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富津地域の磯根石祀り

 富津地域の神社を訪ねると穴ぼこだらけの石や奇妙な形に凹んだ石、人工形状のようで自然形状のようでもある変な石が富士塚などに使われているのが目につきます。

 新舞子八幡神社の裏手にある亀の石の土台石です。亀を船に乗っけたような、または小亀を背負っている親亀のようなのですが、この舟形石(または亀石?)は人工の整形加工と見たらお粗末です。しかし、これが海岸に転がっていたら発見した人は神か仏の何らかの意志と見るのではないでしょうか。そこで拾ってきて神社に据えたと考えられます。

 新舞子共同墓地の隅にある石塔集積場です。この球状の石はお地蔵様の頭部と見て誰かが祀ったのでしょうが、人工ではなさそう(目・口だけ人工か)で、むしろ海岸を散歩していたらお地蔵様の頭部のような石に出くわして怖れとありがたさ交互の感情で墓地に持ってきたということでしょう。そのとなりの2個の石もそれぞれ穴の位置・大きさを含めて何かの形に見えます。

 千種新田の浜施餓鬼場(海難者漂着無縁墓地)のお地蔵様です。球状の石を頭と見て、石の種類は違うが肩から下の胴体に見える石とくっつけてお地蔵様にしたものでしょう。これのどちらも海岸で偶然見つけて拾ってきたものでしょう。

 これらの石の出所は磯根岬の崖からと見られますが、実は磯根の石は内裏塚古墳群のすべての古墳の石室の石として使われていて、それを考えると磯根石に何らかの神仏の意志を感じてそれを神聖な場所や怖れる場所に祀り使うというのは富津地域の千五百年以上の伝統だということになります。 その特徴は整形やきれいに積み上げるなど「人工」を極度に嫌う(おそらく小賢しい工夫と見たのでしょう)所にあります。  まず、富津古代人の磯根石信仰の原点である弁天山古墳の石室に使われている石を詳細に観察し検討してみることから磯根石祀りを見て歩くことを始めようと思います。

弁天山古墳の石室を詳しく観察する

 弁天山古墳は富津市小久保にある長さ100mほどの前方後円墳でその石室(正しくは竪穴式石殻)は発掘された状態で覆い屋で囲ってあり、詳しく見ることが出来ます。五世紀の築造と見られ、富津内裏塚古墳群の中では内裏塚古墳に次いで造られたとされており、天井石の一つに奈良の日葉酢媛稜古墳に似た縄掛け突起があり珍しいと云うことで国史跡になっています。

 地元の人はあまり関心を持っていないのですが、他県から見学者が結構来ています。4月の始めこの古墳に大阪の藤井寺市古墳研究会(市民グループ)の方々が七・八人で来られ(偶然居合わせた不肖筆者が臨時の説明ガイドをしました。ガイド内容はこれからここで述べるものです。)ていましたし、5月の終わりには川口市の小学生が全部で200人くらい見学していました。川口の小学生は毎年来るようです。

 富津市教育委員会作成の石室図(上から見た平面図です。下にAーA断面で切った側面図が載せてあります。)です。一見石組みが非常にずさんで何かやる気のなさを感じさせる石室に見えます。参考のため下に奈良のホケノ山古墳と群馬の古墳の写真を載せておきます。

 

 弁天山古墳で使われている石の種類としては「整美石」と「ズンダ」と、「赤石」の3種類です。それぞれ写真で紹介します。

「整美石」です。幅1.5m、長さ3m、厚さ30cmくらいで、地が白く黒い小さなごま塩が混ざったような石です。天井石として2枚、南東方向に用途不明の一回り小さな石が1枚あります。

古くは粗悪な花崗岩と見られていましたが、今は軽石質粗粒凝灰岩とされ、人の手によって表面が平らに整美加工され、一枚の石には縄掛け突起が造られた(削り出された。役に立ちそうにない突起の、その分、石の長さを0.6m以上小さくしてしまった!)とされています。

「赤石」です。幅は不整形状で0.3~0.5m、長さ3mの溶岩のようにごつごつした赤い色の石(今では埃で白っぽいですが)です。天井石として北東側に1枚置かれています。

 石室の東西横壁を構成する「ズンダ」です。東西2個の巨大なブロックです。高さ1m、長さ4m、幅1.5m位の柱状ブロックです。「ズンダ」とはズンダ餅のように固形の豆(礫)とペースト状のあんこ(粘土)が乾いて固まってコンクリートブロックのようになったものとして筆者が命名したものです。

「豆」部の礫はほとんどが粘土に近いほど細粒の凝灰岩礫で、中には穿孔貝によって無数の穴が開いているものが含まれます。礫の大きさは一抱えのものがほぼ9割ですが、中には上の天井石のような粗粒や細粒で数mの大きさのものがあったはずです。

 ズンダのあんこ部は黄色かったり赤かったりします。ズンダ形状のものがある日崖崩れして波打ち際に転がったとすると、黄色いものは比較的短時間の数十年で粉末化してはがれ中の石が独立の礫石として海岸に転がりますが、赤いあんこの方は時として大きなブロックとしてぱかっとはがれて溶岩の塊のようになって残ることがあります。それが「赤石」です。

 ズンダ石はいわゆる海中土石流で乱堆積して出来た地層で、この地層は富津市長浜から磯根岬まで分布し、内陸へは佐貫城、岩富寺、大坪山あたりまで分布しています。内陸に行ったら縦横高さ20mくらいの地層断片がくるまっている乱堆積層がいくらでも見つかります。  単独の礫として海岸に転がっていたものを整形したように見える「整美石」も実はズンダ餅のように黄色いあんこにくるまって海岸に転がっていたものが数十年の間に皮がはがれて白い巨礫として二度目の誕生をしたものと考えられます。人工の切削や研削はしていないのです。ある日気がついたら白くて四角で縄掛け突起みたいなものがついている巨礫が転がっていたのを発見したのです。

 側壁に使われているズンダはあんこがはがれる前に古墳現場に運んで来て埋めたものと考えられます。石室の側壁を形成するなら、海岸にいくらでもある小さな礫を運んで積み重ねればいいのに、富津の古代人はどういう訳か大きなズンダブロックを大汗をかいて引きずって運んで来たのです。

 これが弁天山古墳の石室の石積みがずさんな理由です。

磯根岬の石

 弁天山古墳に使われている石と磯根岬の石を比較してみます。

 磯根岬の崖です。大雨が降ると必ず崖崩れという感じで年2~3回は崩れます。

 潮位検査用の石塔です。土台の磯はこの辺の言葉で平磯と言います。年々崖が後退して後に平磯が残ったのです。

 現在の磯根岬で一番多い石です。一見固い砂岩の様に見えますが実は細粒の凝灰岩です。印象が違うのはエージング効果で表面の体質が変わっているからです。(エージングについては後述します) 注目は右下の石には黄色い皮がまだ残っていることです。崖崩れした直後は黄色い皮でくるまれていたことがうかがえます。この残った皮はハンマーでたたいたくらいでは取れません。接着力も皮自体も固いのです。

弁天山古墳にもあった赤石です。色は明るい赤からこげ茶色まであります。

 弁天山古墳にあった整美石と似ています。ただしこちらの方が粒度が細かい。印象は違いますが細粒凝灰岩と、上の整美石似のものも石としての種類は同じです。火山灰が降って海中に沈む場合、水の浮力のため灰の沈降速度に差が出来るのが原因で同じ地層から種類が違うような石が採取されるのです。水の中では粗粒は早く沈降し、細粒は場合によっては数年も水中にとどまります。これで凝灰岩の地層の縞々が出来るわけです。整美石は火山爆発1回で出来た1枚の地層の縞の下の方、上の写真の石は中間から、砂岩のような細粒石は上の方から取れた石ということです。

 弁天山古墳では目立たなかったですが、その他の内裏塚古墳群では主力の石である磯石です。穿孔貝で穴だらけで、現在も現役で穿孔増殖中です。 古墳に積まれている磯石には採取時に穿孔中のものと、崖崩れで転がる一世代以前の堆積中に穿孔されたものがあるはずです。これを決めるのは穴の中にたまに残っている穿孔貝の化石の同位体炭素年代測定すればいいのです。数値が2千年レベルなら採取時代(古墳時代)となり、数万年数十万年なら第1期崖崩れ中の穿孔となるはずです。

 注:貝殻の成分はほぼカルシウムで炭素などないかも知れません。そうすると炭素年代測定は出来ません。考えて見たら貝化石の年代は地層から判断しているのではないかと心配になりました。その場合は・・・穴のエッジのRがゆるいものほど古いとか別の測定法が必要かも知れません。

穿孔貝の1種であるニオガイです。縦にくるくる回って自分の成長に合わせて穴を大きくしていきます。人が手で押しつぶせるほど脆いのですが、貝殻のエッジ部分が剃刀のように鋭いため結構硬い石でも穴を明けます。

 ズンダ石の中身の礫は凝灰岩とは限りません。このように数億年前の中世代のチャートが含まれることもあります。

 ズンダ石から礫が出てくるところです。これは通常の太陽光と温度変化によるものではなく波の力によるもののように見えます。

 磯根石はズンダの皮が1万年程度、礫が凝灰岩なら数十万年程度なのに見かけより固くて丈夫です。その理由は礫になってから水中で、土中で、また地上での波と太陽光、風で表面がエージングされているためと考えられます。

 その証拠の写真です。これは細長い細粒凝灰岩を鋸で切った断面です。礫の表面に合わせた形で1種の皮が出来ていることが解ります。 磯根石はこの年輪層を取ってしまうと脆く柔らかくなります。これが筆者が弁天山古墳の石が加工されていないと主張している理由・根拠です。早い話が加工したくても出来ないのです。縄かけ突起を造ったらおそらく製作中に割れてしまいます。万が一完成しても縄をかけて引っ張ったら折れます。

天狗の一発げんこつ(若宮神社)

 小久保村中心地域はJRの線路の東北側から、中央公民館、弁天山古墳、小久保藩陣屋、小久保川を挟んで若宮神社、旧大佐和町役場、左に曲がって南に行くと大寺の真福寺へ。または右に曲がって神明神社を中心とした寺社街を通ってさざ波寄せる岩瀬海岸ということになります。これらの地域は現在の主要道路から外れているので街道を通過するだけのそして歴史を知らない人が「オッ!」ということにはなりませんが、その気になってながめると「小鎌倉」と云って良い風情があります。

 住んでいる人がその気になって街並み整備をすれば、メイコや神明神社の祭りの豪華な人形山車(だし)とそのたたき合い(太鼓乱打合戦)、オブリ(孟宗竹竿の中央に奉納魚を結びつけた担ぎ祭具)、馬出しなどハード、ソフトの充実と合わせて佐原の小江戸などよりよっぽど面白いのですが・・・・・。  今日は若宮神社の磯根石を訪ねます。


 若宮神社境内の丘は元々古墳だと思われます。現在、境内にある石宮や燈籠の土台石として使われている石は仮称若宮神社古墳の石室から取ってきた石の再利用だと考えられます。

 右の石は日本のモアイとも、縄文のビーナス土偶とも、くぼんだ目とおちょぼ口を発見した人ならゆるキャラのお猿さんとも見えます。

左の石の縦に並んだ穴列は穿孔貝の穴ではなく、チャートの砂利(礫)が波の力によって抜けた跡だと考えられます。

この石には昔話があります。

「むかーし昔、おくぼ村には力自慢の若者が住んでおった。ある日、よそから来た大男と力くらべをすることになった。若宮神社の平たい石を素手でどちらが割るかである。村の力自慢の若者が試したがびくともしなかった。次に大男が一発パンチを食らわすと・・・・石は割れなかったが何と石にげんこつが食い込んだ跡が残った。これを見て人々は大男が天狗の化身だと恐れおののいた。」  このくぼみも凝灰岩中にあったチャートの礫が波の力で抜けた跡だと考えられます。

 階段の踏み石等にに使われている写真の石は今現在の磯根岬で一番多く見つかる細粒凝灰岩です。この礫は写真のように細長い形のものが多く、中には諸刃の古代剣に似たものがあります。近くの小さな神社を調べたら石の剣として飾られているものが見つかるかも知れません。

整美石を見つけました(小久保浅間神社)
 磯根岬から東京湾観音までの山並みの観光開発はバブル絶頂期前1980年代に頓挫しましたがその廃墟の探検気分も兼ねて小久保浅間神社に磯根石を訪ねました。

 高速道路のインターのような参道入口です。ここをくぐってループ道路を上ります。 下の写真2枚は二車線道路が自然に帰る途中です。

 

 

 浅間神社に到着。左に登ります。

 浅間神社の社殿です。毎年7月1日の祭礼祭器品がそのままになっています。裏に富士塚があります。

 富士塚の葺石は磯根石です。この富士塚の裾野に個人の寄進と思われる小さな石宮がいくつかあります。

 その寄進宮の一つに面白いものを見つけました。

それは浅間神社と書かれた石碑の左右の石です。左側の白い石は弁天山古墳の整美石と同じものでした。
 左の石。大きさは縦50cm、横30cmくらいです。古墳から出る石枕のような形で、この布団を丸めたようなラインも弁天山古墳の整美石にそっくりです。
人による加工ではなく、斜面を滑り落ちたり回転して数秒間の瞬間自然加工で出来たような形です。弁天山古墳の整美石も多分同じ加工で縄掛け突起まで出来てしまったのです。 これと同じ石は現在の磯根岬にはありません。古墳時代のごく限られた時代だけに磯根岬に転がったのでしょう。

 右の石。「らっきょう」または「巾着」のような石です。これも形が面白いです。磯根石は板状またはサイコロ状の地層塊の端切れの落下すべり回転加工が原因で左右対称の形になりやすくそのため人が何かの形を想像してしまうのです。

 

マテバシイに埋もれる富士塚(飯野浅間神社)

 飯野浅間神社の山は、わずかに桜などがありますが全山ほぼ100%マテバシイ(唐椎)の山です。ここの浅間神社は明治時代初期に飯野神社に合祀されその後廃止となりました。

 参道は両側がマテバシイの深い林で、階段がまっすぐ頂上まで続いています。

 小久保浅間神社と同じようにこちらも半分は廃墟探検の興味が入っています。


 頂上に富士塚だけが残っていました。ここの葺石も磯根の石のようなのですがほとんどがマテバシイの落ち葉に覆われてしまっていてよく分かりません。

 いくつかめぼしいものを見てみましたが、変わった石、ユニークな石はありませんでした。

 国土地理院の三角点がありました。
 マテバシイの巨木です。海苔のヒビ用として植林されたものです。人見山や飯野から、磯根、大坪山などに多いです。根元で切ると写真のように数本の枝が同じ太さで成長します。成長が早く枝を張らない、下草が生えない特徴があります。樹形はブロッコリーを大きくしたようで春に若葉色の黄緑の花が咲くとますますブロッコリーそっくりになります。 多量のドングリを実らせます。雲南から台湾、日本列島千葉県まで続く照葉樹林帯の代表的な樹木です。(枯れ落ち葉は菊栽培に優秀な腐葉土が出来ると好事家の評判が良い)

 以上、いろいろ特徴がありますが商用材としての価値は高くないです。


 マテバシイの林を下から眺めた写真です。それぞれのマテバシイが領域宣言をしてその結果できた模様が面白いです。樹木が自他を区別する何らかの信号が出ていてお互いに成長を止める機構はどういう理屈なのでしょうか。 マテバシイのこの様なみごとな模様は大房岬でも見られます。


ズンダ崩落前の復元展示?(小久保神明神社)

 神明神社の石塚のひとつ。下の方は磯根石、上の方は富士山の溶岩だと思われます。  頂上に鎮座する石には八海山、御嶽山、三笠山と刻まれています。この石は今は苔などで汚れていて地紋が分かりませんが昔見た記憶では流紋岩(火山岩の一種)で美しい水の流れのような模様があったはずですが・・・。磯根山から落ちてきた可能性もゼロではありませんが、どこからか購入したものでしょう。

 同じ山岳信仰の塚の側面です。ここは全部磯根石です。いろいろ多用な磯根石を組み重ねて石の間の隙間をセメントで固めてあります。一見乱暴ですが見方を変えれば磯根の地層のズンダを展示復元したとも思えます。

 別の石塚です。こちらもすべて磯根石で、セメントで固めています。塚のふもとに市販ブロックが置かれていますがお賽銭の受け皿のように思えますが気に入った磯根石にお賽銭を上げてくれと云うことでしょうか。磯根石の総選挙?それとも単なる土留め?


 写真中央の石碑。馬頭観音か明王が刻まれていたかと思えますが自然石に戻る一歩手前の状況です。ここまで摩耗するのには五百年から六百年はかかると思えます。ここまで摩耗が進むと有り難みが増します。石の出所は磯根ではないと思いますが、次に紹介する興源寺の板碑の摩耗ぶりと比べるとあるいは磯根石かと思えて来ます。  神社の起源として、磐座(いわくら)と称する巨石信仰や、三輪山のような神奈備山そのものを御神体とする形がもっとも古いものとの解釈がまかり通っていますが、それよりも屋敷神として小さな祠の中に神の依り代を新竹で作って(アニメ映画「君の名は。」 に出てきました。)毎年作りかえるように祀る形が古いようです(弥生時代までさかのぼる)。富津の在の方では旧家で今でも絶やさずその伝統を守っている家が何軒かあるとのことです。(以上は岩坂八雲神社宮司で大学教授杉山重嗣氏談。国立歴史民俗博物館の学芸員が聞いたら怒り心頭するかも。氏の神社の成り立ちや明治の廃仏の話は非常に示唆に富んでいます。)

 礒石を祀る伝統信仰も古墳時代より前にはさかのぼらないと思われます。そして磐座信仰は少なくとも東国にはなく西国特有のもののようです。


興源寺板碑は磯根石では?(興源寺)

 興源寺(上総湊の環)の板碑(写真の左側の石碑)は富津市指定文化財ですがこの写真では文字模様が分からないので下に富津市文化財説明書に載っていた写真を紹介しておきます。

 正長元年(1428年)紀年銘あり。他に種字、願文などが蔭刻されていますが不鮮明です。富津市文化財指定されています。素材は当地砂層中の砂岩と説明されています。

 埼玉あたりの青石を使った板碑から見ると、土人がつたない技術でものまねしたような印象です。以下は素人(私)の観察による推論談。

 加工が中途半端です。上の写真で砂岩板碑の隣に普通の板碑があるがなぜあそこまで加工しなかったのでしょうか。技術がなかったわけではないと思います。

 素材は、弁天山古墳に使われている石(天井石でない石)に似ています。これは普通の砂層中には出てこないと思います。磯根岬特有の細粒凝灰岩だと思います。

 以上の観察から、この板碑は、板碑の形をした転石(磯根石)が見つかったので、そこに種字などを最小限陰刻して板碑としてお寺に納めたというように解釈したいです。

 いわばこれも磯根石の祀りだと思われます。

 興源寺の板碑は磯根石が加工に弱い側面を見せています。600年でここまで劣化したのです。

 

穿孔貝化石の年代測定結果は?(内裏塚古墳)

 内裏塚古墳の墳頂の後円部から前方部を望んでいます。後円部頂上部だけマテバシイの林となっています。

 内裏塚古墳は30以上ある富津古墳群の中で墳丘が唯一の二段築造で墳長150mと最大の大きさです。墳丘の平面図形状が履中天皇陵と同じだとの話しがあります。富津地域では青堀駅前の上野(うわの)塚古墳に次いで二番目に築造されその次が弁天山古墳、次が九條塚古墳・・・・という流れになっています。国史跡です。ここの石室(正確には縦穴式石殻)に使われている石が弁天山古墳と同じ磯根岬の石であることを紹介していきます。

 後円部頂上にある発掘記念碑です。なお余談ですが右の隅にある小さな石碑は江戸時代の江戸の好事家による須恵の珠名(万葉集の中に高橋虫麻呂作の長歌の主人公として出て来る魅力的な遊女)の供養墓です。

 明治時代の頃の発掘は破壊的で図面も作らず石室を壊してその石を石塚にして記念碑を建てています。おかげで石の種類その他が観察できます。富津の古墳のほとんどは発掘記念碑がこの様な形で作られているため使われた石の観察には便利です。

 階段と左右の土留め石も一見して磯根石だと分かります。今まで見てきた神社の石塚と同じようにセメントで固めてあります。五段ある階段は寸法が大きく天井石だと思われます。特に最上部の石が大きいです。

 最上部の石のクローズアップです。明らかに弁天山古墳の縄掛け突起のあった天井石と同じ石質です。あの整美石があったのは小久保浅間神社とこの内裏塚で三番目ということになります。

 石塚周囲の積み上げ状況です。いろいろな形の磯根石が芸術的配慮も何もなく無定見に積み上げられふんだんに使われているその暴力的な力強さに圧倒されます。

 積み上がった石のひとつ。これは磯根海岸の細粒凝灰岩です。ここには不思議と穴があきません。

 こちらも同じ細粒凝灰岩だと思われますが無数に穴があいています。礫となった時代が違うのか、ここで注目は穴の中に穿孔貝の化石があります。この化石の炭素同位体測定年代はどう出るか。常識的には古墳時代の1500年ですが、私は10万年もあるのではと思っています。磯根のズンダの生成の鍵を握る測定結果ですが・・・・。前にも言いましたが貝化石年代測定に同位炭素崩壊測定法は使えないかも知れません。

こぶし大のチャートの砂利は床敷きか?(九條塚古墳)

 九條塚の発掘記念碑です。土台石に天井石と思われる石が二枚。このうち上の石には穿孔貝による無数の穴があいています。

 弁天山古墳築造から九條塚古墳築造の間は半世紀の空白があるとされています。九條塚になって墳丘は平べったくなり、竪穴式から横穴式の石室に変化しました。

 最上部土台石のクローズアップです。前方向から(南から北へ向けて)撮っています。

 後方向から(北から南へ向けて)撮っています。内裏塚古墳の磯石と同じく穴の中に貝の化石が見えます。この年代測定をしたらどんな結果になるでしょうか。学説の通り50年の差が出るかどうかですが、私は両者共に数万年だと思っています。

 それより左下にちらっと見える石は弁天山古墳の天井石の整美石に見えます。整美石はこれで4例目です。

 九條塚の後円部頂上付近には至る所に磯根石らしきものが散乱していて発掘という名の破壊のすさまじさを物語っています。これは思想的に荒らした訳ではなく考古学での発掘の方法論が解っていなかったのでしょう。

 散乱石で目についたものを下に2枚の写真を載せておきます。2枚とも整美石のようなあるいはズンダのようなとも見える石です。ともあれとにかく磯根岬から持ってきたことは確かです。

 

 

 こぶし大のチャートの砂利石です。これが墳頂に敷き詰められています。これはおそらく横穴石室の床に敷いてあったのではないかと思われます。上総湊の大満横穴墓群に同じく黒い大きなチャートの砂利を敷き詰めたものが数例あります。直近ですが岩瀬地区の学校給食センター近くの崖で発掘(道路拡張で消滅予定)された横穴墓にもチャートの砂利が見つかっています。

 こぶし大のチャート石は日本列島骨格の石で四万十帯(2億年前奥秩父)から氷河で古東京川や多摩川を下って来たものです。竹岡の燈籠坂大師や佐貫岩富寺の骨堂での宗教行事にも使われ続けていました。

 なお、上の写真のような大きな黒いチャートの砂利は磯根岬ではあまり採れません。上総湊と佐貫新舞子の間の長浜海岸、笹毛海岸が分布の中心です。
九條塚の東側はご覧のように季節によっては水が溜まっています。周濠の名残でしょうか。ここと内裏塚、三條塚の合計3箇所には季節限定ですが周濠跡の一部に水がたまります。

豪華な副葬品の期待(三條塚古墳、白姫塚古墳)

 飯野陣屋跡を示す石碑です。この土台石は磯根石のように見えますが・・・・・ 江戸時代の飯野藩(会津保科家の分家のひとつ)は三條塚をそっくり陣屋の敷地に取り込みました。そして東側の墳丘のくびれ部を拡張整地して藩校を作りました。その時横穴式石室の入口を破壊しました。出土した石は片隅に置かれていたのでしょう。

 明治になって陣屋は廃止、替わりに宗教改革で神社の統廃合の結果飯野神社がこの地に作られ学校や分譲地も作られ歴史がめぐり石室の石の一部を流用して石碑の土台石としたのでしょう。

 後円部の裾に近く天井石と思われる石の一部が露出しています。無数の穴があいて明らかに磯根岬から持ってきた石です。

 写真手前が藩校の敷地跡でそのため土地が低くなっています。この奥は明治期の破壊的な発掘から免れまた盗掘された形跡もなく手つかずのようですので、調査が望まれますが富津市の予算の都合で調査は延び延びになっています。(低い部分の石室前部分だけ十年くらい前に調査した)

 墳丘に転がっている石の写真を2枚載せておきます。

 

 

 飯野陣屋の堀です。今でも水をたたえています。実はこの堀、元々は三條塚古墳の西側周溝を利用したものです。写真の左側一帯が三條塚古墳となります。

 こちらは三條塚の東側です。梅雨など雨が多いとこの様に水たまりとなります。場所が飯野神社の裏庭のようなところですのでちょっとした日本庭園のような雰囲気になります。周溝跡といって良いでしょう。


三條塚から500mくらい離れた所(個人家の敷地内)にある円墳の白姫塚古墳です。明治期特有の破壊的発掘の象徴の記念碑が作られていますが、石はちょっと白っぽくあるいは整美石かとも思えますが磯根石です。

 この古墳が注目されるのは豪華な副葬品が多数出土したことです。飾り太刀、挂甲、耳環、帯金具、銅鋺、須恵器などが出土しました。明治25年(1892)という早い時期に調査が行われ、おかしいことに出土品は須恵器を除いて宮内庁お買い上げとなりました。現在は東京国立博物館が収蔵しているとのことです。

 しかし、筆者が東京国立博物館収蔵品をアーカイブで調べたところ飯野古墳群で国立博物館が所蔵しているのは西原古墳(JR青堀駅下り側そば。線路で前方部が寸断)出土ということで金銅鋺が1個(かなり立派なものです)のみでした。白姫塚の「シ」の字もありませんでした。

 こういう情報は新聞、TVなどニュースもそうですが地元関係者が見ると必ず一箇所ぐらい間違えているのが常ですので、「西原古墳」(早くから開口されていた古墳ですので物が残っているような古墳ではない)は「白姫塚古墳」の間違いかも知れません。それにしても金銅鋺1個はおかしいです。

 「お上の思し召しではしかたねっす。どうぞ持って行って下され」と無理矢理に持って行ったあげく今では何処に行ったか解らない。なにせ怒濤の時代だったからではないかなーと心配しています。

 三条塚古墳と白姫塚古墳は年代が木更津の金鈴塚古墳と 同じ後期古墳時代です。金鈴塚は豪華副葬品で有名ですし白姫塚からこれだけ出たのだから未盗掘の三条塚も同じくらいまたはもっと出るかも知れない、との期待が大きいのです。

 内裏塚古墳群の出土品は飾り太刀などなく、農具とか、実用的な太刀、円筒埴輪はあるが人物埴輪はないなど豪華なもの、面白そうなものがありません。三條塚がそれを破って豪華なものが出ることを願いたいものです。

発掘で印象がガラリと変わる(西谷(にしやつ)古墳)

 2003年3月、富津市生涯学習で「飯野古墳群を1日ですべてめぐる」講座がありました。上の写真はその時の西谷古墳です。

 ヤブの中に盗掘孔がわずかに見えます。実はこれは危険防止のため埋め戻した結果で、もう少し昔は人が出入りできるくらいの穴があいていたそうです。子供の格好の遊び場だったとのことです。

 小さな穴のそばに集中する見学者。説明を聞くポジションが取れない状況です。

 時は流れて2012年2月、西谷古墳発掘現場説明会です。前方に細長い横穴石室が顔を覗かせています。見学者を穴の中に案内するのは危険ですから天井石が払いのけられて遠くから眺めることになります。

 横穴石室のクローズアップ写真です。穴の真ん中辺りに仕切り板があります。この石は薄いペラペラの石で、おそらく群馬・埼玉あたりの青石だと思えますが現地説明はありませんでした。なお青石は木更津金鈴塚古墳の組み立て式石棺に使われています。

 石材の交流は関東地方全体にわたっています。磯根石は金鈴塚古墳、芝山古墳群、龍角寺古墳群、東京下町の古墳、埼玉古墳群などでも見られます。

 払いのけた天井石の一部が積み重ねられています。

 発掘現場の半分パノマラ写真です。西谷古墳は円墳で、その中央に石室が埋まっているわけですが、写真左上に見えるのがそれです。南北に細長いです。これは手に入る天井石の長さで室内幅が決まるためです。幅広くできないのです。

 この写真右上にチラッと周溝の発掘現場が見えます。石室と周溝の間の高みが円墳の半径分ということになります。石室は追葬のたびに円墳の横腹に穴を明け開閉を繰り返します。

 天井石、壁石が積んであります。一見磯根石と解る石です。しかし弁天山古墳で縄掛け突起のあった整美石らしい石はありませんでした。

 西谷古墳はその後破壊消滅しました。もともと道路予定地になって、 2012年工事開始前最後の発掘調査、現地説明会であった訳です。しかしその後の予算不足のため道路工事は2019年の今だに進んでいません。

磯根海岸清掃中に見つけた面白い磯根石
 今年9月から10月に続いた台風で磯根海岸に寄ってきた流木群です。量としてあきれたほどではなくいつもよりは若干多いかなと云うレベルです。崖の崩落も多少ありました。

 現在、グリーンネットふっつが清掃活動をやっていますが、それと別にまったくの個人が一人で毎日朝から晩まで弁当持参で清掃しておられます。グリーンネットから市に流木処理のお願いもしていて、それはそれでやるとの回答を頂いているのですが、今のペースですと、富津市の重機が来る頃には流木がなくなっているかも知れません。 ニュースなどで川崎方面からのゴミが富津漁港に流れ着いたと聞きましたが、こちらには川崎を思わせるゴミは見当たりませんでした。

 それはそれとして清掃中に面白い形の磯根石を1個見つけましたので紹介します。1個の礫石が見方によって色々に見えるのが面白いところです。

 ゆるキャラ、または縄文土偶風です。実寸は高さ10cmです。

 羽根を広げた小鳥風です。羽根の外々で12cmくらいです。

 男の××風。ナニのサイズは10cm。
 先が細く名器ではありませんがそれにしても良く似ています。

 この石は砂岩です。磯根の石のほとんどは出来て数万年の年数ですがそのわりに固くしっかりしています。そして手足、または角のような出っ張りの長い形がいかにも磯根石です。礫または小石というのは、崖が崩れて地層の断片が岩塊になりそれが波や風、水流などで転がり角が丸くなったものですが、今日紹介した磯根石はそんな過程で出来るとは思えない形です。

 考えられるのは、海底の砂に出来た穴(貝やカニ、魚の巣など)に新たに砂が溜まりそれが硬くなって礫となったということです。周囲の砂と一線を画す硬さが出来たのは生物由来のなにかセメントになるような成分が偏在していたためでしょう。従ってこの種の石は表面だけに硬く丈夫な層があるので、仮に、それを削ってしまうととたんに脆くなります。人為的な二次加工はよほど注意しないと出来ません。

 多くの磯根石は最初から丸々として角のない小石の形で誕生し、どんどん積もっていく砂層にくるまれて海中でエージングという眠りの中で硬さを増し、それが隆起で陸化し、崖崩れで崩落、比較的柔らかい砂岩にくるまれて海岸に転び、風や紫外線でおくるみが剥がれて完成したものです。この物語のすべての時間合計が1から3万年くらいかなということです。千葉県というのは隆起したり沈降したりして数千mの山が数百mになるというのを数万年でやっているところなのです。場所によって百万年くらいの所もありますが・・・・・・。

 古代、磯根石は千葉から北の関東地方でも古墳の石室に、使う石としてよく使われました。穿孔貝で穴があいていたり見た目きれいでもない石なのになぜ重宝がられたか、その理由はおそらく大小いろいろなサイズがあり、そして何よりそのすべてが角が丸く働く人の手にやさしい材料だったから

 注;磯根石の中には地層の断片から礫として誕生したものもあります。これらは形が板状で大型です。弁天山古墳の縄掛け突起のある白い天井石などはその典型です。