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ジェンスコレクションの研究


ジェンス・コレクションに見る押送船

  1908年(明治42年)ドイツ生まれのアメリカ人写真家アーノルド・ジェンスが日本と韓国を旅行し撮った写真2万点が数奇のいきさつを経てアメリカ議会図書館に所蔵され、しかもインターネットで公開されています。それらの写真で特に日本の田舎を撮った写真が非常に清潔で、景観、人々共に上品で美しいと世界で評判になっているようです。皆さんも是非見ていただきたいものです。そしてその評価、韓国との差などは見る人それぞれの主観にゆだねますが、それとは別に面白いものを発見しましたので紹介します。

 ふるさとの古写真を集めているグリーンネットふっつの人間が閲覧した結果、このコレクションの中に何枚かの押送船らしきものが写ったものがあり、その撮影場所が新舞子、または上総湊または九十九里浜ではないかと思われるものがありましたので紹介します。


 なお写真には場所のデータがなく、掲載順序撮影順序も整理されていません。しかし、あきらかに分かる景色がありますのでそれらを追っていくと、ジェンスさんの日本での観光ルートは、横浜、鎌倉、江ノ島、日光、草津or伊香保、東海道、美保の松原、富士登山京都、奈良、瀬戸内海、宮島です。東京・大阪らしきものはありません。京都は金閣、銀閣、清水寺、平安神宮で、奈良は法隆寺界隈だけのように見えます。 このルートを見ますとジェンスさんが房総半島に足を運んだ可能性は非常に少ないと思えますが、それでもいくつかの押送船の写真は新舞子、上総湊、九十九里浜に見えますので皆さんの判断を仰ぎたいと思います。

 男女で遊浴場を分けた海水浴場。「何だ!この清潔感は」と世界が驚愕。新舞子だったらどんなにすばらしいことか。沖に押送船、男性遊浴場に飛び込み台、すぐ深くなる波打ち際、砂浜に散乱するチャート、頁岩などの硬い小砂利(奥秩父の四万十帯起源。長浜層からの離脱小礫)など新舞子らしきものが満載です。以下、2枚も同様。

 船は押送船ですがこれは明らかに鎌倉でしょう。左対岸は小坪方面に見えます。砂浜に砂利がないです。鎌倉・江ノ島海岸には砂利がなかったと記憶。また比較的遠浅と記憶。違っていたらごめんなさい。鎌倉にも押送船があったのは(残念ながら)確からしいです。押送船は上総の独占ではなさそうです。「目に青葉山ほととぎす初ガツオ」は鎌倉から運ばれたようです。芭蕉句に 「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」。

 右対岸がかすかに見えますが大坪山・磯根ではなさそう。鋸山でもなさそう。一の宮付近の九十九里浜か、と考えます。(あるいは上総湊?)九十九里浜らしき写真は、この他に4点ありました。

 複数櫓装備の大型船です。しかし、明らかにスマートな上総の押送船とは船型が違います。頑丈そうなので静岡方面の外洋船のように見えます。

 最後に押送船のない写真紹介です。モネの「日傘をさす女」の構図に似た写真です。雰囲気はモネに匹敵します。ほぼ同時代に房総の景色を描いた浅井忠のどこかどてどてした重い色調に対して軽やかで涼しそうで夏の松風を感じさせます。

 以上の作品は「アメリカ議会図書館」、「ジェンスコレクション」のandキーワードで検索すれば出て来ますので是非閲覧して見て下さい。思いがけないあなた自身のふるさとの美しい古写真に出会えるかも知れません。


ジェンスコレクションの研究 第2弾

 まず押し送り船についてちょっと詳しく説明します。。

 押し送り船は7丁の櫓を持つ大型の和船で、元禄時代から大正時代まで主として東京湾を走行し江戸へ新鮮な高級魚介類を運んだ船である。その船型の特徴は北斎の浪裏の富士で分かる通りヘサキが実用の必要を越えて長く突き出ていることにある。多数櫓の和船は色々な意味で幕府統制の対象であり、実際押し送り船の新造は浦賀奉行書の認可を必要とした。押し送り船の独特の船形もあるいはこの規制の産物かも知れない。江戸から明治に移ってもこの規制は権益に変わって続いたはずである。(市場が日本橋から築地に移ってそこでようやく権益が無くなった?) 江戸時代、千葉県内の押し送り船の存在が分かる村は、木更津、人見、大堀、富津、篠部、八幡(新舞子)、金谷、館山である。この中で大正時代の絵葉書または一般の古写真で押し送り船の確認できた(グリーンネット調べ)浜は篠部、新舞子、金谷、館山。


 対岸の神奈川の海岸で絵葉書に押し送り船が写っていたのは、三崎、鎌倉、大磯のみ。

 茨城、九十九里浜、伊豆・静岡では発見できなかった。

 さて、ジェンスコレクションの写真で押し送り船の遊弋する浜辺はどこかである。今回の試みは古絵葉書で押し送り船が確認出来た浜辺、篠部、新舞子、金谷、館山、鎌倉、大磯の中から一つの場所を特定することである。

 条件は、遠浅でない。(これにより絵葉書がない木更津、富津などがはじかれる)

     波打ち際に砂利(チャート質の黒くて堅い砂利)がある。

     対岸が見えない。(条件が良くないと見えない)

     波が小さい。(内海である)

 遠浅で篠部、鎌倉が落とされ、対岸が見えやすいで館山、金谷が落とされた。あと大磯は波打ち際の傾斜が急で落とされた。残ったのは新舞子である。

 新舞子は波打ち際にチャート(日本列島骨格の岩石:中世代)の砂利があり、西南方向での伊豆大島、真鶴岬と西北方向での横浜は、ほとんどの季節でモヤのため対岸を確認することが出来ない。内海でありながら西南西北方向は水平線が見える海岸である。そして遠浅でなく海岸はすぐ深くなる。さらに加えて押し送り船が多数遊弋していた写真が残っている。何より浜辺の雰囲気が新舞子に似ている。

 ジェンスコレクションの中で世界で一番話題に上った男女別ビーチ案内の看板は文字や絵が読めるのでその復元を試みてみた。

 結果は遊泳場ではなく「涛(トウ)浴場」であった。漢字にはサンズイの「游(ユウ)」があるのでこちらかもとも考えたが「方」部分が入るスペースがなく看板文字は「涛浴場」である。

 明治期の海水浴はあくまで波と戯れ、そのマイナスイオンや海水の渦や砂によるマッサージ効果を期待して温泉につかるように波打ち際につかったものなのだろう。 また、男女別の方向を示す手差しの絵が、女子には手のひらを前にし、男子には手の甲を前にして描かれている。これなど我々が忘却したボディ・ランゲージなのかも知れない。

 話しは変わって、ジェンスコレクションの撮影場所ではないかと主張する新舞子。ただひたすら明るく輝く浜辺で、昨今各所にある金を掛けた人寄せ成績の良い観光施設とは対局にある場所である。地元民が好んだわけではないがここまで徹底してしまったら居直って「空海風」だけで進むのがよいのかも知れない。


 しかし、それでも最小の設備投資でこんなことをしてみたら話題になるかもと提案するのが下の写真。

どうでしょうか。


 以下に、ジェンスコレクションをさらに1枚を載せます。このさらなるジェンスの1枚も新舞子の雰囲気が満載である。


ジェンスコレクションの研究 第3弾

 ジェンスコレクションで男女別ビーチの看板のある浜辺は新舞子である、という説をすでに細々と披露しています。しかし、このたびこれについて有望な(というより否定的)写真がジェンスコレクションの中から見つかりましたので報告します。

 まず男女別ビーチの看板のある風景を挙げます。

 繰り返しますとここが新舞子であるという根拠として、対岸が見えない程度に開いている海岸遠浅でない、チャートの砂利が散乱そして何より押し送り船が遊弋しているということでした。

 ところが最近、グーグルが私に薦めてきたyou-tubeの動画「アーノルド・ジェンスが残した100年前の日本」を見ていたら上記の男女別ビーチ看板を左横から撮った写真が出て来ました。このアングルですと当然右側に岸辺の状況や新舞子の山並みが見えることになりますが・・・・・・・。その写真は驚愕ものでした。

 なんと、この写真にも山が写っていません。遠くの右隅に岩のかたまりが見えるだけです。そして岸辺には無数の赤白ダンダラに塗られた柱が林立していてこれはどうやら三角テントの中央をロープで引っ張り上げる装置のようです。一般に戦前使われた三角テント(脱衣用)は内部中央1本の柱でテント形状を維持するものですが、これなら柱不要で居住性というか使い勝手は抜群に向上しますよね。全く良く考えたものです。

 それは置いて、とにかくここでは右に山は見えません。従って、この場所は新舞子ではないということになります。念のため、新舞子をジェンスコレクションの写真とほぼ同じアングルで50mmで撮った写真を載せて置きます。

 それで終わり「チャン チャン」ということですと芸がないので二つのあり得る仮説を述べます。

 仮説1:

 ジェンスコレクションの写真の右上に水滴のようなものが見えます。この写真は雨の中で撮ったのではないか。雷雨のような猛烈な雨のやみ間に撮ったとしたら山並みは見えない可能性があります。

 この仮説、カメラの専門家に言ったら、レンズの雨滴やよごれは焦点距離より内側にあるので絞りの羽根が写らないように雨滴もこういう具合には映らないとのことでした。

 追記:その後カメラについて調べた結果、焦点距離より短い位置の物体は実像を結ばないと言うことで、レンズから離れた場所のガラス面にある水滴なら写る可能性があるようです。

 あのころのベローズ式、乾板式カメラの場合、50cm角の一方が素ガラス面の箱の中のカメラなら水滴が写るかも知れないということです。

 ただ豪雨の間のつかぬ間の撮影というのは全体として無理があります。

 仮説2: 

 それは「山並み改ざん説」です。新舞子近辺の古写真を扱っている立場から云いますと西上総地方は要塞地帯でしたので写真は検閲後に出版されることになります。したがって検閲前に山並みを改ざんしたりまったく消したりして検閲済の印を押してもらうのが常でこういう写真が数多く残っています。

 ジェンスコレクションの明治42年当時はすでに第一海堡が完成しており、富津岬全体が射爆場、対岸は横須賀軍港でしたので、外国人であれば特に出国前に写真の検閲(ネガフィルムでの検閲)を受けることになります。

 幸か不幸か西上総地方が押し送り船の集積地であったため、押し送り船が映っている写真の多くは検閲にひっかかったことでしょう。国内の写真家と違って外国人であるアーノルド・ジェンスの場合、出国間際であれもこれもダメということになり、彼は必至でネガの修正=山並みの消去をやったのではないでしょうか。

 具体的なやり方は、原画ネガの消したい部分をくりぬいて切ってしまいこれで検閲を通す。次にそれを同寸でポジ焼きする。その際覆い焼き(半透明またはまだらのフィルターを置いて感光量を画面の部分それぞれ適度に調整する)手法 を使って切断部を周辺となじませる)を使う。それで出来たポジをネガに再度焼き直す。

 当時の写真乾板がガラス製だと切ると云っても大変ですがセルロイドならなんとか行けそうな気もします。

 ジェンスコレクションの中で押し送り船が映っている写真は私の知る限り10枚程度ありますがこれのすべてに対岸や山並みが映っていないというのは考えてみれば不思議です。山並みが意識的に消去されたとみれば、これらの写真は西上総だといえるしその理由は要塞法適用地域だからということになります。

 これらの写真をもう一度見ますと、空の部分に指紋のような模様が見えます。上の水滴のような模様もその一環と考えれば、暗室の中でのポジ、ネガ化や覆い焼き作業で出来たという疑いが濃くなります。(暗室の中で水滴が写り込む可能性は大きいです。)

 さらにその疑いで見れば、問題の写真のロープは太すぎの感じがします。手作業の切断限界ではないかと云うことです。

 また、山並み消去説を前提とすれば、ジェンスコレクションの男女別ビーチ看板のあった浜辺候補地は、上総湊から、新舞子、大坪海岸、磯根、岩瀬、篠部、富津岬南岸までと広がります。ただし海岸の様子からすると新舞子から磯根岬までの海岸がベストです。山並みを消しやすいのは大坪海岸から富津岬の間です。