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房総里見家の女たち異聞その1

 プロローグ

 新舞子ドラマの第二弾は「房総里見家の女たち異聞」です。佐貫城に寄った里見義弘と、彼の晩年の息子梅王丸を中心とした物語。男女の愛憎、アル中の殿様、里見埋蔵金伝説なども入り込むとごちゃごちゃ面白そうです。なにぶん無才のデン助、どこまで迫れるかあやしいですがやってみます。


 これも種本があって、小幡治江著「房総里見家の女たち」がそれ。小幡さんは、あの「佐貫城秘聞」の府馬清さんと同世代です。里見の歴史追及に熱心過ぎて物語としての面白さは残念ながらもうひとつ魅力的とは言い難いです。場面が急に昔の回想になったり、千葉で生まれた六才の女の子が富士を知らない、戦国時代で南房総から鎌倉に行くのに定期船に乗って行ったのかのような場面などチョットなーというようなところが見られてせっかくの魅力をそぎます。

 登場人物が何で食っているのかの背景が書かれていなくて、全員美男美女なので、大河ドラマと同じで生活感、現実感に乏しい。読者が登場人物の心に入れないもどかしさがあります。

 ただ、義弘を軸に歴史が語られますので分かりにくい里見家の歴史、房総の歴史の流れがすっと頭に入る感じがしました。まず種本の紹介からはじめます。

 房総里見家の女たち(物語り要旨) 小幡 治江著  平成三年「相輪の雲」より

 第一次国府台合戦。小弓公方足利義明(前古河公方足利政氏の次男)と古河公方足利晴氏との争い。小弓方に真里谷・庁南武田氏、里見義堯(よしたか)などがつき、古河方に北条氏綱などがついた。結果は足利義明が討ち死に。義明の家臣佐々木四郎が小弓城から遺児たちをかついで里見に頼ろうと安房に逃れる。遺児は、結姫(ゆうひめ)六才、旭姫三才それに兄の千寿丸(七才)。一行は鹿野山を通って安房へ。時に天文七年十月十四日。


 丸の郷、一行は石堂寺に落ち着いた。佐々木は岡本城の里見義堯に面会、遺児たちの行く末をお願いする。義堯は一同の養育を約束する。年は明けて天文八年一月、千寿丸、結姫、旭姫がここらでは珍しく雪が積もった石堂寺の庭で遊んでいると、佐々木がお客様が来られたと、二人の若者を紹介する。義堯の長男義舜、次男義弘。(実は義舜は義弘の幼名との説あり)義弘は十二才。初対面で、義弘と結姫はお互いにほのかな好意を持った。二人は姫たちを迎えに来たのだ。娘をいつまでも寺に置けないとの義堯のはからいで、結姫と旭姫は滝田城へ移ることになる。結姫は義弘の馬に相乗り、旭姫は輿。(千寿丸は石堂寺のまま?語られていない) このころ里見義堯は房総を北へ伸張していった。父に従って義舜と義弘も房総各地を転戦。やがて義舜は病死(天文十四年)。義弘は佐貫城を預かる身となっていた。


 義弘は、美しく成長し十三才になった結姫を娶り佐貫に連れて行こうとした。ところが父、義堯の反対に会う。義堯は結姫を鎌倉の太平寺に送り尼僧にしてしまう。結姫は十五才で太平寺の青岳尼となった。(旭姫の動向は語られていないが別の史料では東慶寺に送られたらしい)


 天文二十三年、古河公方足利晴氏の息子義氏が北条氏の圧力に耐えかねて佐貫城に逃げてきたことがあった。義弘はかくまった。


 弘治二年(筆者は四年としているが弘治の年号は三年で終わり)里見は三浦半島に北条氏を攻める。この合戦の最中に義弘は鎌倉で二十二才になった結姫と再会、安房へ連れ帰る。晴れて義弘の室となった結姫を、佐貫城は一面満開の桜で迎えた。ところが結姫は、寺の生活で心身が弱っていたのだろう、翌年の二度目の桜を目にすることなく死んでしまう。失意の義弘は佐貫城を一人抜け出し思い出の地、富浦岡本村の浜辺で亡き結姫をしのぶ。やがて佐貫に帰還した義弘はしかし酒におぼれるようになる。

 だがただめそめそしていたのではなく猛将でもあった。永禄三年、久留里城を北条氏康に囲まれた時には大活躍、永禄四年上杉謙信と小田原城を猛攻。永禄七年国府台で北条氏康と会戦、この時は大敗(第二次国府台合戦)。永禄十年、里見の家督を継ぎ、北条軍を上総三舟山で撃破した。一方、この間、義弘に子はさずからなかった。義弘は弟の義頼を嗣子に指名した(義頼は義弘の子との説あり)。こんなある日、義弘は、あの「永遠の恋人」結姫に似た娘に出会った。かっての主君であり、敵対したこともあった足利晴氏の娘であった。義弘はかなり強引にこの娘を後室にし、溺愛して、新婚生活を佐貫城で送った。十九?才の後室と四十七才の新郎義弘に男の子が授かった。梅王丸と名付け、義弘はこちらも溺愛。


 天正二年、義弘の父義堯が死去。すでに義弘が家督を継いでいたため表面的には何事もなかったが、内部では、隠居の大殿の重石が取れ、家臣たちの義弘離れが進んでいた。知らないのは本人の義弘のみと言う状態。

 義弘の心身は酒にたたられて弱っていた。気が弱った義弘は、自分の死後の梅王丸の行く末を案じないわけにはいかなくなる。そうすると邪魔になるのは嗣子に指名した弟の義頼。どうにかして排除したいのだが、どうにもならない。そこで本人は精一杯妥協したつもりで出したプランが安房の領分(父義堯の勝ち取った分)は義頼に、自分が勝ち取った西上総の領分は梅王丸に、の、二分割案。この遺言を残して義弘は天正六年に死去。長年の酒により臓腑がやぶれて大出血による壮絶な死であった。五十四才。義弘の葬儀に、安房衆は誰ひとり焼香にも来なかったといわれる。


 義弘の死を聞いて、義頼はただちに佐貫城の梅王丸を攻める。なすすべもなく、佐貫城開城。(佐貫城はいつも、なすすべなく開城する)開城にあたって加藤伊賀守という武将が敵か味方分からない不思議な行動をする。梅王丸は延命寺に、母は琵琶の首の山城に幽閉される。


 ある日、お聖山御殿でここに連れてこられていた梅王丸は美しい女人に助けを求める。その女人は義頼の正室(北条から嫁いできた人。相模御前と言われた)鶴姫であった。正室とは名ばかりで、房相同盟の人質、政略結婚で十六才で嫁いで二年、里見義頼はほとんど妻のもとに通ってこない状況だった。鶴姫は必死の思いで、義頼に梅王丸の助命を願った。しかし、義頼は心を閉ざしたままだった。やがて梅王丸は聖山の洞窟に幽閉された。それを見て鶴姫は義頼との仲もこれまでと思い決めた。天正七年三月、孤独の鶴姫は自刃。ここに房相同盟は崩壊。このころから岡本城は怪奇現象に見舞われだし、不幸な異変が続いた。気弱になった城主義頼は梅王丸の一命を助け、再び延命寺に送り、出家させた上、当山に預からせた。天正十五年十月、義頼は四十五才でこの世を去った。


 梅王丸はその後も生き続け、元和八年、里美家の断絶を見終わった後、もうこの世に思い残すことはないと、それを追うように死去した。

 物語の流れとしては、戦国の武将の影に、よよと泣く女、結姫、義弘後室、義頼室、の儚く美しく悲しい物語になっています。しかし史実の間に語られている物語の主体であるエピソードの数々はお薦めするほどは面白くありませんでした。


 また源氏物語と同じで、地元民や働く人がまったく出て来ないので現実感がない。

 それはそれとしてこの物語はもうちょっと手を加えればよくなるのではないか。老いらくの恋、少女のような相手の天真爛漫な悪女ぶり、酒におぼれた英雄など書き込めばもっとよくなるはずです。

 またもうひとつ心を配りたいところがあります。それは戦国時代の領国支配のあり方が見えて来ないとリアリテイーが出て来ないということ。戦国時代の戦争で末端で戦っている兵隊さんはどういう人たちなのか、他の多くの戦国時代小説を読んでも分かりません。大将の言動ばかりで物語が進んでいるように見えます。

 司馬遼太郎の「箱根の坂」あたりは書き込んだ方だと思いますが、それでも、彼の言う国人、地侍の中身が分かりません。北條早雲が何によって立ったのか、思想は分かるのですが、具体的に国人、地侍を早雲が否定したのか、取り込んだのかが分かりません。

 そういう風に考えてみますと、里見義弘が戦に勝ったとして、佐貫城に来たとして、その日から年貢が自動的に銀行振り込みで来るわけでなく、その正当性をマスコミが宣伝してくれるわけではないのですから、佐貫城に寄った義弘はまず何をしたか、日々何をしていたのか、を書かないとダメだと思います。これは小幡さんに限りませんが、戦国時代小説(=大河ドラマ)の大きな欠点です。

 こういう問題意識で里見義弘を書き始めようと思った次第です。


 義弘は、司馬さん流に言えば、国人、地侍など、地元中小有力者、ロビースト(代官、庄屋たち)と彼らを手なずけるための連日酒盛りと祭祀で武将としての綺羅(家系のすばらしさ、勇猛さ。)を吹聴して廻っていたというのもひとつの仮説としてなりたつとは思います。別に兵を訓練しているわけでなく、新田開発にいそしんで現場監督したり、ソロバンをはじいて、年貢の高を五公五民から六公四民にするなどと騒いでいるわけではないと思います。

 なお新田開発というのがくせ者で、売るあてがないかぎり新田開発は米価を下げますから既得権益者からは嫌われます。新田開発を思いついたとして、実現までにはそれこそ連日の酒盛りが必要になります。このように考えると、里見義弘とは一種の虚業家だと思います。(虚業=不要ではありません、悪でもありません、念のため。現代で最も近い職業に例えれば国会議員か)

 人々の設定

 デン助の物語がなかなか発進しないのは、登場人物の人生設定が出来ていないからです。いろいろ勉強中です。


 まず、里見家の初期から中期までの拠点とされる岡本城跡に行って見ました。豊岡の浜から歩いて二十分ぐらい。整備が追いつかず、トイレやベンチが朽ちかけていました。二百坪ほどの平地に伝岡本城跡の看板が立っていましたが、私にはどうも信じがたかった。看板には井戸があったと説明があったが痩せ尾根でしかも固い岩盤の崖を見ると水が湧くとはとても思えない。また海からの侵略者を意識しとして、見晴らし効果があるかというと、ふうふう言って上がってみたが、豊岡は湾入なので南北の岬にさえぎられて遠く見通せるわけでもないでした。ふもとは田畑がまったくなく平地すらほとんどない。

 山上でなくふもとに広大な館を造ったのだと考えても、こんなところに拠点をなぜ置いたといわざるを得ません。


 この足で旧三芳村府中に行ったのですが、こちらは広々と美田が続いていていかにも府中の名にふさわしい場所でした。こういう現実を見ると、安房における里見家の支配とはどんなものだったのでしょうか。素直に考えれば、府中は旧勢力(安西氏など)が元気で一歩も入れなかった、おなさけで豊岡の浜にいさせてもらっているといった景色としか思えないのです。

 後期里見家が館山に城を築いたのも考えてみれば不思議です。中世の目で見れば府中こそ国の中心であることは疑いないのに、隅っこの館山をなぜ選んだのかなのです。

 府中、延命寺の里見義堯以下の墓を見るとさらにその感が深くなりました。その小さいこと、戦国期の西上総の名主だってもっと立派な墓をたくさん残していますよ。元和のお家断絶でことさら小さいのだけを残した、あるいは全部破壊されてしまったとして、それでも十万石なら、その発展前でももっと立派であるべきです。


 里見義弘が日々どんな暮らしをしていたのか、その設定がないと物語が発進できません。そのためには里見の支配の実態が設定できないとだめです。一般的なイメージでは、作戦を練ったり、「愛」だ、「義」だとさわいだり、農民や部下をやたらにたたっ切ったり、古河公方や上杉、北条あたりに文書を出したり、兵を訓練したりといったところですが、岡本城の設置環境、お墓のおそまつさからはそんな姿は浮かんできません。だいたい兵を置く場所がない。食わす場所がないではないですか。


 最近、参考になる良い本にめぐり会いました。久木綾子著「見残しの塔、周防国五重塔縁起」です。ここに新田義貞の末裔が地方貴族として生き延びている場面が出てくるのですが、久木さんは、土地の豪族安賀氏が代々の婚姻を通じて支援し若狭新田家として存続せしめていたのだと設定しています。わたしはこれでも、新田の家名は残るかも知れないが、貴族・大名としての実態まで保ちえたか疑問だと思っています。そういう目でみると、安房における里見氏など、新田氏ほどの名家でもないのに、縁もゆかりもない安房に来て、安房には里見など足元にも及ばない安西氏などが居たのに、なぜ大名に成り上がったのか、成り上がったのならなぜあの粗末な岡本城なのか、これは、矛盾だと思います。これをなんとか辻褄あわせをしたいのです。


 久木さんの書いた若狭新田家の主の生活は、公事(具体的に何かは書かれていない)、笠懸による兵の調練(兵の出身母体は書かれていない)が月の内五日くらい、正作田(直営田)の農事の応援(ご覧になる)でした。若狭新田家がこれらが出来たか、私は疑問に思っています。なぜなら兵がいないと思います。正作田はないと思います。


 久木さんの書く女性の方は、参考になります。久木さんは網野善彦史観の徒みたいで、神人、巫女、芸能者が流れ流れてこの人たちが狂言回しになって物語が思いがけない方に進展していきます。

 1.田楽

 目ばかり大きくて、顔色は青黒く、腹がふくれてやせ細っている。「ゆう」は季節の変わり目には必ず七日、十日と熱を出して寝込んだ。何の風の吹き回しか、母親が「ゆう」と乳母のいる部屋に来て、「この娘は育たぬなあ」と、かん高い声で歌うように言ったのを「ゆう」は長く記憶した。母親とはそれ以後会うことはなかった。


 この時代、人は多く生まれたが、数えで七つまでに多くは死んでいった。七つまではこの世の人ではなかった。大人にまで成長して初めて人間として認められる世界だった。わずかの例外を除けば、子は飯を与えて放置されていた。父母は食うに忙しく子供の教育に割く時間はなかった。わずかに祖母がその役割を果たした。特別の家だけが乳母を雇えた。必然的に乳母に子供の初等教育のすべてがまかされた。子供にとって乳母の存在がすべてであった。


 「ゆう」の父は多分に虚業の存在で世間からは小弓公方と呼ばれている足利義明。僧籍にあったのを周辺の地頭、大名(自称、他称を問わず)に担がれて下総の生実(おゆみ)の近くの小弓(おゆみ)に館を構えて虚業の「仕事」を始めていた。子を多くなしたため「ゆう」の存在を意識しているかどうか怪しかった。


 世は支配層の権威が揺らいでちりじりに乱れて、各地でいくさという名の小競り合いが繰り返されていたが、さしわたって「ゆう」の周辺は平穏であった。


 「この世に田楽ほど面白きものはござりませぬぞえ。姫様ももう少しおおきくなられたらお連れしましょうぞ。」乳母の万阿のこれが口癖だった。万阿の語る田楽は若くきらびやかな男女に満ち溢れ、舞や踊りや鳴り物にあふれ、食べ物にあふれ、すべてが満ち溢れていた。男は綺羅と伊達を競い、女は田植えという神聖な労働にことよせて、若い肉体をはでやかな衣装からさらけ出し、久米の仙人の神通力を失わせしめた太腿を惜しげもなく男共の前にさらしていた。若さと、性と、綺羅と、伊達の競演だった。


 万阿は、香取神宮の神人の娘で、自身巫女でもあった。年令が老けて神問いを聞くことが少なくなり門前町の男との間にふたりの子供をもうけたあと、このまま世に埋もれてなるものかと、亭主と我が子を捨てて小弓に来た。


 万阿が「ゆう」に語るものは、真名と仮名の文字と足利の歴史と武家の作法と、田楽の楽しさがすべてであった。そして最後に付け加えた。「姫は美しゆうなられまするぞ」


 しかし、「ゆう」は自分の姿、顔、形を自分で美しいと思ったことは一度もなかった。

 2.小弓御所からの脱出

 館山市立博物館は里見氏研究の拠点です。関係資料、文献多数。南総里見八犬伝の資料が多数あります。惜しむらくは、里見氏の権力構造、支配構造の研究が少ないことか。まあこれは全国的にむずかしいのでしょうが。それはともかく・・・・・


 時代背景等は小川由秋著「里見義堯」(二〇〇五年、PHP文庫)をも参照しています。


 時は天文七年十月。(1538)第一次国府台合戦で、房総連合軍の大将、小弓公方、足利義明は、松戸方面の身内の別働隊が崩れたとの報に烈火のごとく怒り、公方自ら先頭に立って太刀を振りかざして松戸へ急襲。それもあってか、国府台の先頭諸隊は敵の渡河を簡単に許してしまい、その後の動きもともすると北条勢に押しまくられていた。


 国府台の後方に静まっていた里見義堯のもとに、物見が次々に公方の状態を知らせて来るが全体にどうも芳しくない。肉親の苦難を救うためとは言え、あまりに軽々と一騎駆けの端武者のように行動する足利義明に、義堯は怒り、それと同時に、この合戦はこれまでと、退却を決意した。


 結局、足利義明は松戸の戦場で討ち死に。側近の佐々木四郎、逸見八郎、町野十郎らはもはやこれまでと敵陣に向かって切り込みしようとした時、長老の逸見入道が、ここで公方様の後を追うことばかりが忠義ではない、お子様や姫様をお救い申すのも忠義だと説得した。ひとり佐々木四郎だけがこの忠告に従い、小弓御所へ。


 佐々木四郎は小弓御所に公方の留守を守る奥方の楓に、急を知らせた。奥方はすでに義明の討ち死にを知っていた。早速落ち延びる策を相談すると、気丈な奥方は、「実は、里見義堯が安房に帰陣するさい、小弓御所に使いを寄越し、うわさではあるが公方様御討ち死にとのこと。万一その由になって、よるべなきことになったら安房を頼られよと言って来ている」、と、いうのである。佐々木は、公方の生死と、義堯の退却の時間関係が不分明で、義堯をもうひとつ信ずる気になれない。いままでのいきがかりからは真理谷(房総武田)の方が信用できると言ったが、奥方は聞かなかった。そこで、遺児たちを二手に分けることにした。


 足利義明の子は、長男義純が父と一緒に国府台で戦死。残るは男子二人、女子二人。そこで、次男、国王丸は義明側室で生母と、他の側室たちと一緒に真理谷を頼る。三男、千寿丸と二人の女子、結姫、旭姫は、正室、楓と共に里見を頼むこととした。佐々木は信用の置けない里見の方に付いていくことと決めた。正室と千寿丸は親子関係だが、二人の姫は側室の子である。


 時は、天文七年十月九日、二手に分かれて夜をついて一行は南下した。


 里見への一行は、正室=楓、千寿丸、結姫、旭姫、佐々木四郎、佐々木の従者五名、結姫の乳母万阿と千寿丸の乳母、さらに輿の担ぎ手が八人。楓と二人の姫以外は全員徒歩。昼夜兼行で、まず鹿野山神野寺を目指す。


 運命の激変に見舞われた子供らは哀れだった。二人の娘はいたいけな年頃(結姫六才、旭姫三才)だけに、怯えきっていた。鹿野山に近づくにつれて道の左右は奥の深さが計り知れない巨木の大森林地帯になった。上総で随一の森林地帯にさしかかったのである。ここは時として大量の水量であたりが霧がかっている滝に出会い、また、昼なお暗く見上げれば今にも十丈の高さから天狗や魔物が飛び降りてくるような恐怖感に一団の老若男女全員がおびえていた。


 一行はいま、森林そばの苔むして湿めっぽい小堂に休憩中。湯茶どころか水さえもない。遠くでかすかに鳴くものがあった。「く、く、く、くう、く、くう、・・・・」眼をつむっていた結姫が再び不安げに万阿を見る。「姫さま、恐ろしゅうなどございませぬ。あの声は子鹿の鳴く声でございます。」、「しか?」、「はい、明日は鹿野山ですのできっとあの子鹿に会えましょうぞ。」く、く、くうと鳴く子鹿の声は、風に乗って甘哀しく森の底に響く。


 「姫様、お水でのどをうるおしなされ、気持ちが落ち着きますぞえ」、従者が汲んできた水を万阿が結姫にすすめる。結姫は小さな竹筒に満たされた水を両手で支えて、ごくごくと飲んだ。ふと、その無作法を万阿にみとがめられないか、万阿をのぞき見たが、万阿は何も言わなかった。その後は思いっきりごくごくと飲み干した。うまいと思った。その瞬間、結姫のこころが変わった。こんなに人々が密集して、こんなに人々が寄り添って、こんなに人々がお互いをいたわりあって、これこそ、いまこそ、これが極楽なのではないか。おいしい水・・・・結姫はひとりでにこにこ笑った。万阿を見上げると、万阿も笑顔を返した。「姫様、美しいこと。さあお眼をつむりなされ」、結姫はこくりと大きくうなずくと、横になり、深い眠りに落ちた。


 翌朝、朝日が昇りきらぬうち、一行は鹿野山を目指した。東側の山の稜線が黒々と浮かび上がり、やがて太陽が顔を出す寸前、さっと光線が走った。結姫の楽しい気分は今も続いていた。もう窮屈な輿の中に居られなかった。万阿に降りて歩きたいというと、そんなわがままを申すものではござりませぬとしかられた。しかし、一方、千寿丸がよたよたし出したのを見て、万阿は、奥方に、結姫を輿から下ろし、変わりに千寿丸を輿に乗せるべく提案した。奥方は結姫をしげしげと見て、何か不思議な顔をして首を傾げながらその提案を受け入れた。結姫は輿から飛び降りた。


 「姫様、ごらんなされ、夕べの小鹿でございますよ。子鹿」、たしかに子鹿が一頭、道の前でじっとこちらを見ている。結姫はとんとんと子鹿に近づいた。子鹿は逃げるでもなく結姫にものをねだるように鼻ずらを近づけてきた。一行の全員が、こんなことがあるのだろうかこれは瑞兆でないかと感じた。

 結姫はいまや一行の主役だった。奥方が、また、小首をかしげた。「のう、万阿、あの子はあんなに元気で、あんなに美しかったかの?どちらかといえば色黒の、みにくい女子と思うていたが・・・・・・・」、「みにくいとは思っておりませんでしたが、私も不思議なのです。姫はこの土地に好かれたのでしょうか。」


 一行が見ている中で、結姫がさっと手を振るとその命令に従うように子鹿はさっと藪の中に消えた。結姫はその行く方を凝視していた。

 3.舞いの奉納

 鹿野山神野寺についた佐々木四郎らの一行はようやく人ごごちがついた。とにもかくにもここは守護不入の地。中立地帯だけに金さえあれば何人も自由である。さっそく神野寺の長老龍雲和尚に面会し、上総、安房の情勢分析。


 「上総、安房は基本的に半済(守護の取り分を半分に分けてふたつの守護に納める)の地。地生えの守護は育たぬ。真理谷(まりや=房総武田氏)にせよ、正木、土岐にせよ、里見にせよ外から来た官に過ぎぬ。直属の兵は古来からの家の子郎党だけ、直営田など一町歩も持っておらぬ。それだけにふところに飛び込んで頼りになるかなかなか難しゅうござるが、心持だけは、あなたたちが足利の流れとなれば粗略にはせぬと思う。これだけは保障できる」佐々木はまずまず安堵。「里見はどんなものでしょうか?」


 「里見は急成長じゃな。方針がしっかりしている。反北条でな。これが受けて、国人、地侍、地主、郡代、代官、触口連中に支持者が広がっている。北条というのは本人たちがどう取り繕おうが守護が常民から直接年貢を取ろうとしている。わしが考えるに、この方向はこの国の主流になるのだろうが、この百年かそこいらでは完全に変わるものではない。こんな中で疎外されるのは中間層じゃ。わしら守護不入の寺社も例外ではない。北条を受け入れれば、国人、地侍などは北条の家来になるか、それがいやなら常民になるかどちらかだ。どっちもいやなら反北条で頑張るしかない。だから北条が成長し隣接地帯を脅かせば脅かすほど、反北条も成長するのだよ。国人、地侍の土地に検地をしない、新開(しかい=新田開発)を許さない、これと相続や土地争いの調停役を果たせば北条のメジャーが頑張っている間は逆説的だが里見が守護、守護代または権守護、どう自称しようがちんまりとやっていけないことはない。あと、戦上手であればおんの字である。里見の当代(義堯)は慎重なお人で、戦にも強い。国人どもの話をよく聞き評判が良い。当代が生きている限り里見は頼りになる。」奥方も納得。里見義堯は里見傍系の実堯の子で、実堯が直系の先代当主義豊に稲村城で殺害されたのを機に、義豊に反旗を翻し、義豊を平久里の犬掛峠で破って実力で里見を乗っ取った人物。その戦いから四年を過ぎ安房の触れ頭としてほぼ定着している。


 鹿野山は遠い昔に蝦夷が開いて聖地として発展した。主峰白鳥峰には蝦夷の神白鳥(しらとり)神が祀られている。そして谷一筋を挟んで次の峰は蝦夷の王の墓所があってこれが今の神野寺に発展した。 

 ここに天台宗が入り、過去の歴史から蝦夷臭が消え、白鳥神社は倭タケルが祭神になり、さらに今急速に山岳宗教=真言密教化していた。


 しかし、蝦夷の言い伝えは各所に遺っていて、例えば、白鳥峰と神野寺の間の山の西斜面はかってのかがい(歌垣)の地であり、鹿野山では全山のここだけが黒松の疎林となる広場である。ここにある松は遠い昔、かがいの夜が終わったのに別れがたく(暗いうちに別れられずに)二人で朝を向かえてしまった男女が恥じて松に変身して身を隠すと共に永遠の愛に生きるあかしであるという。

 結姫は相変わらず元気が良い。生き生きとして、六才の娘を評するにどうかと思うが、この二、三日でお人形さんのように更に美しくなった。これなら足利家のお姫様と誰もが納得する。

 龍雲和上は、話を万阿に向けた。万阿が香取神宮の神人の出身だと聞いて、和上は言う。日本国の神は、神楽、催馬楽を喜ぶ。近在の人々も娯楽に飢えておる。もし、お万阿殿が神への信仰をいまだゆかしく思うておられるなら、上総に鎮座したまう倭タケルの尊の御前で神楽、催馬楽をなし候へ、小歌、今様も苦しからず。勧められた万阿も久しぶりに華やかな舞台に魅力を感じた。草深い上総の白鳥神社ではあったが「舞」は万阿にとって格別のもの。


 農閑期でもあって、当日は黒山の人だかり。衣装は白鳥神社から借り受けたもの。鳴り物は近在の農家の人々の奉仕で、洗練さにおいて万阿にはいささか不満が残った。


 まず、お神楽を三番奉納。「磐戸=磐戸照開諸神大喜之舞」、「浮橋=八島起原浮橋事乃舞」、「みそぎ=祓除清浄杓大麻之舞」


 鹿野山はいにしへの歌垣の地。筑波峰と変わらない。歌舞や舞に人々の目も肥えている。万阿の舞はそのような人たちを充分に満足させるものであった。さらに舞うべし、我らは集わん、見物衆の賞賛は続く。


 衣装を変えて、万阿は今様を謡い、舞う。


 「男怖ぢせぬ女(ひと) 加茂姫 伊予姫 上総姫 橋に 明かせる 女なえの女(ひと) 室町わたりの あこ(吾子?)ほと(陰?)」、馴れ馴れしい女とからかわれている上総姫、これは加茂、伊予が主体で、上総は語呂と調子がいいので付け加えられたような気がしないでもない。でも上総姫はデン助の感覚ではこういう人も多い。遊女評判記らしいのだが解釈は諸説あり。謡の意味が不明。


 「くすむ(まじめくさった)人は見られぬ 夢の夢の夢の世をうつつ顔して何せうぞ くすんで 一期は夢よただ狂へ」、「仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いづれも仏性具せる身をへだつるのみこそ悲しけれ」


 結姫は舞を終わって上がってきた万阿に見とれていた。上気した中に白粉や化粧の、好いにおいが沸き立っていた。「姫様、よくみられましたかや?」結姫は問う。今日のこの集いは、万阿のいう田楽ほども楽しいのか。なんぞ、何ぞ、田楽はこんなものではない、と、万阿は不思議な表情を見せて、結姫に微笑みかえした。

 4.佐々木四郎、里見義堯と対面

 奥方の意向は決まっている。今回の公方様の件でほとほと懲りた。足利の家も命脈がつきかけているやも知れぬ。僧籍にあったものが自らの意志ではあったが還俗して、公方様は苦労が多かった。苦労のほとんどは家が軽くなっていくこととの戦いに明け暮れた。

 しかし、足利の家に生まれたかぎりは、特に男子はその苦労を甘受せねばならない。従って、千寿は男子ゆえ、元服まではまず良き教育の場に導かれたし。聖俗はあえて問わない。その後は本人の器量次第である。御父君のように敗死するも名誉である。


 女子たちは、どうか利用するのはやめてもらいたい。私の姉のいる、東慶寺に母子ともどもお世話になりたい、このことくれぐれも安房の殿様にお願いしてほしい。


 佐々木四郎の懸念は、先にも述べたが、下総国府台での、里見義堯の早すぎる戦線離脱である。里見のこの行動が公方様の敗因のひとつと見ているのである。なぜあの行動となったのか本人に問い正したい。問えば奥方の行く末のお願いの使者からの逸脱は目に見えているが、しかし、問いたい。義堯の行動は信用できないのである。また実績では傍から見て、里見が安房の国主に見えるが内実がどこまでともなっているのか、これも会って確認しなければならない。ふたつの確認事項が重すぎる。そんな人物に奥方達の行く末を頼めるのか。そう思いながら、結局安房深く入り込んで、今は、丸の里、石堂寺にいる。好むと好まずとにかかわらず里見を頼らざるを得ないのは分かっているが心がどうしても進まない。


 奥方、結姫、佐々木らがいる石堂寺は、いにしえの安房府中の東寄りにあった。西寄りの里見義堯の居城する滝田城とは二里ほど離れている。馬で走れば四半時の距離なのに佐々木には遠い。


 石堂寺はひな壇のような山の中腹に塔頭が立ち並んでいて、寺として中々の威勢である。結姫たちは塔頭の最上段にある子院のひとつに仮寓している。軒が低く、わら屋根で、部屋は全室畳敷きで、お寺というより趣味の別荘のような按配でいかにも居心地がいい。庭は一面のお花畑になっている。初冬の今は花が少ない。


 高貴の子供達は、乳母を挟んでいる点と、元から異母である点で普通は顔を合わせる機会がない。従って、たまに会ったとしてほとんど話などしない。しかし、今回は逃避行でそんな他人行儀が出来なくなっていた。最初の一、二日だけ、目が会うと、お互い乳母に隠れてアカンベエーをしていたが、今は普通の兄弟のようになって遊んでいた。彼らにとって今は毎日がピクニックであった。


 奥方や乳母たちが亡き公方足利義明の菩提を弔い、今後の安泰を祈って念仏三昧の中、子供達は寺の境内の探検に余念がない。


 「兄上さまあ、待ってえ」結姫が叫ぶと、その声に驚いて、寺山の梢の小鳥が一斉に飛び立った。「ゆう、あさひ、早く来てごらん、仁王様だよ、こわいぞお」。とんとんと駆け寄る結姫。旭姫はころばないようによちよち尺取虫の歩きで注意深く歩く。薄暗い中に仁王を見つけて「わあ、こわい」と、旭姫。「ゆうはこわくないのか」、「ええ、見えるからこわくない。この前のように見えないで声だけだと怖いけれど」。結姫は鹿野山での夜の不気味な小鹿の鳴き声の怖さと、翌日に再会した小鹿の姿を思い出していた。見えなかったときの不気味さとはまったく正反対の姿かたちをした小鹿はしきりに耳をひねって周りの音の出どころを推理し、その音が見えるものと結びついたと解釈をして安心していた。


 佐々木は重い腰を上げて滝田城への道を馬で行く。かつかつ威勢のある乗り方ではない。里見義堯に書状を出し、彼からの返事が来てからの滝田城訪問であるが、心は名実ともに敗残兵のよう。佐々木の心情とは裏腹に、初冬とは言えここ安房の府中の里は明るく暖かい。佐々木は公方の使いで伊豆韮山に掘超御所跡の後北条氏を訪ねた時を思い出した。伊豆の府中の里と、ここ安房府中の里は広さといい、気候といい、よく似ている。違いは伊豆の狩野川に匹敵する大河がここ安房にはないことである。


 滝田城の入り口から城を見ると、緩やかな傾斜の中に見るからに地味の肥えた田畑がひろがり、典型的な鎌倉秩序の城構造であった。滝田城は里見の前は一色氏(里見と同じく関東足利氏の官僚)の築城と伝えられているが、田畑に対する備えは明らかに地生えの大名の雰囲気があり、佐々木は、この景色から、里見義堯の安房の支配がゆるぎないものであることを感じ取った。


 滝田城の外廓に義堯の居留する館があった。ごくごく小ぶりな萱葺きの屋敷でそこらの豪農と変わらない。堀さえ巡っていない。入り口の砦のような門そばに大きな井戸があった。城内の豊富な水の湧出を誇示していた。敵襲には、この館など、はなから捨てる覚悟なのだろう。館に入った佐々木は控えの間らしきところに、主と対等の位置関係に座らされ、義堯が来るのを待たされた。館内は静かで、遠くの頭上で十頭程度の馬と武者が笠懸の稽古か何かをしている気配がしていた。城内に馬場があるのだろう。近年上杉派の太田氏あたりから流行りだした足軽戦法から見れば笠懸など古さを否めない。しかし佐々木は騎馬戦隊の効果に疑問を感じる方ではあったが、一方で、それでもなお騎馬侍の美意識を捨て切れない。戦争は強ければ良しということではない。

 5.里見義堯とは何ものか

 天文七年十一月。この時里見義堯は三十四才。主筋の里見義豊を倒し、主家を乗っ取って四年、房総里見家当主としては六代目。嫡子義弘は十四才。義堯は実父の実堯(さねたか)が殺害されて血ぬられた稲村城(府中南側)を封印、放棄し今はここ滝田城(府中北側、平群に近い)に拠点を移していた。


 滝田城控えの間、佐々木が待ち続けて一刻が過ぎても安房の守は現れない。佐々木の心にさまざまな疑念がわきかけた頃、ようやく遠くから足音が近づいて腰高障子がさっとあいて義堯が現れた。「待たせた」、佐々木が平伏する。義堯は無言ですっと自分の席に着座した。佐々木と目があった。義堯は痩せぎすで手足が長い印象、戦場の武将というより有能な事務官僚のように佐々木には見えた。佐々木と義堯の身分関係は、足利体制秩序からはどうなのだろう。足利体制がほころびかけている現在、これの解釈の相違だけでまとまる話もまとまらなくなることがある。佐々木はあくまで「対等」の認識だが、義堯がどう思いどう持って行こうとしているのかは分からない。それを察したのか、義堯が口火を切った。


 「守護ともなると年貢、課役の調整、受領にそれこそ目を皿のようにして何ヶ月もかかります。錯綜不合理の巣窟ですからね。しかし過去の積み上げは尊重せねばならぬ、だから今日の分決着をつけないで中座したら訳が分からなくなる。そんなこんなで遅れてしまった。待たせて申し訳なかった。」義堯は形だけ頭を下げた。「いえ、お気遣いなく」、「佐々木殿はこの辺の経験はおありか?」、「いや、ありません。もっぱら取り次ぎ、秘書役でござりました」、佐々木の過去形の表現に義堯は応えた。 「小弓様にはこの度はお気の毒であった。」、佐々木の顔がゆがんだ。本来ならここで号泣すればスッキリ出来るだろうにそれも出来ない。


 「佐々木殿は私の他人事のような言い方にさぞ気を悪くされただろうが、こちらにはこちらの言い分があるのじゃよ。」


 義堯は語り始めた。今回の戦は反北条ということで、小弓様からの召集があった。ところが行って見ると内実は真里谷がふたつに割れ、当主信応に追放されたはずの信隆が北条に泣きついて北条の陣に加わってしまった。これだとどちらが勝っても真里谷が弱体化してしまう。里見としてはこれを見た段階で戦意がなえた。さらに追い討ちをかけたのが小弓様の行動。松戸で足利義純様が討ち死にの報に接して前後をわきまえず、御大将自ら太刀を振りかざして討って出られた。大将が勇をふるう場面はあそこではない。私はこの戦これまでと思った。しかし、誤解しないでほしい。里見が旗を巻いたのは義明様討ち死にの確報を得てからのこと。このこと、次の世へめぐったお方の目にもはっきり見えていると思う。私にうしろめたきことはひとつもない。里見は一兵も損じなかったが、しかし、あの戦があのざまで、私に北条の圧力がひしひしと伝わってくるわ。海を渡って北条が次々と襲ってくるわ。しんどい話だ。


 佐々木は奥方の意向を打ち明けた。そして、あえて、佐々木自身は真里谷を頼るべきだと主張したことも伝えた。義堯はそれを別に不快がりもせず、次のように言った。


 「佐々木殿は、国府台の戦のあとの真里谷を存じておられぬな。無理もないことだがの。実は北条は国府台の勢いのまま、椎津まで攻め、椎津に信隆を置いて行ったわ。真里谷は内乱が振り出しに戻りおった。どこもかしこも直系、傍系の内乱で、私自身もほめられた身ではないが、内乱はしんどい話だ。ここの調停にこそ公方様の価値があるのになあ。実際には公方が介入してうまくいったためしはない。なげいてもせんない話だがつい愚痴が出るわ。それはともかく真里谷はそういうことでしばらくゆれるぞ。」


 「里見を頼った奥方様の判断はまちがっておられなかったわけですね。」、「まあ、そうとも言えぬかも知れぬが、私は少なくとも奥方様一行を何かに利用する気持ちはない。反北条であるかぎり私は足利を支えていく。この点は信じてもらって良い。」義堯は話を続ける。 


 「里見は安房に来て百年になんなんとするが、今だ直営田の一町歩もない。直属の家臣など何人もいない。兵力としては正木だけが頼りだ。守護の沙汰分のみの安房の年貢の取り分ではこんなもの。あとの兵は安西、金余、長田、東条、丸、平群などの頼朝公以来の御家人の流れをくむ父老たちの世論次第だ。幸いなことに安房は今は反北条で固まっている。北条の支配の根本を教え諭しているからな。上総はかなり北条が入り込んで甘言を弄して父老の考えがゆれている。逆にこちらから説明に行かねばならぬ。その機会を狙っているところだ。そんなわけで、里見は反北条、足利体制擁護が旗印でなくこれが権力の根源なのだよ。だから足利は信じてもらって良い。」
 「ありがとうござりまする。さぞや、奥方様もおよろこびになると存知まする。」
 「ゆるりとされよ。急ぐことはない。この際すべては年越しての話。随分と養生されよとお伝え下さい。」


 佐々木は、宵の口に滝田城を辞した。あの、里見六代義堯様はまさかわれ等をだますまい。月が昇り始めた。山名村を抜けて通りに立てば石堂村は目の下。長安山の森は月光に照らされて黒々と固まっていた。佐々木は長安山中にひたすら自分を待つ、千寿丸、結姫、旭姫等を思った。佐々木四郎ははしっと馬を打って一気に峠を駆け下った。

 6.義弘と結姫

 その年があけて天文八年一月末。石堂寺は安房には珍しくかなりの大雪で、あたりは一面雪化粧。千寿丸、結姫、旭姫の三人が薬師堂の階段をゆっくりと上がる。階段が磨り減って、おまけに雪が積もっているので足がすべりそうであった。お互いに助け合いながらゆっくりと上がり、薬師堂についた。薬師堂は周りを土塁に囲まれていて、その土塁にも雪がはりついてきらきらと光っている。薬師堂の前庭を千寿丸が足跡をつけて歩き回る。


 千寿丸は樫の小枝をむちのように振り回しながら、雪の積もったクマザサをパシッ、パシッとはらった。そのまま直進して千寿丸が雪だまりに足を踏み入れると中が空洞になっていたのか、千寿丸はぐらりと体の平均を失った。「あっ、ああっ」千寿丸はつるつると雪の斜面を滑走して行く。「あっ、兄上さま!」二人の姫は同時に声を上げた。千寿丸は小枝を握りしめたまま、薬師堂のまん前まで滑ってそこで止まった。転ばずに二メートルの滑走を終わって千寿丸は得意そうに妹たちを見やって「どうだ!」、と言った表情。娘達は羨ましかった。自分たちが出来ないので悔しくもあった。そこで、口で敵討ち。「お立派です。さすが源氏の御大将におわします。」と、結姫が乳母達の口癖を、声色までつかっていった。千寿丸は照れた。


 キャ、キャと姫たちは雪玉を作り、キャ、キャと言いながら、雪玉にナンテンの葉の耳をつけたりした。雪明かりで大地は遠くまで白くたいらでどこまでもこのまま行けそうだった。


 「あっ、つめたい!」、今度は三人が首を縮める。薄雪が陽に溶けて頭上の松の葉先からつるりと落ちたのだ。三人は頭から雪をかぶって、また、キャッ、キャッと笑った。


 朝の陽が高く上がると雪はいよいよ絶え間なく生垣の珊瑚樹の上を半分しずくとなって滑り落ちている。
 「千寿丸さまっ、於結さまっ旭さまあ」、万阿の声がした。三人は雪をはらって居住まいを正した。「さあ、ここへ、皆様にお客様でござりまする。ただいま、こちらに来られます。お行儀良くごあいさつくだされませ。」


 石段をゆっくりと登ってくる人影があった。若者ひとり。雪ですべる石段を苦もなく登る姿は動きに無駄がなく、しなやかで、千寿丸より七才ほど年上の差というより千寿丸とは住む世界が違う人種だった。結姫はいつか鹿野山で見た子鹿を思い出していた。さっと手を上げたら飛び上がって走り出すように思えた。


 若者はまず千寿丸の方へ形だけの会釈をして、「略儀ながらごあいさつもうしあげまする。私、安房の守の子息、里見太郎義弘でござりまする。以後、お見知り置きくださりませ」、


「あい、分かった。」千寿丸はそれだけしか言えなかった。結姫は内心まずいと思った。略儀であり、子供達だけの挨拶ではあったが、下風に立つことは許されなかった。義弘は略儀を言い訳に片膝を突くことさえ省略しているではないか。この面会の強要も、片膝を突くのをいやさに義弘が仕組んだものではないのか?


 義弘が結姫たちの方に来て同じ口上を述べた。口上の後、義弘と結姫の目が合った。結姫は義弘の顔に好意の驚愕が走ったのを見逃さなかった。


 「太郎様、お腰の扇を結に見せてたもらぬか?」、「はっ?、扇でござりまするか?」、「結はまだ扇を持たぬ。見せてたもらぬか?」、「家紋だけの無骨な扇でござりまする」、「太郎様の扇がほしいのじゃ」、義弘は、腰の扇を抜くと、結姫に手渡した。さすがに片膝をちょんと突いた(まね)をしての手渡しであった。結姫は満面の笑顔で扇を受け取った。「足利の家紋と同じじゃな。二引両」、結姫が扇を開いていった。「足利家の末の流れではござりませぬが、里見当家も足利公方様とおなじ源氏でござりますれば。我らは新田の末でござりまする」、「扇をありがとう」。結姫は話を打ち切った。


 義弘は結姫に敵を取られたとおもった。しかし、楽しい負け戦であった。「本日は姫様をお迎えにあがりましてござりまする。詳しくはまた客殿の方で皆様におはなし致しまする。ごきげんようお越しくださりませ。しつれい!」


 若武者が、階段を下りて行く。今度は二段飛びである。結姫は鹿野山の小鹿を思い浮かべた。


 「姫様、ごりっぱでござりましたぞえ、あの若者無礼でしたな。よくぞ敵をとっていただきました。奥方様によくよくいっておきますえ」
 結姫は、扇を開き、また閉じしながら、義弘の去った後を凝視していた。

 7.安房府中、初春の里

 しきりに馬がいなないていた。石堂寺山門の前の広場。結姫は里見義弘の馬に、旭姫は佐々木四郎の馬に同乗した。「はいよっ」、義弘の声に待ちかねたような走りっぷりで二頭の馬は小気味よく地を鳴らした。傾き始めた陽に向かって滝田城へ走るのである。


 石堂寺客殿での話し合いは終始里見のペースで進められた。結局、千寿丸は石堂寺にて成人になるのを待って得度、出家する。それまでの間も石堂寺で修行ということになった。奥方、結姫、旭姫は、当面、滝田城に移り、鎌倉東慶寺との交渉を重ねることとなった。滝田城では、里見義堯の側室、於勝の方(義弘の生母)が奥向きを取り仕切っており、自然、於勝の方の客人として迎えられることになる。この時、義堯には正室(万喜城から嫁入り)がいたが、虚弱なため、実質的に於勝の方が城主夫人であった。


 この当時、わずか二里の移動でも、出発の日は方向や暦で決めるのが常例だったが、奥方が子供達を呼んで以上のなり行きを説明したところ、結姫がいますぐ出発したい、それも馬で行きたいと言い出して、ひともんちゃくがあった。しかし、結局、結姫の希望がかなって、結姫と旭姫は今日の出発となった。奥方や乳母たちは後でゆっくりの出発ということで話がまとまった。この間、千寿丸は終始下を向いてくちびるをかみしめていた。奥方は、「千寿をなぐさめねば」と思った。


 馬は二頭。カツカツと進む。安房府中の野は、きのう、あれだけ積もった雪がすでにない。ところどころに水仙の花すら見えている。日ざしのまぶしさに於結は思わず小袖をかざした。それを察した義弘は左の自分の袖を結姫の上にかざす。袖からほのかな日向のにおい、麦わらのようなにおいを結姫は受け止めていた。「太郎様は日向のようなにおいがする」、「汗のにおいなら無礼を許されよ」、「わらわは男は嫌いじゃ。千寿丸は意地悪ばかりをする。なれど太郎さまはやさしいから好きじゃ。」、「千寿丸様は男ではなく、男の子だからいじわるなのじゃ。千寿丸様もやがてはおなごにやさしくなられまする。」、「太郎様はほかのおなごにもやさしいのか?」、義弘はそれには答えず、馬を止めて言った。「姫、ご覧なされ。富士の山じゃ。」、後ろからついてきた佐々木の馬も止まった。佐々木が身をかがめて旭姫に何かいった。人々はそれぞれの思いを持って富士をみつめた。夕日で茜色に染まりかけた空の中に三角形の山容がくっきりとしたシルエットを見せていた。


 「あさひ、ごらん。富士よ!」、結姫が旭姫に呼びかけた。佐々木が首を振りながら結姫に無言の笑顔を見せた。旭姫は馬の背にゆられて眠っていた。


 結姫が義弘をふりあおいで言った。「あさひは寝ておる。太郎様ちょっと速駆けせぬか?一町ほど行って待つのじゃ!佐々木!ゆるりとおいで!」、合点承知といったいきおいでうなずくと義弘は馬を速めた。一町ほど行って義弘は馬を留めた。カツカツと輪乗り。結姫の頬が上気していた。「姫は文字を習うたか?」、「かななら習うた」。義弘は馬を止めた。遠くに佐々木の馬が見える。義弘は姫の右手を取って、手のひらに「ゆうき」と書いて言った。「姫さまの名は於結。どなたが名づけ親か知らぬが、「結」の字は里見にとってゆゆしき名前。忠義の里見が戦い抜いたお城の名前じゃ。百年前のあの時は敗けてしもうたが、私は、今度は私の手で姫を守り抜く。」


 結姫はきょとんとしていた。義弘は続けた。「私は、今、決意した。私は、私は、結姫を守り抜く。たとえ父上と対立することになっても姫を守る。」


 結姫はうれしそうに義弘を見上げていった。「ありがとう。だが、太郎様はさきほどの話に答えてくれていない。太郎様はほかのおなごにもやさしいのか?」、「私はなよなよしたおなごはきらいじゃ、おなごのほとんどはなよなよしている」


 佐々木四郎の馬が近づいてきた。結姫は義弘の答えで満足せざるを得なかった。この話はふたりだけの秘密になった。

 8.鎌倉尼五山筆頭太平寺

 滝田城での結(ゆう)姫たちの生活が始まった。里見義堯の配慮で滝田城外郭のひとつに屋敷が与えられた。おさない結姫たちにとっては、小弓での退屈な、しかし安泰な御殿生活の再現だった。


 奥方たちの生活は戒律のゆるい尼寺でのそれに似ていた。毎日午前中の勤行が基本的に生活の中心でこれは亡き夫である足利義明の供養の仏事である。奥方は未亡人として出家の形を取り、髪を肩の長さで切りそろえる尼削ぎの姿になっていた。(人前に出る時は頭巾をかぶる)


 奥方たちの身のふりかたは、里見義堯を通して、鎌倉東慶寺との交渉が断続的に続いていた。奥方は年令が年令なので、いまさらきびしい戒律のもと、灌頂を受けて比丘尼になるなど思いもよらず、姫たちの得度の年令(十二~十三才)を待って、その母堂の格での尼寺入りを希望していた。鎌倉の寺社は本来守護不入の地であるが、現実には、古河に退いたとはいえ足利、かなり衰えたとはいえ武蔵の上杉、そして新興の小田原の北条の意向が何事であれ決定に大きく作用する。こんな中だから、里見の対東慶寺外交は好むと好まざるとに関わらず政治的にならざるを得なかった。東慶寺を第二位とする鎌倉尼五山に口を出すことは並みの守護・地頭のなせる業ではなく(戦に強い弱いは別である。例えば甲斐武田、越後長尾などの出る幕はない。長尾が関東に口を出せたのは名跡「上杉」を継いだからである)、自称であれ、関東管領、または将軍副師の格が必要だった。義堯が口をだす狙いもそこにあった。これにかかる費用は惜しまないつもりだった。寺社を利用する、このような動きは里見にかぎらなかった。むしろ北条などはより大規模に行って鎌倉の八幡宮の再建を名目に関東各諸侯に材木の寄進をしきりに勧誘していた。(八幡宮は九十年前、里見義実等によって焼き討ちされた)


 国府台合戦後の房総情勢は、あれほど働き者だった北条氏綱の動きが鈍くなり(実は天文十年に死去する)、ひところに比べて平穏になった。ただ、しかし真里谷武田の内紛がますます泥沼化しており、ここに北条が口をはさむチャンスがあるはずで、里見にとっては上総=北からの脅威に備える必要が大きくなった。具体的には真里谷の内紛には中立に動き、上総、特に西上総の諸土豪を「親」里見に持っていく政治の必要性が増した。


 こんな中、結姫、旭姫には、将来の得度に向かっての英才教育が進められた。幸いに二人とも充分な資質が認められたため、それに磨きをかけるべく、教育への熱が増し、義堯が親しく師と仰いでいる保田の妙本寺の日我に教育がゆだねられ、出来れば五山筆頭の太平寺、それが無理ならせめて第二位の東慶寺へが(本人以外の)皆の一致した願いとなった。


 ちなみに鎌倉尼五山とは、太平寺、東慶寺、国恩寺、護法寺、禅明寺である。第一位の太平寺は、正月十六日には鎌倉公方が太平寺長老に茶を馳走するのがならわしであり、二月には焼香のため参詣するならわしとなっていたほど寺格が高かった。


 結姫の少女らしいメルヘンチックな世界は終わった。義弘と会うこともなく、そんな機会があろうとも思えなかった。すべてはひとつの定まったレールの上を走るはずだった。結姫と義弘本人たちも、淡い記憶の中に、はかなく甘い疼きが残っただけのはずだった。


 しかし、これから十七年後、結姫と義弘の色恋沙汰が原因で、五山筆頭の太平寺が跡継ぎ不在という理由で断絶滅亡するのである。

 9.三芳野田楽デビュー

 物語は天文十年五月に進む。結姫は十才、旭姫は六才になった。里見義弘は十七才。このころ、滝田城の前に広がる田んぼは里見家の直営田のような性格を与えられていた。守護の仕事の大きな部分として農事の奨励があり、農事に関わる年中行事を執り行うことは守護にとって大事な仕事のひとつであった。


 田楽=田植え祭。中世の娯楽の王様の雰囲気を想像するのは今となってはむずかしい。泥だらけの早乙女を見て、または早乙女自身、何が楽しかったのか?刺激や遊戯に満ち満ちている現代の目で見ると分からないのである。中世の田楽、猿楽は村の素人演芸から、プロによる興行、はては能・狂言まで幅広く展開し、中世人を魅了し続けたのであるが、これの魅力を現代人に納得させる文才を残念ながら私デン助にはない。これらの雰囲気の一端を文芸作品の中でざっと見るに以下こんなものがありました。


 高橋和巳「邪宗門」に日の本救霊会の信者達の村で、村中総出の田植え祭。教団の青年団が歌い、踊り、太鼓を鳴らし、教主がへたなダジャレで周囲を笑わせ、奥様が長老連を接待し、お嬢様が晴れ着で居並んでいる光景。さらにラスト・サムライで渡辺謙の扮する殿様が意外に上手に奉納舞を舞う光景。オリビアン・ハッセイ主演の映画「ロミオとジュリエット」の領主の館での覆面パーテイーで、村の美声青年の恋の歌に皆が聞きほれる光景。これらを想像のよすがとしたい。


 滝田城を背に、にわか造りの桟敷と舞台が設けられ、桟敷には里見義堯以下、有力武将、住職、神職長老連が並び、奥様方も並んでいただろう。客人の席には結姫、旭姫も晴れ着で澄まして座っていたことだろう。里見義弘は桟敷にはおらず、里の若者と同じいでたちで、早乙女たちに苗を手渡す役目をしていた。太鼓が鳴り、笛が鳴り、美声の男の田植え唄が野に響くと、早乙女たちがそれに和して歌う。見る見るうちに苗が植えられていく。領主からの贈り物が山のように積まれ、飲食自由、無礼講の見物衆からやんやの喝采。


 雲間から時おり日が射すと、その時をねらったようにツバメが低く矢のように通り過ぎていく。


 桟敷席から結姫と旭姫がいつのまにか見えなくなった。見物衆はほとんど気がついていない。やがて結姫と旭姫が早乙女の姿で田に降りて来たので、ここで見物衆から大拍手。二人とも編み傘をかぶっていない。布で髪を束ねているのでりりしく見える。しかし、それもつかの間、旭姫の方は田んぼに入って二、三歩でパタンと倒れ、顔中が泥だらけになって泣き出して乳母に連れられて退場。ここでまた見物衆がワーッと大歓声となった。


 結姫の方は恐る、恐る田んぼに入って行く。義弘が手渡す苗を無視して、(実は足元に注意が集中していて気がつかなかった)結姫が他の若者から苗を受け取ったので、義弘が大袈裟にガクッと肩を落す。反対に苗を受け取ってもらえた若者は大感激、大喜びする。三人の動作が帰せずして狂言になった。ここでまた見物衆が大喝采。


 結姫は上気した顔で、見よう見まねで苗を植えて行った。太鼓、笛はなりやまず田植え唄が続いていた。


 最後になって、旭姫。着替えた早乙女姿で再登場。にこにこしながら、こちらは義弘から苗を受け取ると、早苗を植えて行った。見物衆のどよめきが大きくなり、大拍手が鳴りやまなかった。


 田楽、夜の部はかがり火がたくさん焚かれた舞台での、能、狂言。能では京から来た一座に交じって里見義堯も颯爽と登場。祝いの「鶴亀」の演目でシテ役を舞った。地謡が朗々と流れた。「月宮殿の白衣の袖のいろいろ妙なる花の袖、秋は時雨の紅葉の葉袖・・・・・・君の齢も長生殿に還御なるこそめでたけれ」、殿様芸を超えた闊達な演技であった、そして最後は、乳母、万阿の演ずる神楽。白拍子の装束で端役をおおせつかった結姫が待機しているところに義弘が扇を届ける。義弘が結姫に何ごとかを囁いた。結姫は挑戦的に義弘を見上げると扇を受け取った。そしてかすかに義弘にうなずいた。結姫のひとみが、かがり火を受けてきらきらと輝いた。


 万阿と結姫が舞う。「榊葉も香をかぐはしみ求め来れば八十氏人ぞ円居(まとい)せりける円居せりける」、「木綿(ゆう)しでの神の幸田に稲の穂の稲の穂の諸穂に垂(し)でよこれちほもなし」、 「若草の、や、妹も乗せたりあいそ我も乗りたり、や、船傾くな、船傾くな」

 10.勝浦城

 天文十一年。滝田城の里見義堯の元に、鴨川の山之城に陣取っている正木時茂、時忠兄弟が訪ねてきた。正木は内房(勝山)、外房に拠点を張っている地頭格の土豪で、里見義堯とは、犬掛の戦い(里見氏天文の内乱)、国府台合戦などを共に戦ってきた仲である。安房国の寄り親、里見にとって寄り騎の大きな一家であり、ここの動員力三百人と、里見の七百人と合わせて合計千人が里見の元資本(里見の旗本隊)である。(対外戦では土豪連合の形を取るので、ここに周辺土豪が加わる。従って最大動員数は三千から五千人にまで膨らむが、元資本隊を除けば形勢観望で味方が勝てば留まるが負ければいち早く逃げる)


 正木家は、北条早雲によって亡ぼされた相模の三浦義同(よしあつ)の遺児が新井城(油壺)を脱出房総に逃れて家を再興したという伝説を持つ。里見と似たような発展の仕方である。ちなみに三浦家は鎌倉中期の宝治合戦で主家は亡びたが分家筋が戦国時代まで三浦三崎に寄って三浦介を名乗り、そこそこの勢力を維持していた。その最後が三浦義同である。


 なお、正木家に戻ると、正木家は小田喜正木と勝浦正木の二流(他に内房正木家もあるが)があり、ほぼ里見とずっと行動を共にしたが、戦国末期に両正木同士の内紛により、城主としての実態を失う。この時、勝浦城から逃れた姫が、伊豆、韮山に流浪していた時、家康の目に止まり、側室にあげられて玉の輿に乗る。紀州の頼宣、水戸の頼房の生母がその姫である。家康は、この姫=お万、その人の魅力もさることながら、お万の血(=三浦)にぞっこん惚れ込んだ形跡がある。


 それにしても、三浦家は武士の発生期から華麗な歴史を刻み、三度亡びてなお最後に天下人(当時は将軍になる前だが)の徳川家康にくっつくのだから、この血の持つエネルギーはたいしたものである。「武士」の全歴史を中央上位の地位を保ちつつ一時は天下を伺う位置も経験した家は三浦家以外ないと思う。なお、三浦家ゆかりの寺の仏像は要注意。運慶の真作が人知れず眠っている可能性があります。


 正木時茂と時忠兄弟は、対北条作戦として勝浦城を攻撃し、正木の手に落すことを提案してきた。


 安房は義堯たちの努力によって安房海賊衆によって海岸警備が充実していて北条も手が出せない。北からの陸上攻撃は地理上の制約から困難。だから、今のまま放置しておくと上総の外房から海路攻撃してくる可能性が強い。やりかたは、真理谷武田の新北条方(信隆側)に手を伸ばし、彼らを扇動して、または合同で興津、勝浦の湊から安房を海路攻める(または陸路攻める)方法である。そこで、安房方としては、機先を制して、勝浦・興津を取ってしまおうと言うわけである。


 義堯もそのことは分かっていた。いずれ北条との決戦では安房は平地が少なく大軍の展開が出来ない(大軍を展開されてしまったらお仕舞い)ので、(進出に名目が立て易い)公方領、寺社領、管領領の多い西上総の野を予定戦場にして、北条を西から東に誘導し、消耗戦を強いて一挙に北条を葬り去る以外にない。そのためには攻撃、防御の拠点となる上総の「城」が是が非でも欲しい。しかし、伝統的な境界(安房・上総境界)を越えるにはそれなりの大義名分が必要なのである。上総武田が実効支配している勝浦・興津の城を安房の守護が奪取する名分がほしい。今後、西上総への進出の時にも役立つ名分を発見しないといけない。


 拡大路線の北条だとこの辺は悩まない。イデオロギーとして中間層を認めないということでどんどん押し入って行く。それがわずか五十年で急成長した北条の秘密である。四公六民の低税と領民撫育がうたい文句だが、グローバルスタンダードと称して不正やちょろまかしを許さず、公開・自由のもと、厳密な検地で分母が増えるので村の持って行かれ量は増える。実際、北朝鮮のような理想の政治の足元から、領主様の暖かく公平な支配を逃れて村ごと逃散する不届き、無知蒙昧な人民が、北条領には結構多いのである。旧体質をどっぷり認めながら「正義」をかかげる悪代官だけを監視し、ちょろまかしにはまあまあ主義で乗り切り、少ない上がりで細く長くをモットーとし百年で十万石になった里見だが、急成長スーパー全国展開の巨大企業が隣に来たらゆったりとばかりはしていられない。「急遽北条流に衣替え」は理論としては成り立つが実行は出来ない。不慣れ以上にいまさら北条流をやるなら里見でいる必然性がないからである。降参して北条の家来になればいい。


 結局、今回の名分は、先の国府台敗戦の敵打ち=北条に組した武田信隆一派への意趣返しを名目に、実質は辺境にあることを大いに活用し、夜陰にまぎれて、夜のうちに城を分捕り、あっと言う間に城を堅固にして、補給路を確保し、既成事実化してしまう。わずかの関銭など徴収を受け持って、上がりは従来通り届けてやるくらいのことで、その後の交渉を長々とやるというようなことで話がまとまった。
里見義弘も世子の格で「密議」に参加して、いわゆる大人たちの政治とはこんなものなのかと、少年らしい感慨があったかも知れない。父、義堯と、子、義弘の最初の対立の芽が、里見の上総進出で芽生えたのである。


 正木による勝浦城・興津城の奪取は、それこそ朝になる前に完了してしまった。

            <房総里見家の女たち異聞その2に続く>