アクセスカウンター

房総里見家の女たち異聞その5

 47.相模御前

 物語は三年ほど時をもどして、天正五年。この年、里見と北条との和睦がなって、そのひとつのあかしとして、北条から鶴姫が里見義頼の正室として輿入れした。


 ここで、小幡治枝さんの「房総里見家の女たち」にもどります。なにせ結姫が鎌倉の太平寺から佐貫に来て以来のご無沙汰でした。


 まず、小幡さんの物語を紹介します。
無邪気ではちきれるほど若々しい十六才の鶴姫が安房岡本に舟で到着。この時義弘、義頼、義頼の子、義康とその母(鶴姫に正室の座を奪われる義頼の妻、正木時茂の娘)が浜辺で出迎え(チャチャ入れケチ付け屋:これ不自然)。

 鶴姫は相模の方と呼ばれるようになった。ところが鶴姫の元に義頼は通って来ない。孤独な聖山での毎日。そんな時十才くらいの男の子が、鶴姫のところに逃げてきて助けてくれと懇願。鶴姫は追いかけてきた侍たちを叱かりつけて下らせる。少年に話を聞くと少年は里見梅王丸で、ここに幽閉されているという。いたく同情した鶴姫は私が助けてあげるからと梅王丸を励ます。しかし、里見の家来が梅王丸を洞窟に閉じ込めてしまう。鶴姫は義頼に梅王丸を牢から出してくれとお願いする。しかし、義頼は心を閉ざしたまま。すべてを悲観した鶴姫は自刃して果てる。天正七年の話である。(鶴姫が安房に来てわずか二年で亡くなったのは確からしい。鶴姫の若すぎる死と、梅王丸事件と、タイミングが合うので小幡さんがこのような話を創作した、と、本人が記述)


 さて、デン助はどうしますかというと、ここに種(ふさ)姫を登場させて物語を回します。


 まず、鶴姫が岡本に到着した時、波の中を覗いて魚が泳ぎ回っているのにびっくりして興味津々となる。なにせ十六才なのだから。浜辺で出迎えたのは尼姿の種姫。安房里見家のオリエンテーションの先生役。大国の相模の太守の娘は安房人を仰天させるたくさんの荷物とたくさんの侍女団と共に輿入れ。 鶴姫は北条氏政の三人の娘の二番目である。オリエンテーションで種姫は多くの侍女団と鶴姫を前に大演説。相模は大国かもしれないが小田原は伊勢新九郎以来たかだか八十年の歴史、しかも早雲は下克上の人、安房のような田舎では威張っても通用しない、鎌倉体制から見れば里見の方が位は上である、そのつもりでいてもらいたい、里見に嫁いだからには里見の人間になりきれ、それが出来なければいつ帰ってもらっても良い、と、脅しつける。侍女団は騒然となり、鶴姫はおびえる。


 一方、義康の母はおおむくれ。なぜ我が正室の座を去らねばならぬ、と、義頼をかきくどく。義頼は何もかも久留里の義弘(この時はまだ生存)のせいにする。お前だけが本当の妻だ、北条への手前、寝所には行かねばならないが、お前だけが本当の妻だ、義康の世子の座はゆるぎないと平身低頭。とは言いながら、北条との和睦は心底願っている義頼。新妻とうまくやらねばと思う。また、十六才には正直な話、興味もある。(義康の母が小田喜の実家にこぼしたので正木憲時がむくれて、さしもの里見・正木連合にひびが入っている。義弘の死後やがて表面化)


 義頼はお聖山御殿にごくたまにお渡りになる。鶴姫を大事にしてはくれるが何か心に響かない。合い性が悪いのだろう。だからといって寂しく、暇かというとそうでもない。大名の正室となればそれなりの行事が目白押しにあり、「さびしいなー」と言っている暇はない。これで年月がたっていくと正室としての威厳も出てくるし本人もそのつもりになるものなのである。鶴姫は珍しく一人で城の庭に立つ。春の訪れの早い安房ではもう山桜が満開で、彼方に見える青い海が眩しかった。聖山の中腹に歩を休めた時だ。少年がひとりふもとから上がってきた。鶴姫を見るとぺこりとお辞儀した。悪びれないその姿に鶴姫は思わず微笑んでお辞儀を返した。


「いい天気じゃな。暖かいな」、「相模からこられた姫君か。美しいな」、「そなたは誰じゃ?」、「里見梅王丸、とらわれの身じゃ」、「囚われの身とはおそろしい。どこから来たのか?」、「上総の佐貫じゃ。佐貫を知っておるか?」、「知らぬ、ここから遠いのか?」何気ない話が続くが鶴姫はいくらでも話せる気がした。話していて楽しかった。安房にきて一番楽しくなった。


 二人はまた、あしたもここで会おうと約束した。


 翌日梅王丸は問われるままに、ぽつりぽつりと境遇を話した。


 かっての義弘と結姫の逆バージョンになった。鶴姫は梅王丸の境遇にいたく同情した。しかし鶴姫には何も出来なかった。それだけに梅王丸を弟のように思い、行く末を心配し、そして逢うことを楽しみにした。逢えばそれだけで楽しかった。


 やがて、梅王丸は石堂寺に送られた。鶴姫にまた味気ない日常が戻った。しかし、訪れの少ない義頼を気にすることがなくなった。ふと、梅王丸の姿を思い浮かべることが多くなった。梅王丸に恋焦がれたのかも知れない。かなわぬ恋が鶴姫から急速に生気を奪っていった。


 鶴姫は不慮の事故で急死した。那古寺に参詣したおり、急な階段で足をすべらせ転落して頭を打って亡くなった。安房にきて二年も経っていなかった。


 岡本の里の者は、海を渡ってきた美しい姫君を長くなつかしんだ。海禅寺にある一体の十一面観音は鶴姫を模したものとの言い伝えがある。この観音様は沖を行く船を止める威力があると伝えられ、それを防止するため寺とは別にお堂を建て海とは逆の方を向かせて祀っている。


 鶴姫の法名は、龍寿院殿秀山芳林大姉。墓所は不明。

 48.里見四代の印判

 袖ヶ浦博物館(ここを訪れた体験記を書いただれかのブログに、「袖ヶ浦地域に歴史などがあるのかしら」との失礼な感想が書いてありました。まあ、全国的には西上総一帯がそんなイメージなのでしょう)の畔蒜荘横田郷関係の文書は充実しています。


 文治二年 横田郷は熊野権現の荘園であり、地頭に足利義兼を任命。(吾妻鏡)
 寛元一年 畔蒜荘南北領主職を熊野権現から山内首藤に変更。


 以上の記録から始まり、戦国時代にあっては、葛田家文書の中に横田郷にかかわる里見家の印判書が数多く保存されている。特徴的なのは、里見義堯、義弘、梅王丸、義頼と四代の印判が全部そろっていることである。展示品を見ると次の通り。


 永禄十三年 里見義堯、横田郷代官九郎丞へ兵糧五十俵を預けおく。
 天正三年十月二十六日 里見義弘、飢饉につき横田郷へ徳政を下す。
 天正七年二月二十日 里見梅王丸、横田郷の不作のことにつき判物を下す。


 天正八年四月九日 里見義頼、横田郷に加倍の判物を下す。 天正八年六月二十八日 里見義頼、横田郷新宿の市立てにつき判物を下す。


 武将の花押、または印判使用、中で印判使用は戦国初期に今川氏から始まると司馬遼太郎さんの説。これによると今川氏から北条(後北条)氏へ移った。北条氏の虎の印判は有名だが、それから関東全域に広がったか。西国は少し遅れたかも知れない。印判は花押の略形式(何十枚もだと花押は大変なので)か?とも思える。また黒印、朱印どちらが上?など専門家でないと分かりません。


 とにかく、里見氏四代の印判を眺めて見ます。


 里見義堯 袖ヶ浦博物館に展示されているものは方一寸二重枠の「五公」の黒印。字体は中国の殷王朝時代のような古風なもの。義堯は入道名を「正五」と称える。忌み名の「堯」と言い、この人は常識的な気取りでなく、だいぶ専門的に気取っている。正五、五公は共に書経、史記からの出典らしい。正五とは「五刑、五罰、五過を正すということ」。五公とは司徒(教育)、司馬(軍事)、司空(土地領民)、司士(家臣)、司寇(刑罰警察)の五つの公儀のこと。義堯は信玄・謙信の先輩すじだが、信玄の「風林火山」や、謙信の「義」より公人としての意識は上かと思える。義堯の思想は、時代的には大先輩の北条早雲に近いかもしれない。戦国大名も時代が下がるにつれて小粒になったかもしれない。(信長・秀吉・家康にどれだけ公人としての自覚があったかもう一度確認する必要があります)戦国末期、前田利家が論語の講義を生まれて初めて受けて大感激したと述懐していたとどこかに書いてありましたが、これと比べると東国の筋目の大名の教養の高さが伺える。


 しかし、結論を言いますと、義堯という人はこういう人なので上司に持ったら相当に堅苦しかったろうと推察されます。


 里見義弘:袖が浦博物館に展示されているものは、鳳凰の下に白ヌキで「里見」の黒印。後で説明する義頼印との関係上、下の文字が義弘というものもあるかも知れません。黒印、朱印の区別、意味ももうひとつ調べないと分かりません。ただ、親父さんのような思想性はないようです。義弘には忌み名改名の説があり、それによると「義舜」を「義弘」に改めたことになります。「舜」は中国神話時代の聖王父子「堯舜」から来ていますので、この改名はあるいは父と子の思想的な対立があった結果かも知れません。


 そんなわけで、義弘は酒飲みだったこともありますが「いいやつ」だったし、堅苦しくないし、ほんわかした良い大将さんだったと推察します。


 里見梅王丸 袖ヶ浦博物館に展示されているものは、義堯の印に似た小さな印です。字体、内容ともに不鮮明でデン助の手には負えません。館山博物館の方へ行くと、義弘の印判と同じものが朱で押されたものを梅王丸文書=仕事はじめと判断(天正七年とあるので梅王丸と判断? 義弘は天正六年死去なので)したものがある。


 里見義頼 龍の下に「義頼」と白ヌキの朱印。義頼が使ったもので、白ヌキ文字で龍に「里見」という印があるかどうか分かりません。


 義頼文書で気がつくのは美麗な印「象」です。かすれとか、欠けがなくピチッと押印してあります。それと義弘への対抗意識がありそう。義弘が鳳凰で黒印なら自分は龍で朱印だとの意識が私には伺えます。(鳳凰と龍でどっちがえらいのか分からないので分かったようなことは言えないのですが)

 49.義頼の治世

 里見義頼は終始岡本城から動かず、相模や下総はもちろん、隣国上総へも戦のために自ら出動することはなかった。ことによると生涯を通じて本格的な戦は体験していないかもしれない。基本的に安房国内の文治の人であった。


里見義頼の治世の主な出来事を年代順に箇条書きで記します。


 梅王丸問題:義弘の後継争い。下手をすると第二の天文騒動(里見義豊の時代、里見総領の血筋が傍系の実堯・義堯に移行した事件。義豊派、実堯派に多数の犠牲者を出した)になりかねえなかったのを梅王丸の出家で何とかしのいだ。


 正木憲時問題:義弘の後継者争いと、対北条外交政策の路線感の違いから、長年の盟友であり、婚姻を重ねてほとんど一家のようになっていた小田喜の正木憲時が里見から独立しようとした動き。義堯以来いいように使われて、それがすべて自領防衛戦争だったため正木には寸土の恩賞もなかったことへの長年の鬱積があった。


 これは、憲時のタイミングよい死去=暗殺で解決。正木家には義頼の次男が養子入り。暗殺者として義頼が疑われても仕方がない。(ただ、明らかに暗殺したとなれば逆効果もあり得たので、義頼犯人説は結果論を免れない)


 相模御前問題:義弘の北条和睦の置き土産で義頼の正室に鶴姫が輿入れしたこと。すでに後継義康があり、しかもその母は小田喜の正木時茂の娘ともなれば、鶴姫が正室になっただけで母はむくれる。まして男子誕生ともなれば、これも一歩間違えれば内乱になりかねなかった。幸いにかどうか、鶴姫は輿入れ二年後に死去。里見にとってはとりあえず爆弾がなくなった。鶴姫の死去をこれまた暗殺とか自刃とかそのタイミングのよさから考える向きもあろうが、これも結果論であろう。鶴姫の死去で北条氏政は不快感を持ったようで、その後、房相同盟は冷たくなり、天正九年には氏政が舟で安房を攻めたこともあった。天正十二年には義頼が鎌倉荏柄を攻めた(房・相ともに大将出陣の戦ではない)。海戦はおおむね里見のほうが優勢だったようである。北条との同盟が冷め、その後、里見は関東諸侯とは中立、相互独立の間柄となる。この頃になると、豊臣勢が観念でなく地平線からその巨大な姿を見せ始めたので関東で小競り合いをしている場合ではなくなっていたことが大きい。


 館山城の構築:防衛のための豊岡から、交易のための館山への移行である。館山城をかかえる高の島湊は平安時代から利用されていた湊で、館山湾の中でも水深があり、西風を防げる規模の大きな良港だった。館山が要害の地であったことは確かだが、主な理由は交易が目的で館山が選ばれた。天正十二年に商人の岩崎与次右衛門に沼の郷を開発するように命じたのが後の館山城移転に結びついていく。


 対秀吉外交:織田信長の最晩年に関東差配として滝川一益が派遣されたが、里見と滝川との直接交流の文書はないようである。さて、本能寺の変から秀吉のマジックのような大出世が始まるが、関白になって全国に発した、天正十三年の惣無事令が大きい。これにより古河公方の公儀が名実共になくなり、里見は法律的に自動的に秀吉傘下になった。しかし当事者は、ここまで思い切った認識になっていたかは疑問がある。この後も上総を舞台に従来通りの小競り合いを繰り返し、結局それを理由にされて里見は上総の地を追われることになる。


義頼は天正十三年十月に秀吉に使者を派遣し挨拶はした。この時秀吉とどんな話があったかは分からないが、里見の当主本人が行っていないことで義頼の姿勢がうかがえる。秀吉をまだまだ天下人とは認識してはいないのである。関白命令での「惣無事令」の意味を当主から家来に至るまで完全には理解していなかったと思われる。(天皇の代理人の「要望」と思っていた?)


 義頼の時代、回船商人の往来が盛んになり、安房・上総国内の経済活動が大きく飛躍した。経済拠点は、材木を中心に佐貫八幡浦、輸入関係で百首湊、職人集団・国内市場で小櫃川上流の久留里が中心となった。また、安房国内の拠点として館山を開発したのである。経済規模から言えば上総半国が大きいのだが、それでも義頼は安房を離れなかった。これは合理的判断からではなく好みの問題だろう。義頼が好んだら、佐貫辺りが里見の拠点となった可能性は充分にあった。


 里見義頼は天正十五年十月、四十五才で死去。この時息子の義康は十五才。後継者として梅王丸の当時の年齢よりは年長だが幼主には違いがない。一方この時、梅王丸は成人になっていたのだが、彼の帰り咲きの目はなかった。秀吉関白発足ですでに足利の神聖性はなくなり、「惣無事令」で下手に動けば謀反となりかねなかったからである。戦国時代は終わったのである。

 50.天正十八年

 関東がガラッと変わったのは天正十八年八月一日。徳川家康の江戸入府。ただ、これは結果を知っている人の視点で、当時の当事者には、昨日の続きの今日、程度の印象しかなかったはずです。「その時歴史が動いた」ように劇的な対応は(いつの時代でも、現在でも、あなたでも)誰も出来ないと思います。


 この話をする前に、まず古き良き時代の象徴として里見義康の元服儀式を紹介しておきます。


 「里見家年中書札留抜書」の、「房州於八幡神前ニ御曹司様御元服之事」という記事に里見義康の元服式次第が紹介されている。館山の鶴谷八幡神宮社前であろうその儀式は上様である里見義頼「本地堂ニ御座」のもと、代々の先例により百首(正木淡路守)と勝山(正木安芸守)を左右の介添役とし、百首が御曹司の髪を切り(童髪から月代を剃った髪に直す)、使用した刀は義頼家臣の角田図書助が請け取って披露。そのあと岡本へ帰城し、御曹司及び上様、御台様、御前様(実母?)、御乳之人への進上物が行われている。元服後の御曹司義康には、生順(正木時茂の家)名跡を継いだ御別当時堯(義康の弟)と勝山の正木安芸守が従い、三献の御盃は上様、義頼から始まり、御曹司様、継いで御別当様、百首、勝山の順に渡されたという。このような儀式形式は源頼朝よりもっともっと前のおそらく源義家の時代に確立された古式であろう。


 次に、「天正十八年」前後の顛末をかいつまんで説明します。


 天正十七年十月、上野国沼田城代の北条氏邦の家臣猪俣氏が、真田昌幸の属城である名胡桃城を攻めたという事件が起こると、豊臣秀吉は、これを惣無事令違反だと断じ、北条氏直(小田原)に五か条の詰問状を出した。(十一月二十四日)これを受け取った北条氏政・氏直は事実上の宣戦布告ととらえ返事を出さず、籠城戦と決めて同盟国の諸方へ、「陣用意火急ニ可有之候」として諸軍打ち立ちて小田原へ参府するように依頼し、伊豆方面の警備も始めた。両総からは、千葉氏、原氏、井田氏、高城氏、酒井氏、長南武田氏、万喜土岐氏らが小田原に参陣、籠城に加わった。里見の房州勢は加わっていない。里見は鶴姫の急死以来北条とはギクシャクしていたため、また長年の敵であったため北条に加担する気はなかった。この時の決定が、里見が、天正十八年は生き残った理由である。


 天正十八年三月、秀吉は京を出発。四月に小田原本陣着。


 秀吉・家康側からも諸侯へ小田原への出兵命令(こちらは命令)が届いていたはずである。


なお、小田原籠城組は、公儀に謀反したつもりはなく、だからと言って最終決定戦だとの意識もなく、以前の越後勢の替わりにまた新しい敵が現れた程度の意識だったと思われる。


 一方、里見は秀吉の動きを北条を攻撃するチャンスととらえ、秀吉に報告することなく独断で万喜土岐氏、及び三浦郡に出兵した(四月二十日)。三浦郡の野比村では放火した。小田原での秀吉への挨拶土産のつもりだったか、どさくさまぎれの実績つくりのつもりだったか、おそらく後者だと思われる。秀吉が天下人だとの認識は薄かったと思われる。そのためあとでひどいことになった。


 四月二十八日に里見義康は秀吉の小田原本陣に到着。義康は秀吉がさぞや歓待するだろうと期待していたかどうか。しかし、本陣に近づくにつれ西国勢の陣立ての厚さ、兵隊の装束のきらびやかさに圧倒される。自分達の鎧兜のいでたちがいかにもみすぼらしく惨めなものに思えてきた。この何十年か、我らは何をしていたのか。かなり自信をなくしながら秀吉に面会。そこでさらに追い討ちが待っていた。 

 秀吉は歓待どころか、義康の遅参をなじり、さらに野比村放火を軍令違反と断定してきた。里見側は返答の用意がなかったためしどろもどろになりながら平身低頭。ほうほうの体で秀吉の「御前」を下がる。まったく憔悴しきって、里見主従は里見担当申し次の増田長盛に相談した。増田は親切な男で、いろいろと知恵をつけてくれた。それでも本来なら軍令違反でなくもっと重罪の惣無事令違反で里見廃絶もあり得る、と脅かされた。しかし籠城していないその一点で助かるかも知れない。秀吉さま御執心の上総領分(秀吉はバブル公共工事を多数抱えていて、材木はいくらあってもまだ欲しい。そのため鬼泪山は魅力的)はあきらめてそれを条件に、豊臣・里見双方の知り合いから適任者を選び交渉せよとのアドバイス。その結果が高野山の木喰上人に中にたってもらうことであった。木喰との交渉は佐貫の加藤伊賀が担当。最終的に一ヶ月もたたないうちに上総領分は召し上げられてしまった。

 安房一国の里見になった。頼朝との血のつながり(極端な話、先祖が御家人として頼朝にお目見えしたか否か)の順序ですべてを仕切っていた関東がこの時亡びた。まだ小田原は落城していないうちにである。(もっとも籠城してはみたものの小田原勢もおそらく秀吉本陣を遠望してそのきらびやかさに圧倒され、しかもどうやら自分達の行動が公儀に対する謀反だということになっているらしいと風の便りで知らされると瞬く間に戦意を喪失してしまっていた。別に一夜城が決め手ではなかったと思う。駄目押しではあっただろうが・・・)関東が錦の御旗=西国に負ける三回目である。一回目は倭健(ヤマトタケル)にやられる、二回目は平将門・忠常らが負ける、四回目は明治維新。(不思議なのは勝者として西から関東に入ってきた人々が何時の間にかその意識が関東人になってしまうことである。今の天皇家・貴族末裔あるいは薩摩長州の上京組の子孫に京や故郷を懐かしむ気概はないように思えます。また関東は負けるとその都度大きくなるのも不思議です。)


 里見との初対面を秀吉、家康がどう感じたかを推定したい。


 「二十万石足らずの田舎大名、脅かして終わり」、と、里見側は実力以上に自分たちを卑下して、彼ら(秀吉、家康)はそう見たに違いないと考えただろうが、そうではなかった。関東は何といっても武士の本貫の地、そこで三百年、足利公方を奉じて戦ってきた里見を筋目の武将としてその観点から見ていた。秀吉にせよ、家康にせよ先祖の神話を持たないからである。里見主従の挙措は秀吉、家康をして自分たちが頼朝になったような、これで初めて武士の棟梁になったような気分にさせてくれるものであった。彼らにとって関東の筋目の武将に接した数少ない体験であった。後の挙動から見て、秀吉は里見に好意を持ったことは確かである。里見義康も秀吉に親しみを感じたに違いない。一方、家康は秀吉が里見に(足利に、と、言った方がより正確)傾斜すれば、逆に足利に否定的になったかもしれない。家康は足利公方に今川家を通じて接していたため愛憎半ばの微妙な心情にある。家康は、「関東武将」というなら北条(筋目の武将ではないが)に親しんでいた。この小さな感情の差を里見は発見できなかった。家康は里見に好意的との間違った考えが後に里見を廃絶に導くのである。

 51.美濃御前

 里見の上総領地が没収されたことによって、小田喜、勝浦の両正木家及び上総衆がどうなったかを述べます。


 まず小田喜正木家は、里見に反旗を翻した憲時が天正九年に暗殺されて、その後継に里見義頼の次男が入り時堯となったことはすでに述べた。この時点で小田喜正木家は領主としての実質を失い里見の被官になったと言ってよい。次に勝浦正木家は、正木頼忠が里見義頼の忠実な同盟者として行を共にしていたため、天正九年に同族の憲時から勝浦城を攻められた。頼忠と妻女・娘は危うく城を逃れた。この後、頼忠は里見を頼って安房に逃げ込むが、妻女が北条の出身だったため、安房でも居ずらくなり、やむなく妻女・娘を離縁する。妻女と娘は北条を頼って流浪することになる。この娘が後に伊豆を流浪中徳川家康に見出され側室になる。この話はまた後で紹介します。


 とにかく天正九年の時点でふたつの正木家は実質的に里見の被官になっていたのである。従って天正十八年では身分上の変化はない。

 では、里見に従っていた上総衆はどうなったか。


 天正十八年、小田原城が落城する前に、徳川軍の本多忠勝部隊が上総に入る。一日で五十の城を落としたというが、戦闘はなく、忠勝は村々にただ高札を立てて行っただけだろう。自然恭順の状態で、この辺、幕末の房総諸藩に似ている。デン助の「風雲佐貫城秘聞」で長岡勇が上総武士の腰抜けぶりをあざけった場面である。


 上総衆と里見との関係は主従でなく同盟者だから、里見が上総から引き上げると言えばああそうですかという以外になく、あとは新しい帽子(徳川かどうかこの時点では不明確だが秀吉という「公」機関が指名する守護)の方針次第である。


 地侍と守護大名・戦国大名との関係は三つあります。大名から給料を貰っているか否かで、貰っていなければ同盟者、貰っていれば被官となりますが、被官がさらにふたつに分かれます。一つは大名の身銭で雇われた者(織田家の秀吉、光秀などがその典型)、もうひとつは地所を持ち、検地という手続きを受け入れて、その結果明るみに出た無税だった部分(隠し田、ごまかし田、自主開拓田その他)を大名からの給付(知行)というかたちで合法化(安堵)してもらった者です。(織田家の柴田、丹羽などが多分それだった?)上総の里見などの被官は、なんらかの理由で没落し地所を持たない地侍ばかりで安堵型の被官はいなかったと思います。(地所持ちの重臣は被官でなく同盟者)それだけ里見は前近代的で、支配力が弱いのです。(前近代的=弱い=悪と考えないで下さい。里見の企業理念は里見義堯が決めたと思われますが、義堯はついに検地はやっていないのです。村々の自主申告に基づく納税・徴税という太古以来の村のあり方を至上のものと考えていた所以だと思います)


 天正十八年後の徳川体制下で上総の地侍は結局ほとんどが帰農します。上総の庄屋とか名主などの家のほとんどは天正十八年に帰農化した元地侍だったと思われます。


 天正十八年は、里見義康にとって超多忙の年になった。義康が小田原から帰った後に秀吉から結婚話が持ち込まれたのである。相手は今は亡き織田信長の忘れがたみ、桂子姫。仲人は徳川家康であったという。義康は小田原では冷汗をかかされ、上総は召し上げられてほうほうの体で帰ってきたら、今度はニッコリと、「お前のことは悪くは思っていない」、と、メッセージを出され、いいように揺さぶられた。秀吉の面目躍如といったところ。里見主従の反抗精神のキバは完全に取り除かれた。


 桂子姫の安房での足跡はほとんど分かっていない。小幡治枝さんは義康と桂子姫との会話を次のように表現している。


 「桂子姫、一体、どんな女人か・・・・・」義康は鷹の島の港に立って青海原を見はるかす。(で、突然桂子姫との会話に転じてしまう)桂子姫は安房で美濃御前と呼ばれた。


 「雪の降らぬお国とうかごうて桂子はまいりましたのよ。この温暖な里見さまの国を、あの猿(秀吉のこと?)と狸(家康のこと?)が欲しゅうなるのも無理はありませんわ」


 「猿と狸・・・・・ははは・・・・」桂子姫の思わぬ快活な言葉に、十八才の義康は笑いをこらえきれなかった。「でも、義康さま、桂子が参りましたからは、どうか、領国(上総のこと?)を取り戻して下さいましね」、と、きりっとした涼やかな目尻を見せる。やはり織田信長殿の姫子である。義康は体の奥から勇気がわく心地がしていた。(上記文中( ?)はデン助の解説です)


 デン助なら以下のようにします。


 桂子姫は淀君らと同道で小田原に来ていた。桂子姫は二十五才くらい。当時としては年令的にすでにトウが立っていた。桂子姫の性格はハデハデの遊び人タイプ。義康との出会いは、義康が小田原に参陣したおり、桂子姫が遠目で見かけ一目惚れ。是が非でも嫁に行きたいと騒ぐ。淀君が秀吉に取り次いで結婚の次第になる。


 こうすると、かって梅王丸が北条の姫君に惚れられた、今回、義康が織田の姫君に惚れられた、と、物語上、対になって、はなしの納まりが良い。


 館山での桂子姫の生活は?・・・・ここでまたあの種姫が瀬戸内寂聴さんのような格好で登場。里見義堯思想のスポークスマン、安房の女丈夫が、美濃・尾張のハデハデ姫君に何を言ったかこれは見ものなのですが、現状、デン助、勉強不足で書けません。(将来書く予定)従って、里見義康は桂子姫を得てメロメロ状態になった、とだけ記します。


 桂子姫、この信長の娘は義康の正室になったという説と、側室であったという説とがある。ただ、天正十八年時点で「美濃御前」と称される女性が義康御殿の南側御殿に、化粧高七百石で存在していたことは事実である。義康の夫人は、過去帳では「義康夫人」となっている。里見最後の当主十代の忠義の生母は、だから美濃御前=義康夫人だとの説がある一方、違うという説もある。義康の菩提寺慈恩院にある位牌には義康夫人として織田信長の娘とあり、これが美濃御前であり義康夫人であるならばすっきり忠義生母となるのだが後は分からない。義康夫人の墓は鴨川市長安寺にある。法名は「龍雲院殿桂窓久昌大姉」

 52.徳川家康の江戸討ち込み

 天正十八年、徳川家康が江戸城に入部した。後世の徳川家はこれを画期として、失敗したら後がない勝負の時、「討ち込み」と称し、この日を天下人のスタートの日としていた形跡がある。(実際にはこの時点で家康は秀吉傘下の一大名に過ぎなかったのだが)


 江戸入りの四ヶ月前、小田原石垣山のにわか作りの城でのこと。小田原城を眼下に見下ろす場所で、秀吉から「世に言う連れション」をすべしと誘われた家康。二人して小便中に、秀吉から、関東八州をそこもとにまかせたいと衝撃の提案があったとされる。司馬さんの小説では、家康は衝撃をかろうじてこらえて、ここで下手に動揺を見せたら、ましてや、断ったりしたら秀吉に疑われると、小便が止まりかけるのを、やっとの思いでがまんし、無理やり放水を最後までやり終えた。そして居住まいを正して満面に笑みを浮かべ「ありがたくお受けしたい」と、承諾の返事。これで家康の関東移封が決まった。
 

 独裁者は疑り深い。すこしでもいやな顔を見せたら首が危ないと、家康は、無邪気に大喜びの体を作りながら、今すぐにでも移転の準備に取り掛かりたいというと、秀吉は自分の知恵誇りから、そこもとが関東を支配する拠点としては小田原はあまりにも西に偏っている。鎌倉の先に江戸という村がある。今はヨシ・アシの茂るぬかるみ地だが将来のためならここを拠点に選ぶべしとアドバイスしてくれた。それで「江戸」が決まった。


 この転封の目的について「徳川実紀」も、あるいは多くの解釈者も次のようなことを言っている。
 秀吉の処置は小田原攻めの第一の功労者として家康に賞を与えるような印象を天下に示しているが、実は目的は、徳川の力を削ぐため、徳川を生え抜きの地から切り離したいのがひとつ。更に内心では、関東の地侍共が、反徳川の一揆でも起こしてくれれば、もっけの幸いとそれを口実に徳川を取り潰すのが目的だったとしている。徳川は、徳川で、三河・遠州から離れたくない思いは主従の共通認識で、秀吉から内示を受けたとき、家来の方からはそんなものは断れとの意見が大勢を占めた。家康と側近だけがかろうじてここで断れば徳川がつぶされる、皆がまんしてくれと言ったということになっている。これは本当だろうか。


 結果論でいえば、家康が江戸に来たことで、次期の天下人の座が回って来たのであって、これが仮に遠州や三河を引きずっていたら秀吉の後継者たり得たか大いに疑問がある。家康の本当の内心は百万石近い加増とあわせて関東移封は家康はありがたかったのではないだろうか。独裁者は晩年に無意識か神に導かれてか不思議な利敵行為をする。古くは天智天皇が大海人皇子の吉野行きを許したこと、二番目は清盛が頼朝を伊豆に流したこと、三番目が今回の、秀吉が家康を江戸に移封したこと、これらは何か共通している部分があるように思える。


 家康は天下構想を持たずに、ただ、信長・秀吉流の中央集権・重商主義が日本に合わないと思いつつそれのアンチテーゼをはっきりと見出し得ないまま、江戸に来て、北条の真髄を学んだ。北条とはすなわち今川である。振り返れば、家康は、基本的な武将としての立ち居振る舞いを今川で学んだはずであり、従って、北条流はすんなりと理解できる、また、好ましいあり方だと思ったに違いない。結局、家康は北条を亡ぼしながら北条のやり方をほとんどそっくり踏襲して天下に臨んだのである。徳川家は関東に来て、その意識は、急速に、関東人=北条=今川=足利=頼朝体制派とどんどんと先祖返りしていく。(戦国史で今川は多少軽くあしらわれ過ぎている。今川仮名目録などの統治のソフトウエアは、先の印鑑使用などもそのひとつだが、今川発が結構多いのである。また徳川が先祖探しで偶然かどうか、新田家の末であることを選択したのは出来すぎている)


 里見家の話に、徳川家康の話を延々としたのは、最後に家康によって里見が潰されたからである。その理由のひとつに家康の関東に対する心情が深く関わっていると思うので家康論を述べた。家康は自分の子供達に関東の名族を継がせている。関東の名族に対して憧れがあったのではないか。里見は名前を奪われるほど没落していなかったため潰されたと言えないか?里見の頭が高いのが気に食わなかったのではないか?

 53.養珠院

 養珠院、俗名は「於万の方」と呼ばれていた。家康の側室のひとり。(家康の側室に「於万」は二人いる。最初の於万は正室築山殿にいびられて妊娠した罰に裸で木にぶら下げられた人)新しい方の於万は生まれは天正五年。父は勝浦城主の正木左近太夫邦時(頼忠といった方が里見の歴史では通りやすいかもしれない)、母は北条治部大輔氏隆の養女。(この正木の家は日蓮宗の熱心な信奉者。於万の方は信仰心厚い人との印象で同時代の人々に知られた)


 天正九年の時、同族の正木憲時に攻められ勝浦城が落城。親子ともども安房にのがれたが、母親が北条氏出身のため安房にもいずらくなり、母娘は小田原の北条氏隆の元に向かったことはすでに述べた。母娘はこの後も転々とする。天正十六年ごろは伊豆の河津の北条屋敷にいたらしい。そして、天正十八年、北条が秀吉らに攻められると難を避けるため伊豆の天城あたりに逃れたらしい。


 その後、新しい関東の主の徳川家康が北条の残党を優遇している状況になり、文禄年間には韮山の江川太郎左衛門屋敷に厄介になっていた。


 於万と家康との出会いは、文禄二年、江川屋敷で於万が給仕に出た時であったらしい。この時於万は十七才、家康は五十一才。この頃、豊臣政権は、朝鮮役が政治主題で家康はほとんど大阪に行き放しであった。おそらくたまの江戸帰りの途中での出会いだったかと思える。家康は女との恋愛(注:この概念は日本では明治以後の洋行がえりの知識人のもの)で逸話を残すタイプでなく常識的な一般人。ただ社会的立場上多くの女との出会いはあったはず(知られているところで正室二名のほか十五人の側室)です。これらの女性たちを見ると家康の好みが伺える。約半数がじゃじゃ馬。上州あたりに多く居そうな関東(家康の相手の実の出身は甲州が多いですが)女性。従って於万も、じゃじゃ馬だったかも知れないが、後の話で家康の一番の有能な外交官だった阿茶の方(対豊臣家と対皇室外交。イメージとしては小池百合子?)と終生仲がよかったところを見ると、じゃじゃ馬がふたり仲良くなることはなかろうから、於万はでしゃばらないしっとりタイプだったかもしれない。はなばなしい他の側室に比べて逸話らしい逸話がないところを見ると、引っ込み思案のおとなしい人だったかもしれない。


 家康は自分の権力に任せて女を漁るタイプでなく、例えば伽に提供された少女を前にしてそれが美女であったら遠慮する、または自分の多淫を恥じている、そしてそれをやめられない自分を反省しているところがあり、女をおもちゃ扱いにせず、有能と見込んだ女に仕事を目いっぱいまかせてお願いするところがあった。於万はいい人にめぐり合えたのではないか。


 また、この当時の家康は政治的に多忙で小娘相手に源氏物語的なことをやっている(その趣味もないが)暇はなかっただろう。夜の閨のことは別である。だから、於万との関係は、たまの東海道往復途中の旅の宿での給仕の女以上のものではなかった。この状態で、記録は途絶えるが、約十年後、於万は司馬さんの小説で次のように冷たくわずか数行で扱われて登場し、すぐ退場する。


 家康は大阪夏の陣を終え、豊臣家を亡ぼしたあと、その翌年の元和二年四月十七日に死ぬ。齢七十四才である。


 かれはその晩年まで健康で「すこし、閨をつつしまねば」と、みずから言いつつも五十八才のとき、於亀という侍女に義直(尾張徳川家の祖)をうませ、六十のときには於万という者に頼宣(紀州徳川家の祖)を生ませ、つづけて於万を寵愛して、頼宣をうませた翌年に頼房(水戸徳川家の祖)を生ませるという勢いであった。・・・・・・・(頼宣、頼房は京都伏見城内で生まれ、駿府城内で育った。於万も同道であろう)


 しかし、結局人生とは、侍女であれ、妾であれ子を産んだものが勝ちである。於万は珠の輿に乗ったのは間違いない話だが、それだけであろうか。家康が於万に期待したもの、それは子を産む機械ではなく子を育てる教育者であったのではないか。頼宣にせよ、頼房にせよ、並みの二代目の子供ではない。並みの二代目の子供でない源泉は於万にあると考えざるを得ない。さらに於万の元はと尋ねれば、母方の北条家であり、父方の正木家である。DNAの話ではなく子供の性格は母が語る先祖の歴史にかかっているのではないかとデン助は思う。特に武将は先祖の神話が命である。母が教育する唯一の主題は先祖の歴史である。家康徳川家に先祖の歴史はない。頼宣も頼房も母から北条と正木、さらにさかのぼって三浦の神話を聞かされて育ったに違いがない。


 頼宣には三浦のにおいがし、頼房には北条のにおいを嗅ぐのはデン助だけだろうか。於万の血筋は、百年後、紀州が将軍家に入る。さらにその百年後水戸が将軍家に入る。


 余談だが、教育に失敗したのが側室茶阿(小池百合子の方は「阿茶」です。まちがわないように)の局。彼女は家康が鷹狩の時、亭主の敵を討ってくれと子連れで直訴したようなじゃじゃ馬。後に忠輝を生むが忠輝は謀反(伊達政宗がからんでいる)を疑われ、秀忠、家康に嫌われ流刑にされる。しかし茶阿本人は家康に信頼され続け、結局、家康の死に水をとったのは茶阿の局。この茶阿が最期の家康に忠輝のことを願ったがそれでもダメだった。家康は最後まで平常心を失っていない。


 家康と秀吉とこの二人はよく比較されるが、家康にあって、秀吉にないのが後宮の女性陣の人材の豊富さ。一家の一大事にこの差がどこから出てくるか、これは各人の能力(能力では豊臣方には「ねね」など卓越していた人がいた)の差というより、女性達各人の背景(実家)の歴史の厚みの差であったのではなかろうか。


 さらに余談だが家康や秀忠の子で養子に行った子供達もDNAは継いでいないが養子家の歴史を継いでいるように思えてならない。越前松平の結城家、会津松平の保科家、しかりである。


 この時代から二十年後の世で、里見忠義が改易になりつつあった時、家老の正木(小田喜)が今をときめく於万のつてを頼って家康に直訴しようと試みたことがあったらしい。於万との対面だけでも実現したのかどうかわからないが、於万にとって小田喜の正木はなつかしいものではなく、まして里見は遠い存在だったに違いない。於万は四才で上総を離れ、従って基礎教育は北条で受けている。珠の輿の余禄にすがろうとした里見は、はなから勘違いをしていた可能性がある。偉くなった人は故郷に冷たいというが、それとは違って、於万の生い立ちから見て里見に義理を感じるいわれはない。於万にとって、今は二人の子供(その当時ふたりは紀州と水戸の太守である)がすべてであり、その他は余事である。改易しかかった家に首を突っ込んで、家康(その当時死の間際にあった)や秀忠の機嫌をそこねかねない(機嫌はそこねてもそれで於万が殺されたり子供達にまで問題を持っていくようなことはしないだろうとの安心を於万は感じていただろうが)危険を犯すだけの義理が里見にはない。

 54.里見家の終焉

 里見家はくにゃりくにゃりした徳川官僚の海の中で溺れて、有能な外交官の居ないまま、なす術もなく消えて行く。その消え方も、なしくずし的で、劇的なものがなく、いつのまにか消えていたような印象が強い。実際デン助の持っている「日本史総合年表」(吉川弘文館)には、元和八年(里見が安房を追われて八年後)に里見忠義(大名)が鳥取の倉吉で死去との記事があるだけである。これを遡る慶長十九年の里見の国替え(安房から鹿島に国替え。表高は十二万石で変更なし)は、大阪冬の陣を前にしてかくれてしまった感が強い。今でいえば、さしずめ新聞二面の下の方の人事欄に小さく載ったような感じ。


 里見家の終焉までの道筋をたどると次のようになる。


 慶長十九年九月九日、里見忠義が将軍(秀忠)に重陽の祝いを述べるために、江戸城に出仕しようとしている時、江戸城から使者が来て、国替えを言い渡された。安房は江戸に近いので徳川直括とし、替わりに鹿島郡に隣接した行方郡九万石を賜るとのことである。里見は先の関が原の戦役の功(上杉押さえの功)で鹿島郡三万石を加増されていたので隣接して十二万石が出来ることになる。さらに、大久保忠隣の屋敷に控えているようにとのお達し。国替えは歓迎しないが、直感的、数字的に百パーセントは悪い話ではない。しかし、単なる国替えにしては当主を大久保(この年一月に小田原改易で当主は謹慎中。大久保との関係は里見忠義が大久保忠隣の娘を妻にもらっている)屋敷に控えさせるのが異常である。主従は何がなにやら分からない状況となってそれがずっと続く。


 忠義が国替えを言い渡されたことは、館山にその日のうちに伝えられ、五日後の九月十八日には早くも館山城は接収され、里見家の荷物が運び出され船で鹿島へ送られていった。


 同時に佐貫の内藤、久留里の松平、大多喜の本多等の徳川譜代衆が押し寄せ、瞬く間に建物は壊され堀に捨てられ、堀も埋められてしまった。九月の月のうちに館山城はなくなってしまったのである。あっというまである。その後、館山の在番として内藤政長(佐貫)と、西郷正員を残して城受取の軍勢は引き上げて行ってしまった。里見衆は里見衆だけの会議を開くことも出来ずただ見守るだけ。たまに内藤あたりに接触したところであっちへ行けこっちでは分からないの官僚お得意の作戦に引っかかりおろおろしているうちに現実だけが進行し、気がついたら城がなくなっていた感じであろう。(安房衆の機転のきかなさをあざけるのは簡単である。しかし、もし、あなたが里見の家老だったらどうします?うまく処理できる方案がありますか?)


 一方、行方郡へ移るつもりで忠義たち、鹿島に着いたところ、伝えられたのは行き先が変更になり、伯耆国(鳥取県)ということになった。さすがの忠義もこれには怒って、と、いっても「今しばし再考を」程度のことを言ったのだろう。これがけしからんということで、行方郡分=安房分は没収。残った鹿島郡も取り上げで、替わりに鳥取の倉吉三万石を与えるということになった。これが十月十日に家康署名の文書で言い渡されたらしい。


 忠義一行は倉吉の旅の途中、駿府に立ち寄っている。詳しいことは省くが家康に最後の陳情を試みようとしたのだろう。この時、家康は大阪にすでに出発した後だった。於万の方を通じてのお願いの試みがここでなされたかもしれない。


 忠義一行は戦さわぎで騒然としている大阪、京都を避け(家康への遠慮があった?)ひっそりと山陰道を進み、倉吉についた。しかし、ここで与えられたのはわずか四千石だった。証文はまたもや反故にされた。


 忠義の転落は倉吉四千石でどうにか一度停止(実際はもう一度落ちる)した。こんな中で、元和三年に忠義は倉吉の八幡宮の修理費用を奉納した。その棟札には当時の忠義の情が良く分る文書が綴られている。「敗壊転倒奇かな妙かな」、と。


 元和三年三月、鳥取藩主が池田光政に替わると、忠義の身分がまた下がった。四千石は召し上げられわずかに百人扶持だけが与えられた。元和五年には家も掘村の上屋敷に移ってしまい、押し込め同然となった。それ以後、忠義は病気勝ちになる。


 そして、元和八年六月十九日、忠義は二十九才を一期として死去。忠義には相続者なしとされ、ここに里見家は断絶ということになった。さらに、幕府の里見に対する辱めは続く。記録によると、池田家は忠義の死を確認した。そして池田家の江戸家老が忠義の死亡を老中へ届けたあと、再度、忠義の死亡が病死か自害かを出入りの医者から確認するようにと、国許に指示を出しているのである。幕府から池田家に落ち度のとがめがあったのだろう。幕府の意地悪が伺える話である。その手紙のやり取りから推定するに、夏の盛りに二か月近くも遺骸が放置されていたことになるのである。


 しかし、あるいは、これは意地悪ではないのかも知れない。官僚の足の引っ張り合い。すなわち些細な調べの欠落が落ち度として処理され、今度は当の官僚本人が里見忠義と同じ目に会うかもしれない恐怖から来ているのだろう。徳川家の組織としての腐敗は豊臣が亡びる前にすでに始まっていたといわざるを得ない。( 了 )

 エピローグその1

 里見家の改易の理由は良く分からない。多くの説は姻戚の大久保忠隣の失脚に連座させられたとなっているが、大久保忠隣の改易は慶長十九年一月、里見忠義のなしくずし的な改易が始まったのが同じ年の九月だから八ヶ月のタイムラグがあるのが不思議である。


 ところで、南條範夫の「大名廃絶録」の筆頭記事が里見忠義だが、改易の理由を、忠義の「乱行」が底流にあった中で、姻戚の大久保忠隣事件が起こったのでこれ幸いと便乗させたとしている。しかし忠義の「乱行」自体、家臣の印藤采女に進められるまま「乞食、非人は用なきものにつき皆殺し」とか、「登城してくる家来共に水をぶっ掛けて喜んだ」など、南條さんは眉唾と思いつつ半分信じた感があるが、これは、おとぎ話でしか、あり得ないものばかりで、従ってこんなことはなかったといわざるを得ない。また、他の説ではそもそも将軍のお膝元に地生えの外様大名が居ること自体が不愉快であるためとなっているが、不愉快ではあっただろうがそれが直接的な改易の理由にはならない。


 ただ、「大名廃絶録」の中の以下の記事が気になる。「慶長十九年一月、家康は葛西の野で鷹狩をし、東金に数日滞在。この時、佐倉の土井利勝は毎日生魚を家康の食膳に提供し、大多喜の本多忠朝も狩場の行き先々にいろいろなものを届けたのに、里見の館山からは至近距離にも関わらず何の献上もなく挨拶にすら来る者がなかった。こうした里見の態度に家康が不快感を持ったことは確かだろう。家康は十八日に江戸に帰り、十九日に忠隣改易を発表している。・・・・・・・・」


 事実とするならば、里見のこの対応は信じられないほど常識から外れている。本来ならば、十年の収入を全部つぎ込んで進物を用意し、当主自ら家康の鷹狩場に赴いてなぜ案内を里見にお命じにならぬ、水臭いではありませぬか、と無理強いにでも猟場を案内し、徳川様は茶好きの上方将軍かと思っていたら、あにはからんや新しい天下の王者は関東武者好みだなどと追従を言い、関東諸侯の諸情勢を語り、豊臣の悪口を言い、はては嫁の要求をするくらいするのが普通の対応である。(二十才前後の若い当主であっても、言っていることを完全に理解した上で、田舎者の馬鹿殿を演じきる力がないと、所詮ダメだったかも知れない。挨拶もなしではどうにもならない。殿様が若いからと、老臣の正木あたりが行ったら逆効果)


 常識を知らなかったわけでなく、多分、事前に家康すじから、今回の鷹狩は内輪のことだから挨拶・進物不要くらいの達しがあったのだろう。里見はそれを真に受けての結果がこんなものだったに違いない。変に遠慮した結果であろう。秀吉・家康政権への接触で、里見家主従は支配者との距離を、終始、測りかねていたように見える。先の支配者(足利)はゆるい支配で、わがままを言ったり、時には敵対してもあやまれば元に戻れたが、今度の支配者は違うと頭では分かっていても体がついていかなかったのだろう。


 過度の「遠慮」は時として尊大と誤解される。低い身分の出身の支配者はなおさらそう感じる。遠慮して親しく付き合わなければ、新しい支配者から見れば「何を考えているか分からない」ということになる。


 また、里見が、どういういきさつかは知らないが、結果的に大久保忠隣に濃厚接近をしたのはかえすがえすもまずかった。この当時、大久保忠隣と本多正信が文官の二大派閥であったことを思えば、派閥の片方への過度の接近は百害あって一利なしである。権力絶大に見えても文官は、所詮、ナンバー二、三である。彼らとは平等に付き合って、ナンバーワンの家康か秀忠になぜ接近しなかったのか?大久保風情から嫁を貰わず、なぜ、徳川から貰いたいと言わなかったのか?これも結局過度の遠慮からきていると思う。足利体制の家柄論で行けば大久保家など庶民であろうに。

 エピローグその2

 里見家に、この改易話を撤回させる方法、手段はなかったのであろうか。家康、秀忠の性格、彼らが抱えていた主題、当時の官僚の考え方などから、こうすれば行けたのでは、との案を出してみよう。


 まず、徳川家のこの当時の主題は豊臣家処分である。家康は老いを自覚していて、自分の目の黒いうちにと焦っていた。この時期、徳川は家康と秀忠の二トップなので、家康は豊臣家の他はほとんど関心がなかったであろう。従って、里見家処分の話は秀忠すじから、しかも本多正信など老臣でなく若手から出てきたものに違いない。処分のやり方が強引で権力を持ち始めて権力を試して見たくてしょうがないような様子があるからである。


 この時期、秀忠の主題は大久保問題と、忠輝問題。家康亡きあとの秀忠の権力の確立のため必要以上に苛烈で高飛車な処分を心がけていたに違いない。忠輝は大久保長安とつながり、また、伊達政宗の娘(いろは姫)を嫁に貰ってキリシタンとの関係も取りざたされているじゃじゃ馬。秀忠の天敵である。
里見の話は、大久保長安、大久保忠隣などの中からわき役、ちょい役で出てきて、その徳川に対する超然とした態度(実は気弱な遠慮)から目障りと感じ、さらに片隅とはいえ関東平野の一画にある里見の存在を取り除こうと考えたに違いない。里見の大きさも若手官僚がいたぶるに手ごろだと狙われたのであろう。理屈はない、法律もない。ただ、官僚のおごりから選ばれたのである。


 このような状況下で里見はどうすべきだったのか?


 いつの時代でもそうだが、どんなに強い権力も一枚岩ではない。権力の中には必ず反対勢力がある。その反対勢力が動き出すのは、情勢がスムーズに動かない時である。抵抗のポイントがここにある。いかにずるずるとだらだらと決着を延ばすかである。まず、第一に国替えの上使が来たとき、回答を明確にしないこと。「それはどんな罰でこういうことになりますか」と反論したり、「謹んでお受けいたします」などと、明確にいわないこと。ひたすら頭を下げ「恐れいります」とだけ言う。合い分かったかに対しても「恐れ入ります」と頭を下げるだけ、何時間でも、何日でも恐れ入りますとだけ言い続けようとの気迫で「恐れ入ります」といい続ける。上使は焦ってくる。はなしが伝わったかの確認が出来ないので返事が出来るように説明するだろう。その説明が多く出るように、いかにわからないように応答するかが大事である。こうしていると説明の中から言質になるような言葉が必ず出るのである。上使が出直してこなければならない状況に持っていければさらに勝利である。


 第二に手続き論。まず、国許では、殿様の直々の文書なり、肉声がなければ城明け渡しは出来ないと言いはり、これは殺されるつもりで大手門で見栄を張り続けなければならない。封建制の建前から陪臣は将軍命令を受ける義務がないからである。仮にこの人たちを殺したりしたら、幕府方の負けである。手続き論には、江戸での上使の応対にもその材料はいくらでもある。処分の理由を明確にすること。罰なのか、恩賞なのかの区別、その先例、またはその法例。国替えの期日と期日が指定される意味理由。 国替え先の準備状況。現在の領国の年貢等の会計処理の引渡し条件・・・・・・これも何も分らないからいちいち確認します、バカだからいちいち記録します、と、延々と一年も二年もやるつもりでその気迫で続けることである。話を聞いている間の今日明日の食事はどうするか、休憩はどうしましょう、万一徹夜になったら寝床はどうしましょうかと聞きまくるとさらに良い。


 ポイントは権力に恐れ入らないこと、あいつらも同じ人間だ、あいつらにも上司がいる、あいつらにも弱みがある、と高みから見ると可愛く見えてきて、応対のアイデアも出てくる。


 第三に、江戸での応対中、なかば公然とした監禁中なのであろうが、ここを何らかの手段で里見忠義本人が逃げ出すこと、脱出と言ってもいいかもしれないがとにかく行方不明になること。上使がきて大久保屋敷に控えよと言ったからには監禁ということになるので、ここで犯人が逃げたら牢屋の番人(上使)の落ち度になる。一方犯人も逃げた罰は罰だが犯人を逃がした罰の方が糾弾されてくるだろう。権力側の野党反対勢力に口を出させる情勢が生まれる。


 里見忠義がどこに行くかというと、デン助なら徳川忠輝の屋敷への逃げ込みを勧めます。秀忠に対する野党としてこの人ほど強力な人はいません。普段からの付き合いがなくても忠輝ならかくまってくれた可能性があります。理不尽な国替えを忠輝に訴え出れば、かなり有望な芽が出ます。


 以上のようなことをうまくやったら、里見の処分はとりあえず保留となり、おそらくこの後は大阪の陣でドタバタして、数年は保留になったかもしれません。ただし、徳川の性格上、大阪が片付けばまた里見処分を蒸し返してくることは必定です。

 そこで、里見としては、保留になったとたんに、里見忠義は世間を騒がせたとして隠居し、里見家を幕府保持の柱石とすべく、徳川から養子をもらいこの人に家督を譲るとして、家名を残し、事実上の自主廃絶をしてしまうのです。なんだそれなら最初から廃絶と同じではとお考えでしょうが、こうしておけば、その後、天下の情勢次第でいくらでも復活の目はあるのです。とにかくどんな手段であれ生き残るのが根本です。