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 公称1/10スケールの押し送り船模型(塗装、その他細部未完)です。市販のフィギュアを乗せると船との寸法バランスが悪いので、結局人を乗せた完成モデルはphotoshopで編集した画像だけになりそうです。ただ、実際に模型を作って見るといろいろなことが理解できました。

 フィギュアを1.2~1.5倍に拡大し、それで櫓のアーム太さと人の腕と比べてどうか、手摺りの高さが膝がしら高さくらいではと考えられるのでそれに関係する甲板の高さの問題、また櫓の入水角度、櫓漕ぎの干渉性等考えねばなりません。

 櫓の配置ですが、北斎の絵では後部に密集して櫓が配置されていますが、これは北斎のデフォルメではなく現物に正確なようです。帆走と櫓漕ぎを一緒に使うので帆操作の領域と、櫓操作領域を分けたいとの要求と、櫓漕ぎが船尾を沈めるため、そのバランス上からも帆はなるべく前の方にある方が合理的な選択です。

 後ろの櫓は特別長いものになったと思われます。櫓は全部で7丁ありますが、後ろの櫓がメインエンジンで他の6丁はサブエンジンだと思われます。櫓は長いほど推力が増しますが、左右の6丁の櫓は櫓漕ぎの相互干渉からアームをそんなに長くは出来ません。アームが短かいということは櫓の羽根も短いと云うことで、結局推力が小さいと云うことです。
 

 風上にも走る帆走には大きな舵が必須ですが櫓漕ぎの、特に最後尾の櫓と舵の操作性、推力等の減退はなかったのか、非常に問題だったのか心配なところです。

 また櫓漕ぎの欠点、格好の悪さは正面から見て船が左右に首振りをするところです。例えば将軍の使いがペリーの黒船に向かう時、小さな船で1本の櫓だといかにもみすぼらしい。

 西洋のカッターなどではそろったオールの動きで船の小ささをカバー出来るのですが、あの日の浦賀ではどうだったのでしょう。
 

 私は、あの日の浦賀の将軍の使いの船は押し送り船だったと勝手に思っています。押し送り船なら訓練次第でまっすぐ走れたはずですから。高速が売り物の押し送り船はまさか首を振ってはいないと思っています。(注;アメリカ側の記録に櫓漕ぎに関心を示し合理的と判断した話はあるが、何丁の櫓だったかは記載がない。・・・・と、これもうろ覚えの知識です。)

 最後に押し送り船を特徴つけている生け簀の構造について。

 模型の製作には無関係ですが、生け簀の構造配置はまったく分かりません。常識的には前後・左右の揺れに対して重心移動が少ないよう小分けに作るのでしょうが、なにか特別な工夫があったように思えてなりません。走行中に水替えが必須だったようですので、大根の漬け物樽のように大きな魚を密に重ね入れて新鮮な水を掛け続け底の水を排水するようなものだったのかも知れません。普通に想像する水槽に数匹の魚が泳いでいるような構造ではそもそも商売になりません。
 

 以下、蛇足です。幅60cmくらい、厚さ5~15cm、長さ10mの杉の一枚板を7枚使用して作られる大型和船の船形は和船の魅力のひとつですが、このプロフィルは人が設計で自由に変えられるものではありません。極論すれば、最大幅と、最大幅の場所の断面形状と全長を決めるとすべての断面形状が決まってしまうものです。竜骨とあばら骨のような構造に小さな薄板を打ちつけて作られる西洋の船ならプロフィルはいかようにも形作られますが、和船は板の弾性範囲内で曲げねじって作っていますから、一つの支点ともう一つのしぼり点の2点固定で途中のラインが決まってしまいます。中間に例えば幅の狭い梁をむりやり釘で止めると支点の向こう側の板が外側に脹らんでしまってS字カーブになってしまい船としては使えなくなります。
 

注;和船の釘打ちについて。これはある専門家から聞いた話しですが、とんかちでたたきまくる訳ではなく、四角形のほぞ穴を明けてそこに和釘を差し込む形だったようです。良質なさびで密閉性と接着効果が得られるとのこと。あと、水漏れ対策は檜皮だそうです。

注;和船必ずしも一枚板ではなかったかもしれません。和船の専門家が言われるには、耐蝕性を増すため杉板の赤身部分(丸太の中心から2/3部分)のみを選んで接合して幅広の一枚板に仕上げることがやられていたそうです。またへさきの角度で寝たへさき角度は浅い喫水を物語っている、急角度は喫水の深さ、すなわち水抵抗の強い船型ということになり、高速が売り物の押し送り船は寝たへさき角度を志向したはずだとのことです。(以上参考まで)

 司馬遼太郎さん推奨の竜骨・あばら骨構造と和船のモノコック構造とどちらが強いかと云えば、もし溶接のような処理が出来るならモノコック構造が勝ちとなるでしょう。それなのに竜骨あばら骨構造で太平洋大西洋を行き来出来たのは竜骨・あばら骨構造の各所の製作不良によるガタがいい具合に衝撃を吸収し破損すれども大事には至らない結果となっただけで思想的にどうのこうのの話ではないように思えます。くじらなどが強いのは、衝撃に対して伸縮自在の皮膚と蛇のように変形可能な骨の功徳のたまものです。すべてを剛で乗り切ろうとすると重たく大きく、しかも狭く使いものにならないしろものとなります。

押し送り船模型にフィギュアを乗せ保田海岸に合成

 帆掛けと七丁艪のフル装備で魚を満タンに積んで江戸へと保田海岸を出港した押し送り船です。鋸山を越えた南は明るさと暖かさが東京に比べて一月以上早いです。2月中旬でもうハマヒルガオが芽生え出しました。画像はファイルサイズを小さく(0.7MB)していますので、光や輝きが感じられないと思いますが、22MBの原画を5Kモニターで見ると南総の早い春を感じることが出来ます。

 画像の具合ですが、フィギュアのポーズがだめですね。櫓を漕いでいなくてただ突っ立っているだけで、力強い男の群像をねらっていたのがアウトでした。

 岸に近過ぎてないかについてですが、この感じは保田海岸なら大丈夫です。遠浅でなくすぐに深くなりますから。

 帆について;和船というと我々は四角の横帆のイメージが強いですが、近海を外国船が遊弋し出した江戸中期以降では縦帆の三角帆が徐々に使われ出したにちがいないと考えて三角帆をヨットのスピンネーカーのように張って順風で江戸へ走り出した形にしました。スピンネーカーが丸く脹らんでいないのは縫製せずに三角形の布を張ったためです。

 三角帆は斜辺のひとつを帆柱にカーテンリングのようなものを使ってくくりつければヨットのような縦帆になります。こうすると現代のヨットのようにとは云いませんがジグザグ走法で風上にも走ることが出来るようになります。この画期性と更に何よりロープが少なくて済み操作性がいいため、ヨーロッパの船を一目見れば、船乗りであればその利便性に気付いたはずです。

 帆についてはジャンク船の帆のようなものだったとの記憶談も聞くことが出来ています。大きさは七反だったようです。この辺については図に書きながら実用性等について検討します。

 生け簀について;船縁から60cm下に水主(かこ)たちが乗る甲板がありますが、甲板から下はすべて生け簀領域となります。このHPの「新舞子の押し送り船」に書かれていますが、明治期の押し送り船機械化の過程で船が走ると自動的に生け簀の水が入れ替わる仕組みが考えられ普及しました。
それより昔の江戸期の工夫はどんなものだったか知るよしもないですが、考えて見れば必要なものは魚であって水は運搬せずとも行くところどこにでもついてくるのだから、極端な話、魚を入れた竹籠を船の横でも下でもくくりつければいいことになる、こういう発想は簡単に思いつくはずです。さて、実際はどういう事になっていたのか・・・・・

 船の模型ですが、フィギュアのポーズが上手に出来るようになったら、船に木目模様を付け、人に髪や鉢巻き、服、ふんどしをつけてみます。

押し送り船の模型完成

 押し送り船と言えば富士山と波です。まず富士山とコラボの一枚。


 東京湾海底には古東京川の渓谷が沈んでいてしかもそこに時間バリアがあるのじゃよ。上の画像で海の色が変わっているところがあるじゃろ。そこが時間バリアじゃ。あっちとこっちはぴったし200年の差。あちらが2021年、こちらは1821年、こちらは渋沢栄一の若き頃じゃろか。

 あちらがこちらの永遠のライバル。みなさん、それって北の方の海なし県では?との認識は違いますよ。間違えないでネ。(W)

 写真中央が浦賀のかもめ団地、その上のなだらかな三角山が大楠山。左端が久里浜。右端が観音崎です。

 次に波とのコラボ。下の写真の背景は4月、春の大潮干潮の時の新舞子の波です。普段だと波打ち際そばで波が崩れますがこの時は300m位の沖で一回崩れ、また立ち直って山になり20m位のところでまた崩れます。

 下の写真は沖の崩れ波に向かっている押し送り船を望遠でキャッチした(ようにした)写真です。風の方向は東北からの少し寒い風です。

 押し送り船の模型を塗装、フィギュアのポーズをちょっと研究し、ふんどしと着物などを着せて新舞子の海に浮かべてみました。

◎模型全体の自己講評
 各所に見られる引っかけ金具、スピンネーカーのような三角帆、舵の固定の仕方はオリジナルからはほど遠いものがありそうです。また鉢巻きは前で結ぶべきだったと描いた後に気がつきました。また帆柱のステーもなかったかもしれません。

 更にある専門家に見せたところ、前甲板にある波よけは昭和時代になってからの代物との指摘をいただきました。

◎櫓について
 模型で平らな細い薄板で作られた部分が推力を生み出す櫓脚という部分です。実物は上が平らで下がR断面の飛行機の翼のような形になっています。(ただし飛行機は下面が平ら)

 櫓脚はバカ穴のあいた部分で艪腕(ろうで=アーム)と「く」の字形状でつながっています。
バカ穴の下には櫓枕(またの名は入れ子)という円筒を縦に斜めに切ったような木の部品が入っていてこれで櫓床(の上の平らで真ん中に櫓杭のある置座)に乗っかっています。なお櫓枕と置き座は線接触でなく点接触です。艪腕の取り付け角度は早緒の長さで自由に設定出来ます。

 櫓全体を船に結びつけているのは櫓杭とアームの先端にある引っかけ棒(櫓づき)に引っかけられた早緒という名のロープだけです。まったくラフなつながりのように思えますが、これで水の流れの中に入れると櫓全体は置座に押しつけられ、早緒はピンと張り、船はとも(後部)が沈みます。これは櫓脚に逆浮力が働くためです。この状態で櫓を(漕ぎ手が見て)前後に漕ぎますと往復動作連続して船を前に押し出す推力が発生します。

 櫓脚には櫓杭の回りの回転(前後押し引き)の自由度と、櫓枕のRに沿った動きの軸方向の回転の自由度があります。後者の回転自由度は推力を大きくするためのものです。櫂の推力をも利用しようとすることです。このねじり動作を押し引きの動作にどう組み込むかが櫓漕ぎの腕の見せ所となります。推力は櫓杭から船に伝わりますから推力生み出しの少ない漕ぎ方と正しい漕ぎ方とでは音(櫓杭の出す音)が違ってくることになります。漕いで頼りない反力しか感じないのであれば櫓のセッテイングが悪いか漕ぎ方が悪いかのどちらかです。

 下に新舞子の鶴峰八幡宮の祭礼の時の氏子行事として行われる獅子頭巡行時に今でも唄われている木遣りの歌詞を載せました。よえーよえーのかけ声、ともづなよえーの最後の文句が何度も繰り返されこのリズムとテンポは櫓漕ぎに合っているように感じます。また別の歌詞には7人の水主、帆が7反など押し送り船を想定出来、新舞子(八幡)の網元に大阪の大店のお喜代という名の娘が嫁いできたとの話も入っています。

 また、大阪商人への賛辞と、三島女郎衆への賛辞、と、一方箱根の関所などは頭の隅にもない自由人の心意気が感じられ、まさに新舞子押し送り船文化ここに極まれりと言えましょう。

 

 獅子頭巡行時の木遣り全文は上総新舞子文学(古典)に載せてあります。

 三島女郎の話は厳島神社奉納前句額にも出て来ます。