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岩富寺の新詳細ガイド




 新しい岩富寺解釈に基づいて新しい岩富寺ガイドをします。

 岩富寺は古代の須惠郡と天羽郡の境界の分水嶺の丘陵尾根上に位置し、現代の地理で云えば佐貫地区で館山道と国道127号線の間の1.5kmを寺域とする古代からの寺で、奈良の大仏建立時に佐貫の優婆塞(うばそく)が派遣されたとの東大寺文書があり、平安時代から鎌倉、室町と連綿と続く火葬墓がある寺です。従って言い伝えや世に知られない古文書の宝庫です。宗教学的には古代鹿野山蝦夷の宗教、山岳山伏信仰、鎌倉時代の真言宗などが入り交じった寺です。

 このページでは、君津市作木から出発して岩富寺の表参道を歩き、岩富寺では境内近辺を深く散策して、滝の沢、馬王台を見物し、佐貫脇参道を見て、昔の須恵道を通り三百坂、二条台古城から郡ダム湖まで歩きその各所で故事来歴をガイドしていきます。

 なお、故事来歴については「岩富寺縁起の世界」や、「岩富寺絵図解読」などのページを参照して下さい。

 また挿入されている画像は、各項目最初に紹介された年月でなくまったく別のタイミングで撮られたものも含まれていることをあらかじめお断りしておきます。

岩富寺・二条台古城・郡ダムウオーキング(前編)

 君津市作木グランドゴルフ場から君津市郡ダム周回道路まで君津市と富津市の境界を歩きます。 ここで紹介する写真は2016年2月7日に実施されたものです。このコースはヘビ・イノシシなどの獣害の関係から歩くのは秋から冬が良さそうです。

 作木ゴルフ場から出発します。

 目的の房総往還(郡←二条台←岩富寺←鹿野山コース)に取り付くまで2コースあります。こちらは本来の古道コース(現在は廃道)この急坂は岩富寺絵図にある「白坂」だと考えられます。

 難所を乗り越え館山道の横断橋を渡ります。この館山道工事によって、岩富寺絵図にある行基伝説の「花立て」遺跡がなくなったかもしれません。

 下道を遠回りして写真の奥=南の方から来るとやはりこの横断道に到着します。さてここからウオーク開始です。

 崖の根っこと苔が美しい。

 

 土塁状の崖が続きます。

 土塁が途切れて下界が見える事があります。館山道が見えます。

 

根っこと苔のハーモニー

 

 ようやく先が見えてきました。

 このコースの魅力は土塁の道です。土壁に生えるコケ、飛び出ている根っこやスミレなど小植物がかわいいです。岩富の土塁道は「岩富寺縁起の世界」にある上総名所の笠森観音の参道に似ています。

 木漏れ日(こもれび)の中での休憩と解説。

 時代は不明ですが石組みも散見されます。

 作木(つくりぎ)からの参道の終点が見えて来ました。

 ふっと見上げると鶏小屋のような、由緒がありそうな建物が見えて来ました。

 岩富寺仁王門に到着しました。

 仁王門の木組みです。現在は全体がベニヤ板で囲われ、屋根はトタン張りで見る影もありませんが木組みは精度が高い造作で材料も総けやき造りとみました。

 

 境内から仁王門の外を見ますと木々の間から海が見えます。岩富寺は山寺のようで実は海の影響が大きいのです。気候に恵まれれば潮の香りがする吹き上げの風が上がり、真正面には富士の霊峰が望めます。

 仁王門をくぐってすぐ左側に弁天様の石宮がありました。

 本堂はまったくの民家造りです。

 弁天様のとなりに骨堂跡に上がる階段があります。登って見ると・・・・・

 骨堂跡です。起源は奈良時代頃からの火葬骨埋葬場。その後大塔(多宝塔のような建物。根来寺大塔が参考になる)、さらに元禄の再建時は鐘つき堂があったと見られます。

 骨堂跡の西に富士山が望めます。

 この場所は本来火葬骨の納骨場でした。平安から鎌倉、戦国、近世まで連綿とつづく祭儀跡です。

 今でこそお寺とお墓はとなり合わせが普通ですが、聖徳太子の頃から平安中期頃までの日本(奈良)仏教は人の死体を忌み嫌い、高僧といえども亡くなれば聖なるお寺からなるべく遠ざけました。 聖なるお寺の朱引き地に近接して骨堂を置くのは真言律宗から始まるとされます。

 観音堂に戻ります。ガラス戸がきれいに磨かれています。掃除が高頻度で丁寧なのか汚れにくい環境なのかどうなんでしょうか。

 観音堂の後ろの空き地です。ここは太平洋戦争終戦の数日前にムスタング戦闘機に銃撃され焼失した旧観音堂跡地です。

 その旧観音堂。残存する唯一の写真です。建造時期は元禄時代です。

 戦闘機の機銃掃射で火事になるかについて。機銃には100発に1発ぐらいの割合で夜間照明用の曳航弾が入っていますのでこれの火花で火災になったと思われます。

 なぜ山寺などを銃撃したのかについて。おそらく九十九里浜沖の空母に帰還するための準備作業で残った爆弾、弾丸、燃料を捨てるためです。着艦にトラブった場合の事故を最小限に食い止めるため  です。目標は何処でも良かった。同じ飛行機だと思われますがこの日佐貫小学校の校庭の子供達をも銃撃しています。戦争の狂気、空母システムの恐ろしいほどの無駄使い、まあ200発撃つと砲筒を取替ねばならぬ戦艦も似たようなものですがえらい者です人間とは。(戦艦大和は4年の生涯でおそらく主砲砲筒を替えていません。戦闘では主砲発射していない。)

 旧観音堂跡地から北の方を見ると一般民家風の庫裡が見えます。現在無住です。手前左に浅井戸用のポンプ(=地下水位が高いことが推定出来る)が見えます。富津市は海岸沿いなどは水道が通じていますがちょっと山に入ると21世紀の今でも自家水道です。従って停電になると即断水です。

 岩富寺は山の上ですが水に恵まれていたわけです。元禄再建時の絵図にもこのポンプの位置から20mくらい左側に「あかい」(閼伽井=仏に捧げ供える水をくむ井戸)という記述がありますのでここにも井戸かあるいは自噴井があるかもしれません。

 庫裡へ行くには観音堂の下に降りて石の門柱を左奥に行きます。

 庫裡の玄関の上には唯一寺らしい装飾としてねむりねこがいます。屋根の奥の木立は天神郭の台地。

 

 今までたどってきたコースを岩富寺絵図(宝永7年(1710)再建完成図)でたどって見ます。上の図の赤い矢印にそって歩いてきたことになります。

 岩富寺境内を拡大しました。仁王門とその北に観音堂、西に離れて庫裡・薬師堂があり諸門があり、鐘つき堂があります。骨堂跡はこの鐘つき堂のところです。岩富寺で一番高い場所、木々が整備されて眺望が確保されていれば富士が見える絶好の場所に骨堂があったのです。

新しい岩富寺の見方が見えてきた(佐貫からの脇参道を登る)

 「上総岩富寺とは何ぞや」など世の歴史家やお寺研究専門家が飛びつく話ではなくまして普通の人はだれも興味を持たないでしょうが、今度の台風被害で岩富寺の多くの場所で表土が洗い流されたため、岩の構造があらわとなり、いままで城跡のように見えているので堀だ堀切だ廓だと城跡のような表現をしていたところが違って見えてきましたので紹介します。結論として岩富寺は、「より凄惨になり、より魅力的になりました」撮影は令和元年11月30日午前中です。

 佐貫脇参道から岩富寺を目指します。

 のっけから古い写真が出ますが、岩富寺の佐貫脇参道入口にある梅林です。

 数十年に一度の観音様一斉ご開帳のある日岩富寺を訪ねた時の写真です。 岩富寺参道入口横のお花畑です。梅の種類が多く年明け早くから花が咲き始めます。

 岩富寺参道入口。鉄扉は、盆暮れ、特別なご開帳日以外は開かれません。 

 昔はこういう感じだったのですが・・・・・

 今回行ったら落石です。小規模ですがこの状態のままですとここを車で通る のは困難です。

 谷を挟んで向こう側の斜面に紅葉が始まりました。

 大小イノシシの足跡です。表土をはがしてミミズを探していたのでしょう。

 富士山が視野いっぱいに広がりました。ここは岩富寺のちょっと手前の場所で、おそらく幻の霊園計画では駐車場と管理棟、あるいは軽喫茶店を計画したところかも知れません。悪くない場所です。

 岩富寺に近づいてきました。数年前ご開帳の時の写真です。

 今回の嵐で表土が洗い流されて一枚岩が広くむき出しになっています。この岩は佐貫層です。凝灰岩が浸食されて砂になり二次堆積したもので粘土に多量の砂が混ざって貝化石も混ざっています。新舞子の海岸の水中の平磯・鳥居崎の岩、岩富・小山野地域の表土の下、佐貫城三の丸の表土の下などが同じ地層です。佐貫地域はこの地層の上に乱堆積層があるところが多いのです。乱堆積層には佐貫層より古い岩の塊(10m単位の大きさで結構大きい)が無秩序に堆積しています。場所によっては佐貫層の上に古い凝灰岩が堆積しているように見える場所がたくさんあります。東京湾観音のある大坪山などはほとんどが乱堆積層です。

 仁王門に到着しました。この仁王門は佐貫層の岩の上に直接基礎石を置いてそこに建っています。水平出しのための削り出しをある程度やったのかもしれませんがもともと平らになっていた岩の上に仁王門を置いたように見えます。私の記憶では富山(とみさん)の山中の仁王門跡地を見たことがあるのですがここも平らな岩の上に土を介さずに直接仁王門を建てていました。

これから本格的な境内散策

 観音堂です。数年前訪ねた時に比べて外観は凄惨さを増しましたがガラス窓は以前と同じで汚れておらずきれいに見えます。

 本堂の左側の骨堂跡の岩塊です。先の数年前にはここにバンクシー調の笛を吹く楽人に見える汚れがありましたが今度行って見たらみごとになくなっていました。岩の崩落などではなく洗い流されたようです。その数年前のバンクシー風の汚れをお見せします。

 バンクシーが書いたような完成度に見える笛を吹く楽人に似た壁のシミです。ここまで拡大しますとさすがに人間が描いた絵に見えなくなります。が、骨堂跡の崖の岩は岩富寺周辺でも特殊できめが細かく絵が描きやすいかも知れません。だれか絵の腕に覚えのある人が挑戦しないかなと期待。

 骨堂跡の岩塊(50m四方高さ6mくらい)は佐貫層の一枚岩であることが解りました。おそらくここだけ質が良く崩落や浸食を免れているようです。

 骨堂跡へ登ってみます。

 骨堂跡は表土が少なくなったために岩をくり抜いてプールようになった構造がはっきりしました。なお、骨堂跡の眺望は小さな木々が枝を繁茂させたため以前より視界が狭まってしまいました。

 骨堂跡は東の方は一段高くなっていて、そこに登って見るとここにもくり抜きの小さなバスタブがありました。

 骨堂跡から降りて弁天様の池ですが、これもくり抜きの遺構ではないかと思えてきました。今までこれらは「箱堀」と言って城への侵入軍の行動を阻害する城跡構造(骨堂跡頂上は土塁と見ていた)だと考えていたのが従来でしたが、果たしてこれは城の構造物なのか疑問が湧いてきました。

 それはそれとして庫裡を遠望するにますます荒廃の度を増しています。その凄惨さが加速しました。

 そして訪れた歴代住職の墓ですが、ここに新しい1本の卒塔婆が供えられていました。中興の祖とか代表的な住職の墓だと思われます。代表しての回向の印です。まだまだ回向は絶えていないのです。

 仁王門前広場に降りて水子地蔵をお参りしました。

 そしてこの銅像の後ろ足元にも岩のくり抜き、バスタブ構造を発見しました。ここで突然気づいたのですが、このバスタブは水子の火葬骨の収納設備ではないかということです。いわゆる現代の墓石の下のカロート(=唐櫃。からうど、からうず)構造と同じ用途のものではないかということです。

岩富寺境内周辺の崖石造物他特集

 以下、岩富寺の主として崖や石造物の表情をランダムに紹介します。

 佐貫側から上がってくる脇参道途中の崖です。こちらは砂のようなザラザラ感があり、非常に柔らかそうです。(専門用語で作木乱堆積層。長浜層の仲間です。佐貫層より古い。)

 春日社跡の岩ですが3種類が混在しています。一つは地面から丘の下にあるねずみ色の粘土のような岩、次に骨堂跡の崖に似た白いきめ細かい岩、そしてその奥の砂がちの柔らかそうな岩の3種類です。

 一番下のねずみ色の岩は佐貫層と考えられますが、その上は佐貫層より古い凝灰岩と見ます。堆積の順番と地層の時代が逆転していますがこれは偽層といって上は水中土石流などで乱堆積したものです。

 この辺の山は佐貫城を含めて海岸まで皆乱堆積です。乱堆積と気楽に言いますが骨堂跡など50m四方で厚さが10m近くある岩塊が土石流で転がってきて堆積していく現場など想像を絶します。

 骨堂跡の崖です。根が配管の様に見えます。

 そして仁王門前の広場です。一番右の階段を上がると水子地蔵の銅像があり、その左どなりは作木参道終点の切岸です。その左どなりが仁王門、さらにその左どなりが骨堂跡の崖です。

 岩富寺仁王門前広場は太平洋戦争終了後しばらくまで縁日には露店が並びにぎわいました。また近在の佐貫、君津の小学校では岩富寺への遠足もよく計画されたそうです。それが高度経済成長と共にさびれて(具体的にはふもとの亀沢、高原地区等の人口減で檀家数減)、その起死回生のために霊園開発計画が提案され完成図まで描くところまで行きましたが頓挫して現在に至っています。

 境内にある石造物。上部がありませんが上の仏様は大日如来のようです。

 旧本堂の空き地の東側にある大岩です。竜が口から舌を出しているように木が生えています。この右手奥に、下の歴代住職の墓があります。その背も岩の崖です。

 この崖の奥は岩富寺絵図によれば奥の院と称して白山社が祀られ、また絵図には注意書きで「からくと」とか「不里」とか云う言葉が多く書かれている所です。今の所まだ足を踏み入れていません。

 「からくと」とは何か。岩富寺絵図解読で述べましたが、これは今でも墓地用語として通用している「カロート」、または「カラウド」ではないか。すなわち火葬骨を収める石櫃構造(岩富寺の場合は岩を四角にくり抜いた地下庫)ではないかということです。実際このページの上の方で紹介していますが台風一過後の岩富寺の各地にバスタブのような構築物を想定できる場所がいくつも見つかりました。 (上述の骨堂跡地の写真参照)

 春日社跡そばの桜です。鎌足桜に似ています。春日神社と言えば藤原氏の氏神。藤原氏の第一の祖が藤原鎌足。この人は常陸国鹿島神宮の神主の中臣氏の末に連なる人で、母親は木更津矢那郡(現鎌足)の出という伝説がある。春日神社の祭神は鹿島から鹿に乗って奈良に来た(鹿島立ち。絵図が国宝に指定されている)ということでこれは藤原鎌足の足跡・履歴をコピーしたものとされている。

 いつの頃からか矢那に咲いた突然変異の八重の山桜をおしべの形が鎌に似ていることもあって鎌足桜と称し、現在は鹿島神宮境内にも一株植えられています。矢那郡は古代製鉄の盛んな地域で鉄との縁が深い。鹿島も古代鉄との縁が深い地域です。現在日本製鉄が君津と鹿島で大きな製鉄所を操業していますが何か壮大な縁を感じます。

 尾根を切って尾根伝いの通行を妨げる堀切です。戦国時代の城郭によく造られました。岩富寺もこのような構造が見られることから戦国時代に寺として防衛のための細工ではないかとされています。

 ところが今度の台風後に出かけたところ、この堀切は、単に左上にある共同墓地へ登るために裏へまわって登って行くために切り開いた通路だということが解りました。下に台風後の堀切を出します。

 当該場所が少し崩れて木が倒され左にまわって行く余地が出来たので行って坂道を登って見たら・・・・・・

 墓地だったのです。墓石の密集具合から火葬骨壺を直接土に埋葬したように見受けました。カロート構造でなく簡略タイプか?年代的には元禄以後。

 また、筆者は直接跡地も見ては居ませんが、君津教育委員会が発掘調査して出土した構造として下のようなものが見つかっています。場所は庫裡の後ろの天神廓だそうです。(下の写真は木更津市教育委員会のものを転写)

 バスタブのようなこの構築物は箱堀と称するものでやはり戦国時代の防衛のために作られたものとされています。

 これって堀なのか?大型のカロートではないか?

 岩富寺の堀切も箱堀も防衛施設ではなく埋葬施設ないし道路なのではないか?

 次に北参道に足を伸ばします。途中、寄り道して滝ノ沢と馬王台を訪ねます。その後一気に郡ダム湖に向かいます。

岩富寺・二条台古城・郡ダムウオーキング(後編)

 岩富寺から二条台城跡、三百騎坂、郡ダム湖を目指します。

 郡ダムへの道に入る前に岩富寺境内ののやぐら跡を二ケ所見学しましょう。

 岩富寺の骨堂跡の台地は四方が崖になっているのですが、ここは北側の崖です。左がやぐら跡の祠です。梁をかけた穴がいくつか見えます。この祠はもしかすると岩富寺創建時に聖徳太子が刻んだとされる十体一躯観音を祀った場所かも知れません。(私は密かにそう考えています)

 そして実はこの写真で発見したのですが、右側壁面のコケなどによる岩の汚れ模様を見て下さい。椅子に座り横笛を吹いている天人に見えませんか?

 首の傾け方、肩から腕の描写、膝の開き方などバンクシーかと見まがうほどの出来に見えちゃうのが人の脳の不思議さです。

 鎌倉時代のやぐら跡です。奥行きが浅いのは崖崩れなど後世の改変なのか当初からのオリジナルなのか分かりません。壁には梁穴がありますが装飾的なものはありません。やぐら跡は岩富寺を中心に10カ所以上あります。

 岩富寺の仁王門から200mほど西に来ています。

 右側の丘が春日社の丘です。左側の広い道が佐貫亀沢方面へ降りて行く道です。現在の佐貫脇参道  です。

 我々は真ん中の細い道を行きます。

 作木から歩いてきた東側の土塁とはおもむきが変わったような気がします。

 土塁に保護された山道が続きます。

 光と影が独特の雰囲気を出しています。

 土塁に映る光と影です。これは写真より動画の方が光と影が動きますのでより魅力的です。黒沢明の羅生門に出てくるような市女笠に壺装束の姫君が向こうから後ろを気にしながら逃げてきて画面を行き過ぎていなくなる。その間ウグイスだけが鳴いているといったような動画を撮りたいものです。モデルがいないのです。あと機材等は実現可能です。

 二叉路に来ました。ウオーキングの我々は左に行きます。しかしこのページ読者はまず右に行き、滝の沢と馬王台に行きます。その後に郡ダムの方へ行きます。

 山径の二叉路案内標識のための石仏か、千手観音のようです。上で説明しましたが左に行くと郡方面で、右に行くと滝の沢、馬王台です。

滝の沢と馬王台に寄り道

 ここを右に行きます。

 

右に梅の木が植えられています。

 右手の方に杉林が見えてきましたが、これが馬王台です。馬王とは聖徳太子のことです。馬小屋の前で生まれたという伝説になぞった命名です。

 杉林の中に入ります。

 左手に滝の跡。落差は4mくらいの小さなものです。下から半分以上が土砂に埋まっていますがコケ等を見ると長雨の後などは滝になるかも知れません。

 クローズアップ写真です。この滝は宝永元年の絵図に描かれているほか、松平重治筆になる寛文12年(1672)の岩富寺縁起の中の四言詩に「堂前海望 寺後瀑悠」とあり、岩富寺にとって非常に重要な滝であったことが想像されます。

 

 滝の東側の広場は現在は杉林になっていますが、ここは「馬王台」という小字名で呼ばれてい   ます。伝説によれば聖徳太子戦いの場=戦闘でなく護摩を焚いて悪神を懲らしめた護摩壇跡とされています。

 さて、郡ダム湖への道に戻りましょう。

 今度は左へ道をとります。

 ここは国道127号の小山野トンネルの上あたりです。

 このあたりの土塁の斜面に例のバスタブのような箱堀が埋まっているようなくぼみを見つけました。この辺もまだ岩富寺の境内という意識なのでしょうか。

 まだまだ土塁道が続きます。

 土塁に保護された山道がまだ続いています。

 ようやく竹林に変化しました。ここは旧上村、旧小山野村の村境あたりです。

 竹林といえばチャンバラ。昭和八年佐貫町日月神社祭礼の仮装行列の土方歳三を入れて見ました。この人は職業軍人で、戦後は新制佐貫中学校の教師になりました。

 視界が開けた送電線鉄塔から見えるのは横浜方面です。

 二条台古城跡で研究者によれば1郭部です。歴史的には戦国とされていますがほとんど何も分かっていません。

 二条台古城の昭和初期の姿です。画像の谷すじは現在127号が通っている所だと考えて良いようですよ。この写真は127号から東の山の上から谷すじ越しに撮影したものだと思われます。

 木が少なくはげ山のようになっています。道の脇の崖には穴が掘られています。おそらく平安時代以前の横穴古墳だと思われます。

 三百騎坂跡です。鎌倉化粧坂などと同じく切り通しの峠部です。ここから1kmほど西には百騎坂=百坂(ももさか)というものもあります。頼朝北上伝説では、百騎、三百騎の侍達が須恵川(小糸川)の河口の篠部に休息している頼朝のもとに駆けつけるべく馬を走らせたとされています。

 郡ダム湖の周回道路に出て来ました。

 郡ダム湖が見えてきました。終点はもうすぐです。

 岩富寺宝永7年絵図でウオーキング後編のコースを見てみます。仁王門から左に行った所に鳥居が見えますがここは春日社です。境内の神社としては仁王門から東の山の中の奥の院には白山社が祀られていました。今現在の岩富寺には仁王門のそばに弁天社がありますがこれはごくごく新しい造作です。なお春日社の山の北側はやぐらが密集しているところです。

 最後に鎌倉春秋社刊「鎌倉地図草子」の中の「化粧(けわい)坂」想像図を上げます。学者は今の樹木相を昔からのものと考えてしまったのかも知れませんが、煮炊きを薪に頼っていた人口が多い都会鎌倉の頃ははげ山だったはずです。これは田舎の村に隣接していた里山も同じで三百坂も今でこそ木がぼうぼうと生えていますが、里山が管理されていた昔は二条台古城の写真に見られるようにはげ山だった筈です。化粧坂想像図も松の疎林にするとかした方が実情に即して正しいように思えます。