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房総里見家の女たち異聞その2

 11.虹の塔

 天文十三年。結姫十三才、義弘二十才。
この日は、丸の里の石堂寺に多宝塔がほぼ完成したということで、里見家ゆかりの人々が寺に集った。落慶法要を前に関係者大旦那グループに、それぞれ出来栄えのお披露目ということである。石堂寺は本来、古くからの地生えの豪族、丸氏の氏寺であるが、二十年前、盗賊の放火で堂々がすべて灰燼に帰したのを、寺側の熱心な勧進でようやく多くの伽藍が完成し、最後に多宝塔の完成を見るにいたった。現存する塔は、頭部の路盤、九輪はオリジナルだが、各所に後世の補修が施されている。特に亀腹・裳階より下は高欄が巡らず連子窓も省略されてしまっている。完成当初「虹の塔」と称された美塔の面影は薄れているが杮葺きの屋根の反りは優美さを失っていない。


 この多宝塔の性格は安房の内乱で散った多くの武将の追善供養にあり、里見の安房支配が完成の域に達した証を国内に示すものであった。建立当時のオリジナルと目される路盤には、里見一族、正木一族丸一族等の多くの名前が刻まれている。不審なのは、里見義堯があって義弘がなく変わりに「義舜」があること。そこで義舜が早く亡くなった長男で義弘は次男という説が生まれ「義舜」を改めて「義弘」になったとの説が生まれた。堯、舜は古代の中国の理想的な政治を行った聖王の名で、里見の忌み名の引継ぎ文字「堯」があるなら「舜」があっていいのだが、「義舜」の読みが分からない。「よしひろ」と読めるなら「義舜」=「義弘」説が自然なのだが・・・・・。(漢和辞典にも「しゅん」としか出て来ない)


 この日、里見の流れの若き面々が、石堂寺内を散策した。彼らにとっては久しぶりの再会。お互いの成長を確認して、何か、いとこ会、同窓会の雰囲気になっていた。千寿丸も十六才、多宝塔の本尊大日如来の真言を唱え、お経を上げるのも板についていた。彼は一同に、彫刻が好きであること、できれば京に上がりたいこと、政治はきらいであること、母の仕事=父の弔い、が、終わったら母を呼んで共に暮らすと宣言し若き面々から賞賛をあびた。


 旭姫はおっとりタイプ。周りから求められる方向に、求められ通りに動いて悩みや迷いがないように見えた。仏への帰依により九族が救われるなら進んで尼になろう。衆生済度が義務というより、困っている人、病気の人を放っておけない心の優しさがあった。


 結姫は迷っている。本妙寺の日我から「お前は本当のところ何を望んでいるのか」の問いに答えが見つかっていない。女の身ながら「足利」に欲がある。いにしへの北条政子になりたい、しかし、あの「母」、お万阿の希望「勧進比久尼になって諸国を経巡り、唐、天竺までも行きたい、見てみたい」は、「娘」のおゆうの希望でもあった。しかし、さらに自我の中身を探れば「人を恋うる」自分が見える。「その人」は、今、目の前を歩いている。


 義弘は二十才。傍目には若き武将としてそろそろ独り立ち、その能力も十分にあると見られていた。しかし、内心の自己評価は出来過ぎの父を持った気弱な二代目。父の顔色を伺う自分を唾棄したい衝動をいつも持っていた。中国古典かぶれの父は、やがて、何の躊躇もなく自分を上総の野にひとり放逐するだろう。「すべて自分の裁量でやってみろ。元手は出す。いくらほしいか何がほしいか自分で見積もれ」わが子を千尋の谷に突き落とす獅子のように、そう宣言するだろう。


「それならやってやろうじゃないか」と、思うこともあるのだが、「政治」が見えると自負しているだけに恐怖がつのる。義弘は結姫に「北条政子」の片鱗を見ていた。「この人が居れば・・・・」

 12.安房から上総へ

 北条氏綱の死後、北条の代替わりと共に、北条氏の目は主に北部戦線(武田、長尾)に向けられ、東部戦線(足利、上杉)への圧力が下がった。必然的に北条の房総戦略は、北条が直接手を下すことから真理谷武田の内紛に介入する代理戦争の様相となった。北条側の思惑とは別に、真理谷武田方もその動きを助長した。真理谷武田氏は支流が多い。一族は上総の各地に分散していたが、一家としてまとまらず、相続争いになるといつも外部の有力者に助けを求める習慣がついていた。小弓公方しかり、千葉氏しかり、里見氏しかり。そのため上総武田氏は、全体として徐々に衰退していく。武田氏支配の痕跡は真理谷周辺に集中して社寺があり、地名が若干残っている他はわずかだが、しかし上総各地にある城跡はそのほとんどが武田氏に発するものとされる。城の構え方には各氏族にくせがあり、北条、里見などはそれぞれ独特のにおいがあるのだが、武田のくせは何かといわれると見出せない。武田氏は何に対して城を築いたのか、海辺の城がないところを見ると外部からの侵入に対するのでなくどうも内部反乱(一揆対応ということでもなさそう)に備えたものとしか思えない。真里谷城は図体は大きいが、その立地は「なぜ、こんな山中に?」の疑問が残る場所である。総じて、武田氏は鎌倉体制の守護地頭の域から抜けられず、領国経営=年貢の徴収分配係り(一括して年貢を徴収し、それを公方、社寺貴族に分配残りが地頭の取り分。分配で政治力を行使)の考えしか持っていなかったのではないかと思われる。


 里見氏は反北条、公方・中間層の味方を標榜し、北条との最終予定戦場を上総に設定、その目的で上総を見ていた。一方、武田氏は総体として年貢の認識はあっても領土の観念が薄く、予定戦場などという概念を持たない。里見氏の上総進出はこのような背景でなされたと考えると少しは各個の動きの理解が出来そうである。


 里見の目から上総を見ると、地生えの土豪、庄屋こそが相手である。災害のない地域だけに神代の昔から地主などというものがゴロゴロしている。多くて二十町歩程度の土地持ちが数多くいて、基本的に林立してお互いに牽制し、ひとつにまとまろうとしない。かろうじて長く荘園として設定された土地で小型の里見や武田のような官僚くずれが小型の地頭のような顔をしているだけである。こんな中で注目すべき動きをしているのが吉原玄蕃助を首領とする峰上、峰下衆。峰上城を根城に、二十三の土豪が連合しているだけに侮れない。


 里見義堯は、上総進出の第一歩を自身の後妻の縁でつかんだ。正室ではなかったらしいのだが、長子義弘を生み、実質的な奥方になっていた於勝の方が、久留里城主の勝(すぐろ)真勝(武田氏の一族)の娘であったのを幸いに、久留里城を無血で譲り受けた。(砦として城の居住権をもらっただけ。土地支配に関わることは今後の義堯の行動如何で自分で開拓していく)反北条の勝(すぐろ)が主家の親北条の動きや打ち続く内紛に嫌気がさしたのかどうか、勝はその後近くの小沢谷に引っ込んで里見氏から食禄を受け一生を平和裏に送っている。


 義弘が滝田城に呼ばれたのはこんな背景下であった。部屋に入ると、義堯、正木兄弟、義弘の弟の義頼がいた。話は今後の上総進出についてである。里見の乾坤一擲の大勝負といったところ。義堯の心の中で自分自身を、楚の国から中央平原へ長期外戦に出発する項羽の姿をなぞらえていたかどうか。


 義堯が説明する。里見は対北条戦のため上総に進出する。義堯は久留里に常駐。義弘は佐貫に行って拠点を作るべし。正木兄弟は引き続き遊撃隊とする。大多喜から場合によっては下総までを行動の範囲とする。安房の留守は、義頼が一手に引き受けるべし。義頼は内治専門で国を富ませる。宜しく領民を撫育すべし。ただし、北条の、海からの直接の来寇(ほとんどあり得ないが)に備えて義頼は岡本に常駐すべし。誰か一人でも動きが鈍くなったら里見は滅亡すると思え。よろしく奮戦努力せよ。やり方が分からなければ義堯に相談せよ。


 義堯の上総理解は鎌倉時代から始まる。頼朝が鎌倉に来て武士の世になって当初の上総の支配者は上総介広常。この人は早くに滅ぼされその後守護が配され足利義兼になる。広常は東上総の大多喜あたりを本拠にしていた。その後を嗣いだ足利氏は佐貫を本拠に選んだ。足利氏の後を継いだ上杉氏は上総国府の上流域の久留里周辺を本拠にした。その後、自称他称の守護地頭もこの三つの地域を必ず足場に据えることを常とした。そこで、里見もこれに倣って本拠を久留里、佐貫に置き、大多喜は従来通り正木を置くこととする。これで上総支配の根幹とする。


 義堯は続いて佐貫を選んだ理由を説明する。佐貫城は鎌倉時代の初期に足利氏が上総支配の公共工事として築いたのが最初である。同時に新善光寺を造った。やがて鎌倉幕府が滅び足利の世になり新善光寺は上総安国寺になり、佐貫城は太田山城となった。その後称名寺領になり公共工事に強い西大寺派真言律宗によって岩富寺などが出来たりしたが世が乱れ、城、寺共に徐々に衰えた。ほぼ五十年前、真里谷武田が入り若干の手直しをしたと同時に佐貫が小競り合いの地となり、とばっちりで安国寺は焼失。

 武田はその後情熱を無くし今は捨て城である。佐貫は地頭不在の地域で、土民土豪が近在の地頭を天秤にかけて勝手気ままにやっている。それが出来る理由は佐貫が造船の基地だからである。鹿野山・鬼泪山の森林資源を使って、運搬の座、船大工の座が独占支配している。支配者の一部には北条の手が入っているかも知れない。対岸との交易も盛んだから止めようがない。それだけに、今、里見が連絡所を構えると行っても誰も不思議に思わない。入るに何の苦労もない。里見の早船(軍船)改良に佐貫の力が必要だから大いに造船料を弾めばよい。しかし、支配するとなるとどうなるか、ここが義弘の活躍の場面だ。放って置けば座の構成員の中に吉原玄蕃助たちの一派が増えて、それが変質して一揆化しかねない。里見にとってこれは危険である。一方、対北条戦争で見れば佐貫の船を北条には渡したくない。

 しかも佐貫は北条軍の上陸地に選ばれる公算が大きい。上陸拠点を敵には渡せない。ここは城として防御の拠点であると共に、準領国化するつもりである。佐貫は歴史的に足利系の地頭を受け入れて来たから領民の足利ひいきが多く支配され慣れしている。差し当たって佐貫の安国寺・岩富寺・鶴峯八幡に金を入れ再興を急ぎ復興の気分をあおり立て、その勢いを駆って峰上、峰下の天羽郷に、竹岡、金谷を加えた分(後世の佐貫藩より大きい)の支配強化を狙いとする。


 二十日後、かための酒宴をやって、あとは三々五々出発する。それまで準備するものは準備して置くようにと、義堯が宣言して散会した。


 義弘は一人残った。義堯に申したき儀これありということである。


「私、結姫を妻に迎えたく考えておりまする」、「大方、そんなことだろうと思うた。約束を交わしたのか?」、「いいえ」、「下世話なことだがすでに割りない仲になっておるのか?」、「いいえ」、 「またまた純情可憐なことよ」、と、義堯は鼻で笑った。「結姫を迎えるとなれば正室以外にあり得ない。正室となれば色恋沙汰だけで決められるものではない。ということで私の意見を言えば、だ め だ。」

 「里見は足利の婿になる気はない。足利の姫君には広く関東で働いてもらわねばならぬ。われらの努力が実って、二人とも鎌倉五山が受け入れてくれることになっておる。そなたの母者も喜んでおる。里見の箔が一段階上がった。鎌倉から野蛮よ、海賊よと言われていた里見の評判がこれで少しはよくなるのだ。いまになって何を言い出すのか。色恋は勝手にやって結構だが、正室として迎えるなどうつけの限りじゃ。二度というな」


 義弘はうつけのつもりも、色恋に目がくらんだつもりもなかった。しかし、控えざるを得なかった。佐貫攻略に結姫の政治力を使うなどと言ったら義堯はそれこそ気絶するか爆笑するかだろう。政治、軍事に実績のない義弘は黙って引き下がざるを得ない。

 13.新舞子の結姫

 義堯は結姫の鎌倉入りの仕事を義弘に振ってきた。これは、義堯の義弘への意地悪やあてつけではない。里見家の西上総担当官であるから、当然の仕事の範囲である。


 鎌倉寺社外交、北条外交は義弘にゆだねられている。


 鎌倉への一行は、奥方、結姫、旭姫、万阿。海ひとつ向うの対岸だからと安房から鎌倉へ行くのに、岡本(富浦)の浜から直接漕ぎ出すなんぞは出来ない。里見と北条とは準交戦状態なのだから、里見の船では拒否されるか襲われかねない。

 だから、六浦の通行手形を持っている船を捜し、捜ししながら乗り継いで行くことになる。結局ルートは上総佐貫から六浦を目指すことになる。保田妙本寺への挨拶があるので、佐貫までは陸路を行くことにした。大崩(地名です。念のため)、山中、天羽の房総往還を行く。


 女たちは輿である。市女傘をかぶっているが、平安時代のような壺装束ではない。軽快な一重の着物で、髪も尼削ぎ(肩までで切る)のセミロングだから、考えようによってはほぼ現代のファッション感覚に合っている。(鎌倉・戦国時代は気候的にもミクロな地球温暖化時代。なお平安時代、江戸時代は逆にミクロな氷期。従って戦国時代は人の身長も大きい)


 女たちが妙本寺の日我への挨拶に行っている間、義弘は上総へ先行する。まず、吉原玄蕃助に仁義を切っておかなければならない。結姫たちを鎌倉へやるのは公儀筋の仕事。里見が佐貫に入りそして留まるのは結姫たちの身を案じてのこと。北条の寺社介入を牽制するためのこと。里見に上総の領土を取る野心はないことを理解させねばならない。上総が統治で難儀なのは吉原ばかりを相手にしていては用が足りないことである。緒方、杉山、内野、庄司、池田・・・・・・数限りないミクロ土豪がひしめいている。


 何はともあれ今日は先触れのあいさつ。その後に結姫たち一行の目一杯の豪華さで土豪たちのどぎもを(少しばかり。あまりどんとやると反発を食らう)抜く算段。そのあと彼らの予想を少しだけ上回る贅沢なみやげの披露もある。


 結姫たちは無事に佐貫郷八幡についた。三日後には八幡浦から船で対岸の六浦に渡る。八幡での宿舎は八幡宮別当寺の本乗寺。神社境内の裏手にある。すぐその下は市場である。狭いながらも市場らしく猥雑で見世物でもやっているのか時折人の歓声が上がる。お万阿はこういうところに来ると意気があがる。


 ところが鎌倉行きが近づくにつれ心配が増してきた。田舎者にとって田舎者よとあざけられるのが何よりつらい。どうしましょうと本乗寺の住職導誉に相談したら、それはごもっともなご心配。田舎者とはその町の土地鑑がない者をいう。その町の東西南北が分かればあとは会話のなかで何とか誤魔化せるものだ。ついて来なされ。


 万阿と結姫ふたりだけで導誉のあとをついて行くことにした。導誉にいわせると鎌倉は八幡様が中心の町で何でも八幡様を基点に覚えれば分かりやすい。ちょうどいい具合にここの八幡様は方角や町のつくりが鶴岡八幡宮に同じ。サイズだけが小さいと思え。と、いうことで鶴峰八幡宮についた。石の階段を下りる。右側に大銀杏はないが、階段を下りきると大鳥居があって、まっすぐな道が海岸の方へ伸びている。これが若宮大路。大鳥居のそばで若宮大路と直行する道もある。これが横大路。横大路を左に行くと頼朝公の墓所、奥へ入って太平寺、結姫さまがお世話になる。東へ行くと杉本寺、さらに鎌倉公方の御所。今は古河におわす。結姫さまの本家さんだ。横大路を右に行くと扇が谷、山内、旭姫様がお世話になる松ヶ丘東慶寺さん、円覚寺、建長寺さん、と、こういうことになる。ここはお寺はないが道だけはちゃんとある。さて我々は若宮大路を前浜に行くことにしよう。


 導誉がてくてく歩く。結姫と万阿も歩く。やがて一の鳥居が見えてくる。かわいい松の双丘にはさまれた一の鳥居は小さくて朽ちかけていた。


 「鎌倉の一の鳥居は新しくて大きいぞよ。材木は十年前に、ここ、八幡浦から運ばれた。」導誉が自慢げに云った。聞けば峰上から湊川におろされた巨木が嵐で流され一時行方不明になったが翌日、神のご加護か八幡浦に流れ着いていたと言うことである。このことについてはかって義堯が鎌倉送付に反対してゴタゴタしている間に起こった事故だっただけにもし善弘がこの場に居たらいいわけの一つもいわねばならない場面であった。


 八幡の一の鳥居あたりは一面松の疎林である。松風がさやぎ、潮騒も聞こえる。家は一軒もない。結姫と万阿は、別荘を物色に来た東京のお嬢様みたいなことになったが、なかなかいい物件だと思ったかどうか。導誉のおかげで二人は鎌倉の地理が太陽の方向と共に頭に入った。


 三人は一の鳥居をくぐって浜に出た。ここが前浜じゃ、と住職。こじんまりとした日本のどこにでもある砂浜であるが何かすがすがしいにおいが漂っていた。磯の香りとはちがう。そして前に青い海が広がっている。結姫と万阿は感嘆したように景色を見渡していた。対岸は江ノ島でなく六浦浦賀である。鎌倉と同じで太陽は山から上がって海に沈む。


 「そうすると、あそこが」、と、結姫が右の岬を指す。「あそこが稲村が岬でござりまするか?」、「おう、そうじゃ。姫様はたのもしや。足利さんの躍進の端緒となった岬じゃな。もっとも新田さんが活躍したところじゃが。まあ、見え方は鎌倉と同じじゃな。もちろん名前は違うが。ここの岬は磯根岬という。稲村が岬より手前のあそこあたりの谷に入ると長谷観音様、大仏様もおわす。」


 結姫がいう「左のあそこの海の中の岩はさしずめ和賀江島?」、「感心じゃの、その通り。実朝公の夢の跡じゃな。そこを丘に入ると光明寺、それから補陀洛寺、九品寺。前浜の寺々じゃ。前浜にはたくさんの仏様が眠っておられる。姫様も功徳を施しなされ。けっして人のためならず。おのれの成仏のためじゃ。」


 結姫はさっきから気になっていた香りを導誉に尋ねた。それはハマゴウと言う名の這い性灌木の葉がにおうのだという。呼吸が楽になるというか何か気持ちが落ち着くにおいだと結姫は思った。

 結姫は、遠くの方に里見義弘を認めた。十人くらいの人の輪の中でなにかしきりに手を振ったりうなずいたりしている。働いている男の姿は美しいと思った。


 「里見はいい跡継ぎを持った。あの青年はなかなかのもの。たのもしい。佐貫の地頭にほしい人材じゃな。」導誉が目を細めて言った。

 14.鎌倉へ

 いろいろな準備があり、結姫たち一行は走水の海に浮かんだ。北条の通行手形を持っていることが前提になるため、新造の船を求めるわけにも行かず、あるもののどれを選ぶかであったが、それなりの船を探し出してきたことも義弘の技量を示すものではあった。


 結姫は幔幕の中で座っているより、船首の柱に持たれている方が楽ということで一人居た。快晴、ベタ凪の海は、駿、豆、房、相、総、武、常陸の山々が霞んで見える。義弘が結姫を気遣って結姫のところに来た。
 「大丈夫ですか?」義弘は相変わらずやさしい。
 「大丈夫です。」結姫はまぶしそうに目を細めて義弘を見上げた。
 「ここは、走水。風が凪いでも潮が速い。船がゆれる。」
 「・・・・・・・・・・」
 「・・・・・・・・・・・・・」


 二人はだまったまま遠くを見つめていた。ここはヤマトタケルが相模から上総へわたった海である。それに気がついた結姫は小さい声でゆっくりと口ずさんだ。海、山にまします神をなぐさめるために、そして自分を気遣う若者のために。
 「さねさし さがむのをのに(相模の小野に) もゆる火の ほなか(炎中)に立ちて とひしきみはも(問いし君)」(君が私の無事を気遣ってくれた。古事記より)結姫が口ずさむ。
 「・・・・・・・・・・」
 「仕事は終わりましたか。佐貫の地頭さん?」


 忙しかったのは認めるが、私への手当てを忘れていませんかと結姫の問いかけには少し皮肉が混じっていた。
 「いや、これからです。いよいよ敵陣です。親父殿(義堯)があらかた馴らしているとは言え、戦国の世、何があるか分からぬ。何かあったら鎌倉で一戦の挙句、姫と一緒に討ち死にもあるかもしれませぬ」、「それは、それは。寺社の町で北条はそこまで野放図なのでしょうか?そうなっても私は、太刀は振れませぬ。私はただ地頭さんの背中にくっついて行くだけしか出来ないのです。」、「そうでもありませぬ」義弘は言った。しかし、その後の話を、すぐにはつながず、万阿の話をした。万阿は有能なおなごだが、本質的にオポチュニストなところがある。彼女の望みは太平寺の看板を背負って勧進比久尼になって諸国を廻ることだそうだが、私が推察するに、彼女は勧進そのものの目的に興味はない。目的も看板に過ぎない。勧進して廻るプロセス、勧進で集まる財宝の高に情熱を燃やすのだ。彼女は財宝に興味がない。自分が集めた財宝の高で悔しがったり幸せになったりするのだ。


 彼女は働く地位を自分で作れない。誰かが与えてやらないと動けない。だからかわいい顔をして権力者に勧進比久尼の地位をねだることになる。私はこういう人は好かぬ。


 一方、あなたは預言者である。正確には預言者になる力があると私は見た。たとえば、あなたが鎌倉御所の跡地に庵を結ぶ。ここまでは足利の他の姫でもあるいは出来るかも知れない。しかし、あなたは、ここで御所をなつかしむ言葉を発することが出来る、そしてその言葉は武者の心を動かす力がある。私はあなたならそのちからがあると見た。北条は慌てますよ私はそう予言します。その時は里見は一番に駆けつけますよ。親父殿は反対するでしょうけれど私は駆けつけます。義弘が断固とした口調で言った。


 「私は、佐貫の地頭さんの対北条鎌倉戦線の先駆け?」、「いや、同士と言っていただきたい。私は北条に対することもさることながら、私は、足利の天下を見てみたいのです。公方の時代は終わったように見えますが、試してないことがあります。尼公方です。関東公方の中興の祖が尼であったと後世に語り継がれる道があるのです。北条政子、または日野富子の道です。あなたならなれる。私は姫を守りぬきます。」


 義弘は時おり分からないことを言う、と結姫は思った。義弘と自分との関係を義弘は武内宿禰と神攻皇后のように見立てているのだろうか、自分は十四才の小娘に過ぎない預言能力があるとも思えない。武内宿禰はおじいさんだからいやだ、若い武内宿禰ならいい。神攻皇后でなく、光明皇后になりたい。北条政子なら分かる気がする。日野富子は知らない。とりとめない考えが浮かぶこれは宿題だ。一方、「姫を守り抜く」、このことばは、結姫は幼い日、馬上でこれを聞いた。この幸せな光景をまた頭の中で反芻した。そして結姫の決意が決まった。お万阿とは別の道を行く、危なく出口の狭い道だが義弘と共に足利の再興に進んで行くと。

 15.青岳尼

 挨拶と土産は本来毒にも薬にもならないものだが、戦国の特に政治の世界では重要な要素である。事前の文書による了解はあるにせよ、最後の詰めは義弘の力量にかかっている。義弘が結姫等を鎌倉の寺に送るに当たって準備したのは、十人ばかりの武者と、武器といえば刀だけ、あとの安全保障は挨拶と土産なのであった。まず八幡宮、次に北条の居る玉縄城、次に町衆に挨拶をし、そして初めて東慶寺、太平寺なのであった。


 六浦からは鎌倉街道を行く。街道は結構にぎわっている。公方が立ち退いて九十年になるが町衆の力で鎌倉はまだまだ都会の体裁が崩れていない。これが北条の力量によるものなのか町衆の自治の力によるものなのか、または寺社の勧進努力によるものなのかを見極めた上で町の賑わいなどを見るのも敵情視察の意味がある。


 八幡宮では別当住職に昇進していた快元に面会した。この時里見と八幡宮とは必ずしもうまく行っていない。先代義豊時代に八幡宮が里見の兵火に焼かれたとの話になっており、また十年前には八幡宮に寄進の材木出荷を里見が拒否した話もある。


 快元はねちっこい陰険な感じのする僧であった。足利義明の娘たちが尼寺に入ることについては功徳だ功徳だと言いながら、里見を前にすると長年の鬱屈があふれて愚痴が止め処もなく出る。義弘はごもっともごもっとも申し訳ない申し訳ないを繰返し、長い間愚痴に付き合った。親父殿(義堯)もやりすぎた。北条を切り離して八幡宮に直接手を差し伸べる策(例えば町衆と結ぶ)はあったはずである。北条の八幡宮ではないのだから。


 玉縄城では、関 時長が城代格で出てきた。職人奉行とのこと。里見には都市の統治のノウハウがない。平和時ならじっくり聞いて勉強したいところだが今はそうもいかない。関は切れ者の繊細な印象の人で、里見がどんな理由であれ無腰で辞を低くして対面にきたことを率直に喜んでいた。散発する里見の海賊行為をやめてくれと何度も繰り返した。義弘はこれに対処することを約束した。戦略のない海賊行為は相手を挑発するだけのことでマイナスが大きかった。関は義弘を話が分かる者とおもったか、この旅のついでに小田原まで行ったらどうかと誘ってくれた。世子とはいえ当代義堯の性格からして人質としての価値は皆無と判断したであろうからこの誘いは純然たる好意だったのだろうが、今度は義弘が国元の邪推を思ってビビッた。これは丁寧に断った。


 東慶寺では長老連が総出で奥方たちを出迎えた。東慶寺にはオスネコも入ることまかりならぬとの世評があったが、なんなく対面所のようなところに男の義弘も通された。長老連と奥方たちは全員が叔母姪・・・の仲である。お互いに手を取り合って大げさな苦労話のオンパレードでかしましい。それが延々と続く。里見が忠義者にて良くしてくれる。扶持も送ってくれるとのこと。佐々木四郎は国元に帰ったが近頃行き来が間遠になった。と、とめどない話が続く。義弘はここでも辛抱強く待った。


 ようやく、結姫と奥方との別れになった。奥方が言った。「安房に来てからそなたが一番変わった。安房はそなたにとってうぶずなじゃ。安房の恩を忘れるな。鎌倉の町中で山一つ隔てて西と東じゃが、これからは会うことも間遠になろう。達者にくらせ」


 結姫も、旭姫も奥方にすがりついた。奥方はさめざめと泣いた。


 結姫にとって別れが続く。太平寺も東慶寺も似たような場所である。やはり女の園へのとらわれの身の感じがする。義弘は思った。考えようによっては、自分を含めて皆とらわれの身。束縛が強いほど、それだけ精神のつばさは自由になる。結姫よ、仏につかえよ、仕えきれば転機がくる。


 「この時におよんでなみだが出ぬ。私は泣いたことがないようなおなごではない。だが、この場で泣けぬことに、私は後悔しない。でも、でも、安房の八年は夢、ゆめのようじゃ。私はあの空を再び見られるであろうか」


 「・・・・・。姫、私はこれにてお別れいたしまする」


 義弘が去る。振り向かず、足早に。義弘が辻を曲がって見えなくなった時になって、結姫の目からなみだがとめどなく流れ出した。


 三か月後、結姫は受戒し得度した。あたら緑の黒髪を仏に仕える身とて惜しげもなく剃りあげた結姫は・・・・・・・・と悲劇、マイナーコードのバックグラウンドミュージックで進行するようなイメージが多いが、当時、尼削ぎのセミロングは破戒者、密通者、覚悟の定まらない女のボデイランゲッジなのでむしろこの格好の方がはずかしい。だから丸々坊主の尼さん姿は別に悲劇の象徴ではない。当時のこと、インテリジェンスを必要とする女の職業で全国に通用するものは多分尼さんぐらいしかない。だから尼さんになるのは憧れであっても、決して人身御供的な犠牲精神で泣く泣くなるものではなかったのである。


 受戒、得度のあと、結姫は廊下を塔中に帰って行く。紫綸子の法衣、金襴の袈裟、水晶の装束数珠輪をかぼそく真白い五指に、紫衣の裾から見え隠れする絹白足袋の先は、むらさきの雲間より雪片のこぼれるに紛れたであろう。(退出姿は、吉屋信子:徳川の夫人たちより引用させていただきました。しかし結姫の戦国当時、足袋を履いたかどうか?それにしても女流作家はどうしても宝塚調になりますね)
 結姫は得度したあと、名を「青岳尼」と改めた。

 16.佐貫の地頭

 天文十四年(1545)。結姫たちは房総の地を離れた。この時代を概観すれば、鉄砲伝来が一五四三年。京都では将軍足利義晴、管領が細川晴元。有力大名としては今川義元、北条氏康、武田晴信、織田信秀、等々の時代である。


 関東では北条による足利(古河公方)、上杉(関東管領)への圧迫が急を告げている。なお、教科書で室町幕府の組織表があって、京都の将軍の下に鎌倉(後に古河)公方があるような形になっているがこれは間違い。京都将軍はあるいはこう主張したかも知れないが、関東の住人にとって公方とは古河公方のことで京都公方の存在の意識はない。


 この頃の房総、特に上総方面の情勢は真理谷武田家の崩壊・衰退過程、安房里見家の進出過程と言える。更にここに、吉原・尾崎らのミクロ土豪の政治的な目覚め、さらに外からの北条の介入が加わる。


 進出といい衰退というがこの頃の領国支配とはどんなものだったのか、調べてみるとおおよそ次のようである。領主は自分の土地を持たず、集税システム(官僚群)を持たず、公方から任命された(多くは僭称だが)ことを根拠にした徴税権だけを持っている。実際の運営は、税収の種類(用役か、米か、物資か、銭か)を含めて、どう分配(公方、貴族、寺社、地頭への分配)するかまで村落ごとの申告に基づいた契約で決める。村落は自治組織であり、一般に領主は村落に介入しない。村落の納税申告は過去の前例や獲得条件の継続からなっており、前例が実態に合わなくなった場合は、合わせる形に修正されるがこの修正も最後は村落の申告と領主の承認という形で成文化される。契約文書は非常に重みがあり、文書が紛失すれば契約者両者は別としても第三者の承認は得られない。領主は徴税の見返りとして端境期や災害時の種籾という名目での貸付、あるいは公共工事などの原資の貸付をおこなう義務を持っている。このように中世の領主政府は「超」のつくほど小さな政府である。しかし同じ時代でも、北条などは貸付業務を拡大させたがる経営体質を持っており、検地を最終目的に、村落の自治システムに直接口を出し、ミクロ土豪などの中間層を廃止し、官僚群を増やした大きな政府を考えている。北条と他大名との差は村落に口を出すか否かである。(北条は農民の箸の上げ下ろしまで口を出す。給料はいいのだろうが給料だけで人は職業を選ばない)


 ある侍が何らかのきっかけで領主になったら、通常、保守(=公方体勢維持派)になる。北条は例外である。日本史が北条早雲の伊豆攻略を持って戦国時代の始まりとしているのは、鎌倉的守護地頭の枠を外れた経営方針で、小なりとはいえ伊豆一国を支配した実績からきている。


 北条と違って保守的な領主は小さな政府であり、公方の官僚のようなスタイルをしているから、領主が交代しても交代時のゴタゴタいくさ騒ぎで村落が多少の影響を受ける(損害は後で戦争当事者のいずれかの派が補填していた)他は、村の生活にはほとんど影響がない。里見、真理谷武田などはこの保守的な領主である。


 一方、守護地頭になれず鎌倉的公方体勢に入れなかったミクロ土豪(中規模地主)は自己の地位上昇志向が保守大名の下では実現出来ないためエネルギーのあるものは革新派になり、北条派になる。西上総の吉原・尾崎等が北条派につくのは現状打破の目的が合致するからである。


 さて、天文十四年から十年間の里見義弘がどんなことをしていたのか元ネタがないので想像するのは困難である。ただ、上に述べた社会の動きから次のようないくつかのエピソードは想像することが出来る。


 年が二年ほどさかのぼるが、里見が上総に介入した事件に、笹子城、中尾城の落城物語がある。いずれも真理谷武田の内紛で、江戸時代に成立した古風な軍記物、「笹子落ち草紙」、「中尾落ち草紙」が残っている。笹子城も中尾城も木更津市東部山中。(東関東館山道の傍)真理谷信隆が笹子城の同属信茂を攻める、意外な反撃に会い信隆討ち死に。信隆派は北条に援軍を頼んで笹子城は落城、信隆派は中尾城に籠もる、里見義堯が中尾城を攻める、と言った内容。戦いの壮絶さ、敗戦の哀れさを強調する物語だが、人の敵味方の関係を追いかけるのが大変である。戦の規模は物語ほど大きくないはずである。しかし佐貫にいたかいなかったか安房からかは別として義弘が戦に出たであろうことは想像できる。このころの田舎戦のこと、物語ほど華々しくも美しくもなかったかもしれない。


 地頭里見義弘の日常生活は、おそらく武将というより役場の職員。居れば頼られ細かい相談事が持ち込まれる。一度相談に乗れば次から次へと相談が広がる。相談以外に、義弘の独特の動きとしては、ミクロ土豪との話し合い、集会である。そこで、義弘は北条の本質を説いて廻ったかもしれない。北条ですら、昔、北条の家来になれ、出世は望みのままとけしかけておきながら、今では「どこへ行ったからとて、人の主などになりようもない世の中。侍とてもやがては人のぞうり取りになってはだしで使い走り。御百姓に精を出すのが一番賢明」と言ってるそうですよ。北条の家来で出世するなんぞは夢のまた夢ですよ。戦の前の証文など空証文ですよ。考えてみなされ、北条と里見が上総で戦いますが、あなた達が里見を敵とします。ここで仮に里見が負けて安房に逃げ帰ったとします。あなた達に恩賞として北条はどこを与えるのですか?上総は曲がりなりにも真理谷でしょうが。その一部を割いてもらえるんですか?安房がもらえるかもなんて絵空事は思わないでしょうね。北条は古くからの村落共同体の破壊者です。この本質を見抜くべきです。と、演説をして、その後は酒盛り。義弘は酒豪ではあった。


 義弘は女性を近づけない。当時のこと、義弘の立場であれば、普通にしていれば、近在の守護地頭、ミクロ土豪から献上品のようにして女性が送られてくる。ところがこれらを相手にしない。その他の女性、例えば遊女などは田舎のことで一人もいない。だから、義弘の周辺の女っけは推定平均年令五十才の賄いばあさん連だけ。その他は男ばっかりの大学のような雰囲気の義弘館である。味も素っ気も何もない。里見義堯は義弘とは離れていてしかも忙しいから普段は忘れているが、義弘の日常生活のこのことを思い出すと、父は苦虫を噛み潰したような顔をして「あのバカヤロウが・・・・」と、つぶやく。


 義弘は暇さえあれば、上総の各地を歩く。地理、歴史を勉強しているようである。佐貫城は、義弘が安房から職人を呼び、手を入れて、だいぶ里見の城らしい構えになった。義弘はまた、公共工事に熱心である。佐貫の八幡の崖道が昔は大雨のたびにくずれて人々が難儀をしていたのを見かねて、独特の切り岸を完成させた。それ以後、大雨が降っても崖はびくともしない。


 また、義弘は父の義堯が容認した以上に足利に関する公共工事を実施した。一つは安国寺の整備と安堵状の付与、さらに鶴峯八幡、岩富寺への安堵状の付与である。この中で安国寺への安堵付与は江戸時代になってからは与えられることがなくなってしまったが、あとの二つの八幡神社、岩富寺への安堵状は領主が変わる都度、常に確認され結局幕末まで新しい安堵状が与えられ続けた。


 これらは地元民への懐柔・慰撫の一環政策であろうが、義弘はそれ以上に足利に対する好みに傾斜していた。これは結姫への思慕の現れと見られなくもない。


 あるとき、義弘は安国寺に庭園がないことに気付き、和尚に問いただした。全国に安国寺建立を提案した夢想礎石は庭園に淫したと言われたほど庭園を好んだのに、上総安国寺にはまったくそれが見られない、これはどうしたことかと。


 和尚は何の答えも持っていなかった。そこで義弘はそれならつくるまでよと、八幡村の山中に蛇行する川をたくみに使った回遊式庭園をつくり、これを安国寺の別院とした。義弘は、完成披露の時、やがてはここに古河の公方を呼んでここに政所を営んで貰うとしゃべったという。人々はその話しの壮大さにさすが里見の若殿はここらのミクロ土豪とは云うことが違うと噂した。


 なお、この別院には、里見義弘最晩年時に、確かに古河公方が移座しました。わずか半年くらいの滞在ですが、これについては後にまた触れます。

 17.尼寺

 尼寺の日常生活など皆目見当がつかない。日常が分からなければその中での喜怒哀楽も分からない、小説にならないので、いろいろ調べてみました。一番参考になったのは、尼さんのブログ。それによると、以下の通り。


 午前:朝が早い。四時前に起床。朝のお勤め(お経)。平等大回有縁無縁の諸精霊三界万霊に回向をたてまつる。その後朝食。般若心経を唱え、合掌してから箸をとる。粥と梅干程度。食事は肉類、魚介類はだめ。飼われている犬猫も修行の身の取り扱いで精進の餌。その後、生活のための雑務一般。掃除、十時抹茶、寺の維持管理(時には尼さん自ら屋根に昇って雨漏れ箇所の確認など)。爪切り、髪切りの場所が決まっている。

 午後:修行(主として座禅)。その後教養(経典の勉強、書道)、年中行事とその準備。社会活動(奉仕、女性保護)。時として布施を求めての辻たち。


 夕方の勤行。


 中世の貴族寺院でもたいした変わりはないと思います。年中行事の中に亡者忌日供養仏事があり、あと、尼寺らしい雛祭り、七夕、お月見などが年中行事として加わったかもしれません。教養修養のなかに吉屋信子さんなど「源氏物語」を入れていますが、これは信じられない。「源氏」は仏教の悟りからは程遠い悪書でしょう。もっとも瀬戸内源氏などというものもあるけど。


 尼寺内の身分は俗世間の身分を引きずっており、また、実家や支援家の経済力にかかって身分が変わります。十才以前では喝食、十三才頃得度して沙弥尼になり、十五才頃比丘尼になります。五山の住持は、正式には将軍による決定となります。結構若く住持になりますが任期は三年二夏が原則です。住持は経済的負担が大きく一年くらいで交代になる例が多かった。住持退任後は長老となって、ここで多少のわがままが言える存在となり、最後は病気や老年で暇乞、途中で婚姻のために還俗することも結構多い。尼さんはお坊さんより戒律がきびしい。比丘尼戒は項目が三百五十あるそうです。仏教の考えでは女は男より迷いやすいからとの理由です。得度、受戒の何たるかはちょっと分かりません。瀬戸内寂聴さんあたりがもう少し尼寺の中身について言ってくれるといいのですが、あのひと俗世間のことと、おんなのまよいばかり言ってませんか?


 以上のような日常生活の上で、結姫改め青岳尼からどんなエピソードを作るかですが、一応三つ作ってみました。


 地頭との対立:青岳尼になって五年後、いまや太平寺の若き指導者であった。ある時、上杉軍が鎌倉に侵攻してくるとのうわさが流れた。上杉軍は来ると所構わず放火して廻るので、すわ一大事ということで、町民が荷物を避難する目的で八幡宮やその他の寺社境内に投げ込んだ。太平寺にもいくつかの俵物が投げ込まれた。幸い、うわさは本当にならずやがて騒ぎが収まったのだが、この時になって、鎌倉の地頭が、投げ込まれた俵物に課税すると言い出し、またさわぎになった。


 この時、青岳尼は住持ではなかったが住持が尻込みするのを激励して、太平寺に立ち入った地頭の一団を相手に、廊下から大演説をぶった。


「地頭の沙汰とて男がいきなり尼寺に押し入るとは無礼のきわみである。その理由が俵物を改めるなど緊急でも人民のためでもない仕事であってはなおさらである。礼節の小田原衆はどこへいったのか。しかも、境内に投げ込んだのが、敵の下地の百姓なら知らず、みな北条方成敗の地の者ではないか。他寺他社のことは知らず、当山はこの課税を認めるわけにはいかぬ。その荷物に手を出したら最後、そなたたちは太平寺を敵にしたと思え。私は、小田原に掛け合い、古河に掛け合い、必ず話を通すからその覚悟でおれ。」 地頭たちはすごすごと引き上げた。いにしへの北条政子の再来だと人々がうわさした。


 義弘への思慕:幼き頃のほのかな恋物語を男は意外と生涯大事にするが、女はさっぱりと忘れるらしい。青岳尼が尼寺の生活の中で、義弘を思い出すことは間遠くなった。しかし、鎌倉の年中行事などで北条家の若い侍たちを見るにつけ、義弘のあるときの動作や表情がふっと脳裏をかすめた。そして、つぶやく。北条家は教育が行き届き礼儀の小田原衆といわれるほど姿のいい若者が多いが、里見太郎義弘よりよい男はいない。何も言わずに別れた彼を冷たいとあの時は思ったが、何も言えなかったのではないか。 義弘は安房の空の下、今、何をしているのやら。相変わらず足速にスタスタ歩いてむずかしい顔をして地頭の仕事をしているのかしら。義弘の影に自分以外の女が居るかも知れないという当然の推理を青岳尼は思いつかない。確信的に青岳尼は、義弘は自分を待っており、自分が合図をすればどこに居ても迎えに来てくれるものと思っていた。そうは思いながら義弘のことを思慕することは間遠くなった。


 父祖の地訪問:明道尼と青岳尼。昔の於万阿と結姫。今も実の母娘のように仲がいい。明道尼はやがて西国へと勧進に旅立つという。於万阿の時代からの夢を着々と実現させている。ひるがえって娘の私は・・・・・鎌倉に来た当初の意気込みは何一つその端緒にも達していない。精神的にも安住に親しみすぎていないか。


 青岳尼と明道尼はふたり祇園会の準備で忙しい鎌倉の町を行く。東国観音霊場の杉本寺を参詣するのが第一の目的。太平寺の山門を下ると右側の小さな八雲神社の鳥居や狛犬にカジメがかけられている。あたりに磯のにおいが漂う。この匂いはなつかしい安房の匂いだと青岳尼はおもった。神前にアラメ、カジメを奉げることはあっても鳥居などにカジメを乗せる風習は安房にはない。


 鎌倉の町衆の祭りではその昔、稲荷、羽黒、五大堂、祇園の町神輿が公方の御所へ集まったという。神輿や拝殿、旅所の格子にはショクサ(カジメ)がかけられ、茅の輪がそこかしこに作られ鎌倉の町衆の祭りはにわかに浜辺の祭りになる。浜辺の祭りでは安房を思い出す。あの太古のような大きな魚を担ぐ安房を、そして義弘を思い出す。


 西御門から二階堂、荏柄神社のこのあたりは政権の中枢が去って、道幅がにわかに狭くなった。その分町衆の生活が見えて、親しみやすい。西側を滑川が深く地をえぐって小さく可愛く流れ、金沢街道に沿って西に開いた谷津はどこか安房の滝田城の界隈を思わせる。


 杉本寺は急な階段の上にこじんまりとあった。山の斜面を削って立てられているため三方が土塁のようになっている。杉林の中のお寺は一日中線香が絶えない。上下身分の差など無関係に女人の参詣が多い。青岳尼たちもこれらの人に混じって、堂に上がりお経を唱え迷い多い自己をみつめ祈りを捧げた。ここからいつの日か、東国三十三箇所巡礼に旅たつのもいいと思った。三十三箇所の結願の地は安房那古観音である。


 金沢街道を東にたどると、足利氏有縁の浄明寺の東、青砥橋のそばに公方屋敷跡はあった。往時は知らず今では五十メートル四方の狭さに涙が出る。草ぼうぼうの荒地である。鎌倉の町衆はいにしへの公方を懐かしみ、「いずれの時か古河の公方お帰りあらんとて畠にもせず今に芝野にしておけり」とのことであった。公方が鎌倉を去って百年にもなっているのに青岳尼は鎌倉の町衆のこころをありがたくおもった。

 18.戦国関東最終段階

 天文十五年から二十年。この頃の日本史おさらい。
  武田晴信、信濃へ進出。
  長尾景虎、越後春日山城に入る。ちなみに景虎と里見義弘は同年令説と義弘が四つ上の説がある。 二人は同じ年に死去。
  斉藤道三の娘、濃姫、織田信長(この当時当主ではない)に嫁す。
  松平竹千代(後の徳川家康)銭百貫文で織田家に売られる。
  三好長慶、京に入る。
 天文十五年の川越合戦から天文二十一年、長尾景虎が遠征で三国峠を越えるまでの関東の状況を概観する。


 川越合戦は、川越城に籠もった北条綱成が三千の兵力で公称八万の上杉、足利連合軍(上州、武蔵、下総)の猛攻に半年以上耐え、さらに城包囲軍の外側から北条氏康が野戦夜討ちをかけ、上杉朝定は戦死、上杉憲政は上州平井城に、足利晴氏は古河に逃げ帰ったものである。連合軍の攻め手は、大混乱の内にそれぞれの領国に引き上げたのは間違いがない。まさに関東破滅であった。これにより川越以南の武蔵の地はあるものは北条に屈服、あるものは滅亡していった。そしてさらに重要なのはこの敗戦で関東八州の雄が北条ということに決まり、関東八州だけの勢力で北条に立ち向かうことは出来なくなってしまったことである。古河公方、関東管領の権威が失墜したのはもちろんである。


 この情勢下に、越後の長尾景虎が関東に出てくることになる。長尾が目論んだというより、関東の各氏が長尾の名声(兵士の動員力と強さ)に目をつけ、長尾を呼び込んだという方が正解であろう。里見義堯・義弘父子も好むと好まざるとに関わらず長尾景虎に接近せざるを得なくなった。


 一方、北条は、甲州武田、駿府今川と三国同盟を結び、西からの脅威を避け、関東攻略に専念する。武蔵から下総に進出し、あるものは屈服させ、あるものは滅亡させ、毎年毎年勢力面積が広がって行く勢いになった。房総で残るは半島の突端の里見・正木くらいということになった。


 最後に長尾だが、甲州武田と信濃の派遣争いをしながらの関東攻略となる。本州を縦断する遠征の困難さに加えて、長尾景虎の独特の美学があり、さっと攻撃するがさっと引き上げ、長居しない。北条は無理強いせず、城の中で首をすくめてじっと待ち、長尾が引き上げるとまた出てくることの繰返しが続く。


 いったい、当時の兵隊の遠征とはどんなものだったのか、長尾がなぜ関東に居座ることが出来なかったかはいろいろ説があり、どれももっともらしいが、どれも正しくないのかも知れない。


 遠征については、司馬遼太郎の「箱根の坂」が参考になる。北条早雲の時代だから天文の今よりざっと百年前だが、大差ないと思われる。それによると、次のようになる。


 武州川越にあっては、あきあきするほどの滞陣がつづいている。「聖の布施屋のようだ」と、早雲の手の者どもは笑いあった。布施屋より、むしろ伏屋という語感が近い。雨露を凌ぐ屋根だけがあって、やっと伏せさせてもらえる宿ということである。小屋は一日や二日の露営のためのものだから、滞陣になると、体がつかれてきて、気も不安定になってしまう。さらには食料である。早雲の場合、自分の軍を使ってうまく補給しているために、たれも食いはぐれはいないが、他の隊は、かれらを派遣したもとが補給を忘れているのか、乞食のようにうらぶれてしまい早雲たちの陣屋に食を乞いにくるのである。まさに聖のふせやであった。一度食をもらった武者は早雲の情義を忘れなかった。そのなかに小田原(早雲の当時小田原は北条氏の領域ではない)の大森氏が多かった。


 兵隊に行った司馬さんの実体験が入っているので貴重である。戦国初期だからなにぶん文明的でなく原始的だからの実態ではない。補給を忘れた(忘れていないが不可能で、そうさせてしまった行動は、実質忘れたに等しい)軍隊は二十世紀にもあった。太平洋の南方戦線は戦死の一番の原因が、「餓死」である。餓死を戦死といえるか、南方戦線は戦争でなく棄民であろう。この辺から「戦死者」を祀るとされる靖国問題のひとつの切り口がある。


 長尾の関東長期滞陣が出来なかった理由にこの補給の問題があるのは確かかも知れない。しかし、その対極に秀吉の小田原攻めをあげ、これを石田三成等の事務官僚の優秀さによる補給の勝利と単純に考えるのはどうかと思う。石田に出来て長尾になぜ出来ないのか?こうみてくると堺屋太一さんの経済産業省指導至上主義、万博主義の論説を見ているようでむなしい。カンバン方式を見習っても一向に儲からない関東勢が、「それはやり方が悪いから。理論は正しいのだ」と尾張勢から叱られているような感じがしてならないのである。

 19.久留里城

画像は久留里城本丸から見た久留里古戦場。田んぼの中に細長くうねっている林の中に小櫃川が流れていて久留里城の外堀の役割を担っている。北条綱成本営は画像中央の左寄り、遠くの山すそあたりに展開。北条攻撃軍は画像中央右寄り田んぼの中の建物あたり。


 主戦場は中央の集落あたりで北条軍の半渡(渡河の途中)に乗じて里見が左から、正木が右から攻める。


 戦国関東の戦の発端は、足利公方の命令を大義名分とした北条による侵略か、守護地頭家の相続争いである。しかし、今回の北条の上総攻めは足利秩序の名分をもはや着飾らない露骨な侵略であった。北条は正義と平和を築くために常に戦争を仕掛ける。


 しかし侵略される側は、それが正義の味方であろうが、グローバルスタンダードであろうが、時代の趨勢であろうが、座して侵略を許すわけにもいかない。里見義堯は、遠く上州の地に、越後の長尾景虎が関東に出兵するとの確報を得ると、下総に打って出ることにした。(北条に対する一種の挑発。長尾との連携なし)


 天文二十一年七月、義堯は千葉の有吉城を囲んだ。有吉城は北条氏康が里見打倒の策源地として、昔の小弓公方の御所近くに築いたものである。安房、上総の兵三千騎。先陣は堀口四郎左衛門、安西中務山本清七、正木大膳である。長陣を張って囲むこと数旬、なかなか守りが堅い。


 里見の有吉攻めを知った北条氏康は、里見を急追すべく小田原を出発したが里見の読みが当たった。長尾景虎が上州三国峠を越えたために、氏康は方向を転換し上州に向かった。里見はこの間に、長居は無用と囲みを解いて上総に帰った。里見は長尾と連携すれば北条との戦が仕掛けられることを身を持って学んだ。


 以下、小川吉秋「里見義堯」より一部引用します。


 天文二十二年四月。いよいよ北条軍の上総侵攻間近という報を前にして、義堯は、土岐頼定、里見義弘、正木時茂を久留里城の一室に集めた。北条の軍勢を久留里城に引き寄せる作戦は里見の大戦術であった。周辺の造海城、佐貫城、椎津城それぞれに籠城の構えを取るかに見せ、敵を一歩一歩山奥に招き寄せ身動きのならない地形に誘い込む。相手の兵站を伸ばし、こちらは積極的な攻撃をせず、城内が一致団結して長期の籠城戦に持ち込む。相手の補給が絶えるまで持ちこたえるのが主目的であった。北条との戦いで積極的に出るのは長尾との連携がなった時だけである。長尾に里見を盟友と認めさせるためには、どれだけ長期間籠城出来たかを見せなければならない。籠城戦は内部の疑心暗鬼と、安易な冒険主義で崩れることが多い。義堯は諸将に、念には念を入れて口をすっぱくして、この戦術を頭から叩き込まねばならない。


 土岐頼定は、城を包囲されるのと、脱出するのとそのタイミングを気にして何度も義堯に質問した。城は脱出のための尾根道があるのが普通だが、普通その道は敵方に早くに把握されてしまう。第二の道が大事なのである。頼定は老練な武将で手堅い手腕があるので義堯は心配していない。正木時茂は、本人も勇み足の気があるが配下がさらに輪をかけて元気なだけに兵士の逸りたちを押さえられるかが心配である。正木は竹岡から佐貫、富津、周西の海岸から上陸して山道に入ってくる北条軍を、途中、兵を埋伏させ、さんざんに迎え撃つことを主張した。義堯はいう。「それは兵の分散になる。敵は複数の上陸地点があるだろうからそれに対応しようとすればその倍の場所に埋伏して準備しなければならない。

 だから結局小人数になって各個撃破されてしまう。いいか、何度も言う。どんなことがあっても討って出てはならぬ。この戦いは長引かせねばならない。味方を一兵も損ずることなく、敵の消耗を待つのだ。補給路の長い敵は必ず音を上げる。手も足も出さずにじっと敵の包囲に耐えるのは容易ではない。敵は田畑、家屋敷を焼いたりあらゆる挑発をしてこよう。だが、いまはこの挑発に乗って戦を仕掛けたら必ず負ける。」義堯は説いた。しかし正木は納得したかどうか。義弘が口を出す。義弘はおおむね無口で何を考えているか分からないところがある青年だった。「御屋方様の言われていることと、正木様の言われていることは同じだと思われます。里見の今の実力では北条と真っ向勝負は出来ません。籠城で時を稼ぐ、相手の補給の絶えるまで負けがなければ味方の勝利でしょう。ただ、周辺土豪の評判、住民の見る目を気にするから正木様の言われるようにひと当て当たって勇ましさを見せておきたい、と、こういうことでしょう。

 ただ、土豪は別として住民の評判は気にしなくていいです。私が手当てします。北条の乱暴狼藉による損害は必ず補償すると言えばいいのです。前もって言っておくのです。迷惑をかけるが、将来には必ず悪者北条が上総にこないように追っ払うからと、いくさの前に大宣伝です。こうすると北条も乱暴狼藉がやりづらくなりますよ。もうひとつ土豪の方は、北条から随分誘いが来ているようです。私の方からはなにが約束されていようがそんなものは空証文だと言い続けているのですが、こればっかりは信ずる者は信じますからな。土豪については籠城内のうらぎりの手引きの動きが心配です。」義弘の発言はどこか他の人とは違った視点が感じられ、説得力があった。里見軍と言っても里見直属は千人程度のもので、それだけに友軍の将には命令でなくお願いになる。正木の言動を押さえ込んだ義弘の説得には、義堯もある意味救われた感じがした。


 以下、深沢七郎「南総里見太平記」より一部引用します。


 天文二十三年十一月、北条氏康の下知を受けて、北条綱成、富永、多米、北条、藤沢、葛西、田中、和田、波多野、早川以下一万二千余騎は、久留里城へ押し寄せて、向かいの郷に着陣し、日野、松原、葛原辺に陣を布いた。


 里見家も土岐頼定、正木時茂、鳴戸(成東)の忍足、湯名の山本、一宮の須田、請西の茂木、市原の忍らの四千騎を、大手、搦め手に配して一戦に及ぶ。北条方、田中美作ら、小櫃川を渡って、大門で正木時茂と渡り合い、里見勢敗北して獅子曲輪に兵を引いた。これを里見方では「峯下崩れ」という。翌日、正木ら前日の敗戦を無念に思って、大門先へ打って出、川を隔てて接戦。北条勢打ち負けて討ち取られる者多数、という。


 越えて天文二十四年(この年、弘治と改元)三月、再び北条綱成、藤沢播磨らが二千余騎で攻め来って、久留里城の向かいの郷の葛原に陣を布いて盛んに攻めたが、またも小田原勢は敗れて引き退いた。里見方は長追いを制止して諸兵を城に収めた。


 すなわち、小田原勢は二度にわたって久留里城を攻めたが、戦果に見るべきものがなく、里見の懸命の防戦の前に兵を収めて退却していった。

 20.反撃

 話の前に当時の兵士の構成について解説します。「里見軍三千騎」などというがこれらは全員が武士だったのか疑わしい。大将、土地持ちの豪族、少し下がって知行取りあたりを「武士」というのだが、それらは多くても半分ぐらいで、あとは給金によって雇われている人々が残りの半分といったところではないだろうか。織田家あたりだと給金で雇った人々を大抜擢して一軍の将にしたりしているが、当時の印象では随分いかがわしかったであろう。給金雇われの人たちは、農民の次男坊・三男坊、職人くずれ、山稼ぎ人、欠け落ち人などといったところだったでしょう。


 話しを戻して、北条の久留里城攻撃は、里見義堯の慎重な戦術によって何とかしのいだが、「武士」は弓矢の家を自認しているのだから、自分の領土を好き勝手に蹂躙されてだまって城に籠もっていたのでは、武士の分がたたない。何らかの反撃がなければ周辺土豪や住民達にしめしがつかないのである。それの一環として、里見義弘は三浦新井城攻撃を義堯に進言した。新井城は盟友正木にとって父祖の地である。このことも新井城攻撃の理由になった。父祖の地奪還である。実は義弘にはもうひとつ奪還するものがあったが、これは義堯には告げない。


 義弘は、長尾景虎が上州倉田城の救援に駆けつけるとの情報を得て、今が新井城攻撃のチャンスではないかと進言した。義堯はなおも渋ったが、最後には折れた。新井城攻撃だけに限定して深追いは絶対しない約束であった。攻撃に安房衆五千を当てた。


 弘治二年九月二十五日、岡本の浜から百五十余艘の軍船がすべるように出発した。里見義弘、正木時茂、酒井、忍足、等々の面々。正木は特に張り切っている。


 おりから、西風激しく大雨しきりにして暗さも暗し、小田原勢油断のところへ一気に押し寄せ、新井城に攻撃を仕掛けた。小田原勢は思いもよらなかったので、鎧、カブトを打ち捨てて馬に鞭打って逃げ去った。義弘は深追いをやめさせ、新井城の守備固めを命じた。約十日持ちこたえさせる予定である。
攻撃があらかた決着がついた。義弘は後事を正木にゆだねると一人(と、言ってもお付き十名付き)小船にのって鎌倉材木座を目指した。


 実は、義弘は安房衆とは別に、上総の衆二千を金沢隊として編成し、上総佐貫八幡浦から六浦を目指させていた。(義堯には内緒)途中、行軍では、出来るだけにぎやかにたくさんの軍旗をなびかせ、六浦から金沢街道を経て難所の朝比奈切り通しを力づくで突破せよとしてあった。金沢隊には土地での乱暴狼藉を禁じ、ただひたすら材木座に抜ける(引き上げの舟は六浦から回航)ことだけを命じていた。こちらも予定通り進んでいた。北条は鎌倉を防衛戦略拠点と見ていないため、朝比奈も難なく通り過ぎた。行軍はにぎやかに進んでいる。里見が朝比奈から入って鎌倉を攻撃していると、うわさが津波のように四方八方に広がった。皆、誰もが鎌倉の東に注目していた。


 ところが当の里見の大将、小船一艘の義弘は鎌倉の西の材木座にいた。ここで、義弘はさらに不思議な行動をした。小船に乗ったまま、滑川に漕ぎ入れ、舟底が岩に当たってがりがり音を立てるのも気にすることなくどんどんとさかのぼって行く。場所によっては全員が下りて舟を引っ張るところもあるが、それにしても速い、速い。この種の操船に手馴れているのであろう。声も立てずあっという間もなく上がっていく。高い両岸から時おり坊さんや住民が不思議そうに見とれるが、正体をつかむ前に遠ざかって行ってしまった。


 義弘が金沢街道の岐れ道の辻に立ったのは、材木座からわずか三十分後、そこから太平寺三門に着いたのはわずか十分後だった。西御門の街はまったく森閑としていた。

 21.再会

 計算によると里見義弘三十一才、青岳尼二十一才、ほぼ十年ぶりの再会。場所は鎌倉太平寺。義弘はかなり遠い背後に軍勢を控えさせているとは言え、まったくの丸腰、単身である。もっとも単身だから太平寺に簡単に入れたわけではある。この場をドラマとしてどう盛り上げるかは作者の文才にかかっている。小幡春江さんなどは「すでに仏に仕える身、今となって安房に戻るなど思いもよらず」と、泣きくずれるのを義弘が説得してなんとか連れ出すことになっている。しかしこれはどうもパッとしない。小川由秋さんなどは、直接描写を避けて、義堯がそのニュースを聞いて驚いた、あの馬鹿がどうしようもない、ということにしている。その他の作者は、「海賊が尼さんを拉致して行った、野蛮ではあるが快挙だ」といった描写である。皆さんどうもパッとしない。

 テレビドラマに仕立てる人は居ないのでしょうか。そこで・・・・デン助頑張りたいのですが才能の限界、そのため雰囲気だけになるかも知れませんが、とにかく書きます。その前に、まず二つの短歌を紹介します。「再会」とやがてしばらく後に「結姫の死」があるのですが、この二つの短歌をテーマに進めることとします。

 竹内敏夫、大正十三年頃の一高(現在の東大)短歌会の人。破調で独特の透き通った恋の想いを男の側から表現する。亡き夫人との若き日の邂逅の時「ふたたび群衆のなかにめぐり遭ひてわが見返れば眸合ひにけり」。恩師の夭折した愛嬢のおもかげを追って「先生の御子多く逝きぬ才たけて見目輝ける君さえや今」。二つ目の短歌、ついこの間まで「お嬢様」はインフルエンザなどであっという間に亡くなったものです。今時のお嬢様はちっとやそっとではとても死にそうにないほど丈夫ですが。

 義弘の出現は、最初から見ている人がいたら、文字通り何もないところから湧き上がるようだった。もちろん見ていた人はだれもいない。里見義弘は太平寺では大旦那のひとり。金は出すが口は出さない優等生。こんな大旦那が単独で事前連絡なしに太平寺を訪問するのは異例中の異例。


 取次ぎの尼は不審に思ったが住持に伝えざるを得なかった。この時の住持は青岳尼その人だった。
 「・・・・・・・・・・」取次ぎから佐貫の地頭が住持に会いたいと一人来ていると告げられた青岳尼は鎌倉での生活がこれで終わるのだと思った。
 「その人は佐貫の地頭と名乗ったのか?」、「ハイ、佐貫の地頭が走水を越えて姫に会いに来たと、こう告げよとおおせられました。」
 青岳尼は鏡を見た。毒々しいよそおいで自己を武装するのがふつうの女の性とすればそこから遠いところにいる青岳尼だが、義弘が来ているとなれば鏡で我が姿を点検しないわけにはいかない。


普段から戒律などとは別に白粉も紅も刷かない青岳尼は客殿に向かった。そこは去る十年前、義弘と別れた場所だった。あの時義弘は一言もなぐさめの言葉も、約束の言葉も吐かなかった。


 義弘は仁王立ちになって青岳尼の歩みを凝視した。青岳尼と眸が合った。わずかに青岳尼のくちびるが横にゆがんだのが変化だった、と、しかし、別れの時には出なかった青岳尼の涙がとめどなく流れ、それでも、青岳尼は瞬きも忘れて涙を流しながら義弘を凝視した。


「姫、結姫、私は姫を迎えにきた。時間がない、このまま私と外に出てもらいたい。」義弘は宣言するように言った。青岳尼はそれでも涙を流しながら一瞬たりとも義弘から目を離すのを惜しむように凝視し続けた。十年の歳月はゼロになった。結姫はかすかに義弘にうなずき返した。それが承諾の返事だった。

 22.安房の海賊、逗子沖を帆走

 義弘と結姫が岐れ道の辻に立ったのはそれから一時間後だった。上総衆の金沢隊は今頃、朝比奈の切り通しを越えて先頭が十二所(地名です。念のため)あたりにいるのかも知れない。気のせいか、風の向きによって、かすかにおたけびが聞こえた。しかし、今も西御門の町は森閑としている。


 結姫は着の身着のままで家出したみたいになった。「外泊に女は急に旅立てない」ものらしいが、やさしい義弘のことだからその辺は準備万端行き届いていたかも知れない。なお、現実のしがらみは後からワンサカ押し寄せて来る。例えば、住持がふっといなくなった太平寺の狼狽、ニュー関東管領を自認している時の総理、北条氏康の、「してやられた。顔に泥を塗られた。このままでは捨て置かぬ」との歯軋り。慎重居士里見義堯のあきれ顔と、北条がどう出るかの恐怖心、等々である。当時としては若くもないが、まあ若い二人は今はそんなわずらわしいことは考える余裕もなく、敵地からの脱出におおわらわである。義弘は舟で逃げるという。余裕はないが両人は現実遊離で楽しかったかもしれない。


 ストーリーはお城から脱出する王子と姫のような按配になった。舞台は鎌倉の滑川。この付近一帯は地層が第四期と若いため、浸蝕が速く川が谷を刻んで、川の両側が切り立っており、女の着物姿で水面に降りるのは無理。自然に義弘が結姫をお姫様ダッコをせざるを得ない。(現実にはオンブすることになるはずだが、ビジュアル的にどうしても譲れない。ここは是が非でも義弘に頑張ってもらってお姫様ダッコを強行する)結姫は恥ずかしさとうれしさと、不安定さで嬌声をあげた。


 季節は盛秋で、水はすでに冷たかった。台風の余波で風が少し強い。舟はライン下りのように水しぶきを上げながら滑川を走り下りていく。


 材木座の海岸に出た義弘らの舟は小さな帆を上げると帆走を始めた。西風の追い風だから舟は矢のように進む。時おりぴしゃぴしゃと波が船底を心地よくたたく。船尾からはアワ立つ波紋がすばらしい勢いで遠ざかっていく。そしてそのすべてに秋とはいえまだ強い日差しが降り注いでいた。


 「いい風だ。こんないい風はめったにねえよ」、と、顔が真っ黒でヒゲモジャの典型的なメタボ体形の男がにこにこしながら結姫に小さく会釈した。メタボはほとんど裸である。「こいつは、滝田城の田楽の時、姫に稲苗を受け取ってもらえた若者のなれの果てだ」、義弘が解説する。結姫は田楽は覚えているがその男は思い出せない。結姫はあいまいに笑いを返して会釈した。「姫様は相変わらず美しい」ヒゲモジャが大声で宣言するようにいった。結姫は生まれて初めてのセーリングにその醍醐味を感じたのか気持ちよさそうだった。義弘は結姫の顔を見た。色白の結姫はすでに顔が赤く日焼けしている。その上気したともとれる顔を義弘は美しいと思った。結姫はニコッと義弘に微笑を返した。「尼の身では思いもよらぬ舟の乗りごごち。こんなものがこの世にあったのか?」、ヒゲモジャが口をはさむ。「船乗りにゃ、珍しくもなし、面白くもなしだよ、姫様は舟が気にいったかよ。じゃ。またこんどは安房の浜に行ってんべえさ。海女がどっさりアワビを取るとこ見せてやるぞ」、「ありがとう」


 舟は、逗子、葉山、子安、長井、城ヶ島と、後の世のヨット銀座を帆走する。後年では同じヨットを走らせるにも、葉山沖を走るのと千葉の新舞子沖を走るのでは走っている当人の心持からして違う。逗子、葉山と来れば田舎出のサルにブタにカッパの三蔵法師の家来でも当人は裕次郎、加山雄三になりきってしまうところがある。こうなった理由は、鎌倉と御用邸と横須賀海軍の三点セットがきいているのだが、中でも鎌倉文化人の影響が大きい。親戚に財閥の流れがいて、当人は帝大でサルトルやマルクスを論じながら鎌倉に別荘を持ち、貧弱なヨットを持ち、お嬢様にピアノを習わせて浴衣でスイカを食っているというような格好を思い浮かべて下さい。

 それはとにかく戦国の今は義弘は文化人でもなく、それに引け目を感じてもいない。ただヨットでなく、帆掛け舟のような四角い帆で帆走しているだけである。義弘は夏目雅子の三蔵法師のような結姫を見、家来のサルのような男を見てふっと気がついた。「お前、さっきから背負っているものは何だ?」男はにやりと笑った「ヘイ、実は、太平寺から本尊を持ち出したんで・・・・」「ウワー、お前何でそんなことをしたのか?」、義弘は頭をかかえた。現実のしがらみの種がひとつ増えたと思った。「すんません。姫様をなぐさめるつもりでしたこってす」


 結姫は率直に、そのものたちが自分を大切にしてくれていることを感じて有り難いことだと思った。


 義弘たちの舟がしばらく進むと、東の海から大きな船団が現れた。ふっと気がつくとあたりは上総の舟だらけになった。五艘十艘と隊列を組んで、ある隊は南西に走り陸から離れ、またある隊は沖から北東に走り陸を目指している。まるで義弘たちの舟の周りで踊り狂っているようなことになった。結姫はその壮大さに目を見張った。「いなづま上がりで風上に向かっているのです。鎌倉の材木座で上総の兵を収容します。姫は新井城で一回休んでもらって大きな船で走水を渡ってもらいます」と、義弘が説明した。


 舟が走水を半分ほど渡った頃には、結姫はすでに海賊の親分の女房になりきっていた。

              <房総里見家の女たち異聞その3に続く>