磯根岬と周辺の海岸植物保全

アクセスカウンター

 磯根岬ハマヒルガオ美術館 

 グリンネットふっつがまだ発足していない平成12年(2000)から写された35mmリバーシブル(スライド用)フィルムに記録された磯根岬のハマヒルガオを紹介します。撮影者はグリーンネットふっつの平野正巳さんです。(以下の写真の無断転載はご遠慮下さい)

 この写真はニコンのフィルムスキャナーでデジタル化し、フォトショップ60MBの元画像をWEB掲載用に大幅にダウンサイジングしたものですが、それでも色彩の鮮やかさの一端は味わえるものと確信しています。

 グリーンネットふっつは、この2000新世紀写真の状態のハマヒルガオを保全の最終目標としています。

 平成12年。ハマヒルガオ群落の間の砂が銀色に見えます。

 平成12年。波打ち際近くまで絨毯のようにハマヒルガオだけの群落が伸びています。ピンクが鮮やかです。

 平成12年。谷すじを流れるように走るハマヒルガオ群落です。黒い砂は砂鉄が混じったもので、この黒がまた花のピンクを引き立たせています。流木あたりにモデルを立たせれば観光ポスターになります。

 それから2年後、磯根浜の奥に10年前から不法投棄されていた土砂が大雨によって崩壊し多量の土砂を砂浜に放出しました。

 これによってハマヒルガオが絶滅。トクサやカヤ、笹などの耕作放棄田んぼに生えるような植物ばかりとなって、グリーンネットが立ち上がり、試行錯誤の末に土嚢作戦で、水道(ミズミチ:登山用語)を固定、流入土砂の上に砂がたまってハマヒルガオが戻ってきたというわけです。

 しかし、砂の下にある粘土を含んだ土砂はコウボウムギの変異をもたらしました。(葉幅が大きくなり丈が長くなり、密に群落する)

 

 平成24年。平成12年に比べてピンクが淡いのは光の加減か?ハマボウフウが2株見えます。

 平成24年。左手前と奥の白い物は土嚢袋。風による砂の移動をコントロールするためにグリンネットふっつによって置かれています。数年で粉末化するということで採用し続けています。(近年マイクロプラスチックが問題になりつつあるので検討を要します。)

 平成24年。群落は広がっていますが全体的に淡いです。撮影日前の風の影響があったかも知れません。

 平成25年。まあまあの状況。

 平成26年。磯根のハマヒルガオの雄姿最後の姿となりました。

 年々変化する砂丘の支配植物

 

 平成28年5月。ハマヒルガオは最盛期でご覧の通り。白い花はハマボウフウ。

 平成28年8月オニシバ繁茂(特に奥の砂丘一帯)ハマヒルガオの季節からずれていますが本来ならハマヒルガオの葉っぱが一面に広がっていていいはずです。実際、5月のハマヒルガオ最盛期でもここには花がなかったのです。

 

 以上のように平成27年、28年になると26年写真と同じ場所の砂丘ではハマヒルガオがなくなりオニシバがびっしりと密生して生える状況となりました。この変化がわずか2年で完結したのです。また、歩調を合わせるようにハマボウフウが非常に多く繁殖し出しました。

 原因は不明。

 この数年で風が変わった、砂の堆積が少なくなった、砂丘の小さな凹凸がおとなしくなったためではと言う会員もいます。

 実際、ハマヒルガオは強い風の吹きだまりに堆積する砂丘に繁茂する傾向があります。

 他の海岸のハマヒルガオ生育状況とも比較すると、ハマヒルガオは南面、東面の緩やかな砂の斜面で丘の頂上に流木などの砂止め(多くは偶然にそのように置かれた砂止め)がある場所に独占群落を作る傾向が観察されます。

 磯根は南西風と北東風の二つの風が交互に砂を運びますので、南西ー北東を向いた7mピッチくらいの小さな砂丘ができやすく、このため広くハマヒルガオだけの群落が生じるという理屈です。

 しかし、風が変わったという仮説だけでオニシバとハマヒルガオの交替を説明することは難しいのです。他に根本的な原因があるように思えます。

 それは、草も生えない荒れ地に最初に根を張るのがハマヒルガオであり、それによって環境が良化すると他の植物も繁茂し出し、その圧力によってハマヒルガオが駆除されてしまうと言う仮説です。

 草も生えない荒れ地になったのは不法土砂の流入で、ここに砂が溜まりハマヒルガオが占拠したが5年6年で環境が良化、ハマヒルガオは駆逐された・・・・・のではないでしょうか。

 次項以後のデジカメ画像と、特に花の色や花の存在感を比較し鑑賞下さい。

 磯根岬、西上総海浜地域の特質

 磯根岬を中心に南北それぞれ4km続く海岸の今を紹介します。ここは、内房にはめずらしい自然のままの海岸線があります。
 この地区は、北から続いていた遠浅の砂浜から礫がちの砂浜に替わる部分で、上総湊を過ぎると、小さな入り江の砂浜を除けばすべて磯浜になります。

 平成27年、デジカメで撮影。この地区は、明治後、東京の身近な避暑地として湘南鎌倉と共に栄えました。国のトップ富裕層は湘南へ、中間層は内房へと市場を分けて共栄しました。しかし、マイカー時代、高度経済成長時代になって、湘南は高級路線と、いわゆるマスコミ受けする文化人路線で走り続けたのに比べ、内房は対抗軸を見いだせないままじり貧となり、頼みの東京中間層の相対的富裕化による湘南その他への嗜好シフトによってほとんど壊滅状態となりました。

 しかし、景観は人工の手つかずのまま残りました。そして、風も昔のままの海風が残りました。残念ながら松風は松の絶滅と共になくなり、流れる小河川の水質・護岸の荒廃による海の流木等による汚れ、河川景観の荒廃を招きましたが、これも松さへ復活すればプラスのスパイラルが始まることは間違いないことです。

 海岸の再生、松の再生は、いわゆるインフラの充実が鍵です。海岸地区の松の絶滅は生活排水のしみこませ=砂地への垂れ流しが主因の一つと考えられます。そして、小河川の荒廃は護岸の遅れと共に山の荒廃が主因です。これらが観光産業を衰退させ、それによって土地の価値を減らし、昔からの地元有力者の資産を減らし、新しい事業投資への意欲を衰退させ、若者の土地離れを招いたのです。

 では、プラスのスパイラルを回して何を目指すのか。世間に何を訴えるのか。これにはいろいろな考えがあるでしょうが、一つの有望な案として、首都災害時の長期疎開タウンの創設です。疎開は子供たちやお年寄りに限りません。会社や団体の本社機能、災害時物資集積運送機能、飛行場、中央官庁、国会、果ては皇室の疎開も用意して悪いことではないことです。富裕層には別荘ではなく災害時のためのセカンドハウスという視点を提案します。

 我々富津市民としては、災害に強いインフラ(電気、ガス、水、下水、発電、通信、交通網、治山治水)を田舎には不釣り合いなほど充実させ、それを持って、世間に提案していくことです。まず、手始めに、衰退していった地方公共団体の健康学園を災害時には疎開の拠点となるという観点から見直し充実を働きかけることから進めてみてはどうでしょうか。

このページでは、北から下洲地区、磯根地区、佐貫、上総湊地区の4つのサブページに分けて紹介します。千種海岸地区は特別に定点撮影のページとしました。