アクセスカウンター

小説「風雲佐貫城秘聞」その1

 プロローグ

 土地のイメージが決定的に確定することがあります。伊豆などは何と言っても、今でも「踊り子」でしょう。千葉の成東では「野菊の墓」を踊り子並みにしたい希望はあるようですが、観光客をひきつけるもうひとつが弱い(松田聖子で映画化もしてるんですけどね)ようです。銚子は大漁旗を振り回すイメージから「みおつくし」でしっとり感が出たのですが、今は期限切れの状態。代わりにぬれせんべいです。


 わがデン助の新舞子もNHKの連続ドラマで上総の女が波乱万丈の物語を展開すれば何とかなると思いますが、「皆さまのNHK」が新舞子を採用する心配はしなくていいようです。


 採用するもしないもそういう話がなければ文字通り話になりませんが、実は佐貫城を舞台にしたそういう話があります。府馬清著「佐貫城秘聞」(昭和31年)がそれ。府馬さんは中世史研究の郷土史家で、すでに亡くなられて久しいです。


 幕末の佐貫藩を舞台に、家老の娘姉妹の各々の恋の顛末と、官軍恭順派と、若者たち抗戦派の暗躍をないまぜて明治までを書いています。尊王恭順派の家老相場助右衛門の暗殺の史実を借りた創作です。


 しかし、「佐貫城秘聞」は、正直な話、読み進めるのにかなりの忍耐がいります。ストーリーが錯綜して分りずらく、各所に見られる古い大衆時代小説のような設定や表現が難になっているようです。
 そこで、不肖デン助が、一念発起、ストーリーを分り易くし、ヒロイン美斧の魅力を高めることで、「逆縁の男女の悲恋」という府馬さんのテーマを再構築してみることにしました。


 しかし、私、デン助は小説が書けません。そこで、映画のシーンそれぞれを説明して行く形式とします。こころざしは全国区を目指していますので、シーン①は主人公が江戸城日比谷濠から桜田門を左折し霞ヶ関の佐貫藩邸に到着するまでとします。主人公や美斧のあり方が、さもありなん、あっても不思議ではないと感じていただければ作者冥利に尽きます。

 1.長岡勇、佐貫藩江戸藩邸に到着

 長岡勇23才。佐貫藩目付け。禄高80石。早くに父を亡くし、20才で家督相続。今は母と2人ぐらし。本家筋へ将軍上洛に関わる件で、藩の書類を持って初めての出府。下僕と2人、舟便で大川木更津河岸から日本橋を通って、大名屋敷町へ入る。時に元治元年(1864)3月。


 「いかにも・・・・」、「天下の・・・・」。田舎者ではないとの自負もいつか忘れ、ひたすら感心するばかりである。京で西国大名がさわいだところで箱根の天下の険と関東武士団がある。アメリカやオロシャが来たところでわずか数隻、大砲も弾がなければただの筒ではないか。幕府の土台はゆるいでいない。その証拠がこの江戸だ。通ってきた日本橋界隈では、「さすが江戸だ、いかにも江戸だ」と何回つぶやいたことだろう。歩いている犬もなにやら威厳がある。


 日比谷御門を北に濠に沿って行くと、左に毛利公。京で大負け、領国に逼塞中。藩邸もこころなしかうらぶれて見える。毛利公の間口は拍子抜けの短さ。こんなもので天下を相手にしたのかおろかしいかぎり。尊王攘夷の本場はあくまで関東武士にある。


 すぐに上杉弾正家。運の悪いいきさつが重なって十五万石になってしまったが、栄枯盛衰、浮沈は武士の習い、謙信公以来の武と義の士風があるだけに藩邸はさすがに堂々とした造りである。


 桜田御門を右に見て左に曲がる。上杉藩を過ぎて三つ目。佐貫藩邸である。1万6千石、小藩だから藩邸を見てがっかりするんじゃないかと心配していた長岡は、立ち止まって正門をあおぎ見て「存外な・・・」と一安心。毛利、上杉と比べてもまあまあだと独り言。しかし、門はひっそりと閉まっていて取り付く島もない。下僕に聞くと南御門から入りますとのこと。霞ヶ関の十字路を左に曲がるとにわかに道がせまくなり、生活のにおいがしてきた。こちらから見ると佐貫藩の敷地は50メートル足らず、1万6千石ではこんなものかとまた独り言。


 門で声をかけたがまったく応答なし。戸に手をかけると開いた。中に入ると非常にかすかに琴の音。
「さすがに江戸だ、いかにも江戸だ」と、長岡またつぶやき。

 2.長岡、藩邸小書院にて美斧の接待を受ける

 今、藩邸は殿様が佐貫の方なので、何事も略式の体裁。留守居役の石田市郎左衛門など、佐貫城の大広間で見せる顔とはまったく違って、大店の隠居主人のように血色が良くにこにこしている。


 ひと通り役向きの話が終わると座はさらにくだけた。


 「長岡、いくつになった。」、「23才になりました」、「先代には、我々、白井、岩堀ともどもずいぶんお世話になった。母者は息災か」世間話が続く。「佐貫はどうだ。尊王攘夷は。長岡が先頭に立ってさわいでいると聞くぞ」


「先頭などと・・・・。役目柄あちこち顔は出しますが私には分りません」、「先頭は東条でしょう。それと粟飯原(あいはら)のせがれ・・・・」用人の白井が口をはさむ。石田は言い出しはしたが、尊王攘夷にさしたる関心があったわけでもないらしい。「とにかく公方様が上洛以来何もわからん。本家へ行ってもわからん。お城に上がってもわからん。何もわからん」

「まどろっこしいようだが見聞を広めるのが一番の早道なんだろうな。わかりませんではお役目が務まらない。務まらないからわかったフリをしている。長岡さんよ、コレもつらいぜよ」、「はじめての江戸はどうだった」、「ハイ、さすが天下の江戸です。極楽かと思いました」、「はっは、その物言いやよし、おぬし見所がある。極楽はよかった。しかし、23才にもなった若者にそんな言葉をしゃべらせるようじゃ、佐貫藩は、はなから薩長に負けてるわ。文武文武と麦飯とめざしでは金はかからぬが人は育ちはせぬ」


 「帰りは下総上総城持ち4藩(関宿、佐倉、久留里、大多喜)城下の話を聞いて帰れ。金はやる。紹介状もやる。江戸のことは何でも知っているフリをしないと聞けるものも聞けないぞ。度胸付けだ、極楽ついでに竜宮城も見せてやる」


 竜宮城の実態は、佐貫藩邸の小書院での略式のささやかな宴だった。しかし、長岡にとっては確かに竜宮城であった。


 小書院で丸座に座らされた。長岡、石田、白井、岩堀。やがて、膳が運ばれて来る。長岡に一番に。「これはこれは」と長岡恐縮。下座がひとつ空いている。


 石田が口を開く、「佐貫藩若者中の前途を祝して宴をやる。長岡が代表じゃ、今夜は主賓だ。エゲレス流というかアメリカ流で無礼講だ」、長岡恐縮して聞いている。


 さっと、ふすまが開くと、そこに女がいた。化粧はうっすらと刷いた程度、素足、江戸好みの地味なみじん模様。きっちり座って、長岡の目を見、「長岡様ようこそお越しくださりました」、目だけ笑って、お辞儀をして、さっと長岡のななめ右へ、まるで舞っているようなあんばい。「ご一献、お注ぎいたしましょう」、「かたじけない」、何の髪形か分らないが、女がうつむいた瞬間にはらりと横髪がゆれた。長岡はその時なにか甘く切ない思いを思い出したような気がした。長岡は女との距離をはかりかねた。女が誰だかわからないのである。と、女が小声で、「もそっと肩の力をぬいてくださりませ、注げませぬ」
「あ、すまぬ、すみませぬ」、「天下国家を論じる長岡がおくしたか、ひとめぼれか」岩堀が言った。ハ、ハ、ハと一同が笑い、長岡が真っ赤になる。女は口とはうらはらに自分自身も場慣れしているわけではなさそうだった。酒を注ぐとき女の指がかすかにふるえた。「お先にいただきます」長老連中に目で会釈して杯を飲み干し終わったとき、長岡はこの女と共同作業をやり終えたように感じた。と同時に晴れの江戸行きに数日前からいそいそと旅したくやこまごまとした心つかいをしてくれた母の顔が遠い昔の思い出のように感じた。また、その母が奔走している長岡自身の嫁候補の顔も。


 最初の膳は刺身を中心とした日本料理。「これは八幡(千葉佐貫の八幡村)からのもので日本橋で買い求めたものです。」と女が披露する。鯛の刺身につまとしてハマボウフウの酢漬け。醤油、ワサビも佐貫産だと云う。
「刺身はいろいろ食べたが、地元誇りというかも知れないが、やっぱり八幡がうまいな」と、石田。一同同感の様子。


 二の膳はがらりと変わって牛肉料理、ワイン、パンを主体にした西洋料理が出た。こちらの方は長岡にはもちろん初物ばかりであった。依然として女の正体がわからない。聞きただすタイミングを無くしたまま時が過ぎていた。
 最後のデザートは桜餅。(大名窯の鍋島の桜に盛る)「美斧殿、さすが大奥仕込みでありました。ありがとう。」、美斧?、大奥?長岡の頭脳がはげしく回転。


 「相場様?、美斧殿?ですか!」長岡がすっとんきょな声、「あれ、いままでご承知でなかったのですか?」、「いや、あまりに」、「あまりに?」長岡その後のことばにつまる。美斧助け船を出す。「わたくし覚えています。長岡さまに引き連れられて、浅間神社のカッコ舞を見にまいりました。」、女は長岡の目を、例の目だけ笑った顔で見上げる。「ああ、ありました」、「帰りに手をつなごうとしたら、長岡様、じゃけんに手を振り払われました」、一同がまたハ、ハ、ハと笑う。


 続いて大奥の話。大奥の話は御法度で何もしゃべれないと美斧。しかし学問を学ぶことでは最高の環境でした。天璋院様が、女子だからとていつまでも源氏物語ばかりでもあるまい。おもいおもい好きなものを学べと御命じられ、私、吾妻鏡を希望しました。紅葉台文庫から取り寄せていただき、学ぶといっても筆写するだけですがうれしゅうござりました。「吾妻鏡をお持ちですか」、「はい」、「それがし名前だけは存じていますが佐貫などではとてもとても見ることができません。うらやましいかぎりです」、「お貸ししましょうか」、「それは何よりのことですぜひお願いいたしまする」


 年寄りの岩堀が口を出す。「日本外史だけ読んで天下をわかったつもりになり、品川の土蔵相模なんぞでさわぐような長州の青二才に聞かせてやりたいわ。おとなりさん、ここのところずいぶん静かになりました、公方様直々の征伐がうわさしきりですぞ」

 3.美斧の境涯説明

「美斧殿はどのようなお人なのでしょうか」、「見ての通り別嬪さね」と、岩堀。それは冗談として、と言って、彼の語ったところは次の通り。


 相場家は佐貫阿部家の家来として特異な存在。三河、遠州からでなく、阿部家が佐貫に移封した時からの家来。いわば現地採用。禄高80石は長岡家と同じだが、あの家は地所持ちで、親父のもらう80石はアルバイト料。阿部家がつぶれても何の苦もない。先祖をたどれば、遠く源頼朝時代の安房の名族安西氏にたどりつく。親類縁者は数多い。佐貫の近くで言えば、数馬の八雲神社の宮司杉浦家、小久保の大地主丸家、北上の中小地主どもとは遠近の差はあれ、ほとんどみんな親類である。杉浦家など、ついこの間、従五位下になった。われらが殿様と同格だ。この地では阿部家こそが新参だ。


 昔にさかのぼれば、東照権現様の側室にお万の方がおられたが、紀州家、水戸家の藩祖の御生母である。相場はこの方の御実家勝浦正木家(今は紀州家に入って三浦家)ともつながっている。お万の方のお子様があそこまで重んじられたのはそれぞれの御器量もあるだろうが正木家の格が強く働いている。正木家は三浦家につながり、安西家につながり、頼朝公につながっているからである。(勝浦は女の子にとって縁起の良い土地なのです。近年盛んになった勝浦雛祭りは、お万の方の美貌、聡明、気高さ、運の良さにあやからせたい親心の現われと見受けます。蛇足)


 公方様八代様の頃の話では、相場の親戚の小久保の丸家の娘が大奥に上がり、蜂須賀の殿様に見初められて、宗員様だったかの御生母になりあがったこともある。相場の親父は柳の下の二匹目を狙っておるのよ。
 美斧を大奥に上げることで、我らの殿様がどれだけ働かされたことか。御本家の先代が大奥にずいぶん気に入られたからその反動で今回は意地悪されることになるんだよ。


 相場の親父と美斧は親子でないとのうわさがある。相場のわけ知り顔、権高な言い方、佐貫藩の吉良上野介だよ。 長岡にとって美斧はなお遠い存在である。佐貫藩にもあんな娘がいたんだ、その発見だけでうれしく感ずるタイプ。長岡は女に対して軽口をたたけない。初対面の女に向かって「いよっベッピン!」などとタイミング良くポンと肩をたたくなんぞの薩長の志士のような芸当は出来ない。

 4.天狗党の引取内意

 元治元年10月。長岡は母親から相場美斧が江戸から帰ったとの話を聞いた。長岡は甘く心がうずくのを覚えた。美斧から吾妻鏡を借り受ける話はそのままになっていた。


 この月、幕府より佐貫藩へ、水戸藩の内乱「天狗党の乱」の首謀者を虜囚として禁固すべしとの内意があった。尊王攘夷の本場、水戸家が、大きく分けて、保守派の諸生党と、改革派天狗党の硬派、および軟派、この三派に旗印尊王攘夷、佐幕が入り乱れてぐちゃぐちゃになった上に、鎮定の幕軍が混乱にさらに追い打ちをかけた。


 とにかく、天狗党の軟派は、10月22日に降伏。(硬派は鶴賀に逃れて種々のいきさつの後、史上まれに見る七百名近い大虐殺を受けた)敗軍の将兵処分が決まるまでの禁固を佐貫藩以下多くの藩が命じられた。(総計千百十六名、上総、下総、上野、常陸諸藩に分けられる)

 幕府は軟派に対しては寛大な処分の方針に見えたが、水戸は諸生党に牛耳られているため、水戸の思いは激烈であった。さらに藩主の意向がくるくるとブレた。佐貫藩は自藩の世論も注意しつつ、猫の眼のように変わるそれぞれの勢力の意向の中で、浪士たちをどう扱うか、最終的な処分をどう実行するか、むずかしい舵取りをせまられることとなった。(ニュースの解説でおなじみの言葉ですが、やさいしい舵取りをせまられることがあるのでしょうか)

 5.日月神社の祭礼。美斧・長岡の再会と別れ

 水戸の騒乱も、佐貫にとってはまだ異国の遠い話であった。いまだ駘蕩としていた。


 ある日、相場の母親が、「この年令になるまで、日月神社の祭礼を見たことがない」との話から、相場の母娘、長岡の母と息子、それに出入りの酒屋「山田屋」の若旦那夫婦で祭り見物ということになった。山田屋は氏子の旦那だから多忙の中、奥様方に目一杯のサービスであった。


 長岡にとって心のときめく美斧だったが、なぜかよそよそしい。今日は普通の武家娘のいでたち。
 「あの節はありがとうござりました」、「お久しゅうござります」言葉を交わすがそれだけ。相場の母親が、「おや、お目にかかっておりました?」、「はい、江戸藩邸で久しぶりにお会いしました。案内をお願いしました」


 祭りは大変な人出でにぎわっていた。屋台売り、振り売りはもちろん芝居や手品の小屋掛けもある。夕暮れがせまり、かがり火の光が強くなった中を、太鼓の乱打が始まり、三基の宮神輿が社殿の狭くて急な階段を次々と上がって行く。神輿の金色に火の光が反射している。せまい参道、本来無理な道幅をいかにスムーズにすり抜けて行くか、神輿は身をよじりながら、しかし後ずさりすることなく進んで行く。(一度でも下げることは不吉なこととして嫌われており、とにかく進むことが氏子かつぎ手の誇りであった)祭りのクライマックスを見終わった人々は食べ物や芝居を求めて町へ繰り出して行く。町の両側には大店が軒を連ねており、一間ごとにちょうちんがぶら下がっている。店の前には今夜だけは旦那の心意気で、菓子や酒や餅が無料で誰でも食べるように置かれている。店の口にはさらに四角の行灯のような手作りの絵入り灯篭が飾られている。そこの主人や使用人の苦心の作、狂歌や川柳、時としてまじめな和歌も混じっていた。


 奥様方はそれを見るのを一つの目的としていた。ひとつひとつ見て「これはちょっと」とか、「しゃれている」とか評価して歩いている。長岡も見て廻っている。太鼓の音はだいぶ遠くなった。


 長岡は美斧が立ち止ってうつむいているのに気がついた。「どうされましたか?」、「ちょっと気持ちが悪くって、人に酔ったのでしょう」美斧青白い顔。長岡はあたりを見まわしたが、いつのまにか皆に離れてしまったようである。人ごみはまだまだ続いていた。「どこかで休みましょうか。歩けますか?」
 城下一の大店「伊勢又」を過ぎるとにわかに人通りが少なくなった。大木戸のそばに城下町入り口を象徴する大銀杏が二本立っており、その下に小さな道祖神、お地蔵が祀ってあった。雌雄一対の大銀杏の葉という葉はこれ以上ないほど真黄色く輝く季節になっていた。その梢の下に、にわかごしらえの祭礼の御旅所が無人のままあった。太鼓の音はさらに遠くなった。


 「少し落ち着きましたか?」、「ええ、大丈夫です」、「お母様たちはどうされたのでしょう」、 「おっつけ帰るでしょう。わたくし帰ります」、「そうですね。その方が良いでしょう。月明かりだから水車小屋から花香谷の方へ抜けて行きますか」、「はい」・・・・・・・・・・・


 「お水が飲みたい」長岡は水のありかを知らない。「そこのお酒飲んで良いかしら」、「それはまずいんじゃないかな」、「飲みましょう。気つけです。薬です」と美斧。長岡があたりの茶碗を差し出すと美斧は茶碗を受け取り一気に飲み干した。「おいしい」と美斧。


 長岡には次への術がない。後で考えれば、この場面が吉凶の分かれ目であった。
 楽しい(長岡にとって)語らいが続いた。いつまでも続きそうな語らい。(内容はたいしたことはない)


 やがて、帰ろうと歩きかけた時、美斧は突然、ごく当たり前のように言った。「わたくし、来春、嫁にまいります。」、「エッ!」、動揺をかくしながら、「そうですか」、「今夜はありがとうござりました」歩きながら無言。「・・・・・・・・・」、「・・・・・・・・・・・・・」、「怒ったのですか?」、「怒っていません」と長岡。すっかり暮れた田園風景。月で明るい。遠くにおとぎばなしのような藁屋根。詩情ゆたか。長岡少し前を歩く。美斧はうつむいたままとぼとぼ歩いているように長岡には見えた。長岡はいい気味だと思った。何が江戸仕込みだ、何が吾妻鏡だ。

 美斧、立ち止まってしまった。長岡はすたすたと置き去り。美斧とっとっと走って長岡の右後ろ手を取った。長岡、しかし、あまりに突然で予期していなかったため、思わず振りほどいてしまう。振りほどきながら、しまったと思ったが後の祭り。女、うつむいたまま。また、立ち止まる。明るければ涙が見えたかも知れない。その後は無言。相場の家の近くで、美斧うつむいたまま、「ありがとうござりました」小走りに離れる。長岡の切ないだけの恋は終わった。

 6.天狗党二十三名到着

 元治元年十二月十一日、天狗党軟派の人々二十三名が佐貫藩に引き渡された。佐貫藩は家臣を銚子まで派遣し、彼らを自藩へ引き取った。

 天狗党軟派は那珂湊で幕府追討軍に降伏した面々で水戸家の重臣から中堅どころの人々。思想的には尊皇攘夷、幕政・藩政改革の理解者、賛同者だが、身分的には保守派、諸生党に近い。重臣から中堅が二派に分かれて骨肉相喰む闘争をしたのである。この時点で天狗党硬派は北陸へ逃走(作戦用語で転進中国共産党用語で長征)中、水戸藩は諸生党の手に落ちている。

 メンバーは新井源八郎・郡奉行四十二才、村田理介・郡奉行五十八才、黒沢覚介四十七才、木村三穂介五十五才、他十九名。彼らは佐貫城外の字古宿(大字花香谷の中)に収容拘禁された。

 彼らをどう処遇するかからが佐貫藩の政治となる。当時は封建制のたてまえだから幕府は内意を示すのみで、運用は各藩の自治である。赤穂浪士あづかりの細川藩ほかの立場といえばわかりやすい。幕府(といっても具体的に誰かを決めることから政治である)、水戸藩の顔色、他藩の動向、自藩の世論とのバランスで佐貫藩の処遇が決定されることになるが、結果が悪ければ責任を取らされるし、場合によっては世間の嘲笑を買うことになりかねない。

 佐貫藩の人々を驚かせたのは、新井、村田らの水戸浪士の態度の立派さであった。村田は見回りの藩士に「京の方角はいずれか、佐貫藩の殿様の御殿はいずれの方角か」と、訊ね、確認し終わってから、一同に「その方角に足を投げて寝てはならぬ」と申し渡した。更にその日から処刑される前夜まで、獄舎の中で日本外史、論語等を輪読し、声高らかに読みあったり、詩を吟じたりしたという。この生き方を見せられて、それまでどちらかといえば、おとなしく駘蕩としていた藩風は一変した。水戸光圀以来藤田東湖らによってみがきをかけられた水戸学と佐貫藩士(特に青年層)との劇的な出会いであった。

 彼らから学んだ最大のものは、もちろん尊王攘夷のもろもろであるがもうひとつ、藩組織とは別に藩士横断的な組織党が藩政に口を出しているということ、その実態であった。遅まきながら時流に乗った動きの発火点であった。

 7.藩校世論

 藩校は藩士子弟の初等教育の場であると共に、孔子祭など年中行事を執り行う時は藩士全員(時には藩主も)が出席する場で、卒業で縁が切れるということではなくいつのまにかOB格になっているような按配で、従って藩の世論形成の場ともなった。佐貫藩は寛政八年(1796)に創立され誠道館と称し、朱子学派、学科は漢文と習字、等級(学年)はなく一教室講堂型であった。

 藩校は、東佐貫殿町日枝神社のとなりにあったと推定される。北の背中に土手を背負った構造は、富津飯野藩の藩校(三条塚古墳の後円部に食い込んでいる)と共通している。野原の真ん中に建つのでなく、山すそに建つのは何か理由があるのか?(書物を守る防火構造?)

 元治二年春は、長州が逼塞状態、幕府軍の征長軍が広島に集結しつつあった。一方、天狗党の残党(硬派)が北陸で降伏、敗者に対して苛烈きわまりない報復的刑罰がおこなわれたとのうわさが佐貫藩にも聞こえてきたはずである。これに対して、佐貫藩士、特に若者の中に、佐貫藩であずかりの浪士は絶対に守る、少なくとも武士としての名誉は辱めないという同情の世論が強くなった。

 若者組は30名近い全員が水戸学派となった。長岡は若者組の幹部になっていた。若者組を藩政に口出し出来る組織にすべく日夜努力していた。(恋から革命にくらがえ?全共闘?)

 なお、蛇足ですが、長岡はフラれていない。美斧に対して何も意思表示していないから。しかし、長岡はフラれたと思っている。これがおかしい。全共闘世代の特徴か?

 ちなみに、さらに話題がそれるが、旧佐貫小学校の裁縫室は学校で唯一畳敷きで床の間があった。ここは戦前から戦後も同窓会の会場に使われたため、内部の様子が写真に写って残り今も見ることが出来るのだが、注目は床の間に飾られた三幅の墨書掛け軸の文内容である。


 「報国丹心」から始まる漢詩なのだが、これについてちょっと調べてみると、有名人の書例としては西郷隆盛、広瀬武夫でありいずれも辞世文である。「報国」は水戸尊王攘夷運動の中で盛んに使われた言葉であることを考えると、佐貫で辞世を書き「報国丹心」を使った人物は、天狗党の村田理介か新井源八郎以外に考えられない。


 この額は両者のいずれかの自筆である可能性が高い。おそらく、切腹後に額装され、佐貫藩校に飾られていたものが明治後に小学校に寄贈され裁縫室に飾られるようになったのではないだろうか。

 8.天狗党の処刑

 23名の天狗党に対して佐貫藩は、入牢ではあるが、入浴、着替えなどを許し(断髪等刃物を使うものは不許可)武士としての最低限の対面を保てるようにした。赤穂浪士の処遇が参考にされたと思われる。後に(諸生党支配から脱した)水戸藩からこの時のあつかいに対する感謝のしるしとして「大日本史」全巻が贈られている(佐貫小学校所蔵)


 やがて元治二年四月に至って、天狗党の面々に処断が下された。この決定に当たって佐貫藩がどこまで積極的に動いたかは分らないが、指導者の新井、村田が切腹、黒沢、木村が斬首。他の病死五名を除く十四名は追放と決まった。天狗党の処刑で切腹になった人は少ないので、あるいはこの決定に佐貫藩が深く関与(当初四名斬首の内意を二人だけ切腹に持っていったなど)したのかも知れない。

 次にその執行であるが、これについては大変なことになった。何しろこの二百年来、経済破綻、内紛飢饉や災害があったわけでなく唯一の事件は鬼泪山入会地をめぐっての争いで佐貫百姓が時の老中へ駕籠訴したこと。この時ですら最高刑が遠島。切腹や斬首は芝居や講談の世界。切腹の介錯などやり方は知識としてあっても名誉に思う心はいずこ。「わしゃそんな不浄なことは出来ぬ」といった始末。斬首を行う不浄役人は身分としてあったにはあったが非人身分の人を含めて名前だけ。今や刀を持っておらず差別もされていない。そのくせ役料だけはちゃっかりもらっている按配。早い話が「戦争を知らない親父たち」

 そこで天狗党に感化されて近年とみに形而上学的思想に目覚めた長岡ら青年にその執行のおはちがまわってきた。青年らは青年隊として集会を持ち犬猫などの試し切りをしたりして準備をした。この中心に長岡がいた。この準備の中で青年隊は「誠忠隊」という名前もつけた。(府馬清さんの小説では血盟隊となっているがテロなどにまったく遅れて参加してきた人たちに似つかわしくない。古典的な誠忠隊あたりが妥当)小説なら長岡の奔走で斬首の形をしているが執行者は武士にしてもらったなどを付け加えたい。佐貫の青年が青年党として政治に発言権を持った瞬間である。

 4月5日、佐貫藩は花香谷妙勝寺庭先に切腹および斬首の場を設け、四士のみごとな最期を誠忠隊の面々が執り行った。遺体は同寺の山内、梅樹の下に葬られた。水戸家は梅に縁が深いということでの寺の住職のはからいである。佐貫の人々はこの四士をわすれていない。今、現在でも墓はきれいに回葬され手向けの香華、塔婆が絶えていない。

 小説ならこのあたりから相場のおやじを登場させ、戦争を知らない親父たちと、戦争にめざめつつある子供達が、つきつけられたものを処理して行く中で、悩み、笑い、逡巡、あつれきをつくるところである。

 なお、美斧は、天狗党の処刑のちょっと前に嫁に行った。長岡がそのニュースを聞いてどう感じたかは想像するだけである。

 9.評定その1

 天狗党の処刑から二年がたった。慶応三年12月。佐貫藩に、公方(長州征伐に行ったまま在京で代も替わっている)が、大政を朝廷に奉還し、将軍職を辞したとの衝撃的なニュースが伝わった。雨も風も吹かないのに幕府がなくなったことに真実味がなかった。皆が一様に何か狐にばかされているように感じた。幕府滅亡といえば「太平記」などの知識では、戦いに戦いぬいた末に、東勝寺で一斉に腹切りのイメージのその結果である。誰ひとり戦いもせず腹も切らないのに幕府の方で勝手になくなってしまうのを滅亡というのだろうか、むしろ蒸発消滅ではないか。誰もが、今後どう対処するのかその指針をほしがった。

 佐貫藩は全藩士(当主のみ)に対し、評定を開く旨通知した。この種の評定はお城では行わず今回も場所は藩校講堂が選ばれた。藩主は出席しない。日本の場合、召集前に誰がしゃべるか内々に決まっており、結論はすでに決まっていて評定の席は単にその確認、公示の場である。しかし今回、長岡が藩の役目の目付でなく誠忠隊として、メンバーと共に出席したい旨、藩に願い出たことで(時勢もあるが)評定は緊迫感漂うものとなった。

 藩は大事の中ということと、藩主を含めて確固たる見通しがたてられなかったことと、天狗党の一件で誠忠隊への借りを返す意味があってそれを許した。ただし、裃でなく、羽織袴の条件、着座も講堂外の廊下が条件となった。

 上座に藩主の座(空席)。その横に家老以下重臣が並ぶ。おもむろに筆頭家老粟飯原助右衛門(四百石)が評定の趣旨を述べた。

 「このたび上方よりの情報によれば、公方様が大政を朝廷に奉還したてまつり、なおかつ将軍職を辞したとのこと。朝廷におかせられては、大政奉還は勅許された。情報はここまで。いろいろのうわさはあるが、はっきりしたことはわからない。江戸表からは一般処理は何事も先例従来通りにあい勤めよ、迷ったことは、事柄それぞれについてしかるべく相談して決めよとのことである。今後時勢がどう動くかわからない。このような時一番の愚挙は軽挙妄動である。つまらぬうわさに動じて藩がばらばらに動いては当藩の恥であり、結果も最悪となる。そこで、全藩士心をひとつにすべく、皆々の考えを述べてもらいたい。賛同するもの、反対するものそれぞれ述べてもらいたい。時勢が時勢である。このような評定を何度も開いている時間はない。主題はひとつ幕府の大政奉還を受けてわが佐貫藩は今後どうすべきかということだ。」

 「どなたか意見があるものは遠慮せずに申し述べよ」と、次席家老の木村弥右衛門(二百二十石)、場内しんとして物音がない。
 「どなたかおらぬか、場合によっては佐貫藩がなくなることもあるのだぞ」
 「・・・・・・・・・・・」
 「突然のことで難しかろう。それではまず、われらが話を申し述べよう」と、いった時に、「恐れながら」と、藩士の席から声が上がった。相場助右衛門(八十石)殿様付きの用人格。隠居の先代からも信頼が厚い。藩内一の情報通。
 「まず大方針を具申します。それはお家の安泰です。徳川でも幕府でもありませんぞ。佐貫阿部家の安泰です」、「次にどうするかですが、まず最初のリアクションとして参勤停止、江戸藩邸廃止を表明します。リアクションがなければ徳川や本家から侮られます。これらからリアクションのリアクションがあったらその内容で方向を変えて行けば良い。言い訳は立つ。幕府から預かっている継続案件は、徳川私用は継続、公用は中止とします。」

 「公方様が大政奉還をしたとはいえ、大徳川はそのままです。朝廷の意向は従来もこれからもくるくると変わるでしょう。公方様はあるいは、朝廷から奉還の奉還がくると大バクチを打ったかも知れません。とてもやっていけないからお返ししますということではない。下野するから勝手にやれ、朝廷で出来るわけがない。どうせ泣きついてくるとこういうわけでしょう。奉還した以上もどっても元通りの幕府にはならないでしょうが形が変わることは我々にとってチャンスになります。」

 「長州、薩摩、外国の動きも考慮せねばならない。長州はまだしばらく逼塞状態が続くでしょう。薩摩は今ひとつ分からないが、薩摩が動けば長州が邪魔をするはずだから合わせてゼロ。外国についてはまあ小さな阿部家のことであればそこまで考えなくてもよい。」
 「戦国の時代にもどって大割拠が私の具申です。残念ながら小藩の兵力だけで天下に何ものも残せない、これが現実。今は時期ではない。ひたすら時期を待つということです。」
 一同、天下の政治の中でうごめく雲の上の人々の考えをとうとうと解説演説されて声もない。藩主の考えも相場と同じだろうと推察された。
 「相場様に質問します」と、長岡。「おう、申して見よ」と、木村。
 「相場様の意見はもっともなことだと思います。質問ですが、要するにしばらく様子を見るということでしょうか」、「幕府に形式論的リアクションを示して様子を見るということだ」、「もし、敵が攻めて来たら我々はどうするのでしょう」、「敵とは?」、「薩摩長州ですよ」、「薩長とひとくくりに言うが、薩摩、長州にそんな力はない。合わせても百万石だ。それに攻められる理由がない。さらに薩摩、長州は犬猿の仲だ。お互いけん制しあって結果は動けない。それを見越して公方様の大バクチだ」 「それでも攻めて来たらどうしますか」、「戦うのか?」、「当たり前でしょう」、「・・何のために?」、「何もしないで降伏するわけに行かないでしょう」、「なぜに行かないのか?」、「忠義のためですよ、武士としてのほこりですよ。相場様!、私は相場様に質問しているのです。」、「・・答えよう。もし薩摩長州が攻めて来たら恭順するのだよ、戦わずに白旗を揚げる。はいつくばる。」

 評定の座に動揺が広がった。
 「徳川の家はどうなりますか」、「知らぬ。先ほど申したように幕府はなくなった。徳川は徳川で生きて行くだろう。大割拠と言ったのはこれだ」、「しかし、徳川を見捨てていいんですか」、「見捨てたのはどっちだといいたい。我々の忠義の対象は阿部家であって徳川ではない。我々は陪臣の身だ。徳川はいばりくさった旗本共が守れば良い。」、「私には納得行きません。」第一回目は相場の勝ちで終わった。結論は「しばらく様子を見る。」

 10.美斧の帰郷

 密かに恐れ多くも対抗心を燃やしている三小説。伊豆の踊り子「お茶を出す手ががたがたふるえる。起きがけに「私」の来訪。真っ赤になって夕べの化粧の残りのままそれでもぴったり挨拶」等々、魅力的な場面。しかし、「私」はかおるに対して何も告白していない。好きとも嫌いとも言っていない。手がかすかにふるえる場面は使わせてもらいました。

 三四郎。彌禰子は田舎者を西洋知識と西洋食べ物でたぶらかしているだけ。彌禰子は三四郎が好きと言っていない。三四郎も言っていない。西洋食べ物を食わせることと菊人形展で気持ち悪くなって皆と離れる場面は使わせてもらいました。それにしても里見彌禰子の家は元旗本だと思いますが、良く西洋食べ物が手に入る経済力を持ったものですね。旗本が官に就職して成功したのでしょうか。

 蝉しぐれ。幼い時の思い出だけ。蛇に咬まれた指の毒を口で吸い取った、祭りであめを買ってやったそして父親の遺体を運ぶのを手伝ってくれた。それだけ。ふくも文四郎も告白していない。最後になってあなたのお子が私の子で、私の子があなたのお子であるような道はなかったのでしょうか、とは切ないが、あまりにも淡くないですか。小説の読者だから二人が互いに好きなのは分かっているが、小説の中のふくにせよ、文四郎にせよ相手の気持ちは分かっていないのだから、ふくの最後の言葉を、ふくは言えないですよ。成り立たないと思います。

 風雲佐貫城秘聞。美斧は計算している。一歩まちがえるとプロのホステス・芸者になってしまう。無言の会話は新機軸と自負。以後、長岡も美斧も告白します。手をつなごうとする、ほどくを繰り返します。


 それはともかく。


 慶応四年2月。美斧は傷心のまま八幡村の代官屋敷に居た。池田代官は相場の親戚群のひとつ。屋敷といっても三百坪の敷地に忘れられたような築山と蔵があってそこが近所の子供たちのかっこうの遊び場になっているような家。美斧はすこしやつれた。着物はあせたカスリのようなひとえのつんつるてんで江戸藩邸の美斧とはえらいちがい。(時代考証:美斧のイメージ絵で胸に懐紙をはさむのを忘れました。「篤姫」で見られた着物の前を折り返して正座する座り方は茶席で亭主のすわり方としていいのかについては疑問が残ります。ついでに「篤姫」の大奥での着物は江戸好みでない。どちらかというと京好みになってしまった。和宮との対決で京のきんきらと江戸の渋さの違いを明確にすればもっと面白かったはず)

 八幡は弥生時代を通り越して縄文時代。男はほとんどふんどし一本。冬なのでどてらを引っ掛けている。女はどどめ色の着物。胸ははだけ、やたらにしゃがむ姿勢が多いので年中ご開帳。まあ、とにかく休みなしに何か働いている。そんな中を鼻をたらした子供が遊びまわっている。品もなし、学問もなしとにかく元気だけはいい。

 「あに、おめえは出戻りかえ。いいご身分だよ。おれたちゃ嫁行ったらけえるとこなんざねえよ。ハハハッハッハーだ」と代官の隣の貧乏人のおかみさん。「DVです」、「デービー?ご亭主に死なれなすったかい。出日にもならねえうちにもどされたって、はれまたケチな家に嫁ったもんだよー、気の毒に」。ドメスチックバイオレンスだと美斧の説明は時代的に成り立たないが、それを理解したおかみさんは、あんた、上品ぶってなよなよしてるからそういうことになる。そんな男は、はだかになってせまってきたところをまたぐらをけっとばしてふとんからたたき出してやれ、ヤローふざけんじゃねえってよー」美斧、一緒になって笑って、そうしたらよかったかも知れないと思うと心が晴れた。

 その後、しんみりと、ホレた男だったかも知れないがそんな男はだめだよ。まだ若いし器量がいいんだから相手はいくらでもいる。男はどうしようもない。普通にやさしくして、ありがとうって口に出せば女はいくらでも奉仕するのに、ありがとうの一言が言えないのだ。あんたも苦労したんだといわれて、美斧さめざめと泣く。

 ついでに閑だろうからと、子供三人の子守をおおせつかった。上が女の子、障害児。真ん中が男の子で鼻たらし。下がやたらに元気でじっとしていないお猿さんのような男の子。みんな冬だというのに真っ黒。おかみさんはもうろくばあさんに預けると危ないとか、行かずのおじの次男坊がおとなしいくせに時々おれを変な目で見るとか聞きもしないのに内情をあけすけとしゃべりまくる。
 
 重農主義経済の中で、80戸2百人全村合計で田畑が二十町歩に満たない八幡村は公式文書では極貧の寒村と言うことになっているが、実は内実かなり裕福であった。その理由は江戸との交易である。


 七丁艪で帆走を併用し鮮魚を高速で搬送する押し送り船と、吃水が浅く場合によっては川の奥深くでも入っていける貨客船=五大力船が八幡浦に多数回遊していた。村人のほとんどはこれらの船の出し入れ、荷の積み下ろし作業、運搬作業に従事し、また、近在の浅間山(富士山)での山稼ぎ(炭焼き、薪作り)も重要な稼ぎ現場であった。

 当時の税制は田畑米生産以外は抜け穴だらけで、商業では店の間口に基づいた上納金、交通では荷の販売価格の十分の一税=関銭くらいしかなく、これらも商人や地主にかかるのであって、八幡村住民の手間賃現金収入など、はなから、はした金、いやしき金とさげすんで調査もせずに放置されていた。結果、まったくの無税であった。なお、大型船の船主や薪伐採の山主などは地元民ではない。

         <ページ小説「風雲佐貫城秘聞」その2に続く>