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令和元年台風被害状況(近在の古跡編)

白山神社が千年杉を背負ってしまった

 9月8日の台風15号により、富津市宝竜寺の白山神社社殿が崩壊しました。本殿の覆い屋の上に千年杉の大きな枝が裂けて落下したのです。

 枝の一つを失った千年杉です。裂け目を見ると空洞がなく幹そのものは健全のようでそれだけに風の強さが尋常でなかったということです。

 千年杉の外見は被害前と変わりません。館山道から見える千年杉も昔通りです。

 覆い屋の中の社殿は部分損傷のようです。多くの部材が再生可能のように見えますが問題は道路です。急勾配で狭い階段の参道では落下枝の処理も何も出来ません。工事用の新しい道路の建設から始めねばならず、復興は非常に厳しいものになりそうです。

佐貫城は眺望が開けて明るくなった

 本丸の現状です。約50本くらいの杉の15%くらいが倒れました。この杉は戦後に佐貫城跡全体に植林されたものですが、本丸以外の他の杉は被害がありませんでした。また他の樹木の被害も軽微でした。 2年前に発見された本丸隅櫓土台の基礎の土壇がまた倒木の下に隠れてしまいました。こう見ると土壇も何もないように見えますよね。

 本丸の横堀沿いに西展望台に向かう道です。竹が倒れ込んで現在は通れません。 倒れた竹による道の遮断はこのほか、三の丸から二の丸・本丸土橋に向かう佐貫城の主要道路で顕著です。 その他、竹が大量に倒れました。二の丸は竹の繁茂に放置しっぱなしでしたがおかげで竹がたおれ、全体として眺望が開け明るくなりました。

 岩のテラスから見た横堀の断面です。横堀の竹が少なくなったため断面の上が明るくなりました。

続・佐貫城は眺望が開けて明るくなった

 佐貫城で一般の方がほとんど立ち寄らない三の丸最奥部、西の堀切、横堀、本丸から国道127号方向に半島状に突き出た突き出し部などを訪ねて見ました。

 西の大堀切前広場の倒木です。根こそぎ倒れたのですが、根の張りが悪いですね。その理由の一つが表土層が1mもない薄さにあります。露出しているのは佐貫層の岩盤です。

 この表土状況は佐貫城が現役の頃は土がなかったろうことが想像される薄さです。すなわち佐貫城は土を盛ったり削ったりして作った城ではなく岩を削って作ったということになります。それなら現在の表面の凸凹だけで構造を論じることは出来ません。表土を剥がして岩の凸凹をクリアにしないと本当の構造が分からないことになります。

 佐貫城の南側(二の丸、三の丸、西展望台=天神郭、横堀、半島状突き出し部)部分と日枝神社まではこの佐貫層の岩盤が浅く表土が薄いようです。(ちなみに佐貫城の地層は、この北側の本丸はほとんど土です。ここでは岩盤が深くなっています。本丸の北展望台あたりからまた岩盤が浅くなってきています。ただしここの岩盤は佐貫層ではなく凝灰岩層です。多分その北方向はまた佐貫層です。)

 佐貫城の(私が考える)主要な構造はすべて岩盤が浅い部分にあります。例えば本丸と二の丸との間の横堀、その横堀西端の岩のテラス、そこから一段下がって三の丸北端の大土塁とその下の西横堀、その北の半島状突出部や、その南の西の大堀切、さらに二の丸東側の枡形門(牛蒡谷門)などはおそらく佐貫層の岩盤を削って作られています。だから薄い表土を剥がせば今でも垂直な壁に直角の升のような幾何学的な形の箱堀構造がいくつもあるはずです。

 以上の推定がこの倒れた杉の根っこ部分の岩盤の状態からわかるように思えます。

 西堀切を奥に見て北側の平場から撮っています。倒木で土の部分が見えなくなりただの乱雑な山の中としか思えない風景になりました。それに比べて・・・・・

 天神郭(西展望台)下の切岸(崖)です。視界が開けてずいぶん明るくなりました。

 天神郭から本丸に続く切岸です。こちらも明るくなりました。奥の竹が倒れかけている部分あたりが本丸西櫓の土台(土壇)があるあたりです。(江戸中期以後佐貫城の櫓はここだけに造られました。)

 佐貫城西の本丸下の杉林は一部局所的に杉が倒れましたが全体としては安泰でした。しかし一部であれ杉がなくなりましたので明るくなりました。さて、このやぶを西へ突っ切ると・・・・

 

 半島状の突き出し部分の頂上路です。ここだけは嵐があろうが雨が降ろうがなぜか下草も生えず落ち葉も積もらずいつもと全く同じ空間になっています。時間も止まっているようで変化というものが目立ちません。たいくつでなくなぜかほっとします。

 中央にアンテナ線のようなケーブル這わせのようなものが見えますがこれもれっきとした根です。自然のものです。

 最後に新舞子の杉倒木群です。みんな湊川から流れてきたものです。なぜ杉ばかりなのか、なぜ途中からちぎれてしかも根こそぎなのか不思議です。小久保から上総湊まで約6kmの海岸線がすべてこの様な状況になりました。

 その新舞子の海岸に生えている浜香(ハマゴウ)です。ハマハイという別名の通り、一夏で地面を這うように驚くほど成長します。条件が良ければ一夏で直径3cm、長さは2mくらい伸びます。貧弱な根しか張らないのに風でふっ飛ぶことがありません。茎を持って行って庭に植えれば簡単に根付きますが、移植すると独特の香りは失われます。

TV報道印象ほどではない鹿野山神野寺の被害

 11月10日の神野寺。仁王門から本堂を見ています。特に変わったところはなく、強いて挙げれば背後の杉が間引きされたかな?の印象です。

 本堂西側です。こちらも奥の樹木が少なくなったかな?の印象です。しかし、画像をアップして・・・・

 同じく本堂西側の写真ですが、このように報道されるとガラリと印象が変わります。

 奥の院のお堂です。確かに屋根などひどい破損ではあるが小さなお堂の一つですし全体から見れば軽微の破損です。

 表門の四脚門(旧国宝、現重要文化財)は鉄骨の覆い屋と共に完全倒壊です。ただし、宝竜寺の白山神社と共に素人目には再建可能と思われました。

 神野寺の被害は、四脚門から奥の院までの東西200m幅10mくらいの範囲だけ主として杉が倒壊したもので原因はつむじ風によるものと見ました。台風に限らず自然地形の中で風速が速くなると風は風洞の風のような整流でなく、小さいが猛烈な渦巻きの乱立乱動となるようで、こうなると樹木や建物を押し倒すのではなくねじり折る、または根からねじり引っこ抜いて倒すのではないかと思いました。狭い範囲で重心が上で枝のない杉や電柱が選択的に倒されている様子からの推定です。(君津市の送電鉄塔倒壊現場に学者が多数入ったようですのでそのうち発表があるでしょう)

 鹿野山は三つの峰を総称した名前で神野寺奥の院が熊野峰(376m)、それから南方向に1km離れて白鳥峰(380m)が最高峰(上総国最高峰)で、もう一つが春日祠   (353m。鹿野山測地観測所)です。現在の白鳥神社は白鳥峰から約30mくらい下った所に造られています。

 その白鳥(しらとり)神社です。こちらの方はたいした被害はなかったようです。白鳥神社の現在の祭神は日本武尊です。その境内に・・・・・・・・

 末社の弟橘比売神社です。軒飾りの櫛がかわいらしいです。

 白鳥神社の裏を登って行くと白鳥峰の頂上になります。この際ですから行って見ましょう。

 白鳥峰の地肌は土が少なく土の下は佐貫層のような粘土のような柔らかい岩石でした。

 頂上には富士の溶岩で造った塚に「日本武草薙」と刻まれた剱碑が建っていました。まあ、本物は皇居にあって、この間の即位式では天皇のそばにありました。

 白鳥峰は杉がたおされていましたがたいした被害はありませんでした。

 鹿野山の神野寺と白鳥(しらとり)神社はこのHPの小説「房総里見家の女たち異聞」と小説「上総岩富寺縁起」の舞台として登場しますのであらためて読んで見て下されば幸いです。

「里見家の女たち」では、第一次国府台合戦で敗れた足利家の結姫(ゆうひめ)たちが神野寺に逃げてきた様子と、結姫が成長して里見義弘と結ばれ、二人でお忍びで神野寺の盆供施餓鬼供養に参加した様子を入れました。これらの場面では神野寺はうっそうとした杉の巨木の中に配置しました。絵葉書で見ますと確かに明治まで鹿野山の杉は巨木でした。大正六年の大風でこの杉が一掃されたとされています。そうすると今度の台風15号は大正六年の大風よりは、かなり弱かったということになりますが・・・・・

 結姫や里見義弘の頃の神野寺にはすでに表門の四脚門があったのです。結姫たちはこの門をくぐって客殿で一息入れたことでしょう。

 「上総岩富寺縁起」では若き主人公の忍生が鹿野山の神野寺と白鳥神社の間の西側斜面でもようされた歌垣に参加して顔も定かに分からぬ女と交接する場面を作りました。この時の斜面広場は現在のゴルフ場駐車場あたりなのですが、小説の場面の樹相を松としました。歌垣の広場に杉は似合わないというのが持論で、やはり松林でしょう。鹿野山と松の組み合わせは今では突飛に感じるかも知れませんが、昔の名勝である鹿野山鳥居崎の浮世絵や絵葉書には2,3の松の巨木が見えます。松に岩盤が浅いところまで出ていて佐貫層とくれば新舞子と同じで多くの松は根上がり松であったということにして、小説の中では根上がり松がひとつのモチーフになっています。

 根上がり松は人などの生き物が土の中から這い出て来るような雰囲気が感じられます。
常陸国風土記鹿嶋の条に松林の中の歌垣に出た男女が夜明けまでに別れねばならぬ神との約束・誓いを冒したために二人とも松になってしまった話しが出て来ますが、忍生は幸いにも松にならず明易い夜明け(高浜虚子が鹿野山で詠んだ句に選んだ季語が「明易い」です。)の鹿野山の巨木の杉山を疾走して鬼泪山から大坪山に出て下が海の絶壁の上で巨大な観音様を目にしてここでそばの海中に白鳥珠(百済王家に伝わっていた秘宝で巨大な真珠)のあることを悟る場面となります。SF的に云えば忍生は重層的な時空の中で東京湾観音の幻を目にした訳です。鹿野山の歌垣は今では「花嫁祭」と名と中身を変えて(新婚一年以内の花嫁花婿行列になっている)毎年4月28日に行われます。この日、本来は旧暦ですから必ず新月です。もうひとつ歌垣の伝統につながる祭ではないかと思われる夜祭りが6月28日(現在は7月8日)に行われます。こちらはアテ山としての鹿野山に感謝する近在の漁師のお祭りに変わっていますが28日の夜(星明かりだけの真っ暗な夜)にこだわっています。すなわち歌垣=暗闇まつりなのです。

鹿野山からの眺望

 大町桂月に言わせると、鹿野山は見上げる山ではなく見下ろす山である。眺望は13州に及ぶということです。しかし現在の鹿野山は眺望を大事にする整備はしていないようで江戸時代以来の名所である鹿野山鳥居崎などはアクセス道路が閉鎖され、その場所を遠望するに小さな杉の林になっていて眺望があるように見えません。

 かろうじてマザー牧場入口から東京湾が一望に見えますので紹介しておきます。眺望の左から右いっぱいの順に紹介します。撮影は令和元年11月29日11:00頃です。

 左から富士山、横須賀市中央部、そして右の島は猿島です。残念ながら霞のため富士山周辺の箱根、大山、丹沢などは確認が困難でした。

 富津岬と先端の島は第一海堡。その先に第二海堡がみえるはずですが海面すれすれのためか確認できません。

 千葉の海岸側の景色で左は富津火力発電所、右は日鉄君津製鉄所です。対岸は横浜市中央部です。

 アクアラインです。左の海上の白く丸いタワーはアクアラインの排気塔です。この方向に浅間山や三国峠が見えるはずですが今日は見えません。

 対岸は東京になりますが霞のためはっきりしません。写真右の千葉側の海岸に見えるのは袖ヶ浦火力発電所、その上、対岸の遠くに霞みがちですが筑波山が薄くかすかに見えます。またこの視野内にスカイツリーが見えるはずですが今日は確認できません。

 かって、鹿野山鳥居崎からは左視野ギリギリに天城山が望めたらしいのですが、マザー牧場のこの場所からは望めません。

 ところを変えて鹿野山の名所九十九谷からは、一番右側ギリギリに天城山が見え、それから鋸山、富山、さらに清澄山など安房の山が見渡せます。ただここは鋸山と三浦との間の海が見えません。城ケ島や江の島、相模湾などが見えません。

 あと現在でも眺望が広く開けているのが鹿野山測地研究所です。ここからは上総、下総方向が広く見られますが限られた日にだけしか一般公開していません。

 月刊「Hanada」8月号に東京タワー会社(マザー牧場、鹿野山カントリーも経営)の前田社長が元大相撲の舞の海さんとの対談で、もともとマザー牧場の土地は先代社長が電波塔を建てるために購入した土地でそれがいろいろいきさつがあってタワーが増上寺に決まったためそれなら観光牧場をということになったとのことでした。仮にマザー牧場の地に電波塔が建っていたら300mの土地に300mのタワーですから600mの高さとなります。

 そして現代なら600mのタワーも出来るのですからひょとしたら中東産油国ではありませんが土地の標高含めて1kmのタワーとなっていたかもしれません。それだと関東一円360度すべて完全に視野内となり、さらに羽田飛行場のような平らな施設もその姿が見えるようになります。多分日本で一番早い日の出の場所になります。

 富津の郷土史家の高橋在久さんがかって富津にはランドマークがないと嘆いておられましたが鹿野山の上の標高1kmタワー(ないしビル)なら立派にその役割を果たすことになるでしょう。

 高地だが大規模工事可能な鹿野山は高地大都市の適地であるという広告塔にもなりますね。高地大都市は映画「天気の子」の問題提起の回答になるのではないでしょうか。そもそも縄文海進時代では今の日本の大都市のほとんどは海の底だった訳で、これからの国土強靱化対策として大金を掛けて地下に大きな水の貯蔵所を作ったり、競技場の駐車場を遊水池兼用にするとか、スーパー堤防などを建設して行き続けていくだけを一本道とせず、それをやりつつ、高地大都市の芽を育成して百年掛けてそこにシフトしていくことも考えるべきでしょう。とにかく別の解の芽を出さねば前者が永遠に続くことになります。

 

この際鹿野山についておさらい

 昭和10年代の絵葉書を示しながら、鹿野山についておさらいします。

 マザー牧場、ゴルフ場などに比べて現在の鹿野山は繁栄していません。しかし明治大正時代を鹿野山の繁栄時代と見てこれに比べて見ると地場産業がなくなっただけで旧来からの町と寺観光の経済規模はトントンか若干下がったレベルなのでしょう。しかし古くからのお店や宿屋などを見るとなかなかきびしいものがありそうです。この辺鹿野山に限らず古くからの観光地繁華街のバブル以後の様子と共通の埃っぽさ(「千と千尋の神隠し」に出て来る町のような埃っぽさ)感じます。

 なぜこうなったのか、この辺も迫れるだけ迫ってみます。

 神野寺本堂です。現在の本尊は軍茶利(ぐんだり)明王(三面六臂の憤怒像。蛇神。蝦夷のアクル王の化神とも)と薬師如来。

 鹿野山は蝦夷の聖地として出発した土地です。今の神野寺の位置に蝦夷のアクル王の墓があり、南に1㎞行った鹿野山最高峰に蝦夷族神の白鳥(しらとり)神を祀ったのが本来の鹿野山の姿だったのです。これに天台宗が入り、古事記・日本書紀史観が入り、山岳信仰が入り、新義真言宗が入って今に至りました。

 仁王門です。まわりの樹木が少なく明るいです。

 神野寺全景です。解放的で実に明るい。絵葉書には石燈籠がない。現在の神野寺にある多数の石燈籠は戦後に上野寛永寺から譲り受けたもの。灯篭の寄進者名がビッグだが神野寺とは無関係です。

 奥ノ院です。池と太鼓橋が目につきます。現在は池も橋もありません。

 表門です。今年の9月まで鉄骨の覆い屋の下にありました。覆い屋がじゃまでインスタ映えしない状況でした。11月現在倒壊したまま。

 客殿です。屋根のみ銅板でふきましたが現在もそのままあります。左方向に行くと江戸城内の庭園を模したとされる庭がありますが。池は埋められてしまっています。とにかく今の客殿周辺にも石灯籠が非常に多い。

 鳥居崎です。巨木は杉のようです。周囲は一面草原のようです。現在、鳥井崎への遊歩道は(数年前から)閉鎖中です。13州一望と言われましたがその眺望は(樹木のため)望めない状況です。

 九十九谷を望む天崖公園です。

 以上の他に、絵葉書で取り上げられなかった白鳥神社は長い階段の神社として浮世絵に残されています。この白鳥峰からの眺望も今では樹木のため望めません。鹿野山から見て東方向、北東方向の眺望があるはずなので残念です。鹿野山の今の不振は眺望確保を軽視したためではと思われます。

 鹿野山の特徴は大町桂月が最も的確に表現しています。鹿野山はこれで行くべきです。それと蝦夷・縄文系弥生人文化、歌垣です。

 天下に山は多けれども、山頂に平地あるは関西にては高野山あるのみ。関東にてはひとり鹿野山あるのみ。品川埠頭に出でて見よ。海の彼方に見ゆる山の中にて最も大いに、最も高きが即ち鹿野山なり。外周13里もあるべし。

 鳥居崎にも老い杉の下に掛け茶屋あり。九十九谷にては見えざりし鋸山、ここに来れば近く屹立せるを見る。東京湾脚底に展開し、相模灘遠く天に接す。富津の三砲台は恰も巨船の如し。富士を盟主として、十三州の名山、ことごとく寸眸に収まる。安房、上総、下総、相模、武蔵、上野、下野、常陸が所謂関八州也。天城山にて伊豆を見、富士山にて駿河甲斐を見、浅間山にて信濃を見、三国山にて越後を見る。眼界の及ぶところ都合十三州なり。

 現在、これらを見ようとすると鳥居崎には道もありません。さらに各所の眺望がかなりさえぎられていますので何となく欲求不満が残る状況です。鹿野山の眺望を意識した天空のレストランも出来、かっての国民宿舎も一応眺望を意識していたのですが、欠けていたのはこれらの眺望ポイントを結んだ遊歩道の計画です。それこそ鹿野山外周13里あるならグルッと遊歩道でつなげて見たら欲求不満は解消します。ちなみにほとんどの人は知らないのですが鹿野山測地観測所からの眺望は見ものです。

 そしてさらに欠けていたのが高地都市構想です。今回の関東、長野、福島地方水害は低地都市の脆弱性を露呈しました。

 東京オリンピックの猛暑問題も露呈しました。海抜100m上がると気温が一度下がるといわれています。鹿野山は400m。これでマイナス4度、さらに千葉内房は東京より5度寒暖が緩いとなれば、何も札幌まで行かなくてもマラソンやれたのでは?

 注:山を削って谷を埋めて高いところに平地を造るのはお勧めできません。地震で地滑りを起こします。