苅込碩哉記録(Ⅲ)島崎藤村と小久保の農舎 明治女学校 小此木忠七郎

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 若き島崎藤村が富津市小久保を頻繁に訪れていたことはあまり知られていません。苅込碩哉さんは、小久保こそ、島崎藤村が詩人、作家として世に出るきっかけを作った土地であり、さらに藤村の最初の夫人(秦 冬)と出会った場所であると熱弁を振るいます。

 以下、平成17年5月の苅込碩哉さん講演会の要旨です。

 藤村と小久保の農舎・常宿
 今年は戦後60年に当たります。歴史を風化させてはならないということで、マスコミも様々な特集を組んでいます。またいろいろな運動も展開されています。
 日本の長い歴史の中ではぐくまれてきた文化の価値、それを次世代に伝える責任の重さを感じているのは私一人ではないと思います。皆さんも、このような思いがあって、今日ここにご参集下さったと考えております。


 まあ、そういう大上段に構えますと肩が凝りますので、精神は残しつつ、少し上品な野次馬気分も満足させようと、今日は島崎藤村と小久保の関係について私も若干調べたことも織り混ぜてお話しします。


 もう4年も前になりますが、平成13年9月28日付の千葉日報に、「富津市小久保に夏を過ごす、銚子まで旅をした島崎藤村の房総紀行」、こんな記事がデカデカと出ました。


 我々地元ではあまり話題にならなかったですが、これはことのおもしろさや重大性と関係なく、全国紙に比べて権威がないと我々が感じているためまず読まない、読んでも心に引っかからないで素通り、と始めから誰に教わったわけでもない情報の無意識の選択をしているんですね、こういうのは私自身を含めて反省しなければなりません。でも虚心で読んでみますと島崎藤村という文豪の文豪としての出発点がここ小久保にあったのではと見えてきます。日本文学研究上でも無視出来るような場所ではないのではないかと、思えます。

 このあたりは、今では富津市小久保となっていますが、藤村が来た頃(明治20年代後半)は大貫村小久保でした。内房線が開通するのは大正9年ですから、小久保には、横浜から通船で来たのでしょう。

 注1:下に示す手紙の文中に「横浜からよい便船があって今、小久保に来ている。10日ほど滞在してこの間誕生寺などに行ってその後鎌倉の(貴兄の)家に伺うつもりだ」とあるので東京から横浜そして小久保のルートが考えられる。


 たぶん小久保から投函したと思いますが、藤村が友人の馬場狐蝶に宛てた手紙が残っています。


 「この小久保は、漁村で東京から見ると陽気は一月も早かろう。裏には桜(梅か?)の花が白く真っ盛りで、白砂に椿が散り敷く様など、静かな百姓家の二階に寝起きをすれば、濤の音松風が枕に通い、其の風情は拙い筆に尽くせない。2月5日小久保農舎にて、狐蝶兄座右 とうそん」


 こんな手紙が残っているわけですから、小久保に藤村が来たことは間違いない事実ですね。問題は文豪藤村にとってのこの時期です。
 藤村の年譜には、「明治29年1月25日、10日間ほど兄嫁と房州への旅に出、小久保に明治女学校で同僚だった小此木忠七郎を見舞い鹿野山を越えて小湊誕生寺に遊んだ」と、あります。


 藤村は、小久保で小此木から東北学院(現東北学院大学)の教師になることをすすめられて、仙台行きを決心したようです。赴任の前にもう一度小久保を訪ねています。藤村が25才のときです。


 仙台から帰った後、藤村は、もう一度、小久保に来ています。明治30年の夏です。その頃、小久保に明治女学校(キリスト教系の学校です。講師陣は旧幕府知識人。「女学雑誌」という月刊誌を発行し、西洋知識人家庭婦人のあり方を範とした女性教育を実践し啓蒙した。明治学院、東北学院、フェリス女学院、小諸義塾などとは人脈で結ばれていて、教師の相互交流が深かった。)の常宿があったそうですが、そこで一夏を過ごしたと記録にあります。常宿というのはおそらく、今でいう臨海学校とか合宿のときの宿舎といったものでしょうね。


 後に藤村夫人となる「秦 冬」(明治女学校卒)も小久保の常宿に来たことがあるということです。このように明治女学校の常宿があったということですが、私は子供の頃からそんな話を聞いた憶えがありません。


 藤村の云う小久保の「農舎」とか、「常宿」というのが一体何だったのか、どこにあったのか、地元の私も気になりまして、その道の友人などにもいろいろ聞いてみましたが、結局はっきりしたことは分からずじまいでした。


 実は、昭和53年12月に、千葉日報の千葉宣朗記者と森本貞子さんという方が私のところに訪ねてきました。千葉さんは子供の頃に「夜明け前」という映画を観てすっかり感動しましてそれがきっかけで藤村にのめり込んだそうです。千葉さんは、小説の主人公である青山半蔵(藤村の父親がモデル)という人物の足跡を辿って木曽を隅々まで歩いて、昭和45年に「木曽路=夜明け前覚え書き」という本を出しています。この延長線で、千葉さんは、藤村の足跡の中の小久保の常宿にこだわって、小久保の宿屋を尋ねてきたと云うことでした。


 そんなわけで私も昔の記憶をいろいろ辿ってみました。百姓屋と書いてあるが二階と言うこと、農舎・常宿であれば旅館だろうという千葉さんの推定を提示されて、私にひっかっかった記憶は、子供の頃年寄りから聞いた、昔、小久保に「権兵衛」という旅館があったということだけでした。後にその場所も聞いてはいますが、それが果たして明治女学校の常宿かどうか、今となっては決め手がないですね。


千葉さんは藤村においての小久保の重要性について次のように語っています。私が以前に出した本「海には海の楽しみが」に書いてありますのでそれを紹介します。


「もし、小此木との出会いがなければ、仙台行もなかったし勿論、詩集「若菜集」も生まれなかったのではないか。(そういうわけで藤村が小久保に来たことはその後の作品を生むきっかけになっているのです。)その後、ぞくぞく詩集を出し、小説も書き、近代文学の礎を築き上げる道程の中で、一つの端緒となったものは、小久保の小此木訪問ではないか」と千葉記者は熱っぽく語り  「藤村文学の契機となった舞台こそ、まさしく東京湾を前にした漁村=小久保であった。」と結ぶのである。


さて、農舎について、千葉さんもとうとう分からなくなって、宿屋が駄目ならキリスト教関係を当たってみるといっていました。「・・・・・・一つの手がかりは、明治女学校とキリスト教布教の関係である。・・・・・すでに明治25年頃にはキリスト者のための集会所が小久保にあったことがわかる・・・・つまりキリスト教の伝道所や講義所ではなかったか、と思うのである。(千葉宣朗著「島崎藤村房総巡礼より」)


 千葉さんは、この出版で藤村の研究をやめてしまったわけではなく未だに房総の藤村にしがみついておられるようです。


 私もいろいろと調べました。


 さて、私の家に千葉さんと一緒に来られた森本貞子さんの話です。森本さんは、藤村の最初の夫人の「冬」(若くしてお産で死去)の生涯を調べているということでした。


 冬さんは函館で網問屋をやっていた秦家に生まれて、明治26年に16才で明治女学校に入学、20才で卒業しました。
 この学校は明治29年に火事で焼けてしまいましたが、再建運動が起こりまして、冬さんは卒業後も残って運動に協力したそうです。


 話しを明治女学校の小久保の常宿に戻します。私は「権兵衛」にこだわって、ある時権兵衛のことを知っていそうな秋葉きみ(元大貫小学校教員)さんに聞いてみました。秋葉さんは、「権兵衛」という旅館が生家(今の小久保のセブンイレブン)の近くにあったのは憶えているとここで場所が特定されましたが、いつの間にかなくなってしまったし、明治女学校との関係を含めて宿の様子やその後どうなったかもまったく憶えていないといっていました。調査はこんな具合でしたが、森本さんの「冬」研究をあわせて私は自分の著書には次のように書いておきました。


 明治30年夏、明治女学校は小久保(の旅館権兵衛に:と苅込は入れたい)に合宿する。仙台にあった藤村は母の訃報で急遽帰京したが、気晴らしに小久保へ足を伸ばすのであった。冬と藤村はここで出会う。藤村の詩はモダンな中に日本古来のロマンを秘め、冬のような「新しい女」教育を受けた若い女性のあこがれであった。かっての伝説の中の明治女学校の教師であった藤村の挙措は、「冬」の心を大きく動かしたに違いない。


 藤村はここで最初の小説「うたたね」を書く。堅実な商家の秦家は、無職の藤村との結婚を容易に許さなかったが、藤村が小諸義塾(明治女学校の初代の校長が創設)に赴任出来たと云うことを機に二人の結婚を許す。


「藤村と冬は、三男四女に恵まれたが、33才で冬は産後の肥立ちが悪くて亡くなる」と淋しげに語る森本女史は更に、函館の秦家別荘に建つ「冬」の義兄貞三郎還暦祝碑に藤村の辞が銅板ではめ込まれ、 さらに「小波」の句、「花長者水にも富める眺めかな」がのせられていると、話がはずんだ。小波山人は明治大正期の俳人で、一時期、尾崎紅葉の「金色夜叉」貫一のモデルではないかと騒がれた人である。小久保にも何回も来ており実を申せば、私の守ってきた旅館「さゞ波館」の名付け親である。


 藤村も小波も秦貞三郎さんも西園寺侯爵肝いりの文人の会「雨声会」のメンバーなのだから秦さんの碑に二人の文が載るのは当然なのだが、私には、冬さんと「小久保」の巡り合わせと思えるのである。
 「春の海潮甘かれ」と小波がこよなく愛したこの小久保の浜は、かって藤村と冬さんが出会った地であり、藤村が生涯を文学志向に踏み切る舞台でもあった。森本貞子著「冬の家」は昭和62年文藝春秋から発刊された。


 以上、お話ししたことからおわかりでしょうが、大文豪島崎藤村と小久保との関わりは、研究者の間でも大変重要視されているわけです。
 地元ではどうでしょうか。私もそうですが、このような事情について殆ど知らないか、知っていてもそれほど関心を持たないというのが実態です。いろいろな意味で本当にもったいないことだと思います。


 私は今日、状況をお知らせしただけですが、皆さんがこれから藤村と小久保との関係を調べることがあったら、そんな時何かのヒントになればと思いましてお話しました。


 千葉日報の千葉さんも定年になりまして、今は市原に住んでいます。今でも仲間を集めては研究会を開いておられるようです。

 

 小此木忠七郎研究その後

 以下は苅込碩哉さんの研究以後の小此木忠七郎についての話です。元千葉日報記者の千葉さんの所に昔は佐貫町の豪商だったという家の主人からひとつの話が持ち込まれました。それは「うちの家系に小此木忠七郎と結婚した娘がいる」と云うことでした。

 千葉さんのその後の研究は、小此木忠七郎とは何者かに及んでいます。晩婚であった小此木の結婚相手が、佐貫町の豪商の娘であったこと、この縁は小此木の実家である医院での縁であって嫁の実家が小久保に近いとはいえ、小久保とも明治女学校ともつながっていなそうであること、明治42年シアトルに新婚旅行的な旅行をしていること、大正時代の小此木は刀剣鑑定家であったことを突き止めますが、藤村の著作の中にも小此木の記録や言動の中にも「藤村文学」との関係をつかむことが出来ませんでした。むしろ藤村とは無縁な、学者教育者の家系で経済的にも恵まれ、東京の上流階級とのつきあいもある人だったのです。

 結局、藤村にとって小此木とは、若い頃先生仲間であったこと、たまたま東北学院の職を世話してくれただけのごくあっさりとしたものであり、小此木から見ても人生の中で近づいてやがて去っていった人以上の存在ではなかった、と、千葉さんは結論づけています。後にその一人が大変な文豪になっただけに過ぎないということです。

 千葉さんの最初の意気込みとはだいぶトーンダウンした形になりました。千葉さんは「小此木は佐貫町駅に来ると、いつも付近の家から掃除道具を借りてきて駅の便所をきれいに掃除してこれが自分の修行だと云っていた。」という一風変わった小此木の逸話を紹介しています。

  野上弥生子の小説「森」(絶筆)から見た小此木忠七郎

 苅込碩哉さん、千葉さん、森本さん、このお三方が知っておられたか、知らなかったかわかりませんが、昭和60年に野上弥生子著「森」(絶筆)が刊行されこの中に小此木忠七郎とおぼしき人物が鈴木先生という名で夫婦で出てきまして、かなり詳しく活写されています。野上弥生子は明治女学校卒業生三傑(他の二人は羽仁もと子、相馬黒光です)の一人です。

 それによりますと、小此木は明治女学校の国語の先生であること、重大なことを無感情に仰々しくでなくさらりと処理(困っている人に金銭をわたすということでなく就職の世話等という形で助ける)すること、実家が裕福であったため明治女学校から貰う給金以上を明治女学校につぎ込んでいたような印象があり、学校が発行する「女学雑誌」を続けることに実務面・金銭面からかなりの支援をしていたこと、藤村の小説「春」にもこんな性格の人として出て来て、藤村もかなり頼りにしていたこと、などと紹介しています。

 明治女学校の入学生徒減(校長や教師の女生徒に対するだらしなさが原因の一つで藤村もその意味で学校の評判を落とした一人)を野上弥生子はシンパの老先生の言を借りて、「ここに集まっていた方々はただ人ではない。一人一人が竜であり麒麟であり、鳳凰である。ただ、彼らは残念ながら馬車は曳けなかった。馬車は、誰かが曳かねばならない。」と表現していますが、その馬車を曳くひとりが小此木忠七郎だったと野上弥生子は云っているのです。

 小説家や文学者に甘い野上によって馬車馬あつかいにされていますが、小此木から見れば女学校経営や女子教育について自分が鳳凰であり麒麟であると思っていたことでしょう。

 そういうことですと、「若菜集」を世に出したのは小此木忠七郎だったという千葉さんの最初の結論はある意味正しかったことになります。さらに、藤村が詩人から小説家を望みそれが果たされた影に小此木忠七郎がからんでいる、という野上弥生子の示唆は藤村を育てた二重の功績を小此木に与えていることになります。しかし小此木にしてみればただ食うに困っていた人を世話しただけに過ぎずそれ以上の興味はなかったことでしょう。

 小此木はだから有名になった藤村と親しく交わることもせず淡々と女学校教師を務め続けそしてその中で何かに熱中していたようです。おそらく明治女学校閉校直前から全面に出て来た日本女子大にからみ、そして望みは明治女学校の再興かと思われますが、資料がなく様子は茫として分かりません。しかし明治40年代から小此木を取り巻く佐貫町や新舞子の網元旧家の状況から類推想像は出来ます。後にそれを述べます。


 さて話が元に戻って、小久保の農舎問題です。


 野上弥生子の小説「森」は、巣鴨にあった明治女学校のたたずまいをケヤキなどの雑木林に囲まれた森の中の学校とし、そこで繰り広げられる学校行事、先生と生徒の交流、生徒同士の恋のつばぜり合い付近の男子学生との恋愛などを生き生きと描いています。従って、仮に学校の臨海寮やそれに類したものがあれば必ず描かれたはずですが、結論を言えば、学校外での泊まり込み授業などはなかったということです。

 日帰りの遠足すらありません。また、生徒の主体が地方の資産家の娘ということで、夏休みになればほぼ全員がそそくさと出身地に帰ってしまっていたようです。代わりに、職員の夏休みの過ごし方に、校長など上流階級との交際がある人達、または教師の実家自身が箱根などに別荘を持っている人は、箱根や鎌倉、湘南などの別荘に長逗留するという慣習が描かれています。しかし学校そのものが臨海学校や保養所を持ってはいません。ごく一握りの若手教師だけが、湘南よりは安い房州の空き家などを短期で借りてそこで避暑生活をしていたようです。

 小久保に小此木が借りた農舎、常宿は以上の流れの中にあったと推定され、従って明治女学校とは関係なくあくまで小此木の私的な借家、借り別荘であった可能性が大きいのです。藤村は明治25年頃そういうところに転がりこんできたということになりそうです。このあたり苅込碩哉さんや千葉さんの努力が水の泡になりそうです。

 さて、小此木はいつまで小久保の農舎を借りていたのでしょうか。資料的にはまったく分からないのですが、小此木が結婚した明治42年頃にはおそらく(佐貫出身の)嫁の意向に沿ってあるいは小此木の強い意志で佐貫の新舞子の大きな網元髙橋家の離れを借りていたと考えるのが自然です。

 小説「森」の中に、ある女生徒が帰郷すると結婚話が持ち上がっていて、それから逃れるために夏休みの最中に学校の寮にもどってふさぎ込んでいたため、心配した親が上京、鎌倉からたまたま帰ってきていた校長と面談して娘の今後について相談をしたという場面があります。

 この時、校長のアドバイスは、「転地療養がいいだろう。国語教師の鈴木先生が房州の網元の離れを借りていて、そこが夫婦二人では広すぎるといっていたので、なんなら明日からでも行けますよ。」であったことが、当時の状況をよく説明しています。

 問題は房州の網元がどこかです。苅込碩哉さんらはそれは当然小久保の農舎・常宿だというでしょうが、晩婚の小此木のお相手が佐貫町の娘さんだということになれば話は変わります。

 しかも、苅込碩哉さんらの必死の努力の甲斐もなく小久保のどこかが特定出来ない現状と、佐貫新舞子だったらあそこだと即断出来ることを考えれば、明治20年代の小此木の借りた農舎は小久保かも知れないが、明治40年代の「森」に描かれている小此木の借りた房州の網元の離れは新舞子の髙橋家だという説は状況証拠から充分に成り立ちます。想像をたくましくすれば小此木が借りたかもしれない離れは今に残る「加藤家住宅」だと云って時代は間違っていません。「加藤家住宅」は現千葉県文化財の立派な家で、これは明治始め頃に髙橋家が久留里の藩医の離れを買い取って新舞子に移築した家ですがもちろんこちらの方は島崎藤村とは何の関係もゆかりもありません。

 明治女学校が廃校になった後、小此木は佐貫に頻繁に来て何かをしているようなのです。その目的はは佐貫新舞子の船端・笹毛に臨海学校や別荘を誘致することと考えられます。その実績らしきものが現在でも確認出来ます。しかも船端にはこのために提供された土地の多くが多数の押し送り船の船主であるそれこそ房州の網元の家である髙橋万兵衛家からのものであることが確認出来ます。


 「エビ博士フジナガ」と日本クルマエビ研究所

 この研究所は高根の築港のすぐ南にありましたから、皆さんも憶えているでしょう。木造でしたから、仕事をやめたらじきに壊れてしまいましたね。地元の漁師は「エビ研」といっていましたね。


 昭和31年頃だったでしょうか、中年の紳士が家(さざなみ館)に食事に来ました。帰り際に紳士の方から挨拶しまして、名刺をくれまして、そこには「水産庁調査研究部長農学博士藤永元作」とありました。車エビの養殖研究をやっているので、「これからもちょいちょいお邪魔するよ」といって帰って行きました。気さくな人だな、というのが出会いの印象でした。


 藤永博士は日ソ(ソ連、ソビエト連邦=ロシア)漁業交渉にも日本側代表として参加していました。築港のそばにあった油倉庫を憶えていますか?「日本クルマエビ研究所」はその後ろあたりに建てられました。
 昭和32年に、突貫工事で木造モルタル平屋建ての実験室とコンクリートの養殖池が出来上がって、家は普通の民家程度の大きさでした。主任の小花一雄さんという人ともう一人助手が常駐していました。週末になると博士が来て陣頭指揮していたようです。


 藤永博士が目指したのは、うまい車エビを誰でも気軽に買えるようにすることでした。そのためには人工養殖をしてどんどん増やせばよい。そうすれば値段も下がって誰でも買える。これが博士の信念でした。
 後で藤永博士に聞きますと、話しはさかのぼりますが、昭和30年の夏から、木更津の厚生水産(株)に一部屋借りて実験を始め、その翌年には富津町にバラックを建てて移って、ここまでは水産庁の研究としてやっていたそうです。


そして最後に小久保に来たそうです。ここからは民間会社の研究です。そんな事情で、「日本クルマエビ研究所」の所長には厚生水産の親会社であるニッスイの田村啓三さんが据えられました。


 日本くるまえび研究所の経営骨格をどうするかについて、藤永博士は随分悩まれたようです。この時の事情を、本のなかで「私はまよった。(役所をやめて)自分のプライベートの仕事としてやるか、水産庁の研究所のテーマとしてやるか、後者を選べば、雀の涙のわずかな助成金を免罪符として、しかもこれすら国民の税金で、官庁の椅子にものを言わせて、天下りの状況になり、失敗しても身は安全になる・・・・・私は前者についた。」と書いています。
 後になってから、博士の辿った道を知りまして、その偉大さに心を打たれました。ただの役人や学者ではないと思いましたね。


 博士は明治36年の生まれで、萩の出身です。旧制松江高校から東大の水産学科へと進みましたが、大学にいた頃から東支那海のエビを追っかけていたという話しです。卒業を待ち焦がれていたお母さんは「大学まで出て、またエビかい」といってがっかりしたというエピソードがあります。


 エビの研究を条件にして、早鞆水産研究所というところに入り、天草で念願かなって車エビの(生態)研究を始めました。


 普通、エビは産卵期になると腹に卵を抱えていますね。ところが、車エビは普通のエビとちがって、卵巣で卵が熟してきますと、いきなり海の中へ放出するのだそうです。だから、卵を親エビから直接採ることはできませんね。だからといって広い海から掬い上げるわけにもゆかず、とどのつまり、気長にエビを生け簀で飼って、生むまで待つという作戦にでたわけです。


 或る朝、生け簀に真っ白な粒がいっぱい浮かんでいるのを見まして、大急ぎで掬い上げて、顕微鏡をのぞいたら、車エビの卵だとわかったのです。車エビの産卵を人の目で確かめた一瞬ということですね。1933年7月24日ということです。


 車エビの養殖の技術的な説明は、理屈っぽくなるし、私も専門用語などうろ覚えですから私の本を読んでみます。
 「エビの産卵から一匹前になるまでの成長段階は、3回の脱皮変態をする。(ナウブリアス、ゾエア、ミシス、ポストラーバ期と脱皮変態する)人工飼育では、この各段階で、水温、水質はもちろん餌の管理が重要で成長期に応じて適時適切に選んで与える。エビの脱皮成長と餌の研究はまったく同時進行である。」


 藤永博士は大変気さくな方でしたから、地元との関わりもいろいろありました。


 大貫の鯛釣りの時期はだいたい5月から10月頃までですが、漁師はこの時期になると餌の確保に苦労したものです。


 地元では手繰り網(小規模の底引き網漁。車エビ狙い)で副次的に採れた赤エビ(このあたりの方言で「サルッツラ」)を真餌として使っていましたが、時化(しけ)で手繰りが出なかったり、時期が過ぎて赤エビが採れなくなった時には、「エビ研」を当てにしていました。「エビ研」の下に船をつけて、小花主任からアカッツラを分けて貰い、船頭は勿論、時には釣り客も大助かりでした。


 その頃、鷹司平通ご夫妻をこの「エビ研」に案内したことがあります。鷹司夫人は昭和天皇の第三皇女(和子様。今上天皇の姉上)です。鷹司平通さんは神田万世橋にあった交通博物館に勤務しておられて、ここの業務課長山下さんが私とのつきあいがあるという関係で、職場ぐるみ私たちとおつきあいしていました。


 鷹司さんは「ツカさん」の愛称で通っていました。釣りやコーラスの関係でよくさざなみ館に来られました。事前に葉書や電話で予約されまして、当日はご自分でワーゲンを運転して、いつも和子夫人同伴でしたね。和子様は皇族の籍は離れた人ですが、警護などはあるのではと思います。しかし、こちらに来られるときはいつも警護なしでしたね。


 鷹司ご夫妻を「エビ研」に案内したときは、あいにく藤永博士は不在で、小花主任が説明役を務めました。その時のツカさんと小花主任との会話は今でも憶えています。


 ツカさん「このエビの餌は何をやっていますか?」
 小花主任「アサリとアジをたたいてやっています。」
 ツカさん「それじゃ、このエビのアジはアッサリでしょう。」私達案内の一同一瞬キョトンとしましたが、やがて大笑いの渦となりました。残念ながら鷹司さんは不慮の事故で早くに亡くなられました。


 やがて、エビ研の成果がテレビなどで紹介されるようになりました。「エビ研」も、大貫であげた成果で車エビ養殖の企業化のメドをつかんだようでした。そんな頃、藤永博士から私に相談がもちかけられました。研究所を拡張したいので隣接地の地主に話しをつけて貰いたいと云うことでした。その時の地主は東京の高平さんという人でしたが、私の末の弟が世話になっておりまして、早速連絡を取って、博士と一緒に中野の高平さんを訪ねました。伺うと残念ながら私達の目的の土地は金融機関の担保になっていることが分かりまして、結局エビ研も拡張の話しは大貫から離れざるを得なくなりました。


 その後、エビ検は、瀬戸内海の廃止になった塩田の土地に目をつけたようで、ここに拡張後のエビ検が建ったようです。こんなわけで、残念ながら大貫海岸での車エビの養殖企業は実現しませんでした。



注:「エビ検」創業から廃止までの顛末は大佐和町時代の企業誘致、企業育成の実態記憶として貴重です。

 講演者苅込さんの活躍が誇張されるのは仕方ないことですが、それにしても苅込碩哉さんの動きだけが目立って、町や、その後合併した富津市の動きはきわめて鈍いのです。

 企業誘致と云えば、超大企業ねらいでそれを政治家を交えて大々的に、しかし、自分は片隅の一員として対策会議に出席するのが仕事であると、そればかりが企業誘致であるという考え方は未だ改まっていないようです。

 この付近の中堅企業として、黒田精工、尾崎製作所、林時計、キミカなど多岐にあるのですが、これらの企業に対して町や市がどれだけ肩入れしたかが問題です。トップの人となりを確かめて、お眼鏡にかなったらとことん支援する、人材育成として中学高校に奨学金制度を作るとか、土地取得しやすくする整備をするとかやれることはいろいろあったのではないかと思えます。超大企業が来たところで、地元に割り当てられる雇用は周辺業務、人材は、はなから当てにされていないのが実態で、さらに当該事業所トップの裁量権は限られているのです。