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新舞子の押し送り船



「押し送り船」はどこの船?

 

 上の図、葛飾北斎の版画「神奈川沖浪裏の富士」や「千絵の海総州銚子」に描かれている複数櫓漕ぎの船は押し送り船といいます。江戸に高級魚介類を新鮮な状態で送る事を目的に開発され就航した船で、大小いろいろありますが一般的には幅2m、長さ10m、七丁艪で順風ならば帆も兼用した高速船です。 江戸まで3時間で突っ走ったと云います。

 ところで浪裏の富士の舟は空荷ですので江戸からの帰り舟です。西上総から出たとしたらなぜ帰りに神奈川沖なのでしょう。

 これについては下の方に解説がありますが、空荷で浦賀番所に行く用事があるのです。絶対的な用事ですので省略できません。このことを考えると、押し送り船の出航基地をどこに置くかで一番有利なのは佐貫八幡(新舞子)です。八幡=浦賀は海上2里です。最悪は木更津、富津でこちらは帰りがまた一つの航海仕事になってしまいます。

 同じ頃江戸湾の貨客船で上の絵のような五大力船と云うものがあります。こちらは船底が丸くずんぐりもっくりした帆船で船の両側に竿走りという名のせりだし通路があり、川など浅瀬を得意としていました。

 この二つとも並の漁船より二回りくらい大きく、船底から甲板までの高さが大人の背丈ほどありました。

 船は小型船でも家1軒くらいの値段がしますから押し送り船や五大力船は個人の普通の漁師が持てるしろものではありません。また、江戸湾の諸々を取り締まる浦賀番所開設(享保5年=1720)以後は生魚ということで行きは素通りを許された反面、帰りに登録済みの魚問屋に荷を下ろした証文を提出せねばならない決まりが出来たので結局江戸の魚問屋の資金と信用力に頼ることになりほとんどの押し送り船は船主が問屋から金を借り船を造り、替わりに借りた問屋だけに荷を下ろして売上げの中から借金を返済していくといった案配で借金まみれとなり現代の「一帯一路」にはまり込んだような状態になったとされています。(「富津水産捕採史」髙橋在久氏)

 押し送り船の始まりは元禄頃(1690)ということで研究者の意見が一致していますが具体的に何処か、誰かということは研究されていません。また終焉については漠然と幕末・明治でありその原因は上に述べた問屋と船主、水主、浦賀番所による権益・独占・排他システムの崩壊ということになっています。

 ちなみに、押し送り船に関連した研究書に必ず出て来る、房総各村の書き上げ帳に載っている押し送り船の数とその年代を、年代の早い順に上げますと以下のようになります。

   1710年  八幡(新舞子)  3艘
   1746年  金谷       4艘
   1756年  青木       7艘
   1811年  篠部       1艘
   1846年  富津       24艘
   1850年  大堀       1艘
   1850年  人見       1艘
   1855年  木更津      7艘
   1859年  竹の岡      10艘

 この表で押し送り船発達史を書くとすれば先行地域が八幡、約40年遅れて金谷、青木、その他は百年以上遅れあるいは幕末のどさくさに乗じてドッと参入ということになるのでは?

 私は、 押し送り船の始まりと終わりを明らかにしたい、と考えていま す。

  ここで八幡に注目しますと、実は八幡には押し送り船の写った絵葉書がたくさん残っています。そこで八幡以外の浦々も「古絵葉書」、「海水浴場」をキーワードに押し送り船の写った写真を捜すことで押し送り船の分布の広がりを調べてみました。 千葉、茨城、神奈川、静岡を調べて見ました。この中で押し送り船があったのは千葉、神奈川と場所は不明ながらジェンスコレクションの中だけでした。

 さらに押し送り船らしきものが見つかった絵馬も掲載します。

 佐貫の八幡神社祭礼に参加している押し送り船2艘。明治40年(1907)頃か。カメラの位置がドローンのように高いので、あるいは軍艦の艦橋から撮ったかも。神輿のお浜出前でこの賑わいは日露戦争勝利祝賀で横須賀から軍艦の特別参加があったのかも知れません。

 佐貫の八幡海岸(新舞子)に押し送り船が整然と並んでいます。奥には五大力船も。明治40年代の光景です。斜陽になりつつあってこの偉容ですから、江戸時代はとんでもないヤバイ状況だったことがうかがえます。(佐貫の押し送り船についてはまた後で特集を組みます)

 大貫岩瀬海岸の地曳き網。大きな網の仕掛けには押し送り船が最適です。花形の鮮魚輸送からリタイアした押し送り船は地曳き網の仕掛け用、魚追い込み用に使われた模様です。(大正時代か)

 昭和30年代篠部の海岸です。準リタイアした状態ですが和船の保管用の雨よけの方法でこもかぶりです。人物との比較で押し送り船の大きさが実感できます。

 金谷神社前の押し送り船。ちょっと小型です。

 館山湾の押し送り船。舳先が幅広で短い。

 神奈川県三崎の押し送り船です。

 鎌倉由比ヶ浜海岸の押し送り船です。

 大磯の押し送り船。舳先が館山に似ています。

 ジェンスコレクションの押し送り船。明治42年(1908)。場所は不明ですが、海岸の状況から新舞子海岸だと推定している人が居ます。このHP「ジェンスコレクション」のページ参照。

 同じくジェンスコレクションの押し送り船。房州一宮あたりかと思えますが、海岸礫からそうにも見えない。

 竹岡三柱神社奉納絵馬「会津藩遠泳訓練記念」舳先が短いですが船の大きさと、日常的に押し送り船を徴用したとの史実がありますので入れておきました。

 岬町鴨根清水寺奉納絵馬「大原町日在浦の地曳き網」 大きな地曳き網には押し送り船が不可欠です。

 以上、押し送り船の分布中心は古写真で見る限り明らかに内房の富津市域でしかも八幡が中心で、次に大磯が続き、その他に外房、三浦、鎌倉の相模湾が加わっているように見えます。 また押し送り船の船形には八幡形と大磯形があるように見受けます。

 江戸時代に押し送り船24艘の富津村は明治後には大砲の試射場になったため押し送り船が一掃された可能性があります。(撮影等一切禁止の影響もあると思いますが、漁業運搬産業への影響も強いはず)

 さらに次回以後、押し送り船が富津市域のどこが中心でどこが始まりの地なのかを深く考察していきます。



和船の櫓と各部名称について


 櫓は、飛行機のつばさのような断面(上側が平らで下側が丸みを帯びている)の長い板構造のものでこれを水に斜めに差し込みそれを左右に振ることによって櫓が沈み込み、その反力の水平成分を推進力として利用する手こぎの推進装置です。

 左に振るときと右に振るときで櫓の向かえ角を逆にします。要は左右に漕ぐとき櫓をねじるように、また巻き戻すように回転させながら左右振りしていきます。言葉で言うと難しいようですが、入れ子の穴の周りは櫓枕という半円のカム材が貼ってあり、その穴(バカ穴)を櫓杭に差し込んで、人はカム材に導かれるままに櫓床の上を櫓を横に転がす感じで操ればいいのです。

 櫓の重量や、推進反力を人が直接受ける必要がないため人の労力が少なく長時間の運転に耐えられます。ただしフル運転した時で比較すればオール漕ぎよりはスピードが落ちます。同じスピードで疲労するまでの距離競争をやったら櫓が勝ちます。櫓漕ぎの消費エネルギーはウオーキングより少ないそうです。
櫂は3年、櫓は3月という言葉があるそうです。櫓は見た目が難しそうですが要領を覚えればすぐに上達するようです。

 多数櫓の配置例です。ここで八挺櫓(おもてろ)はおそらく逆櫓(さかろ)用で、一般に七挺櫓がフル稼働だったのでしょう。さらに北斎の絵などを見ますと船の後部に櫓が集中しているように描かれていますのであるいは、通常の運転では五挺櫓までということだったのかもしれません。  櫓による推進は原理上船は左右に頭を振り船尾が沈みます。ジェンスコレクションの男女別看板のある写真を見ますと櫓漕ぎ中の押し送り船は随分と船尾が沈んでいます。これは空荷で向かい風だとその性質が強調されるためでしょう。(これによりこのジェンス写真の風の方向と海岸の方位などが分かる貴重な情報です。)

 北斎の浪裏の富士の中の押し送り船も船尾が沈んでいます。このままでは波に向かって時として豪快に立ってしまうので乗員は生きた心地はしないだろうが、船尾沈みがちのこの性質は波切り性には良かったでしょう。

 別の情報ですが、西上総の人は押し送り船を「のめり型」、「のめり舟」とも呼んでいたようです。「のめり」とは前のめりの意味ですので船尾が浮き上がる形です。上の話とまったく逆の姿ですがおそらく追い風で帆を使って走るとこういう形になるのでしょう。

 押し送り船は江戸へ行くときはのめり舟で帰りは大威張りでのけぞり舟だったのでは?人が同じ舟を見ているのにその見方・感じ方が真逆になるのは面白いものです。


 櫓漕ぎの話しに戻ります。多数櫓の場合特に左右の頭振れを防ぐのに漕ぎ手が同期(しかも左右逆運動)して操作した方がよいように考えますがはたしてどうだったのでしょう。残念ながら多数櫓での実演はyou-tubeでも出て来ませんでした。

 櫓の作業者の作業スペースを考えます。ひとりの作業者の必要スペースは船の長さ方向は入れ子から櫓柄までの寸法によりますが2mあれば行けると思います。船の幅方向は人の腕の伸ばした寸法+人の胴の厚みまたは歩幅の半分だけあればいいので余裕を見て1mあればOK でしょう。従って七挺櫓の押し送り船の最少寸法は幅2m、長さ10mということになります。



人見の青蓮寺「生魚運送功労者碑」で読み解く押送船の最終状況

 右側小ぶりのこの碑は現君津市人見の生魚仲買人石井修三という人が押送船に発動機を載せて近代化に尽力した功労碑です。昭和5年の建立です。以下概略を紹介します。  石井修三は君津郡周西(すさい)村人見(ひとみ)の人で家代々農業をしていた。父幸七が明治20年に小糸川に生け簀を設け生魚類仲買商を始めた。幸七は創意工夫の人で、従来の魚運送用ビク(大きな竹編み籠)の改良に努め網の袋を竹ヒゴで自在に形や大小を形成する形にした。この袋は親子二代の間で同業者が漸次使用して普及した。さらに大正元年幸七は伊豆の業者から発動機を購入し押送船を櫓漕ぎ船から発動機船に改良し高速化省力化を図ろうとした。ところが省力化の面で困難があった。押送船で生漁を送る場合輸送途中で走りながら生け簀の水を替えることが必須であるのでこの水替え人を乗せなければならない。この人数が少ないと船が東京湾内奥に入った時、干潮時などでは特に低酸素含有量の水で入れ替えねばならなくなり魚の生存率が減るのである。

 ある時などは夏場、干潮の悪条件もあったが100%死魚となってしまった。修三は一念発起してこの問題に取り組んだ。二年の研究の結果、船の前に導水パイプを設け、船が走ると自然に生け簀内に海水が入り、連動して入った水の量だけ走っている間は常に自動的に排水する機構を作った。(干潮帯などでは入れ替えをやめる)これによって夏季、干潮時でも死魚がまったくなくなった。と同時に水替え人が要らなくなり省力化が出来た。東京の生魚市場で関係者を招き船を走らせて実演も行って大反響であった。この方法は昭和になるまでにほぼ100%の普及を見た。

 石井修三は大正十三年十月一日に病を得て死去。享年45才。

 押送船の近代化に協力した人は、平野直二郎、松下勝治郎、平野留吉、平野平蔵、守菊蔵、髙橋万次郎、守正蔵、登山松之助・・・・・・・(合計11名)  賛成者(顕彰碑建立賛同者)東京魚問屋15軒、大堀3軒、富津3軒、青木2軒、木更津1軒、竹岡2軒、神奈川の浦々5軒、人見11軒、吉野3軒  以下のように読み解きました。 賛成者の中に大佐和地区の浦人が入っていない。富津、木更津の存在感が薄い。このことは富津・木更津は軍港化して押送船産業が衰退したのではないか。 大佐和地区の話しがまったく入っていないが、これは明治時代のあの八幡新舞子海岸の押送船の多数遊弋の光景と矛盾している。

 筆者はここで近代化協力者の中の髙橋万次郎(人見の人だと思われます)に注目します。この人は佐貫新舞子の網元髙橋万兵衛と親戚・分家ではないかということである。人見の髙橋(はしご「高」)姓はこの他に賛成者の中に3人、大堀に2人います。(機会を見つけて人見・大堀の髙橋家を調べて見たいところです。なお新舞子の髙橋家については後述します。)  それはそれとして大正・昭和になると新舞子の押送船産業は近代化に背を向けた可能性があります。対岸の横須賀との商売だけに特化したのではないか。との疑いが向けられます。



新舞子の漁船衰退史

 新舞子の漁船や地曳き網は江戸時代以来ひたすら衰退している状態に見えます。一時期海水浴客の増加でこれが覆い隠されていますので、あえて海水浴でなく漁船と地曳き網にしぼって明治以後時代順に古写真、古絵葉書を並べて見ます。

 このホームページ訪問者にはおなじみの押し送り船出動基地の新舞子です。明治30年頃。 同じ場所の百年後の姿を最後の写真としました。お楽しみに。

 この繁栄を江戸時代に溯って行くとどういう光景になるか。残念ながら写真では表現できませんが、文芸作品の中で想像が出来ます。

 それが、亨和二年厳島神社奉納付け句の連句であり八幡祭礼獅子頭巡行木遣り歌です。

 最初に紹介した出動基地は磯根方向に向かってパチリ。そしてくるっと回って湊方向に向けて撮ると上の写真のような伝統的な漁村風景となります。風景の違いは個人経営と会社組織経営との違いです。明治30年頃。

 盛大な祭礼風景は地域のいやさかの先駆けに見えますが、海軍のこの好意?は、江戸以来の浦賀番所、運送屋、問屋の利権体制の元でこそ光っていた八幡新舞子が崩れて、横須賀海軍御用達に後退・特化した結果かも知れません。明治40年頃。

 明治時代から大正時代にかけて続いた大がかり(大きな網)な地曳き網風景です。この漁法は大きな押し送り船が不可欠です。

 押し送り船が小さくなり、地曳き網は三ちゃん地曳き網になりつつあります。大正から昭和20年頃までの光景です。(注:背景の大坪山がたくみに消されています。)

 もう立派な三ちゃん地曳き網です。昭和20年代。

 内燃機関(焼き玉エンジン)によるポンポン船です。地曳きというより沖合の手繰りなどに使われました。扡曳き網に使うには不便です。昭和30年代。

 最初に出した写真の押し送り船の出動基地がこうなりました。一緒にあった五大力船は機関付きの渡海(トケイ)船となり、とうの昔に埠頭のある上総湊に引っ越しました。昭和30年頃。

 この衰退を未来に向けるとどうなるか。あれから50年、衰退はついに底まで来ました。さてこれから逆転するには何が考えられるか。  来たるべき首都圏大規模災害に備えてのセカンドハウス、セカンド執務室、セカンド物流センター、セカンド学校、東京湾口道路、降灰影響の少ない第三空港などの誘致が考えられます。

 その意味で新舞子と佐貫が大発展(その役割は食糧、薪炭物流基地)した起点である宝永七年(1710)の江戸圏の各地と新舞子の直近直後災害連発(地震、津波、噴火)被害状況を調べることが重要となります。



明治期の八幡新舞子の繁栄

  以下、この項の話しはほとんど推定の話しである。その正しさを証明する資料や伝聞はない。

 近世になってずっと長期の衰退を続けている八幡新舞子だが、明治期はまだまだ繁栄の余韻が残っていました。  その表れは押し送り船主で網元の髙橋万兵衛の文化活動です。明治期から昭和に至る三代の当主が万兵衛を名乗りました。このうち一代目だと思われますが、小糸( 君津市) の山持ちから旧久留里藩の医者の離れ屋敷という建物を買い受け八幡の自分の地所に移築しました。その建物が現在県文化財になっている加藤家住宅です。(後に石井造船、さらに加藤家にと所有権が変わる。)

 文化活動の一つが押し送り船運送を横須賀海軍相手に特化させたことです。成長より有利な部門に集中して利益率を高めたと言うことでしょう。その結果が八幡祭礼に海軍が参加すると言うことになりました。(ジェンスコレクションの中の大きな脱衣テントはどう見ても英国式で例えば横須賀の工兵の仕事に思えます。)

 もう一つの文化活動がこの写真です。この集合写真の出所は旧佐貫藩主阿部家からで、新舞子で撮られたという以外の時代や何のイベントかは不明とのことです。この多数の女学生(といっても前列は小学生で後列は20才くらい)と先生はどこの人たちなのか。ただ女学生や先生の様子から明治40年ころと考えられます。

 なお、この写真が新舞子のどこかということは判明しました。八幡船端の海岸に近い部分で髙橋万兵衛家の仕事上の家々が並んでいたのでしょう。現在この地には、旧江東区健康学園、旧日大一中臨海学校、旧千葉学校や数社の企業の海の家跡、十数軒の個人別荘(ほとんどが廃屋)があります。そして船端を中心にして笹毛地区、八幡地区には多数の個人や企業や省庁の別荘があります。この中で特に船端地区は髙橋家の土地のミニ開発だったのではないかと思われます。 高橋家の家は、現加藤家住宅の建物の奥で一連の別荘街の一角にありました。

 さて、さらにひとりの人物が関わります。その人は小此木忠七郎です。小此木は若き頃島崎藤村と明治女学校という東京巣鴨の学校で教師仲間であって、藤村若き頃には小此木が借りていた小久保の定宿に藤村が投宿するなど交流がありました。

 そういう話しがあって約20年後、小此木は佐貫の豪商の娘と結婚し、そのすぐ後に勤務していた明治女学校がつぶれ、そして明治40年頃のそのころしばしば佐貫に来ているのです。しばしば嫁の実家にご機嫌伺いでもありますまい。おそらく小此木は教師を続けており、髙橋家の動きを聞きつけ、さらに髙橋家や佐貫町から依頼があったのでしょう、八幡に臨海学校や別荘を誘致すべく自身の教育界や上層階級との人脈を使って動いていたのではないでしょうか。

 上の写真は臨海学校を誘致すべく開いた体験イベントではないか。生徒は東京の各女学校の希望者と考えられます。交通手段は髙橋万兵衛が手配した特別便でしょう。宿泊は万兵衛宅近くの家。船乗りの合宿所あたりではと考えられます。そして小此木も中心的な主催者のひとりではないか。そう考えれば小此木や明治女学校の先生達が写っているかも知れません。 年代的には野上弥生子やその旦那野上豊一郎も写っている可能性があります。

 ということで明治女学校の卒業写真(藤村全集から)の人物と比べて見ることにしました。この中で名前が入っているのは特徴が掴みやすい人物、そしていてくれたらと思う人物です。呉先生は年寄り、義羅先生は髪から服も洋装、巌本校長は細いあご、油井先生は八の字髭です。小此木先生はいてくれたらの部類で実は別ルートでこの上の松原の中の女学生写真当時の写真も入手済みでその写真も目が大きく髭がない。20年後の方がちょっと痩せ型40才にしては若いです。

 「秦 冬」は卒業生でこの人が後に藤村の最初の奥さんになった人です。(後の話しですが娘3人もうけましたが3人とも病死、その後本人も死亡。人のはかなさというより医療問題なんでしょうね。百年前の世界でいい方でコレ)

 その結果①:巌本先生と油井先生。巌本先生はあごの形と生徒がつけたあだ名がポテト親父ということも参考にしました。油井先生は髭の形と口元がそっくりです。

 その結果②:呉先生と義羅先生。とにかく呉先生はひとりだけ年寄りでしかも20年後としてよく似ています。義羅先生は前髪の分け方が似ています。  残念ながら肝心の小此木先生は見つけられませんでした。


髙橋万兵衛家について

 上の写真は八幡共同墓地にある髙橋万兵衛家のお墓です。

 髙橋万兵衛家について八幡の人々が記憶しているのは、「八幡の仲町共同墓地の敷地を造成して寄贈してくれた人」と言うことに尽きます。その年代は不明ですが、562坪の共同墓地の一角に現在も髙橋家の墓がありその位置が八幡の古くからの有力者の墓が集中する場所であることから、髙橋家の墓に刻まれた初代の人が寄贈したと考えるのが自然です。墓碑によれば最初に葬られた人は戒名 「妙光信女」没年は宝永七年。奇しくも八幡の押し送り船3艘の記録の年です。

 ちなみに初代の戒名は「積善道光居士」で享保十二年の没年です。

 なお髙橋家の現在の連絡先は不明です。従って家の言い伝えや文書の有無など訊くことが出来ません。  さらになおこの共同墓地は八幡中世以来の市場(いちば:子字名)の一角です。(染川沿いですので共同墓地発足当初では津波の影響を受けた土地であった可能性があります。)

 以上から髙橋家の初代の人は元禄宝永年間に(墓地敷地寄附が右から左にと言う調子で気軽に出来るほどの)お金を持って八幡村に突然現れたことになります。彼が何のためにどこから来たのかはまったく分からないのですが同時期に八幡村に押し送り船が(近郊他村に先んじて)導入された事実から見てこれと直接関係していたのではと考えるのが自然でしょう。これから二百年後の明治時代には房州の有力な網元・髙橋万兵衛と名乗っているのですから。

 髙橋氏がどこから来たかについては「共同墓地の寄贈」という行為がヒントになります。「房総と江戸湾」(川名登)によれば、元禄時代に干し鰯の金肥を目的に関西から漁師の出漁が盛んになった。中には現地土着を目指して村まで開いた。戸川地区などは関西方面の民俗による両墓制(死のけがれを嫌って埋葬墓と別に参り墓を作る)による共同墓地があるとのことなので、髙橋家の先祖は関西の漁師か廻船業である可能性がこの共同墓地の寄贈行為ということから高くなります。

 九十九里方面の関西漁師が鰯漁とその東回り廻船による運搬(木綿増産のため関西へ)を目的としたのに対して、髙橋家は高級魚介類の江戸への押し送り船による運搬を目的とした事になりそうです。

 なお、桂網の北村角兵衛も関西出身ですが、この人は江戸時代初期に来た人です。元禄時代の動きとは別の目的(江戸創成)でやってきた人です。

 さらに九十九里浜の鰯漁がこの後ずっと右肩上がりではありませんでした。元禄、宝永の大地震、富士山の噴火による津波や灰で浜が荒れ、漁場が荒れて犠牲者も出て撤退を余儀なくされた関西人や村もあったのです。

 しかし、八幡村はそうはならなかった可能性があります。むしろ江戸湾奥の漁場や相模湾や安房、九十九里浜が荒れたのに対して江戸圏では富津市域だけが比較的健全であったようで物流拠点としてすべてを一手に引き受けざるを得なくなった状況・チャンスが(3大災害の震源や富士山の位置、風の方向から)想像出来ます。

 さらに髙橋氏は個人で来たのか集団で来たのか、船や網を持って来たのかについてですが、これについては、その拠点が船端であることがヒントになります。この地は中世から造船の長い歴史がある場所で船大工もいますので、想像するにこの船大工(錦織家)を頼りに考えて金を持ってひとり来たのではないか、その金の出所は髙橋家と同族かも知れない江戸の魚問屋とみていいのではないでしょうか。そうであるなら押し送り船の原型は八幡で出来た事になります。

 上は仲町共同墓地付属の地蔵堂のお地蔵様です。唇や袖に赤い彩色が残っています。髙橋家からの寄贈仏かも知れません。

 注:八幡村の五大力船についての話しをしておきます。こちらは事業実行者がはっきりしていて、元禄より早く八幡に来た(これも)関西の商人「大森家」が鬼泪山・古船浅間山を中心とした薪炭生産事業、醤油等醸造業、運搬業を営みました。その出荷拠点は中世以来の市場(染め川河口から約1km入り込む)です。五大力船から後に渡海船に発展しました。

 家康の江戸入部以来八幡村の伝統産業は薪炭の生産、江戸への運搬でした。これだけでも内陸の村々より恵まれていたのに、宝永時代にここに鮮魚の運搬手段を開発して、大規模漁業・生魚(干ものでない魚)運搬業が加わったわけです。

 これは産業がひとつ増えた以上のインパクトを与えました。土地とのしがらみがない産業(薪炭も土地の上の産業)なので次三男でも生まれた村で嫁をもらい所帯を持つことが出来るようになったのです。

 洋の東西を問わず農村社会の根源的な暗さは土地相続に起因しています。八幡村はそれを免れしかも当時の感覚から云えば「魔法の絨毯、どこでもドア」のような乗り物も与えられました。

 

江戸期八幡村住民の驕りについて、佐貫町の繁盛について

 上の図は駿河トラフ、相模トラフそして富士山の位置関係が分かる図です。(東京女子医科大学講演記録「柴田教授夜話」より)

 首都圏に甚大な被害をもたらす地震と火山の巣と言うことになります。 佐貫や八幡がにわかに動き出すのは実は上の三つが連続して動いた時代なのでこれは偶然ではない、災害復興の中で佐貫・八幡が生活資材の集積輸送基地として注目された結果ではないかと考えました。年代順に並べると以下のようになります。

   元禄地震 1703年 M8.5   相模トラフ   関東地震(特に外房、安房被害大)
   宝永地震 1707年 M9    駿河、南海トラフ  各地に津波被害
   富士山噴火1708年    各地に降灰被害 相模、江戸、下総 東京湾奥

 江戸は直接被害よりも周辺の生活資材供給地域と交通インフラ被害が大きかったと思われますが・・・・

 まだ世の中が騒然としている直後の1710年に押し送り船が八幡に3艘記事、佐貫城に阿部氏入部(約半世紀廃城だった)、岩富寺再興。以上3件が全部1710年。この事実から見ると阿部氏には幕府から(佐貫城の再建などは後回しにして)江戸への資材輸送を最優先とせよとの内意があったのでは?

 なお実際の城主入部は数年遅れたらしいです。理由は不明。 

 天保か天明年間だと思いますが、祭の神輿のお浜出で八幡の若衆と佐貫藩の侍がけんか騒ぎになり、その後十年以上お浜出が禁止された記録が残っています。(内野家文書)。その後氏子17村の名主連名でお浜出の復活を願い出て許された経緯があります。八幡村の若衆が武士を見下していたことがうかがえます。

 また、江戸時代、鶴岡の浅間神社のお祭りを八幡の衆は「ヘイトンマチ(乞食の祭)」とさげすんで呼んでいたとの話しが今でも伝わっています。(像法寺の住職談)。

 また、佐貫町を舞台にしたあるひとつの民事訴訟で争われている金額が数十両でなく百両単位であった(内野家文書)事実など、今の佐貫町、八幡では想像が難しい話しです。

 いずれのエピソードも八幡や佐貫町が経済的に裕福である状況が窺えます。考えて見れば八幡の人々など田んぼも畑もなく江戸時代の経済の要であった田んぼの百姓の評価の物差しから見れば水飲み以下の箸にも棒にもかからない人々のはずなのですが、押し送り船と薪炭の五大力船を中心とする物流産業で直接的に日銭が入ってくる強みが八幡村と佐貫町にはあったと云うことです。

 

八幡村の根本資料

 押し送り船と並んで八幡村のもう一つの産業「鬼泪山、富士山(古船浅間山)の山稼ぎとその製品運搬」の産業遺跡を見てみましょう。  まずその前に八幡村の根本資料を紹介します。 「日本歴史地名大系12」平凡社)千葉県の地名、八幡村より

 小久保村南方に位置し、西方は浦賀水道に臨む。染川が流れ、房総往還が通る。文禄3年(1594)の上総国村高帳に村名が見え、高218石、正保国絵図では高216石、寛文4年当時(1664)佐貫藩領であった(松平忠勝領地目録:寛文4年朱印留)。江戸初期十分一御蔵が置かれていた。宝永7年(1710)から再び佐貫藩領で幕末に至る(正徳2年「阿部正鎮領地目録」阿部文書など)。宝永7年の村明細帳(椙山家文書)によれば、田6町5反余、畑5町4反余のほか、田畑(陸稲畑?)3町1反余、家数73で、大工3、農間には鬼泪山、富士山で山稼を行っており、山萱銭永250文を納入していた。江戸へ薪を積送る五大力船5艘、江戸へ魚を送る押送船3艘のほか、地曳網船8艘があり、地曳運上35貫文を課せられていた。寛永5年(1793)の家数88、人数648で漁船役金五両三匁八分、浦運上金32両を納めており、横田浦、新場浦では鯛漁を行った。天保9年(1838)の家数97、人数648で、浜方運上永35貫文(同文書)、八幡浦からは宝永8年当時佐貫14村が薪を津出ししていた(菱田家文書)。寛政9年小久保岩瀬両村の漁場で操業していたところ、小久保村の者に没収されたため勘定奉行に出訴。裁許では小久保村岸付16町沖合いまでは立ち入らぬこと、それより沖合いは双方入会い、岩瀬村との間でも双方運上場には入らぬこと、網は返すこと、鯛漁場は小久保村が休漁なので双方熟談することとされている(大佐和漁業組合文書)。日枝神社、鶴峰八幡神社、厳島神社が鎮座。真言宗智山派円鏡寺がある。

 昭和32年(1957)の航空写真です。(岩波写真文庫「東京湾」より)  左上の三角錐形状でスイカの縞のような模様がある山が富士山(古船浅間山)です。富士山のその上の台地状に山頂が平らで広くてそして禿げているのが鬼泪山です。この禿げてる部分を開発して出来たのがマザー牧場です。

 さて古船浅間山の縞模様は何か?境界林にしては幅が広すぎます。  古船浅間山は全山薪炭用材として切り出されていたと仮定して、無秩序に伐採するよりは斜面を山頂から縦に七分割して境界を設け、例えば左回りに一つおきの区域を伐採し、毎年次々に伐採していくと一区域を1年で完全伐採すれば7年の周期で、2年で完全伐採すれば14年の周期の使用=再生サイクルとなります。ここでさらに南向きと北向きで木の種類を変えたり伐採の密度を変えたりすれば収量の均一性がはかれるでしょう。

 押し送り船と同じ会社式経営のにおいがします。途方もなく大きな山持ちが貧民を低賃金で働かせたり小規模個人経営の集合体システムではこういう考えは出てこない気がします。

 昭和32年頃に地上から撮った古船浅間山です。頂上は神聖地域として木の伐採が禁じられていたのでしょう。あるいは古船浅間神社の上社があったかも知れません。

 昭和45年頃に国道127号線から撮った古船浅間山です。山体を全部削って埋め立て用の土砂として販売することが決まり、その前からの家庭燃料革命の影響で山稼ぎ作業が放棄され十年がたってあの縞模様が消えてしまっています。

 徳川家康の江戸開府以来300年続いた山稼ぎ産業の消滅と同時に山体も消滅しました。その後跡地利用の計画は当初の人口一万人のニュータウンから、自動車工場の誘致、それが頓挫して場外馬券売り場、取りあえずお茶濁しの運動公園開発などへの細切れ誘致事業等をやって、待望の東京湾横断道路とインターチェンジが出来た頃になって、ソーラー発電になりました。

 東京から1時間距離でインターがある広大な更地(土地権利関係が単純という意味でも更地)に何でソーラーなのか、北海道や東北、山陰の人々からはおっとりしている、どこか一本足らないのではと疑われそうです。

 古船浅間山の変遷を道路地図で追ってみます。


 昭和45年頃の浅間山です。上の写真の撮影位置は地図から下にはみ出た国道127号からだと考えられます。バス停「ふじ上」の左の「450」は番地です。浅間山の「150」は標高です。

 浅間神社の前から斜め下に細い道路がありますが、この道路で鬼泪山と浅間山が分けられていたことになります。


 昭和50年頃、山砂採取が最盛期を迎えたころの状況です。左斜めにコンベアが走っています。このコンベアは笹毛海岸まで走っていました。
 浅間山開発と云いながら、山砂採取は鬼泪山方面まで広がっています。


 平成元年頃の状況です。館山道の工事が始まっています。