アクセスカウンター

房総里見家の女たち異聞その4

 35.三船山合戦その考察

 2004年十二月、木更津で開催された講演会「西上総の戦国社会と城郭」(千葉城郭研究セミナー主催)で、滝川恒昭さんが講演した「上総三船山合戦の歴史的意義」を元に三船山合戦に迫ってみます。

 と、いっても滝川さんに言わせると、三船山合戦の根本同時代古典資料はなく、多くの軍記物(江戸時代に成立)では、里見が勝ったということだけが共通しているが、それらが主張している、その合戦の規模、模様は千差万別でどれも信じられない、結論を言えば「分からない」の一言だそうです。分からないことでは、「第二次国府台合戦」も同じだそうです。ということで終わってしまってはしようがありませんので滝川さんのお話を伺いながら考察します。


 北条、里見の領分の問題。この辺り一帯は北条、里見の勢力拮抗地帯ではっきり線引きできるものではない。永禄二年成立の北条家所領役帳には、篠塚(=笹塚)、杉谷、郡、大堀、佐貫城(布施弾正左衛門在城)が北条氏領。(これだと三船山一帯は北条領)これより二年前の弘治三年氏康文書では、周西の中富村(君津市中富)も出てくる。


 合戦準備?らしき文書。三船山合戦直前と解釈すれば納得がいく。永禄十年六月、七月に物品の調達文書がある。「中身は米、鍛冶屋さんを四人、六浦の番匠(鷹狩)を上総に渡らせてくれ。兵糧を品川で調達せよ」


 永禄十年六月、氏康から正木時忠(国府台以後北条についたとされる)への書状。「今後も武器弾薬は送るから安心せよ。里見から攻撃されたらすぐ応援に向かう」


 合戦直後?と思われ、しかも北条方がきびしかったと解釈出来る文書。永禄十年九月、氏政から秦翁宗安への書状。「今度の上総行き(三船山)で太田氏資の落ち度でその方の兄が討ち死に忠節浅くない。氏政は感悦。しかし宗安には実子がない・・・・。同じような文書を内田孫四郎、賀藤源二郎にも送っている」


 合戦が里見方の勝利になったとすると納得が行く文書。永禄十二年正月、北条氏康から安房妙本寺への書状。「・・・・房・相逐一「和」に向かい申す・・・・房・相の御弓矢のことは際限がない。万民が愁嘆し・・・・」


 小笠原長和さんは、以上のような文書を元に次のようなまとめをしている。


 その戦われた時期が永禄十年であることは決定的であるが、その年の九月八日以前のいつごろか、たぶん八月二十三日あたりと思われるが、これは明確でない。(中略)


 これを要するに、三船山合戦は北条軍が里見氏の本拠に近接して堡塁を築設し、氏政、氏照、氏資以下が大軍を率い、計画的に進行して里見氏に圧迫を加えたことにより起こった戦いであろうと考える。里見勢は地理上、作戦上有利な立場にあったので、十分に敵をひきつけておいて痛撃を与え、敵を退却せしめ、以後の両総における里見氏の地位の優勢を保持することに役立った。


 次に合戦の経緯であるが、これは軍記以外残っていない。それぞれの皆さん小説も苦労しています。北条軍が三船山の頂上陣場に陣取り、戦いの場は、山の下、三船山南側の障子谷とそこから西へ行った相野谷でこれは皆さん共通している。「富津市史」では里見の陣構えは、里見義弘が虚空蔵山に(敵から隠れてではなく)登り、正木時茂は小人数で相野谷の八幡山に隠れたことになっている。虚空蔵山は障子谷を挟んで三船山の向かいの山である。障子谷の幅は四百メートルくらいしかなくしかも虚空蔵山は三船山の半分ぐらいの高さなので、三船山から人の動きなど手に取るように見えてしまう。こんなところに陣を構えるかがひとつの疑問である。八幡山は当時も今も八幡神社の森で高さは二十メートルくらい、二百人も上がればいっぱいになる狭さである。ただ、三船山から西へ二キロメートルくらいなので注意して三船山の見張りから隠れたら隠れられる。八幡山の前の東側一帯は今は土地改良されているが、農業用水の溝が深く掘られていて、確かに昔は沼だったのかもしれない様相である。


 だが、しかし、この陣構えで、里見義弘が挑発した上て逃げたとして、北条がおめおめと大軍で里見の後を追って西へ追いかけるか、これは疑問である。里見が虚空蔵山へ逃げ上がるのを追いかけるなら分かりますが、山でなく九十度違う方向へ逃げたら「おかしい罠では」と思うのが普通であろう。そこで各小説家が苦労する。戸田さんは、すべてを霧のせいにするし、小川さんは、里見の布陣を百八十度ひっくり返し、義弘を相野谷八幡山に置き、西から東に進軍して、北条が出てきたら、西に逃げる、これを北条が追いかけ、その北条の後を東に隠れていた正木が追いかけるという形にした。これの方が自然だが、しかし、これでも最初の局地戦でしかも霧が出ていたのになぜ北条が大軍で押しかけるのかが不自然です。そもそも陣地戦なのに、里見の最初の陣地が谷(小高い丘ではある)というのも不自然です。


 以上、実際に現場を見ましたが、納得できる陣構えは想定できませんでした。三船山の陣場跡は、非常に眺望がいいです。久留里方面から佐貫まで全部見通せます。ここは昔から天羽郡と須恵郡の堺地らしく、目印の頂上塚が点々とありました。

 36.戦国時代の合戦譚

 三船山での勝利を確実なものにすると、里見軍は三浦に進出し、安房を目指して待機していた北条綱成の軍を菊名浦に破り、さらに国府台合戦以来、三年もの間北条の幕下にあった新井城を回復して城代を置いた。


 里見は再び息を吹き返して安房一国と上総半国、更に三浦四十余郷を持分として、大方旧(第二次国府台合戦前)に復することとなった。その後は時代が移り、上方勢力(織田・豊臣・徳川)が関東に接触してきたこともあり、東国同士の内輪もめのポテンシャルが下がり、房・相にあっては、三船山が最後の戦いとなった。ちなみに里見支配の最大時の領域は現代の衆議院議員選挙区千葉十二区とほぼ一致している。


 永禄十年から天正五年頃までの日本史おさらい。


 永禄十一年 信長、足利義明を奉じて京に入る
 元亀二年 信長、延暦寺を焼き討ち
 天正元年(一五七三)姉川の合戦
 天正三年 信長、本願寺と和睦
 天正四年 安土城築城
 天正六年 荒木村重、信長に背く
 天正九年 秀吉中国攻め
 天正十年 本能寺の変


 以上、意識的に信長・秀吉の事跡を追っていますが、年表をくくると全国に様々な事跡があり、その中で信長・秀吉のそれが特に目立つということはありません。例えば本能寺の変レベルの事件は全国にたくさんあるのです。まして荒木村重や中国攻めをやの世界だったのです、その当時の日本は。それが結果として秀吉の総無事令(一斉無条件休戦令)の紙切れ一枚で急速に収束に向かったのはなぜか、どんなからくりだったのか。それをクリアにしたい。結果を先にそれを必然と認めてそこからそう言えばこんなことがとスポットをあてがった歴史の読み取りは認識判断を曇らせます。天正年代の少なくとも初期では、信長・秀吉は名実共に新興中堅ハデハデ宣伝の拡大至上主義企業で、まさかこんなえげつないばかさわぎ企業がそれで天下を取るなど誰ひとりまともに信ずる人はいなかったのです。


 永禄十一年春、里見実堯系の実質初代の義堯は六十二才、溌剌としていたこの人もさすがに衰えを隠せなくなった。永禄七年の国府台合戦の敗戦でめっきり老け、そして敗戦の責任を取ってなかば隠居した形であったが、今回の三船山の勝利で義弘四十四才が、実堯系の二代目として衆目が認めたのを機に義堯は義弘に正式に家督を譲った。里見家七代当主義弘は佐貫城から久留里城に移った。なお、義頼は富浦の岡本城に、義堯は滝田城にいた。


 義弘には相変わらず正室がいない。側室もいないようで、後継がいない。心配した義堯の強制的な指名で、義弘の弟の義頼を義弘の後継と定めた。義弘はその辺無頓着で興味も示さなかった。義弘は世間の評判が高まるのに平行して言葉使いも態度も立派なものになっていた。しかし、内実は孤独な中年であった。毎日の酒量が更に増していた。


 戦国武将の社会的存在意義については以前に少し触れたがおさらいすると、①歴史的な(鎌倉以来)既得権である守護・地頭の徴税権(検地などの調査権も含む)で税を徴収し、朝廷、貴族、社寺への上納をはしょり、それを財源に、②住民に対して災害や戦争、端境期などでの生活困難、または損害に対する保険業的役割を果たすと同時に、③祭りなどを通じて所得の再分配を行い、④犯罪者を捕らえ、罰することなどである。


 そしてこれらを思うように行うために政治活動があった。戦国のこの時代、政治とは極論すれば合戦であった。「合戦」を現代に照らしてみれば、プロスポーツ大会と選挙と議会を一緒にしたようなものと考えれば一番近いかもしれない。合戦はまた多くの人手がいるので農家の次、三男などの雇用を生み出す産業であった。そしてその勝敗が人生模様の攪拌機になって、ある意味社会の風通しを良くしていた。なにより「合戦」に強いことは、武将の第一の綺羅であった。


 「富津市史」(正確にはそのダイジェスト版「富津市のあゆみ」)に、三船山合戦で、相野谷、障子谷の住民が大迷惑を受けたように書いてあったが、たしかにその面も否定できないが合戦の勝利によって我が郷土の殿様を誇る気持ち、そして更に合戦に参加した人たちは自分をも誇る気持ちがあったはずである。合戦で住民は一方的に被害ばかりを受けていたわけではない。


 三船山合戦で、特に上総衆の間に、義弘を我らが殿様はたいしたものだとして受け入れる風潮が出来たのである。なじみの薄い、義堯や義頼でなく、上総は義弘なのであった。


 ひるがえってみると、第二次国府台合戦までは、戦は安房衆が主体だった。それが、この三船山合戦では、地元防衛戦の意味もあって上総衆が主体になったのである。この状況の中で、義弘が足利公方家の姫を正室に選んだ。第二の結姫である。この新姫を上総衆が担ぎ出したため、対抗上、安房衆は昔の結姫をなつかしんだ。足利の新旧ふたりの姫をそれぞれ旗印に、上総衆と安房衆の反目がひろがって行くのである。

 37.出会い再び

 里見、上杉らに擁立された足利藤氏は、早々に古河を追われ、北条氏によって裏切り者の烙印を押されていた。そして、三船山合戦の一年前、伊豆にて自害して果てた。これにより上杉謙信は関東公方擁立の情熱を失い、同時に北条氏との戦にも消極的になった。(実際永禄十二年に一旦和睦)しかし、一人、義弘は藤氏の同母弟藤政に期待して里見・上杉擁立の関東公方の夢を捨てていない。


 永禄十二年五月、義弘は藤政とともに一次二次ふたつの国府台戦死者の慰霊のために国府台を訪れその足で関宿の簗田氏を訪ねた。この時の当主は簗田中務大輔晴助である。


 簗田氏は藤政の生母の実家であり、今も母と共に同母の妹、豊姫が関宿城にいる。豊姫は十八才。(豊姫の祖父の兄弟の娘が佐貫で死んだ結姫)簗田氏は、古河公方足利利晴の寵臣簗田河内守成助が関宿に城を構えて始まる。古河(ここの公方はすぐ北条にからめとられてしまう)と目と鼻の先の関宿で、周囲をほとんど北条方に取り囲まれながら反北条の旗印を律儀に守り通してきたのであるが、今の時代になって、関宿を反北条の橋頭堡として保っていくのはきびしいというのであった。里見にしても関宿は重荷になりつつあった。三船山でかろうじて北条の南進を食い止めたが、関八州レベルで見れば里見の戦線を五十キロメートル以上南下させないと守りが危なくなっていたのである。そうすると関宿は橋頭堡というより孤島になってしまう。里見が北条に積極的に出たとしても、味方としては連携する上でちょっと遠すぎる。


 関宿城の三者会議(義弘、藤政、簗田晴助)で次のことが決まった。①関宿城は折を見て北条に明け渡し。それを北条への土産として簗田氏の安堵を願う。②里見と簗田とは同盟関係の縁を切る。③藤氏の後見を里見が行う。里見義弘は関東副将軍(従来は副師)と称する。下総の生実ラインでの公方家再興を志向する。(小弓公方の再興)④里見は上杉との同盟を続ける。


 そしてさらに、簗田晴助の方から、義弘に、藤政の母と、妹、豊姫の保護の求めがあった。藤政もぜひ願いたい、里見だけが頼りだということであった。さらに縁を深くするため、豊姫を義弘の正室に迎えてもらえれば願いがかなうということであった。義弘の脳裏に結姫の姿がよぎった。振り向いて「里見太郎様」と、にっこり笑う結姫がラッシュ動画のようにちらついた。


 藤政擁立に向かって、義弘が藤政の身内になってしまうことは、義弘の計算では逆効果の気がした。また、四十五才にもなった今は、足利の姫であろうが、夫婦になってご機嫌取りにらちもない会話を考えるなど面倒の思いもあった。まして十八の娘、こちらはなんとでもするが、酒臭く、脂ぎった体を見せながら、熟したしぶ柿のような息をふきかけられる姫は気の毒だとの思いもあった。しかし、「とにかく会ってそれで決めてくれて結構」との簗田晴助のたっての願いに義弘は折れた。それで藤政と母親は佐貫に住まうことも決まった。具体的な宿舎は義弘が造った上総安国寺の別院である。里見義弘が佐貫に進出して最初に営んだ公共工事がここで生きたことになった。(注:佐貫に移座したのは足利義氏という説有り。永禄七年(1564)のこと。念のため書き入れて置きます。)


 豊姫との出会いは茶席で豊姫の接待を受ける形で簗田が実現してくれた。豊姫は小柄で若々しく小鹿のように華奢で何事もないような顔だった。義弘が見つめると、見返してそして笑顔を返してくれた。戸惑いもなく、ときめきもなく、何事もないのが、義弘は気にいった。「どうだ、わしに嫁いできてくれるかな」中年のにわか花婿の鏡姿を想像し、それをあわてて消し去って言った。上総・安房の実力派守護とは似つかわない声音だったかもしれない。その含羞が豊姫の心をつかんだのか、または始めから簗田あたりから言い含められていたのか、豊姫は「はい、よろしくお願いいたしまする」と、こちらは含羞なく素直に言った。里見義弘後室「都留の方」の誕生である。


 夢の中で義弘は落ち武者になっている。部下も家来も誰もいない。義弘は小さな寺の門前で、一夜の宿を頼むがすげなく断られている。七里のみちをここが頼りと尋ねてきたのでござりまする。ご迷惑はおかけいたしません。庫裏の隅にでも泊めていただきたいのでござりまする。しかし、戸は開かない。疲れがどっと増した。体は氷のようである。


 ふっと、気がつくと体があたたかい、ここは上州、里見の先祖の土地。草津の湯。あたたかい、暖かい・・・・・・義弘は目を覚ます。暖かいはずだ。豊姫の胴にしっかり腕を回し、太腿に脚をからめて眠っていたのだ。豊姫はよく眠っている。若い女のすこやかな深い眠りだ。少々のことでは起きない。規則正しい寝息を静かに洩らして、柔らかい腹はやさしく波打つ。(ごめんなさい。田辺聖子「ひねくれ一茶」引用)


ここは久留里城の屋形の寝所。


 半生を馬上で過ごしてきた。しかし、あれはなんだったのか、兵を死なせ、戦が終わったら終わったで、探りあい、だましあい。また戦。首実検、斬首、磔。際限がない。人間は本来、こうして夫婦でからんで寝て、起きて、耕し、獲物を追って、子を作りやがて死んでそれだけのもの、それだけでよいのではないか。


 しかし、すぐ気が変わる。豊姫は、二まわりも違う自分を嫌がるそぶりも見せずついてきてくれている。この姫のためにも足利のためにも、里見のためにもうひとふんばり。義弘は豊姫の裾を割って、秘所をさぐった。やさしくなぜあげる。豊姫が身をよじってくすぐったがった。しかし寝息は変わらない。いい女だ、と義弘は思った。

 38.若妻

 三船山合戦以後、房総は外からの圧力が減り、安定、平和の兆しが見えてきた。さらにこれを武将の死が助長した。元亀元年(1570)関東の覇者北条氏康死去(五十四才)、元亀二年、里見とたもとを別った正木時忠死去(五十四才)。これにより正木時忠家(勝浦城)は再び里見同盟に復帰した。


 里見義弘の時代の守護クラスの家庭生活、夫婦生活は想像するのは難しい。ただ、言えることは、①義弘等が専制君主のように、またはトドなどのようにハーレムを作り強いオスだけが子孫を残すとばかり、日夜、酒池肉林を繰り広げていたわけでなく、②だからと言って、一夫一婦制で、時として不倫関係のケースがあるが、一般に夫は仕事から帰ると仕事の事は一切縁を切って家庭のもろもろをするということではなく、③この当時は、家庭も仕事も政治もみんなごっちゃで一緒だったということである。家庭から離れてオフィスがあるわけではなく、孤立して構成がある程度固まった家庭があるわけではなく、しかも仕事・政治の組織が血縁と婚姻関係で成り立っている世界では、夫と妻の関係は今とはずいぶん違うであろう。それを想像で埋めてみよう。


 夫婦の形態は妻問い婚になると思います。夫が妻の実家か、実家が準備した家に通うのである。子供は実家で育てられる。そのため家持ち妻は結構いばっていたことだろう。実家が没落した豊姫などは夫の準備した家に住まざるを得ず、したがって少し頭が下るが、これとて子供が出来ると様子が変わって威張りだしたかも知れない。上総・安房の英雄守護だからといって義弘が、女どもの上に、神様のように君臨していたわけではない。


 義弘を取り巻く女たちには、妻ばかりでなく、母親(義理を含む)、さらに小姑がいる。小姑の中で種姫は義弘と比較的仲がよい。種姫は夫の正木大太郎を国府台で亡くし、菩提を弔うため二十二才の若さで出家している。義弘とは異母兄・妹の間柄。種姫は一年に一回くらい義弘のもとに来て世間話をして行く。父の義堯は娘婿の大太郎ともども種姫を溺愛しているが、種姫は義堯を嫌っている。ひとつは大太郎を死なせた原因が、足利大事の戦略にあり、それは義堯の責任だと見ていること、もうひとつは世の多くの守護地頭と同様、多数の妻妾をたくわえ、多数の子供をはべらしていること、義堯はトドだと辛らつである。「そこへ行くと、兄上さまは心優しいお方。豊殿は幸せものじゃ」、義弘は、「太郎様はおなごのみんな優しいのか?」と、かって結姫が聞いていたのをかすかに思い出していた。別にやさしいわけではなくおなごに限らず肉体的にせよ、心理的にせよ人をこづいて従わせるようなことがきらいなだけであると義弘は思っている。「トドはひどかろう。我らはトドの子か?トドの子であれ何であれ、我らが世にあってたとえ不平でもいっている根源は父だ。そう思えばトドに感謝こそすれけなしは出来ぬ」、「兄上さまも父をきろうていると思うていたが・・・・・」


 「あのお人は中国かぶれだが、領民からは万年君と慕われている。千年でも万年でも治めていただきたいということだ。このひとつでほかは許されてしまう。側室のことは頼まれたらいやとはいえぬ面もあると思う」、「兄上さまもそうなのか?」、「いやわしは断ってきた。これは主義と言うより好みの問題だ」


 「豊姫は幸せものじゃ」、と種姫がくりかえす。種姫は若妻もいつまで若妻ではないといいたいのだろう。「豊は物よろこびが大きくて楽しいおなごじゃ。この間も化粧料だと上総湊浦の関銭(徴収権)をあげたら、よろこぶわ、よろこぶわ。それで銭がたまったと、わしと半分こ、しよう、殿様は何が望みじゃと来た、あんなおなごは見たことがない。どこで覚えたか」


 「それは、それはようございました。ごちそうさま。だが、おなごは子が生まれたら変わる。足利の血を引くお子を兄上様はいかがするのか?お子に仕えるのか?」、「豊にかぎってそれはない。小さな望みがかなって素直によろこぶ性質だ」


 天正元年六月、豊姫(都留の方)に子が生まれた。義弘は四十七才にして父親となった。幼名を梅王丸と名付けた。

 39.義堯の死

 天正年代の始めには戦国武将の死が続く。


 北条氏康   元亀元年(一五七〇) 五十六才
 武田信玄   元亀四年       五十三才
 里見義堯   天正二年       六十二才
 正木時茂   天正四年       ??才
 上杉謙信   天正六年       四十九才
 里見義弘   天正六年       五十四才(四十九才説あり)


 里見義弘の実質的な治世は四年でしかない。義弘は二十才台から馬上で過ごしたがそのほとんどの年数は義堯の跡取り、後継者の立場であったことは注意してよい。


 物語は天正二年に入る。この時点で「里見家の女たち」の主役は種姫である。種(ふさ)姫は義弘とは異母兄・妹の関係で、正木時茂の長男大太郎と結婚、傍目にも仲睦まじい夫婦であったが、国府台の合戦で大太郎が戦死、その菩提を弔うため尼となったことは先に述べた。尼となって山に籠もる行動が「南総里見八犬伝」の伏(ふせ)姫の行動描写のモデルとなったようである。なお、「八犬伝」の時代は義弘の時代からさかのぼることざっと百五十年前である。馬琴が八犬伝を執筆したのは義弘の時代からざっと二百年後である)


 物語は天正二年に入る。(以下、小川由秋「里見義堯」をかなり引用しています)


 北条氏康が死に、正木時忠が死に、北条の圧力が弱まったと同時に、一旦は北条方についた時忠の家も義弘方に帰順したことで、上総、安房は完全に里見の支配化に入った。しばしの間の平穏な日々が続いた。


 この時代、種姫は上総の宝林寺から安房白浜の種林寺に移っていた。人里離れて日々を過ごしている様子は上総時代と変わりない。


 義堯はこの時期に白浜の種姫のもとを訪れようと思い立った。滝田の城からゆっくりと半日の行程である。


 種林寺は、里見家初代義実が結城合戦に敗れて初めて房総の地に上陸した海岸のすぐ近くにあった。上陸地点と目されている野島崎から十五町(約千五百メートル)ほど緩やかな勾配を上がったところである。寺のすぐ上の山は義実が築いた白浜城の丘陵である。(注:この周辺は地形の変化が急(房総造山運動)で、戦国の当時、野島崎は島で、勾配の緩い海岸段丘の半分以上は海底だったと推定されています。海から大地になったのは元禄、関東の二度の大地震の結果です)


 潮風を防ぐための松の疎林に囲まれて小さな草庵がひっそりと建っていた。義堯の突然の訪問に、種姫は驚いた様子だったがすぐに表情を和らげ本堂に義堯を案内した。春の陽射しの中を長く歩いてきたせいか磨き抜かれた板敷きの床がひんやりと気持ちが良かった。


 「わざわざこんなところまでお運びいただくなどもったいなきことでござりまする」、「あの日(大太郎の死)以来、もう九年になる」、義堯は静かに言った。「あの折は、大守さま(義堯)に申し訳なきことを口にしてしまいました。我が夫、大太郎の死に動転したとは言え申し訳なきことでござりました」、「うれしいことをいうてくれる。わしはずっと心にかけてきた。そなたにすまないことをしたとずっと思うてきた」義堯は目を細める。そして言葉を続ける。「じゃじゃ馬、蓮っ葉な姫だっととも思えぬことを。それならわしがこれから頼むことも頼みやすい。ところで、まさか、わしを行く末短き年寄りと案じて口を和らげているのではなかろうな?」、「とんでも御座りませぬ。口先だけのことを見抜けぬ大守さまでもありますまい。いまではなにより里見義堯の娘であることを誇りに思っておりまする」、「そなたのこころの変わりようはどなたのお導きなのか、それとも自分で導いた結論なのか」、「兄上(義弘)さまとお話したことがござりまする。兄上さまは大守さまの領民の接し方をこの上ない仁の所行だと称えておられました」義堯は意外な顔をした。義弘とはどこかうまが合わない、会話のすべりを感じ、そのことで、どうもあいつは自分を軽蔑していると気にしていた義堯であった。「もっともあのお方は中国かぶれとも言うておられました」、「ふん、わしが中国かぶれならあやつは足利かぶれだ」、「そうなのでしょうか、わたくしはてっきり大守さまが足利に傾注しておられるとばかり思うておりましたが」、「わしは足利への忠義でことを決めたことは一度もない」


 「そなたが気にやんでおった、おなごや妻を道具のようにあつかうわしのことだが、わしがそのように見えるのはおなごを同士とあつかったことがないことから来ている。そのことについては里見太郎(義弘)が一枚上なのかもしれない。そこで、おなごのそなたをわしの最初の同士と選んで、最後の頼みがある、足利のことだ。義弘はこのままでは足利にはまり込み里見を忘れてしまうかも知れない。かって足利の青岳尼を観音さまのように敬っていた義弘のことだ。梅王丸の扱い如何では義弘は国をあやまらせる」、「・・・・・・・・・」、「正木も老いた。里見を引っ張るのはそなたをおいてない」、「わたくしがそのような大役をできるものかどうか分かりませぬが、大守さまの案じておられることは充分にわかりました。肝に銘じておきまする」


 白浜から帰った後、義堯はほとんど外出しなくなった。


 それからひと月余りして、義堯は病床に伏した。なんどか一進一退を繰り返した後、天正二年六月一日早暁、滝田城において不帰の人となった。享年六十二才、激動の中に身を置き続けた生涯であった。義堯が病床にある間、種姫がずっと側に寄り添った。

 40.足利藤政と里見梅王丸

 義堯が波乱の生涯を閉じた天正二年には、足利藤政も亡くなっている。これより五年前、藤政は一旦は里見を頼って母親ともども佐貫に在城していたが、やはり古河に近いところへの意識と、北条氏康が死んだので北条の圧力が減るだろうと見て、また、上杉謙信の威光を信じて、義弘のもとを去った。義弘は、謙信はもはや頼りにならないこと、時を待てば、里見だけでも生実のラインまでなら回復出来ると説いたが、藤政はきかず、結局、天正元年に関宿に向かった。母親は豊姫ともども義弘のもとに残った。関宿の簗田晴助にとっては迷惑だったかも知れない。


 藤政が関宿に舞い戻ったのを知った北条氏政は、関宿への圧力を強め、天正二年、大軍を発して関宿城を囲んだ。謙信は対公方戦線では、もはや自分が動く気を失くしていた。しかし、藤政の要請には律儀に応え、常陸の佐竹、下野の那須等に関宿救援を依頼した。しかし、彼らは謙信の要請に応えることがなかった。これを見て、簗田は以前からの里見と取り決めた大方針通り、北条氏政と和を結び、関宿を開城して、常陸に退去した。


 藤政は関宿に置き去りにされたかっこうになり、結局、自刃せざるを得ないはめに陥った。足利藤政の生涯こそ戦国の権謀術数の犠牲であった。古河公方足利晴氏を父とし、簗田晴助の娘を母として生まれながら、永禄五年、北条氏康によって古河を追われ、弟や妹と共に里見を頼った。このまま里見の庇護下におとなしくしていたら、公方奪回は出来なくても命は保てたはずである。しかし、上総の国つ神に触れ、天下への気力が昂揚したのか、無理な行動で命を落とした。


 さて、里見義弘は藤政の死をどうとらえたか。里見家の総体世論は、三船山の勝利を背景に北条との和睦もしくはもっと進んで同盟をさぐる動きが安房の義頼を中心に進められていた。義弘はこれを不快に思いつつ、しかし、義堯と違って強権で阻止するだけの力が義弘にはなかった。義弘はひとり足利再興の夢を捨てていない。むしろ藤政の死は義弘の室となっている豊姫および梅王丸の価値を高めたと考えた。梅王丸そのものを足利に入れることも出来ないことではないと思っていた。その時は父親として後見役となり、場合によっては足利にとって里見が変わって公方を引き継ぐ。これは決して妄想ではないと義弘は実現性を信じて疑わない。


 しかし、これはやはり妄想であった。義弘は自分のもとで戦に出た上総、安房の衆の心から離れていた。上総、安房衆は、地侍たる自己の保全のため、無償で義弘に従って北条と戦ってきたのである。別に足利への忠義のためではなく、まして里見の出世のために働いた覚えはない。里見のために働いたと思うなら恩賞をよこせといいたい。里見のために働かせるなら恩賞を先によこせ、その財源がどこにあるのか、里見は敵地を一町歩とて分捕っていないではないか、ない袖を見せて、それでもなお里見のために働けというのか。


 義弘も昔はそのことを充分分かっていた。ところが、年数と共に外見は重々しく、弁舌はたくみになって、比例して頭は空虚になった。とは、いえ、義弘自身も自己の考えが無理ではとかすかに感ずるところがあった。それもあって、義頼らの北条との和睦の動きを強いて止めない、これは戦国武将の本能であった。


 梅王丸母子は、今は市原郡琵琶首の屋形で暮らしている。(ここは伝説では、義弘の死後、梅王丸が佐貫から安房に拉致されたとき母親の都留の方が幽閉された地となっている。しかし、むしろ梅王丸母子のため、義弘がここに館をつくったと考えた方がよさそうである。山をひとつ越えれば久留里であり、市原から大多喜への街道に近く、水上交通の養老川に近く、しかもそれぞれと適度の距離を保っているこの地は幽閉の地としてより、新領主を育てる地にふさわしい。この地一体が旧里見村であった点も見逃しがたい)義弘は三日にあげず、母子のもとを訪れる。義弘は梅王丸母子を溺愛した。

 41.小櫃の道山谷津

 天正二~四年頃になると、北条がまた積極策に出てきた。しかし、以前のように里見殲滅を狙うのでなく、里見との共存を前提として少しでも有利な国境線を確定しようとする動きであった。北条、里見双方が飛び地は捨て一元支配地を広げようとの動きである。主として北条は陸路を下総から上総北半分を固めようとするし、里見は上総南半分を固めると同時に走水を渡って三浦三崎の足がためを狙っていた。


 里見の内情を述べると、義弘の野望を別にすれば、北条が里見の安房領分を保障してくれる限り、里見にとって上総の地のどこに国境線が来ようがさしたる痛痒はない。上総に投資をしていないので、極論すれば上総から総引き上げでも構わない。まして三浦の地など領民が慕ってくれるならまだしも領有による負担の方が大きい。


この辺領地にふんわりと乗っているだけの里見は領地の拡大・縮小どちらに向かっても痛手が少ない。

 しかし、義弘の野望があると、その実現のため最小限の領地が必要になる。現実論からすれば安房+上総半国でも少ない。譲歩しても安房・上総半国の所有が最低の必須条件である。里見の世論と、義弘の野望との間の基本条件のこのスキマに北条の調略の手が入り込むことになる。


 従来、安房、上総は地勢的に袋小路のため調略のエサが限られてしまうため調略が効きにくい。実際里見の今までの歴史でも、天文中期の峯上衆に対する調略、天文後期の須田将監の裏切り、永禄年間の正木時忠の離反の三例に過ぎない。義弘の晩年、この土地常識が変わる。


 義弘の最晩年での、安房・上総勢力図は、安房一国は岡本の義頼、久留里に義弘、佐貫に義弘の腹心加藤伊賀守信景、小田喜(大多喜)に正木時茂の子の憲時 、勝浦に正木時忠の子の時長、万喜に土岐為信が居た。そして、北条勢力との境界は、木更津、真理谷、一宮のラインと想定される。この中で特に、佐貫支配は不安定さがあり、天正三年時点で、佐貫の三浦成良、良俊父子が相模衆を上総へ引き入れ、小糸、久留里、大多喜を攻めたとの文書が残っている。また、逆の事実として、天正四年には佐貫浦から船出した里見水軍が三浦三崎を攻めたとの文書もある。


 この、佐貫の不安定さに、義弘は腹心の加藤伊賀守を入れて、安定化のテコ入れを図ったのだろう。その後、里見梅王丸母子をも琵琶の首から佐貫に入れたりしたのも佐貫の統治の不安定さに対する義弘なりの対応だったのかも知れない。それほど佐貫は北条の調略の主要な舞台となっていたのである。
 このような状況のまま、天正五年十一月に至って、義弘は、三浦三崎を放棄するという条件で北条との和解に動いた。領土的には里見側の一方的な譲歩である。更に北条氏政の女、鶴姫を岡本城の義頼の正室として迎えた。これが義弘の最後の外交交渉となった。


 この頃、佐貫屋形の近所を梅王丸を抱いた義弘の姿を見ることが出来た。梅王丸は首をクルッ、クルッと回してあたりの景色を見ている。梅王丸はすでに六、七才である。どんなに可愛いからといって抱っこするには大き過ぎる。爺さんが孫可愛さのあまりそうするならまだ世間的には許されよう。しかし現役の武将の父親が子にする態度ではない。領民は気味悪がって寄ってこない。義弘はそのような領民を自分の威に恐れをなしていると誤解し、その誤解は義弘にとって悪い気持ちではなかった。義弘と梅王丸ふたりだけの世界がそこにあった。それを見る誰もが異常を感じたが誰も忠告しない。これはまた佐貫の義弘夫妻の状態がどんなものかを想像させる景色であった。義弘夫妻以外の誰もがこのように育てられている梅王丸の将来に一抹の危惧を感じた。


 義弘は五十三才。自分は少なくとも父の年令までは生きるものと思っている。あと十五年で梅王丸の安泰を見届けたいと思っていた。しかし、公方をかついで関東の中央に出て行くのか、小さいながらも里見を確固としたものにするのかそれが決まっていない。さらに義弘のあとを先代の指名通り義頼にするのかについても意思表示をしていない。(意志表示をしたら里見が割れることが分かっているので意思表示が出来ない)義弘の中ではすべてを十五年の間で決着つけるつもりだけがある。


 天正五年初冬の一日、義弘は近習の若者二人をつれて久留里の里を馬で走っている。里見の菩提寺をどこに建てるかを決めようとしていた。里見家は延命寺を始めとして安房に多くのお寺があるが、上総にはない。上総に進出して四十年、ようやく寺のひとつもと考える余裕が出来た。


 義弘ら一行は、久留里街道を小櫃に向かっている。小櫃川の谷は深い。川の両側には美田が広がっている。ふっと右に鳥居があり、浅間神社の森が高くそびえていた。周辺を見通すのに都合がよかろうと三人は馬から降り、参拝した。上総の殿様とはいえお忍びである、境内には誰も居ない。急な階段がずっと上まで続いている。「それ押せや、押せや」義弘は自分の尻を近習に押させて階段を登る。それでも登るのに苦労するほど階段が急である。しかも何段上がってもまだまだ奥があるようになった。途中であきらめるのも癪だと最後はしゃにむに上がった。頂上で皆フーフーだったが、義弘には余裕があった。「だらしない。だめだな」、「殿はずるしているからですよ」、もう一人の近習が言った。「ざっと数えたら三百六十段はありました。殿様は我らが押さなかったら上がってこられませんでしょう。我らは曲がりなりにも上がりました」、「いや、それを差し引いても、お前らはだめだ、俺の若い頃は・・・・」、と話をしながら景色を見渡した。西の方はるかに富士が見えた。義弘は久しぶりに若返った気がした。山頂の小さな境内をぐるっと回ると、山の裾を北へ細く谷津が続いているのが見えた。「あの谷津はなんだ?」、「道山谷津ですね。行ってみましょうか?」、「うむ・・・・」と義弘は凝視した。どこかで見たという既視感があったからである。


 道山谷津に入ると細流がちょろちょろと音を立てていた。杉木立が高くそびえ全体に樹相が豊かで、どこからか香木のにおいがしていた。義弘はここに降りてくる間に思い出していた。ここは鎌倉西御門の太平寺の谷津に似ていた。谷津の中に入るとますます確信があった。ここは太平寺のあったところにそっくりだ。あれから何年になるか?


 細い流れはいつか道の右側に変わり、枝道をわたると小高い平地に出た。そこだけ木が倒されていて光に満ち溢れていた。「ここにするか、菩提寺は・・・・・・」義弘は小さな声で言った。風が香木の香りを運んできた。義弘は思わず仁王立ちになり、目をつぶった。在りし日の結姫の姿があらわれた。振り返りざま結姫はにっこり笑うのであった。「里見太郎様・・・・」

 42.義弘の死

 領主の仕事のほとんどは農事に関わる年中行事、地域の社寺の祭りがほとんどである。農事の年中行事で言えば、吉書始めから、年貢の指出、散田、開作や用水の始めの儀式(調印式)これらの中身はほとんど例年通りなのだが、時として戦のための特別課税、逆に戦による損害の補償などの話し合いの場となる。そして儀式のあとは必ず酒宴となり、地域の地主、地侍、大百姓、代官、商人、馬借・舟業そして領主の官僚たちが集う。酒宴で本音が語られ世論が形作られて行くので、領主にとって宴をうまく切り盛りするのは重要な仕事である。


 義弘は、酒宴の首座にあって形の良い領主であった。特に雄弁であるわけでなくどちらかと言えば口数が少ないが、何か飄々として、旅の高僧のように孤独で何者をも受け入れ、隠居が亡くなった地侍に心に染みるお悔やみを言える能力を持っていた。人の話を熱心に聞く。そして酒は勧められればいくらでも飲める性質であった。飲んでも乱れなかった。


 天正六年五月のこの日も用水の取り決めが終わり酒宴になっていた。義弘の直接支配の上総半国の面々が久留里城に勢ぞろい。領国はこれから田植え、田楽ともっとも華やいだ季節を迎える。里見の上総は古式の伝統を忠実に守る方で、それぞれの儀式は派手やかさはないにせよ質実でまじめな祭り振りであった。


 酒宴の首座にあって義弘はさっきから腹に違和感を感じていた。これまで経験したことのない深いむかつきと表現していいのか、額に冷や汗がうかぶのをおぼえた。近習に「すまぬがちょっと中座する」と告げて、義弘は席を外した。近習は厠にでも?と簡単に考えて何も異常を感じなかった。


 離れの部屋で義弘は仰臥したがすぐに吐き気を感じて上半身を上げた。そしてまた強烈な吐き気が来た。義弘は濡れ縁に行って庭に吐いた。どす黒い色の血を信じられないくらい大量に吐いた。動悸がはげしくなり冷たい汗が噴出した。部屋に帰って仰臥したが悪寒が襲い寝ていられなかった。再び起き上がり足を投げ出し首をうなだれるといくらか楽になった。

 すこし冷静さがもどった。そこで今日は加藤伊賀守が居たのを思い出した。あれがなんとかするだろうと心の隅で思った。部屋には誰も居なかった。


 幼い義弘はひとりで日向ぼっこ。ざわめく篠竹の葉っぱの枝先に乗ることを夢想していた。全身が温かい。しかし、そのすぐ先は木枯らしの吹き荒れる世界が見えた。義弘のいるそこだけがスポットのように暖かい。人の「死」とはこうだったのだと悟った。なにがこうだったのか悟りの内容を説明できないが、確かにこうなのだと義弘は納得した。そのとき結姫のうしろ姿が見えた、結姫は義弘を振り返って、にっこり笑うと「里見太郎様・・・・・」、と。義弘はやーっと手を挙げた。


 里見義弘は、上杉謙信より五つ上、大永六年の生まれである。しかし死の時は同じ天正六年、病も同じ酒の飲みすぎで、謙信に遅れることわずかに三ヶ月、五月二十日、五十四才で他界した。(謙信と生まれ年も一緒だとの説もある)戦場での仮寝の床を酒でまぎらわすより他になかった戦国の武将達が年若くして、中風や胃の腑の破れで比較的早く夜を去らねばならなかったのも、むべなるかなと思われる。保田妙本寺日我の書状には次のようになっている。「当国ゆみやの事、佐貫の義弘寅の年五月二十日死去候。大酒故臓腑破れ候。存命時よりあハ(安房)トあひた(あいだ)、悪しく候故、焼香にもあハより不被参候(まいらずそうろう)」


 義弘生前からすでに義頼とはほぼ絶交だったことが伺える。葬儀・埋葬は上総久留里で行われたことだろう。従って義弘の最初の埋葬は、義弘の戒名から見ても小櫃の道山谷津にある瑞龍院の地である可能性は大きい。


 里見義弘は上杉謙信などから比べるとマイナーな感が否めないがその初期の関東戦国界へのデビューは颯爽としたものがあった。里見義弘は、結局、尼寺太平寺の住持を奪い拉致し妻にするという御伽噺の海賊王子のような役回りで戦国世界に記憶されることになる。戦前に鎌倉町青年団が鎌倉の各古跡にその由来の石碑を建てた。現在でも鎌倉各所に見られる。太平寺跡の石碑には古風なカタカナと漢字の文章で次のように刻まれている。


 「太平寺ハ比丘尼寺ニシテ相伝ヲ頼朝池禅尼ノ篤恩ニ報イン為其ノ姪女ノ所望ニ聴キ姪女ヲシテ開山タラシメシ所ナリト足利ノ代管領基氏ノ族裔清渓尼ノ中興スル所トナレルガ天文中里見氏鎌倉ヲ奪掠セル時住持青岳尼ヲ奪ヒテ房州ニ去リテヨリ遂ニ頚破セリ今ノ高松寺ハ寛永中紀州徳川家ノ家老水野氏ガ其ノ太平寺ノ遺址ヲ改修セルモノナリ 昭和六年三月建立之鎌倉町青年団」

 43.佐貫城事情

 義弘が自分の死後の明確な指示をしないまま久留里で死去した天正六年の上総は、にわかに「上総に大将住居無之」(妙本寺文書)の状況になった。こうなると里見の総帥の位置は先々代の義堯の遺言通り、取り合えずは安房の義頼で行くとして上総の殿様をどうするか。ここでは若年ではあるが佐貫の梅王丸を擁立しようとするのが自然である。実際多くの上総衆が梅王丸を立てた。


 梅王丸派には次のような諸将が集まった。まず、小田喜(大多喜)の正木憲時。時茂、時忠らがすでに亡くなっている今、正木の重鎮であった。これに正木一族であり、佐貫で梅王丸を後見している加藤伊賀守。更に、小櫃・養老川沿いの上総衆が加わる。藤平、佐久間、山本などの各氏である。


 一方、安房の義頼をして一元的にひとりの領主で行くべきだと主張する義頼派というと、安房衆のすべてと勝浦の正木時長である。


 ここで正木時長について紹介する。勝浦正木家は里見義堯の時代、その右腕として正木時忠が活躍するが、時忠の死後、後を継いだ時通がすぐに死去したため、急遽、北条の人質生活を切り上げて(もらって)帰って、後を継いだのが正木時長である。時長はやがて頼忠と改名した。そして忌み名の通り、里見義頼に傾斜して行く。この頼忠の息女が、後に家康の側室となる於万の方(養珠院)である。


 さて、梅王丸派と義頼派、この両者の争いで最初に動いたのは梅王丸派であった。梅王丸の生母、豊姫、都留の方その人であった。豊姫は後家のがんばりで実家の親戚群の中で文字通り中心の五代関東公方足利義氏に接触し梅王丸の庇護を頼んだ。豊姫と義氏は異母兄弟の間柄とはいえ、今までのいきさつからみれば敵どうしで共に天を戴かないのであるが、里見が北条と和睦した今は関係が変わる。(注:義氏は北条方に擁立された公方である)豊姫はいいところに目をつけたといわざるを得ない。そして義氏と接触できれば北条ともコンタクトが可能となった。さらに義氏が動いたため公方周辺の官僚群の逸見氏、佐々木氏(この物語の最初に結姫らを安房に案内した佐々木四郎を思い出して下さい)とも話が付き、その指示も得た。梅王丸派は瞬く間に、足利義氏、北条氏政という錚々たる名前のシンパを得たことになる。(安房・上総に対して彼らがどれだけ実力があるかは分らないが、名前を見れば、安房の田舎豪族などの腰が引けるだけの力は確かにある)


 里見義弘がかって、女将軍になれと結姫をけしかけた時があった。結姫は時が味方せずその政治活動をする機会がなかったが、二十年後に豊姫がそれを実現したことになる。豊姫の行動は梅王丸にとって考えられる最良のものであった。豊姫は、単なるお嬢様の再室ではなかった。子が生まれたら女は変わると、(豊姫からみて)子舅の種姫が義弘に言ったが、確かに豊姫は関銭を半分こしようと提案したかわいい若妻から大きく成長していた。


 義氏から佐貫の梅王丸に宛てた書状(喜連川文書)が残っている。梅王丸からの正月祝儀に対してその返礼の書状と推察され年が書かれていないが天正七年と見られている。意訳すると次のようになる。
 

 「なお、この薫(た)きものは私も使っているものです。(書状に香をたいた?)年の初めの祝儀をうれしく思います。返礼として、緞子、料紙、杉原紙、薫(た)きものを送ります。かたちばかりほんのしるしです。また、氏政からもらったものですが、太刀、扇を送ります。扇の絵は狩野の筆です。二十九日(天正七年か) 佐貫まいる   よし氏(花押)」


 大名の在りし日が浮かび上がってくる文書です。狩野と言っても狩野派で人はたくさんいますが、天正七年なら狩野永徳かもしれないですね。残っていればこの扇、国宝級だったはずです。佐貫のどこかに残っているかもしれません。


 それはそれとして、豊姫の行動は里見(安房衆)から見ると非常に危険なものである。里見が分裂する爆弾を抱えたことになった。ここでこれを阻止すべく立ち上がったのが、義弘の異母妹、義堯から里見を引っ張って行けと密命を受けた、種姫である。子舅と若嫁、この二人の対決はどちらに軍配があがるのだろうか。決着はいかに。おたのしみに。

 44.種姫と豊姫、女の戦いその1

 里見時代の佐貫の屋形の推定位置をデン助は、佐貫城の西側、染川を渡った花香谷にしている。後代の佐貫城の三の丸御殿とは違います。(このころの佐貫城は純然たる籠城のための城として整備されていて、たいした建物はなかったはず)


 余談ついでに、佐貫の地は中世の城、屋形の適地とは思えません。花香谷など狭すぎます。近在に、もっといいところがたくさんあります。それなのに、なぜ、佐貫が選ばれたのか。佐貫が近在に優れている点を強いて挙げれば水が豊富なことがありますがこれとても決定的でない。ではなにか、デン助が思うに、佐貫は鬼泪山と共に栄え、鬼泪山と共にさびれたのではないでしょうか。材木需要の消滅と共に、町としては、また、領主住居町としては亡びたのかも知れません。いずれにせよ、佐貫が輝いていたのは、戦国から江戸期までです。


 種姫が佐貫の豊姫を訪ねてきた。豊姫はいなかっぺの天敵が来たと、このうえなくいやな顔をしたらしい。しかし、死んだ亭主の妹となれば、嫁の身である以上、会わぬわけには行かない。種姫は義弘の生前から年一回くらい佐貫を訪ねていた。種姫は来るたびに「小舅が嫁をいびるのは仕事だ」と、嫁の当人に広言して、その通り、いびる。豊姫が義弘に「何とかしてくれ」と頼んだが、おなごに優しい義弘も、「あの人は先代にさえたてつく人だ。わしがやめろといったらもっとやりだす」、と、逃げ出した。


 今日も、どうせ、豊姫が古河公方と接触していることをどこかからか聞き込んで文句を言いにきたのだろう。それならそれで今日はこっちからとっちめてやる、と、豊姫は思った。義弘が死んで、豊姫は髪をひとつまみおろしたが、尼姿になっていない。(大名あたりが死ぬと正室が出家するのはいつごろから始まったのでしょう)尼になる気もない。梅王丸のひとり立ちを見届けてからと、すべてはそれからだと思っている。「まあ、都留の方は。まだ出家しておらんのか。夫が亡くなって嫁が尼削ぎもしないなど里見の家風にはない」、入るそうそう時候の挨拶もそっちのけで痛烈ないびり。何が里見家だ、そんなたいそうな家かと内心反発しながら、表面はしおらしく、「わたくし、子供の行く末が、それだけが気がかりで、殿様の供養をせねばとは思いながらいまだ俗世の姿をしておりまする。それに家風と申されますが、里見家にせよ正木家にせよ未亡人は数えきれないほど居られるはずですが尼様は数えるほど。そなたさまだけが天然記念物ではありませぬか」、「ほっほっほっ、言いおる、言いおる。考えて見れば男たちは早々に世を去って、残るは女ども。里見、正木の女たちがそろって坊主頭になったらこれはこれで壮観じゃな。先代(義弘)の瑞龍院様に提案したら、あの人のことだからひとりひとりの尼姿を想像してさぞかし笑いころげるに違いない」二人は、それぞれ自分が思いついた女の尼姿を次々に想像した。思わずふたり目を合わせて次に笑った。場が和んだ。


 その後、種姫は、大太郎様を国府台の戦いで失くして私はすぐに尼になったが果たしてあれでよかったのかと話した。大太郎様は良い男だったと聞いておりまする、と、豊姫がお世辞を言うと、確かに私は好きだったと照れもなく断言。「わたくしにとって好きな男は大太郎様と、次にだいぶ劣るが、義弘様じゃな。彼も良いおとこじゃった。父上(義堯)はまた違った意味でわたしは好きじゃった。まあ、この三人か。みんな亡くなった」、と、詠嘆。

 次に義弘論。豊姫殿は義弘のメタボ後しか見ていないで気の毒だが、メタボ前の義弘はそれはそれは見た目も颯爽としていた。残念なのは彼が青岳尼という尼さんに夢中になったことだ。青岳尼さまは還俗して義弘様の嫁になられたが子がなく早くに亡くなられた。義弘さまはその後ずっと後室をもらわなかったが、そなたが気に入り後室とされ、そしてなくなった。人は死ぬ時自分の生涯が走馬灯のように思い浮かぶというが、おそらく彼は死ぬ時青岳尼を思い出していただろう。けっしてあなたじゃない。と、また、いびり。豊姫は真剣に「青岳尼」という人に嫉妬を感じた。「青岳尼さまとはどんなお人でしたのでしょうか」、「わたくしも知らぬ。神話の世界の人だ。あなたのお爺さまの兄弟の娘じゃ。今鎌倉東慶寺の長老になられておられる旭日尼様のお姉さまにあたられる」、「?????複雑で頭に入りません」、と、豊姫。家系の説明の複雑さは、要は彼女(青岳尼)が、婆様だということだ。豊姫はそこに優越感を感じた。


 義弘からすると、思うにあなたは青岳尼の続きの人生をやらされたのではないか、と、種姫の話が続く。私が危惧しているのはそのことだ。あなたが問題ではない。あなたの足利という血が問題なのだ。足利の血を引いた人が里見にとって遅くに生まれ過ぎた。そして当主が早くに死に過ぎた。これで困ったことになった。足利の血は里見にとって重荷なのだ、と、種姫の話は本論に入ろうとする。


 「夫をなくした母親が幼き子供の行く末良かれと、自分の親戚群にお願いに上がるのがそんなに悪いことなのでしょうか」、「良い、悪いを言ってはいない。あなたのお子の安全を保つのにどうすればいいのかを言っている」、「・・・・・・・・・・・」


 「まず、あなたに聞きたい。あなたは梅王丸様をどうしたいのか?どうなってほしいいのか?」、「・・・・・・・・・」、「おそらく、瑞龍院様のあとをそのまま受け継げればとお思いだろう。もっともなことで、誰も反対は出来ない。しかし、今、梅王丸様の龍の印鑑が押されている文書を見て梅王丸さまの真意と信ずる人はいない。必ずや加藤伊賀か、小田喜正木かはたまた母親のあなたかと思うだろう。そうであるならば、加藤や正木に頭を下げるいわれはない、ましてや母親にということで、すなわちその文書は無効になる。これは、例え、加藤や正木らの代わりを北条や公方がやったとしても同じことだ。まず、梅王丸様は成人しなければならない。そして成人した暁に、人に頼らず、独力で上総の守護の地位を勝ち取らねばならない。人に頼っては危ない」


 「では、わたくしにどのようにせよと、そなた様はいわれるのでしょうか」、「ただちに出家しなさい。梅王丸さまも・・・・・・・・・」、うん?、豊姫は目を剥いた。豊姫に理解のあるような話をして、結論はそれか、自ら引き下がれと、なぜ、悪くもないのに、しかも里見より位は上の豊姫・梅王丸が下がるのか。「・・・・・・・・・・・」、「・・・・・・・・・・・」、沈黙が続いた。

 45.種姫と豊姫、女の戦いその2

 豊姫は、キーッと種姫をにらみつけていった。「なぜに我らがそれほどへりくだらねばならぬのか。我らは何が悪いのか。もう、あなたの話など聞きたくもない。帰って下さい。話は終わりです。我らをバカにして、おなごと見て馬鹿にして」


 豊姫は泣き出した。種姫はジッと待つ。豊姫が泣いてこの場を飛び出したらそれまでだ。そうなっても種姫は手紙は書くつもりだ。しかし、おそらく豊姫は見ないだろう。だから豊姫が席を立ってしまったらそれまでだ。種姫は待った。


 豊姫は席を立たなかった。豊姫はわずかに残った冷静さで、今後について相談者が必要なのを感じていた。そうであればたとえ天敵であれ、同性の相談者は貴重だった。豊姫は二十分も泣いただろうか。そしてようやく泣きやんだ。


 「少しは落ち着きましたかえ。私の話を聞きますか?」、「聞きたくない!・・・・・聞きたくはないが、誰にも相談出来ぬ身であれば聞かねばならぬ」、「瑞龍院様が亡くなった時、あなたがどれだけ涙を流したかは知らぬ。私が想像するに、おそらくケロッとしていただろう。それならば、今、あなたが流した涙が、つれあいを無くした涙ですよ。だんなを亡くすということは、この悔しさ、このつらさなのですよ」、「あなた様はどうして私にそんなにつらくあたるのか?わたしがにくいのか?」、「いいや、なぐさめているつもりじゃ、これでも。断っておくが、私は里見の分裂を防ぐのが目的じゃ。あなたたちの安泰は私にとってはどうでも良いのじゃ。あなたはそのつもりで私の話を聞け。それで私の話の通りにするか、別の道を行くかは自分で決めるが良い。あなたがどの道を行こうが、あなたが私に助けを求めてきたら、私は全力であなたたちを守る。それは約束する」


 種姫が豊姫に語ったのは次の通り。


 戦国のこの時代、血のつながりだけを主張して後継になることは出来ない。人に頼って地位を望み、地位を保とうとするのは危ない。あなたの親類を見よ、あなたの兄上を見よ。みんな人に頼ったばかりに非業の死を遂げた。この日の本では血が根本だ。しかし血のつながりは何ごとかへの参加権であって地位を保証してはいない。地位は自分の実力で勝ち取らねばならないものだ。今の梅王丸様にとってまず成人すること、それからとにかく生きながらえることそれが勝利への道だ。戦うのが勇気ではない。戦わないのが勇気だ。生きていれば潮目が変わる。潮目を見て動けば勝利する。あとは実力次第だ。自分の代で潮目が変わらなければ次の代にゆだねれば良い。武士の棟梁の道とはそういうものだ。里見が安房にきて百五十年しか経っておらぬ。上総などはまだ四十年の短さだ。里見自体、これからどうなるか分からぬ。里見がどうかなったとき、足利と瑞龍院様の血を引く梅王丸が生きながらえていたら、里見にとって貴重な財産になる。梅王丸様の血筋で里見を再興するときが来るかも知れない。その時のためにあなたは梅王丸様を教育せよ。瑞龍院様と里見と足利の歴史を徹底的に教えよ。他事はいらぬ。あとは梅王丸様が自分で考えることだ。


 岡本の義頼は臆病ものだ。北条を、古河公方を恐れている。だから北条と公方の後ろ盾で自分の地位をおびやかすかもしれないやからが出てきたら、パニックになってあなたたちを殺すかも知れない。だから時間はない。


 「考えさせて下さい」、と、豊姫。「ある程度は理解してもらえたかな」、と、種姫。「・・・・・・」、「それはそうと、あなたは梅王丸様に足利や里見の歴史を教えられるのか?」、「少しは・・・・・」、「まったく・・・・・簗田(豊姫の母親の実家)もしょうがないな、瑞龍院も。まあ、彼はアル中だったからしょうがないけれど。そんなわけで、もし教わりたければ私のところに来なさい。徹底的に教えるから」


 種姫の嫁いびりが再開した。豊姫は教育を受けているのだと思いそれに耐えた。


 「さてと、婆様は帰るか。まあ、よくお考えになって、豊姫さまよ。明るくいきましょう、明るくいきましょう。さて、次は北条から(義頼のもとに)お輿の鶴姫さまに会わねばならぬ。これがまたあなた以上に問題児でねえ。問題児がおおいのだわさ、里見は。よっこらしょと、じゃまたね。元気でね。梅王丸様によろしくね。瑞龍院様に線香上げて帰るわ。さよなら」

 46.梅王丸の行く末

 デン助の小説では、梅王丸の母親を足利晴氏と側室簗田氏の娘としているが、一説には上総千本住人東平安芸守女を母とする説がある。また里見義頼を里見義弘が若い時に設けた長男だとする説もある。義弘の婚姻関係は不明な点が多い。ただ、義弘の正室は足利義明女青岳尼、後室は足利晴氏女とここまではどの説も一致している。デン助は、義弘は青岳尼を鎌倉から安房に連れ戻す行動や、死ぬまで自分で後継を指名していない=子供に恵まれていない点から見て本質的に女嫌いの酒好き、すなわち上杉謙信に似た性格ではなかったかと思っている。そうだとすれば義弘若かりし頃のあやまち(?)で、あるいは義頼を設けたかもしれないが、その後、連れ添った女は足利の姫ふたりのみということだったのではと見ている。


 種姫の説得が功を奏したか、種姫の佐貫訪問後、豊姫の戦意がいちじるしく萎えた。そのため梅王丸擁護派の上総衆、正木憲時等の力がそがれた。(とはいっても梅王丸署名捺印のいくつかの文書は残ってはいる)


 そんな中、天正八年四月、里見義頼は二千の兵を連れて、まず久留里城に進んだ。梅王丸派に対して自分が上総に出てきてもまだ梅王丸を擁護するかとの恫喝であった。この義頼の兵進出でほとんどの上総衆は戦うことなく、しかも義頼への落とし前に自らは隠居し息子に当主の座を明け渡すことでお茶をにごした。藤平、本吉や、百首城の正木時盛など皆そうである。佐貫の梅王丸後見の加藤伊賀守も息子の弘景に当主を譲ってしまった。


 義頼は次に小田喜の正木憲時の恫喝のため、久留里から長狭郡を経て勝浦に向かった。(勝浦正木家は当初から義頼派)憲時の家は足利被官系の家臣(逸見、佐々木、上野、佐野、椎木、二階堂等)を多く抱えていたため、梅王丸への思い入れが深かった。そのため義頼は力ずくでの対決を避け、威力を見せ付ける圧力を加えるに留めた。そして、この実績をひっさげて、いよいよ佐貫へ向かったのである。(憲時の小田喜正木は翌天正九年に憲時が死去したのを奇貨として義頼派に鞍替えする)


 この頃、里見義頼が常陸の佐竹左衛門左に送った書状が残っている。中身は「上総国無異儀静謐、佐貫一城ニ計成候、彼地本意不可有程候」(上総国は佐貫を残して静謐になりました)


 佐貫の屋形に入った義頼は梅王丸母子に対面した。ここで、豊姫は涙ながらに母子ともども出家したい旨を義頼に言上した。義頼は、「国(安房・上総)のため、第一の手柄、ありがたくお受けしたい。あなたたちを決して粗略にはしない」、と、豊姫に約束した。この種の約束が守られた試しはないことを豊姫は承知して、それでもなおかつ、義頼に何度も何度も礼を言うのであった。


 この対面で、梅王丸はとり合えず富浦岡本の聖山に住すること。そして来年にでも石堂寺で出家の修行をし、最終的には安房館山真倉の泉慶院に入ることが決まった。ていの良い人質である。豊姫はどこか希望の場所があるか、実家の簗田(この現在常陸に閉居)でも苦しくないとの問いに、義弘と、梅王丸と三人で最も楽しい思い出があり、しかも義弘の墓所、瑞龍院にも近い、市原郡里見村の琵琶首屋形を願って許された。義頼は、そこからほど遠からぬ所に北条の前線基地、椎津城があることを知っていたが、女の身で何ができるかとの見極めがあって、懐の広い支配者を演じていた。なお、義頼は豊姫監視のためなどはもちろん理由にもならないが、その他のもろもろがあったとしても久留里に尻を据えるつもりは毛頭なかった。(義頼は上総を捨てたかったのかも知れない)


 佐貫屋形での梅王丸母子の別れは、それなりの劇的要素は持っていたが、豊姫のさばさばした振る舞いが目だった。豊姫は何かを悟ったように明るかった。


なお、梅王丸の佐貫退去に際して、その再興のための軍資金を佐貫の鬼泪山の某所に隠したとの伝説があることを付記しておく。


 また、豊姫は琵琶首で天正十一年に没したと記録にある。法名は松雲院殿華声彭英大禅定尼。豊姫はその経歴が似ていることから青岳尼と混同して記憶された形跡がある。青岳尼の供養塔は南房総市の興禅寺と館山市の泉慶院にあるがこの両者共に青岳尼の没年を天正四年としている。これなど豊姫の事歴が紛れ込んだ疑いがある。(最も豊姫が天正四年に亡くなったとするのも無理があるが)いずれにせよ豊姫は青岳尼の後半の人生を歩まされたといえることは言える。

             <房総里見家の女たち異聞その5に続く>