佐貫の古跡散歩 佐貫城 岩富寺 安国寺 鶴峯八幡宮 新舞子松原

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「近世の城跡らしくない草ぼうぼうの」佐貫城、「入り口が塞がれて入ったら怒られそうな」岩富寺、「そもそも足利尊氏が全国に建てたこと自体知られていない」安国寺、「田舎にしては意外と立派な」鶴峯八幡宮の「へーそうなの、ビックリ!」、新舞子の名がついた元風景の松原を紹介します。これらの遺跡には松平重治という大名が濃厚に関係しています。 最近松平重治と佐貫が小説になりました。矢的竜著「折り紙大名」です。佐貫が文芸作品に載るのは、「子連れ狼」以来です。


 佐貫城に天守閣はあったか    小川 伸 

 佐貫城絵図です。ここには立派な天守閣が描かれています。復元模写した大きな絵図が富津市役所2Fに飾ってあります。同じ図柄の絵図は佐貫に各種多数伝えられていますが、根本の出処は、江戸時代初期の佐貫城主松平勝隆・重治の二代に仕えた家老諸田氏が代々伝えてきたものです。


絵図の中の建物は、渡り廊下などのない一戸建てであり、現代の新興住宅地のような雛段敷地に、それぞれ独立の石垣の上に乗った、漆喰塗り建物であること、竹矢来が目立つこと、そして城内大通りが、大手門を入って左に曲がりそれからまっすぐ上へ通っていること、さらにこの大手門が閉門の様子に見えるなど細かく見ると面白いです。
 佐貫の人たちはこの絵図の通り、佐貫城にも天守閣があったのだと信じていますが、多くの学者は否定的です。


 元禄7年に新たに佐貫城主となった阿部氏が、幕府に城修復の申請をした時の添付図写しです。この絵図も佐貫に各種伝えられています。ここには、建物らしきものとして、黒塗り四角で表現されている隅櫓らしきものだけで、あとは三の丸南側が石垣らしき形をしていることと、その南に水堀が描かれていることが注目されます。絵図の中の修理箇所箇条書きには竹矢来や矢来門の修理、侍屋敷の修理が出て来ますが、天守閣などの修理は出て来ません。


 さらに城構造とは関係ないですが、絵図の中の文に「佐貫町」という表現があります。阿部氏が入る前から佐貫は「町」構造であったことが、うかがえます。それなら佐貫町を造ったのは、阿部氏以前の城主である松平氏か内藤氏だということになりますが、私は、いろいろな検討の結果、松平勝隆だと考えています。


 幕末の佐貫城を表した絵図とされています。この絵図も佐貫に多く残されています。
 この絵図は、大手門だけが立派な佐貫城で、天守閣ももちろんありません。
 大手門前の城外に、諸田屋敷と御平治稲荷神社がならんでいます。城内は、御沓所と、もう一棟と、御広間だけであり、いわゆる藩主の奥屋敷がありません。

 以上3枚の佐貫城絵図はそれぞれ全く内容が違いますが、これは、時代が違うからと見れば納得が行きます。1枚目は江戸時代初期、松平重治が藩主だったころの佐貫城、2枚目は江戸時代中期、阿部氏が入部した時の佐貫城、3枚目は幕末あるいは明治時代に入っての佐貫城と見るとまあまあそんなものかと受け入れられます。

 それでは、実際の今の地形に、3枚の絵図を当てはめて見ましょう。ただ、実際の今の佐貫城を写真に撮ると、木だけしかない山であり、何も分からないので、立体模型ジオラマで検討してみました。

 黄色い文字が地形の説明、赤い文字が私の推定説明です。

 3つの絵図と現在の地形を比較して一番合わないのは、1枚目の天守閣表現です。世の通説に従って天守閣が本丸にあったとすると、絵図の天守閣はもっと右の方に描かれなければなりません。しかし、通説をあえて破って、天守閣が三の丸奥に造られていたのだとすると、一転、1枚目の絵図と現在の地形とはぴったりと合います。城内を貫く大通りもあとづけることが出来ます。この大通りは2枚目の絵図では、白で表現されている帯郭とあとづけ出来ます。この帯郭構造は現在も残っています。


 さらに、天守閣が三の丸に造られたのだとすると、「本丸に大きな建物や石垣の痕跡がない」、すなわち佐貫城(本丸)には天守閣がなかったという今までの佐貫城の考古調査と矛盾しなくなります。


 では、逆に、三の丸奥には大きな建物の痕跡があるのでしょうか。
 私がざっと見学した限りでは、竹藪だらけで行くのも困難で、建物の痕跡は礎石らしきものも石垣の石もなく痕跡は見あたりませんでした。ただ、土地が異様にフラットであり、土地に鉄棒を差し込んだところ、30cmで堅くなりましたので、丁寧な版築と見られなくもない印象を得ました。版築の高松塚古墳の上は竹藪だったそうなのですが、今の佐貫城三の丸奥も竹藪です。もっともそんなことより断面をみれば版築なのかがわかりますので、そのことをテーマにした考古調査が望まれます。

 次に3枚目の絵図、幕末の大手門の位置についてですが、実際地形と比較すると、現在に残る隅櫓(石垣だけ残る)は、絵図で大手門の右に小さく描かれたものであると考えないといけません。それでないとこれだけ大きな大手門が地形に入らないことになります。現在の佐貫城跡への上り道は、大手門脇の通用門口だったと考えるべきです。


 最後に、江戸時代中期の佐貫城下町(佐貫町)の絵図(東側のみ)を挙げておきます。城下町特有のクランク構造は今に残っています。突き当たりの表現が何か不明です。クランクを曲がって城に近づきますと竹矢来で通せんぼされています。現在の中学校正門あたりです。殿町に行くにはその手前、志波さんのところの道を下に下って染川沿いに行かなければ行けません。
大通りに沿った溝は、関山用水です。この用水で、佐貫町駅周辺の原野が美田になったわけです。

 

  江戸時代以前の佐貫城(通説) 

 城の作りは古風で、自然地形を利用していて工事量は少ない。築城の資料はほとんど残っていないが八幡の鶴峯八幡神社の再興の棟札の内容から房総武田氏の一族が佐貫城を築城したと思われる。

 現在の佐貫城には里見氏の築城の影響が見られるので、武田氏の後、里見氏が進出した。これは保田の妙本寺日我の日記に「佐貫の里見義弘が大酒故に臓腑が破れて死んだ」との記事があることから確実視されている。

 その後、足利義氏(最後の古河公方)から佐貫の里見梅王丸あての手紙(喜連川文書)が残っていることから里見氏が継続して佐貫を支配していたことが分かる。

 足利義氏が北条氏の圧力に耐えかねて古河から鎌倉に逃げる(連行される?)途中、短期間佐貫城に滞在していたことも分かっている。

 その後、無住の城だったが、家康の江戸入部に伴って、徳川の譜代格の小大名が入部する。

 佐貫城の全歴史を通じて戦場になったことはない。

  江戸時代以前の佐貫城(小川試論)

 称名寺の佐貫資料に「太田山城」(注:「太田山」は田んぼに囲まれた独立丘のことで普通名詞)の名がある。これが佐貫城だとすると時代はもっと古くなる。さらに松平重治の書いた岩富寺縁起に時代が不鮮明な「籐政信が鐘を寄進」した記事があり、「籐」姓に着目すると像法寺元弘3年銘の藤原信定の藤原氏ともども「藤原氏」は貴族の藤原氏ではなく下野栃木の藤原秀郷を祖と自称する武家の藤原氏ではないかという推定が成り立つ。

 佐貫城は鎌倉時代までは無理かも知れないが室町時代の初期に鎌倉公方体制の中で足利氏・藤原氏などの栃木の大大名が鎌倉公方の名の基に築城した公共物だったのではないかと言うことである。鎌倉公方体制下での房総大名配置は下総は千葉氏、市原以北だと上杉氏、南房総だと一色氏などが上げられるが木更津君津郡地域の大名ははっきりしない。私は足利・藤原氏だと考えている。

 下克上でのし上がってきた房総武田氏や里見氏は佐貫城がそこにあったから利用したに過ぎず、しかもその使い方にたいした情熱は持っていなかったと思われる。

 佐貫城は江戸時代になって徳川家に発見され、内藤氏を始めとするキャリア官僚(であるからほとんど江戸詰め) の居城として機能した。しかし、松平重治だけは佐貫町および佐貫城に異常な興味を示した。なぜなら松平重治は高家の品川氏の出であり、品川氏とは今川氏であり、足利氏だからである。

 松平重治の失脚の原因は、今川氏足利氏などへの接近しすぎが問題視されたからではないのか。

   佐貫城の設計(なわばり)

 佐貫城は専門家から見ると古風だとか自然地形を利用したざっくり形の城だとか、くそみその評価である。しかし、素人が見るとそうでもない。

 現在の道に沿って説明すると、まず大手門前から三の丸の端を通って二の丸の高い崖を左に見て二つ目の虎口の手前右側の崖下は明らかに竪堀である。明瞭な竪堀はここ1箇所だが、二の丸東端など探せば他にもあるかも知れない。土橋のある横堀は、左右共に畝掘り(障子掘りともいう。高低差のある水堀のダム状土手構造みたいなもの。空掘りに仕切りがある形)である。

 土橋のところで左横堀の下に降りて堀沿いに進むと上り坂になっていて左右の崖も高くなり、ドンづまりは高低差3mくらいでスパッと切れている。通常の横堀の終端ははっきりしなくていつのまにかなくなっているような終わり方が普通だが佐貫城はバッサリと切れています。切れた崖の下は周囲が岩の高まり土塁のようになったテラス構造で、その下は三の丸の一番奥部となっており、テラスはここを見下ろす形になっています。

 土橋の所から右に横堀を通って行くと、こちらは絵図などで帯郭と総称される平場に出ます。現在は畑になっている。こちらには岩のテラス構造はないが、本来はあったのかも知れません。

 岩のテラス構造は箱堀と云ってこれは佐貫城の特徴の一つです。他に西北端の大堀切の下通路にこの構造があり、こちらはテラスというよりバスタブのような通せんぼ構造で、そっくり似たものが岩富寺でも発見されています。

 本丸も変わっています。一般に郭の形は丸とか四角が多いのですが、佐貫城は崖が内側に湾曲した構造を好みます。本丸もそうですし、三の丸もそうです。

 本丸は内側湾曲がさらに発達して、北と南に半島状に突き出た構造を持っています。北の八幡郭と南の天神郭です。現在展望台にしています。半島状に突き出た構造は上総の城に特徴的で、佐貫城の他に岩富城、秋元城、久留里城、本納城などに見られます。あまり実用的とは思えない構造でどちらかというと祭祀の場であったような印象があります。

 八幡郭は方角がまっすぐに北を指していて、先に行くに従って高くなっています。北斗星信仰なのかも知れません。

 天神郭は、まっすぐに天城山を向いていて、なおかつ三浦半島の岩堂山と重なって、この方角は冬至の日没の方向なのです。こちらも先に行くに従って高くなります。

 岩富寺と松平重治    小川 伸

 岩富寺は国道127号線の小山野トンネルの上にあるお寺です。現在無住でお彼岸やお盆の時、また観音ご開帳、薬師如来ご開帳の時だけ開きます。檀家は二十数軒とのことできびしい状況が続いているお寺です。

 岩富寺の昔を偲ぶ写真は、この2枚だけです。仁王門(現存)が写真ではトタン葺きですが本来は本堂のようにかや葺きだったことでしょう。本堂は終戦間近の昭和20年8月にアメリカ軍空母(九十九里浜沖)から飛び立ったP51ムスタング戦闘機により銃撃され焼失しました。佐貫小学校から大貫方面で民間人を狙って攻撃した一機と同じパイロットではないかと考えられます。戦争目的から外れた遊び半分のにおいがします。
 現在プレハブ仮本堂に、仮本尊(千手観音)と薬師如来が収まっています。

 この岩富寺、昔の姿を記録した絵図面が残っていました。宝永元年(1704)に岩富寺中興の祖、秀快が残したものです。

 中央部の本堂、仁王門、「寺」と表現されている客殿、庫裡の部分です。ここだけでも面白いものが見つかります。


 「朱門」これは貴人専用の門です。隣に「うら門」。裏門ではなく、盂蘭門でしょう。仁王門の隣の丘の上に「かねつき」。そして「大塔址」。これはかって多宝塔のような建物があったことをうかがわせます。この丘の北側崖に「太子堂」。現在浅いほこらがありますが、多分、岩富寺開山記にある聖徳太子手彫り観音像を祠におさめて祀った場所ということなのでしょう。朱門を通って左側に門番小屋がありその奥に「あかい」とあります。仏に捧げる閼伽の水を汲む井戸ということでしょう。

 その他に「門」と書いていますが、いわゆる三門でしょう。「いんきょ堂」、「石とうろ」、「てみづ?」、「大黒処?」などの文字が見えます。

 


 このように大寺の様相を示していますが、絵図面には、回りに、奥の院、白山社、天神社、春日社などを祀り、北側には滝が流れ、聖徳太子が護摩を焚いたとされる馬王台古跡、何らかの宗教儀式跡と見られる花立てなどの書き込みがあります。


 さらに仁王門前から、富士、箱根、天城、駿河、伊豆、相模、武蔵が展望できると誇らしげに豪語しています。

 岩富寺が大寺になったのは、徳川家康が江戸に来て最初の佐貫城主内藤氏と次の城主松平氏の庇護と支援があったからであると思われます。実際岩富寺文書中に、内藤家長、松平勝隆(=重治の養父)などの寺領寄進や安堵状が残っています。(中興の祖とされる秀快も岩富寺略縁起を書いていますが、内藤氏、松平氏の支援には触れていません。「略」と断ってあえて無視したと思えます。)

 松平重治署名入りで自筆と思われる岩富寺縁起冒頭です。(佐貫勝隆寺に伝わる松平重治の書とされる紺紙金泥三部経と筆跡が似ている。)

 いわゆる和製漢文でもちろん句読点、返り点など一切なく、しかも出てくる漢字が漢字辞典・くずし字辞典にもないようなしろものが非常に多いですので書き下しは最初の数行のみで頓挫しています。

 「夫レ、天下ヲ安ンジ泰山楽ヲ招キ、国家千余年、忠倌威力、真助主将、仏陀神明、是ラヲ併セタル者ハ、縁閣浮樹ノ南、葦・茨ノ生エル地、上総路天羽郡大貫荘佐貫城の艮(うしとら=北東)ノ岳、真言密門古道場妙覚山岩富寺十躯観音ハ、浄キ聖者用明帝ノ第一太子聖徳ノ作ル所ナリ。」

 後は筋道だけですが、聖徳太子の尊像彫刻の過程を、「まなじり、首、手の形を従来からの取り決めでなく仏師を近くに召して自ら仔細に指揮した。」救世観音の化身である聖徳太子は多くの奇瑞をあらわされた。次に斉明天皇の治世下で祭壇がつくられ、次に聖武帝の御世では僧行基が活躍、多くの伽藍が造営された。特に楼門の二躯の金剛力士は圧巻であった。この像は幾多の自然災害に耐えた。次に清和帝の御世では慈覚大師が活躍、荒廃した諸堂を新築。

 (足利義政の時代か?)藤の政信が円堂と鐘を、正重が鰐口を寄進した。天文13年8月18日に夜盗が侵入し、財物を奪い各所に火をかけた。諸堂は燃え尽きた。ところが十躯観音像と金剛力士像は全く無傷であった。この奇跡にその後の歴代の諸地頭は感じ入り寺領の安堵を常例とした。中でも従五位下出雲守源朝臣松平勝隆信篤(松平重治の養父)は尊像保全用にと年11石を永代分附料として加えたのである。

 その後話は一転。松平勝隆が寺領域を見て回って感じた景観と仏徳の共感を六朝風の美辞麗句で叙述する。いわばパワースポットガイド。(今現在読めていませんが)字面で想像するに、周りが荒涼たる藪なのに一角だけ草が生えない。巨大な亀の甲羅のような蓋がある。龍が跋扈しているような巨石がある。白山社(境内神社)のそばに滝が流れている。堂回りのヒノキやスギは百尺を超え樵の斧や橇は錆びついている。蒼海の小久保浜は澪標が光り砂の中の雲母がきらきらと光り千朝千夕富士峰を見る。富士は雪をいただき波の上に紅葉を望む。白雲に白帆の舟が行きかうのは千の花が風に会っているよう・・・・・。

 ここで巨亀の甲羅のような蓋とは佐貫層の一枚岩の骨堂跡の台地のこと、また龍の巨石は本堂裏の丸い岩だと思われます。瀑布跡も発見されています。海の描写が小久保浜になっているのはちょっと解せません。岩富寺から小久保の浜は見えません。かなり格調の高い美文ですので注意深く読み下し佐貫を紹介するキャッチコピーに使いたいと思っています。  

 また内容で注目は、岩富寺は密門の古道場で、佐貫城の鬼門にあたる寺、すなわち佐貫城の守り寺という定義です。その霊力の根源は、天文の夜盗の放火に耐えた聖徳太子作の十躯観音と金剛力士にあるということです。

 松平重治自筆の岩富寺縁起末尾部分です。縁起を四言詩で結んでいます。写真スペースの関係で途中から披露していますが、その冒頭に「堂前海開、寺後瀑悠、潮発梵声、水潔・・・・」と読めると思います。私はいろいろな縁起についての知識がないので断言できませんが、縁起に漢詩が入っている例は珍しいのではないでしょうか。しかも四言詩というきわめて古風(三国志の頃までで廃れた)な形式なのです。


 この漢詩はおそらく重治の養父である松平勝隆の作であると考えられます。松平勝隆は江戸幕府初代の寺社奉行(天海僧正の死去と共に彼のやっていた業務の後釜として寺社奉行職が創設され、松平勝隆とさらに一名が任命された。月交替で勤務する。)で多忙な生涯を送ったであろう人でありますが、この人は佐貫鶴岡の浅間神社の縁起も書き残しています。(松平勝隆の墓は佐貫にある。)

 エリート官僚の行動に似合わない、客観的に見て何の縁もゆかりもない単に年貢受け取り地の片田舎町佐貫の寺社へのこの熱い思い入れは何があったからでしょうか。松平重治もしかりです。この人は品川(=今川=かっての足利将軍家の一門。江戸幕府では儀典を統括する高家筆頭)氏の出で、四代将軍家継とは母方のつながりの従兄弟同士であり、勝隆に請われて養子となり、名門久世氏から嫁をもらったという超エリートですが、養父に次いで寺社奉行にはなったが、あえなく失脚。会津藩お預け中に断食自殺。従って墓は会津にある。

 問題なく勤めあげれば、京都所司代、大阪城代から若年寄、老中への道もあったのに何が起こったのか。この頃の佐貫町は間違いなく日本史級の事件の渦中にあった土地なのです。

 注:寺社奉行は、全国僧侶神官の取り締まり、全国寺社領の領民のトラブル裁定、全国宗教政策の発議などを行う。2名から4名が任命され、月番で交互に勤務する。開門の月に懸案受理し、閉門の月に審議する。寺社奉行はこれにほとんど奏者番(諸大名が将軍へ挨拶する場合の作法全般指南役)を兼ねるので、その権威は抜群であり、例えば国持ち大名や、場合によっては御三家当主に対しても「その方」と呼び捨てにした。役所は自藩の江戸藩邸となるため、寺社奉行になる資格のある譜代大名(二万石程度の小大名であるが)の江戸藩邸は石高に似合わず広大な敷地が与えられた。例えば後の佐貫城主阿部氏の江戸藩邸は上、中、下の三箇所の屋敷藩邸が与えられていた。まあしかし残念ながら阿部氏は天保年間に佐貫百姓一揆を発生させてしまい、多分その影響であろうが江戸城諸門警護や将軍日光社参時の警護など武官的閑職にしか就任できなかった。

 岩富寺縁起の活字化全文

 上総国天羽郡妙覚山岩富寺本堂
 十躯観自在尊記

夫安天下招泰山楽国家千竟年併是仏陀神明
真助主将忠倌威力者乎爰閣浮樹以南葦荊
生地東総之上州路天羽郡大貫荘佐貫城之艮岳
真言密門古道場妙覚山岩富寺十躯観音浄
聖者用明帝第一太子聖徳所作也包舎五智以
起作智開豁七明以彰功明不假眦首手亦僕近召
力運行威声手自所刻彫之尊容也聆胄思何
優填之刻檀擬似広伝之壓篋者乎此斯例國
者上古代所親良之中古年々聆威民之初也
故古住寄此山者墺曾聞太子者救世菩薩化身
家立西方矣堂化招震旦宝塵招日拭位立儲
君政柄諸法燕翼万性翔翎三宝皈句㮇仁依
怙観立諒有聆以者也越浄聖者枕月首天露払
里地載溢前門偲澤潤三界乾池湘字之宝理不
可得而以深其根吃唎之種同无所有而以堅真
帯割連華呈開示悟入印風指稔貪慎癖慢赦
業偲之株枕生菩提王樹毛量衆生何其拾諸
矣或時携二箇宝輪与二厳福智惑時現仏母而
以制頽令興子孫而以除衆病化生十一面尊顔
降伏一十面鬼神勝利十種者満現母之諸私功
徳四種者得後世之安楽矣加護蒼生念□
馬之水草以済勅命元羅衆鳥之索綱千手以
生千代輪己千眼以化覧劫千仏柳枝輪宝起
蓮摩尼標三摩邪以令成満一切番地以
比施无畏者也者願風翔海表威窮行鬼区
擁護佐貫城之鬼門安鎮大貫荘之人畏惑束
鉞斧以敺除摩痩眦舎闍必退剛痺必斃
或帯弧失以調伏諸鬼富単那必赦赤痩
忽去楊雄何得心白猿應棹頭太子維云
草秣高業未央唯有尊像未有玉嘛草
虞僅遮雨松蓋打頷露而巳遂則以斉
明天皇六年庚申恭下斉明詔獼仏奉築
檀竈金巖徹道當構左成矣重誉昼閣
擘天皇覺太虜无填咸十箇尊像耀殿
是知慈光照輟通左安上富尊容右指老
翁遺像全敷屋崎浦玉階極剖躔院灰
管屡移柱楚漸須同慈聖武帝御宇宙
天平六年申戌行基菩薩之袖工竣宇寿
復古制誠王畿鬼々而建精舎諸州往々
而興伽藍基久往事行化故乎文手作
二軀金剛力士以安楼門左右□双眼睥睨
而以照破龍□之□明二口張翕而以清耳
蓮舎之充味久小雨勅壊大石落峯□
猶楼門成雷逎揺力士為震而充揁
充減矣人云是力士金剛□智力也旦亦
清和帝之世貞観九稔(「年」か?)丁亥慈覚大師
送篤献新功興廃成尊構比二師儻
元棟石之業何出古旦今乎藤之政範
円楼上之供鐘藤之政重形模宮懸之
鰐口旹天文十三(干支の記載がない)暦秋八月十有八夜盗
賊入堂放火非徒薪可防徒陵沈矣而
亦火坑変成池沓十軀遺像二体力士不
焚不□不崩不□与山寿而千有余年
千此奇哉々霊験豈尋常感応亦掲
丐不移□而□草堂□令奉尊栄遷
矣又後有神師山寺大医王善逝鎮座
鬼軍茶利狗々列□地也神異船在矣泰
寄付天下之饗聞卒石割瑞祥永代之御
朱印章者也又□先考従五位下出雲守
源朝臣松平氏勝隆信篤近義仁汎電流
厥爰仄加而充胡越蕨吉威収而分浬渭
門抱忠孝外綏貴賊聆以□為天下安
全国家量饒割松墾田一十石以附此
岩富寺以期永代者也□亦分附料田加
父道是立本務本而巴幾星霜飽繻
宮藪荒涼狐雲入康伴古仏□苔上
階近山僧有信者誰不草之乎□幸食
此州之地以故塵繪時一啓庀徒揆日當
建之百年委任有司加璧処工近施財
梠薄夫右木功不同而成暫□永逸以
山之鳥状也加有含蓋之六似観霊数蓋□之
巨亀以為軽□高数蓋以不重蓬莱
見応宣観音大士之堅座以東南横峯
綿々而龍艮坤石巖而跋扈其
為勢也昇可成傳流之霖雨其為威
也暑応生□舜之南風小山索腰大
岳□肩襟大鐡帯七金左白山之嶽右
管相之広前音充盤石後瀑布璧流石
惟非地産自金輪際万牛詎動水惟□
山出自阿褥達九鳥正与涸千載松梢統
昼堂立百尺桧杉橇□雲□秋愛
仙繭子黄菊春対□草之白花孤岸
真趣以遠致近鷲嶺埼絶以尊嘲早
西旆望小久保蒼海渺花國□碧宴
澪標終水光椄天月色照砂虚吸万
里吐納霊潮或徃或復千朝千夕見(「富」抜け?)士峯
素雪枕□波上望袖鈰紅葉招白雲外
行舟揺以軽走皈帆飆飄颻以千花相風
松流雨張載洞向洪海観慈意之弘誓
見行舟念淵子□救済不暇千眼万里目
前不用子足万境脚下心不行而行境不
来而来心昼巳在此栄観不在外観音
大士鳥首回蓮眼喜色啓玉歯毗蘆身
古観音心□山幸海事興余不可楼院
富楼那舎何在呼似聞千手千眼大悲
心陀羅尼考踊一宿招子遍滅万劫之重
罪世間希望出世果報悉満願云故□
手染以番寫俵戸板上此研滴者攝
列四天王寺亀井清水也旧歳有別事以
令運載此地余瀝今猶在小甁中幸衣里
傭之本尊兼亀井併得太子聆成也不譩
而時節胸合不円而回得函蓋□豈非
妙智之力乎興優積吾累世栄子係深
信余薫種年握人民識見鎮護国家
仏閣也綏□記无頌不慶賛乎

   其辞囘(以下四言長詩。早くに廃れたが断片が四言熟語として残る。縁起・棟札などに
仏閣臨渚   密多法舟           使われる。50年差だが同時代資料としては、
景星挿棰   祥雲庇桴           方広寺梵鐘銘。)
民昇善仰   尊而滝留
供器□粛   什物好述
沙字指諦   紀唎消憂
普門徳澤   十界等流
悲骸制赦   慈意翔彪
割蓮呈性   見果釣幽
傭祖浄聖   朝霞□□
二口力古   監梅阿吽
堂前海滴   寺後瀑悠
潮発梵響   水潔□□
古峰獣雪   神□巻□

索丹花□   凝青蓮眸
清風□幌   □相勤□
妙智己得   摂化自由
柳営幕下   关政峡謳
武運北極   寿拭□洲
貴子蕃衛   □岡□立
諸臣忠孝   充殿充州
吾家弥監   子孫益凋
武威法宝   寿齢羅浮
上□下憧   □徐福修
覚若□啓   心若□操
黎元息□   類親多寿
榖畫六禄   油漲九□
遍及薇善   悉酒願求
旦嗣蓋載   言創千秋

 願主従五位下山城守源朝臣松平氏
 干時寛文十二壬子念八月十六日
        重治□□之

 幻の上総安国寺を紙上再建する   小川 伸

 安国寺は、鎌倉幕府滅亡から始まる建武新政、南北朝動乱の中で散った幾多の人々の霊を弔うため足利尊氏が全国に建てた臨済宗禅宗寺院です。夢想疎石の献策(京と鎌倉に五山を、各国に安国寺と利生塔を建てるというもの。各国安国寺の総本山的な寺院が京都天竜寺で、この建設費用を賄うため天竜寺船を仕立てて日宋貿易を行った)によるものです。


 上総はどういう訳か佐貫の地が選ばれ、旧来からあった亀田の新善光寺を改め拡充して上総安国寺としました。(ちなみに上総利生塔は市原の眼蔵寺に建てられた。周辺国を一覧すると、安房安国寺は鴨川大山、利生塔は、大山不動に、下総は安国寺が今は茨城県になっているが古河に、利生塔は大栄町大慈恩寺に建てられた。)


 現在の上総安国寺です。屋根の頂部写真では丸しか見えませんが、二引両です。これだけが足利家とのつながりを示しています。当時のものと伝えられているものは、本堂正面の植え込み囲いの一部に使われている建物の(伝)基礎石だけです。下に、写真を載せておきます。丸く整形されたものが基礎石です。


 この石は伊豆石と見られます。結構大きな石もあり、建物の大きさが偲ばれます。この基礎石は、現在の富津市水道部の敷地から(戦後に耕作地にするため邪魔だと云うことで)掘り出されたものです。おそらく寺の中心的な建物、例えば法堂(はっとう)だったのではとの想像がつきます。


 それ以外の建物、例えば三門、塔頭、庫裡、客殿、鐘楼、食堂(じきどう)東司(とんす=トイレ)などがどこにあったかについては、その伝承すらありません。


 そこで、現在の地形に合わせて建物の位置を想定し、紙の上で上総安国寺を再建してみましょう。

 禅寺は古代寺院のようにがっちりした規格がありませんが、主要な建物がおおよそ南北に連なる傾向があります。そしてもう一つが庭園です。特に夢想疎石は庭園に淫すると言われるほど庭園を愛した人ですので、その人の発議で造られた寺院に庭園がなかったなどと云うことはあり得ません。(なお、夢想疎石が佐貫に来たという形跡はありません。)


 疎石の庭園とは、石を組み上げて崖を表現し、また細流を導いて小さな滝と小川、そして大きな池を配して、池の中には島などを配するものです。そしてもう一つ忘れてならないのが、滝を造るために、また庭園が強風にさらされないために、庭園は窪地に造られると言うことです。(もし平地であれば回りを土塁で囲んで窪地とする)


 幸いにも、富津水道部の東側はかなり大きな窪地であり、ここに北上川の水を導けば立派な滝が造れそうです。(北上川=きたがみがわは、岩富寺の山下の堰谷=せきやつから流れ出る西向き細流で、稲子塚あたりで南に曲がり、佐貫小学校の北で二股川になり染川に合流します。)


 と、いうことで再建したのが下の地図です。

 現在の佐貫町へ向かう道路のすぐそばに、三門、そして水道部の位置に法堂そしてだらだら坂の上、現在の安国寺の西隣に庫裡や客殿を配しました。三門から客殿まで直線で約300mあります。また客殿の東側(稲子塚という字名のところ)に大きな庭園を配しました。
 地図に鐘楼を入れてありませんが、鐘楼はこの地図のすぐ西側の通称御殿山の頂上に配しました。


 紙上安国寺を配した地域の現在の状況です。東側から西を望んでいます。左の白亜の建物が富津水道部すなわち古(いにしえ)の法堂です。中央ビニルハウスあたりが庫裡、客殿、手前の植え込みあたりが窪地でここに庭園を配したわけです。

 写真右端に現在の安国寺が見えます。

 


 鐘楼を配した御殿山の下に掘られた素掘りトンネルです。このトンネル、後世に造られたとすると目的意味が分かりません。何らかの宗教的意味があって安国寺が現役だった頃に造られたものでしょう。この岩は凝灰岩ですので、鎌倉の禅寺の奥庭に似た景色となります。

注1 全国安国寺の立地を調べますと、足利尊氏ゆかりの地が多いのですが、佐貫は尊氏との縁が希薄です。代わりに佐貫は、藤氏、藤原氏の縁がわずかにあります。(藤氏は松平重治の岩富寺縁起に鐘寄進として出て来ます。藤原氏は像法寺に残る元弘三年宝筐印塔に藤原信定とあります。)この藤原氏は平将門を倒した藤原秀郷を祖とする武士の家系で、平安時代の末期には源氏の足利氏との数代の婚姻で結ばれほぼ一体化しています。

注2 足利氏から佐貫が選ばれたもう一つの例があります。戦国時代末期に関東公方の足利義氏がその実態を失って古河を離れ、ごく短期間ではあるが、佐貫に移座しました。この時の住居を普通は佐貫城か里見氏ゆかりの屋敷などと考えますが、上総安国寺だと考えた方が妥当に思えます。その頃安国寺がそれなりに存在していたからこそ、足利氏によって、移座の地として選ばれたはずです。

注3 上総安国寺は、しかし、古文書にはほとんど出て来ません。例えば戦国初期の佐貫が書かれている称名寺文書にも出て来ません。

 鶴峯八幡宮の旧社殿   小川 伸

 大正年代までの鶴峯八幡宮です。
 昭和6年に、現在の権現造り様式の神社に建て替えられました。それまではこのような茅葺きの建物だったのです。


 写真が不鮮明ですが、神社の手前に4本の大きな松があり、奥に拝殿、さらにその奥に本殿が見えます。本殿は千木はないが、茅葺きで、両端に棟持ちの太い丸柱が外に露出している形、伊勢神宮のような形であろうことがかすかに推定されますが、全体的な印象としては、古い村の鎮守の神社だな、さえない感じの神社だな、と、思えます。

 ところで、手前に写っている小さく見える拝殿が、実は現在も残っているのです。上の写真の拝殿と本殿の屋根の見え方に着目しましょう。


 人の背の高さくらいから仰ぎ見る形で撮っているのに本殿の屋根が高く写っています。この屋根の関係を記憶しながら次の写真を見て下さい。

 現在に残っている旧拝殿、今は境内末社のひとつ淡島神社として移築されている建物です。ご覧のように結構大きな建物です。神社としての装飾が殆どなく、壁は板壁で、角柱で釘を使っています。粗末とは言えないが素朴な建物です。しかし、柱などは杉や檜ではなくけやきに見えます。


 そして、旧拝殿の高さですが、今の拝殿の高さと遜色がない高さを持っていることが判明しました。次の写真にいきます。

 現在の拝殿です。後ろに本殿があるのですが、現在の建物では、拝殿から結構離れて撮っても本殿の屋根は見えないのです。ところが、昔の写真をもう一度見てみましょう。本殿の屋根が高々と写っている。


 これは、本殿の高さが尋常でないほど高いことを意味しています。おそらく20mを越える高さがあったのではないでしょうか。


 旧本殿の高さについて一つの考え方があります。それは、社殿と一緒に新造された大幟柱の高さです。この幟柱は最近まで現存していたのですが、その高さは(上部のかんざしを含めて)24mでした。幅1.8m、長さ13.5mの大幟のための高さが必要ということもあったでしょうが、旧本殿の高さの記録なのではないかということも大いに考えられることです。

 以上の条件を入れて昔の鶴峯八幡宮を再現してみました。茅屋根の千木の代わりに弥生時代の巨大建築大阪の池上曽根復元遺跡に似せた屋根飾りをつけました。また、本殿の左右に太い棟持ち柱を置きました。そして回りに回廊を設けました。回廊の高さは地上から3mくらいとし、いわゆる高床式掘っ立て式の建物です。


 拝殿と本殿とのつながりがどうなっていたかは写真では分からないですが、現存する拝殿の後ろ側の柱に埋め木したほぞ穴がありましたので、幅約4mの屋根付き階段の存在が推定されます。


 現存している拝殿の板壁構造は、古船浅間神社の拝殿や、岩富寺仁王門のものと良く似ています。古船浅間神社の社殿は江戸時代中期に八幡舟端の宮大工錦織氏の作ということがはっきりしていますので、これらの建物は、佐貫地区に古くから伝わる伝統の神社仏閣形式ということになります。


周辺の神社が次々に画一的な権現造りになっていくのを尻目に、八幡の鶴峯八幡宮だけは古式にこだわり昭和時代まで引っ張り続けたということは、伝統に対する強いこだわりがあった上でのことなのでしょう。
下に、古船浅間神社の拝殿から本殿への柱や板壁の状況の写真を掲載しておきます。

 

 八幡(新舞子)松原

 現在の新舞子海岸には自然松は1本もありません。しかし、昔は根上がり松の名勝だったのです。古写真で、その全体像を紹介します。

 今の新舞子海岸中央突堤です。この突堤に上がって松原を撮影するという意識は昔からあったようで、古写真が数多く残されました。

 知りうる限り、この突堤は、寸断、傾斜などいつも壊れている状態で写っています。なぜそうなのか謎ですが、これについては最後に触れます。

 さて、突堤に上がって新舞子松原を右から左へと撮影します。古写真ですから、時代は同時ではなく最大50年の時間差があります。遠景の松原写真を示し、さらにその中に入っての古写真というかたちで並べますが、この時間差も最大50年であることを断っておきます。

 写真は海水浴中のお父さんが主役で、砂の渚にジープが停車(木更津駐屯の米兵)しています。注目はその上、わずかに森が見えますがこれが新舞子海岸中央松原。現在の駐車場です。

 中央松原の中で写した集合写真。某家の従兄弟会です。時間差は、従兄弟会の方が約10年新しいです。
 新舞子で松林と富士山を同時に撮るとすれば、場所はここ意外にない。松林を対角に見通して北西にカメラを向ければ、松林越しの富士山となりそうですが、今のカメラならともかく、昔のカメラでは至難でしょう。だから新舞子松原越しの富士の写真は1枚もありません。

 中央松原から少し左にカメラを向けると鳥居崎の双丘となります。この写真は実は中央突堤から撮ったものではなく、おそらく沖合停泊の軍艦の望橋からのものだと思われます。

 昭和30年代ですから先の写真から50年くらいの時間差があります。観光ポスター目的で撮られたものと思われます。シャッター速度が遅すぎて動いている人物がぼけてしまいました。しかしなかなか良い写真です。

 中央突堤のカメラをさらに左に向けます。昭和10年代の絵はがきです。中央の瓦屋根は別荘です。その垣根に注目しましょう。まず磯根石(磯根崎から転がってくる凝灰岩巨礫、穿孔貝がほじって穴だらけになったもの)の石垣、その上に灌木(ツツジか?)帯があって、竹垣があって、その奥に防風目的で篠竹を立てに密にならべた篠竹垣根となります。

 新舞子垣根と命名しておきます。上の松林は、鳥居崎左(北側)の丘です。

 鳥居崎左(北側)丘の上の女子会集合写真。昭和28年。新舞子写真で一番古いカラー写真です。これも観光ポスター目的かと思われます。フレアスカートに下駄履きの女性がいます。 

 中央突堤のカメラをさらに左に向けます。鳥居崎からの松並みは篠竹っぽい林に変わり、さらに左に大きな松の木が数本見えます。この大きな松林を字名を取って浜屋敷松原とします。昭和10年代の絵はがきです。

 その浜屋敷松原の中で撮ったと思われる制服でない行灯袴の女学生(小学生から女学校まで。季節は真夏の正午近く。それなのに男性教師は三つ揃いの背広に、山高帽、ネクタイに襟を立てた姿)集合写真。ここにも、磯根石の石垣、灌木帯、竹垣が見えます。さっきの写真と違うのは篠竹の砂防垣がないこと、椿、槇がみえることです。時代がわからないが、明治43年頃としておきます。(絶対男性社会で校外授業など思いも寄らない当時の女学校事情、交通事情から常識的に判断すれば明治43年はあり得ないのですが・・・・・諸般の想いがあって・・・・・。筆者が調べた限りで女学校の校外活動で一番古いのは、大正前期にフェリス女学院の鎌倉遠足、昭和一桁時代に日本女子大富津海浜寮と言うのがあります。)

 以上、新舞子の松林は、中央松原、鳥居崎松原と続き、篠竹の密生林があって、浜屋敷松原、その左は椿林に代わって、さらにその左(北側)は安部公房「砂の女」のような蟻地獄様式穴の中の民家となって行きます。石垣・垣根は先に紹介したとおり。

 新舞子の松は西向き海岸段丘の立ち上がり斜面にあり、その特徴は、根上がりが多いこと、これは佐貫層という地質に関係しています。さらにひょろ高い松が多いこと、下草が生えず、実生の松が生えて、渚に近く白砂青松である点などです。これらの特徴は風の強さに関係しているようです。入り江でないわりに風は弱く、流砂が弱いが、砂が固定的でもない、という微妙な風を作り出しているのが鳥居崎という微地形です。標高30m、直径200mくらいの双丘ですが、西南風、北風の通りを制御して周囲1km程度の特殊地帯が出来て、そこに松が寄り添ったということでしょう。

 松は戦前から枯れ始め、まず浜屋敷松原がやられ、鳥居崎、中央松原と続いて全滅、昭和40年代に絶滅しました。全国的に流行した松枯れのひとつなのですが、ただ、新舞子の松原に限ってですが、絶滅の原因は自然の摂理というより、人為的な圧力の影響が大きかったようです。戦前では食料増産のための耕地化、戦後は駐車場化です。今現在は、鳥居崎双丘に椿が自生しているばかりで、他は住宅、駐車場です。

 鳥居崎双丘が歴史古紀行文に出て来るのは、まず延宝2年(1674)の水戸光圀「甲寅紀行」。小糸川を渉り、相野谷、佐貫城下(当時の城主は松平重治)、八幡(新舞子)、海岸沿いに湊へ抜けています。新舞子とおぼしきところで、「此処に出船入り船の岩あり。(ここから見えるのは)ふっと村より、向地の洲崎より海の中へ出洲あり。上方道二里半ほど出づるなり」とあり、「出船入り船の岩」とは、鳥居崎の双丘に違いないです。見通せる景色の状況、昔から灯明台があって船の目印的な地形であることなどからそう推定できます。


 さらに、もう一つの紀行文「上総日記」。著者は御鷹匠同心片山賢。天保3年(1832)。旅の目的が不明ですが、地域の寺社、歴史、飯野古墳群特に内裏塚古墳に非常な関心を持っています。
 常代から、小久保、海岸沿いに八幡(新舞子)、海岸沿いに長浜、湊、竹岡、金谷、戻って八幡、佐貫城下、常代と一日で徒歩踏破。新舞子で「・・・・松山あり・・・・」となっており、この松山は鳥居崎にちがいないのです。

 最後に、中央突堤について。
 すぐに壊れるようなところと工法でなぜ突堤を作るのか。おそらく沈んでいる石を土台として突堤を作っているのでしょう。その目的は網を仕掛ける漁船に対する目印ではないでしょうか。
新舞子は地引網が盛んだったのですが、その場所は突堤の北側のみに限定されていました。突堤の南側は、海底が磯がちで、網が磯に引っかかり地引が曳けないのです。この磯の正体は、どうやら切り石らしいのです。

 海に沈んだ切り石ということになると、現在鶴峯八幡宮階段の両脇に据えてある御影石、通称とうふ石(推定重量13ton×2個)もそうで、この石は大坪浦に沈んでいたものを佐貫の阿倍の殿様の肝いり(五代房五郎=阿部正実(まさざれ)公初入部記念事業)で住民が引き上げ奉納したとのこと。江戸時代天明元年(1781)の話しです。仲間の石があと二個、大坪浦に沈んでいるという古文書(富津市史)が残っています。そして実は、新舞子鳥居崎の前の海底にも、数個の切り石があるらしいです。一時引き上げを試みたが失敗し、そのままになっているということです。

 これら多量の切り石は、沈船の積み荷だったと思われます。石の本来の行き先は江戸城。すなわち徳川家康から家光までの三代にわたる江戸築城で、家光将軍の時代、慶長11年(1606)に大きな台風で加藤、黒田など西国大名の石運搬船が数百隻、江戸湾で遭難した(徳川実記)というその石の一部であるという可能性が強いのです。

 

 最後に、現君津市本郷の有力者が作った口ずさみ、歌念仏「いわとみ」を紹介します。時代は明治初期とのことです。(君津市史収録。一部加筆)

 佐貫の歴史的名所を岩富寺からスタートして、佐貫城、佐貫町、安国寺、鶴峯八幡宮と詠み込まれています。


「奇妙頂礼岩富の大慈大悲の観世音鹿野に続き山高くはるばる登りて眺むれば佐貫屋形に打つ太鼓繁れる松のなお構えに春は霞のたなびきて軒端並ぶる御城下は国に稀なるご繁盛町のお茶屋は夜昼と三味や小唄でにぎわいし西木戸を出ずればまぼろし安国寺鐘が響いていんいんと後醍醐帝無念の想いしのばるるはるか向かうを見渡せば海に朝日の輝きて八幡の森に宮柱太く立てしな御山よ氏子十三村々で古き鎮守の霊地なりげに有り難き岩富のいとも尊きご利益はその数あまたと聞こえたり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」