藤氏はようやく希望がかなって佐貫から古河に帰還した。ここでようやく安堵した謙信であった。正木たちも帰国した。


 ところが、またまた信玄が信濃に出陣したとの報に接し、謙信は後ろ髪をひかれる思いではあったのだろうが、また関東を捨ておいて越後に帰ってしまった。永禄六年のことである。


 謙信が越後に帰り去ると、北条氏康は九月にたちまち古河を攻め、公方藤氏を捕らえてこれを謀反人と称して伊豆に幽閉してしまった。(藤氏はその後、永禄九年、不遇のうちにそのまま伊豆で世を去った。)古河にはまた義氏が復帰したわけである。ちなみに藤氏と行を共にして佐貫に来ていた藤氏の兄弟たち藤政、家国、豊姫のその後を紹介しておく。まず藤政は関宿(母の実家の地)で北条氏に攻められ自害した(天正二年)。家国は安房の那古寺に留まったため無事でその後別当になり生涯を安らかに安房で終えた。豊姫は記録が途切れる。その後、義弘の後室になり梅王丸を生むのは先に紹介した。途切れた記録の間を、デン助のこの小説では、藤政と共に佐貫から関宿に行き、母の実家で暮らしながら永禄十一年に義弘と再会、輿入れするということにしておく。


 永禄六年はまだ続いている。氏康の藤氏始末に怒った謙信は、退勢を一気に挽回しようと、北条に決戦を挑み、北条勢を根絶して関東を統一し、名実共に関東管領になろうと図った。


 永禄六年閏十二月の下旬、厩橋(前橋)についた謙信は、その翌日の払暁、武田・北条方を古河に急襲しようと図ったが、この情報が敵方に漏れ、北条氏康はその夜のうちに松山城へ、信玄は西上州へ逃げてしまった。


 決戦の機を逸した謙信は、このたびこそ北条の根を切り枝葉を絶やし、関東管領の地位を確立するの時として、北条一族と一大決戦を展開すべく、上杉恩顧の諸将、古河公方藤氏に心を寄せる諸豪族に、あまねく出陣を要請した。これに応じた里見義弘は、安房、上総の軍を率いて、下総からさらにすすんで武蔵との国境、国府台に向かう態勢を整えたのである。


 里見は、関東の安定、足利の旧態勢の回復を理念とし(経済的には古くからの地侍の自治支配をそのまま認めたい保守主義)ていた。管領を称する上杉謙信と行をともにし、太田道灌の後裔である関東随一の策士太田三楽斉、および同族太田康資らの策謀に乗ったのである。その上、安房里見一族の生涯百七十年を通じての因縁ともいうべき古河公方擁立問題がある。これらの動機が二重三重にからみあって、一度敗れた悪夢の地、国府台において、再度北条軍と決戦する決意を固めたのである。里見には今こそ北条への恨みを一挙にぶつけよう、その実力も備わったとの痛切な決意と自信があった。

 32.第二次国府台合戦その伝説

 江戸の太田資正入道三楽斉(太田道灌の曾孫)は反北条の旗色が鮮明で、古河公方、旧上杉の擁護派であった。この三楽斉が、上杉謙信の要請にいち早く応じる姿勢を見せた里見を国府台に引っ張り出そうとしたのである。上杉の主導でなく里見を南方の主将として対北条戦争を関東勢主導で決着してしまおうとしたのである。三楽斉の戦法は、里見にとってにがい思い出のある国府台にあえて里見自らをおとりとして置き、北条をおびき出せというのである。北条は過去の勝利の体験から、必ず乗ってくる。作戦は、ここで同族別家で今は北条方となり江戸城にいる太田康資に反乱を起こさせ、北条の背後を断って北条を国府台に釘付けにする。そしてここで上杉軍の来援を待って北条を南と北から総攻撃し壊滅してしまおうというのである。康資との話は済んでおり、あとは謙信の北関東の掃討日程に合わせてその手が空くのを永禄七年二月か三月と想定し、それに合わせて里見の進軍を願った。


 しかし、三楽斉のこの戦術は太田康資の不注意で実行前に北条方の知るところとなり、小田原の出陣時期を早める結果となった。やむを得ず三楽斉は里見に通告、早急の出陣を要請した。上杉の進軍の工程から、里見が堪えねばならない月日は最長で一ヶ月と想定された。理論的には里見はここで出陣を取りやめることもできる。しかし、人のやること、一度出陣というスタートの声がかかって、ここでわずかの作戦の齟齬を理由に取りやめることは出来ない。


 里見義堯、義弘父子は、かねてから謙信との約束もあり、覚悟も準備も整えていたので、義弘が総大将になって、房総の兵六千余騎を率い、居城の佐貫を出発した。義弘を見送る奥方は今はない。義弘らの隊は、江戸川に望む市川国府台に到着して、永禄七年一月五日前後に布陣を完了した。岩槻の太田三楽斉と、江戸城を危うく逃れた太田康資も手兵二千を率い、国府台に来て里見軍に合流した。


 これより少し前の永禄六年閏十二月に、越山して来た上杉謙信は、里見との間に「もし北条より里見を攻めん時は後詰めして、何時にても加勢あらん」と約束を交わしていた。


 しかし、そうはいっても、謙信にも都合があった。上杉方の諸将が相次いで謙信に救援を依頼しており、ちょうどその時は常陸の佐竹義昭の依頼で宇都宮広綱とともに土浦城の小田氏治を攻めている最中であり、正月早々の国府台参戦に間に合わすことはすこぶるむずかしい情勢にあった。


 逆に、北条氏康は上杉が土浦にいる間に短期決戦で決着をつけようと、相模、伊豆、武蔵の人数をかり集め、その勢およそ二万で国府台に向かって兵を進めた。こうして彼我の大軍は正月七日に江戸川をはさんで対峙した。


 戦いは、正木父子、太田康資の矢切までの威力偵察的な突出で始まった。正木らはやがて引き上げるのだが、これを退散と見誤った北条方がからめきの瀬(矢切近くの浅瀬)を一番駆けの手柄を狙って押し寄せた。里見はここで北条の渡河の体勢と技量のレベルをみたことになる。たいしたことはないとの判断があった。ここでかねて、時期を見計らっていた正木、太田は国府台の丘の上から槍先をそろえて攻めかかった。これには北条方もたまらず総崩れとなった。この時北条方の、遠山、川村、中条ら名あるもの百余騎がこの諸戦で討ち死にした。


 こうして緒戦を勝利のうちに戦い終わった里見軍は、兵の総数に劣ることもあり、深追いはせず、日の沈むとともに国府台上に退いた。北条軍も、体制のたてなおしを図るため江戸川を渡って退き両軍は川を隔てて対したので国府台周辺は夜の静寂が戻った。


里見義弘は諸将を集めて曰く、次の通り。「今朝の戦い、思いのままに勝利を得た。敵の富永、遠山の両将、彼らは安房、上総の合戦ではいつも先陣していたが、今日、この両将を討ち取った。我らの陣立ての厚さを見て、敵は恐れをなし、さぞ引き退きになるだろう。先陣争いは消極的になるだろう。そこで明日、暁天に今度は我らがからめきの瀬を渡って、今日の勢いのまま合戦を仕掛け、北条をことごとく討ちほろぼさん。勝利はわれらの手の中にある」


 日も暮れかかってきた。そもそも夜にこの川(当時はここが利根川本流)を渡ることは出来ない。しかもみぞれさえ落ちてきたので、「鎧を解き冑を脱ぎ休息せよ、馬に飼料をやれ、すべては明日のために英気を養え」と少しばかり気をゆるめた。各陣それぞれ火を囲んで休息にはいった。中には酒で暖をとる陣もあった。東への備えもレベルを下げた。


 一方、葛西城の後陣にあってこの惨状を無念に思っていた北条氏康は、この日の内に陣構えを一変させ、明日、夜明けと共に総攻撃を掛けることを決意した。すなわち本隊から北条綱成の一隊を割き、江戸川沿いに矢切をさらにさかのぼり松戸で千葉側に渡河し、松戸街道を西に急行して国府台の東に布陣すること、氏康の本隊は、これは大胆にも里見の目の前で江戸川を渡り国府台のすぐ下(坂下)に陣すること、このふたつを夜のうちにやることであった。技術的には夜でも可能との判断が下されさらに、北条氏政の、「敵の陣中に紛れ入った郎党によれば敵は油断しきっている」、との報にGOの決断が下され、明かりを消し、物音を立てずにの隠密の行動が始まった。知らずは里見軍であった。


 暁とともに始まった北条方の総攻撃に、里見義弘は、「案に相違の仕儀」と、急いで全軍を督励したがなにぶんにも油断しきっていたため、すは敵襲来、物具よ、うち物よと周章狼狽その極になり、正木、太田は防戦に努めたが、東から、南からの北条軍の総攻撃に圧倒され、わずか半刻の合戦で里見軍は壊滅して全面敗走となってしまった。

 33.第二次国府台合戦その考察

 第二次国府台合戦の経緯の出典は結局江戸時代に書かれたいくつかの軍記からなのであるが、戦の進行に疑問が残ります。そこで地形を概観しながら考察を加えてみます。


 国府台は下総台地の外れで、江戸川が足元を直接洗っている西の突端である。標高三十メートル程度だが、ここから武蔵の側は上野、神田までずっと高台がないので高みの砦としては貴重な存在である。周辺は一望の平野なので、高みに登れば松戸から、行徳まで見通せる。


 国府台は江戸川に接している部分は断崖になっており城として守るに良い地形である。この断崖は河川の浸蝕によるものではなく、はるか昔の海辺の浸蝕による海岸段丘の名残である。国府台の台地は内陸にずっとつながっている。中に入ると丘と谷の連続で平地ではない。だから軍隊が谷にまぎれると高みから遠望しても見つけにくい。したがって国府台の里見陣地を攻撃しようとすれば、江戸川方向からでなく横からまたは後ろから攻撃するのが常識であろう。敵、味方の区別なくこれが常識である。


 次に渡河である。武蔵方向から攻撃するのだから国府台の後ろに回るにせよ何にせよ、川を渡る手順は省略できない。こういう場合、兵法で敵の半渡に乗じて攻撃するのがこれまた常識であろう。少数の敵の渡河を許して、その後を遮断し、渡り終えた敵を攻撃するのである。さて、江戸川の渡河は出来たのか、である。義弘のこの時代、利根川の本流が今の江戸川すじを流れていた。したがって川幅も大きく水量も今よりずっと多かった。また、堤防などの護岸がなく、特に武蔵側は湿地帯がずっと奥まで続いていた。川の岸辺まで道が乾いているところは限られていたはずである。それこそ、渡れるポイントは国府台の下とか、矢切とか、松戸とかしかないのである。橋を使わないからといって、好きなところで川を渡れるわけではない。


 さらに敵が待ち構えているところを渡るのだから軍隊の渡河は困難さが増す。市川歴史博物館に明治時代の馬による渡河訓練の絵があったが、馬がほとんど水没して人間の顔だけが水面にあるような深さで描かれてあった。この深さだと徒歩では不可能で、ましてや冬季のこと、兵士武装でなら舟による渡り以外にない。寒中訓練のようなことをさせたら、上がって来た兵士にすぐに戦えというのは無理である。こうなると夜間では、満月の月が出ているのが実現できる最低レベルの条件で、これでも大人数が素早くとなると内輪の混乱で大パニックになりかねない。第一、今まで触れなかったが渡河のための舟であるが数千人の軍隊を運ぶのだから最低限百艘は必要であろう、その舟はどこからきたのか?調達できたとして里見の目に隠れて、どうやって持ってこれたのか。(思いつき説で、兵隊がそれぞれ小さな舟を担いできたという説はなりたつ。しかし、先に述べたように船着場が限られており、百艘、二百艘が一度にワーっと渡河は出来ない。ノルマンデイー作戦のようには行かない。どうしても、出舟時、上陸時に待ち行列が出来る)


 したがって北条がやったという、冬場で無灯火で思い立っての突然の渡河はやろうとしても出来ないというのが結論である。川中島での「鞭声、粛々、夜、河を渡る」は国府台では不可能である。


 では、なぜ北条は成功したのか。デン助が推定するに、渡河地点を松戸とか遠くに設定したのが良かったのではと思えます。視界から見て松戸はぎりぎりとして、もっと上流で、あるいは船橋とか幕張とかから、早い時期から隠密のまますこしずつ下総に上陸し、台地の谷に隠れながら国府台へと接近していく手はあったかと思えます。この作戦は絶対秘匿が条件ですが、秘密がすぐ漏洩する上杉や、太田に比べて北条はその辺はしっかりしていた印象があるので、あるいはこの手ではと推察します。


 この戦いで、里見弘次、正木弘末、正木時茂の子供で大太郎、その他菅谷、多賀、本間らの家臣、それも若い人々が命を国府台に散らせた。特に大太郎は里見義堯の娘婿で、この娘は種姫という。婿ともども義堯の寵愛を一身に受けていた。


 なお、この小説、「里見家の女たち」といいながら、いままで主役級の女は結姫しか出てきていませんが、おいおい、女たちが出てきます。その第三番目が、種(ふさ)姫です。(後述)


 大将義弘は、敵方に囲まれ馬も射られ危機一髪のところを安西実元が見つけ、馬から飛んで降り、義弘を乗せ、自らはその場で討ち死にした。窮地を脱した義弘は、国府台から須和田、中山をへて、船橋から稲毛にでたところで、幸いにして土気城主酒井胤治が追っ手をさえぎってくれたので、ようやくにして千葉までたどり着き、上総の山中に逃れることができた。正木時茂も奮戦し、敵二十一騎を斬り倒して義弘の後を追って上総を指して落ちて行った。

 両軍の戦死者は、里見方五千三百人、北条方三千七百人と伝えられている。里見側が陣地を奪われたため里見の負けとはなったが、戦死者数からみて北条方の辛勝である。(戦死者数については、里見二千人台、北条一千人台の説があります。日露戦争では毎日の敵味方の戦死者の統計が残っていますが、近代化した日露戦争当時ですら激戦一日の戦死者が千人台ですから、戦国の頃だと激戦で二~三百人台だと思います。この方が実情か?)


 里見軍を追って小田原勢は下総を席捲した。行軍は上杉の土浦からのにらみがきいて上総の椎津城でとどまったが、里見に期待してずっと北条に属しなかった武将たちは国府台の結果を見て、なだれをうって北条方に旗色をあきらかにした。真理谷、長南の武田氏、万喜の土岐氏が里見から去った。そして更に衝撃的なのは正木兄弟の弟の時忠が北条に心を寄せるという大事件が起きた。こうなってくると正木時茂の扱いも大変デリケートになり事実上中立でいてくれればありがたいという状況となってしまった。
 里見氏は、義堯が弱気になり、安房の健弟を多数戦場に死なせた責任があると久留里から安房の滝田に引き、安房本体の防衛に直接指揮をとることになった。義堯は当面は安房の長老連に頭を下げる行脚をしなければならない。義弘は若いだけに敗戦のショックは少なかった。それよりも、このままでは引き下がれない、死んだもののためにも北条との戦いのリベンジが必要だとの思いの方が強かった。国府台の敗戦で義弘は次のことを学んだ。上杉を当てにした戦いはだめであること、太田らとの連合軍は、人数が集まる分、心理的に安心感があるが、作戦行動の秘匿の面、作戦の統一の面でマイナスが大きいことなどである。実際、国府台でも敗戦の端緒は太田らの東方部隊が崩れたためであり、敗戦を決定つけたのは真里谷等の退却行動であった。次のリベンジの場はおそらく上総の佐貫周辺が舞台になる。この時は上総、安房の衆だけで、大将は義弘一人だけで戦おうと思った。正木すら当てにする気は失せていた

 34.三舟山合戦その伝説

 引き続き戸田七郎さんの「南総里見太平記」を主に引用します。(ただし合戦の進行についてはより自然な描写である小川由秋さんの「里見義堯」から引用しています)


 戦国乱世のデビュー当時は颯爽として向かうところ敵なしの上杉謙信だったが、永禄九年の頃には、上野、下野、さらに安房の国の安穏無事を神仏に祈らざるを得ないほどに関東情勢は芳しいものではなかった。このころ、関東で曲がりなりにも北条氏に抗戦し続けていたのは関宿の梁田氏、結城の結城氏と安房の里見氏ぐらいになってしまっていたからである。北条氏康は、国府台合戦の後、里見に対する前進基地を南下させ、ついに久留里、佐貫の目と鼻の先、三船山に砦を築き、藤沢播磨守、田中美作らを入れて守らせ次第に里見に対する圧力を強めていった。


 永禄十年八月(時期については諸説あり)、北条氏康は、上杉の上野戦線を見て「好機至れり」と、里見攻撃に着手した。今回は三船山を背にしての作戦。相手は佐貫城の里見義弘。双方、籠城でなく野外戦、会戦に近い。


 北条氏康は国府台戦後の里見の力を誤認し、少し過小評価していたものと見えて、氏康自らは小田原から動かず、嫡子氏政で充分足りると考えていたもののようである。総大将氏政、これに氏照(武州滝山城主)、北条綱成らを配して里見攻略軍を編成した。そして氏政は三船山、氏照は久留里、綱成は安房の後方海辺とそれぞれ部署を定めた。その勢は三千とも五千とも、あるいは一万とも言われるが定かでない。(すべての軍記で三船山合戦は里見の勝ちとしている。しかし、動員規模は極端な記述では数十人というのもある。古文書資料で、北条方の米、鍛冶職人、鷹匠の徴用依頼資料が残っている)


 北条氏政は相模金沢の六浦から海路上総の君津周西の海岸に、うんかのごとく押し寄せ、敵前上陸(この時はノルマンデイー作戦に同じ。また敵前というが完全な里見支配地ではなく、灰色地域)、海岸は漁民もいなく無人であった。すぐに息もつかぬ間に三船山に向かった。行き先は特徴のある山容の三船山、途中さえぎるもののない一面の田畑が開かれている。ところどころ島のようにある丘は古い時代の古墳のようであった。途中、里見側から妨害はなかった。  


 間諜の情報では佐貫城に貧弱な旗がはためいているのみで若干の兵が見られるが、後は久留里にもどこにも兵はいない模様とのことであった。このため北条側は里見の主力は安房に引っ込み、小規模な遊撃隊が三船山周辺にいるものと見た。上総の里見をさらに見くびった。氏政は主力が三船山陣場に集結したらすぐに軍議をひらく旨通告していた。なおこの時期、北条綱成は三浦の新井城に待機、時期を見て里見の本拠安房を伺う予定。さらに北条氏照は本拠の武蔵から陸路上総に進軍し久留里へ向かっていた。


 一方、里見義弘は主力三千を三船山の南西方(相野谷:あいのやつ)に進出させていた。さらに正木時茂の百騎を三船山の東方にこれは伏せさせていた。障子谷(しょうじやつ)の東側に当たる。また、安房の本国では、岡本城の里見義頼が、機を見て三浦新井城を襲うべく準備万端を整えていた。


 初秋の早朝、義弘は相野谷(あいのやつ)の谷間から里見の旗などを故意に目立たなくなるようにしつつ三船山の南麓障子谷(しょうじやつ)に兵を前進させた。北条方は山上からこの動きを察知した。この動きの発見者は里見が隠していたものを発見したと思った。それほど里見の偽装は巧みであった。すぐに氏政のもとに使い番が走った。先陣の太田氏資は先の国府台では里見方だったため北条に負い目があり、その分手柄をあせっていた。太田は氏政に連絡すると同時に山を下り里見に攻撃を仕掛けた。それを見て里見は臆病風に吹かれたごとく、ただちに退却(のように氏資には見えた)をはじめた。太田軍はワーッと大きな歓声を上げて山上から駆け下った。これに遅れまいと氏政の本陣からも兵が突出した。ここは障子谷、幅四町(四百メートル)に満たない細長い谷田(やつだ)が北条の兵士でうめつくされていった。「里見は国府台の敗戦で臆病になっている」と、ほとんどの兵がそう思った。狭い谷田は東西に長く伸びており、里見軍はもと来た道を、西の海へ続く方角へ大慌てで退却を続けた。北条軍がその背後に迫った。


 ここで、正木の兵が動いた。白い霧があたり一面に立ち込めていたが北条の兵が駆け下っているのが墨絵のように見えた。北条軍は後ろに里見軍がいるのに気付いていない。正木隊は大歓声のうちに一斉に矢を放った。狭い谷田である。敵の姿はボーっとしていても西に放てば当たる。敵を追いかけている北条軍は背後から突然矢が放たれたので混乱した。前の北条軍にそれが伝わらないので混乱が増した。
 その時、今度は先を走っている北条軍の兵士が突然消えた。後ろの兵士は何が始まったのか分からなくなった。実態は、蓮田に足を取られて転倒したのである。逃げる里見隊は巧妙に北条軍を蓮田に誘導していたのである。必死に逃げようとしてもがいている北条軍に蓮田の周囲から矢が放たれた。里見義弘の策は完璧に実現した。北条軍の兵士はなにが起こっているのか理解できないまま、沼地に倒れ、その上に矢が放たれて落命した。


 三船山の本陣の氏政は下での戦闘を楽観していた。味方の勝利を確信していた。ところがやがて急速に霧が晴れて辺りが見通せた時に、氏政が眼下に見たのは沼地に累々と横たわる北条軍の兵士の死体であった。

             <房総里見家の女たち異聞その4に続く>