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小説「風雲佐貫城秘聞」その2

 11.評定その2

 慶応四年二月。この時点で、薩長連合の密約が公然周知のこととなり、鳥羽伏見で徳川正規軍が敗退し(錦の御旗が出たことで慶喜の戦意が失われた)、慶喜が江戸に逃げ帰ったことが分かった。薩摩・長州をメインにした新政府軍は王政復古を宣言、征東軍が組織され、徳川の存続も許されない雲行きになった。相場の解説した慶喜の大バクチは完全に裏目に出たのである。征東軍は間髪を入れずに東に進軍を開始した。

 この時点で、佐貫藩は二回目の評定を開いた。今度はお城の大広間、藩主着座。論客は前回と同じく相場と長岡。藩主及び重臣、大勢の意向は前回と同じく「恭順」であった。

 「相場様の論は、機械仕掛けのように、ああなればこうなる、こうなるからこうするばかりです。我らのおもい、情のやり場をどうするのですか」と、長岡。「思いや情で佐貫藩の舵取りは出来ぬ。それに機械仕掛けではない。大方針は申した通り天下でも徳川でもない、ひたすら阿部家の安泰だ。これが情で、これが出発点だ」、「機械仕掛けの論が破綻しているではありませんか。相場様は薩摩長州が連合しないと申されました。今や、薩長連合。徳川を攻める名分がないと申されました。今や、征東軍です。あなたの言はことごとく外れました。恭順して、はいつくばって、お家の安泰が得られるというあなたの論が外れない保障があるのですか。はいつくばった挙句に斬首、追放ではないのですか」

 「いや、安泰の保障はある」、「何ですか」、「言えぬ。大殿と私だけが聞いた秘聞だ」、「秘聞とは何ですか」、「・・・・・言えぬ、しかし薩長にも通じる充分なものだ。」

 「相場様、あなたは、薩長に阿部家なかんずく三河・遠州武士を売るつもりではないのですか」、「失礼ながらあなたは上総武士だ。天正十八年、本多忠勝の軍勢に上総武士は何の抵抗もせず、一日で降伏したという。あなたは、安城、三方が原、小牧・長久手、関が原で戦いぬいた三河武士に上総武士と同じことをせよというのですか!」、「わしは弱虫上総武士と言われて少しも恥ずかしいとは思わない。三河武士の先祖がえらかったどうかも知らぬ。仮にえらかったとして、あんたたちは関が原で戦った三河武士ではない。その子孫にすぎないのではないか。三河武士のやり方があるならわしは反対しない。しかし、やるなら三河でやれ、上総でそれをおし通す権利が三河さむらいのどこにある。」

 「・・・・・・」座はしんとなってしまった。またも長岡の負け。最後に藩主の御裁可。結論は「恭順」、しかし、藩士の中に若者ばかりでなく相場憎しの感情と、長岡のいう「阿部が売られる」が案外当たっているのではないかとの疑念・恐怖が残った。

 12.相場襲撃計画

 実は府馬清さんの「佐貫城秘聞」はここから始まっている。長岡と美斧はすでに物語以前からいい仲になっており、今日も逢引でうれしそうに北上神社(一二七号線沿い山の上)の裏へ。(と、百姓娘のような行動。もっとも百姓娘はこの時期忙しくて逢引どころでない)

 きりりとした勝気そうな顔、黄八丈の着物、どちらへ?の問いに「足と鼻の向くままに・・・」と答える按配。これじゃ上品が売りの城下町佐貫の娘としてまずかろうとデン助ない知恵をしぼって前項までの伏線をつけました。

 それはともかく。

 慶応四年4月。この頃の天下の情勢は、3月15日に江戸城総攻撃が命じられ、同日、西郷・勝の談判が続いている。同時に各地に官軍の別働隊(房総方面は薩摩、長州、備前、伊勢、大村、佐土原の雑多連合軍)が動き出した。むかえ打つ西上総地方は、主として江戸から逃げてきた旗本の諸隊が木更津に撒兵隊(さっぺいたい)として集結しつつあり、一部は船橋あたりで官軍と小競り合い中(ずっと負け続け)。また、木更津請西藩が藩主自ら先頭に立ち、講武所くずれの面々と林忠崇軍としてかなりの勢力に成長しつつあった。また、富津飯野藩は本家会津に合流すべく三々五々会津への移動の動きがあった。久留里藩は表立っては大きな動きがなかった。佐貫藩も恭順の藩方針のまま動かない。誠忠組の青年たちの憔悴がつのった。遅れて出れば結局林軍の指揮下もしくは旗本の撒兵隊に入らざるを得ず、友軍とは言えあちらは直臣、こちらは陪臣の身分上の整理が問題として出てくる。さらに評定の時、長岡、相場が使った上総武士、三河武士という言葉が、言霊となって、三河武士の自分たちが、前からは薩摩長州、後ろからは上総にはさまれるのではないかとの恐怖心を作った。

 このような時、相場ら積極恭順派の動きが、青年たちの感情を決定的なものにした。それは、藩の武器庫から誠忠組が鉄砲(四丁)を持出したことについて、これを問題とし、コンプライアンス違反として藩に訴えようとする動き、鉄砲を含めて武器庫自体を破壊しようとする動きがうわさとして広がった。そして、すでに官軍総督府から、藩主には「達書」が来ており、勤皇の証書(=降伏して将棋の駒のようにただちに官軍になることを誓う文書)を提出すべく命じられている、しかも相場がすでに返事の文案を練っているのだとのうわさもあった。

 とにかく青年たちは、ただ待つだけの恐怖に耐えられなかった。誠忠組はついに相場を暗殺して、藩論を一挙にくつがえすクーデター計画にとりつかれた。桜田門事件が想起されたかも知れない。天狗党処刑、日本全体の騒乱情勢などによって戦争を知らない子供たちが、戦争の準備という膨大な検討事項をすっぽかして出来る手軽なこと、見た目が派手なこと、「暗殺計画」に熱中した。

 作戦計画の場所は佐貫城東の牛蒡谷来光寺、十五名が集まった。主なメンバーは粟飯原八百之進、東条糺、長岡勇、玉井長十郎、岩堀隼之助、印東男也、青山半(正しくは「絆」の右半分の字です)など、佐貫藩の老臣、幹部の子弟が多い。そのことは幹部連中にも誠忠組を是とする空気がかもしだされていたことを意味する。一藩だけで戦いきる力はないにせよ、降伏後の談判を有利にするために、藩としてひとあて当たってみる手はあるのではないか、官軍だと子供だましのようなきんきらをつけて権威つけているが、中身は西国藩の雑多連合ではないか、内部ではさぞかし薩長がいばりくさって諸藩はめそめそ泣いているだろう。武器の程度だとてたいした差はない。いきおいだけでまとまっているに過ぎない。弱点をちょっとつついたら勢いがなくなり、勢いがなくなれば日本古来から官が賊に逆転する例はいくらでもある。江戸城が落城したとは言え、封建の世のたてまえはまだ生きている。官軍の命令に従う法根拠はないはずだ。相場に言ったら言下に「だめだ」といわれるに決まっているので誰も言わなかっただけで、本音は幹部連中のほとんどはこの折衷案。その空気が青年たちには十分に分かっているのである。

 誠忠組の勉強会ということで、この二年何度も来光寺で会合を持ったため、城下で三々五々青年たちが歩いていても別に怪しまれる気遣いはなかった。計画では誠忠組全員が参加することが強調された。武器は幕府軍の正式元込め銃四丁(藩の武器庫から無断で持出したもの)。銃の取り扱いについては江戸湾防衛会津藩との共同演習などである程度取り扱いは出来た。(ただし全員精通しているとは言いがたい。ただ撃てるだけ)とどめには刀を使うことにした。日時は4月27日午後相場の下城時。場所は大手門外で正面の御馬屋格子内に潜んで四人がねらうこととし、鉄砲の音を合図に残り全員が横道から刀を持って殺到襲撃する。

 ことが終わったら、ただちに阿部家菩提寺、坂の上の勝隆寺に集結、謹慎の意を表して「御届書」を藩主に提出。実際は竹の先を割って文書をはさみ、大手門前につきさす。(忠臣蔵でおなじみ。年月日が空白になっている)処罰するならして見ろという示威。その後は、藩の動きによるが、出来れば藩主をかついでただちに出陣。全員歩兵銃で武装。木更津の撒兵隊か林忠崇隊に合流。しかしこれは挨拶だけ、どうしても彼ら徳川旗本の中に佐貫青年が入るのはいやというのが本音。理屈でなく長年の鬱憤。ずいぶんと簡単に負けて来たやつと一緒にやれるか。俺たちはもっとうまくやる。したがって後面体制が整い次第、出来るだけ早く独立隊として行動することとする。

 ちなみに勝隆寺は、阿部家より早く佐貫城主であった松平勝隆の開基の寺で、勝隆よりさらに前の城主内藤家長の墓もある。従って時代時代のそれぞれの藩主の意向ではなく佐貫藩歴代の菩提所として整備された寺なのであろう。

 13.襲撃

慶応四年4月27日は豪雨であった。誠忠隊は、雨に乗じて相場の屋敷を急襲することを考えたが、そうなると白兵戦の様相となり、思いつきの計画では難しいということと、相場の近くに藩主の妹で孝喜院という方が住んでいたのでそこを騒がすのを遠慮して一日見送る形となった。

 翌28日には雨があがった。誠忠隊は昼過ぎから配置につく。伝令、山崎邦之助が、相場下城を知らせて来た。やがて中間一人を供にして相場が下城して来た。


 大手門前の清水坂を下って来る相場を見た御馬屋の誠忠隊は10名(他の隊士は牛蒡谷方向への道の坂の途中に隠れていた)、うち四名が鉄砲。指揮長岡。長岡の合図によって四丁の鉄砲が火を噴いた。銃丸は相場の左脇腹に命中。お供の中間も股を撃たれて倒れた。相場は右手で傷を押さえてうずくまった。

 しばらく、しんとした。時刻は三時。

 この時、いきなり飛び出したのが印東男也(20才)。決死の一刀をふりかぶって相場のうずくまっているところへ突進した。初太刀を相場の右腕に切りつけた。はじめて人を斬ったので夢中である。印東の後は十数人が飛び出し、もう動かない相場をめちゃくちゃに切りつけていった。

 粟飯原はかねて用意の御届書を竹の先につけて大手門の前に突き刺しさっと引き上げの合図をした。30数名は隊列を組んで勝隆寺に引き上げを開始した。この間、時間にしたら十分くらい。

 14.威力謹慎

 勝隆寺までの道のりは一キロメートル。佐貫藩は何もかも小さくまとまっている。人間関係も、相場とは、皆、もちろん顔見知りだが、その家族もほとんどの青年が知っている。もちろん長岡も知っている。これから行く勝隆寺の住職もお互い顔見知りである。こんな状況下でクーデター、暗殺などは実行した後の方が何かと難しいかもしれない。重臣の子弟が集まってなにやら騒いでいるととらえられたら結局、政治的な動きでなく駄々っ子が時勢に浮かれて血迷ってとんでもないことをしでかしたことになってしまう。事件事故で処理され政治クーデターにならない。そうさせないためには住職とのやりとりがまず第一の関門である。この辺は青山がよく心得ている。青年たちは急速に戦争、政治を知る人間になりつつあった。

 山門で青山が大音声を上げる。

 「勝隆寺の住職にもの申す!」、「われらは佐貫藩誠忠隊でござる。本日、殿様に御届けしたい儀があって、当山を暫時借り受けたい。お出ませい!」何事かと顔を出した住職、顔見知りの青年が何人もいるので笑いかけた時、青山が大音声で以下を申し渡した。

① 本日、誠忠隊は、故あって老臣相場助右衛門殿をしい虐した。
② 城下をさわがせ、大手門前を血で汚したことまことに申し訳ない。
③ 関係者全員勝隆寺にて謹慎し、沙汰を待つ。どんな決定であれ藩には謹んで従うつもりである。
④ 以上のことを早々に藩に伝えよ。家族使用人全員ただちに立ち去れ。
⑤ なお、湯茶、食べ物を要求する。誰かに届けさせよ。

 住職たちは何が何だか分からない顔をして、あっという間に立ち去った。青年たちは仲間のなかから門番二人を無腰で山門に立たせ、かがり火の準備をしてひとまず本堂に落ち着いた。

 一息入れると座がだいぶ和んできた。相場を討った罪悪感はなかった。邪魔ものが消えたの感。それにしても青山が機転をきかした湯茶の要求は謹慎表明とあい入れないが、あそこまでストンと言ってしまうと何となく納まってしまったと誰かが評した。誰もが乾きと空腹を覚えていた。

 長岡はさっきから今後のことを考えていた。「みんな、時間がないが今後のことを説明したい。私の話を聞いてもらいたい。やがてやってくる老臣にも説明することだが」

 長岡の説明は次の通り。

① 鳥羽伏見以来幕府軍の動きを見るにどうも感心しない。東へ東へ逃げて敵に正面から当たる。この繰り返し。なぜ西に行かないのか、なぜ横からあるいは後ろから当たらないのか?出来ない理由があるのだろうが傍から見ていて合点がいかない。

② 陣地を作りたがる、街道にこだわる、陣地を隠さない、むしろ宣伝している。これは敵も一緒だが理由は兵站にあるのだろう。陣地を明らかにすることが後続部隊への通信手段だからだ。これは遠征してくる敵には必要条件だが我々は敵につきあう必要はない。我々は敵からはもちろん味方からも隠れたい。

③ 食料、ひどいときには武器まで現地調達している。敵味方ともにだ。今回の我々の今がそうだが、これはまずい。百害あって一利なしだ。

④ 銃を持ってなぜ刀を捨てないのか。今回の相場のことでも刀は不要だった。刀を捨てたい。また、携行していく銃は同じものでなければならない。多種類の銃は銃弾の補給に支障をきたす。混乱のもとだ。陣地戦でないから大砲は不要だ。ごろごろ引っ張っていてみっともない。だいたい大砲、銃、刀と敵との間合い(有効距離)の違う三つの武器をもってどう敵との間合いをとるのか、その時々の間合いで使い分けるのか、そんな器用なことは実戦ではできない。そんなものはそれぞれ別部隊で別の指揮命令でやるべきだ。ひとつの指令でそれらを有効に動かすなどは後世の通信手段が整備されてからの(しかも敵はまだ江戸時代だったと仮定した)寝言だ。隊長が何かを思いついたとして数キロメートル離れた味方の部隊にどう連絡するのか。のろしを上げるのか?


 われわれが隠れて狙うものは、敵陣地の後方に回り、伝令、通信の基点を捜しそこを攻撃破壊する。同じく弾薬の渡河地点を捜しその集積物、船を攻撃破壊する。攻撃後その場所にとどまらないですぐに帰還する。装備を整えて次に別の拠点を攻撃する。捜しきらなければそのまま帰還する。一回の作戦期間は四~五日、食料持参だから持参して運動できる荷物の量で期間が決まる。作戦中は野営。火、煙は出さない。原則山道を行く。敵と遭遇しても戦わない、潜んでやり過ごすか逃げる。

 山中での行軍、野営など我々は経験がないので、今の自主謹慎が解け次第房総往還の岩富寺から郡(こおり)に抜ける道やその枝道で実地に試験的な行軍と野営をしてみることとする。そこで、適切な服装履き物武器などを選定する。

 15.雨中の送り人

 相場助右衛門暗殺されるの知らせが、古宿(字名)の相場の屋敷に伝わった。この時、屋敷には相場の妻女、養子の鉄七郎、それに下男の作蔵がいた。一人娘の美斧は出戻りで八幡村にいて不在、中間は相場とともに殺害された。

 今、遺族となった家族は現場に急行した。相場は藩では多数派だったはずなのだが相場が一瞬のうちに暴力で排された現実を前に、誰一人現場に行くものはなかった。

 広くもない大手前の三叉路の坂上に相場と中間が横たわっていた。相場の妻は夫に近づくとひざを曲げて夫の顔をのぞき込むように、顔をふせた姿勢をしばらく続けた。相場鉄七郎が「父上!、父上!」とさけび続けた。下男の作蔵が「家中の皆々様、非常のことでござる、どなたかご援助をおねがいたてまつりまする」と、大声を上げたが、誰も来ない。そのとき、ピカッといなずまが走り、ゴロゴロと大音声。ポツリ、ポツリと雨も降り出してきた。それまで、出るのをがまんしていたのだろう。城下に住む相場家出入りの左官があまりにお気の毒と遺族たちに近づき何事かを話すと、妻女は相場の懐中にあった印籠や金子、形見の品々を取って、最後に左官に深々とお辞儀をして鉄七郎と一緒に屋敷へ帰っていった。下男が左官に弔い料を手渡した。左官は用意のさらしを取り出し相場たちの体をぬぐったり、さらしを巻いたり始めた。やがて粗むしろがかけられた。雨は豪雨となった。

 雨あがりに六、七人のものもらい達が、相場と中間の遺体を棺に納めた。寺の墓地に行くに、家中の殿町を通るのは憚られたし、花香谷の道は勝隆寺のそばを通るので行けないということで、結局、ものもらい達は棺の前後を担いで雨で多少水かさの増した染川の中を相場の菩提寺、安楽寺に運んだ。

 それはそれとして、

 また「蝉しぐれ」にかみつきます。せみしぐれの中切腹した父の遺体を文四郎が荷車で運ぶシーン。藤沢周平さんは寝る姿勢にこだわって、他の遺体の引き取り組は戸板、荷車まちまちと記しています。座棺を二人でかつぐ方法をとった者が一組もなかったらしいのははっきり言ってまちがい。本来みんなこの方法だったはず。死人を荷車で運ぶには紐で厳重にぐるぐる巻きに結わえないと無理です。(それに切腹死体なら首が離れているのだし、首をどうします?)

 それはそれとして、

 「秘聞」について 広辞苑にこの言葉はない。「ひぶん」と読むのか「ひもん」と読むのか。府馬清さんの「佐貫城秘聞」を最後まで読んでも秘聞に相当する何かは分からなかった。おそらく「真相はこうだ」、「一般に知られてないがこういう話があったんだよ」の意味で使われたか。この他にタブーに触れたスキャンダル、封印された聞き書きなどと考えることも出来るのだが。

 「美斧」について 女性名としてめずらしい。府馬清さんの命名だが、金の斧などの美しいきれいな斧の意ではなく、切れ味の良い斧の意だと思う。斧はまさかりと鉈の間のもの。片手でも両手でも使える重量を持つ。斧は山ぐらしでは欠かせない。切り分けて行く。新しいことの始まり。さきがけ。切った木の濃厚なにおい。佐貫神宿の横穴墓で斧が出土している。ヨーロッパアルプスで五千年前の行き倒れ男が(青銅製の)美斧を持っていた。

 16.藩の評決

 四月二十八日、夜になって、誠忠隊のこもる勝隆寺門前に、石田七郎右衛門(元留守居役)が立った。誠忠隊に佐貫藩の決定を伝えるためである。いつになく早い処置は、船橋に官軍が、木更津に撒兵隊が、富津に林・伊庭隊がいて、それぞれの立場から佐貫藩に要求をつきつけていたからでもある。
 長岡にとって石田は江戸佐貫藩邸で美斧の接待を受けて以来の再会であった。ずいぶん昔のように思われた。相場美斧とはあの淡い逢瀬のあと、結局逆縁になってしまった。二度と会うこともないだろうが、あの光景を思い出すと何か無性にきらきらして、それでいて、せつなく、なつかしい。江戸を極楽竜宮と評したような自分には、美斧など、はなから目がなかったのだろう。江戸のエリート旗本にでも嫁いだか・・・・・・

 佐貫藩の決定は次の通り。

① 相場助右衛門。殿様に甘言を弄し、藩論をまどわせた罪は重大。さらに白昼中間もろともに討たれたこと、士道不覚悟でまことに見苦しい。よってお家断絶、家族は城下追放。
② 誠忠隊。殿様に対するやむにやまれぬ忠義の念があったとは言え、白昼城下にて乱暴を働いたことは言語同断である。しかるにその後は謹慎し、藩の沙汰を待ったことは神妙である。よって罪一等を減じて城下追放。ただし、時勢がせまっているので、追放後、ただちに追放解除し、あらためて出陣、佐貫藩隊として幕府側諸隊に合流すべし。
③ この後の佐貫藩軍事にかかわることは誠忠隊に一任する。ただし、殿様の出馬はない。藩旗などの授与もしない。

 誠忠隊一同平伏して聞いた。粟飯原が一同を代表して、謹んで従う旨表明した。石田が長岡さんよ、どうかねと質問してきた。「相場様には少しお気の毒かと思われます」

「いや、そうでもない、誠忠隊へのあてつけの意味があるんだよ。武士のありようとしてあの大手前の一件は美しいのか?虐殺になってしまったではないか?どうだ?」、「そこが重臣の方々との違いです。我々は相場様に敬意を表したつもりです」、うん?と石田が不思議そうな顔をした。武士個人個人のけんかではない、組織同士のけんかだ。芝居じゃない、現実だ。戦争を知らない親父達に戦争に目覚めた子供達からの挑戦状だというところである。

 「3番目はひともんちゃく起きそうな内容ですが、気持ちが変わりました。これでよろしい。いや、これでなければだめです」

 長岡は石田に誠忠隊の方針を説明した。石田はふんふんとうなずきながら、「田舎のぼんやり坊主と思っていたが随分勉強してくれた。分かった、分かった、藩にはそう伝えて置く」

 17.誠忠隊出陣

 翌々閏4月1日、誠忠隊は佐貫を出陣して富津を目指した。総勢31名。佐貫藩の壮丁のほぼ百パーセント。いでたちは、はちまき、筒袖にたすき、ももひき状の長サルマタ、黒く分厚い地下足袋、さらにわらじ履き。旗指物なし。食料と水(二日分)と弾薬は各自背嚢のような袋に入れて背中に袈裟懸け。鉈、斧を腰にはさんでいる者もいる。ほとんど山稼ぎの地下人のいでたち。大事なことは誰一人刀を差していないこと。

 富津では、林・伊庭隊が富津陣屋と対峙していた。総勢三百人の威力を持って、陣屋に武器、軍資金の要求をしている状態。

 粟飯原と長岡が大乗寺の庭に入って行くと、床机が据えられ、請西藩主林忠崇、旧幕府講武所エリート伊庭八郎、同じく人見勝太郎、その他数名が座っていた。

 「佐貫藩隊長、粟飯原、副長長岡まかり越しました」、「おお、佐貫さんが来たか、よしよし、遅かったじゃないか」と伊庭。今日はひとまず軍のすみっこでじゃまにならんように我々のやり方を見ておれ、追って仕事は下知する、と伊庭。林は黙っている。佐貫藩には勧告状を送っているがいまだ返事がない、どうなっているのかと伊庭。

 「はて、幕府、将軍はなくなりましたと聞いておりまするが、幕府から勧告状が届いたとは、とんと承知しておりませぬが」、「幕府ではない。徳川義軍府からの勧告状だ」、「聞かぬ名でござる、無学で申し訳ありませぬが、その義?、義?、府?とかいうところと佐貫藩とはどういう関係になりますか?」伊庭はサルと思っていた動物が急に意味あることをしゃべったのを発見したような顔をした。そして初めて気付いたように、まずそこへ座られよと言ってくれた。世が世ならば同席が許されない身分差がある。

 長岡が佐貫藩からあいさつがわりの陣中見舞として三百両供出する用意があると伝えると林や伊庭は大いに機嫌を直した。まずはありがたいことです、と伊庭。そこで初めて軍議。伊庭の説明は、これから館山に向かい、相模灘を突っ切って小田原へ行き、箱根に蓋をするという。江戸湾の制海権は榎本艦隊がにぎっていて、榎本とも話がついているとのこと。これで補給ルートが中仙道だけになり、西軍にとってはかなりのダメージになる。「箱根がうまく行けば甲州へも行く。どうだ」

 「なるほどですが、すでに遅いのではないですか。敵はもう用意が出来てますよ。それにこちらの補給はどうします? また、本来、西軍を箱根で食い止めるはずだったのでは?」、「確かにそうだ、しかし図体がでかいと何事もなかなか決まらない。錦旗の問題もある。ご本尊がああぐらぐらではねえ」
 「我々は小人数。大砲もありません。長く駆ける訓練もしておりません。佐貫藩としては船橋の方に当たりたいと思います。申し訳ないですが」、「林さん、どうします?佐貫藩は不慣れですし、足手まといかも知れませんよ」、「そうですね」、「では、木更津の撒兵隊の方に行って見ます」、「分かった、じゃそうして下さい」長岡、内心で「こっちこそあんたたちが足手まといだ」

 長岡、後で記者のインタビューに答えた。

 伊庭:超一流企業の若手エリート社員。本人は有能なつもりだがやることは味方に過酷で敵に甘い。(味方と戦っている)


 林:中央官庁のキャリア。先祖の兎のおすましを自らずっと準備していたら何事かが出来ただろうが実務をノンキャリアに奪われて夢を見るだけしか仕事がなくなった人。


 長岡:吹けば飛ぶような鉄工所のワーキングプア。納期間際で溶接しながら飯の仕度もせねばならない。自画像は石破茂。

 18.母二人、そして美斧

相場の妻女は今、八幡村の美斧のところにいる。

 地所持ちだから佐貫藩の家禄がなくなってもさしわたり経済的には困らない。あの日(4月28日)夫の遺体を確認した後は結局面会も葬儀も出来なかった。夕方になって下男から夫と中間の二人を安楽寺に仮埋葬した旨報告を受けた。そのすぐ後に藩から使者がきてお家断絶家族追放が告げられた。今度はその支度に下男夫婦、養子と四人で没頭した。掃除から家財道具の整理、残すべきもの始末すべきものの区分などが終えたのが夜十二時過ぎ。一息ついた時、そう言えば美斧に知らせてなかったことに気がついた按配。急げば一時間も歩けば八幡村だが、こんな夜更けになってしまったのだし、いまさら急いで知らせてもとこれは明日だと一人合点した。残っている課題がひとつ。養子の鉄七郎をどうするかである。当主がいなくなった今は自分が決めなければならない。結論は、今後武士の株もどんどん得にくくなるだろう。相場の家もこのままずっとお家断絶のままだろうということで離縁が鉄七郎のためだということになった。手元にありったけの金子十両を手渡し早朝それぞれに別れることとした。里の親には落ち着いたらまた挨拶に行くからと鉄七郎に言い聞かせた。

 早朝、相場の妻女は下男を八幡村に走らせあとを大きな荷物を背負った下男の妻と二人で歩く。城下はまだ眠っている。昨日の騒乱のあとかたもない。

 八幡村の池田屋敷につくと、美斧が門まで出て妻女を待っていた。「美斧!」妻女と美斧はお互いに抱き合って泣いた。「ごめんなさい、お父様がね、お父様がね、死んだのよ」池田の代官も出てきた。

 その後は案外とさっぱりしたもので、母娘の二人ぐらしが始まった。「女は決定的瞬間になっても身づくろう」とは誰が言ったか。とにかく何事かの準備=身づくろい(化粧を含めて身のまわりをつくろう)のための仕事を捜す名人である。あるいは身づくろいで夫や父のことを考えることを避けているのかも知れない。身づくろいの他に熱心なのが念仏。妻女は毎朝念仏を上げている。


 美斧は今や「二十四のひとみ」の大石先生の状態。妻女は裁縫の先生で村の娘たちに囲まれている。八幡村には官軍も佐幕も戦争もない。江戸とつながっているので、今度の戦争のおかげで景気がいい。官軍の評判が悪い。銀本位制を強要するから。旧幕軍も評判が悪い。軍資金名目で民間からも金をまきあげるから。どっちでも大差ない。早くやめてくれというのが本音。本当は官軍が勝ったおかげでえらい世の中になるのだが、今は誰も意識していない。

 一方、長岡の母は深刻である。息子が分らなくなった。四月二十八日以来全然帰ってこない。うわさが充満しているのに、本人からは何も知らせてくれないからである。賢母からは程遠く、息子が無事に過ごすこと、早く身を固めてもらいたいこと、他人に迷惑をかけないこと、藩に迷惑をかけないこと、それだけが願いである。ところが、息子が先頭に立って、こともあろうに相場を殺した。だいたい人殺しなど見たことがない。息子が帰って来たとき、怖くて息子の顔が見られないのではないかと思ったりする。申し訳ない、相場に申し訳ない。相場の奥様はどうしているだろう。会わす顔がない。息子が帰ってきたら、あの子が帰ってきたら、その先が思いつかないのである。そしてため息。

 唯一の救いは、藩の青年がことごとく同じ行動をしていること。藩がとがめていないこと。それなら息子は後ろからついて行くだけにしてほしかった。申し訳ない、申し訳ないと今日もため息。この上、青年たちの中から死者が出たらどうしようかとまたため息。

 その上、官軍が攻めてくるといううわさがしきり。そうなったら城下が火の海になるのだろうか。またため息。

 19.転戦その1

 官軍総督から房総諸藩への通達 「兇徒が屯会し良民をあざむき、暴行を加えている。言語道断である。ことごとく召し捕らえよ。近日中に官兵を差し向けるので勤皇の実効を表せ。」これに対する回答=勤皇証書が求められていた。


 一方、いわゆる義軍=撒兵隊、林・伊庭隊などが開城勧告を出す。「徳川衰運に乗じて朝令とは申し乍ら、主家を捨ててただひたすら領封保有に走っていいのか。天が見ている。徳川のために奉公すれば寛大な処置もある。よく考えて返事せよ。」これに対する回答も求められていた。官軍は治安維持行為が勤皇だ、態度で示せといっており、義軍は徳川のために人・武器・金を出さないと攻めるぞといっている。どっちに転んでも人・金を取られそう。それなら将来性のある方へと考えるのが人情だが、現時点だと直接脅威が見えている義軍になびく。(官についたとして助けに来てくれるか分らない。来たら来たで金をとられる。それなら義軍だ)


 佐貫藩は、義軍に対し陣中見舞という名目で小額の金を出し、官軍に対しては「ごもっともごもっとも」で時間稼ぎをし、官軍からも義軍からも隠れて、官軍の弾薬補給路(江戸川流域に想定される)を絶ち、官軍の軍隊運動を落としめて、食料の現地調達(太平洋戦争まで引きずる日本軍隊の伝統的な病気)での住民とのトラブルを増長させしめて官軍を腐らせる作戦に出た。


 食料は持参。義軍側領域は尾根道を行き、官軍側領域でやむを得ず街道に出た場合は官軍に化ける。(本家が福山なので西国事情、言葉は慣れている)持参食料から四から五日が一サイクルの行軍。その間は基本的に野営。


 第一回目 ルートはオーソドックスな縄文海蝕崖の上の尾根道を進み、船橋の官軍本営を大きく迂回してやり過ごし、さらに北上。主に千葉街道(京葉道路)のわき道、そま道に沿って運動していた。目指すは江戸川河畔。


 船橋海神あたりの林の中で大休止、食事をしていた時、百メートル離れた見張りから合図があった。千葉街道を敵兵が南下の兆し。一同、さっと展開し、銃を身構えて匍匐の姿勢。やがて遠くから「バッテン言葉」が聞こえて来た。福岡兵らしい。粟飯原が撃つなの合図。一分、二分、ほんの五十メートル先の木の間ごしに兵が歩いて行く。やり過ごせそうだ、長岡ほっとため息をつく。と、その時、恐怖に負けてタンと味方から乾いた音。ああ撃つなの長岡の思いも間に合わずまた一発。敵兵がさっと匍匐姿勢になる。長岡「逃げろ」と手で合図しながら自分は援護射撃の構え。敵兵が匍匐のまま動かなければ撃たない。頭を持ち上げたり、動いたりした兵があるとタンと撃つ。視野に入っているぞという恫喝。ころあいを見計らってさっと逃げた。二百メートルほど逃げた時、タン、タン、タンと一斉射撃の音が聞こえた。誠忠隊は大和田まで逃げ、そのまま帰還。一回目は失敗に終わった。しかし実地訓練としては成果が大きかった。

 20.軍議

 2回目の転戦は、海路を行く計画とした。第一の理由は行程の時間短縮のため、第二の理由は、江戸湾は榎本艦隊が制海権を握っているという伊庭の説明に期待が持てたためである。誠忠隊は計画の可能性を探るためと、海の実態把握のため八幡村の池田代官を城に呼んだ。

 池田は五大力船の水主の七右衛門と同道することにしたのだが池田は城に馴れているからどういう事もなかったが、七右衛門はいったい何を着てどうふるまえばいいのかと駄々をこねた。出来ることなら断ってもらいたいということだった。そこで萎え装束を貸してやる草履も貸してやるあれもこれもしてやると機嫌を取り取りいやがる者をなだめすかして出かけてきたのである。

 城へは正門の大手門は遠慮して、大手門前馬出し広場から土手の階段を上がって入る。昔だったらこの狭い階段でも七右衛門の身分では使えないのであった。三の丸に上がるときれいな砂利が敷き詰められたお白砂脇の控え所そばを通って土塀で囲まれた枡形に入りお沓所に向かう。

 お沓所で長岡が待っていた。すぐに五十畳敷きの御広間に通された。一方に襖がありそれを開ければさらに五十畳の広間となるのだが広さといい装飾といいごくごく普通の広間である。

 池田等は誠忠隊の20人ほどの面々を見てその着ている装束に驚いたかも知れない。山仕事の木こりの出で立ちであった。

 ひととおりの挨拶の後すぐに話の本筋に入った。池田らは相場の母娘が、今、八幡村に居ることをおくびにも出さない。

 長岡達佐貫藩士と八幡村は必ずしもしっくり行っていない。百二十年前の寛保二年の鬼泪山騒動以来時には八幡神社祭礼の時の若者達による藩士への侮辱けんかで、十年以上神輿の御浜出が禁じられたこともあった。

 しかし、今の長岡にとってそのような曰く因縁を怖れているばかりには行かない。

 長岡が説明 江戸川(当時の名前は「と祢川」)にあると思われる官軍の弾薬集積場を海から襲撃したい。場所の心当たりがあるだろうか。

 七右衛門の意見 渡し場としては、行徳、国府台、矢切、松戸、流山などがあるが、おそらく国府台か矢切だろう。江戸川の岸辺はほとんど葦原の湿地帯なので、臨時に秘密の船着場をすぐに作るなどは無理。荷揚げ後のことも考えれば、昔ながらの場所を使うしかない。

 長岡が言う。「そう限定されるのになぜ榎本艦隊はだまっているのだろうか」、「ひとつはあの艦隊は吃っ水が深いので川や遠浅の浜に入れない。もうひとつは制海権といっても軍艦に対する制海権で、民間の船はフリーにせざるを得ない。十隻かそこいらの黒船がしゃかりきに動いたとして何百隻もの民間の船をひとつひとつ臨検など出来ない。へたに外国荷物の船の臨検などしたら国際問題になってしまう。従って、事実上、荷物の流入は防ぎようがない。だから、逆に軍事物資の攻撃をするなら、集め運び終わった集積場をねらうというのは理にかなっている」、「集積場が江戸川以外ということはあるだろうか」、「それはない。軍隊に限らないが大勢の人間に指図する仕事は、いったん動き出したら途中変更は出来ない。後方への連絡がぐちゃぐちゃになってしまうから。官軍が江戸川を渡ってきたのなら江戸川以外にあり得ない」、「八幡の五大力船に我々31名が乗って、江戸川の集積場を襲撃するというのは可能だろうか。」

 長岡は七右衛門の態度が気になっていた。話しには素直に答えているが必ずしも無条件で承諾するような雰囲気ではない。むしろ佐貫藩が何を血迷ったかといった態度に見えたからである。七右衛門が口を開いた。

「出来ると思います。二隻用立てましょう。ただし、帰りは待っていられませんよ。皆さんを下ろしたらすぐ出帆します」。長岡はほっとしながら云った。

 「それはいいです。我々は帰りは山道を帰ります。お互いに帰りを考えると、目的地に午後三時から遅くとも五時までに着かないといけない。そういうことは可能でしょうか」、「場所が国府台か矢切なら出来ると思います。遅刻したらやめてそのまま帰るしかありませんな。」

 ひと通りの話が終わった。池田が口をはさむ。「阿部様も二百年たって、上総武士らしくなりましたな。海路を行くなんぞは上総武士の発想ですな。」七右衛門もうなずきながら云った。

 「そうですね。阿部家はどちらかと云えば皆さんおとなしい官吏みたいで地味な感じでしたが、今日お話を聞いて、阿部家にも熱のある人が相場様以外でおられたんだと感心しました。」

 上総武士ということばに長岡はひっかかった。そういわれてみればあれ以来の誠忠隊の動きは相場の大方針に沿って動いているように思える。

 「相場様は惜しかったですな。これから、藩の渉外に、その他のことを含めて活躍できる人だったのになぜあんなことになったのですか?」、「・・・・・・・・」

 長岡自身、あの雰囲気を思い出しても、なぜ、相場を暗殺しなければならなかったのか、今となっては不思議な熱情に翻弄されたとしか説明のしようがない。熱情が去った後になっては了解不可能なのである。話し合えば分かってくれたのではと思えてならない。

 「この騒ぎが一段落し、落ち着いたら、そして幸いにも私の命があったら、どのような形であれ責めを負います」長岡が言った。

       <ページ小説「風雲佐貫城秘聞」その3に続く>