アクセスカウンター

巖嶋神社奉納前句額の復元



富津市八幡鎮座巖嶋神社奉納前句額の復元

 平成元年に社殿建て替えのため解体した天井裏から前句奉納額が発見されました。高さ50cm長さ2mの桐板に墨書の句額はこの時点で読めたのは58句中のわずか2句のみでした。

 解読の試みはその後氏子総代会の手で断続的に進められ平成15年頃には58句全部一応日本語にしましたがほとんどが意味不明でした。

 令和元年になって奉納額を撮影し画像のレタッチをして墨書を鮮明化して解読しようとの試みが始まりました。

 デジカメを使い鴨井にかかった奉納額を下から見上げる形で自然光で撮影した奉納額前半部分です。

 短焦点でカメラと被写体が正対面していないため画像のゆがみが大きく左側は特にピンボケが目立ちます。このためこの後結局何度も撮影する試行錯誤が始まりましたが、それらの苦労は省略し、とにかく上の画像で消えかかっている部分を強いレタッチを加え文字を明らかにするこころみを続けました。

実際のレタッチは画像の部分部分を別の条件設定で行いました。そして背後の汚れや色を消す(モノクロ化)ことをしてみました。

 空白部分が少なくなりました。これで一歩前進。と、思ったのですが落とし穴がありました。上の画像「奉納前句惣連・・・・」の表題の次の口上部分2行目の最初の文字。

 完璧に「い」としか読めないですが本当は片仮名の「ハ」でその他の線は汚れ・キズです。モノクロ化は重要な情報を消すことがあるので注意が必要です。

 それはそれとしてこの程度では背後が気になって鮮明化には程遠い。と、いうことでフォトショップの選択機能を利用し文字線境界より外側をマスキングして、文字部だけを黒く塗りつぶして一挙に鮮明化することを行おうとしました。しかし、1文字1文字の画像の境界を線で囲っていくということは途方もない話になります。ところがフォトショップにはクイックマスクという手法がありまして、これは不要部分を面で塗って行けば塗ったエッジが選択ラインになる機能です。しかも間違ったり気に入らなかったりはみ出たら消して何度でもやり直しが出来ます。これを使ってそれでも数か月かかって完成したのが以下の画像です。

 以上、空白の部分も別にデータが何もないという部分は少なくて見えるものもあります。これ以後はiPadを使い、マウスでなくアップルペンで線を補足、または消去して実物の字に近づけたいと思って居ます。現在アップルペンでの書道を練習中です。

 これと同時にくずし字変体仮名を書いてしまい背景に板模様を使って合成し、奉納前句額を作ってしまおうという試みも行っています。

 このページの最後に墨書文字を板目模様の上に合成した作品を紹介しています。


平成の世からの贈り物 (厳島神社前句解読その後)

 つい最近になって、平成元年頃から始めて平成15年に完成したと思われる厳島神社奉納前句の解読資料を届けて下さった方がおられました。そこで早速平成の解釈と令和の解釈と比較し取捨選択をしていくことにしました。
 まず全体の平成・令和解釈を並べて紹介し面白い部分に説明を加えていきます。数字は前句の記載順番号です。


 1番:最初から難句で難航。「城」の崩しが教科書通りでないが令和の目ではどうしても城に見えます。また令和は「四海波静か」という熟語にこだわっていましたが、最近になって「四海尊登」と見えて来ました。海の次は尊であるというのは平成・令和が一致。ただし日本語としてどうか。

 2番:出陣でなく出陳は間違いないところ。「擴げ」の崩しがしっくり来ていないのは確か。ストレート過ぎてえげつない句であることは確か。平成は上品にこだわりました。 

 3番:これは令和は自信ありました。下五の原文は「鳥の」の次が(手偏に弓一)の漢字です。読みは「て」です。しかしこれだと下四の字足らずになってしまいます。そこで読みは脚「あし」と考えていたのです。問題は鳥の脚は小鳥でも鱗に爪付きで非常に怖いもの。こんな手櫛 はこんな場面に不似合い。そこで今は、鳥の手=すなわち「羽根」と読むべきと考えています。ストレートでないえげつない句です。

 8番:平成の解釈を読んで5K画像をもう一度見直しますと「月」ではなく「目」でした。そして下五は「夕涼視」でした。これで墨書筆者のしゃれが見えて来ます。「目」、「見」、「視」と、「見」に関連する漢字を3っつ並べたと言うことでしょう。「夕涼視」は「ゆうすずみ」と読むべきでしょう。

 9番:原文を現代仮名漢字に直すと「車る物の支に閑へす居候」です。ここで上五「車る物」=「かいまき(を)」と読み解くべしは令和の解釈の快挙と考えています。「車る物」はそんなに見えない字ではないのですが、平成は脱線し続けました。平成は最後に復線しましたが「候」の崩しは千差万別 (縦線1本もある)なのでまた脱線。

 10番:令和に見たものは「頼政」とは読めませんでした。平成の「あおがるる」は日本語としてよさそう。故事にちなんだ句であることは間違いないのですが。 

 13番:原文の令和の解釈は「繪か神の形千かきちと神に亦」です。漢字の意味に囚われると脱線します。当て字は時として単語の区切りも無視します。

 14番:平成解釈で「嵯峨」と読んだ箇所を令和解釈では「?悲」と読んだ。その読みの差が句の全体の解釈に影響しました。さてそれを踏まえて5K画像の原文を再度読みますと「三国を歩いてひる誘悲つへ」=「三国を歩いて放(ひ)るは誘いっぺ」となりました。嵯峨に寝た西行さんを気取った句の景色がにわかに生活生理 になりました。

15番:令和の目では初頭の「曾」はそんなに読みにくくはないのですが・・・・。平成はやはり明治以後の(悟ったような静かな月並みな)老人俳句・短歌観にとらわれているように見受けます。

 17番:平成の方が正解に近いかも。これをヒントに令和はもういちど5K画像を見直した結果を以下に示します。お陰様でここで川柳の名歌を発見しました。

 上五、中七は平成が正解で「十二年枯れ木に花を」となります。問題は下五。目をこらして見た結果元の字は「和哥可價」でした。おまけに縦書きですと「可」字が3っつ並んでいます。=「わかかか」??。ここで突然ひらめきました。「我がカカア」でないか。「12年たっておれのかあちゃんがやっと子供を産んだ。でかしたかあちゃん。枯れ木が老妻。花が赤ん坊」ということです。

 20番:令和の目では原文は「来廣の弓や三乃国とひ回り」です。「末」か「来」かで「末」を取ると「末広」になるので漢字の意味に囚われるとここで脱線します。

 21番から平成解釈はほとんど脱線しっぱなしとなりました。

 28番:平成・令和解釈共に川柳として成り立っています。しかし平成解釈は「青々と茂った麦畑のそばでお互い少し離れてうなづき逢っている」って、なにか不自然ではないでしょうか。比較検討の余地はありますが令和の方に軍配が挙がりそう。子供の名は誕生7日目に神様に報告します。報告を終わったのでこの子の種を仕込んだ場所の畑で麦踏みをしているあほうな俺、ということでしょう。

 この辺は原文の汚れが大だった部分で、令和は軽く水洗いした後の墨跡が日焼け残りしていたデータがある分資料に恵まれた感があります。(但し濃く残っていた墨が水洗でにじんでしまった点あり)

 44番から46番は平成、令和共に意味が分かりにくいです。そこでもういちど5K画像を見直して活字かな漢字に直してみました。

 44番:「立身し文合婦ん能念じける」。「文合婦ん能」は「文、語、婦人、能」と区切って解釈したらどうか。頂点に立った人の最終の欲「和歌、四書五経、同士の美人秘書(愛人情婦はすでに満たしきっている)、能楽」がほしいと努力している。という意味でないか?

 読みは「立身し、文、語、(ちゃかして)婦ん、能、念じける」この時代なら家斉、松平定信二人まとめて茶化していると見た。

 45番:「仏壇へ庵彼香で毒斯なり」。「アンカレコウ」はお経の揶揄か。「毒斯」は線香か。朝の信心のかけらもない機械的な線香あげお勤めへの嘲笑か?

 46番:「比久の海今ハ女隠しの空かし」。「比丘の海今は目隠しのそらかし」ということか。令和の解釈で「合」だったのは平成の解釈「今」とした方が良さそうである。船の上で目隠しして仰向けにしたということだけしか言っていない。なぜ相手を目隠ししたのかというとまぶしいだろうから。奉納前句の中で一番の名句かもしれません。あとはご自由に解釈してください。

 55番:令和解釈の原文は「三島城楼か絵馬に友千かける」です。

 57番:下五は「ふところ手」とまで読み過ぎてしまっていいかも知れません。

 58番:令和解釈の原文観察は「蓮の葉に産□□蛍か浄水」だった。ここで中七はグーグルで検索して三昧耶形(さんまやぎょう)にたどりついて「蓮の葉に三昧耶形か浄き水」としたのだが、平成解釈では令和の「□□」を「錦織」と読めたわけである。

 それで平成は錦織る蛍などと迷走したのだが令和の現在でも5K画像でも□□である。

 この最後の句は選者でなおかつ墨書筆者と思われる収月さんの作品である。漢字に対する非常に高度な知識からこの人は八幡のお寺「円鏡寺」の住職かなと思っていたが、八幡の知識人としたらその他に鶴峰八幡宮の神主、お仕送り船産業の創始者高橋万兵衛家とかその舟大工錦織家、五大力船の大森家、庄司・小川・古梶・鈴木の4名主とかが考えられるので、選者・墨書がこの中で錦織家以外の人だったら大尾に錦織は持ってこないだろうから、大尾に錦織をやや不自然な当て字(この奉納額は非常に不自然な当て字がたくさんあふれている)をして入れたということは 錦織家の自己紹介という結論になります。

 以上で、58番句の原文の現代仮名漢字表現は、「蓮の葉に産錦織蛍か浄水」で読みは「蓮の葉に三昧耶形か浄き水」ということになります。

58句全部のくずし字、現代仮名漢字表記、読み解釈をならべる

 一つの句にくずし字、現代仮名漢字表記、そしてその読み解釈を並べてみました。くずし字トレースは鉛筆でやったのでちょっと薄く線が細いです。出来るだけ忠実にトレースしたつもりですが一部くずし字が正規の書き順ではないようなものが見受けました。こちらの書き順認識問題があるのかも知れません。なお文字の大きさの変化も原文に忠実にトレースしたつもりです。

 

くずし字変体仮名を和紙に墨書し背景を桐板に変える

 上記鉛筆書きしたくずし字を書道を習った人に墨書してもらいそれをスキャナーで画像データ化し フォトショップで背景を木板に変えてみました。

 いまやっていることでようやく目鼻がつきだしたのが、例のというか件の「厳島神社奉納前句額復 元」です。習字の先生にくずし字変体仮名で書いて頂き、それをフォトショップ編集して背景を木の板に変えて奉納額にしつらえたものです。前部分、後ろ部分に分離して下に示します。(板はパインで一枚板でなく集合材です。フォトショップで木目が作れるようになったらもう少しましな板材模様に合成し直します。)

 前句右から12番目の句、小さい「の」に見えるカナは「可」をくずしたもので「か」と読みます。あと送りや濁点は書かないという約束が分かれば「臀命かなくて漕ぎ出床の海」と読めます。これを私は「しめこみがなくて漕ぎ出す床の海」と解釈しましたが、実は30年前の先人は「乗り合いがなくて漕ぎ出す床の海」と読みました。
 違いが出たのは最初の2つの漢字。明瞭でない崩字では「乗合」と「臀命」は形が似てきます。5kの解像度と他の部所に見られる当て字、謎かけなどの漢字使いの特徴から私の方が正しいと自負しています。
 上の前半写真、左から7番目の句。「代」のようなものは「能」をくずしたもので「の」と読む、カタカナの「ハイ」を縦に続けたような文字は「希」をくずしたもので「け」と読むと分かっていれば 「余しもの命酒かけ前の家」と読め「余しもの、命、酒、カケ、前の家」となります。(注;「計」をくずした「け」と読む変体仮名が今通用している「け」です。)
さて「カケ」ですが、「賭」とすれば前の流れには乗るが後ろの「前の家」につながりにくい。
「崖」と読めば後ろにはつながるが前の流れにはちょっと奇矯過ぎる。崖を自慢する人は少ないでしょう。
 ここは迷いますが私の結論をいえば「崖」です。そして作者は読者のまよいをも計算して仕込んでいるのです。想定内なのです。
 「老人の自分に残っている物は、命!酒!崖!? (小声で)前の家」ということのようです。豪放らい落豪傑のおじいちゃんっぷりです。実はこの作者「坂佛さん」の10代後の子孫ではないかと私が決めているのは、JRマンでもうだいぶ前に亡くなっているおじいちゃんで押しのきく風貌でえらい人と歩いていると出会う人は必ずえらい人と間違えるという人でした。そしてこの人の家の後ろに見栄えの良い立派な崖(危なく見えない堂々とした崖)があるのです。
ここまで読まれたら、当HPの「新舞子の松原」のページの最後「大坪の松原」に跳んで下さい。おじいちゃんの崖ではないですが近所の写真が掲載されています。

 後ろから13番目。「ひ久の海合ハ女隠しの空かし」。目隠しを「女隠し」と表現し、「の空」と女性の見えない視線で仰向け姿勢を連想させようという魂胆。秀逸です。
 後ろから4番目。「三島城楼か絵馬に友千かける」。「・・・・にと、もちかける」なのに「に友ちかける」と語の分離を無視して「友」という漢字を当てている。2百年後のお前らに「わっかるかなあ?」といったところでしょうか。
 その他全体の句をもう一度改めて味わいたい方は当HP「上総新舞子文学(古典)」のページに跳んで下さい。当て字の妙が半端ない域にあることを発見出来ます。歴史に残った人でなく田舎の名もない庶民の知性とユーモア感覚に脱帽です。ヨーロッパ産業革命前、アメリカ独立戦争に勝ったかどうかという時代、世界の庶民で日本以外これだけ学のある庶民はいないと思います。
 八幡村が江戸でなく上方指向であることに続いて、神に献げる神魚を「いなだ」や「真鯛」でなく 「黒鯛」にこだわる八幡村の伝統についても追加で紹介しましたので一読下さい。

 注:上記板に墨書風にまとめた奉納額の墨書と解説の中に一部先に解説した内容と異なる記述が幾つかあります。これは墨書依頼後に変更になったことによるものです。

 

付け句平成令和解読合戦

  付け句解読した結果を、板書墨書されたくずし字変体仮名のトレース、それの現代活字に直したものと、それを五七五に整理して当て字を正しい字に直したもの(令和解読)、さらに、平成解読を並べる作業が終わりました。
 下の画像は、平成の解読の方が正しいのではないかと思われるものを抜粋して並べたものです。ここで最終的な判断を令和解読した本人がすることとします。

 第10句:頭を「頼政」と読んだ平成がほぼ正しかった。令和は「杉政」と読んだので故事に繋げられなかった。平等院扇の芝での源頼政自害への弔いの句である。平成解読は下七が脱線している。令和解読の骨と皮が扇子になったというのは現代の美意識ではついて行けないが、字面は確かにこうなっている。以仁王への忠義の臣として源頼政をたたえている。
 

 第11句:令和の解読は意味がつかみにくい。頭を「能因」と読んだ平成解読は能因法師の「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」実は現地に行っていないので居留守をして日に焼けて満を持して発表したという故事にちなんで、その能因も結局後で白河の関を越えて行った、との佐貫の□□さんこれでは作りが弱いです。皮肉になっていない。ただし、これは平成解読の脱線です。たぶん、正しくは「能因も海も余すか前の月」です。意味はおそらく冬のフルムーンが西に傾く深夜の八幡浜の光景は能因法師も海も作歌するに持てあましている、その力をもってしても表現できない美しさである、という地元びいきの句ではないかと考えています。
 

 第17句:平成解読はいいところまでいったのに、「当て字」という考えを持てず、漢字の意味に囚われ過ぎました。下五の最後は「和哥可価」です。「我がカカア」です。
 

 第45、50、52句:この辺は令和解読前の軽い洗浄がきいている部分で字のトレースがうまくできた所です。45句「庵彼香」、50句頭大きく「ワ」としたところははっきりしています。前者は意味不明ですがこれは気の入らないお経あげの揶揄でしょう。50句の平成解読は信長から名字をいただいた藤吉郎の場面でこれはこれで魅力的ですが、頭の「御」のくずし字として「ワ」の形は「五体字類」にありません。従って「御手づから・・・」が成り立ちません。
 

 52句の平成解読は「初雪や明治は遠くなりにけり」に近い句で魅力的ですが、「稲と知らんが三の・・」までははっきりしていますので「我が年令(とし)の積もりも知らす雪の暮れ」は残念ながら幻の句です。

付け句作者別配列解説 

 奉納前句で複数投句者別に並べて見ました。投句者の個性が見えてくるのではとの期待からです。 

 右から笹毛村の甚幸さんの5句が選ばれて載りました。最多です。

 「八重垣の睡りの社の隠れ里」

 「難題の蛍に和多の口と腹」

 「余し者尻はきたなに翁草」

 「藤邑と云えどお塩を汲みに行き」  藤邑=山村=笹毛ということのようです。

 「立身し、文、語、婦ん、能、念じける」

 次に八幡村の羽重さんが3句選ばれました。「羽重」とは「羽根のように軽い男でござりまする」という意味だと思われます。あと、「重」はひょっとして屋号の一部ではとも考えられます。

「一梳かせ手櫛で通る鳥の羽根」

「卯波の端抹香鯨屁の火とも」

「帯解きは寝よかと見せて懐(ふところ)手」

 羽重さんのバレ句(エロを主題とした句)は考え抜いてさりげなくしたもので、上品な出来になっています。作者の個性が出ています。

 笹毛村の地秋さんです。全部折り込み句と称しています。本来折り込み句とはヤハタなど指定された「音」を句の五、七、五の先頭に入れ込む事なのですが、この奉納額では一音でもOK、あるいは八幡村の景色であればよいと言うことのようです。

 「曾(ひい)のいる身で母の衣(い)を汚すなり」 この句は中七に「ハ」が入っている。

 「下帯か日本件(くだん)の白鳥(しらとり)か」 この句は八幡村の海岸の男達の労働風景だから折り込み句ということです。鹿野山白鳥神社を崇敬する男のふんどし姿は白鳥が羽根を広げて飛んでいるようだという意味です。

 「倭まで海越え花の誕生会」 これはきっちりとヤハタが入っています。ただし中七、「ハ」が先頭にないですが。

 大坪村の里暁さんのバレ句は直接的な表現で芸がないのが特徴。

「日月をくっつける身は暗からじ」

「まむこうは女の吐息の出る所」

「花の海性根(しょうね)の日の本デク翁」

 この三句目。平成の解釈では作者が里暁さんとなっていましたが、現物を見ると「日」扁がなくて、「里兄」に見えます。句の景色からみて同一人物とは思えない。 第三句は哲学的です。これで里暁さんと里兄さんが兄弟ならば面白い。 1820年代に相次いで亡くなった老人の兄弟(勿論本家分家すじで別の過去帳に記載されていて、例えばそのうちの一人が江戸に出て学問を修めたなどの記事があれば非常に有望)が見つかれば面白くなります。

 八幡村の文藤さんの句。

「三国を歩いてひるは誘いっぺ」 京、大坂、奈良の観光旅行。徒歩の旅で喰っちゃ寝、歩き続けの生活の中での実感です。

「脇っから名告げいらつく持てあそぶ」

「空みえきいる目はら病む霞み玻璃(はり)」

 笹毛村の錦藤さん。

「花の芽は咲きて玉入れ子宝に」

「何所までの泊まりか母歩いまわの忌」

「玉手箱射て和国人誕生し」 この三句目は上の二句とは景色が違います。この三句目の作者は「ささけ」と平かなの村名で錦藤さんです。あるいは同名の別人か。雅号「錦」の文字は「錦織」一族か?

二句作の人々をまとめました。

八幡村の叶幸さん。
「十二年枯れ木に花を我がカカア」

「狼をしのぐ肝とし平らげる」

 八幡村の羽通さん。
「頼光の弓矢三の国飛び廻り」

「名物のラッキョウひりしてご用心」

 八幡村の羽彦さん。ただし下の二句は同じ作者とは考えにくいです。風景が違いすぎ。
「慈悲もなく絡め手籠めは白(しら)っ壁」

「根をなくす鵜が文字花の一の宮」

 八幡村の鶴幸さん。

 この人は八幡村から江戸などに出て勝負の人だったのかも知れません。雅号の「鶴」は八幡村小字鶴屋敷に住む、古梶、または庄司、小川などを連想させます。

「日本の光る気なしで帰り蛍(けい)」

「三島女郎替え間にしてと持ちかける」

 笹毛村の柏舟さんです。

「鶴が啼く決まりか直ぐに玉と出(で)し」

「瓜なりて瓜汁喰うは畑(はた)の中」

 大坪村の加作さん。

「玉手箱拡げ三浦へ出陳し」

「お茶の木のチンケラ光り雲の上」

 二句目のはやし言葉「仕合」は今の漢字使用に習えば「試合」でしょう。チンケラは富津地方名物蝿取り蜘蛛合戦の蜘蛛戦士のことだと思われます。この蜘蛛は茶の木に生息していました。これを捕獲して蜂蜜など特別食で大きく育て、割り箸の上で戦わせます。糸を出して逃げた方が負け。

一句だけの当選者の中の傑作。その中で八幡の海をテーマにしたもの三句と女性の当選句二句。これも傑作。以上で五句にしました。
「しめこみが無くて漕ぎ出す床の海」 尾車村の梅林さん

「花の海性根の日の本デク翁」 大坪村の里兄さん(先に一度紹介)

「比丘(びく)の海今は目隠しのそらかし」 上村の茶専さん

「柄鏡の形がキチッと髪に亦」 佐貫町の□□さん

「去り状の端切れ繋げるつながらじ」 上村の和水さん

 ※以上、小林一茶と同年代です。一茶伝では、一茶は江戸を根城にして資金稼ぎのため田舎の有力な名主の家を渡り歩く人で一茶が来ていないのは貧乏村で文化の果つる村の証拠なのだそうです。そうすると一茶が来ていない八幡は文化の果てる村となりますがそれにしては句の出来がいいですね。ちなみに一茶は富津の織本家には何度も親しく訪問しましたが、小久保、八幡、湊、竹岡などには寄らず、次にたまに金谷村の鈴木家に行っています。


投句者は佐貫の大店の御夫婦か


 下の奉納前句は、佐貫町(残念ながら雅号は消滅)の2句が尾車村(現君津市)の句を挟んで書かれています。今回は同じ作者でなく佐貫町のこの2句(佐貫町からの奉納はこの2句を含めて4句)に焦点を当ててみます。

 まず、一つの句に対して4つ並んだものは、最初に墨書くずし字トレース、次にその現代漢字仮名表記、次に令和最終解釈、つぎに平成解釈を載せています。

 佐貫町からの投稿のこの2句は、現実に体験した時空を意識してしまう美しいもの、ありふれた日常の中で出会った「鏡像と認識と自己」合成の不思議さ、大げさに言えば般若心経の中に入ってしまったようなここちがあって、二つの句は不思議と波長が合っています。この作者はあるいは仲の良いご夫婦ではないかという印象があります。

 まず1句目、「能因も海も余すか前の月」。

「和歌の道」があると最初に説いた能因法師の才能をもってしても、ここに広がる母なる海をもってしてもこの月の美しさを表現するのに持て余すのではないか、ということでしょう。ここで春夏秋冬いつの月かについてですが、私が思うにそれはフルムーン=大月です。墨書くずし字トレース最後の下五「前の月」を見て頂きたい。「能」のくずしから月に向かう筆が余分な横棒を書いてから月に向かっています。これは無駄な線、遊びの線だと私はつい最近まで思っていたのですが、墨書者は「大月」の意味をこの余分な1本の横棒に託したのでしょう。かぐや姫が月に帰るのも、映画「E・T」で自転車の少年達が空を飛んだのも、朝の連ドラ「かむかむエブリボデイ」で戦争孤児の子供が喫茶店のマスターから「大月」の名字をつけてもらったのもハロウインの頃の満月フルムーン=大月の夜でした。〔余談ですが)下のフルムーンののれん、TVであと二週間の間に大きな働きをするのではないかと予想しています。

 200年前、佐貫町の作者は夕方でなく深夜、西に傾くフルムーンを一人新舞子の鳥居崎の常夜灯の傍で眺めたことでしょう。アニメの主人公のように思わず両手を月に向かって捧げたことでしょう。
次に2句目。「柄鏡の形がきちっと髪にまた」は普通だと柄鏡の中の鏡の画像は自分の後ろ髪なのですが、ちょっと角度を変えたら柄鏡の枠が自分の髪の毛のように見えたのです。視線が自分の前の鏡の鏡像に移ったのです。まあ説明が難しいのでちょっと実験して見て下さい。

 佐貫町の日月神社の祭礼は10月21日です。この日門々に繪燈籠を立てるのが慣わしで、ここには漫画や風景などと共に俳句、和歌、川柳などを書くことになっています。佐貫町のご夫婦はあるいはここで発表して好評だったので八幡の奉納前句に投句する気になったのかも知れません。ちなみに、この祭礼では昭和時代(戦前から前のオリンピックの頃まで)になると盛大な仮装行列も加わりました。季節も近いしハロウインとくっつければ今でもそれなりの集客があるかも知れないのに今では祭礼そのものがコロナの前から廃止になりつつの状態でコロナ後ではさらに以ての外のこととなり、廃止決定的となり、まことに残念です。


奉納前句の投稿者を推理する

 200年前の人物と残っている俳句川柳を結びつけるとすればその人物の著作や伝記、過去帳の記述などに句や俳号(川柳では雅号または柳号というそうです)など何らかの情報がなければ無理である。
しかし、句の中に、もし親子の関係性が含まれていれば、それと過去帳を照合すれば句を詠んだ人を推理することが出来るのではないか?
その格好の素材が奉納前句額に一つだけある。

     アッパレ   十二年枯れ木に花を我がカカア    八幡 叶幸
 ここで「アッパレ」は選者または板書した人が加えた囃子ことば、にぎやかしではないかと考えている。江戸古川柳の刷り物は多く残っているが句の上にこのような囃子ことばが載っている例は見ない。◎△などの記号であることが多い。それはそれとしてあと最後はこの川柳の作者八幡村の叶幸さんということである。

 またちょっと蛇足だが念のため。奉納句を見ると全体にレベルが非常に高い。田舎のことだし先端を行く知識人も、変にうるさい評論家も、そもそも天下に評判になるわけでもないだろうし、だから著作権の意識もないだろうから、八幡は地理的に江戸に近いので江戸の川柳を見てきてそのまま投句したなどのまねや盗作があるかも知れないと古川柳辞典などでざっくり調べたが類似句や盗作のようなものはなかった。

 江戸川柳のメインテーマが下女、小僧、田舎侍、時の権力者を上から目線で綴っているのに対し、八幡は田舎故に下女も小僧も侍もいないため、からかいの対象を自分にせざるを得ないため結果として上品な仕上がりになっている。サラリーマン川柳ののりである。

 「12年経ってついに我が古女房に子が生まれた。でかしたカカア」柳号「叶幸」に喜びが凝縮している。この喜びの大きさを共有しながら推理を進めてみよう。

 「奉納前句が墨書された西暦1800年頃に、結婚して12年子がなくて、年増(30から40才ぐらい)の妻に子供が生まれている。どうも一人っ子のようだ」というパターンがもし見えれば有力な句の作者の候補者になる。しかし、過去帳は、没年のみ書かれていて没年令が書かれていない事があったり、まして結婚年は分からない。そしてその家から嫁に行ったり新たに一家を築いた者は記述されていない。だから一人っ子かどうかは分からない。一方、当時多かった童子や童女の戒名(水子や夭折者)とその没年が当該夫婦の結婚年の推定材料にはなる。しかしこれも諸刃の刃で、もし詠まれた子「枯れ木に花の子」が、夭折者だったら「12年子がなかった」と推理することは出来なくなる。12年前の童子童女の存在など別の情報がない限り12年子がなかったと推理することは出来ない。

 以上大上段に構えておもむろに過去帳を広げ推理に没頭しだしたわけではなく、実態は、日めくりの過去帳がぼろぼろになっていきつつあるのを見て老い先短い自己を省みて過去帳を新調すべく菩提寺の和尚さんに注文するにもデータ整理が必要だと位牌と過去帳の照合とかその他を始めたら、すぐに我が家三代目の夫婦、俗名も書かれていて「忠吉」と「きん」が西暦1800年頃に子供を育てていて、その三番目の子がそれこそずばり1800年に亡くなっている(俗名は富蔵で戒名は恵林童子。没年令不詳)のを見つけた。亡くなったのが奉納前句墨書の2年前というのが気に入らない(死んでしまった子の誕生談を奉納するか?)が、とにかく棒線グラフ視覚化し、この夫婦の子供達を中心に調べて見た。

 左から忠吉・きんの三代目夫婦、その子供達富蔵、幻理童女とよの。よのの夫の伝蔵、さらにその子の忠兵衛である。ここで、没年令が分かっているのはよのと忠兵衛のみ。

 これだけの情報でまず云っておかなければならないのが、幻理童女の死亡とよのの誕生が同時だということ。これは双子で生まれて一人は死産だったということになる。

 そしてまず三代目(没年令不詳)忠吉は入り婿で1827年に亡くなっている。妻きんも没年令不詳で1836年に亡くなっている。ここできんが20才でよのを生んだとすると、川柳でいう12年後に富蔵が生まれた時のきんの年令は32才である。16才頃から子供を産む当時としてはこれは枯れ木に花と驚いて不思議はない。

 これはあと5年若くて15才でよのを生んだか逆に25才で生んだかで、次のお産が27才から37才まで変化するがこの十年の振れでみても当時の感覚としてきんを枯れ木に例えてそんなに不自然ではない。
さてこの夫婦に子は他に居ないのか、たとえば嫁に行った女の子とか、独立した男の子とかの存在の可能性である。

 よのが嫁に行かず婿を取ったと云うことは、「忠吉ときん夫婦」にはこの他に男の子はいなかったことを意味する。女の子の存在はどうか?よのの下に女の子がいた可能性はある。たとえばよの誕生の2年後に女の子が生まれていた場合、忠吉のお産無し12年はここからスタートするから、富蔵は1796年に生まれることになり富蔵の没年令が4才になることを意味する。これで別に不都合はない。きんは富蔵を34才で生んだことになるだけである。

 「十二年枯れ木に花を我がカカア」の作者が忠吉であるかも知れないということは充分な真実性があると確認出来た。ただひとつ気にくわないのは奉納前句額が墨書された1802年には死んでいた子供の誕生談を結局ぬか喜びになってしまったという心のままで奉納辞退せずになぜ忠吉は奉納を強行したのかということである。

 実はこれについて「奉納強行の納得出来る理由」と感じられる事象が起こっている。

 忠吉の娘「よの」の息子忠兵衛の誕生年である。何とその年は1801年!。富蔵が亡くなった翌年である。この時「よの」は19才。お相手は何と(驚きが続くが)忠吉の実家の息子伝蔵である。従弟同士ということになるが果たして忠吉は許していたかどうか、あるいは、交際を知らなかったかもしれない。ただ、この事実の前に忠吉は神を信ずる気になったかも知れない。忠兵衛は富蔵の生まれ変わりだ!。これで「たいした家ではないが」四代、五代と俺がつないだことになる、ということだ。

 おれは幸せ者だ=叶幸=ありがたやありがたいことありがたいこと奉納強行である。

 三代目忠吉がこれほどまでに男子相続にこだわるのは、忠吉自身が入り婿だからであり、またその義理の父親が正規の二代目ではない点にある。というのは、初代は八幡の神主家の次男か何かで本人も神主で、子は男子のみ4人。長男は夭折、次男は理由は分からないが竹岡の延命寺に入って帰らず、三男が嫁をもらい二代目になった。四男は独立せず居候のままで終始(生活力がなかったか)。

 二代目は結局子供が出来ないまま死去。四男の居候と残された未亡人でくらしていたところを(たぶん)村の世話で入り婿の形で政次郎という人が入り、この人との間に唯一人の娘「きん」が生まれた。

 そして「きん」の入り婿で忠吉が入ったのである。忠吉にしてみれば、自分の代で是非男の子を育て上げようと思っていたところ生まれたのは女の子のよの。ああ次がまた入り婿かと思ったことだろう。実際よのが生まれてその後ずっと子がなかった。ところが12年後に男の子が生まれた。万歳と思ったらその子が死んでまたあーあっと、がっかりしていたら娘がすぐに男の子を生んだ、と、こういうわけである。

 ただ、残念なことに、その後の経過を説明すると、五代目忠兵衛には娘2人しか授からず、一人は夭折。もう一人の娘「まさ」が婿をもらいこれが6代目。この時点で忠吉の悲願はくずれたが、実はこの「まさ」は88才まで生きて、明治期から昭和まで途中で七代目の離婚にもめげず(と、いうより「まさ」が嫁を追い出したかも?七代目は小学校の小使いをやっていたとのことでおとなしく何となく頼りない感じなので。ただ78才まで生きた)孫の男の子、女の子の二人を育て、ついでに男の子もう一人の養子を育てたと云う具合である。孫のうちの女子は特に傑出していて東京の岩田家というところに嫁ぎ100才まで生きた。息子は横浜高専に入り孫は日比谷高校から東大へ、もう一人は東大が大学紛争でしょうがなくて京大に入ったという。

 その後八代目、九代目、十代目の私と一応男子相続で、来ている。

 今までの系図を総括すると、やはり「忠吉ときんの夫婦」が画期であり、その後のよの、まさの女傑がすべてであったように見える。忠吉は単にこれらの女傑をつなぐスポークスマンと物語のスターターだったに過ぎないように見える。

 ただ、縁ということを感じざるを得ない。200年後に十代目の私がこの川柳を解読しようとしたことそして解読途中で、同じ句を(12年しかよめなかったので苦し紛れに「十二年指折り数え天花粉」とし、母が娘の後ろの首筋にほのかな色気を感じたというようにしていたのだが、それを私がひねりだした土地に、その昔たしかに生きていたきんと娘のよののさりげない夏の夜の一時、1794年、その時母のおなかには富蔵を宿していたと言う計算になるのだから、私が土地の「気」に導かれてひねり出したと感じてしまうのである。要はこの句は夫の忠吉が詠んだ(おそらくこれが正しいのだが)のだが、200年後の私が妻の「きん」が詠んだらこうなると知らず知らずに土地の「気」に導かれて解釈していたと感じてしまうのである。忠吉ときんとよのときんのおなかの中の富蔵と200年後の私と時空を越えたこの一体感は実に楽しいものになった。

 そして奉納前句額には叶幸さんの句がもう一つ選ばれていたので紹介します。

 ヲモシロ   狼を凌ぐ肝とし平らげる     八幡 叶幸

 「狼をしのぐ勇気を持って狼の肝を喰ってやった」ということです。18世紀末には日本にまだ日本オオカミが生存していたようです。多分生の肝臓を食べたのでしょう。精がつくということで昔は例えばまむしの肝や心臓などを一家の主や跡取り息子に食べさせる風潮があったがその流れの中での体験談であろうと考えられます。

 以上の川柳ふたつでその人物を論ずるのはどうかと思うが、叶幸=忠吉という人は、戯れ句、下ネタ歴史物、時事批評はやらなかったのだろう。また川柳としてその省略ぶりは冴えている(だから当選したのでしょうが)感じがします。私は到底忠吉に及ばない。私は省略できない。むしろくどいです。