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上総新舞子文学(古典)


自己を客観視する余裕、博識。私達の江戸時代観は間違っている
 亨和二年(1802)富津市八幡の厳島神社奉納前句解読から見える田舎っぺの姿

 享和二年は東海道中膝栗毛が出版された年でむき出しの人間性を世に問う時代(将軍は徳川家斉で筆頭老中松平定信が失脚した頃。富津では織本花嬌が小林一茶等と句会をやっていた頃)の幕開けで、江戸古川柳「帆柱の立ったを寝かす舟比丘尼」、「女房のすねたは足を縄にない」などとやっていた頃、膝栗毛や古川柳でからかいの対象だった下女や子守の排出地上総の寒村八幡村の小さな社に前句奉納額がかかげられました。総数58句。 投稿者は近在の村々の今で言えば農民、漁民、物流従事者、工場制手工業の従事者。暇人のインテリ、武士ではない。主催者は中世室町時代から続いていた船大工の錦織家当主と、推定しています。(墨書も錦織氏か)

 そもそも八幡村とはどんなところか。昭和12年発行の佐貫町観光パンフレットから出発してズームアップして厳島神社に到着します。

 驚くべきことに、大枠の景色は約百年前と現在とまったく変わっていません。

 八幡新舞子へは佐貫町駅を降りて線路沿いに300mくらい歩いて踏切を渡り、田んぼの中を行きますと前方にこんもりとした小さな丘陵が見えます。狭苦しくてあんまりパッとせず、このまま行って広々とした海に出られるのだろうかと心配しながら行くと、鶴峯八幡宮前の広場に到着します。

 田舎の神社というと都会のビル街の神社と同じで 木や草がぼうぼうかチョロチョロかどちらかでじめじめしているのは共通で暗い感じですが、ここは明るく綺麗に整備されています。

 その広場の隅に・・・・・・・・ 

 厳島神社があります。平成元年に社殿建て替え時、旧社殿の屋根裏からくだんの奉納額が見つかりました。 (桐板に墨書。0.5×2m)

            (後ろの方は省略しています)

 お経の中でしかお目にかかれないような漢字混じり変体仮名くずし字の文体でなおかつ消えかかっているのでまったくのちんぷんかんぷんでした。

 解読の試みは厳島神社総代会によって細々と続けられ、平成15年までに58句が一応日本語らしいものになりましたが、しかし現代人が読んで戯れ句川柳として心の琴線に触れたものは「乗り合いもなくて漕ぎ出す床の海」、「色つけばうナつき逢ふや麦畑」の二句だけ。あとどうにか日本語川柳だというのが、「十二年枯れ来に花を和歌の徳」、「是非もなく舞ふてその座はしづか也」、「立身に又金へんの倉しかた」、「去り状の筆に竹馬つながるる」、「ひわの海今は女体のあなかしこ」くらいでした。あとは「紙か紙形チなきこそ神形チ」、「三島を囀り絵馬に友千鳥」、「桑の木の枝から登る雲の上」などまったく意味がわからないものでした。

 令和になって、台風、コロナなどで祭礼も中止になり暇なのでこの奉納額をもう一度見直すことにしました。今回は奉納額を撮影し5Kのパソコンモニタに映し出して、コントラストや色調を変えて見たり拡大縮小してみたり、モノクロ化、彩度調整の変更をやったり、更に奉納額を軽く水洗いして斜め照明で撮影するなどとにかく字の形を把握する努力をし、そしてまた変体仮名やくずし字の勉強もして画像に望みました。その結果、ほぼすべての句について違った解釈をすることが出来ました。

 今度の解釈は日本語として字余りなくきちっとしたものになりました。何より句の風景が鮮明になり俳句や短歌の本来の姿(「当て字」、「だじゃれ」、「かけことば」、「すっとぼけてわざと妙な当て字を選ぶ」)が見えてきました。また八幡の住人が生活に余裕があり長寿で三島や上総一ノ宮は日常的に、さらに遠く京都・奈良・大阪旅行(徒歩でなく船で行きます。江戸など毎日で当たり前すぎて歌にしようなどと思いもしない)していることが分かりました。 一揆、飢饉、威張り強欲な名主や武士、越後屋に悪代官、無学で地面に土下座させられる卑屈な町人、百姓・漁師・人足のイメージは見えません。

 句額によれば、八幡の近郷から応募(応募するには金がかかる)された五百句あまりから「収月」さんが選んだ五十八句。願主は八幡連。 

 入選句の表記はまず、「イカニモ」、「アリカ」などのかけ声、冷やかしのような語句があり、続いて五七五作品、作者の村名、俳号、となっています。 

 まず最初の題目と口上の全解読です。

奉納前句惣連五百章
ありがたい事、ありがたい事
邪をはろい
見事なりけり、見事なりけり           収月選
付け句振(ぶ)り気(け)が、付け句振り気が
面白い事かと身引くは弘宇以(寓意?
折 ヤ ハ タ

 そもそも前句とは下七七を課題として与えてそれにつなげる前五七五のこと。上の「邪をはらう」、と「面白い事かと・・・」以外は課題の下七七の宣言です。また最後の「折」とは折り込み句のことで、ここで云えば五七五の中にヤ、ハ、タを加えると高得点になるよのこと。

 選者は収月さん。奉納句の最後58番目に収月さんの句があります。公称応募数が500句の中から58句が選ばれたことになります。応募するには投句料を払う必要があります。そして集まった金の中から当選した句に得点に応じた賞金が支払われるシステムです。さらに集まった金で奉納額等を作って選者にお礼をしてその他神社への奉納金、世話人ご苦労様会などの諸費用を負担して決算額は残金ゼロとします。

 投稿句のテーマで多いものは一に夫婦の和合、二に臀や屁などの下ネタや自慰もの麦畑もの夜這いもの等、三に日常の自分自身を題材にしたボケ滑稽譚。その他俳句に近い季節と生活をつづったものもあります。あと歴史物。

 以下の画像で句一つに対して3つの表記がされていますが、最初のくずし字は奉納墨書のトレース、次はその現代漢字になおしたもの、現代かな・カナ表記、最後はその意訳(当て字を直した)を表しています。

 

第1句 折「八十氏が城を手締めて四海外(そと)」 絹村 愚鈍

 日本近海にイギリス、アメリカ、ロシアが来たりしているがまだまだ平和という意味。東照公がすべての諸侯に武力を放棄させ国を閉ざす(四海外。鎖国したのは家光だが当時は家康がやったことになっていた)ことを始めてから平和になった。

第2句 タツシヤ「玉手箱広げ三浦え出陳し」 大坪 加作

第3句 ミゴト「一梳かせ手櫛で通る鳥の羽根」  八幡 羽重

 「梳かせ」は加山雄三の「きみはそよ風に髪を梳かせて・・・」です。(墨書表現は鳥の手である。鳥の手は羽根だろう。ということは、羽根と読んでくれというのが筆記者の謎かけではないか。三本指の鳥の脚の手櫛があんな微妙な所を通り抜けたらたまったものではない。だからこそフェザータッチの手櫛がどこの毛を通ったかはすぐに見当がつく。

第4句 折「八重垣の睡りの神屋(やしろ)の隠り(こもり)里」 笹毛 甚幸

 戯れ句に見えませんが団塊の世代さんならブルーシャトーと同じような表現だとわかるはず。

第5句 キモイ「日月をくっつける身は暗からじ」  大坪 里暁

 男女陰陽日月がくっついたらさすがに明るい。

第6句 アリカ「箏の城毒枝張り振る巫女を持ち」  上村 里種

 全体の意味がつかめません。

 

第7句 コレハ「鶴が鳴くきまりかすぐに玉と出(で)し」  笹毛 柏舟
「だし」でなく「でし」としたのは変体仮名の「亭」の字を使ってあるため。句意は鶴がケーイケーイと鳴くと決まったように玉のような汗のような液体が出る。

第8句 ムマイ「相惚れの目見て心の夕涼み」  笹毛 里秋
 戯れ句というより青春句。「惚れて」は今は死語になっている。「愛している」は男女間では意味不明です。
 縁台にぴたっとくっついて坐って見つめ合って傍目には暑苦しいが、本人達は心の夕涼み。なお「夕涼み」を「夕涼視」と表記している。「目」「見」「視」と、「見」に関係した漢字のリフレイン(ルフラン)にも気がついて下さるとありがたいと筆者が云っているようです。

第9句 イカニ「かいまきを軒に返すが居候」 笹毛 ??

 前五は「車る物」と書かれています。これを「かいまき」と読みました。想像ですが、しくじって実家に帰ったが家に入れてもらえず、どてらのようなくるまる寝具を与えられ納屋に寝た翌朝、腹が減って、寝具を音高く母屋に返して庭にたたずむ居候立候補者。

第10句 ホマレ「頼政の 骨は扇子に あの皮も」 尾車 若梅

 「頼政」は源頼政を指すとみます。治承四年五月二十六日、頼政は宇治平等院の扇の芝という所で自害して果てます。この句は頼政の骨と皮のその後を途方もない想像で綴っています。骨と皮は扇になったということです。現代人の美意識とはずれていますがこれは以仁王への忠義のために死んだ武将への最大限の弔いの言葉です。

 江戸古川柳を覗いて見ると、頼政がテーマの類句は、頼政の歌の上手を揶揄したもの、事件前の平家へのおもねりやお追従を揶揄したものがありますが、世阿弥の能「頼政」での自害の場に引っかけて「扇」をテーマにしたものはありませんでした。

第11句 ワレモ「能因も 海も余すか 前の月」 佐貫 ??

 冬のフルムーンが西に傾く深夜の八幡浜の光景は、能因法師も海も作歌するに持てあますことだろう、彼らの力をもってしても表現できない美しさである、という地元ほこりの句だと思われます。月を見ているのは八幡浜のどの場所か、おそらく常夜灯のあった鳥居崎北の丘が考えられます。佐貫の□□さんの実感ではないか。そして「ワレモ」の囃子言葉。選者も同感の意。

 佐貫町の日月神社の祭礼には門々に狂歌や川柳が描かれた燈籠を点す慣わしが昔からありますが、上の11句と下の13句は祭り燈籠に書かれた川柳と同じにおいがします。両方ともに作者のびっくりした体験の素直な表現です。前者はちょっと教養をひけらかす嫌味がありますが老舗の大店の旦那、後者は奥様と言うことかも知れません。

第12句 ソンナ「しめこみがなくて漕ぎだす床の海」 尾車 梅林

 前五に「臀命」と書かれているのを「しめこみ」と読みました。江戸古川柳「帆柱をむなしく倒す独り者」と類型の自慰ものですが実は新舞子出船の実体験をも語っています。 波止場がない砂浜からの出船は波が少しでもあるとふんどしが濡れて沖に出ると気持ち悪かった。これを嫌ってスッポンポンで出船し、沖でふんどしを締めたという話が伝わっています。なお平成解釈は「臀命」を「乗合」 と間違えた。

 昭和35年当時の新舞子出船風景。船は焼き玉エンジンのポンポン船です。押し送り船より一回り小さいがこれでも家二軒分くらいの値段がします。

 従来和船は司馬遼太郎さんを代表格にしてクソミソの評価(その他の低評価の人数は少ないと思いますが何せ筆頭が天下の大ものですから影響力が大きい)ですが櫓漕ぎ推進を含めて和船は工学的にそんなにはずかしい乗り物なのでしょうか。

 西洋の船も和船も板や構造材のつなぎ部分がねじりに対して弱かったのは大差ないことでこれを和船には竜骨がないから弱いのだとののしったり甲板部の密閉性などはなから沿岸部専用として積み荷の量と荷の上げ下ろしの便利さ重視としたのを人の命軽視・劣悪な国民性の現れなどと評するのは行き過ぎでしょう。

 またTV時代劇などに出てくる和船は予算の関係か船大工がゼロだからなのかチャチで安普請のものばかりですしまた例えば織田信長の鉄鎧船や将軍御座船(安宅丸)や大名が参勤交代に使った船のかたちや、それが櫓漕ぎなのか、帆走で岸壁近くなったら後は竿で操るのか、西洋のように櫂 (オール)で漕いでいたのか小説や絵図などではみんな誤魔化していますね。絵図に描かれた船も西洋の帆船に比べて格好が良くないなど和船見直しの気分はまだまだ先のようです。

 最近 ニュースの断片で「日本の木造建築構造」がユネスコ文化遺産になるとかなんとか云ってましたがこの中に和船は多分入っていないのではないかなと想像しています。

 話は替わりますがオールか櫓かについて。だいたいがベンハーではドラの伴奏で50人くらいの奴隷がオール漕ぎで船を走らせていますがあんな調子で数百キロの航海ができるものなのでしょうか。ドラをたたき続けるだけでも30分もたないのではないでしょうか。その点櫓漕ぎは推進に使う以外の無駄な筋肉動作がなく姿勢的にも楽ですので半日ぐらいこぎ続けて大丈夫のようです。調子取りは勿論歌です。調子をとるためにはオール漕ぎでも同じでドラたたきなんかあり得ないと思いますよ!。いわゆるカヌーや中国の競争船の櫂などは長距離はさらに無理だと思いますが専門家の話を聞きたいところです。

第13句 糠「柄鏡の形がきちと髪にまた」 佐貫 ??

 句意がわかりにくいが多分以下。
 合わせ鏡で後ろ髪を見るときちっと出来ているのを確認。良し!。と、視線がふっと流れて、柄鏡の中の自分の顔を見ると柄鏡の枠がちょうど髪のようになって見える。こちらも「良し!」
 作者は女性でないか?まあナルシスト、独りよがり。作者名は佐貫だけ分かるが俳号は消滅。
 そうすると12、13と男と女の独りよがりとなる。
 それはそれとしてほぼ同時代の、こちらは文京区村推薦の富津の織本花嬌(1810年死去) に「用のない髪と思えば暑さかな」がある。わかりやすいがちと気取り過ぎ。佐貫の「???」の方は無邪気で可愛いい。それでいて女の業も表現している。注:用のない髪とは旦那が亡くなって本来なら髪をおとさねばならない私ですがいまだに髪を伸ばしたままということです。しかし正確に言うと旦那は名主で金持ちであったのですが身分は無位無冠の庶民ですから奥さんの花嬌さんが尼さんになる義務はありません。身分不相応です。

第14句 アリカ「三国を歩いてひるは誘いッペ」 八幡 文藤

 「三国」は京、大阪、奈良です。関東地方ではありません。(新舞子の他の文献から推定)

 

第15句折「曾(ひい)のいる身で母の衣(い)を汚(よご)すなり」 笹毛地秋

 実際の墨書は「曾乃いる三てハ者の衣汚すなり」と書かれています。一読では何を言っているか分からないようにわざと変な当て字にしています。江戸で出版したら手鎖ものだとの意識があったのでしょう。江戸古川柳に類句がありません。

 「曾」に注意。これが「孫」の字なら田舎に限らず旧家にはよくある話しで驚くに当たらない。

 天子ならそしてあれだけ混乱したのだから「曾(ひまご)」であるべきはずだ。そうであれば俺は生き物として尊敬する。(以上投句者の意見)

 句意は多分以下。白河法王は孫(鳥羽上皇)の嫁に手を出した(生まれた子が崇徳。白河は鳥羽を引きずり下ろし崇徳を天皇とする。しかし白河が崩御すると・・・)といわれているがあのお方はそんなありふれた人ではない。さらに、その上に曾孫(崇徳)の嫁にも手を出したかも・・・。

 とにかく系図が複雑怪奇です。白河上皇に言わせれば、息子(堀川)も孫(鳥羽)も病弱故に仕方なく自分が養っている美姫(藤原璋子)を嫁として派遣し天皇が年少故に仕方なく治天の君として政治に口を出したに過ぎない というだろう。白河にとって計算違いは自分が予定より早く寿命がきたこと、孫が(幼少期は病弱だったが)健康で丈夫に育ちしかも聡明だったこと。

 上の句と合わせて、以下、後継ぎ問題が3句並びます。

第16句 小倉 「花の名(め=芽)は咲きて玉入れ子宝に」 笹毛 錦藤

 「花の芽」は墨書文字では「花の名」になっています。これを「花の芽」と解釈しました。墨書であえて「芽」でなく「名」を使ったのは、動・植物の種としての子宝でなく、名字(男系)血統を同じくする子宝を意識してのことだと思われます。と、いうのは次の句に関連性がうかがわれるからです。同じ句意を意識して並べている感じがします。

第17句 アツハレ「十二年枯れ木に花を我がカカ(ア)」 八幡 叶幸

 結婚して12年。なんと女房(枯れ木)に子供が出来た。付け句のかけ声は「アハレ」これは「あっぱれ」であろう。いや率直にこれからの子育てが大変だ、で「あわれ」なのかも知れないです。なにはともあれ目出度い。墨書では「十二年枯れ来に花を和哥可價」とあります。最後の4文字を現代人は「和歌の徳」と読んでしまうのです。筆者は最後の3文字「か」音の漢字を並べてみましたわかるかなといったところでしょう。

第18句 イカニ「ウリなりて瓜汁喰うは畑の中」 笹毛 柏舟

第19句 折「近い毛羽おんなの山は切ってしまい」  上村 ?? 

 「女の山」とはおそらく「恥阜」。それはそれとしてこの句は漢字表現が面白いです。後半部「於南の山ハ切手姉妹」これを「おんなの山は切ってしまい」と解読。渡辺淳一さんの世界でしょうか。日経新聞に連載中、丸の内の朝、黒塗りの社有車の社長さんはみんな新聞の真ん中辺のページを開いていたそうです。新聞はもちろん全員日経。今は多分日経など読まないかも。  

第20句 ツモリ「頼光の弓矢三(み)の国飛び廻り」 八幡 羽通

 句意は以下。源頼光が活躍した三カ国はおかげで弓矢が飛び廻って住民は頭を上げられない。いい加減にせいよ。源頼光は渡辺綱・坂田金時等を家来に大江山の鬼退治、土蜘蛛退治、酒呑童子討伐で大活躍。江戸古川柳類句に「頼光は起きると弓をひいて見る」がある。

第21句 イカニ「慈悲もなくからめ手籠めは白っ壁」 八幡 羽彦

 すぐに志村けんのバカ殿年令詐称の新台本もどきを思いつきました。15才(由紀さおり)と聞き狙いをつけてよばいをかけたら敵もさる者母親(研ナオコ:白っ壁)にすり替わっていた。「あれー、ご無体なお殿さまいやでござりまする」と帯を引っ張らせながら回転して寄っていく硏ナオコ・・・・。イカリヤ長介に罵倒されるかな?

 墨書では最初の2文字が「児悲」と書かれていました。母に子供はつきものです。そんなところに襲い掛かった鬼のような男の手柄話。ホラ話ならなおさらふざけたはなしだとの筆者の強烈な遺憾砲かもしれません。

 なお「白っ壁」を陰間と解釈することも出来ます。

第22句 ヲモシロ「狼を凌ぐ肝(きも)とし平らげる」  八幡 叶幸

 狼を越える勇気を持って(狼の)肝臓を平らげた、喰ってやったということ。当時日本オオカミは健在。大神ともいい。洋の東西を問わず人類にとって脅威であり神霊を感じさせる生き物であった。

 

第23句 祈「余しもの、命、酒、崖、前の家」 大坪  坂佛

 老人の自分に残っているものは、命!、これは生きているので当然だが、酒!、崖!(?)、ここまで大見得を切って小さい声で「前の家」と落とす。絶妙です。

「何だ裏が崖かあぶねえなー」。

第24句 ウキヨ「惣ひとつ加わらぬまた玉門(ぼぼ)けしき」 八幡 淹余

 女房が何かの意趣返しだと思うが悲しいかなとんと思い当たらないが。または月の物のさわりから不機嫌なのか。いずれにせよ現実は今日の夕食は御飯だけ。うめぼしでも探してみるか。

第25句 カライ「戸壱枚玉の香りや御姫様」 小久保 ??

 戸一枚の向こう側の景色がいろいろと想像されます。鶴の恩返しかうら若き女の客か本当にお姫様のおしのびか。

第26句アリカ「何所(どこ)満天(まで)の泊まりか母歩(ははほ)いまわの忌」笹毛錦藤

 亡くなって極楽まで、仏に守られての巡礼の旅、母の魂は今日はどこまで行ったのかという句意。投句者は男性だと思います。チョットマザコンかも・・・ですが良い句です。
「何所満天(どこまで)」と万葉仮名(変体仮名)まじりでくずし前の字で書くと別の風景が出て来ますね。
 急にチコちゃん(の中の森田アナウンサー)になります。初七日、四十九日の意味も知らずにやれあそこの葬祭場は料理がまずいだのと云っているすべての日本の奥様方に問います。極楽への旅はどういうルートで行くのでしょうか。

第27句 ヲカシ「根をなくす鵜が文字花の一の宮」八幡 羽彦

 異常繁殖したウミウ(実は営巣地の樹木を枯らす)が秋空に編隊飛行(=「鵜が文字」)してい
る上総一の宮。

第28句 タノシ「名もつけば根突き尽くすや麦畑」  小久保 ?? 

 句意は多分以下。おかげさまで子どもがさずかって名前も決まったので、今年も良く育つように麦踏をしている。去年の春あの時は青々茂った畑の中で・・・・。

 類句は以下。「まだのびもせぬのにもう麦畑」、「麦畑ざわざわざわと二人逃げ」江戸古川柳は他人をからかっています。対してこちらは自分の体験を自分でからかっている。

第29句 ツツキ「石上(いそかみ)を伝え百代の亡墓(ぼうぼ)かな」  絹村 治寿

 これはかなりまじめな句です。古代豪族の石上=物部氏の墓の伝承があるのかどうか分かりませんが、横穴の壁面に「木」や「許世」の文字が印刻された絹の横穴墓を詠んだものと思われます。(印刻文字はそれぞれ古代豪族「紀氏」、「巨勢氏」では、との説が有力)

第30句折「下帯か日本(にっぽん)件(くだん)の白鳥(しらとり)か」 笹毛地秋

 「日本の例の白鳥」とは鹿野山の白鳥神社を指します。祭神は日本武尊と弟橘媛。ふんどしの後ろ姿が飛んでいる白鳥のようだということです。

 海の中で地曳き網の折りたたみ処理をしているふんどし後ろ姿の男たち。胸の筋肉が付いて かっこがいいですね。その後ろに写っている押し送り舟で長年櫓漕ぎしていたたまものです。 一人だけ麦わら帽の女性、スタイルグッドです。(大正時代の新舞子写真)

 

第31句 ツツキ「難題の蛍に和多の口と腹」笹毛 甚幸 

 「和田」という部落の人々の悪口か?和田・大和田という字(あざ)は小久保、岩瀬、加藤など佐貫の周辺にありますが・・・。鎌倉時代初期の武将和田義盛の所領との伝説があります。和田義盛は颯爽とした武将で頼朝にかわいがられました。計算高いがつむじまがりではありませんでした。口と腹が同じだったため軋轢があった武将です。執権北条氏によって鎌倉で殺害されました。

第32句 メテクイ「百姓は米の守りき田浦坊」 八幡 羽道

 百姓は自分がコメを育てていると思っているだろうが、あにはからんや、コメが百姓を養っているんだよ、ということでしょう。

第33句 ナントモ「満无光(まんこう)は女の吐息の出る所」大坪 里暁

 里暁さんはあとひとつこの種の句を投稿。「わずかにリクエストあり。細々と続けてます。まあ病気です」と答えてくれているようです。

第34句 ココロカケ「余し者尻はきたなに翁草」  笹毛 甚幸

 可愛げのない老人の尻は翁(おきな)草だの意味。早春に小さな袋状の赤紫色の花をつける多年草。花が枯れると種をつけためしべが白髪のように垂れ下がりススキのようになる。茎にも白い毛が密集して生えている。

 TVで見た感じでは老醜には見えません。昔の七五三の千歳飴の絵のような裕福な翁媼のような印象の花ですよ。現在房総地方では見かけません。絶滅危惧種だそうです。

 悪口も極まれりだが自画像であったとしたら情景は変わる。
また、最近の介護社会でおむつ替えの嫌われものが老人の陰毛。ツルンと拭けない、拭き残しで不潔になる、臭いがこもる。お世話になるずーっと前に介護脱毛の奨め。実行者の感想は少年少女に帰った気分。爽快だそうです。おためしあれ。

第35句 ムマイ「卯波の端(は)抹香クジラの屁の火とも」 八幡 羽重

 卯波(卯の花の咲く初夏のころ見られる海の波。さざ波が日の光できらきらと光っている 様子)はクジラのおならのあぶくが光っているのだという言い伝えがあるという句意。子供が喜びそうなお話。

 卯波を詠った句は第39句、第46句とあります。新舞子の卯波の美しさは日本一とまで言っています。八幡の人は卯波、蛍(第43句、58句)、日本、日月、チンケラ(第37句)ときらきらきらと光るものが好きなのです。  富津の現代人は卯波の美を多分忘れています。  例えば卯波にこだわった安房鴨川出身の鈴木真砂女「海女一人に桶一つ浮く卯波かな」 この句の情景をどうとらえますか。海女と桶のペアの並びや動きの面白さでしょうか。実は真砂女はきらきら光る卯波の光を表現したかったのではないでしょうか。海女と桶は黒いシルエットのはずなのですから。そう思ってもう一度句を詠んでください。どうでしょう光が見えて来ませんか。

 さらに富津の織本花嬌「片羽づつ時雨干すなり鵜の夕日」は、鵜の行動の面白さがメインではなく、作者は鵜に卯(波)をかけているのではないか。ひろげられた羽根の間から見える波、卯波とは季節が逆でさみしく少し金色になっているがきらきらは同じこの光るさざ波の光を言い表したかったのではないか。

 花嬌のこの句碑は富津市役所ロータリーにあります。

第36句 イカニ「眠る起き続くは母の慶事(祝いごと)」  佐貫 稲全 

第37句 仕合 「お茶の木の椿けら(ちんけら)光り雲の上」 大坪 加作

 チンケラを蜘蛛(蝿取り蜘蛛:オトグモ脱皮前ババグモ)合戦(富津地区の漁師子供の遊び)のクモと考えると、下五音の「雲」とかかっていてすっきりします。クモの糸が光ることもあるし意味が通じてきます。 

第38句 フシキ「玉手筺的(い)て和国人誕生し」  さゝけ  錦藤

 味も素っ気もない戯れ句ですが、この句を詠んで次に進むと主催者の意図が分かります。

 なお村名がひらがなになっています。全体を見ると笹毛の錦藤さんがいますので「ささけの錦藤」さんは別人なのかも知れません。

 

第39句 チカラ「花の海 性根(しょうね)の日本(ひのもと)でく翁 」 大坪 里兄

 炎天照りの中、麦わら帽子で浜昼顔の咲く浜芝に座って朝から晩まで沖を眺めている老人を昔はずいぶん見かけました。

 句意が分かりにくいですが、花の海は卯波の海だと思います。ここが究極のひのもとだと、老人の自分はここで生きている、役立たずでしたが、といいたいのでは・・・・。

 句の後半部分は「日本丁く翁」と書かれています。「丁」字の縦線が薄く細いので裏画面でここの花の海が日本一と表現したつもりかも。

第40句 ナルホト「藤邑といえどお塩を汲みに行き」 笹毛 甚幸

 笹毛村は山村の雰囲気があります。海が近いとは思えないが実は海が近いのですという地理説明。
 例えばじゃじゃん川(笹毛川)河口は滝があってどこの渓谷かという景色ですが50m行くと波打ち際です。

第41句 ツイハア「勤勉に秋とてカマド立つ煙(けぶ)が」 上村 水仙

 「けぶ」というのはこの辺の方言です。付け句川柳というより俳句ですね。

第42句 折「倭(やまと)まで海越え花の誕生会 」  笹毛 地秋

 お釈迦様の誕生会を云っているか?奈良まで海路はさすが海の人々の発想。これはまじめな句です。

 どこに行くにも徒歩が原則が江戸時代。対して八幡の人は、いわば高速道付きのレクサス(押し送り船)が使えたのです。これが贅沢なくらし感の源泉。ただし押し送り船は江戸大商人の持ち物。いわば社有車。

第43句 ホレ「日本(ひのもと)で光る気なしで帰蛍(かえりけい)」  八幡 鶴幸

 まじめな句だがどこか滑稽。NHKラジオ歌謡「木更津にて」の内容とマッチする。「夢を追ったが果たせず木更津に帰り来て浜辺で赤富士を見る」。日本・蛍と光るものを繰り返す。ただ、蛍は尻が光っているので滑稽感がただよい深刻にならない。

第44句 イカニモ「立身し、文、語、婦ん、能、念じける」 笹毛 甚幸

 徳川家斉、松平定信への当てつけか。共に傍流から頂点に達した人。自身をたのむ気持ちも大きかったろうが世の中はかたぐるしくなるばっかりでみんなが貧しくなった。本人たちは気取って和歌、四書五経 、婦人(情婦でなく愛人であり同士である?)、そして能楽三昧。

第45句 イカニ「仏壇へ あんかれこうで どくしなり」 古舟 ??

 仏教用語?「庵彼孝て」、「毒斯(し)なり」です。後者は「瓦斯」という漢字がありますから線香を揶揄しているか? そうすると前者は真言の唱えを揶揄しているか?全体でまったく気のはいっていない朝の「ちーん」を笑っている句?

第46句 コレハ「比丘の海 今(いま)は目隠し のそらかし」  上村 茶専

 墨書表現は「ひ久の海今は女隠しの空かし」です。 

 難句です。「比丘の海」は「ボウズの海」=「不漁なので」と読みました。「のそらかし」は「のけぞらせる」=あおむかせるということか。「不漁で閑なのでまぶしいだろうから目隠しさせてあおむけにした」
 例えば初夏であったとしたら新舞子の卯波はキラキラキラと光の乱舞で極めて豪華絢爛で、単なる蒼い海の地中海などとは違う。また日本の海となると加山雄三となるが、どうしてもこの人が連想される。それはアラン・ドロン。
 太陽がいっぱいで金持ちのふたりはキャビンでいちゃついて、一人アラン・ドロンはデッキで仰向けになったのだが、こちらの八幡の浜では相手を仰向けにしたのである。これはこれで日本のアラン・ドロンがやったならいい線行くのではないか。BGMは、ニニ・ロッソでなくワーグナーのタンフォイザー序曲がお薦めです。(管楽器のチラチラチラチラという旋律がバックで執拗に繰り返される。)

 深夜の「ニューヨークのゴースト」のラヴシーン(ロクロ廻し作業から発展して二人が抱き合ったままぐるぐる回る)の向こうを張って真昼の東京湾海上でのそれを創ったら世界ヒット間違いなしでしょう。ちょっとSMっぽさも入っていることだし。
船の上のラブシーンに使える船は貸しボートのような大きさでは(波があるので)多分不可能です。この場面の船は押し送り船かも知れません。

 

第47句 アリカ「月と日も光るは慈悲の為と説き」  佐貫 酒来

 深読みかも知れないが次のように解釈。奈良東大寺三月堂の本尊は不空けん索観音。脇に日光月光菩薩。ひたい中央に真実を見分ける縦長の目を持ち、慈悲の網(獣用)と釣り糸で衆生をまちがいなくあまねくすくい上げる菩薩。何だ漁をしている我が身は菩薩の化身か?
こうすると次の句が生きてくる。
 なお八幡のお寺の円鏡寺の本尊は船乗り観音です。

第48句 ツツキ「名物のらっきょうひりしてご用心」  八幡 羽通

第49句 サンネン「分別のあさい所で緋ちりめん」  上村 留光

 人目のない所で緋縮緬を見てしまった。人目のないところは舟の上かも知れません。

第50句 ツツキ「脇っから 名告げいらつく もてあそぶ」 八幡 文藤

第51句イカニ「胡編煮(こあみに=アミの佃煮?)を用いて妙(たえ)なり和汁講」 古船??

第52句 コレハ「我が年(干支?)の稲と知らんが身の誉」 相野谷 志神

 稲の品種の名前を云っているのか?

第53句 アンヤ「空見えきいる目はら病む霞玻璃」 八幡 文藤

 下五は前句の元の文字では「霞鍼」と記されています。漢字の意味に捕らわれると意味が通じなくなります。「鍼」字は親父ギャグの駄洒落で筆記者は「玻璃」と意味を汲んでもらいたかったはずです。
 「霞鍼」=「かすみ玻璃」=「くもりガラス」のことか?全体として白内障のことか?

第54句 セヒモ「去り状の端切れつなげるつながらじ」  上村 和

 作者は上村の「和水」である。女性?。去り状(離縁状)は夫名でしか役所(お寺)に提出出来ない。(史上有名な鎌倉縁切り寺東慶寺の役割は未練を残す旦那に将軍の権威で去り状を書かせること)そしてこれは再婚許可証でもある。それを踏まえて句意は多分以下。夫が去り状を書いたが嫉妬の怒りがぶり返してビリビリと破って飛び出して行った。あわてて私はジグソーパズルを始めたがつながらない。どうしようこれでは晴れてあの人と添うことが出来ない。

 

第55句 タノシ「三島女郎(じょろ)替え間にしてと持ちかける」  八幡 鶴幸

 墨書表現では「三島城楼か絵馬に友千かける」

 句意は多分以下。ねえお願いがあるの。貴方の一行の中のあのお客ね、くじで当たった娘がどうしてもいやっていうの。貴方の斡旋で波風立たないように替えて貰いたいのだけれど何とかならない?。先ず当て字がすごい。「三島城楼」で「か絵馬」です。だから陰間はあり得ない。システムとしてこんなことが可能だったのか。そして八幡村の男衆の手馴れ振り。一回や二回ではここまで女郎と友達つきあいは出来ません。三島女郎の中で顔になっているではないか?
 ひとつ考えられるのは、会社の社長のレクサス(押し送り船)を借りて団体で三島に海を突っ切って直行。忘年会としゃれ込んだとします。センターの女郎が幹事さんに上の句の話しを持ちかけてきたとしたら、幹事は鼻の下を長くして「よっしゃまかせなさい」となりますよね。

 八幡の鶴峯八幡様の宵祭りの獅子頭巡行で謡う木遣りに「富士の白雪朝日に溶ける。溶けて流れて三島に落ちる。三島女郎衆の化粧の水」という一節がある。突然三島女郎が出て来るのではなく大阪まきやの16才のお喜代の嫁入り道具の立派さが出て来て、梅に鶯飛び立つところ帰るなおきよ、沖を帆かけて立つ船は舵のとりよですなおにはしる、三島女郎のはなし、上町の市松は大事にせねば、一ノ谷の敦盛のはなし、大阪、長崎・・・・と続く。

 八幡など江戸一辺倒で大阪など見向きもしないと思いきや、木遣りだというに深川などの唄にはまったく影響されていないで、ひたすら京、大坂を向いているのが面白い。最後に、わしの女房をほめるじゃないが京で一番大阪二番という話しが出て来る。

第56句 カウカウ「癪(しゃく)の理(り)は虜(とりこ)なりにて年令(とし)にでる」八幡山市

 「癪」の原因は、ひとつのこと、考えの虜になってしまうからで、老人病だということ。

 わけ知りの隠居が日向ぼっこでしゃべるような内容です。辞書によると「癪」は老人に出る神経症の総称だそうです。だから「この子は癇癪持ちで・・・」というのは間違った使い方。

第57句 タノシ「帯解きは寝よかと見せて懐(かい)しけり」  八幡 羽重

 無言で帯を解く女房。亭主が「オッ今夜はOKか?」と思いきや女房は懐手。下五はあえてふところ手と読んでもいいか?

第58句 大尾「蓮の葉に三昧耶形(さんまやぎょう)か浄水(きよき水)」 八幡収月

 大尾(最後)は選者収月さんの凡句で〆ます。

 墨書表現は「蓮の葉に産錦織蛍か浄水」です。中七は前後の関係から「三昧耶形(サンマヤギョウ)」と読ませたいらしいのですが、しかし無理があります。 

 さんまやぎょうとは仏の持物の如意宝珠の密教表現。句意は蓮の葉の上のしずくを真珠に見立てた凡句。さてここで

「三昧耶形」と書かずになぜ「産錦織蛍」としたのか?。産、蛍は分かります。しかしなぜ「昧耶」が「錦織」なのか?

 ここで収月さんは自己の姓をはめ込んだのではないでしょうか。幸い錦織というきらびやかな姓なのできらびやかさの中に紛れ込ませて自家誇りを 完成させたのでしょう。従って選者、墨書筆者は、八幡で中世からの船大工で、元禄年間に鶴岡の古船浅間神社を建てた錦織氏当主という説は60%程度の確度となるでしょう。

 錦織氏の元禄年間の功績はもう一つあります。江戸の魚問屋の流れをくむ高橋万兵衛家と組んで江戸への高速鮮魚運搬船「押し送り船」を世に出した船大工でもあります。

                       願主 八幡連
              亨和二年壬戌二月吉日
  諸願成就皆合満足

 

 田舎には下女や小僧や遊女や田舎武士がいないため、からかう人がいないので自分を表現しているので江戸古川柳より総じて上品です。

 

連句奉納について

 上は江戸時代の万句合わせ(川柳大募集大会)の結果報告の刷り物(配布用)です。字の形など亨和二年奉納額と雰囲気が良く似ています。

 江戸時代の連句(付け句)奉納の仕組みを解説します。

 先ず主宰者が課題(付け句であれば下七七を課題として提示します。複数の提示もあります。さらに折り込み句といって特定の単語例えば「ヤハタ」を与えます。これは五、七、五の先頭に「ヤ」、「ハ」、「タ」の音を織り込めと言うことです。

 投稿者は作品の上に、課題のどれを使ったかを表明して投稿します。「○ 折」などと(○は下七七の種類分けの符合)書いたり、または気の利いた一言「マサカ」、「オヤオヤ」等これも採点の評価対象になります。基礎ポイントがプラスされるということ。 

 江戸時代になぜ連句が流行ったかというと、投稿料を取って当選落選を決め当選者に配当がついたからです。無尽講は単純にクジ運だけですが、連句は実力で運を引き寄せられる可能性が出てくるので熱くなるわけです。今の遊びで一番近いのは素人ゴルフコンペで優勝者に商品が行き、なおかつ馬券もやっているようなものです。

 ゴルフでは成績とハンディと云った数字で勝敗がはっきりしますが、連句ですと主宰者の実力が重要です。誰もが納得する結果でないと次につながらないことになります。判定が的確であれば参加者も増えますから主宰者の実入りも配当も多くなります。だからと、いい句ばかりを採用し続けるとメンバーが固定化し、実力のない人にとっては魅力がなくなります。それをかわすのが当選句の並べ方です。「誰が見ても駄句」をあえて当選させそれをうまいところに差し込んで一つの雰囲気を作り、良句をさらに際立たせ、駄句をも救うという形に持って行くわけです。NHKの素人のど自慢と似たような採用の仕方をすると主宰者の信用がさらに上がります。

 厳島神社の奉納額の場合、投稿句が500句で当選句が58句ですから配当は平均5倍くらい出せたはずです。複数句当選した人も居ますから良い臨時収入になったでしょう。1万円の参加料で「玉手箱拡げ三浦へ出陳し」で2倍の配当なら儲かった気分になりますよね。

新舞子の卯波の特殊性

 享和二年の厳島神社奉納句のメインテーマは「卯波」でした。富士山でもなく、松原でもなく卯波でした。そして死んだ後の極楽ではなく現実に体験出来る極楽としてその歓喜を赤裸々に表現し誇りを持って付け句奉納しました。おそらく鮮魚を中心とした江戸への物流拠点として潤っていたのでしょう。五尺二間の長屋住まいでなおかつ繰り返される大火事のため財産を持たない江戸庶民のはるか上の生活をしていたのです。衣食足れば礼節を知るです。ベランメイ調でおれおめえ調で悪口をまくし立てる江戸の女性に八幡の人は何の魅力を感じなかったことでしょう。

 新舞子の卯波がひときわ華やかなのはほぼ南に開いた海と、海底の佐貫層によっています。新舞子は砂浜ですが砂層のすぐ下は平磯というフラットな佐貫層(岩石というより粘土)です。海底はほぼむき出しの佐貫層で卯波の季節の大潮の時は深さが沖合いでも場所によっては1m程度になります。(これでは魚は来ないよね。漁師は不魚を期待して夫婦でいそいそと花の海に乗り出して行ったことになります。)

        去年の4月19日に撮影した新舞子の卯波です。

 佐貫層は侵食が急で(といっても1万年単位)波の砕きで渚に沿ってU字断面の溝が何列か出来ます。その結果として新舞子に押し寄せる波は浅いところ、深いところと進んできます。浅いところで波が砕けますが深いところでまた元に戻り、すこし進むとまた砕けます。波が砕けると白く光ります。これと卯波本来の「クジラの屁の火」(実は適度な風速の風)が加わったハイブリッド構造が新舞子の卯波の正体です。

 新舞子の卯波にもうひとつ宗教の味を加えたのが東京湾観音です。観音様は卯波の一番強い方向を向いております。  法隆寺夢殿の救世観音をモデルにしたらしいのですが、残念ながら顔と手組と宝珠を平凡な柔和なものに変えてしまいました。彫刻家と施主との軋轢でこういうことになったのか彫刻家も積極的に変えたのかまったくわかりませんが、仏像の法力は衰えて柔和なものになりました。  新舞子の卯波は、渚で、舟の上で、または東京湾観音の肩のところから見てくださいね。季節は4月から5月,大潮前後で晴れた午後です。朝、夕は風が凪ぎますのでだめです。


卯波美術館

 新舞子の卯波を時刻の早い順に並べてみました。ただし年月日、気候はまちまちです。新舞子の特徴が良く現れる卯波は、4月の早い時期の大潮引き潮で風が少し強く快晴であることが条件です。時刻は12:00近辺。白が飛ばないギリギリまで絞りを開放するのが良いでしょう。

 沖合はさざ波が光り、岸辺近くはくずれた波が光っているハイブリッド構造です。時刻が早いと海が青い。11:00頃の撮影。

 砂の色が赤っぽい。実際はもう少し白い。12:00頃撮影。

 岸辺に何を持ってくるか、それをいかに明るく写すかがポイントになります。風のあるなしで輝き方が違ってきます。下の画像と比べて下さい。15:00頃撮影。

 手前のハマダイコンをぼかしている。ほとんど無風なので光り方がおとなしい。しかし本来の光の帯の幅はこんなものです。波立ちでこれが広がるのです。14:00頃撮影。

 ズームアップして一面の銀波として表現。15:00頃撮影。

 人の感覚ではまだ充分明るいのですが、逆光がここまでくると人物のシルエット化は仕方ありません。カメラを通すと夕暮れになってしまいます。16:00頃撮影。本当は夕暮れまであと1時間半です。


石榑千亦(いしぐれちまた)について

 歌集「海」より 東海のうち新舞子(全31首) 昭和9年 一誠社 刊

01 海ごしの山に日は入り大島の三原の烟あざやかに見ゆ

02 海の風松にさやげばとどろとどろ雪おつる音すそこにも此処にも

03 沖をあがりいくらもたたぬ蟹見れば朝より心酒にうごきぬ

04 たそがれの波打際にのり入れし馬尾をふれば飛沫寒く散る

05 澄みひかる天(そら)より海におちし風さむざむとしてまさに秋なり

06 鬼になりし子鬼におはるる子月あかき波うちぎはをぬれて走れり

07 海の色もけさは寒けし味噌汁のほけ(湯気)ほかほかと頬になづさふ(なじむ)

08 腰綱はづし網子が手ん手にたぐりよするあら目の網に潮ひかり落つ

09 爐(いろり)によりてこもらひをれば松を鳴らし海にはせ下る風の音きこゆ

10 有明の月海の上に影ひきて勤(つとめ)にいづる朝をさやけし

11 海ごしの落日に向ひ眼鏡ごしに眼をやくまでを妻はいにけむ

12 汝(な)が瞳やけどする迄見しといふ夕日は蓋し今日のごとけむ

13 濱の草ふめば露けし土用波折れこへる渚すでに秋なり

14 輪をなして鬼ごっこする端に月をのせて土用波頻(しきり)にくだくる

15 足の甲にかぶさる砂のほのぬくし丘の傾斜を濱にかけ下る

16 この濱の祭の日なり舟はみな渚に引きて幟(のぼり)をたつる

17 日のくれを宿なしにまどふ鳥なれや打むれて又海をわたれり

18 濱の子が地曳網する形していそ松山はみな斜に立つ

19 海の風に虐げられて真直ぐにはのびも得ざらむ磯山松よ

20 濱松の枝張る下に船ひきて冬をかこふと新わらはこぶ

21 いさり舟舳艫(みよし)ならべて濱松の枝張る下に冬ごもりせり

22 冬されのさびしき濱に日かげりたり一人にしあらば堪えずあるべし

23 沖つべ(沖の方)は風つよからし大しまの三原の烟横なびきせり

24 海ごしの天城の山に日は落ちて今日のこの日も暮れむとすらむ

25 海ごしの燈台に灯は入りにけりこの松原に夕迫り来ぬ

26 ころをならべ舟おろさむとひしめきぬ夕汐は今たたへなりけり

27 夕明りほのめく海に手繰小舟みよしならべて漕ぎいでにけり

28 濱松の木だる緑をみづみづしくうつし出(いだ)して灯はともりたり

29 天地(あめつち)はもやの彼方にさかりゆきて夕松林ひそかなるかも

30 いこふべし吾等に神のたまふ夜(よ)か海さへ山さへ見えずなりたる

31 二人して波うちぎはを歩みけり春のうしおは今湛(たた)へなる

 石榑千亦 明治2年8月26日~昭和17年8月22日伊予国新居郡桶村に生まれる。本名辻五郎佐々木信綱門下。酒と海を愛し、晩年は上総新舞子に住居す。旅館「菊泉」(八幡)主人。 昔は行儀見習いで菊泉に奉公に上がった八幡の女子が結構いたらしい。菊泉には墨絵や短歌を書いた襖などがあったらしいのですが、長く空き屋だったが昭和40年代に思い切りよく「えいや」と一気に壊してしまったらしい。歌集に 、鴎、潮鳴、海他。三男が五島茂(大学教授であり歌人であり、皇室歌会初めの召人を長く務める。平成17年に102才で死去)

 千亦の短歌は、五七五七七になっていません。それでいて短歌リズムがあるのが特徴です。極端な例で、同じ「海」にある「横浜沖」の言葉書き付きで「先導艦鬼怒お召艦陸奥供奉艦は阿武隈由良球磨長良次々に」などという「作品」があります。八七五十一五36文字です。

 「海」は樺太から台湾までの海辺を詠っています。しかし、北海道の海と九州の海でここが違うというような感じが出ていません。樺太の歌にアシカが出て北海道の歌のなかにコンブは出てきますが、夜霧も霧笛も出てきません。(住んでいる海と旅行者として通過しているだけ海の違いでしょうか)

 千亦は海難予防(?)協会など省庁の外郭団体職員を長く続け晩年は新舞子で旅館業を営みました。客は通年で鹿野山登山者が多く夏は海水浴客が多かった。客の中には歌人も多く柳原白蓮も。そう言う暮らしの中で短歌は趣味以上のプロで、房総の歌人の先輩格として後輩の暮らしの世話なども。しかしローカルな酒飲み歌人で終始し出世はしませんでした。ただ生まれ故郷の伊予には結構歌碑があるようです。新舞子は弁天様氏子総代会が作った木製の歌碑(番号30歌)だけでその点「冷たいです」。

  千亦に厳島神社の奉納額を見せてやりたかったですね。これで千亦の海に対する見方が広がったかも知れません。また押し送り船や卯波の知識が増えた新舞子の人が見ると千亦の歌の解釈が変わってきます。

20 濱松の枝張る下に船ひきて冬をかこふと新わらはこぶ

21 いさり舟舳艫(みよし)ならべて濱松の枝張る下に冬ごもりせり

 確かに前期高齢者の幼き日の記憶の中にこのような船は残っています。しかし、考えて見ると冬に船を上げてしまって漁師が務まるのか。手繰り漁など冬だったよな。

 これを読み解くと冬ごもりしている船は押し送り船である。この頃は夏だけの地曳き網だけに使っていたため冬になると丘に上げるのである。春になると下ろして水につけ、水が中に洩れなくなるまでならして地曳きの季節に備えるのである。

30 いこふべし吾等に神のたまふ夜(よ)か海さへ山さへ見えずなりたる

31 二人して波うちぎはを歩みけり春のうしおは今湛(たた)へなる

 30歌は真っ暗闇。新月の夜。季節は31歌につなげて春と解釈すると、春の大汐の満ちた海と引ききった海、そして新月の真っ暗と輝く光の乱舞、卯波。その対比。

 30歌は新舞子の住人に最も人気のある歌です。31歌はどちらかというとチャラチャラした観光客の二人を遠くで見ている感じと考えていましたが、これは〆として二つの歌をセットで考えるべきなのです。31歌の「二人」が自分と妻と見れば日本一の卯波の海で二人で働き二人で老いるということで、厳島神社の奉納句と同じ世界が見えてくることになります。


八幡村の祭礼獅子頭巡行木遣り唄について

 上画像は八幡の本祭りで神輿お浜出を先導する獅子頭です。この先頭に立って木遣り衆が唄いながら進みます。場所は鳥居崎です。ここで唄う演目は下で紹介する木遣り唄の中の「一ノ谷の敦盛」であると決まっています。 (注:現在実際に唄っているのは下の「一にめんたい・・・」から「・・・・かずの巻物船積みして柱おいこみぜびくちりんと」までです。

 木遣り衆の盛装は浴衣にセッタと腰に扇子と京都など西国風の町衆姿です。関東の木遣りと言えばハッピ、半纏に猿股姿と想像しがちですが八幡は西国風です。

 江戸時代の八幡村資料として、享和二年の奉納前句額(上総新舞子文学のページ参照)があるのですが、もうひとつ時代は不明ながら鶴峯八幡宮宵祭り木遣り歌があります。

「一にめんたい二に油樽三に酒樽四にしまのこり獅子は若ゆしあらよいよいと。神をいさむる氏子の守り。とんと大阪まきやのむすめ年は十六その名はおきよ縁につけよと仕度をなさる金が五百両腰元二人夜具が十二に布団が十九小袖四十二に手箱が八箱唐の鏡がのう七おもて。浴衣染めよと紺屋に聴けば紺にあさぎりうこんにかのこ肩の模様はなになくつけよ。

 梅にうぐいす飛び立つところ染めてやるから帰るなおきよ。これさかがさんへんとじゃないが先の姑がゆけともゆわばこすばなるまいのうかがさんよ。これさおきよよ良くききたまえ沖を帆掛けて立ちし船は舵のとりよで素直に走る。富士の白雪朝日に溶けてとけて流れて三島におちる三島女郎衆の化粧の水。上町一松そまつにならぬ又もお世話になるじゃもの。

 ここはどこよとかこ衆にきけばここは一ノ谷敦盛様よ。国は長崎海老屋のじんく。親の代から小間物売りよ。とんと小間物売りおばやめて大阪通いのいとものだてよ。帆が七反船の真ぞあやとくぜつで十六さがり。かこが七人舵取り親父おもう甚句はうわのり船頭。かずの巻物船積みして柱おいこみぜびくちりんと。

 明日は日和だ船さしいだせひより良ければ良い友がのる。須磨や明石の友どころを眺めじんとこい風はやふき渡せ。播磨灘にてのう潮がかり。そうしなだおば早のりまわせ。沖を走らばれいぼさげてめやけしようならこれ有り難い。馬でとうらば馬からおりて舵でとうらば下座してとおれ。ここはどこよとかこしに訊けばここは一ノ谷敦盛様よ。

 さんさおせさせかこの衆。船は行く行くしん河口よ。とんと程なく大阪川よ。船をやりまわしょうとかんちょうぼりよ。錨やらせてともずな取らせとばを曳かせてかじおりこんでてんまおろしてじんくはおかえ。おかにあがりて呉服屋町よ明日は日も良いあきない初め。何を売りましょうきんらんどんす。当世はやりのビロードきゃはん。わたり薬はしなじなござる。きにゃしゃこうのきゃらたけ薬。ひとめみたならそらほれ薬。惚れたのちには又ぬけ薬。

 やあれうれしやあきないしもて京都新町遊びに行けばあれのこれのと見物なさる。これのくるわや目に付く女郎。小金小桜朝顔様よ。三味の音きく白糸様よさつまならいのおすみ様よそれにまされしみちじば様よあやに迷わぬにしきほれぬ。国人のぼらばつれのぼらんせ。連れてのぼるはいとやすけれどわしも国には妻子がござる。連れてのぼれば妻子が悋気。連れてのぼらんじんくがりんき。なんぼいなかのあらだいこでも腰の巾着そこまではたく。わしの女房をほめるじゃないが京で一番大阪二番立てばしゃくやくすわれば牡丹歩む姿はのう百合の花」

 木遣り歌全体が船主の成功物語になっています。髙橋万兵衛家(新舞子の押し送り船のページ参照)そのものの昔を唄っているのではと思いたくなります。

 なぜならこれは関西圏で唄われていたものの引き写しではありません。三島女郎の話し(亨和二年奉納句にも出て来る)や、帆が七反、水主が七人など押し送り船を思わせる実体験らしいものが入っているので八幡時代の髙橋家に起こったことと見られなくもありません。

 髙橋氏も長崎の小間物売りが先祖で一念発起して大きな船を造り大阪長崎の航海事業に乗りだして成功し、さらにその子孫が八幡に来て成功して大阪の大商人から嫁をもらい更に更に富を増したのかも知れません。

 八幡の宵祭りでの獅子頭巡行は神社を降りて始まり、まず神主家の一族のひとつの家へ行った後に船端へ行く決まりになっています。現在、髙橋万兵衛家は船端にありませんが、今でも獅子頭巡行はこのように始まる決まりになっています。

八幡神社祭礼の神魚も西国指向

 「ちば県民だより」令和3年2月号の記事から

 黒鯛は「チヌ」とも呼ばれており、「西日本地域ではなじみのある白身魚です。県特産品の養殖ノリを食べてしまうため、ノリ生産者を困らせていますが、食べるとおいしい魚です。旬は秋から春で、冬場は特に脂がのります。県内での流通量はまだ少ないですが、スーパーなどで見かけたら、ぜひ食べてみてください。

 養殖海苔の食害の話が伝わる前から千葉での黒鯛は評価の低い魚でした。祭礼などで神に献げる魚は真鯛かいなだに限られていました。

ところが八幡神社の祭礼では少なくとも八幡区 大坪区笹毛区の祭礼神事は昔から「黒鯛」にこだわって来ました。孟宗竹の竹竿に神魚をくくりつけて練り歩く「おぶり」にも「神輿」にも黒鯛が献げられています。これを聞くと大貫などの人々から八幡はおかしいと笑われます。

 何かここにも八幡の西国志向が見えて興味深い所です。

 こんなこともすべて押し送り船の創業者からだとは言いませんが、銚子の外川地区のように八幡も近代的な漁業を開き村を作ったのは紀州の漁師なのかもしれません。

 そのうち外川を訪ね、集落の様子に八幡との共通点があるかどうか見て来ようと思っています。

 現在NHKBSで千葉県舞台唯一の連ドラ「澪つくし」の再放送がされています。この中で吉武惣吉のお墓が海岸に一つ離れてあるのは外川の風俗からは外れていると思います。外川の葬送儀礼は西国の両墓制(お骨を葬る墓とお参りする墓を別に作る)を継いでいて、昭和の時代になったらお参りするお墓=共同墓地に統一されているはずですから。

 また吉武かほるが船を引き上げる力仕事をするのは「おっぺし」と云ってこれは正しいのですが服装がダメでした。大正昭和の時代なら、このページ前の方「前句」紹介に入っているあねさんかぶりで麦わら帽、紺かすりに赤のたすき掛け、臀ぱしょりで前も後ろもシャンで行きたかったです。

 

淡嶋神社文書の解読(1)

 まず鶴峰八幡宮の末社(境内にある小さな神社)の淡嶋社の紹介から始めます。

 下の絵は、大正時代の鶴峰八幡宮です。古絵葉書を模写したものです。神社両サイドの木は大きな松で根上がりしています。右側大木の奥はほとんど見えませんが横にのたうった大木の松のように思えます。おそらくこれも根上がりしていたことでしょう。

 さて、社殿ですが、手前が拝殿、奥が本殿です。本殿は二本の棟持ち柱が露出している神明造りに似た建物です。この構造は君津市外箕輪の八幡神社(古墳の上の神社)に似たものだと思われますが、問題は旧鶴峰八幡宮本殿のその高さです。

 拝殿は現存(それこそこれが淡嶋社です)して、棟までの高さは12mくらいありますから、拝殿から50mくらい離れて見上げて本殿が絵のように拝殿の屋根を越えてこの様に見えたとすると本殿の高さは20mを越えていたと思われるのです。

 現在の鶴峰八幡宮です。この写真の右の奥にあるのが淡嶋神社です。淡嶋神社は茅葺きの上を銅板の屋根で覆っていますが、それ以外の構造は昔のままに再建しています。

 淡嶋神社のクローズアップです。この建物の中に絵馬や写真などの奉納品が飾られていますがその一つ比較的文字が多く残っている額がありましたのでそれを解読してみようとしています。

 額の一部分の写真です。額の全体の大きさは縦50cm、横1.5mくらい。幅15cmくらいの杉板を貼り合わせてその上に墨書されたものです。年号が書かれていないようです。

 この部分写真は一番文字が鮮明な部分を右からの自然光(晴の午前中)で撮ったものです。

 これからフォトシヨップで画像処理をします。

 Rチャンネルでレベル補正し、モノクロ変換してコントラストを高めます。背景がつぶれない範囲でぎりぎりコントラストを高めたのが下の写真です。

 変体仮名があまり使われていませんので厳島神社の奉納額(「上総新舞子文学」参照)より新しいものか、あるいは昭和になってからの可能性もあります。さて、文字解読ですが・・・・・ 

 何とか読める文字は「秀逸」のみ。その右は「花月維員雄宗通選」とも見えるのですが間違いなさそうなものは花、月、選くらいです。秀逸の左は俳句か川柳のようです。下に小さく二文字これは地名か?、その下の二文字は俳号か雅号のように見えます。

 「秀逸」という文字は淡嶋社文書の他の部分にも見られますので、どうやら文章全体の構造は以下のようです。

 ・俳句などを募集選定した行事の説明の詞書き 

 ・秀逸 

 ・選ばれた俳句などを列挙する

 以上の塊を次々に並べていったものと推定しました。年代などはあるいは裏面に記されているのかも知れません。

 以上で一回目の解説を終わります。この後、フォトショップのクイックマスク方式で文字形の外周を選択し、文字部分を真っ黒くペイントし、選択逆転して背景を白く(透明化、次に白い背景にする)して、筆の運びを想定しながら、漢字辞書と首っ引きで解読を続ける予定です。

淡嶋神社文書の解読(2)

 淡嶋神社奉納額の最後尾部分です。ここが一番墨書が残っているので、奉納額の型式を理解出来そうです。

 見出しに当たる部分で区分けすると4つに分かれます。見出しとその意味(推定)を書きますと次のようになります。

 「花月・・・・・・宗道選」:俳句の選者名

 「秀逸」:第一席

 「惑○」:第二席

 「再考?」:第三席   以上のかたまりが奉納額全体で3つあります。

 また上の写真で一番左の空白は不自然です。ここに奉納の趣旨、奉納者名、年月日等が書かれていたものと思われます。(ちなみに一番右の部分はいきなり選者名、次に秀逸と書かれています。)

 それぞれで統一されているのは、選者名は「花」で始まり「宗道選」で終わる、書かれた句の内容は「若水」、「初日の出」など正月テーマが多い、などです。

 上の写真で何とか読めたのは秀逸の7句目「若水やひさご檜の初椿」

 その他単語として解明できたのは「注ナはで張りて殊更・・・・・清水○」ですが、これでは五七五になりません。ということは読みが間違っている、その他、「膝枕」は色っぽい展開が期待出来そう、「風飄」(つむじ風)は直近被災地千葉人としては恐ろしいです、この単語新舞子文学の厳島神社の前句にも出て来ました。「ふうひょう」と読みます。

 「ワ番が欠伸して・・・・」は「ワ番」が??ワカランです、「庭番があくびして」なら何となく俳句的になるのですが・・・・「に」に相当する文字が見えません。

 「ワ」の横線が切れているので・・・・ワではないのでは?・・・・「茶番があくびして・・・」なら日本語になります。この場合の茶番は「茶を出す役の人」で、「見えすいた浅薄な物事の進行」の意味ではないのですが・・・・


淡嶋神社文書解読(3)

 奉納額の二番目の文書のかたまりです。
 選者名は「花深○新舟宗道選」。
 秀逸が7句。残念ながらここではすぐに読めたものはありません。
 第2席の4句目、5句目は何とか解読出来ました。
 第4句:挿し伸ばし梅花の影や初日の出
 第5句:温職(おんしょく。実入りの良い官職)なき盆燈淋し秋の雛
 8,9,10句は部分解です。
 第8句:ま○○○○和して○○しき世帯○○

 第9句:○○○の一人に飽きて○の宴

 第10句:磯○なで酒の仕度し初日の出

 特に第10句はあと一音分かれば完成ですが、「あ」から「ん」まで当てはめてもピンときません。ということは分かっているとした部分が間違っているということです。「なで」部、「仕度」部分は多いに怪しいです。

 なお、古俳句は字余り、字足らずは絶対にありません。五七五で日本語にならないなら間違った読みということになります。(経験談です)


淡嶋神社文書解読(4)

 奉納額の最初の文書のかたまりです。
 題目がなくいきなり選者名から始まります。ほとんど消えていますが、最初が「花」、 最後が「宗道選」ということが分かっていますので、「花○○○志宗道選」。
 秀逸は10句くらいですがほとんど読めません。
 第2席は12句、このうち第10、11、12句は部分的ですが解読出来ました。
 第10句:○○も○○○社○や風薫る

 第11句:時上下まくら漁らむが○○○船

 第12句:青風や山河○○その○を描く